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JUSTICE 第10回「目的から考える正義について」「公平さと名誉について」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture19「目的から考える正義について」

カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の1つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture19
THE GOOD CITIZEN
Lecture20
FREEDOM VS. FIT 


時間:55:08



Lecture19「目的から考える正義について」

前回に引き続き、今回もアリストテレスについて考えていこう。

現代の正義論は、道徳的に対価や美徳といった概念から、正義や権利を切り離そうとする権利だった。アリストテレスの主張はカントやロールズとは異なる。彼の考える正義は人々にふさわしいものを与えることだ。アリストテレスの正義論の中心には1つの考え方がある。正義や権利を論じる時には社会的実践や制度の維持、目的、つまりテロスに関する議論が避けられないというのだ。

正義が平等な人々に平等にものを分配することだと考えると、すぐに問題がでてくる。何を持って平等というのか。その質問に答えるためには分配するもの、それぞれの目標、本質的な性質、そして目的を考えなければならない、とアリストテレスは言う。フルートの話をしたね。誰が最高のフルートを手にするべきか、アリストテレスは最高のフルート奏者であると答える。最高のフルート奏者が最高のフルートを手にする。それこそが名誉だ。

最高のフルート、それを与えられることで、最高の演奏と優れた演奏奏者の持つ美徳が認めれる。

今日のテーマになる興味深い論点は我々が社会制度や政治的実践について考える時、目的論なしで済ますのは決して簡単なことではない、ということだ。

一般的に目的論を無しにして、倫理や正義、道徳的議論を考えるのは難しい。少なくともアリストテレスはそう考えた。では彼の主張の力を明らかにするために、2つの例をあげてみよう。

1つはアリストテレスもかなりの長さで論じている政治の問題だ。
政治的地位や名誉、政治的統治はどのように分配されるべきか。
2つめの例は現代のゴルフに関する論争だ、全米プロゴルフ境界PGAは足に障害にあるゴルファー、ケーシー・マーティに対して、試合中のカートの使用を許可すべきかどうか。

この2つの例から私たちは、アリストテレスの目的論に基づいた正義をより深く理解することができる。
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テロス、つまり目的について考えた時、社会的実践の本当の目的というのは、意見が分かれるところだ。そのような意見の不一致が乱れるのは、誰が何を得るか、という点だけではない。単に分配の問題ではなく、名誉の問題でもある。いったい、どのような個人の資質や秀逸さに対して名誉が与えられるのだろうか。

目的やテロスについての議論は同時に名誉についての議論であることが多い。
それでは、ここでアリストテレスの政治論をみていこう。

現代における分配的正義は収入、財産、そして機会の分配が主な争点となる。しかし、アリストテレスは収入や財産よりも地位や名誉についての分配を考えた。誰が統治権を持つべきか、誰が市民であるべきか、どのように政治権力が分配されるべきか。これらの問いに彼はどう答えたのか。

アリストテレスは目的論に基づいて正義を考えた。
正義権力の分配方法を理解するためには、まず政治の目的、意義、そしてテロスとは何かを問わなければならない。では、政治とは何だろうか、この問いに答えられれば統治者を決定できるのだろうか。アリストテレスはこう答える。
 
政治とは、善い人格を形成すること、市民たちの美徳を高めること、つまり、善き生をもたらすものだ。

著作「政治学」の第3巻で彼はこのように言っている。国家的、共同体の目的は単なる生活ではない、経済活動や安全保証に基づいたものではない。政治の目的は善き生をもたらすものだ。

君たちの中では、この考えに疑問を持ち、近代の正義論や政治論の方が正しいと思う人がいるかもしれない。思い出して欲しい。カントやロールズにとっての政治の意味は、市民の道徳的人格を形成することではなかった。政治は私たちをよくするものではなく、私たちが善や価値、目的を選択する自由を尊重し、他者にも同様の自由を認めることだった。

アリストテレスは違う。名ばかりでなく、真にポリスと呼ばれるものは、善の追求という目的に献身すべきだ。さもなければ、政治的共同体は、ただの同盟に陥る。
法は他人から人間から権利を保証する約束事になってしまう、本来はポリスの市民に善と正義を与える規範であるべきなのに。
ポリスは同じ場所に済む者の集団ではない。互いの不正義を防ぎ、取引を容易にするためのものでもない。ポリスの目的と意義は善き生であり社会生活の諸制度は、その目的のための手段である。

