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「失われた民主的議論の技術」マイケル・サンデル

SPEAKER:マイケル・サンデル


民主主義は市民の議論によって成長する、とマイケル・サンデルは語ります。しかし、残念なことに、これが実行されることは希なことなのです。サンデルは再教育講座を開き、最高裁の判例(PGA Tour対マーティン)を基にTED参加者と議論することで、正義を構成する重大な要素とは何かを明らかにします。


19:42


日本語字幕
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TED2010

全文
世界が必要としているもの この国が 間違いなく必要としているもの それは 政治的議論を行う より良い方法である かつて 我々が持っていたはずの 民主的な議論の技術を再発見しなくてはならない (拍手) 現在行われている議論といえば ケーブルテレビで 大声で叫んでいる シーンが思い浮かぶだけだろう あるいは 議会での思想のぶつけ合いだ 一つ 提案したい 最近行われている議論を思い出してみよう 健康保険問題 金融街のボーナスや救済措置について 貧富の差や 差別是正措置 あるいは同性婚について これらの議論の表面下に 存在するのは 誰もが感情的になる問題であるが 道徳哲学に関する 大きな問題 あるいは 正義に関する大きな問題である しかし 政治における 道徳哲学の大きな問題に対して 議論したり 考えを明確にしたり 弁護することは 滅多にない

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JUSTICE 第12回(終)「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture23+Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」

私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。それを明らかにするために同性結婚について考える。同性結婚は道徳的にも宗教的にも論争の的となっている。まず、多くの人は結婚は道徳的、宗教的に男女間に限るべきだとまず思うだろう。同時に多くの人は同性結婚も異性結婚と等しく扱われるべきだという。こちらも道徳的、宗教的な信念を持っている。1つの要点として、どう選択するかが道徳的に価値があるのではなく、個人が様々なことを選択できる権利があるかどうかが問題となっている。道徳的に同性結婚は間違っていると思う者でも、2人の男性が結婚したいと思っているのに、自分がなぜそのことに反対できるのかわからないと答えた。同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。ジャーナリストのマイケル・キンズリーは国の機能としての結婚の廃止に賛成している。彼は同性結婚に反対しているわけだが、その理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。ではここで結婚の目的を考えてみよう。多くの人はまず、子供を生んで育てること、つまり生殖を考えるだろう。しかし、不妊カップルの結婚を我々は認めるだろう。あるいは、閉経後の女性との年配結婚、死に瀕した者との結婚などを考えると、生殖が結婚の目的ではないような気がしてくる。では、同性結婚の問題に裁判所はどう判決を下すだろうか。マサチューセッツ州に対し結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたグッドリッチという男性の訴訟を考える。裁判所はまずは、中立性を考えたが結論は違った。結婚の目的は生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点だとし、名誉を重要視した。裁判所は結婚は、個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。結婚を望む2人とそれを承認する国家の3者の関わり。結婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。この見解は中立性を超えている。同性結婚を公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定したのだ。実はサンデル教授は中立的な立場に反対だ。中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚を正当化することはできない。問題となるのは同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうかだ。サンデル教授は中立的に反対なのは、同性結婚の話に限らない。私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自律の問題だから、我々はどの立場も取らないと言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできなかったのだ。

Lecture24後半「サンデル教授の正義」

私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。1度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは2度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり(懐疑主義)、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture23
DEBATING SAME-SEX MARRIAGE
Lecture24
THE GOOD LIFE 


時間:55:11



Lecture23:DEBATING SAME-SEX MARRIAGE

前回は自己の物語的観念について議論した。そして、同意とは無関係に生じる非連帯や集団の構成員としての義務について考えてきた。そうした義務は私たちが交した契約や合意、あるいは選択とは別の理由で生じるものだった。そして私たちにはこの種の義務があるかどうか、あるいは全ての連帯や集団の構成員としての義務は同意、相互性、もしくは私たちが人として、人に負っている普遍的な義務につながるかどうか議論した。

君たちの中には忠誠心や愛国心を擁護する人たちがいた。すると、忠誠心や集団の構成員であるという考えは私たちの議論の中で道徳的に訴える力を持ち始めた。そして、講義の最後に私たちがその考えの反証と思われるもの、つまり、1950年代のアメリカ南部の人種分離主義者の証言映像をみた。

彼らは自らの伝統や歴史、そして生活と密接に関わるアイデンティティについて語っていた。南部の人種分離主義者にとって、その歴史や物語的なアイデンティティから生じるのはどんなものだったのか。彼らは自分たちの生活様式を守りたいと言った。これは自己の物語的観念に対する決定的な反論なのだろうか。それが私たちに残された問題だった。

