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JUSTICE 第11回「コミュニティの一員としての義務」「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture21「コミュニティの一員としての義務」

アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン(共同体主義者)の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。2人の子供が溺れている。どちらか1人しか助けられない。1人はあなたの子供、もう1人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第2次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture21
THE CLAIMS OF COMMUNITY
Lecture22
WHERE OUR LOYALTY LIES 


時間:55:11



Lecture21「コミュニティの一員としての義務」

今日はアリストテレスに対する、カントの反論について考えていこう。

カントはアリストテレスの考えは間違っていると主張した。
権利が保証される公正な枠組みを整え、枠組みの中で人々がそれぞれに思いえがく、善き生を追求することは大事だが、ある特定の善き生の概念に基づいて法律や正義の原理を定めることは強制の危険を犯すことであり、認めることはできないとした。
アリストテレスは理想的な政治体制を追求には最善の生き方を理解しなければならないと述べたが、カントはこれを否定するだろう。カントの意見では政治体制や法律や権利は特定の生き方を具現化し、支持し、促進するべきものではない。なぜなら、自由と対立するからだ。一方アリストテレスにとって法律の本質やポリスの目的とは市民の特性を形成し、市民の美徳をはぐくむ、市民としての卓越性を教え込み、善き生を可能にすることだった。著作「政治学」でそう述べられている。

それに対し、カントにとっては法律の目的や政治体制の意義は、美徳をはぐぐんだり、促進したりするものではなく、権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれに思いえがく善の観念を自由に追求するためのものだ。

これで、2人の正義論の違いがわかったと思う。

法律の意味、憲法の役割、政治の意味において、違いがみられる。これらの違いの根底にあるのは、自由な人間であるのはどういうことかの解釈の違いだ。アリストテレスによれば、人間は自分の潜在の能力を発揮する能力がある限り自由なのだ。
この考えは個人とその個人にふさわしい役割の適合の問題につながる。そのためには、自分が何に向いているか理解するということが必要であり、それが自由の生活をおくるということであり、自分の潜在能力にふさわしい生活を送るということなのだ、カントはその考えを否定し、そのかわりに、自立的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張している。
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自由とは自分が自分に与えらる法則に従って行動すること、すなわち自立を意味する。

カントやロールズの考え方は魅力的で道徳的に説得力のある場合、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。

自由で独立した自己、というイメージは力強くて、開放的なビジョンをもらたす。このビジョンとは自由で道徳的な個人としての私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない、過去のことがらにはしばられない、ということだ。

人間は自分で選ばない限り、いかなる道徳的つながりにしばられることもない。
これが意味するのは、人間は自由で独立した至上権を持った自己だということだ。
人間は自らがつくり出した義務のよってのみ、自らを律するのである。

カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン(共同体主義者)ですら、自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ、という主張には説得力があると認めている。

しかし、コミュニタリアンはそこからは道徳的、政治的、生という側面がそっくり欠けてしまっていると論じる。カント派の考えに従っていけば、一般の人々に広く認めれ、賞賛される道徳的政治的な義務を説明できなくなってしまう。例えば、集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあると、コミュニタリアンは言う。

コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに、物語的観念を用いている。これは自己についてカントなどとは異なる考え方だ。

人間は、本質的に物語をつむぐ動物である。私は何をするべきか、という問いに答えるには、まずどんな物語の中で私は自分の役を見つけれるか、という問いに答えてからでないと答えることはできない。

これがマッキンタイアの言う自己の物語的観念である。

これがコミュニティや帰属意識とどうかかわってくるのか、マッキンタイアはこう述べている。
道徳的な考え方の物語的側面を一度受け入れれば、次のことに気付くだろう。

私は単なる個人として善を求め、美徳を実践することはできない。私たちは皆、特定の社会的アイデンティティーの担い手として、周囲とつきあう。
私は誰かの息子か娘であり、どこかの都市の市民であり、この一族、あの民族、この国民に属している。

従って、私にとって良いことはこのような役割を生きる者にとって、善いことであるはずだ。私は自分の家族、都市、民族、国民の過去から様々な負債や遺産、期待や義務を受け継いでいる。

私の人生にもともと与えられたものであり、私の道徳的な出発点である。それがある程度、私の人生に道徳的特性を与えるのである。

これが自己の物語的観念だ。

これは自己というものはある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。不可をかけられる存在であり、という考え方である。そういった特徴に関心を向けないまま、何をすべきか考えても人生の意味を理解することはできない。心理的な問題としてだけではなく、道徳的な問題としてもだ。

