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JUSTICE 第9回「差別することで逆に公平さは生み出されるか」「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」

ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として1996年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は1人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture17
ARGUING AFFIRMATIVE ACTION
Lecture18
WHERE OUR LOYALTY LIES 


時間:55:11



Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」

前回は種類が異なる2つの主張、道徳的な対価と正当な期待に対する資格との間で、ロールズが引いた区別について議論した。

ロールズは分配の正義を道徳的な対価への問題へと考えたり、その人間の美徳に従って報いるためのものだと考えたりすることは、間違いだ、と論じた。

今回は道徳的な対価の問題とそれが分配な正義とどう関連するのか考えてみよう。収入や富との関連ではなく、就職の決定や入試の際の合否判定との関連を考えていきたい。

そのために、アファーマティブ・アクション、積極的差別是正措置を取り上げてみたいと思う。

みんな、シェリル・ホップウッドの訴訟を読んだね。彼女はテキサス大学のロースクールに入学願書を出した。シェリル・ホップウッドは裕福な家庭の出身ではなかったため、働きながら高校を卒業。コミュニティカレッジを経て、カリフォルニア州立大学サクラメント校で学び、成績の平均点は5点満点中3.8という優秀なものだった。その後、テキサスに 引越し、ロースクールへの適正試験を受けて高得点を取り、テキサス大学ロースクールに願書を出した。
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結果は不合格だった。
彼女が不合格となった当時、テキサス大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクションを採用しており、合否を決定する際、人種や民族的バックグラウンドを考慮に入れていた。
テキサス大学の主張をこうだった。テキサスの人口の4割をアフリカ系、メキシコ系のアメリカ人が占めている。ロースクールとしては学生の多様性は重要なので、学業成績やテストの得点だけで選抜するのではなく、人種や民族的バックグランドを含め、クラスの中に様々な学生がいるように考慮している。

ホップウッドが訴えたのは、その方針の結果、自分よりも学業成績やテストの点が劣る出願者がテキサス大学ロースクールに認められ、彼女自身は不合格がなったことだった。彼女は自分が白人であるという理由だけで不合格になったと主張した。もし、自分が白人でなくマイノリティであったなら、あの成績なら合格していただろうと、そして実際、裁判で入学審査のデータが明らかにされたところ、その年のアフリカ系アメリカ人、メキシコ系アメリカ人の出願者で、学業成績とテストの点が彼女と同じだったものは合格していたことが判明した。

その訴訟は連邦裁判所に持ち込まれた。法律的なことはさておき、正義と道徳という観点から考えていこう。これは公正か不公正か。シェリル・ホップウッドには告訴する権利があるのだろうか。ロースクールの方針により、彼女の権利は侵害されたのだろうか。

ロースクールを支持し、合否判定の際に人種や民族を考慮するのは正しい、と思う人はどれくらいいる?ホップウッドを支持し、彼女の権利は侵害されたと思う人は?ちょうど半分に意見が割れたね。じゃあ、ホップウッドを弁護する人の意見から聞こうか。君!

学生A:この場合は恣意的な要素に根拠が置かれています。白人であってマイノリティではないということについて、彼女には何もできず、努力すれば結果が出せる結果が出せるテストとは違います。自分の人種を変えることはできないのですから。

結構、名前は?
学生A:ブリーです。
ブリー、ちょっと立っていてくれ。ブリーに対して何か意見がある人は?君!

学生B:教育制度には格差が存在しています。私が育ったニューヨークでは多くの場合、マイノリティが通う学校は、白人の学校に比べて、予算も少なく設備も整っていないので、必然的にマイノリティと白人の間では格差が生じます。マイノリティがいい学校に行ったとしても、いい成績はとれないでしょう。なぜなら、それまでの教育環境が、、、

あぁ、話の途中だが、、君の名前は?
学生B:アニーシャです。
アニーシャ、君が言うのは、マイノリティが子供時代に通った学校は、裕福な家庭の子が通った学校と同等の教育の機会を提供しない場合がある、ということだね。
学生B(アニーシャ):はい。
だから、彼らのテストで採った点は潜在能力を正確には示していないかもしれない、というわけだ。
学生B(アニーシャ):もっと予算のある学校でいい教育を受けていれば、才能は開花していたかもしれません。
アニーシャが言うのは、大学が学問という面からみて、もっとも延びる見込みのある者を選ぶのは当然だが、学業成績や入試の点を審査する際、背景にある教育的不利な条件を考慮に入れて、合否をすべきだ、といういことだ。これは、アマーマティブ・アクションを是とする論拠の1つだ。アニーシャの言ったとおり、それまでの不平等な教育環境を是正しなければならない、というものだ。

別の議論もある。これと対立する原理があるかどうかをみるために、2人の出願者がいると仮定しよう。2人はテストでも成績でも等しく優秀で、どちらも一流の学校に通っていたとしよう。2人の出願者のうち、どちらか1人を選ばなければならない時、この2人の出願者の場合は不平等な教育関係を是正する必要がないわけだが、どんな大学でも、ハーバードでもいいが是正する必要がなくとも、それでも学生構成における人種や民族は多様性があった方がいい、と考えるのは不公正だろうか、この場合はどう思う?ブリー?