今日は議論を進め、君たちがどう受け取るか見たいと思う。議論の内容はこうだ。

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JUSTICE 第11回「コミュニティの一員としての義務」「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture21「コミュニティの一員としての義務」

アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン(共同体主義者)の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。2人の子供が溺れている。どちらか1人しか助けられない。1人はあなたの子供、もう1人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第2次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture21
THE CLAIMS OF COMMUNITY
Lecture22
WHERE OUR LOYALTY LIES 


時間:55:11



Lecture21「コミュニティの一員としての義務」

今日はアリストテレスに対する、カントの反論について考えていこう。

カントはアリストテレスの考えは間違っていると主張した。
権利が保証される公正な枠組みを整え、枠組みの中で人々がそれぞれに思いえがく、善き生を追求することは大事だが、ある特定の善き生の概念に基づいて法律や正義の原理を定めることは強制の危険を犯すことであり、認めることはできないとした。
アリストテレスは理想的な政治体制を追求には最善の生き方を理解しなければならないと述べたが、カントはこれを否定するだろう。カントの意見では政治体制や法律や権利は特定の生き方を具現化し、支持し、促進するべきものではない。なぜなら、自由と対立するからだ。一方アリストテレスにとって法律の本質やポリスの目的とは市民の特性を形成し、市民の美徳をはぐくむ、市民としての卓越性を教え込み、善き生を可能にすることだった。著作「政治学」でそう述べられている。

それに対し、カントにとっては法律の目的や政治体制の意義は、美徳をはぐぐんだり、促進したりするものではなく、権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれに思いえがく善の観念を自由に追求するためのものだ。

これで、2人の正義論の違いがわかったと思う。

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JUSTICE 第10回「目的から考える正義について」「公平さと名誉について」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture19「目的から考える正義について」

カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の1つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture19
THE GOOD CITIZEN
Lecture20
FREEDOM VS. FIT 


時間:55:08



Lecture19「目的から考える正義について」

前回に引き続き、今回もアリストテレスについて考えていこう。

現代の正義論は、道徳的に対価や美徳といった概念から、正義や権利を切り離そうとする権利だった。アリストテレスの主張はカントやロールズとは異なる。彼の考える正義は人々にふさわしいものを与えることだ。アリストテレスの正義論の中心には1つの考え方がある。正義や権利を論じる時には社会的実践や制度の維持、目的、つまりテロスに関する議論が避けられないというのだ。

正義が平等な人々に平等にものを分配することだと考えると、すぐに問題がでてくる。何を持って平等というのか。その質問に答えるためには分配するもの、それぞれの目標、本質的な性質、そして目的を考えなければならない、とアリストテレスは言う。フルートの話をしたね。誰が最高のフルートを手にするべきか、アリストテレスは最高のフルート奏者であると答える。最高のフルート奏者が最高のフルートを手にする。それこそが名誉だ。

最高のフルート、それを与えられることで、最高の演奏と優れた演奏奏者の持つ美徳が認めれる。

今日のテーマになる興味深い論点は我々が社会制度や政治的実践について考える時、目的論なしで済ますのは決して簡単なことではない、ということだ。

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JUSTICE 第9回「差別することで逆に公平さは生み出されるか」「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」

ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として1996年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は1人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture17
ARGUING AFFIRMATIVE ACTION
Lecture18
WHERE OUR LOYALTY LIES 


時間:55:11



Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」

前回は種類が異なる2つの主張、道徳的な対価と正当な期待に対する資格との間で、ロールズが引いた区別について議論した。

ロールズは分配の正義を道徳的な対価への問題へと考えたり、その人間の美徳に従って報いるためのものだと考えたりすることは、間違いだ、と論じた。

今回は道徳的な対価の問題とそれが分配な正義とどう関連するのか考えてみよう。収入や富との関連ではなく、就職の決定や入試の際の合否判定との関連を考えていきたい。

そのために、アファーマティブ・アクション、積極的差別是正措置を取り上げてみたいと思う。

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JUSTICE 第8回「架空の平等の状態から公平さを生み出す」「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」

ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が1人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は75%ほど手をあげた。1人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture15
WHATS A FAIR START?
Lecture16
WHAT DO WE DESERVE? 