さて、マッキンタイアは自分の物語的観念、負荷ありき自己という図式は現代のリベラリズムや個人主義と対立する、ということを認識する。
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個人主義の観点から言うと、私とは自らこうありたいと、選んだものである。つまり、私は生物学的には父の息子かもしれないが、自分が望まない限りは、父のしたことを責任を負わされることはない。同様に自分が望まない限りは自分の国がしたきたことへの責任を負わされることもない。

しかし、マッキンタイアはそういう考え方は道徳的に浅はかであり、無知であるという。この無知とは、集団的な責任や過去の歴史から生じる責任を含む最も重要な責任を逃れようとする無知である。

彼はいくつか、そのような個人主義の例をあげている。例えば、自分は奴隷を所有したがない、奴隷制がアメリカの黒人に与えた影響について責任を否定する現代アメリカ人を、あるいは、あるいは1945年以降に生まれているから、ナチスがユダヤ人に対してしたことは自分と現代ユダヤ人との関係に何の道徳的な関連も持たない、若いドイツ人。

マッキンタイヤによれば、自分が誰であり、自分の義務が何であるかを明らかにし、切り離して考えることはできず、切り離すべきでもない。1度このことがわかれば歴史に対するこのような記憶喪失的な態度は道徳的を放棄することに等しい。マッキンタイアは言う、物語的な自己の見方とコントラストは明らかであり、私の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、私のアイデンティティーはそこから生まれるからである。私は過去と共に生まれてきた。私をその過去から切り離そうとするのは、私の現在の関連をゆがめることになる。

自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない、とする。

マッキンタイアの強力なメッセージをわかってくれたと思う。

さて、個人主義の言う、負荷なき自己に対するコミュニタリアンからの批判について、君たちの反論を知りたい。話を具体的にしよう。君たちの答えが議論だけに限られないように、道徳的、政治的な義務についての2つの異なる考え方についてみていこう。

人格についての概念のどちらを受け入れるかでこの考え方が変わってくる。
リベラルの観念では、道徳的、政治的な義務は次の2つの方法のどちらかで生じる。

1つは人として人を尊重するといったような、私たちが人間に対して生じる、こういう義務は普遍的なものだ。
もう1つはロールズが指摘したような、自発的な義務。約束であれ、取引であれ、契約などであれ、自分が同意したことによって発生する、特定の誰かに対して負う義務だ。

自己の解釈におけるリベラリズムとコミュニタリアニズムとの論点は、義務にはこれとは別のカテゴリーがあるのではないか、ということだ。コミュニタリアンは別のカテゴリーがある、連帯、忠誠心、集団の構成員としての義務とでも呼ぶべき、第3のカテゴリーがあると主張する。コミュニタリアンは全ての義務を自然の義務、あるいは自発的な義務のどちらかにしてしまえば、集団の構成員としての義務や連帯の義務を捉え損なうと考える。

集団の構成員としての義務や連帯の義務を捉え損なうと考える。集団の構成員としての義務が持つ道徳的な力はその義務に従って生きることのみが私たち自身を理解する上で、切り離せないという事実に立脚している。

これから例をあげてみるので、君たちがどう思うか意見を聞きたい。

集団の構成員であるがゆえの義務は特定のものであるが、必ずしも同意によって生じるものではなく、集団の構成員であること、物語、コミュニティ、個人的な状況によって生じるものである。最も一般的な義務は家族に対する義務だ。
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親子関係を例にあげてみよう。2人の子供がおぼれているとする。どちらか1人しか助けられない。1人は君の子でもう1人は見知らぬ人の子だ。コインを投げてどちらか決めることなのか、自分の子の助けに駆けつけなかったら、道徳的に鈍感ではないだろうか。

この場合、君たちは親は子供を持つことに同意している。逆のケース、親に対する子供の義務を考えてみよう。私たちは自分の親を選んでいない。そもそも親を持つことを選んでいない。そこには非対称性がある。しかし、年老いた人がいたとして、1人は君の親、1人は見知らぬ人の親だと考えてみよう。自分の親の面倒をみる義務の方が、コインを投げて決めたり、見知らぬ人の親をみる義務より大きい、と考えることが道徳的に筋が通っていないだろうか、しかしその義務は同意から発生した義務なのか、そうではないだろう。

次は政治的な例を考えみよう。第2次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットが占領下にあるフランスを空爆した。ある日、パイロットの1人自分が攻撃する標的の村は自分のふるさとであることに気付いた。彼は空爆を拒否した。その村への爆撃の必要性が昨日爆撃した村との比べてなかったと考えたからではない、彼はフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとを人々を爆撃するのは道徳的な罪であり、爆撃の行為には参加できないという理由で拒否したのだ。

彼のしたことが賞賛されるとするならば、それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ。とコミュニタリアンたちは主張する。

別の例をあげよう。何年か前にエチオピアで飢饉がおこり、何十万人の人々が飢えに直面した。イスラエル政府はエチオピア系ユダヤ人を救出するために飛行機を手配した。エチオピアにいる全員を助ける能力はなかったので、数百人のエチオピア系ユダヤ人だけを選んで救出したのだ。君たちはこれを道徳的にどう評価するかな?