学生A(ブリー):落とされる方はショックですから、このことが正当化されるケースはただ1つ、人種や民族以外の全てのことを検討し、その人の才能や出身やどんな人であるかについて、恣意的な要素を除いて検討した結果が全て同じたる場合だけだと思います。

恣意的な要素を除くと言ったね、だが、君はさっき、人種や民族は出願者にはどうしてもない恣意的な要素だと言った。本人にはどうしようもない、恣意的な要素に基づいて合否は判定してはならない、ということだね。
学生A(ブリー):そうです。
よろしい、他に意見のある人!2人ともありがとう。他に意見のある人は?君!

学生C:アファーマティブ・アクションには一時的に賛成です。理由は2つ。
1つは大学教育の目的は学生を教育することだからです。異なる人種、異なるバックグラウンドを持つ学生は様々な方法で教育に貢献します。
2つ目の理由は、歴史を振り返り、奴隷制を考えた時に、平等な背景が存在するとは言えないからです。アファーマティブ・アクションはある種の償いであり、得にアフリカ系アメリカ人に対して行われた過ちを緩和するための、一時的な解決策だと思います。

名前は?
学生C:デイビットです。
デイビット、君の意見はアファーマティブ・アクションは少なくとも現時点では正当化されるというわけだ。奴隷制や人種分離など、過去を償いための方法として。
学生C(デイビット):はい。
この意見に反論したい人は?アファーマティブ・アクションに対する批判を聞きたい、君!

学生D:過去に起こったことは、今起こっていることと関係ないと思います。人種差別は常に間違っています。差別されるのがどの人種であれ間違いです。私たちの祖先が何かをしたからと言って、現代に生きている私たちに影響を及ぼすべきではないと思います。

よろしい、君の名前は?
学生D:ケイトです。
ケイトに反論のある人は?君!

学生E:反論といよりは、コメントですが。
名前は?
学生E:モンソーです。奴隷制度では過去の差別のせいで今でもアフリカ系アメリカ人の多くが貧困に苦しみ、社会進出の機会も白人より劣ります。つまり、200年前の奴隷制度、人種分離が現在までに続く人種に基づく不正を生んだわけです。

ケイト!
ケイト:もちろん格差はあると思います。でも格差を是正するには、結果を人為的に操作をするのではなく、問題そのものを解決すべきです。育児や教育の格差解消のため、適切なプログラムを実施したり、低所得者地域の学校に資金を援助すべきであって、結果を操作して実際は平等ではないのに、平等にみえる状況をつくり出すべきではないと思います。
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君!
学生F:白人だって、400年以上、自分たちを優遇するアファーマティブ・アクションを行ってきているわけではありませんか。円弧主義などのかたちで、ですから400年間、黒人に対して行われてきた、不正義と是正することには何ら間違いはありません。(会場拍手)

君の名前は?
学生G:ハナです。
誰かハナに意見のある人は?議論の展開のために、今のハナの主張に付け加えると、レガシー・アドミッションについても触れてみてもよかったねぇ。

学生G(ハナ):はい、レガシー・アドミッションには反対すべきだと言おうとしているところでした。ハーバード大学の歴史では黒人よりも白人の法がレガシーの持つ学生が多いですから。

レガシー・アドミッションとは?
学生G(ハナ):それは、自分が入りたい大学に親も通っていたという恣意的な特権を持つ出願者は入学において、有利に扱われるというものです。
結構、ハナへの反論は?バルコニー席にいる、君!

学生H:まず、アファーマティブ・アクションが過去の正義へのつぐないなら、なぜアメリカにおいて歴史的には差別されていないマイノリティにまで、この制度が適用されるのでしょうか。また、アファーマティブ・アクションは人種にこだわらない社会をつくるという目標を達成させるのではなく、人種間の問題をかえって長引かせているように思えます。

名前は?
学生H:ダニエルです。

学生G(ハナ):その意見には賛成できません。多様性を促進し異なるバックグラウンドを持つ人々と交流させることで、全ての学生、特に白人地域で育った白人学生への教育になります。白人学生を白人学生の環境に置くことは、白人学生にとっても不利益です。

学生H(ダニエル):多様性には様々なものがあるのに、なぜ人種だけを取り上げるんですか?それが大学や社会での人種間の問題を長引かせていると思います。
ハナ!

