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JUSTICE 第8回「架空の平等の状態から公平さを生み出す」「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」

ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が1人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は75%ほど手をあげた。1人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture15
WHATS A FAIR START?
Lecture16
WHAT DO WE DESERVE? 


時間:55:07



Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」

今日は分配の正義の問題に取り組みたい。私たちはどんな原理に従って富や権力、機会を分配するべきか。ジョン・ロールズは、この問いに詳しく答えている。今日はその答えを検討しよう。

前回私たちは、その取っ掛かりとしてロールズのある考え方を学んだ。
正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれる、というものだ。肝心なのはその仮説的契約はロールズが無知のベールと呼ぶものの背後にある、平等な原初状態の下で実現される、ということだ。ここまではいいかな?では次に進もう。

ロールズのいう無知のベールの背後で、人々選ぶ原理とは何だろうか。まず彼はいくつか他の可能性を検討した。功利主義はどうだろうか。功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だが、原初状態にある人々は功利主義による統治を選ぶだろうか。いや、選ばないだろう、とロールズは言う。
なぜなら無知のベールの背後では一度ベールがあがり実際の生活がはじまれば、私たち一人一人が尊厳を持ち尊重されたいと願うことことを、誰もが知っているからだ。たとえ少数派の一員になっても抑圧されたくはない。だから私たちは功利主義を拒否し、その代わりに第1の原理である「平等な基本的自由」を採用することに同意するのだ。

言論の自由、結社の自由、宗教の自由、良心の自由といった基本的権利だ。

私たちは多数派が圧政を振るう中で、抑圧され、さげすまされる少数派の一員にはなりたくない。誰もそんなリスクを取りたがる人はいない。だからロールズは功利主義は拒否される、と考えた。彼はこう書いている。
「功利主義は人格の違いを忘れる。あるいは重要視しないという、間違いを犯している」
原初状態では、私たちはそのことを認識し功利主義を拒否するのだ。
私たちは自らの基本的権利と自由をいかなる経済的利益とも交換しない。これが第1の原理だ。

第2の原理は社会的、経済的不平等に関係する。私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか、不健康になるのかわからない、ということを思い出してほしい。金持ちの家に生まれるのか、貧しい家に生まれるのか、それは誰にもわからない。だから最初はこう考えるかもしれない。そうだな、念のため所得と富を平等に分配することを要求しよう。その方が確実だ。しかしもし不幸なことに、私たちが最下層に陥る結果となったとしても、もっとよくなるやり方があることに気がつくだろう。もっとよいやり方とは、ロールズが格差原理と呼ぶ条件付きの原理に同意することだ。
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格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。
つまり私たちはすべての所得や富の不平等を拒否するわけではなく、ある部分を認めるというわけだ。

ロールズの原理によれば、その基準となるのは特に最下層にいる人たちの便益になるかどうか、ということだ。
無知のベールの背後では、最も恵まれない人たちの便益になるような不平等だけが正義に適う、とロールズは論じた。

以前、マイケル・ジョーダンは1年に3100万ドルを稼ぎ、ビル・ゲイツには何百億ドルもの資産があるという話をした。格差原理の下ではこの不平等は許されるだろうか、その格差によって最も恵まれない人びとが便益を得るようなシステムである場合にのみ許される、それはどんなシステムか。ある仕事に適した人を呼び込むためには、現実的には何らのインセンティブをつけなければならない。

そして、最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だからロールズは、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、と言っているのだ。無知のベールの背後でこれら2つの原理が選ばれる、というロールズの主張を君たちはどう考えるだろうか。この意見に反対の人、考えを聴かせてほしい。そこのバルコニーの君、どうぞ。

学生A:先生の議論は、政策や正義を下からから、つまり最下層の目線から議論していることを前提としていますが、なぜ上からではないのでしょうか。

君の名前は?
学生A:マイクです。
マイク、いい質問だ。では自分を無知のベールの背後に置いて、思考実験をしてみよう。君はどんな原理を選ぶだろうか、考えてみてほしい。

学生A(マイク):ハーバードも上層思考を進める1つの例だと思います。僕は生まれた時は自分がどの程度頭がよくなるのかわからなかったけど、この場所にたどり着けるよう頑張って来ました。ハーバードが何の資格もない1600人を無作為に受け入れるとしたら、勉強は無意味になってしまいます。

それで、君はどんな原理を選ぶ?