これは道徳的にみて、問題になる「えこひいき」であり、ある種、偏った愛なのか、あるいは、イスラエル政府が考えたように私たちには連帯という特別な義務があり、空輸による救出作戦はそれに従って行われたのだろうか、それは愛国心というさらに範囲の広い問題へつながる。

道徳的にいって愛国心とは何か。同じフランクリンという名前の街を例にあげよう。1つはテキスト州、もう1つはリオグランデ川を渡ったメキシコにある。

国境の道徳的な重要性とは何か。なぜ私たちはアメリカ人としてテキサス州フランクリンの住民に対し、健康や教育や福祉に対してより大きな責任を負っているのか、川を渡ってすぐのところにあるメキシコ側のフランクリンの住人も同じように生活に困っているのに。コミュニタリアの考え方によれば、集団の構成員であることは重要であり、愛国心が少なくとも潜在的な美徳である理由は、それが市民の義務の1つの現れであるからである。

義務についての第3のカテゴリー、連帯や集団の構成員としての義務がある。という考え方に賛成の人は?共感する人はどれくらいいるかな?では、この考えに反対の人は?全ての義務は最初の2つのカテゴリーで説明できる、という人はどれくらいいるかな?

結構、ではまず、コミュニタリアニズム反対の人の意見を聞こう。君!

学生A:義務を持つという考えについて、僕が一番心配なのは、集団の構成員だとか、連帯という理由で道徳的な拘束力があるものとして、そういう義務を受け入れたら義務が重複して、善と善が対立する可能性が高そうだということです。その場合、自分がどちらかということが許されるかどうかわからないのです。

君の名前は?
学生A:パトリックです。
つまり、君の心配は、集団の構成員であることや連帯の義務を認めたら、私たちは複数のコミュニティに属しているからコミュニティ同士の主張がぶつかる場合があり、義務が競合したらどうするのか、ということだね。君!

学生B:解決作の1つは自分を人類という究極の構成員とみなすことです。その中に小さな領域があります。例えば、私はアメリカ人だし、ハーバード大学の学生です。でも、私たちが義務を負うべきもっとも大きなコミュニティは人類というコミュニティです。そこから自分にとって最も重要な義務を選ぶことができると思うんです。

名前は?
学生B:ニコラです。
最も不変的なコミュニティである、人類というコミュニティが常に最優先されるというわけだ。パトリック納得したかな?

学生A(パトリック):いいえ。
それはなぜ?
特定な義務よりも普遍的な義務を選ぶべきよりは、どちらかと言うと恣意的に思います。僕はまず自分にとって、最も具体的な義務を果たすべきだと思います。コミュニティの最小単位である僕の家族です。僕はまず家族に対して義務を負い、次に街、次に国家、次に人類になるでしょう。
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よろしい、ありがとう。もう1人、コミュニタリアニズムに反対する人の意見を聞きたい。もし、善と善が衝突したらどうするのか、という反論が出たが、コミュニタリアニズムそのものに反対する人、愛国心は弊害の一種であり、乗り越えるのが理想だと考える人は?君!

学生C:愛国心はコミュニティの構成員であることを反映されおり、与えられたものです。問題は自然で物語意識のある一方で、市民の物語はつくられたものであり、間違った場合もあるということです。リオグランデ川が国境なのは、歴史の偶然なのと同じで、私がメキシコではなく、アメリカ側に生まれたのは偶然なのに、アメリカ側に構成員としての意識を持つのが当然だというのは、おかしな話です
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よろしい。名前は?
学生C:エリザベスです。
反論のある人は?君!

学生D:一般的に私たちの道徳的な義務はどこからどのように生じるのかを考える必要があると思います。僕は基本的には、1つは血縁関係から、1つは相互依存生から生じると思います。他人と密接に結びつけば結びつくほど、やりとりは深まり、自然発生的な相互作用が生じるのではないでしょうか。自分の家の近所の人と同様、同じ国の人の方が経済的な交流も多いだろうし、、、。

しかし、私も君もメキシコのフランクリンよりもテキサス州フランクリンのことを知っているわけではないだろう?
学生D:他の国人よりは同じ国の人の方が交流や取引の点で、おそらく自然につながっているのでは、、。

よろしい、他には?君!
学生E:愛国心の基礎は大学に対する愛校心や入っている寮に対する気持ちと似ていると思います。新入生は
寮に入ると1日で、その寮に対する愛着や誇りを持つようになります。なので、コミュニタリアニズムのいうところと、道徳的な義務と、単なる情緒的な愛着とは区別がつくのではないでしょうか?