学生G(ハナ):有利な扱いを受けているアフリカ系アメリカ人たちは特別な貢献をもたらします。なぜなら彼らは独自の視点があるからで、それは異なる宗教や社会、経済的バックグラウンドを持つ人たちと同様です。あなたが言う通り、様々な多様性がありますが、人種の多様性が除外される理由はありません。

君!
学生I:この国で人種差別は違法です。アフリカ系アメリカ人の指導者だったマーティン・ルーサーキングも肌の色ではなく、自分の人柄、実力、業績で判断されたいと言っています。人種だけに基づいて判断することは不公正だと思います。不利なバックグラウンドを考慮して是正しようとすることはいいと思いますが、白人でも恵まれない人はいます。白人でも黒人でも関係なく、、。

名前は?
学生I:テッドです。
テッド、ホップウッドを考えてみよう。人種を考慮するのが不公正なら、民族や宗教を考慮するのも不公正だと言うことになるよね。
学生I(テッド):はい。

では、君の意見では、成績とテスト結果で合否判定される権利があると思うかな?
学生I(テッド):いいえ、それだけではないです。大学は多様性を促進する必要がある思います。

多様性の促進には賛成なのか?
学生I(テッド):自分ではどうしようもない要素のみに基づいて人を差別しなくても、多様性を促進する方法はあります。

よろしい、つまり問題はホップウッドには自分が白人であるということは変えることができない、という点だ。これが彼女に対する不公正さの確信だ。ブリーもさっき指摘していたね、自分ではどうすることもできない要素に基づいて、合否判定が行われるのは根本的に不公正だと、どう思う。

学生J:自分ではどうすることもできないことはたくさんありますし、実力やテストの結果でで選抜されるにせよ、学業成績の大部分も育った家庭環境に関係しています。両親が学問好きならば、子供も学問を好きになり、良い成績をとる確立は高くなりますが、子供に親は選べないし、、。

よろしい、素晴らしい議論だ。名前は?
学生J:ダーです。

テッド、君は自分の家族から得られるアドバンテージには反対かな?レガシーアドミッションをどう思う?
学生I(テッド):レガシーアドミッションについては優遇すべきではないと思います。たしかにレガシーアドミッションは別の形の多様性であるとはいえ、先祖が数世代に渡って、ハーバードに入学してきた家の人を少しくらい入学させることも少し重要だと言えるかもしれません。しかし、人種と同様、有利な要素になるべきではないと思います。多様性を促進する1つの要素であるべきだと思います。

考慮すべきなのか。卒業生だという地位を考慮すべきか?

テッド:はい、すべきだと思います。
よろしい、今までの議論から少し離れて、、、発言してくれたみんな、どうもありがとう。

注意深い耳を傾けた人は人種や民族を合否判定の際の要素に考慮することに賛成する議論から、3つの論拠が浮かび上がったことに気付いたと思う。

1つはそれまでの教育環境から不利だったことから生じる是正、ということだ。
これはアニーシャの主張で、是正の議論と呼ぶことにしよう。通った学校、与えられた教育の機会などの教育的背景格差を是正する、というものだ。これが1つ目。

とはいえ、この主張は合否判定において考慮されるべきは学問的な有望さ、学習面での潜在だけだ、という考え方と整合する。ただ、学問的な有望さ、学習面での潜在能力を真に評価するためには学業成績とテストの点だけをみるのは足りない、ということだ。これが1つ目の議論。

2つ目の議論は、ある特定の出願者の場合は、たとえ教育的に不利な条件を是正する必要がなくても、アファーマティブ・アクションは正当化されるといものだ。つまり、過去の過ち、歴史上の不正義に対して正当化される、という議論である。過去の過ちをつぐなうためのものだ、というつぐないの議論だ。

3つ目はハナをはじめとする何人かファーマティブ・アクションを支持した議論で、その理由は多様性である。多様性の議論は償いの議論とは異なる。なぜなら、社会における、大学の目的や使命に訴えかけるものだからだ。

多様性の議論には2つの側面がある。1つはみんなの教育的経験のために、多様な学生構成を持つことは重要なことだ、ということだ。これはハナも指摘した点だ。より広い社会について言及する者もいる。ホップウッド訴訟においてテキサス大学はこう主張した。我々はテキサス州のそして、国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員を育成しなければならない。