アリストテレスはさらに次のように問いかける。これが政治やポリスの目的だとすると、分配的正義の原理を下に誰が一番発言力を持つべきか、誰が最高の政治権力をふるうべきか、アリストテレスはこう答える。このような特徴を持つ集団、つまり、善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治的統治における役割や、ポリスにおける名声を得るべきである。

なぜなら、政治的共同体の本質的な部分に貢献する力があるからだ。

アリストテレスがどのように公認権や政治権力の分配原理と政治の目的を結びつけたか理解できたと思う。

しかし、すぐに疑問が浮かぶだろう。なぜアリストテレスや政治的生活や政治への参加が善き生に不可欠だと主張したのだろうか。道徳的生活を送ることは不可能なのだろうか。彼はこの問いに2つの答えをあげた。

1つ目は「政治学」の第1巻で手短かに述べられている。アリストテレス曰く、ポリスで生活し、政治に参加することによってのみ、我々は人間としての本質を十分に発揮できる。つまり、人間は本来、ポリスで生きるものだ、と言うのだ。なぜなら、我々は政治的生活によってのみ、人間固有の言語能力を活用できるからだ。アリステレスはこの言語能力によって物ごとの生や不正義を論じることができると考えていた。
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彼は「政治学」の第1巻でこう書いている。
政治的共同体であるポリスは、自然に発生するものであり、個人に優先する。時間的に優先するのではなく、その目的において優先するのだ。

人間は共同体の外で暮らしても自己自足することはできない。
孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神であるに違いない。

私たちは言語能力を活用する時のみ、人間としての本質や能力を十分に発揮できる。つまり、私たちが同胞である市民たちと物ごとの善し悪し、または正義、不正義について議論する時だ。

それでは私たちはなぜ政治的共同体にしか言語能力が発揮することができないのであろうか。アリストテレスのより詳しい2つ目の答えは、彼の著作「ニコマコス倫理学」で説明されている。この抜粋は課題の読み物には入れてある。彼はその中で政治について論じること、市民として生きること。統治し統治されること、そして権力を分配されること全てが美徳に必要不可欠だと説明している。

アリストテレスが定義する幸福は苦痛に対する喜びを最大にするものではない。幸福とは美徳に基づいた魂の活動である。さらに彼は政治を学ぶ全ての者は魂と学ぶ必要があると言う。魂と形作りことは、善き都市における法の目的の1つなのだ。

しかし、徳のある生活を暮らすために善きとして暮らす必要がるのか、家庭の中や哲学の授業、あるいは本から道徳的規範を学び、そういった原則や規則、または指針に従って生きるだけではダメなのだろうか。アリストテレスは美徳はそのように得るものではないと言う。

彼によれば、
美徳とは実践し、自分で行動することによってのみ得られるものだ。

実際にやってみることで始めて身に付く。本から学ぶべきではない。そういう点ではフルートの演奏に似ている。教則本を読んだだけでは、上手に演奏することはできない。練習したり、優れたフルート奏者の演奏を聞いてみたりしなければならない。他にも似たような例がある。料理だ。一流の料理人の中で、料理本だけで調理法を学んだ人はいない。料理は実践によってのみ学べる。お笑いももう一つの例と言えるだろう。コメディの原理を読んだだけで、一流のコメディアンになった人はいない。

これはなぜだろう。お笑い、料理、楽器の演奏に共通するものは何だろうか。本や授業からルールを理解するだけでは、なぜ習得できないのだろうか。これら3つの活動に共通するのは、コツをつかむ、ということだ。

では、料理、演奏、そしてお笑いのために必要なコツとは何だろうか、与えられた個別の状況の特徴を見抜くことだ。コメディアンや料理家や演奏家はそれぞれ与えられた個別の状況の特徴がどのよなものか把握しなければならない。しかし、それを把握する習慣を身につけることができる、規則や指針はどこにも存在しない。

美徳も同じだとアリストテレスは言う。

では、これがどう政治に結びつくのだろうか。我々がよく生きるためには美徳を得なければならない。そのための唯一の方法は、必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することである。これが政治の究極的な姿だ。

