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ハーバード大学:サンデル教授「 JUSTICE 」 当サイト独自のまとめ(白熱教室)

ハーバード大学:サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE(正義・公正)」をまとめております。日本人の多くの方にこの講義の良さを知ってもらいたいと思ったからです。全12回分(約12時間)の講義を全て、音声からテキストに当サイト管理人が起しました。1時間の動画を見るには1時間かかりますが、テキストは10分ほどで読めるため、時間の短縮になると思います。

日本語テキスト化リンク先↓(※Lectureの題名は管理人が独自につけました。)

第01回 Lecture01「殺人に正義はあるか(想像編)」
Lecture02「殺人に正義はあるか(実例編)」
第02回 Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」
Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」
第03回 Lecture05「課税に正義はあるか」
Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」
第04回 Lecture07「国ができる前の正義を考える」
Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」
第05回 Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」
Lecture10「同意があれば代理母と子は他人?ここに正義はあるか」
第06回 Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」
Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」
第07回 Lecture13「嘘と正義」
Lecture14「契約は契約だ」
第08回 Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」
Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」
第09回 Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」
Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」
第10回 Lecture19「目的から考える正義について」
Lecture20「公平さと名誉について」
第11回 Lecture21「コミュニティの一員としての義務」
Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」
第12回 Lecture23 & Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」
Lecture24後半「サンデル教授の正義」
TED サンデル教授のTEDでの講演「失われた民主的議論の技術」

当サイトオリジナル電子書籍「セイギのつくり方。」

サンデル教授の「JUSTICE」の素晴らしさを広めたいと思い、電子書籍「セイギのつくり方。」を制作しました。
http://www.visualecture.com/justice.html(ダウンロードはこちら)
PDFファイルで54ページ。8月13日から無料配付中

哲学者
9人の哲学者を軸に制作しました。
(1)「タイプ診断チャート」であなたがどの哲学者と意見が近いか調べてみましょう。
(2)「道徳に関する20の質問」であなたの考えと9人の哲学者の考えを比べてみましょう。
(3)「サンデル教授の講義の概要」を9人の哲学者を軸に簡単にまとめました。
(4)日常とリンクさせるため、正義を軸にした「議論マニュアル」を作成しました。


パソコンにダウンロードして頂き、iTunesからiPadのiBooKsへ移して頂けると、楽しく読むことができますよ。

電子書籍「セイギのつくり方。」は当サイト管理人とその友人が「ハーバード白熱教室ノート」のサイトを運営されている管理人にコンタクトをとり、3人で作成しました。

リンクフリー。直リンクフリー。表紙画像フリー。

電子書籍「セイギのつくり方。」の「政治哲学者タイプ診断チャート」がWEB上でできるようになりました。
http://www.visualecture.com/type/index.html
(2010年8月29日より)

電子書籍「セイギのつくり方。」おかげさまで5000ダウンロードを超えました。ありがとうございます。
そこで、電子書籍「セイギのつくり方。」に、どなたかページを追加させたいという方はいらっしゃいませんか?
9月末まで募集します。
http://www.visualecture.com/justice-plus.html
(2010年9月1日より)

Lecture01「殺人に正義はあるか(想像編)」

1人の命を犠牲にすれば5人の命が助かるなら、1人の命を犠牲にすることは正しいのか。もし1人の命の犠牲の仕方が殺人であったならばどうか。その殺人に正義はあるのだろうか。電車事故のケースと医療のケースで考える。ここで大きく2つの考え方がみえてくる。5人と1人の命を天秤にかけ結果を考えてから決断を出す考え方と、結果を考えるのではなく行動の動機、殺人という行為が無条件的に正義ではないと考え決断を出す考え方だ。そして前者は哲学者ベンサムが、後者は哲学者カントが代表的な哲学者であると示す。また、政治哲学を学ぶことにリスクがあることをソクラテスの時代と重ね合わせて説明している。サンデル教授は締めくくりに、この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べる。
第01回-Lecture01「殺人に正義はあるか(想像編)」Lecture02「殺人に正義はあるか(実例編)」