このように多様性の議論には2つの側面があるが、どちらも社会的な目的、社会的な使命、あるいはその大学が行使する公共の利益。

これらの議論には反論もあった。償いの議論に対する最も強力な反論は次のようなものだ。

過去に犯されたひどい不正義を償うため、現代を生きるシェリルホップウッドに犠牲を強いることは公正なだろうか、しかも彼女自身には、その過去の不正義とは何の関係もないのに。償えと要求することは公正なことなのだろうか。これは償いの議論に対する重要な反論だ。この反論に答えるためには時間を超えた集団の権利や集合的責任といったものが、はたして存在するのかどうかを検討しなければならない。

明らかになったこの問題点は脇に置いておき、多様性の議論に戻ろう。

多様性の議論においては、過去の過ちに対する集合的責任を気にする必要はない。なぜなら、ハナたちが指摘したみたいに、もし人種的、民族的に多様な学生がいれば、公共の利益がもたらされ、促進されるからだ。多様性によって皆がその恩恵を受ける。この論拠は実際にアファーマティブ・アクションが争点となった1978年のバッキ訴訟で、ハーバードがあげた論拠であり、最高裁に法定助言者意見書として提出された。

この訴訟においては、当初、浮動票であったパウエル判事はハーバード大学の意見書を引用し、彼はアファーマティブ・アクション支持にまわった。彼は憲法上認められる論拠としてハーバードの意見書を引用した。

ハーバードの意見書の論拠はこうだ。

我々は多様性を重んじる。学術的な優秀さが、ハーバード大学、入学審査の際の唯一の基準であったことは、今までに1度もない。

15年前、多様性とはカリフォルニアやニューヨークやマセチューセッツ出身の学生を意味した。都会人と農場の少年、バイオリニスト、画家、フットボール選手、生物学者、歴史家、古典学者を意味した。

当時と現在の唯一の違いは多様性を考慮するこの長いリストに人種と民族という項目を加えたことだ。優秀な成績を期待できる多数の志願者を審査する際、人種はプラスに働く。それはアイオワ出身であることや、優秀なフットボール選手やピアニストであることと同じだ。アイダホの農場の少年はボストン出身者にはでできない何かを大学にもたらす、同様に黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらす。

全学生の経験的教育の質はそれぞれの学生に固有のバックグラウンドの違いやものの見方の違うところも大きい。これがハーバードの議論だ。

この多様性の議論に説得力があるだろうか。
説得力を持つためには、非常に強力な反論に答えなければならない。
この講義で出された、ケントとブリーの反論に対してだ。

君たちが功利主義者ではない限り、個人の権利は侵害されてはならない、と信じているはずだ。

そうすると問題は、ここで個人の権利は侵害されるのかということになる。シェリルホップウッドの権利は侵害、あるいは利用されたのか。つまり、テキサス大学ロースクールの掲げる公共の利益や社会的使命のために入学を拒否されたのだろうか、彼女に権利はあるのだろうか。
私たちは業績、功績、努力によって評価されるのに値するのではないだろうか、それなのに、それは危機に瀕してる権利なのではないか。

私たちはすでにこの議論に対する答えを知っている。彼女に権利はない。

彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。値する者は1人もいないのだ。

このことは対価対視角の論点に私たちを引き戻す。
ホップウッドには個人的な権利はない。彼女は自分が重要だと考える、どのような基準に従ってもその中には努力や功績のみを考慮するという基準を含まれるが、入学を入学許可されるには値しない。

なぜ値しないか。この議論が暗示しているものは、ロールズが分配の正義に根拠として、道徳的対価を否定したのとどこか似ている。

ハーバードがひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の資格を持つことになるのだ。

だが、この議論によれば、誰もその存在自体で入学の値する、ということはないのだ。ハーバードはまずその使命を定め、入学審査基準を決めるが、それは出願者がたまたま豊かに備えている資質を評価する、という方法で基準を決める。ピアノの才能であれ、優れたフットボール選手であれ、アイオワ出身であれ、マイノリティグループの出身であれ。

このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論がなぜ私たちを権利の問題に引き戻すか、そしてさらには道徳的対価が分配の正義の基礎となるかどうか、という問題に引き戻すか、理解してくれたと思う。このことについてじっくり考えてみて欲しい。次回もこの議論を続けよう。


Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

アファーマティブ・アクションの人種差別について、過去にはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人を差別した選別があった。それには彼らが他の人間より劣っているとする決めつけが内在しており、悪意があったが、今回の人種差別は多様性を促進するという目的なため悪意がないので良いという意見がある。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や公共の利益の名の下に展開させる議論だ。公共の利益や福祉を促進する過程で個人の権利が侵害されてしまっても、公共の利益や福祉が優先されるべきなのだろうか。実はロールズは単純にはそう信じてはいない。ロールズは分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。おそらく私たちも仕事の地位や、大学入試の合否も、道徳的対価と関係ない方法で行われることを認めてしまってはいないだろうか。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。しか平等主義的ではないリバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家も、分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではないとしている。つまり、分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等主義的な理由だけではありえないということだ。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らに共通している前提は何かを知るために、古代の哲学者アリストテレスを考える。彼は正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。アリストテレスの分配の正義論は目的から逆算して考える「目的論的論法」だ。例えば、誰が最高のフルートを手に入れるべきかという問いに、アリストテレスは一番上手なフルート奏者だと答える。フルートを持つにはふさわしい美徳を持つことなのだ。フルートに最高額をつける者や貴族や身体の美しい者やくじ引きなどという理由でフルートを分配することは間違っている。なぜか。それは良い演奏がなされることが「フルートの目的」だからだ。重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということだ。たしかに目的から論理を組み立てるという思考法は少し奇妙だ。その背景には古代ギリシャでは自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的を問い、読み取るということを大事にしていた。現代科学に慣れた我々からすれば目的論的論法を考えることは難しい。むしろこのような世界観から抜け出すよう子供たちを教育しなければならない。自然を理解するには目的論的な説明から脱却し科学的に考える必要がある。しかし、正義を目的から論じることは、我々がさきほど考えた、アファーマティブ・アクションの話の「大学教育にふさわしい目的とは何か」という問いに置き換えてみることもできるではないか。次回もアリストテレスの目的論的論法を考える。


Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

前回の講義は、入試審査の際、人種を合否判定の要素の1つとして考慮する、アファーマティブ・アクションの是非の論拠を検討して終わった。議論の過程で、3つの考え方がアファーマティブ・アクションを支持する論拠として、浮かび上がってきた。

1つ目は、人種や民族的バック・グラウンドを考慮して、テストの点や学業成績が、受験者の持つ学力の潜在能力を正確に表すものになるように、是正していくことが必要だ、という考え方だ。

2つ目は、償いの論拠と呼ぶべきもので、過去の過ちや不正義を正す、と言う考え方だ。

そして3つ目が、多様性の根拠だ。
シェリル・ホップウッドが1990年代に起こした、テキサス大学ロースクールのアファーマティブ・アクション・プログラムに対する訴訟は、連邦裁判所に持ち込まれたが、そのときテキサス大学が示したのは、別の種類の多様性の論拠だった。

テキサス大学ロースクールは、より広い社会的な目的、社会的使命を担っており、それは、法曹界や政界において、裁判官や弁護士や議員の中において、指導者を輩出することである。そのため、テキサス州のバックグラウンド、歴史や人種、民族的人口構成を反映する指導者層を育てることが重要である。それが、大学のより広い社会的使命を果たすためにも重要なのだ。

これが、テキサス大学ロースクールの主張だった。

次に私たちは、多様性の論拠に対する反論について考えた。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や、公共の利益の名の下に展開させる議論だ。
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公共の利益、ないし一般的福祉を促進する過程で、個人の権利が侵害されてしまっても、それでもやはり、公共の利益、ないし一般的福祉は優先されるべきだと、ロールズは単純には信じていない。

それが、前回の講義の最後に投げかけられた多様性の論拠に対する疑問である。

この場合、どのような個人的権利が問題となるのだろうか。
自分の力が及ぶ範囲の権利。それを考えなければいけないのだ。

シェリル・ホップウッドがあんに主張したのはこの点ではないだろうか。
自分が白人であるという事実は変えようがない。なぜロースクールへの入学の可能性が、自分では変えようのない要素に左右されなければいけないのか。

前回この議論の中で、ハーバードはその使命を好きなように決める権利がある、という意見もあった。ハーバードは私立の教育機関だからだ。ハーバードがひとたびその社会的使命を定めたら、学生に求める資質が何かは明らかになる。ゆえに何の権利も侵害されない。

さてこの主張は果たして正しいか。この主張への反論を聞きたい。
その後、他の意見も聞いてみたい。君、名前は?

学生A:ダーです。
ダー、前回も発言してくれたね。じゃあ君の反論を聞こう。

学生A(ダー):論点は2つあります。1つは私的な機関はその使命を自由に決めて良いという点ですが、それが必ずしも正しく決められるとは限りません。例えば、私は自分の使命を世界中のお金を集めること、と定めてもよいでしょうが、それが正しい使命でしょうか。だから、私立の機関だからといって、なんでも好きに決めて良いとは言えません。アファーマティブ・アクションの場合、他にも関連する要素がたくさんあるので、人種をその1つに含めても良いのではないでしょうか。

ああぁ、まずは君の1つ目の論点について考えて行こう。
ダーが今言ってくれた反論は、大学は自分の社会的使命を好きなように定めていいのか、そしてそれに従って入試の合否を判定していいのか、ということだ。