我々には市民的な美徳や対等な仲間たちと論じ合う能力が必要だ。こういったものは政治に参加せず、1人で生きていたら決して得られない。従って、我々は本質を発揮するために政治に参加しなければならない。そしてアテネの政治家やヘレクレスのように最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉を与えられる。つまり、地位や名誉の分配についての議論は目的論的な性格だけなく、名誉という側面も持っている。ヘリクレスのような人々を讃えることも、政治の目的の1つだからだ。

ヘリクレスに大きな発言力が与えられるのは、最善の結果を市民にもたらすような判断を下せる、という理由だけではない、もちろんそれも事実だし重要なことだ。

しかし、へリクレスのような人物がポリスで最高の地位や名誉、権力、そして影響力を持つべき理由がもう1つある。ふさわしい美徳を持つ者を選び、名誉を与えることも政治の重要な点の1つだからだ。この場合の美徳とは市民的な美徳や卓越性、実践的な知恵などをさす。この名誉と言う美徳はかかせない。

では、ここでアリストテレスの議論を実例によって現代社会の論争に当てはめて考えてみたいと思う。アリストテレスの2つの議論のつながりをみるためだ。2つの議論とは、正義と権利についての議論、そして社会的実践のテロスや目的についての議論だった。

これからみていく、ケーシー・マーティとゴルフカートの訴訟はそれだけなく、次の2つの問題も明らかにしてくれる。

1つの問題は社会的実践の目的、この例で言うと競技の目的だ。
もう1つは名誉に値するべき資質とは何か、という問題だ。

つまり、目的論と名誉に基づく分配的正義の関係である。
ケーシー・マーティは大変優れたゴルファーで一流選手たちと競う実力を持っていた。しかし1つ問題があった。彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くのに困難だった。こんなんどころか危険だった。

そこでマーティはプロゴルフツアーを運営するPGAに対してある申請をした。

プロトーナメントに参加する際、ゴルフカートの使用を認めて欲しいと言ったのだ、PGAは申請を却下した。そこで彼はアメリカ障害者法に基づいて、PGAを訴え、この訴訟は最高裁判所まで持ち込まれた。

そして、最高裁判所で争点となったのはマーティにはPGAから許可を得て、ツアー中にカートを使用する権利があるかどうか、という問題だった

意見を聞いてみよう。君たちの中で道徳的に考えて、ケーシー・マーティがゴルフカートを使う権利があるはずだと考える人は手をあげて欲しい。(会場半分以上手をあげる)では、トーナメントでカートを使う権利がないと言う人は?過半数はマーティの権利を認めているようだ。でも、反対派もかなりいるようだね。

まず、マーティの権利を認めない意見を聞いてみよう。なぜPGAはカートの使用を認めるべきではないと考えるのか?君!

学生A:ゴルフというスポーツが生まれた時から、コースを歩くことが競技の一環であり、今ではゴルフの本質的な要素となっています。だからゴルフコースを歩くことができなければ、プロとして競う上で必要な条件を満たしていないことだと思います。

なるほど、君の名前は?
学生A:トムです。
君はゴルフはするかい?
学生A:それほどじゃありませんが、少しは。

ゴルフをする人はいないかな?本物のゴルファーは?
学生A(トム):言ってくれますねぇ。
あぁ、いやいやいや、、、(会場笑い)悪気はないよ。

ゴルフ部の人はいないかな?君!では名前と意見を聞かせて欲しい。
学生B:マイケルです。僕はいつもカートに乗っているので、、たぶん、、(会場笑い)
あまり参考にならないかも。

だから、おそるおそる手をあげたのか。(会場笑い)
いいだろう。さっきトムは少なくとも、プロゴルファーにとってはコースを歩くことが試合の本質的な要素だと言っていたが、君は賛成する?
学生B(マイケル):はい。
自分はカートに乗るのに?それでも君はゴルファーか?(会場笑い)いやいや、冗談だ。理由を聞かせて欲しい。

学生B(マイケル):コースを歩くことは、大きな負担になって、試合にはるかに大変になります。
なるほど、それじゃあマイケルとトムはそのままでいてくれ。

今度はマーティにはカートを使う権利があるはずだという意見を聞いてみよう。マーティの主張を弁護できる人は?君!
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学生C;PGAはカートの使用を認めるべきだと思います。判決の中でもマーティが疲労を感じないわけではないと述べられています。カートが入れないところもあるので、1マイルくらい歩く必要があります。その1マイルでも、彼は他の選手より疲れや痛みを感じるのです。負担がすっかりなくなるわけではありません。

名前は?
学生C:リーバです。
リーバ、コースを歩くことはゴルフの本質的なものである、というトムの意見にはどう反論する?例えば、障害を持つ選手がNBAの試合に参加することができたらコースを走り回る必要がないのかな?