学生A(マイク):僕だったら能力ベースの原理を選びます。自分の努力に応じて報いられるシステムがいいと思います。
では君は、無知のベールの背後で人々が努力に応じて報いられる能力ベースのシステムを選ぶんだね。結構だ。君、どうぞ。

学生B:1つ疑問があります。その能力ベースというのは皆が平等なレベルからスタートできることを前提としていて、そこからどこに辿り着くかによって報いられるということでしょうか。教育が始まったとき、その人がどれほど有利な状態にあったかは無視するということでしょうか。

学生A(マイク):誰もが平等なレベルからスタートできるわけではない、と言いたいのでしょうが、僕はそうは思いません。能力に報いるシステムは誰にとっても最善のものだと思います。上位2%に属する人も、下位2%に属する人もいますが、結局のところ、それは生まれながらの違いではありません。努力に報いることが最下層のレベルを押し上げるのです。

学生B:でもここにたどり着くまでの過程で、明らかに有利な条件下にいた人もいるはずです。そういった人の努力になぜ報いなければならないのでしょうか。私と同じだけ努力した人が皆、この大学に来ることができる同じだけのチャンスがあったとは思えません。

なるほど、君の名前は?
学生B:ケイトです。
ケイト、つまり君は、こう考えているんだね?トップ・スクールに入る能力は、裕福な家庭の出身であることや家庭環境に恵まれていること、あるいは社会的、文化的、経済的に有利であることに大きく左右されると。

学生B(ケイト):特に経済的な意味で言いましたが、その通りです。
以前、こんな調査を行った人がいた。アメリカの優秀な大学、146校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたんだ。その中で家族の所得が下から25%に属する学生はどのくらいいたと思う?わかるかな?

最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生はたった3%しかいなかった。70%以上が裕福な家庭出身だったのだ。

ではもう一歩進めてマイクの意見について考えてみよう。
ロールズは彼の正義の原理、特に格差原理を支持するために1つではなく、2つの議論をあげている。
1つ目は無知のベールの背後で何が選ばれるのか、という議論だ。この議論に対し、人々は賭けにでるのではないか。無知のベールが上がった時、トップにいるかもしれないと期待してギャンブルをするのではないか、と異議を唱える者もいる。これがロールズに突き付けられてきた1つの挑戦だ。しかしロールズはこの原初状態の議論を支える2つ目の議論を持っている。それは端的に道徳的な議論でこのようなものだ。

所得や富、あるいは機会の分配は、自分の功績だと主張できないものに基づくべきではない。
それは、道徳的観点から、恣意的な要素に基づくべきではないのだ。

ロールズは正議論に挑んでくるいくつかの説を検討することにより、これを実証した。
彼はまず、今日ではほとんどの人が拒否するであろう封建的貴族社会について述べた。封建的貴族社会において、一人一人が与えられる将来性は、何が間違っているだろうか。

ロールズは言った。明らかに間違っているのは、人間の将来が生まれによって決まる点だ。高貴な家に生まれるか、農家に生まれるか、奴隷に生まれるか、それで決まってしまう。上昇することはない。どこに行きつくか、どんな機会があるかは君の行いとは関係ない。それは道徳的に見て恣意的なものだ。だから封建的貴族社会に対して、人々は歴史の中でこう反論してきた。
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キャリアは才能に対して開かれたものであるべきだ。生まれに関わらず、形式的な機会の平等が与えられるべきだ。すべての人に社会のあらゆる職に就く努力をする自由があるべきだ。つまり、もし君が求人を行い、応募した人がその仕事に精一杯取り組むのであれば、その結果は正義にかなっている、ということだ。

これは、多かれ少なかれ、リバタニアリズム的なシステムである。
これについて、ロールズはどう考えるか。彼はこれは進歩だと言う。生まれによって将来が決まらない点は進歩だ。しかし彼は形式的には機会が均等に与えられるとしても、リバタリアン的な考え方だけでは十分ではない、と言う。誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとは言えないからだ。このシステムが明らかに正義に反しているのは、道徳的観点から見て恣意的な要素の影響を受けるからだと、彼は言う。それは良い教育を受けたかどうか、君を応援して、勤労倫理を養い、機会を与えてくれる家庭で育ったかどうか、と言ったことだ。これは公正な機会均等のシステムへの移行を示している。そしてこれが、まさにマイクが主張したシステムで、私たちが能力ベースのシステム、能力主義システムと呼ぶものだ。