テキサス大学ロースクールはどうだろうか。現在ではなく1950年代のことだ。1950年代にもテキサス大学ロースクールへの訴訟が最高裁に持ち込まれたことがあった。入試が人種差別的で、白人しか入学を許可していなかったのだ。50年代の訴訟の時も、テキサス大学ロースクールは、大学の社会的使命を引き合いに出した。ロースクールとしての我々の使命は、テキサスの法曹界や法律事務所のために弁護士を要請することだ。アフリカ系アメリカ人を雇うテキサスの法律事務所はない。ゆえに、我々の使命を全うするためにも白人にしか入学を認めない。

1930年代のハーバードもユダヤ人学生の入学を制限していた。30年代の学長だったローエルは、個人的にはユダヤ人に対して何ら反感もないと述べた。しかし彼は、ハーバードの社会的使命を引き合いに出し、知識人の育成だけではなく、ウォール街の株式仲買人や大統領や上院議員の育成もまた、ハーバードの使命であるが、そういう職種に進むユダヤ人はほとんどいないのが現状だ、と述べた。

そこで君たちに問題だ。
現代の大学が、多様性の論拠として掲げる大学の使命と、1950年代のテキサス大学や、30年代のハーバード大学が掲げた、大学の社会的使命の間に、原理的な違いはあるのだろうか。原理上違いはあるのだろうか。誰か意見は?ハナ!
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学生B(ハナ):原理上の違いはあると思います。それは、含むということと、除外することの違いです。大学が宗教や人種を理由に出願者を除外するのは道徳的に間違っています。これは恣意的な要素に基づく拒絶です。今のハーバードは、多様性を促進することで、過去に除外されていた集団も含めようとしています。

よろしい。ちょっと待っていて。誰か、反論のある人は?君!。

学生C:反論と言うよりもハナを支持したいのですが、、。
よろしい。
学生C:私が考えるもう1つの違いは、過去の人種差別は悪意が動機だった、という点です。黒人やユダヤ人の入学を許可しないのは、彼らが劣った人々や集団だと考えたからではないかと思うのです。

現在は悪意の要素はない、ということだね?名前は?
学生C:スティービーです。

スティービーが言っているのは、過去の人種的分離主義者や、人種差別主義者、反ユダヤ的な制限や禁止には、ある種の悪意、つまりアフリカ系アメリカ人やユダヤ人は他の人間より劣っているとする決めつけが内在していた。
しかし、現在のアファーマティブ・アクションには、そういう決めつけはない、ということだ。
これはつまり、人間を本質的に劣っているものと決めつけない。スティービー流に言えば、悪意を持って決めつけないものであるならば、選抜の方針が人間をその機関の社会的使命に沿って貴重な存在として扱う限りオーケーだ、ということだ。

ここで質問だ。
仕事上の地位や、大学入試の合否を巡って競争する時、私たちは皆、判断されるのではなく、利用されること。しかも道徳的対価と関係のないやり方で利用されることを、認めてしまってはいないだろうか。

アファーマティブ・アクションについての議論を始めたのは、分配の正義は道徳的対価と結びつけられるべきか否か、について考えていた時だったことを思い出して欲しい。

その課題に取り組むきっかけはロールズだった。
ロールズは分配の正義、それが階級や収入や財産における地位であれ、立場であれ、分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。仮にそれがハーバードの入学審査方針の道徳的根拠だったとしよう。この点についてハーバードは、不合格者と合格者にどのような手紙を書くだろうか。それは次のようなものになるだろう。

不合格となった出願者様へ
残念ながらあなたは不合格ですが、あなたに落ち度はありません。社会が、たまたまあなたの資質を必要としていなかったのです。(会場笑い)あなたの代わりに合格した人も、その人自身が合格に値するというわけではなく、合格の決めてとなった要素を持っていたに過ぎず、賞賛に値するというわけではありません。我々は社会的な目的のためにそれらの要素と皆さんを利用するだけなのです。次回の幸運をお祈りします。

君たちは合格した時、手紙を受け取っただろうが、その手紙は次のように書いてあるべきだった。

合格となった出願者様へ
喜んであなたの合格をお知らせします。あなたにとって幸運なことに、あなたが社会が、今必要とする資質を有しているので、社会の便宜のためにその資質を利用させていただきます。あなたは、あなたが合格に繋がる資質を持っていたから賞賛に値するのではなく、宝くじの当選者が祝福されるのと同じ意味合いで祝福されるに過ぎません。我々の申し出を受け入れてくださるのであれば、このように利用されることに付随する便益を得る資格が与えられます。それでは入学式でお会いしましょう。(会場笑い)

これらの手紙は、少々おかしい。

この文面が入学審査方針の底に流れている理論や哲学を反映しているものだとしたら、道徳的におかしいところがある。このことから提起される問いがある。それは私たちを政治哲学の重大な問題に引き戻す問いである。