学生C(リーバ):それには2つの答えがあると思います。まず、歩くことがゴルフの本質だとは思えません。特に趣味でゴルフをする人はカートを使うし、、、。
マイケルのそうだね。
学生C(リーバ):それからカートを使える大会もあります。例えば、PGAのシニアの大会、大学の大会、どれもPGAと同様にレベルの高い大会です。歩くことがゴルフの重要な要素だなんて、かってな考え方だと思います。それにマーティは全く歩かないわけじゃない、座ったままでなく立ってゴルフをします。

ありがとう。他には?君!
学生D:競争の目的は1番、2番、3番と順位を決めることだと思います。これは世界的なツアーですから、最高峰のレベルです。問題は競争の目的です。競争の目的を考えれば、規則を変えるべきではありません。

競争の目的は歩くことも含まれている。
学生D:はい。
トムと同じ意見だ。名前は?
学生D:デイビットです。

最高裁はPGAがケーシー・マーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。その根拠はリーバが言った通り、歩くことが試合の本質ではないということだ。彼らはコースを歩くことはハンバーガーを食べて得るほどのカロリーしか消費しない。という証言を引用した。それが多数派の判事の意見だ。

だがスカリア判事は意義を唱えた。彼はデイビットを同じ意見だった。
スカリア曰く、ゴルフには目的などないし、ゴルフの本質的な目的を考えるのは法定の役割ではない。ゴルフの他の競技であり娯楽である。特定のスタイルにこだわりたければそうすればいい。人々がそれを楽しめるか、観戦を見にいくか、テレビ中継を見るかどうかは市場が判断することだ。

スカリアの反対意見は反アリストテレス的なものだ。
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ここで2つの点に着目して欲しい。まず我々はゴルフの本質的な性質や目的について話し合った。歩く事はゴルフの本質に含まれるだろうか。この議論にはもっと確信的な問題がある。歩く事のゴルフの一部とするかどうかは、ゴルフが本当にスポーツ競技なのか、という問いにつながる。ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームだ、これはバスケットボールや野球、アメリカンフットボールに近いだろうか、それよりもビリヤードに近いのか。(会場笑い)ボールは静止しているし、身体を鍛えなくても勝つことはできる。技術は必要だが、運動能力はとわれない。

一流のプロゴルファーの気持ちを考えてみよう。彼らにとってゴルフがビリヤードのような技術中心の競技ではなく、スポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。

もし、そうならば、この議論は目的やテロスだけでなく、名誉という問題をはらんでいることになる。ゴルフという競技はいったい、どのような美徳を評価し、讃えているのだろうか。アリストテレスが提示した2つの問いだ。続きは次回考えよう。


Lecture20「公平さと名誉について」

前回の講義で、足が不自由なマーティはPGAのゴルフツアーでゴルフカートを使用する権利があるか、という議論で、目的と名誉の2つの要素があることがわかった。マーティにとって名誉とは最高峰のPGAのゴルフツアーで勝利することであり、プロゴルファーにとっての名誉はゴルフがスポーツとして認められている上での名誉を気にしているのだ。スポーツとは見世物とは違う。その違いはスポーツは卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところだ。スポーツの美徳がわかる人こと理解のある本物のファンだ。ゴルフがスポーツかどうかを問うことは重要なのだ。それは名誉と関係があるからだ。アリストテレスの正義論は権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。正義とは適合させることだ。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。さて、アリストテレスの正義論は正しいのかどうかを考えよう。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。実は彼は彼の生きていた時代の制度として奴隷制を擁護していた。市民が政治を論じ合うには家事などから解放されなければならない。生活の面倒をみてくれる奴隷が必要だ。しかし適合の基準によれば、奴隷にふさわしい人がいなければならないということになる。これについてアリストテレスは、生まれつき奴隷に適した人間がいると主張している。だが、戦争で捉えられ、仕方なく奴隷になった者などは、奴隷の役割を与えるのは一種の強制であり、本人の本来の役割と適合していないので問題としている。ここでの要点は、アリストテレスの目的論法が奴隷を認めているから正しくないのではなく、むしろ目的論法自体は原理的には間違っていないのだ。なぜなら、彼の目的論法で奴隷制を考えた場合、何が間違っていたのかを、彼自身の言葉によって説明することができるからだ。では目的論法は問題となるのか。それは多元的な考えを持つ現代の社会において、目的や善について同意を得ることが難しい。だからこそ現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としているのだ。カントやロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けたのだ。アリストテレスのように正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されないではないか。自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないのだ。吟味すべき問題は2つある。1つ目は権利は善に優先するのかどうか。2つ目は自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。ただしロールズが言うような、自分の役割や目標や目的を選択できることが本当に自由なのか。次回考えよう。