Lecture02「殺人に正義はあるか(実例編)」

実際にあった話を例に、許される殺人はあるのかを考える。19世紀のイギリスで乗組員4人の船が沈没した。4人は救命ボートに避難したが、食糧はカブの缶詰2つだけ。真水もなかった。4日目、カブの缶詰を1つ開けて食べ、5日目亀をつかまえ、亀と残りのカブの缶詰で数日過ごした。それから8日間、彼らには何もなかった。19日目船長は残りの者を助けるため、くじびきを行い誰が死ぬか決めようと言ったが、反対され結局はくじは行われなかった。20日目、海水を飲んで今にも死にそうで、しかも身寄りもいなかった17歳の乗組員パーカーを殺した。4日間、乗組員3人はパーカーの身体と血液で生き残った。そして助けがきた。彼らは裁判にかけられ、3人が生き残れるのなら1人の犠牲は仕方がないと論じた。この事件に対して学生たちの意見から3つの問題が提起された。(1)殺人は殺人であり正当化されるべきではないという反論から、殺人が正当化され得ないのは17歳の少年にも基本的人権があるからだろうか、だとしたらその権利はどこからやってくるのかという問題。(2)もし皆がくじをすることに同意していればと仮定すると、殺人は許されたかもしれないと思う人は増えた。なぜ、ある公正な手続きをふめば、それによって生じた結果は正当化できるのかという問題。(3)もしパーカーが強制でなく、残りの者を助けるために自ら同意したと仮定すれば、命を奪うことに対して許されると思う人は多かった。ではなぜ、同意があれば命を奪うことが道徳的に許されるようになるのかという問題。この3つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならないとし、次回以降にまわすとした。
第01回-Lecture01「殺人に正義はあるか(想像編)」Lecture02「殺人に正義はあるか(実例編)」

Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」

功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。この講義ではタバコ会社、自動車会社が行った費用便益分析を取り上げ、その問題点を考える。そして功利主義に対する2つの反論が学生から示された。1つは「個人の権利もしくは少数派の権利を尊重していない」というもので、もう1つは「人々の好みあるいは価値を合計することをできない」というもの。後者に関しては心理学者ソーンダイクの実験を示し、その結論をどう捉えるべきか?と疑問を残し講義は終了する。
第02回-Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

功利主義のベンサムを弁護する哲学者ミルを考える。ミルは道徳的な高さは効用の大きさで決まるとした。効用の大きさの計り方は、人は2つのものを両方経験すれば、自然と高級なものを選ぶ。経験から生まれる願望は正しい道徳的根拠だとした。しかし本当だろうか。シェイクスピアのハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。この2つを理解なしに経験したらシンプソンズの方が今は好きだと思う人は多い。だとすれば、両方経験しても自然と高級を選ぶという考えは間違いではないか。また、功利主義は社会全体の幸福の最大化を目指すわけだが、一方、少数派はないがしろにされているのではないか、この個人の権利はミルはどう考えているのだろうか。ミルは個人の権利は尊重されるべきだとしている、そして個人が正義を行えば、長期的にみて社会全体は向上するという。本当だろうか。どうも、まずは、個人の権利について考える必要がありそうだ。1度功利主義から離れて、個人の権利を次回から考えることにしよう、として講義は終わる。
第02回-Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