分配の正義の問題を、道徳的対価の問題、美徳の問題から切り離すことは可能なのだろうか。
そして、それは望ましいことなのだろうか。

この論点は、現代の政治哲学を古典政治思想から多くの点で区別している。

道徳的対価を脇におけるかどうか、という問いにおいて問題となるのは何だろう。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。道徳的対価を考慮しなければ、平等主義的な考えを実践するためのより広い視野が得られる。

無知のベール、2つの原理、最も恵まれない人々への援助、再分配などである。

しかし、興味深いことに今まで取り上げてきた思想家をみてみると、正義を道徳的対価から切り離したいと考える理由は、平等への関心とは別のところへあるようだ。

リバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家たち。そして平等主義の立場を取る権利中心の理論家たち。その中にはロールズやこの論点に関してはカントも含まれるが、彼らは分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではない。という点では意見が一致している。なぜ全員がそう考えるのであろうか。

それは平等主義的な理由だけではありえない。全員が平等主義的ではないからだ。
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ここで我々は大きな哲学的問題に突き当たる。
なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。
彼らが問題だと考えていることを理解するために、また、彼らに共通している前提は何かを知るために、1人の思想家、哲学者をとりあげてみよう。

この思想家は彼らとは違い、正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。
この思想家とはアリストテレスだ。

正義についてのアリストテレスの考え方は、直感的に非常に強力である。ある意味では変わった考え方でもある。その力、説得力、変わっている点を引き出し、正義、及び、正義が道徳的対価と美徳と結びつけられるべきかどうかについての議論において、何か問題なのかを明らかにしていきたい。

それでは、アリストテレスは正義をどんなものだと考えているのか。アリストテレスにとって正義とは人々に値するものを与えること、与えられるべきものを与えることだ。それぞれに美徳を持つ個人と適切な社会的役割の間に適切な適合関係を見出すことである。

このような正義の在り方はどのようなものなのか、また、リバタリアンや平等主義的な権利中心の理論家たちが共有していると思われる概念とどう違うのだろうか。

正義とは、その人に与えられるべきもの、値するものを与えることだ。

では、ある人に与えられるべきものとは何だろうか、そんな真価や対価の適切な動機は何か。アリストテレスはそれは分配されるものの性質によるという。

正義には2つの要素がある。
1つは物、1つは物が割り与えられる人々だ。一般に言えることは平等である人々には、平等な物が割り与えられるべきである。

しかし、ここで難問が生じる。平等というのは、何に関しての平等だろうか。

アリストテレスはそれは分配されるものの性質による、という。

仮にフルートを分配するとしよう。フルートを得るに値する、適切な真価や根拠とは何だろうか。誰が最高のフルートを手に入れるべきなのだろうか。アリストテレスの答えは何かわかる人?

学生D:一番上手なフルート奏者。
学生D:一番上手なフルート奏者!正解だ。

フルートを手にすべきは一番上手なフルート奏者である。フルートを分配するにあたって、人を差別するのは正しいか、答えはイエスだ。全ての正義は差別を内向するとアリストテレスはいう。

重要なのは、その差別が関連する卓越性。この場合はフルートを持つに、ふさわしい美徳を持つことである。アリストテレスは他の根拠に基づいてフルートを分配するのは正しくない、と述べている。

例えば、富により最高額を払える人々に最高のフルートを与えること、生まれる高貴さにより貴族に与えること、身体的な美しさにより、または偶然任せ、くじ引きで与えることは正しくない。生まれや美しさはフルートを吹く能力よりも大きな
善かもしれず、その善を持った人たちがそれらの資質において優れている度合いは、フルート奏者がフルートを吹く能力に勝っているかもしれない、しかし、最高のフルートを得るべきなのは、最高のフルート奏者である、という事実は動かない。

ところで、この比較は奇妙だ。
私がハンサムである度合いは、彼女はラクラスの良い選手である度合いより上だ。というのは実に奇妙な比較だ。でも、それはさておき、アリストテレスの意見では私たちは全てにおいて最高の人を求めているのではなく、最高のフルート奏者を求めているのだ。

それはなぜか、ここが重要だ。
なぜ最高のフルートが最高のフルート奏者に与えられるべきか、なぜだと思う?誰かわかる人?ん?何?彼らが最高の音楽を奏でるから?そして皆が音楽をもっと楽しめば?、、それはアリストテレスの答えではない。アリストテレスは功利主義者ではない。そうすれば、よりよい音楽がもたらされ、皆が楽しめてより快適になるから、とは彼は言わない。