時間:55:07



Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」

今日は分配の正義の問題に取り組みたい。私たちはどんな原理に従って富や権力、機会を分配するべきか。ジョン・ロールズは、この問いに詳しく答えている。今日はその答えを検討しよう。

前回私たちは、その取っ掛かりとしてロールズのある考え方を学んだ。
正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれる、というものだ。肝心なのはその仮説的契約はロールズが無知のベールと呼ぶものの背後にある、平等な原初状態の下で実現される、ということだ。ここまではいいかな?では次に進もう。

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JUSTICE 第7回「嘘と正義」「契約は契約だ」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture13「嘘と正義」

自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため(傾向性・他律)から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ!ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ(嘘はつかず)、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う=すること(自由の領域)」、「相手を傷つけたくない=すべきこと(必要の領域)」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture13
A LESSON IN LYING
Lecture14
A DEAL IS A DEAL 


時間:55:05



Lecture13「嘘と正義」

前回の講義は、カントの道徳理論を一通り見ていくことからはじめた。
さて、「人倫の形而上学の基礎づけ(カント著作)」で述べられている、カントの道徳理論を理解するには、3つの質問に答えられることが必要だ。義務と自律とはどうやったら両立することができるのか。義務に応えることになる重要な尊厳とはなにか。義務と自律という2つの観念は、一見対立しているように見える。これに対するカントの答えは何か、誰か解説してもらいたい。カントには答えがあるのかどうか。君!

学生A:カントの考えでは、人間が自律的に行動しているといえるのは、義務という名のもとに何かを追求しているときだけ。自分の個人的な利益のためではなく、義務のために何かよい道徳的な行為をしているときだけだからです。

その行為はなぜ、、名前は?
学生A:マットです。
その行為はなぜ義務から生じたといえるのかな?
学生A(マット):道徳法則を受け入れることを自分で選んでいるからです。強制されたのではなく。

よろしい。義務から生じた行動が、則っている道徳法則は。
学生A:自分が自分で課したものだから。
自分で自分に課したものだから、それが義務と自由を両立可能にする。
学生A(マット):はい。

よろしい。その通り。それがカントの答えだ。ありがとう。

カントは、私は法に従っているから、私には尊厳がある、とは考えない。

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JUSTICE 第6回「行動ではなく動機に正義の源があるのか」「哲学者カントの道徳性の最高原理」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」

今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは1つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture11
MIND YOUR MOTIVE
Lecture12
THE SUPREME PRINCIPLE OF MORALITY 


時間:55:14



Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」

さぁ、今日はこの講義の中で、もっとも難解な哲学者である。
イマヌエル・カントにとりかかる。
彼はなぜ私たちは人の尊厳を尊重しなければならないのか、なぜ良い目的であっても人をただの道具として使ってはいけないのか、ということについて独自の説明をしてくれる。
カントは16歳でケーニヒスベルク大学を卒業した。31歳で初めて大学講師の職を得た。給与は完全歩合制で授業出席した学生の数に基づいて支払われた。これはハーバードも検討すべき懸命なシステムだ。(会場笑い&拍手)

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JUSTICE 第5回「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」「同意があれば代理母と子は他人?ここに正義はあるか」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」

前回、所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う(リバタリアンなら命令できないと言うだろう)。しかし将軍は兵士から1ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。これに対して学生から大きく2つの意見がでた。金持ちが有利であり、不公平だという意見。もう1つは、兵役とはお金を得るための単なる仕事と捉えるべきではなく、愛国心や市民の義務を考えべきであり、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。兵役は市民の義務の1つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。これらの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう、として講義は終了する。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture09
HIRED GUNS
Lecture10
MOTHERHOOD: FOR SALE 


時間:55:10



Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」
前回の講義ではロックの同意による政府、という考えたについて議論をし、その結果いくつか疑問が上がった。
多数派の合意があっても覆せない政府の制限とは何か。それが講義の最後で出た疑問だった。

所有権に関してはロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利がある。
だが、それは同意に基づく課税でなければならない。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。
だが、税金を制定したり徴収したりする時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。
必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。

一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。
課税についてはこれくらいにしておこう。

では生存権はどうなるだろう。政府は国民を徴兵し戦場に送ることはできるのか?

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JUSTICE 第4回「国ができる前の正義を考える」「同意と契約によってつくられた公平さ」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture07「国ができる前の正義を考える」

ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture07
THIS LAND IS MY LAND
Lecture08
WHO OWNS ME? 


時間:54:59



Lecture07「国ができる前の正義を考える」

今日はジョン・ロックを取り上げる。
一見したところロックは、市場原理主義者、リバタリアンの強力な味方だ。
まず、彼は今日のリバタリアンが主張しているように、ある考え方を信じていた。それは、例え代理政府や民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せない、ある種の個人の基本的な権利が存在する、というものだ。

それだけではなく、彼はそういった基本的な権利には、生命、自由、財産に対する「自然権」が含まれていると信じていた。
さらに彼はこう論じている。
財産権は単なる政府や法律の創造物ではない、と。
財産を保有する権利は政治以前のものであるという意味で「自然権」である。

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