ちょっと待って、名前は?
学生E:リナです。
さっき、親に対する子供の義務について話をしたが、君はそれについても同じ意見かな?情緒的なつながりだけで道徳的な重みはないのか、そもそも始めの段階で偶然だから、道徳的な義務は発生しないかどうか、私には言い切ることはできません。私たちはどの寮に入るかは選んでいないし、どの親の下に、どの国の下に生まれてくるかを選んでいません。でも、自分が選んでいないからと言って、受け取った便益に基づいて義務を発展させるのは必ずしも否定しませんが。

では、自分の老いた親への義務が世界中の他の老いた親への義務より大きい理由は、君が成長する過程で君の親が与えてくれた便益に報いるため、という以外に理由はない、ということかな?

学生E(リナ):例えば、養子縁組のケースを考えると、実の親とは全く交流がなく、育ての親は自分を引き取って育ててくれたわけです。どちらかを選ばなければならないとしたら、自分を慈しんでくれた育ての親に対して、より多くの義務がある、と考える人は多いのではないでしょうか?

親についてもう1つ聞きたい。悪い親の場合、親への義務は少なくなるかな?
学生E(リナ):わかりません、悪い親を持ったことがないので。(会場笑い)
閉めの言葉としていいので、ここで終わろう。次回もこのテーマを続けよう。


Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。ふるさとと祖国のコミュニティに属していた例を考えよう。南北戦争の前夜、アメリカ南部のヴァージニアにふるさとを持っていた北軍のリー大佐の話。彼は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対し、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとしたが、リーはそれを断った。リーは連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれなかったのだ。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。彼は祖国よりもより身近なふるさとというコミュニティの義務を選んだのだ。講義では他に2つの例が示されるが、どちらもより身近な限定的なコミュニティを選んでいる。おそらくほとんどのアメリカ人も祖国アメリカよりも自分の家族の方が大事だと考えているだろう。しかし、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦ったという例も当然あったのだ。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示している。つまりコミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないと言えそうだ。ある特定のコミュニティの中でだけ「是」とされるだけならば、正義の原理があるとは言えない。ある時代のある社会においてのみ通用する共通の理解や価値観や習わしへの忠誠心に過ぎなくなってしまう。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。


Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

今回、取り上げてみたいのは、コミュニティの構成員であることや、連帯から生じる義務があるという考え方に対する、もっとも強力な反論だ。そこからこれらコミュニティから生まれる義務が擁護できるものかどうか検討していく。

前回の議論の中から1つ反論がでてきた。パトリックがうまく言ってくれたが、あるコミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。

これは、考えられる反論の1つだ。
そして、前回の講義で、あるコミュニティの構成員であることから生じる、道徳的な力を明らかにするためにいくつかの例を出した。親と子供の例。フランスのレジスタンスの兵士が自分のふるさとの村を爆撃するように命じられて拒否した例だ。イスラエルによるエチオピア系ユダヤ人救出の例だったが、これらの例は直感に訴えかけるものかもしれないが、実際には、感情的な問題、情緒的な問題を示しているのであって、真に道徳的な義務を示しているのではない、とリナが発言してくれた。

そして、このような愛国心、自体に対する反論ではなく、個人の同意を超えた、コミュニティンの意識や連帯から生じる義務としての、愛国心に対しても、多くの反論があった。

この反論は愛国心の義務も含め、自分が属するコミュニティに対する義務がありえることを認めはするが、愛国心やコミュニティの構成員であることから生じる全ての義務は、実際にはリベラルな考え方に基づいており、リベラリズムと相反しないと主張する。

それらはコミュニティの構成員だから生じている義務ではなく、暗黙のあるいは明白な同意や相互性に基づく義務だからである。

例えば、ジュリアはこの講義のウェブサイトでリバラリズムはカント的な愛国心を自発的な道徳的義務として支持することが可能だと述べた。愛国心と家族愛は両方とも、このカテゴリーに入る。ジュリアが指摘したようにカント的な枠組みは個人が望むのであれば、愛国心のような美徳を選ぶ選択の自由を認めているからだ。そのため、コミュニティの価値観の道徳的な力を説明するのに、わざわざ自発的でない道徳的義務という考え方を持ち出す必要はない。

ジュリアは、、そっか、君の意見の要約は今のでいいのかな。ジュリアの意見はまさにロールズがこのテーマについて言っていることとピッタリと一致している。そのことを知っていたかなぁ。
学生A(ジュリア):(ジュリア首を横に振る)
では君は自力で結論に達したわけだ!素晴らしい!