彼の答えはこうだ。
最高のフルートが最高のフルート奏者の手に渡るべきなのは、良い演奏がなされることがフルートの目的だからだ。

フルート演奏の目的は、素晴らしい音楽を創り出すことであり、その目的をもっともうまく達成できる人間が最高のフルートを得るべきである。もちろん、うれしい副時的効果として、その音楽を聴いて皆が楽しめる、というのも真実だろう。だから、さっきの答えも打倒なものだとは言える。

しかし、重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということは理解することだ。皆には少し奇妙なものに思えるかもしれないが、アリストテレスの理由はフルート演奏の目的、意義、目標を重要視している。別のいい方をすれば、目的をみることから正義にかなう分配が導き出される、ということだ。

目的や目標のことをギリシャ語では「テロス」という。

アリストテレスはこう言う。
物事の意義、目的、目標、すなわち物事のテロスを考えねばならない。

この場合はフルート演奏だが、その目的が明確になって、はじめて正義にかなった分配、正義にかなった差別が可能になるのである。

テロス、つまり目的から逆算してくるこの論理の考え方を「目的論的論法」「目的論的道徳論理」と呼ぶ。

これがアリストテレスの思考法だ
目的、目標から論理を組み立てる。

私がさっき言ったように、目的から論理を組み立てるという思考法は、奇妙に思えるかもしれないが、ある種の直感的な積極力がある。

ハーバードを例にとり、一番良いテニスコートを、あるいはスカッシュコートの割り当てについて考えてみよう。

一番良いコートを使う優先的な権利を与えられるのは、誰であるべきか。一番金を払える人間に使わせればいい、と君たちは言うかもしれない。しかし、アリストテレスはノーと言うだろう。ならば、ハーバードの有力者、一番影響力のある人間に使わせたらどうだろう。例えば、偉い教授たちに使わせるとか。いや、アリストテレスはこれにもノーと言うだろう。学校代表のテニス選手がテニス選手という度合いよりも、科学者が偉大な科学者の方が上かもしれない。それでもテニス選手が一番良いテニスコートの優先権を持つべきなのだ。

この考え方には、ある種の直感的な説得力がある。だが、この考え方を奇妙に感じさせる理由の1つは、アリストテレスが暮らしていた古代の世界では、目的論的論法や目的論的説明に支配されていたのは、社会的な実践だけではない、ということだ。自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し、自然を把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的やテロスを問い、読み取るということを意味していた。
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現代科学の出現と共に、そのように世界を考えることは難しくなってきており、正義を目的論的に考えることはもっと難しくなってきている。しかし、自然界にも目的論的な秩序を持っている、目的論的な統一性だと考えることには、ある種の自然さがある。

実際にはこのような世界観から抜け出すよう、子供たちを教育しなければならない。
私はまだ子供たちが小さかった頃、クマのプーさんを読んで聞かせた時にこのことに気付いた。

クマのプーさんを読むと目的論的な物の見方に、ある種の自然な子供らしい世界観があるのがよくわかる。君たちもこの話を知っているかもしれない。

ある日プーさんは森の中を歩いていると、木のてっぺんからブンブンという大きな音が聞こえてきた。プーさんは木の根本に腰をおろし、ほうづえをついて考え始め、こう独り言を言った。

このブンブン言う音には何か意味がある。こんなにブンブンする以上、何の意味もないということはあり得ない。ブンブン音がするということは、誰かがブンブン音をたてているからだ。そしてブンブン音をたてる僕が知っている理由はハチだからだ。そして、またプーさんはしばらく考え、こう言う。

ハチである理由で僕が知っている唯一の理由はハチミツをつくることだ。プーさんは立ち上がりこう言う。そしてハチミツをつくる唯一の理由は僕が食べられるようにだ。そしてプーさんは木に登りはじめる。これが目的論的論法の1つの例だ。(会場笑い&拍手)

こう考えてしまうことは、そんなあり得ないことではない。しかし私たちは成長し、このような世界の見方をしないようにと教育された。

だが、ここでさっきの質問をしよう。目的論的な説明が、現代科学と相容れなくとも、自然理解する上では、そういう考え方からは脱却しても、アリストテレスの考え方は直感的ないし道徳的に説得力があり、強力ですらあるのではないだろうか。

彼は正義について考える唯一の方法は社会的実践の目的や目標、つまりテロスから論じることである、と主張した。これはアファーマティブ・アクションへの反論で、まさに私たちがしたことではないだろうか。アファーマティブ・アクションに対する反論を大学教育にふさわしい目的や目標とは何か、という問いに置き換えてみることもできる。

目的から論じること、目標から、テロスから、論じることは正義について考えるには不可欠だ、とアリストテレスは言っている。彼は正しいだろうか。アリストテレスの政治学に取り組む時、この問いについて考えて欲しい。