Lecture05「課税に正義はあるか」

ベンサムの功利主義を弁護するミルだが、その主張には限界があるように思える。そこでもっと強力な原理理論を紹介したい。哲学者ロバート・ノージックたちが主張し、個人の権利を非常に重要だと考えるリバタリアニズム(自由原理主義)だ。彼らはシートベルト着用という自分を守ることを強制するような干渉主義的な法律に反対し、同性愛者間の性的な親密さを禁止するような道徳的な法律に反対し、金持ちから貧しい人に再分配する課税法に反対する。その例としてビルゲイツやマイケルジョーダンをあげる。ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。課税は盗みだ。極端に言えば課税は道徳的に強制労働に等しい。個人の労働に対する独占権を政治団体が部分的に所有していることになるから、奴隷のようなものだ。つまり自分が自分を所有していないことになる。このようなリバタリアニズムの考え方の根本的な原則に自己所有の考え方がある。そしてもし彼らを否定したいなら、この論理展開を論破しなくてはいけない。その疑問を残し講義は終了する。
第03回-Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」

Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」

学生のリバタリアニズムチームへの4つの反論。第1の反論は『貧しい者はより金を必要としているではないか』→たしかにその通りだが、その議論を考える上でも、前提となる自己所有の原則に矛盾してはいけない。人間には所有権があるのだ、貧しい者を助けるためであっても前提である権利を侵害してはならない。第2の反論は『民主的な議会という同意による課税なのだから強制ではない、奴隷制度ではない』→民主主義には賛成だが、個人の権利は重視すべきだ。自分の権利を通すためにアメリカ人2億8000人を説得しなければならないといった大変なことをやりとげる必要はないはずだ。第3の反論は『ビルゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから税金を払うことでその借りを返すべきだ』第4の反論は『自己所有という前提がそもそもおかしい。社会の中で生きるなら完全に自己を所有はできないはずだ』リバタリアンは集団の幸福のために人を手段として利用するという功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。リバタニアニズムの哲学者ノージックは自己所有という考え方はイギリスの政治哲学者ジョン・ロックから借りてきた。次回はロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要があるとして講義は終了する。
第03回-Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」

Lecture07「国ができる前の正義を考える」

ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。
第04回-Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

ジョン・ロックは同意という考えについて論じた偉大な哲学者の1人だ。そもそも自然状態では人々が行き過ぎた自然法の侵略行為が行われ、とても暴力に満ちたものだ。だから自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。ここがリバタリアニズムと違うところだ。ロックの考えの根底には君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。さらに自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではなく、全てアメリカについて話していた。このことも頭に入れてロックをよむべきかもしれない。今回残念ながら答えが出なかったのは、同意はどのような働きをするか、同意の限界とは何なのかだ。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げるとして講義は終了する。
第04回-Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」

前回、所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う(リバタリアンなら命令できないと言うだろう)。しかし将軍は兵士から1ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。これに対して学生から大きく2つの意見がでた。金持ちが有利であり、不公平だという意見。もう1つは、兵役とはお金を得るための単なる仕事と捉えるべきではなく、愛国心や市民の義務を考えべきであり、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。兵役は市民の義務の1つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。これらの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう、として講義は終了する。
第05回-Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人?ここに正義はあるか」

Lecture10「同意があれば代理母と子は他人?ここに正義はあるか」

ベビーM訴訟問題を考える。代理母の問題だ。ある夫婦は子供を望んでいたが、妻が医学的な危険をおかさずして子をもうけることは不可能だったため、夫婦は不妊治療クリニックを訪れ、代理母と出会う。彼らは、代理母が人工受精をし子供を生み、出産後は夫婦に子供を引き渡すことに同意し契約した。しかし、出産後、代理母は気が変わり子供を手放したくなくなった。そして裁判になった。下級裁判所はこの契約を法的強制力があるとしたが、最高裁判所は法的強制力はないとした。父親に教育権を認め、代理母には面会権を認めた。なぜか。同意に瑕疵(かし・不備)があったとしたのだ。それは代理母は子を生んだ後の、子に対する気持ちを考えられなかったというものだ。代理母に与えられる情報に不備があったということだ。しかし、それだけが原因ではない。同意があろうが、同意に瑕疵があろうが、情報が十分であっただろうが、そういうこととは関係なく、文明社会では金では買えないものがある。最高裁判所はそう考えたのだ。これは子供を売るのと同じである。少なくとも母親の子供に対する権利を売るのと同じである。出産を市場での取引にすることは非人間的な感じがするという意見があるのだ。これは功利主義の議論を思い出させる。命や兵役や出産などを取り扱うことに対して、功利主義が言うように利用や効用だけが唯一の適切な方法なのだろうか。もしそうでないとしたら、これらのものを評価するのに適切な方法をどうやって考え出していけばいいのだろうか。これらの問題については今後の講義で考えていこう、として講義は終了する。
第05回-Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人?ここに正義はあるか」

Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」

今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは1つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。第06回-Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

カントが設定した3つの対比を知ることでカントの哲学を理解するのに役立つ。1つ目は道徳(義務vs傾向性)、2つ目は自由(自律vs他律)、3つ目は理性(定言命法vs仮言命法)。1つ目の対比。カントは道徳性をもたらす動機は唯一「義務」だと言った。反対に自分の欲望や好みを満足させる、あるいは何らかの利益を追い求めることで動機がある場合、私たちは「傾向性」に従って行動しているとした。自分勝手で複数な動機を持っていたとしても、そこに義務がからむ動機があり行為に結びついていたとすれば道徳的に価値があるとする。2つ目の対比。カントは人が自由なのは「自律的」に意思を決定するときだけだという。つまり自分に与える法則に従うときだけであり、それは理性からくる。その理性はどうやって意思を決めることができるのか。それが3つ目の対比に繋がる。カントは理性は2種類の命令を出すという。命法の1つが仮言命法だ。XがほしいならYをしよう。目的に対して手段を選ぶ理性。もし行為が単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。行為がそれ自体においてよいと示され、それが理性と一致している意思のために必要であるなら命法は定言命法だ。定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。自律的な意味で自由になるためには、定言命法から行動することが必要になる。理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。
第06回-Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

Lecture13「嘘と正義」

自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため(傾向性・他律)から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ!ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ(嘘はつかず)、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う=すること(自由の領域)」、「相手を傷つけたくない=すべきこと(必要の領域)」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。
第07回-Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」

Lecture14「契約は契約だ」

カントの政治理論。カントは契約論者だが、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。憲法制定会議に集まった人々は、異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や知識にも個人差があるだろう。だから、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわない。正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶもので、仮説的契約だ。実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。それを調べるためには、現代の哲学者ジョン・ロールズの論理を考える必要がある。ロールズはカントと同じく功利主義を批判し、正義の原理は仮説的な社会契約から導かれるとした。彼は「無知のベール」という考えで仮説的契約を考える。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だと主張する。その原理については次回考える。ちなみにロールズはハーバード大学の教授であった。
第07回-Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」

Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」

ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が1人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は75%ほど手をあげた。1人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。
第08回-Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

前回の講義の終わりに自分が1人目の子だと言う人は75%ほどいた。1人目に生まれたという偶然性だ。これが努力に対する1つ目の反論。反論はもう1つある。2人の建設労働者がいたとして、1人は力が強く、汗もかかずに1時間で壁を立てることができる。もう1人は小柄でひどく痩せていて、3日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義者は、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。能力主義者は本当は努力ではなく、貢献を大事にしているのだ。しかし貢献は生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そしてそのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。偶然性だ。ここで偶然のゲームと技能のゲームを考える。宝くじは運という偶然性のゲームであり、もしあなたが当たり、賞金をもらう資格を得たとしても、あなたがその賞金に道徳的にふさわしいとはならない。野球という技能のゲームにおいて、優勝者はトロフィーをもらう資格があるが、道徳的にみてトロフィーをもらう資格があるかと問えば、それはゲームの内容による。ロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。あなたの才能は市場経済でどんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。例えば高収入を稼ぐ毒舌のコメディアンは、幸運にも毒のある冗談を高く評価する社会に偶然生きている。もしコメディアンが狩猟社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性。偶然は自分の功績だとは主張できるものではない。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では狩猟社会では、彼らの価値は下がるのか。ロールズの答えは下がらないとする。ここが重要だ。逆に現社会で求められる才能をたまたま持っていない人にも同じことが言える。偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。では機会と名誉はどうだろうか。エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。次回はアファーマティブ・アクションについて考えよう。
第08回-Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