ロールズは政治的義務についてこう述べた。自らの意思でそれを選ぶのなら、選挙に出たり、軍に入隊したりするのもいいだろう。しかし、厳密に言えば、市民一般には何の政治的義務もない。なぜなら、市民を拘束するのに必要な行為は何なのか、誰がそれを実行するのか、明らかでないからだ。

そこからロールズは普通の市民には、政治的義務はないとする。ただし、特定の市民が自ら望み、同意した上で政治的義務を選択し引き受ける場合は別だと主張する。これはジュリアの主張と全く同じだ。これはもう1つ別の反論と関係してくる。

自分は家族、あるいは祖国に対して、特定の義務を負う。という考えることには全く問題がない。ただし、それらの義務を尊重することが、人として人を尊重するというような自然の義務や不変的に求められるものを妨げない限り、という条件付きである。

この考え方は個人や国や国民や家族に対する忠誠心を表現したければ、それでかまわない。ただし、不変的な義務が優先されることを認め、その枠組みの中で、いかなる不正行為を行わない。という条件付きで、とする考え方と同じだ。

講義ではふれなかった、もう1つの反論は、コミュニティの構成員であることから生じる義務は、集合的な利己主義ではないのか!というものだ。名誉なことはないのではないか。単なる偏った愛ではないのか。

さて、コミュニティの構成員としての義務に対して、批判的な意見をウェブに書き込んでくれた諸君は、下に降りて来て集まってくれないか。前にもやったようにチームをつくり、愛国心はコミュニティから生じる義務だと考える人たちに、君たちが反論できるかどうか、やってみよう。

さて、コミュニタリアンが考えているように、愛国心を擁護する人は大勢いた。それなら、私は愛国心批判派、コミュニタリアニズム批判派に加わることにしよう。使えるマイクあるかなぁ、ありがとう。ケイト。

愛国心、コミュニティから生まれる愛国心を共有すべきだ、という考え方に反対の人は、ここに勢力を結集しよう。パトリック、君も参加したければぜひ、リーナもぜひ。このテーマについて発言した人は自由に参加して欲しい。

しかしまずは、愛国心を擁護する側の意見を聞きたい。純粋に個人の同意を根拠付けることができなくとも、リベラルな考え方で正当化できなくとも、愛国心は道徳的な義務である、と考える人の意見を聞きたい。

AJクマールは、AJ?君は有名人だな?ではAJの意見を聞こう。君はこう言ったね。私が一般的なコミュニティよりも家族の方により多くを負っていると感じているのと同じように、全人類よりも祖国の方により多くを負っていると感じているのは、祖国が自分のアイデンティの形成において重要だからだ。祖国を愛するのは弊害ではない。それは自分の親を他人の親より愛するのは弊害ではないのと同じだと言った。さぁ、AJ、批判派をどう説得する。
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学生B(AJ):人間には、自分のアイデンティティーを形成するコミュニティーの人々に対する共同的な責任があり、そこからくる根本的な道徳的義務があると思います。例えば、今の政府について僕が支持しないことはたくさんあります。でも、僕のアイデンティティーの一部はアメリカが反対意見の表明を許す自由な社会を重んじることにあります。それも愛国心の表現の1つの形です。ハーバードの例に戻るとルームメイトは僕のアイデンティティーを形成しているので、大学のコミュニティの全体よりも多くを負っています。それと同じことが祖国にも言えます。もちろん親も国も選べませんが、そこで育ったということがアイデンティティーの一部をつくりあげているからです。

よろしい。誰か他には?マイク!

学生C(マイク):他人に対して義務を負う理由として、ただ単にその人たちから影響を受けているからというtことが、理由になるかどうかについてですが、僕はドイツ国籍ですが、もし、80年早く生まれていたら、ナチスドイツ構成員だったことになります。でも、ナチスにしたことにより、自分が便益を受けたからと言って、ドイツに義務を感じるとは、とても思えないんです。

学生B(AJ):今、アメリカには平和こそ愛国だと、プラカードを掲げて抗議する人が何十万人もいます。この教室には抗議行動に反対の人もいるでしょうが、僕は賛成です。彼らはブッシュ政権がしていること全てに強く反対していますが、同時に祖国を愛しています。祖国にとって最善の大義のために抗議をしているからです。僕も愛国的な運動としてそれに賛成したい気がしています。

学生C(マイク):なぜ、祖国を好きでいられるんですが、なぜそれでも愛国的なのですか?それは感情的な愛着じゃないですか。義務はどこにあるのですか?