Lecture20「公平さと名誉について」

前回はケーシー・マーティがPGAトーナメントにゴルフカートに乗る権利があるかどうかを話し合った。このような議論をすることが政治哲学を理解する上でどう重要なのかを思い出して欲しい。

我々はアリストテレスについて正義論について考えていた。彼の正義論のアプローチを目的論と呼ぶことがある。アリストテレスは権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。

アリストテレスの正義論を別の言葉で言い表すなら、正義とは適応性の問題だ。

つまり、美徳や卓越性を備えたものはふさわしい役割を与えらねなければならない、ということだ。では前回に引き続き、ゴルフカートを使いたいと言う、ケーシー・マーティについて議論しよう。

その後でアリストテレスをめぐるもう1つの重要な論点である。奴隷制の問題を考えていく。

君たちはケーシー・マーティの要求をどう考えるだろうか。競技やトーナメントの性質と目的を踏まえて便宜が計られるべきか、それとも却下されるべきか。ゴルフカートの使用を禁止することは差別だと言う人もいるだろう。反対に彼がカートを使うのは、他の選手に対して不公平だと言う人もいるだろう。他の選手は歩くことで体力を消耗してしまう。

前回はここで終わったねぇ。

公正の議論はどうだろうか。ではジェニー。

学生A(ジェニー):なぜPGAが全ての選手にカートの使用する許可を与えないのかわかりません。課題の読み物の中にもありましたが、PGA以外ではカートを禁止しないゴルフトーメントがたくさんあります。シニアトーナメントでは、むしろ使用が奨励されています。なぜPGAもそうしないのでしょうか。

全員にカートを使わせる?
学生A(ジェニー):あるいはカートを使うかどうか、全員に選択させるんです。保守的な人はカートに乗るよりも疲れることを承知した上でコースを歩く方を選べばいいと思います。

なるほど、今のジェニーの提案はどうだろう。カートにのることが有利な条件になるとすれば、公正をきするためにマーティンだけでなく、希望する者全員にカートを使わせる。この解決策で誰もが満足するだろうか。ジレンマは解消されたかな。ジェニーに対して意見がある人は?君!

学生B(ダー):先生が前回おっしゃったように、全員にカートの使用を認めてしまうと、大勢の人が抱くゴルフの精神が損なわれることになります。例え、全員に同じ条件を与えるためにも、ゴルフがスポーツ競技から離れてしまうと思います。かってに競技のルールを変えてしまうようなものです。例えば、水泳で足ヒレを使いたい人がいれば、全員が足ヒレを使えるようにするんでしょうか?

もし、誰もが自由に足ヒレを使えるとしたら、オリンピックの水泳競技はどうなるだろう。ジェニーの意見を聞いてみよう。ダーはオリンピック水泳競技で足ヒレを使用を認めるのと同じで、カートの使用はスポーツ競技の精神を損なうと言っている。ジェニーはどう答える?スポーツの精神を損なうだろうか。

学生A(ジェニー):ゴルフの情熱をそそぎ、実力のある選手がいるのに、競技の一面に参加させないのは、同じようにゴルフの精神を損なうことです。ゴルフで一番大事なのはクラブでボールを売ってホールに入れることです。私はゴルフはやらないんですけど、でも私に言わせればそれがゴルフの主旨です。PGA対ケーシー・マーティーの判決文を読んでいたら、同じことが書いてありました。コースを歩くことではなく、クラブを振ることがゴルフの本質的な要素だと。