公正な能力主義の社会では、競争が始まる前に皆が同じようなスタート地点に着くようなシステムを作り上げる。それは平等な教育の機会であり、例えば、就学前教育プログラムでは、家庭環境に関わらず全ての子供に、真に公正な機会が与えられるように、貧しい地域の学校を支援する。誰もが同じスタート地点からスタートするのだ。

では、ロールズは能力主義システムをどう考えるか。このシステムでさえも、自然の巡り合わせという、道徳的な恣意性を修正するには、十分ではないと、そう彼は言う。皆同じスタート地点に連れて来て、競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合、誰が勝つだろう。一番足の速い人だ。しかし、早く走る才能にたまたま恵まれたのは、彼らの功績なのだろうか。ロールズはこう言っている。

皆を同じスタート地点に立たせた場合、能力主義の原理は社会の偶然性の影響を排除することはできるかもしれないが、それは依然として、富と所得の分配が自然が分配した能力と才能によって決定されることを許容している。

だから、所得と富の分配における道徳的な恣意性を排除する原理は、マイクのお気に入りの能力主義システムを超える必要があると彼は考えた。さぁ、どうやってそれを超えるか。

皆を同じスタート地点に立たせても、足の早い人とそうでない人のいる事実がまだ気になるのなら、どうすればいいか。より平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれは避けたい。競争の本質を台無しにしてしまう。皆の水準を一定にする必要はないと言う。才能ある者がその才能を使うことは認める。あるいは奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利を手にする際の条件を変えればいいのだと言うのだ。そして、それがまさに格差原理である。

人々が遺伝子の巡り合わせという幸運よって便益を教授することはそれが最も恵まれない人の便益になるという条件の下のみ許される。だから、例えば、マイケルジョーダンは稼ぎの大部分を他の人たちを助けるために税金として支払うというシステムにおいてのみ、3100万ドルを稼ぐことが許される。

ビルゲイツも同じだ。何十億ドルも稼ぐことはできるが、自分が道徳的にそれだけの価値が値すると考えてはいけないのだ。
恵まれた者は恵まれない者の状況を改善するという条件でのみ、その幸運から便益を得ることが許される。これが格差原理で、道徳的な恣意性に基づく理論だ。

ロールズはもし君が道徳的観点から見て、恣意的な要素に基づく分配に問題があると感じるなら、貴族社会を拒否して自由市場を支持することも、能力主義システムに満足することもないだろうと、主張した。

運良く才能に恵まれた人が、その才能を発揮することで最下層の人を含む全てが恩恵を受けるシステムをつくりあげる。この議論に説得力があるだろうか。ロールズのこの理論には説得力がないと思う人、意見を聞かせて欲しい。どうぞ!

学生B(ケイト):平等主義者の主張は、才能のある人が稼いだものの一部が分配されてしまうことを知っているのに、それでも一生懸命働くだろうと考えるもので、ずいぶん楽観的だと思います。能力がある人が才能を最大限に発揮することができるシステムは能力主義システムだけだと思います。

なるほど、君の名前は
学生B:ケイトです。

ケイト、それからマイクにも聞きたい。能力主義システムの下では公正に機会が与えられるとしても、一部の人はたまたま優れた才能に恵まれたというだけで、分不相応の報酬を受け取っている。そのことをどう思う?

学生B(ケイト):才能といのは明らかに恣意的な要素だと思いますが、それを正そうとするのは弊害があると思います。そうすることで、、、。
インセンティブが減るから?
学生B(ケイト):はい、そうです。

マイク、どう思う?
学生A(マイク):この教室に座っている僕たちは皆、君たちは何もつくりだしていない癖に受けるに値しない名誉を受けていると言われているようなものです。足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべきです。一番才能に恵まれた人が早く走ることで、僕らももっとも早く走れるかもしれないし、僕の後ろの人やさらにその後ろの人ももっと早く走れるかもしれません。