Lecture17: 「差別することで逆に公平さは生み出されるか」

ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として1996年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は1人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。
第09回-Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

アファーマティブ・アクションの人種差別について、過去にはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人を差別した選別があった。それには彼らが他の人間より劣っているとする決めつけが内在しており、悪意があったが、今回の人種差別は多様性を促進するという目的なため悪意がないので良いという意見がある。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や公共の利益の名の下に展開させる議論だ。公共の利益や福祉を促進する過程で個人の権利が侵害されてしまっても、公共の利益や福祉が優先されるべきなのだろうか。実はロールズは単純にはそう信じてはいない。ロールズは分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。おそらく私たちも仕事の地位や、大学入試の合否も、道徳的対価と関係ない方法で行われることを認めてしまってはいないだろうか。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。しかし平等主義的ではないリバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家も、分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではないとしている。つまり、分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等主義的な理由だけではありえないということだ。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らに共通している前提は何かを知るために、古代の哲学者アリストテレスを考える。彼は正義を、名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。アリストテレスの分配の正義論は目的から逆算して考える「目的論的論法」だ。例えば、誰が最高のフルートを手に入れるべきかという問いに、アリストテレスは一番上手なフルート奏者だと答える。フルートを持つにはふさわしい美徳を持つことなのだ。フルートに最高額をつける者や貴族や身体の美しい者やくじ引きなどという理由でフルートを分配することは間違っている。なぜか。それは良い演奏がなされることが「フルートの目的」だからだ。重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということだ。たしかにフルートという物が持つ目的から論理を組み立てるという思考法は少し奇妙だ。その背景には古代ギリシャでは自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的を問い、読み取るということを大事にしていた。現代科学に慣れた我々からすれば目的論的論法を考えることは難しい。むしろこのような世界観から抜け出すよう子供たちを教育しなければならない。自然を理解するには目的論的な説明から脱却し科学的に考える必要がある。しかし、正義を目的から論じることは、我々がさきほど考えた、アファーマティブ・アクションの話の「大学教育にふさわしい目的とは何か」という問いに置き換えてみることもできるではないか。次回もアリストテレスの目的論的論法を考える。
第09回-Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

Lecture19「目的から考える正義について」

カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の1つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。
第10回-Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」

Lecture20「公平さと名誉について」

前回の講義で、足が不自由なマーティはPGAのゴルフツアーでゴルフカートを使用する権利があるか、という議論で、目的と名誉の2つの要素があることがわかった。マーティにとって名誉とは最高峰のPGAのゴルフツアーで勝利することであり、プロゴルファーにとっての名誉はゴルフがスポーツとして認められている上での名誉を気にしているのだ。スポーツとは見世物とは違う。その違いはスポーツは卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところだ。スポーツの美徳がわかる人こと理解のある本物のファンだ。ゴルフがスポーツかどうかを問うことは重要なのだ。それは名誉と関係があるからだ。アリストテレスの正義論は権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。正義とは適合させることだ。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。さて、アリストテレスの正義論は正しいのかどうかを考えよう。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。実は彼は彼の生きていた時代の制度として奴隷制を擁護していた。市民が政治を論じ合うには家事などから解放されなければならない。生活の面倒をみてくれる奴隷が必要だ。しかし適合の基準によれば、奴隷にふさわしい人がいなければならないということになる。これについてアリストテレスは、生まれつき奴隷に適した人間がいると主張している。だが、戦争で捉えられ、仕方なく奴隷になった者などは、奴隷の役割を与えるのは一種の強制であり、本人の本来の役割と適合していないので問題としている。ここでの要点は、アリストテレスの目的論法が奴隷を認めているから正しくないのではなく、むしろ目的論法自体は原理的には間違っていないのだ。なぜなら、彼の目的論法で奴隷制を考えた場合、何が間違っていたのかを、彼自身の言葉によって説明することができるからだ。では目的論法は何が問題となるのか。それは多元的な考えを持つ現代の社会において、目的や善について同意を得ることが難しい。だからこそ現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としているのだ。カントやロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けたのだ。アリストテレスのように正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されないではないか。自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないのだ。吟味すべき問題は2つある。1つ目は権利は善に優先するのかどうか。2つ目は自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。ただしロールズが言うような、自分の役割や目標や目的を選択できることが本当に自由なのか。次回考えよう。
第10回-Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」