つまり、ジェニーはダーとは違う意見でコースを歩くことはゴルフの本質ではないと言う。目的の話に戻ったね。

学生A(ダー):例えば、腕だけを使える人が参加できる車イスバスケットのような競技もありますが、それは別の種類のものだと思います。

結構だ。マイケル、どう思う?
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学生C(マイケル):バスケットボールができないなら車イスバスケットボールという選択肢があるように、PGAツアーとは、別の選択があると思います。PGAはゴルフ会の頂点だから、参加するためには資格条件を満たす必要があると思います。

なるほど、つまり障害者のためにオリンピックとしてパラリンピックがあるのだから、ケーシー・マーティーもパラリンピックのような大会に参加すれば良い。これが君の意見だね、マイケル。

学生C(マイケル):はい、歩くことはゴルフの一部です。コースを歩けないなら、PGAツアーに参加する資
格はありません。
なるほど、貴重な意見をありがとう。

今の議論はアリストテレスの正義論とどう結びつくだろうか。

ここでは歩くことがゴルフの本質的な要素かどうかが問われた。PGAはケーシー・マーティーが主張した権利を認めるべきかどうか、その答えを出すために、アリストテレスが示唆した方法をとらなければならない。

我々は歩く事がゴルフの試合に本質的なものかを議論し、決着をつけなければならないのだ。
これが教訓の1つだ。

この話には2つ目の教訓がある。
アリストテレス的な観点から考えた時、ここで争点となっているもの、それは名誉だ。

ケーシー・マーティンがカートの使用許可を求めたのは、最高峰の支配で勝利するという名誉のためだった。

課題の読み物にあるように、ジャック・ニクラスやトムカイトのような一流のプロゴルファーたちはこの裁判で証言を行い、マーティーのカート使用に反対した。おそらく彼らは全員にカートを使用させるというジェニー提案にも猛反発したはずだ。

ここでダーの主張に戻ろう。

これは非常に言いにくいことだが、プロゴルファーたちはゴルフが本当にスポーツとして認められているかどうか、とても気にしているのだ。(会場笑い)

誰もがカートに乗って移動する。もしくはそういった選択肢がある場合、人によってゴルフはスポーツ競技ではなく、ゲームだと考えるだろう。運動競技ではなく、技術を競うゲームと言うことだ。

私たちは目的論という観点から、ゴルフの意義を考えた。それと同時にゴルフにとって何が本質的な要素なのかを論じてきた。アリストテレスはこのような議論が必然的に名誉の配分という問題に通じると言う。ゴルフの目的は観客を楽しませることだけではない。アリストテレスの観点から言えれば、その点でスカリア判事は間違っている。ゴルフは人々に娯楽を与えて、幸せにするだけのものではない。ゴルフはスポーツ選手の卓越性を認め、讃え、そして名誉を与えるものだ。

少なくとも最高の名誉を勝ち取った者にはゴルフはスポーツだという見方を維持することが重要なのだ。

君たちの中にはスカリア判事と同じ意見だった者もいた。何がゴルフの本質なんて、あまりに難解だし、くだらない問題だと言っている。合衆国最高裁判所は判断できないし、する必要もない。これが彼の意見だ。

スカリア判事がこのように述べたのは、ゲームというものを定義するにあたって、確固たる反アリストテレス的立場をとっていたからだ。スカリア判事はこう言った

ゲームの本質は娯楽の他に目的がないことである。これがゲームと生産的な活動の違いである。(会場笑い)

彼がどんなスポーツファンか想像がつくだろう。彼はこうも言った。
ゲームのどんな任意のルールも本質的だと言えない。
そして、ゴルフに対するマーク・トウェインの抽象を引用した。

多くの者は歩くことがゴルフの特色だと考えている。マーク・トウェインは「それは散歩の楽しみに失礼な話だ」と言ってゴルフを批判した。(会場笑い)

しかし、ここでスカリア判事は重要な局面を見落としている。ゲームにまつわる権利や公平性の問題だ。

彼はゲーム、スポーツあるいは、運動競技をただの娯楽目的だと考えている。
つまり、功利主義的な活動だ。

一方でアリストテレス的見方では、スポーツとはただの娯楽とは捉えない。真のスポーツ、真の運動競技は正当な評価を必要とする。スポーツを観戦し、スポーツを愛し、実際にスポーツに参加する人ならわかるだろう。スポーツとはただの見世物とは違うといことだ。

スポーツと見世物との違い、それをスポーツが卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところにある。そういったスポーツの美徳がわかる人こそ、理解のある本物のファンだ。