学生D:議論をジョンロックまで戻すべきではないでしょうが、私はジョンロックまで戻りたいと思います。(会場笑い)ロックの考え方では、人間が社会に参加しても出口があります。社会が気にいらなかったら出ていくことができます。自分で選んでその社会に生まれてくるわけではないし、出て行くことは現実問題としては難しいと思いますが、それでも出て行くことができないわけではありません。でも、個人が社会に負う義務が道徳的なものだとすれば、人間は自分の属する社会が、どんな社会になるのかを知る前に、また、自分の地位がどのようになるのかを知る前に、自分の個人的な心情とは全く相容れないコミュニティに拘束される義務を負うことになるのです。

つまり、コミュニティから生じる義務や愛国心はコミュニティに道徳的の白紙委任状を与えてしまうことにになるというわけだ。

学生D:基本的にはそうです。そのコミュニティで育つ過程で相互性に基づいてある種の義務を負うようになるのは道理にかなっていると思いますが、最初から道徳的な義務を負っているというには、もっと強い理由がなければ正当化されないと思います。

他の意見を付け加えた人は?

学生E:個人と社会がお互いに利益を享受していれば、社会に対して道徳的義務があると言えます。それが社会に参加するという意味で、税金を払い、投票するというのは、私たちが社会に何かを負っているからです。とはいえ、社会の構成員たちは自動的に何かを追うとは思いません。保護や安全を与える限りは私たちは社会に何かを追いますが、それは私たちが社会に与えるものを超えることはありません。

他に意見は?ラウル!

学生F(ラウル):その意味では、コミュニティに道徳の白紙委任状を与えるとは思いません。道徳の白紙委任上は与えるのは、私たちが市民の責任についての判断を放棄し、愛国心は悪だから、この議論は無意味だと言う時だけです。僕は愛国心は重要だと思います。コミュニティ意識、共通の市民的な美徳の意識をもたらすからです。政府のやり方に賛成ではなくても、自分の国を愛して、このその行動を嫌悪することは可能です。祖国に対する愛があるから、他の人と討論し、彼らの意見を尊重し、議論に関わることができるわけです。しかし、ただ単に愛国心は悪だと言ってしまえば、議論から降りてしまうことになり、もっときょうこうな考えを持ち、コミュニティにその考え方を強制する、原理主義者に人知をゆずってしまうことになります。そうではなく、同じ道徳的人知に立って、他のメンバーと関わるべきでしょう。

AGとラウルの言っているのは、とても多元主義的、論争的、批判思考の強い愛国心だが、愛国心を批判する側が懸念していることは、愛国的な義務はコミュニティの一員として、当然だ、ということになると、私たちが国家に関する心情や行動や習慣を自分の意思で選ぶことを許さないような、忠誠心になってしまうのではないか、ということだ。さらに、私たちが追求しているのは、正義の原理に対する忠誠心だとしたら、それが私たちのコミュニティで通用している場合もそうでない場合もある。

そうでない場合、その実現を拒否できるのであろうか。私にはわからない。失礼、答えを言ってしまったも同じだね。夢中になり過ぎた。ジュリア!

学生A(ジュリア):まず、愛国心が何であるか、定義すべきだと思います。私たち批判派は愛国心を弱い意味で捉えていると思われがちですが、逆にコミュニタリアンの方が社会の中で市民が議論に参加すること程度にしか捉えていない程度に聞こえ、愛国心の道徳的価値を埋没させていると思います。愛国心をもっと強いものだと考えれば、もっと強い道徳的な義務が生じるのではないでしょうか?

はっきりと議論すべきなのは、コミュニタリアニズム擁護派から出された例で、どのような場合に、コミュニティへの忠誠心が普遍的な正義と競合したり、忠誠心が正義の原則を上回る可能性があるのか、という点だ。それが一番難しいテストではないかな?

それについて、皆に聞いてみたい。君たちの中で、原則からすれば正義でなくても、コミュニティの構成員や連帯からくる義務を優先する、という人はいるかな?普遍的な道徳的観念や人として人に対する敬意よりも、コミュニティへの忠誠心が勝った。あるいは、勝るべきという例をげられる人はいるかな?君!

学生G:経済学の課題中、ルームメイトがカンニングしているのを見たとします。いけないことかもしれません。僕は彼を大学当局には突き出しません。
突き出さないのか?
学生G:突き出しません。突き出さないことが正しいのです。僕は彼に義務があるからです。いけないことかもしれませんが、僕は黙認するでしょう。多くの人もそうすると思います。

よろしい、これはいいテストだ。ルームメイトというコミュニティの名において行うことが、普遍的な正義の原理と競合するという例だ。ちょっと待って!君の名は?
学生G:ダンです。

ダン、皆はダンがあげた例をどう思うかな?これは忠誠心の倫理を問うより難しいケースだ、しかもより真実みがある。ダンに賛成する人は?(会場わりと手があがる)いやぁ、忠誠心は大事なようだねぇ。ダンに反対する人は?(会場笑い)ペディ!