わかった。マイク、君はさっき努力について話したが、成功するために一生懸命働いた人には、その努力に見合った報酬を得る価値がある、と考えているんだね。それが君の弁護の背景にある考え方だ。
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学生A(マイク):もちろんです。マイケルジョーダンをここに連れてきて、なぜ3100万ドル稼ぐのか聞いてみれば、トップに立つまでに彼がどれだけ努力したかわかると思います。違った角度から見れば、僕たちも基本的にを少数派を抑圧する多数派です。

ありがとう、努力か、、、(会場一部拍手)賛同者がいるようだねぇ。
学生A(マイク):そんなに多くはないですけど(笑)

努力、ロールズはそれに対し、こう答えた。
ある人が強い勤労倫理を持って、根気強く頑張り努力したとしても、その努力ですら、幸運な家庭の状況の下で生じるものであるから、私たちは自分の功績だとは主張できない。さぁここでテストをしてみよう。

経済的な差による違いはとても大きいが、とりあえずそれは脇において置こう。

心理学者は生まれた順番によって勤労倫理やがんばり、努力の大きさが変わると言う。
では君たちの中で、自分は1人目の子供だと言う人は手をあげて。(会場大多数、笑い)
私もだ。(会場笑い)マイク、君も手をあげていたね。(会場笑い)

能力主義の概念では努力は報いられるべきだと言う、しかし、努力やがんばり、勤労倫理などが生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績ではない、というロールズの言い分は正しいように思える。

マイク、君は自分の力で最初に生まれたのかい?もちろんそうではないだろう。そこで、ロールズは問う。
道徳的な観点から見た時、人生における所得と富と機会が恣意的な要素に基づいていいのだろうか。

これはロールズが市場社会に突きつけた挑戦だが、同時にこのような場所にいる、私たちへの挑戦でもある。この続きは次回考えよう。


Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

前回の講義の終わりに自分が1人目の子だと言う人は75%ほどいた。1人目に生まれたという偶然性だ。これが努力に対する1つ目の反論。反論はもう1つある。2人の建設労働者がいたとして、1人は力が強く、汗もかかずに1時間で壁を立てることができる。もう1人は小柄でひどく痩せていて、3日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義者は、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。能力主義者は本当は努力ではなく、貢献を大事にしているのだ。しかし貢献は生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そしてそのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。偶然性だ。ここで偶然のゲームと技能のゲームを考える。宝くじは運という偶然性のゲームであり、もしあなたが当たり、賞金をもらう資格を得たとしても、あなたがその賞金に道徳的にふさわしいとはならない。野球という技能のゲームにおいて、優勝者はトロフィーをもらう資格があるが、道徳的にみてトロフィーをもらう資格があるかと問えば、それはゲームの内容による。ロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。あなたの才能は市場経済でどんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。例えば高収入を稼ぐ毒舌のコメディアンは、幸運にも毒のある冗談を高く評価する社会に偶然生きている。もしコメディアンが狩猟社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性。偶然は自分の功績だとは主張できるものではない。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では狩猟社会では、彼らの価値は下がるのか。ロールズの答えは下がらないとする。ここが重要だ。逆に現社会で求められる才能をたまたま持っていない人にも同じことが言える。偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。では機会と名誉はどうだろうか。エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。次回はアファーマティブ・アクションについて考えよう。


Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

前回の講義の終わりに君たちの生まれた順番について、調査を行った。その結果、この教室の何パーセントの人たちが、自分は第1子だと言って手をあげただろう。75〜80%だ。

分配の正義について考えるとき、なぜこれが重要なのだろうか。前回議論した、分配の正義に関する3つの異なる理論を思い出してほしい。収入や富や機会など、人生に幸福をもたらすものは、どのように分配されるべきか、という質問には3つの答えがあった。

先ず私たちは、正義にかなった分配のシステムは、自由取引、自由市場経済のシステムであるという、リバタリアンの答えをみた。このシステムは、形式的な機会の均等を背景に、仕事や、キャリヤが誰にでも開かれていることを意味する。誰もがすべての仕事を巡って競うことができ、才能に対し、キャリアが開かれているため、ロールズは「これは貴族社会やカースト制からみれば、進歩だ」と言った。

分配の正義は、自由取引、自発的な取引からも生じるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。しかしロールズは、「それは形式的な平等でしかなく、仕事が誰に対して開かれていたとしても、公正な結果にはならないだろう」と論じた。