彼らにとってのスポーツ観戦は単なる娯楽ではない。従って、どのような要素がスポーツにとって本質的か、という問いには意味がある。あってしかるべき議論なのだ。法定が判断すべきかどうかは重要ではない。

PGAの内部競技でも、この議論は重要な意味を持った。だからこそPGAはコースを歩き、疲労することが本質的なものだと強く主張したのだ。ゴルフというスポーツにとっては決してささいな要素ではないと。

この例は権利についての議論に、目的と名誉という2つの要素が存在することを明らかにしている。

アリストテレス曰く、正義について考える時にはこの2つの要素が不可欠だ。

次はアリストテレスの正義論がはたして正しいのかどうか、そして、説得力があるのかどうかを考えていきたい。

君たちの考えを聞きたいが、その前にまず重要な反論を1つ話しておこう。

アリストテレスは正義とは適合させることだと言った。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。ではそこに自由の余地はあるのだろうか?アリストテレスの目的論に基づいた正義論にはこのような疑問が生じる。

例えば、私にピッタリで役割や人生の目的を選ぶ権利はあるのだろうか。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。思い出して欲しい。ロールズは目的論よる正義の解釈を否定した。彼が言うには目的論によって正義を論じた場合、市民の平等な基本的事件が脅かされてしまう。

それでは考えてみよう。アリストテレスは正しいのか。目的論による正義の解釈は自由と相いれないものなのだろうか、我々が懸念すべき確固たる事実がある。

アリストテレスは奴隷制を擁護した。
彼が生きた時代のアテネで制度として確立していた奴隷制を擁護していたのだ。

では、どのように擁護したのか。

奴隷制が正義にかなうためには、2つの条件を満たさねばならない。
1つは必要性だ。アリストテレスは少なくとも彼の社会では奴隷制が必要だと言っている。

理由はこうだ。集会に出向き、政治を論じ合う市民たちは、手作業、単純作業、あるいは家事から解放されなければならない。だから彼らに変わって生活の面倒をみる人が必要だと言うわけだ。
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科学の力によってSFに出て来るような雑用ロボットが発明されない限り、辛い肉体労働や単純作業に従事する人間は存在し続ける。そのような雑用にとらわれず、善について考え、本質を発揮するべき人間がいるべきだからだ。市民が考え、議論し実践的な知恵を得ていくためには、奴隷制はポリスの生活に不可欠なものだ。

しかし、そこにはもう1つの条件がある。共同体が機能するためだけに奴隷制が存在してはならない。
なぜなら、適合の基準によれば、奴隷が存在するということは、奴隷となるのが正義にかない、それにふさわしい人がいなければならない、ということだからだ。

奴隷制が正義にかなるためには、この2つの条件がみたされ、それが正しくなければならないとアリストテレスも認めている。

彼はなげかわしい一節を残している。
生まれつき奴隷に適した人間がいることは事実である。肉体が魂と異なるのと同様に、このような人間は普通の人間とは異なる。統治されることを定められた人間なのだ。彼らの本質は奴隷となることで活かされる。他者の理性を認識することはできるが、それに預かり公使することはできない。我々にはそのことがわかっている。

アリストテレス自身も自らもこの主張がいかがわしく、無理があることに悟っていたに違いない。
なぜなら、彼は反対派の言い分にも一理あると認めているからだ。

反対派の指摘はこうだ。アテネにいる奴隷の多くは生まれながらの奴隷や奴隷にふさわしいものではない。彼らは戦争に負けて捉えられ、仕方なく奴隷となったのだ。

だからアリストテレスも古代アテネに存在していた奴隷制では、必ずしもふさわしい者が奴隷になったことを認めていた。奴隷の中には運悪く戦争で捉えられた者もいたからである。

アリストテレス自身の考えでは、例え市民のために奴隷制が必要であっても、ふさわしくない者が奴隷になることは正義に反していた。不適合が生じているからだ。

奴隷にふさわしくないものに、その役割を与えるのは一種の強制だ。ただし強制そのものが問題であるのではない。自然にかなわないことを強制することが問題なのだ。誰かを強制的に何らかの役割につけることは、それが本来の彼の役割ではなく、彼に適していない事を示している。

アリストテレスは奴隷制を擁護した。しかし、彼の目的論の議論や、人と役割の適合が正義だとする、考え方は
原理的には間違っていない。なぜなら、アリストテレスが彼の理論が奴隷制に応用した時、何が間違っていたかを、彼自身の言葉によって説明することが可能だからだ。

では、自由をめぐってアリストテレスの理論にさらに切り込んでみよう。

その前に君たちの意見を聞かせて欲しい。適合を正義とするアリストテレスの理論、正義の目的論的な論法。それから権利や分配的正義における名誉という概念をどう思うだろうか。

これまで、フルート、政治、ゴルフの例を考えてきたね。
アリストテレスに関して不明な点はないかな?あるいは彼の理論全般について反論がある人!君!