学生H(ペディ);私も黙認しますが、それは選択であり、正しい正しくないではないのです。私はルームメイトの方を選ぶという正しくないとう選択をしますが、その選択が道徳的に正しくないことはわかっています。

君はダンの忠誠心ですらも、選択の問題だと言うわけだね。しかし、何が正しい行いなのか、ほとんどの人はダンがルームメイトを守り、彼を突き出さないのは正しいと賛成している。君!

学生I:ルームメイトという立場から得た、いわばインサイダー情報を利用したくない、ということもあります。それを持ち出して、彼を告白するのは、不公正かもしれません。一緒に長い時間を過ごすルームメイトについては多くを知ることになりますが、それをもっと多くのコミュニティに暴露するのはフェアではないでしょう。

つまり、忠誠心だねぇ。君はダンに賛成?忠誠心がここで問題になる倫理だね。
学生I:その通りです。
君には真実を告げる義務、不正行為を告発義務はないのか?
学生I:ないと思います。その情報を得るのに、有利な立場にいた場合には。

愛国心批判派が席に戻る前に、もう1つ別の例をあげよう。
私はこれを忠誠心についてのダンのジレンマと呼ぶことにするが、次の例はもっと公共的な例だ。

この例について君たちの意見を聞いていきたい。これは数年前にマサチューセッツで起こったことだ。これが誰だが知っている人は?
学生J:ビリー・バルジャー
そう、ビリー・バルジャー、正解だ!ビリー・バルジャーとは誰か。バルジャーは長年マサチューセッツ州の州議会議長を務めた人だ、マサチューセッツのもっとも有力な政治家の1人であり、マサチューセッツ大学の学長にもなった。皆はダンのジレンマを抱えたビリー・バルジャーの話は知らないかなぁ?ビリー・バルジャーにはワイティー・バルジャーという弟がいる。ワイティー・バルジャーをみてもらおう。

ビリーの弟、ワイティーはFBIの最重要指名手配に載っている。ボストンのギャングのリーダーであり、多くの殺人に関与した疑いがかけられているが、現在も逃走中だ。しかし、アメリカ連邦検事が陪審が始まる前に当時マサチューセッツの学長だった兄ビリー・バルジャーを呼び出す。逃走中の弟の行き先について情報を求めた時、兄ビリーは情報提供を拒否した。連邦検事はこう尋ねた。お聞きしますが、バルジャーさん、マサチューセッツ州よりも弟の方に忠誠心を感じられるのですか?ビリー・バルジャーは答えた。そんな風に考えたことはありませんが、もちろん弟のことを大切に思っています。弟と対立する人間に手をかさずにすむように願っていますし、弟をつかまえようとする人に協力する義務はありません。

ダン、君は賛成だろうね?ビリー・バルジャーの姿勢に賛成する人は?(会場手をあげる人もいる)もう1つ別の例をあげてから忠誠心批判派の反論意見を聞こう。
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今度はアメリカの歴史上の人物のより運命的な例だ。その人物とはロバート・E・リー。南北戦争の前夜、彼は北軍の大佐だった。リー大佐は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対で、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとした。しかし、リーはそれを断り、息子たちの手紙の中で自分が拒否した理由を説明した。

私の連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれない。ふるさととヴァージニアのことだ。連邦が解体したら、私はふるさとの州に戻り、同郷の人々と窮状(キュウジョウ大変困っているようす)を分かち合おう。ふるさとを守る以外に私が剣を抜くことはない。

ここに真のテストがある。ダン!君の忠誠心の原理のテストだ。南北戦争の北軍の大義は連邦の維持だけではない、奴隷制反対もかかっていた。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。コミュニタリアンは彼の行動は賞讃されるべきだと言うだろう。彼の判断は究極的には正しいかはさておき、賞讃に値するところがあると言うだろう。

リー大佐のジレンマを道徳的ジレンマとして理解するには、彼が何者であるか、彼はどこで育ったのか、というような物語的に生じている忠誠心から、情緒的、感傷的葛藤ではなく、道徳的葛藤が生まれていると認識することが必要だ。

ダンやビリー・バルジャーやリー大佐の忠誠心に対して、何か言うことがある人は?どうかな?ジュリア!

学生A(ジュリア):彼らのケースはどれも家族と国家というような対立するコミュニティが存在して、複数の影響力が及んでしまうという典型的な例です。義務を自分で選択できることが重要な理由は、自分で選ばなければ解決できないからです。どちらのコミュニティに対しても道徳的義務を負っているとすれば、身動くがとれません。ですから選ぶことが必要です。その場合、たまたま、このコミュニティの構成員だからという恣意的な事実ではなく、他の要素に基づいて選ぶことができることが重要です。そうでなければ、選択は成り行き任せになる他なくなります。

ジュリア、問題はダンやビリー・バルジャーやリー大佐が選択をしたかどうかではない。もちろん、彼らは選択をしている。だが、問題は何の原理を下に選ぶかということだ。コミュニタリアはなされるべき選択を否定してはいない。問題は選ぶ際に何を根拠に選ぶか、忠誠心、それ自体をどこまで重視するかということだ。アンドレ、君はどう思う?何と言う?