それでは、偶然、裕福な家庭に生まれ、偶然、善い教育を受けることに恵まれた者に有利な、偏ったものになってしまうからだ。生まれによる偶然の差があるなら、機会が正義にかなって分配されているとはいえない。

そして、このことから、ロールズは、この不公平さに気付いた多くの人びとは、公正な機会均等のシステムを受け入れるようになるだろう、と論じた。

それが、能力主義システムへと通じる。公正な機会の均等だ。

しかし、ロールズは、競争で全員を同じスタートラインに立たせた場合、誰が勝つだろうか、という。一番足の速いランナーだ。私たちは、分配が道徳的に恣意的な要素に基づくことに違和感を持ったなら、そこで論理的に考えてみるべきだ。そうすれば、ロールズが民主的な概念、より平等主義的な概念と呼ぶ、分配の正義の概念にたどり着くはずだ。彼はそれを、格差原理で定義している。

彼は、生まれつきの才能や、能力を修正する唯一の方法は、皆のレベルを均等にすることや、結果の平等性を保障することだ、とは言っていない。しかし、偶然性に対応する、別の方法があると、述べている。

人は自らの幸運によって、便益を得ることができる。それはもっとも恵まれない人が有利になるという条件においてのみである。私たちの社会におけるいくつかの賃金格差を考えることで、この理論が実際にどう働くか、確かめることができる。

アメリカの学校教師の平均的な年収は、どのくらいだと思う?大体でいい。
学生A:3万5000ドル。
おしい。4万〜4万2000だ。では、デイヴィット・レターマンはどのくらい稼いでいると思う?教師よりも多いだろうか?デイヴィット・レターマンの年収は3100万ドルだ。彼は、教師より遥かにたくさん稼いでいるが、これは公平だろうか。ロールズはこう答えるだろう。

それが公平かどうかは、レターマンの3100万ドルが課税され、その収入のいくらかが、もっとも恵まれない人の便益のために使われるような、社会の仕組みがあるかどうかによる。

賃金格差のもう1つの例だ。
アメリカの最高裁判事は、どのくらい稼いでいるだろう。20万ドル以下だ。このサンドラ・デイ・オコーナーもその一人だ。彼女より遥かに稼いでいるもう一人の判事がいる。誰だと思う?

学生B:ジュディ判事!
その通り、よくわかったね。番組を見ている?
学生B:いえ
そうか、でもあたりだ。

ジュディ判事はいくら稼いでいるだろう。これだ。彼女の年収は2500万ドルだ!さあ、これは正義に適っているだろうか。公正だろうか。それは、こうした格差の背景に、格差原理といえる原理があるかどうかによる。つまり、所得と富において成功した人が、社会で最も恵まれない人々の便益になるように課税されるシステムがあるかどうかによる、ということだ。

ではここで一度、ロールズの理論に立ち戻って、より平等主義的な理論である、格差原理に対する反論について検討したいと思う。

1つ目は、前回の討論で君たちの多くが懸念したことだ。インセンティブはどうなるのか。累進課税が70%、80%、90%に達したら、マイケル・ジョーダンがバスケット・ボールをしなくなったり、デイヴィット・レターマンが、深夜にコメディをやらなくなったり、CEOが別の職種についたりするリスクが、生じるのではないか。

さあ、ロールズを擁護する人の中で、インセンティブは必要だ、というこの反論に、答えられる人はいるかな?はい、君どうぞ。

学生C:ロールズは、最も恵まれない人を助ける場合にのみ、格差は存在すべきだと言っています。平等過ぎたら、恵まれない人は深夜番組を見ることも職に就くこともできなくなるかもしれません。コメディアンやCEOが働く気をなくす恐れがあるからです。ですから、恵まれない人々が、才能から利益を受ける十分なインセンティブが残るように、正しい税金のバランスを探すことが必要になります。
君の名前は?
学生C:ティムです。

ティム、要するにロールズはインセンティブを考慮に入れている。そして、インセンティブを考慮した上で、賃金格差と、いくらかの税率の修正を認めることができると、言っている。と言うことだね?