学生D:僕はアリストテレスが個人と役割を一致している点に反対します。例えば、海賊のように歩き、海賊のように話していたら、海賊になるべきだ。アリストテレスはそう主張しています。でも、彼の考えは不自然だし矛盾を感じます。海賊のように歩いたり、話したりする人がいたら、その人は投資銀行家になるべきではない。本質的に向いていない、ということになってしまいます。義足をつけ、眼帯をして、不機嫌そうな態度なら、海賊船に乗り込み、生みに乗り出すことになってしまいます。だから、、、

あぁ、もしかしたら、海賊と投資銀行家では、それほど違いがないのかもしれないよ(会場笑い、拍手)
だが、言いたいことはわかった。君!どうぞ!

学生E:個人の権利が無視されているように感じます。例えば、私が世の中で1番ある仕事に向いていて、誰よりも効率良く仕事ができるかもしれない。その場合、例え私がその仕事につくのが嫌でも、他の仕事につくことを否定されているように思います。

君の名前は?
学生F:メアリーケイトです。

もう少し意見を聞いてみよう。君!

学生G:さきほどのゴルフカートに関する議論がアリストテレスの目的論的論法に対する反論を投げかけていたと思います。君はマイケルだったよねぇ。マイケルは歩くことがゴルフの本質だと言いました。でも、僕自信は歩くことはゴルフの固有のものではないと思う。この論争にどれだけ長い時間を費やそうとも、僕らの意見は一致することはないでしょう。目的論的論法という枠組みの中では、僕たちが意見に至ることはできないような気がします。

君の名前は?
学生H:パトリックです。
では、アリストテレスに対する一連の反論について考えてみよう。まずパトリックの反論からだ。

これは重要な反論だ。我々は歩くことがゴルフの本質かどうか議論したが、そのような一見ささいな話においても、同意に達することができなかった。もっと重要な問題、例えば、政治的コミュニティの根本的な目的を論じるとしたら、意見が一致するはずがない。

市民の共同生活における、目的や善について、同意を得ることができないのであれば、我々は目的や善という概念に基づいて、正義や権利を考えることもできないだろう。これは重要な反論だ。

だから、現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としている。
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そして、結論としては、正義や権利や憲法は特定の善の考え方や政治的生活の目的などを前提にすべきではない。そうではなく、権利の枠組みを提供し、人々に自分たちの善や、人生の目的を自由に選ばせるという発想にしているのだ。一方、メアリーケイトが言ったのは、ある仕事にふさわしい人が、もっと高いところを目指したい。別の生き方を選びたいと思ったらどうなるだろうか、という問題だった。

ここで再び自由の問題が出て来る。

もし、私たちが自分たちの本質のふさわしい役割に基づいて、生き方を決められてしまうなら、少なくとも私たちがその役割を選ぶ自由があるべきではないか。どの役割がふさわしいか、自分たちで決めるべきではないか。

アリストテレスとカントやロールズの論争を思い出してみて欲しい。

カントとロールズはパトリックと同じ考えだった。多元的な社会においては、善き生の本質において同意するこができない。だから、この問いに対する答えに基づいて、正義を考えるべきではない。カントとロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けた。

ロールズ的、カント的なリベラル派によれば、目的論の論争で重要なのは次の点だ。
正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されない。そして、自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではない、とういことになる。

アリストテレスかもしくはカントとロールズか、
2つの大きな伝統をどちらが正しいのか判断するために吟味すべき問題がある。

1つは権利は善に優先するのかどうか。
そしてもう1つは自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。

自由とは、自分の役割や目標、目的を選択できることなのだろうか、それとも、自分の本質を見つけようとすることなのだろうか。

次回これらの問題をとりあげよう。