Lecture21「コミュニティの一員としての義務」

アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、カントの自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン(共同体主義者)の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。2人の子供が溺れている。どちらか1人しか助けられない。1人はあなたの子供、もう1人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第2次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回考えよう。
第11回-Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。ふるさとと祖国のコミュニティに属していた例を考えよう。南北戦争の前夜、アメリカ南部のヴァージニアにふるさとを持っていた北軍のリー大佐の話。彼は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対し、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとしたが、リーはそれを断った。リーは連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれなかったのだ。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。彼は祖国よりもより身近なふるさとというコミュニティの義務を選んだのだ。講義では他に2つの例が示されるが、どちらもより身近な限定的なコミュニティを選んでいる。おそらくほとんどのアメリカ人も祖国アメリカよりも自分の家族の方が大事だと考えているだろう。しかし、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦ったという例も当然あったのだ。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示している。つまりコミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないと言えそうだ。ある特定のコミュニティの中でだけ「是」とされるだけならば、正義の原理があるとは言えない。ある時代のある社会においてのみ通用する共通の理解や価値観や習わしへの忠誠心に過ぎなくなってしまう。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。
第11回-Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

Lecture23+Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」

私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。それを明らかにするために同性結婚について考える。同性結婚は道徳的にも宗教的にも論争の的となっている。まず、多くの人は結婚は道徳的、宗教的に男女間に限るべきだとまず思うだろう。同時に多くの人は同性結婚も異性結婚と等しく扱われるべきだという。こちらも道徳的、宗教的な信念を持っている。1つの要点として、どう選択するかが道徳的に価値があるのではなく、個人が様々なことを選択できる権利があるかどうかが問題となっている。道徳的に同性結婚は間違っていると思う者でも、2人の男性が結婚したいと思っているのに、自分がなぜそのことに反対できるのかわからないと答えた。同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。ジャーナリストのマイケル・キンズリーは国の機能としての結婚の廃止に賛成している。彼は同性結婚に反対しているわけだが、その理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。ではここで結婚の目的を考えてみよう。多くの人はまず、子供を生んで育てること、つまり生殖を考えるだろう。しかし、不妊カップルの結婚を我々は認めるだろう。あるいは、閉経後の女性との年配結婚、死に瀕した者との結婚などを考えると、生殖が結婚の目的ではないような気がしてくる。では、同性結婚の問題に裁判所はどう判決を下すだろうか。マサチューセッツ州に対し結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたグッドリッチという男性の訴訟を考える。裁判所はまずは、中立性を考えたが結論は違った。結婚の目的は生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点だとし、名誉を重要視した。裁判所は結婚は、個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。結婚を望む2人とそれを承認する国家の3者の関わり。結婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。この見解は中立性を超えている。同性結婚を公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定したのだ。実はサンデル教授は中立的な立場に反対だ。中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚を正当化することはできない。問題となるのは同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうかだ。サンデル教授は中立的に反対なのは、同性結婚の話に限らない。私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自律の問題だから、我々はどの立場も取らないと言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできなかったのだ。
第12回-Lecture23-Lecture24「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」

Lecture24後半「サンデル教授の正義」

私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。1度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは2度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり(懐疑主義)、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。
第12回-Lecture23-Lecture24「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」