学生J(アンドレ):これら3つのケースでは、全員自分が所属するもっとも身近なより限定的なコミュニティを選んでいます。これは注目すべきことで、単なる偶然ではないと思います。実はそこには対立はないんじゃないでしょうか。3人ともどちらが自分にとって重要なのか、はっきりわかっているように思います。なぜなら、経済学のクラスよりルームメイト、マサチューセッツ州より自分の弟、祖国よりふるさとの衆とわかっているからです。それが何がより重要かということに対する答えだと思います。

自分にとって身近でより限定的なものの方が常に道徳的に重みがあると。

学生J(アンドレ):この3つの例では、同じ傾向があると思います。私はそれに同意します。おそらく私たちのほとんどはアメリカ合衆国より自分の家族の方が大事だと考えているんじゃないでしょうか。

だから、君はダンと同じに経済学のクラスの真実よりもルームメイトへの忠誠心をとるわけだ。

学生J(アンドレ):はい、その通りです。だって、そうでしょう。
経済学の真実じゃなくて、真実を言うということだよ。よろしい、ありがとう。(会場笑い)君!

学生K:でも、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦った例もありました。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示しています。つまり、コミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないのです。私はコミュニタリアニズムの最大の問題点は道徳的義務に基準がないことだと思います。

名前は?
学生K:サマンサ
サマンサ、君はパトリックの側だね。パトリックは義務がそのコミュニティの構成員というアイデンティによって定義されてしまったら、義務同士が対立したり、重複したり、競合したりするかもしれない。そこに明らかな原則はないからだ、と指摘した。

アンドレは最も身近なコミュニティを選ぶという明らかな原則があると言い、ニコラは人として、もっとも普遍的な義務が最優先されるべきだと主張した。サマンサ!君が言うのは、コミュニティの大きさ、短さのようなものは決定的な道徳的要因にはなりえない。だから、他に何か道徳的な基準がなければならない。ということだね。

よろしい、では、コミュニティで生まれる愛国心の考え方に面々、立ったままで議論に答えてくれてありがとう。おかげで問題が明快になった。

ここで、私たちがここまで議論してきた正義について、その意味合いについて考えてみよう。

それぞれ、独立した道徳的重みを持つ構成員であり、忠誠心を持つべきだという考え方に、複数の反対意見が出たが、その根底にある懸念とは、特定のコミュニティの存在する善き生、という概念から離れては、正義の原理を見つけることはできない。

と、主張しているところにあるようだ。

仮にコミュニタリアンの議論が正しいとしよう、権利が常に善より優先されるという主張は維持できないとしよう。その変わり、正義と権利とは善という概念と密接に関係しているとしよう。それが意味するのは、正義とはただ単にその時代、そのコミュニティにおいて、たまたま是とされている価値観や、ならわしからつくられるものに過ぎない、ということなのか。コミュニタリアニズムを主張する思想家の1人、マイケル・ウォルツァーは正義の意味合いについて、次のように述べている。

正義は、社会的な意味に相関している。ある社会が正しいのは、その社会の実質的な生が、その社会の構成員の共通の理解に忠実な方法で営まれている場合である。
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ウォルツァーの説明は私たちの懸念を裏付けているように思える。もし、独立した正義の原理、ある特定のコミュニティの中で是とされる善の観念に左右されない正義の原理を見つけることができなければ、正義とはある時代のある社会においてのみ、通用する共通の理解や価値観や、ならわしへの忠誠心に過ぎなくなってしまうのではないか。

しかし、それが、正義について考えるのに、打倒な方法だろうか。

さて、ここでドキュメンタリーの一場面を見てもらおう。タイトルは「獲得すべきものを見据えて」。これは1950年代の南部を取り上げた作品だ。当時、南部には、人種分離を社会の共通認識である、伝統だと考える人々がいた。彼らが忠誠心と伝統について話しているのを聞くと、正義の議論をある時代のある社会において広まっている共通認識や伝統に安易に結びつけてしまうことに対して、君たちも不安を感じるのではないだろうか。

では、映像をみて欲しい。
ムービー:この土地には白人と黒人の2つの文化があります。生まれてから今まで両方を身近に感じてきました。しかし、私たちのしてきたことは虐待であり、変わらなければならないと言われている。変化は考えていたよりずっと早く始まっています。新しい考え方で決めろと言われても南部人には難しい。

これで、わかったと思う。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。それとも、この例を見てもまだ、その主張を救う道があるだろうか。

それについては次回の講義で。