ティムは、インセンティブの問題は、経済全体の効果という観点からではなく、最下層の人々の幸福に係わるインセンティブ、つまり、不利な条件にある人々の福祉への効果、という観点から、検討されるべきだと指摘している、そうだね?
学生C(ティム):はい。
ありがとう。これが、ロールズの言うことだと思う。実際に彼が格差原理を説明している17章を見てみると、インセンティブを認めていることがわかる。

生まれながらに有利なものは、より才能があると言うだけの理由で便益を得るべきではなく、訓練と教育の費用をまかない、恵まれない者たちの助けになるように、その資質を使うべきである。

インセンティブを持つことはできるのだ。そしてデイヴィド・レターマンやマイケル・ジョーダン、ビル・ゲイツから取り過ぎて、最下層の人々に害を与える結果になった場合には、税率を調節することもできる、そういうことだ。

インセンティブは、ロールズの格差原理に対する決定的な反論ではなかった。しかし、もっと重要で、難しい反論が2つある。

そのうちの1つは、能力主義の概念を擁護する者による反論だ。努力はどうなるのか、という意見だ。一生懸命働いた人はどうなるのか。彼らはそのために努力したのだから、稼いだものに対する権利があるはずだ。これが、努力と道徳的な対価からの反論だ。そして、もう1つの反論は、リバタリアンによるものだ。私たちの生まれながらの才能や資質を、共有資産のように扱うことによって、格差原理は、私たちが自分自身を所有しているという考え方を侵害するのではないか。
さて、まずはリバタリアンによるこの反論に取り組もう。リバタリアンはの1人、経済学者のミルトン・フリードマンは、著書『選択の自由』の中で、こう書いている。

人生は公正ではない。人は政府が自然の引き起こすことを修正できると信じる誘惑に駆られる。そして彼は、こう考える。それを修正しようとするには、結果を均等にしなければならない。つまり、皆が、競争で、同時にゴールするようにしなければならず、それは最悪のことだ。これは簡単に答えられる議論だ。ロールズはこれについて、著書『正議論』の、私が非常に強力だと思う説の中で触れている。それは17章にある。

自然の分配、つまり、才能や資質と言った自然の分配は、正義でも不正義でもない。人が社会のある特定の地位に生まれるのも不正義ではない。これらは単なる自然の事実である。正義や不正義は制度がこういった事実を扱う方法にある。

これは、人生は不公正だが乗り越えろ。そして少なくとも、そこからでる便益を最大化できるか見てみようという、ミルトン・フリードマンのような自由放任主義の経済学者に対する、彼の答えだ。

しかし、ロールズに対するリバタリアンの反論には、フリードマンの反論よりさらに強力なものがある。それは、ノージックが発展させた、自己所有の議論を用いた反論だ。そしてその観点からいえば、誰でもいい学校に行くことができるように、そして、競争を同じスタートラインからできるように、就学前教育プログラムや、公立学校をつくることはいいことかもしれない。しかし、公立学校を作るために、人々に課税すれば、彼らの意思に反して課税すれば、それは強制になる。盗みの一種だ。公立学校を支援するために、レターマンの3100万ドルのいくらかを彼の意思に反して税金として盗れば、国家がまさに彼から盗んだことになる。それは強制だ。なぜなら私たちは、自分自身を才能と資質を所有するものと考えなければいけないからだ。さもなければ、私たちは、ただ人びとを使い、強制することに戻ってしまう。これがリバタリアンの意見だ。

この反論に、ロールズはどう答えているか。
彼は、自己所有の考えに直接には言及していない。しかし、格差原理についての彼の議論の、道徳的な側面からは、私たちは自分自身を完全な意味では所有していないのではないか、と受け取れる。

彼は、これは国家が私の人生を徴用することができるから、国家が私の所有者である、ということではない、と言っている。なぜなら無知のベールの背後で、私たちが合意するであろう、第1の原理は、平等な基本的自由の原理、つまり、言論や宗教の自由、良心の自由だからだ。

だから、自己所有の考え方は、唯一次のような点において譲歩しなければならない。
私たちは、自分の才能を市場経済の中で行使することで得られる便益に対して、特権を主張できるかもしれないが、それは自分自身を所有しているということを意味しているわけではない。ロールズはよく考えて見れば、私たちは自分自身を所有していない、という。私たちは、自己所有の考えを受け入れることなく、権利を擁護することも、個人を尊重することも、人間の尊厳を守ることもできる。これが要するに、彼のリバタリアンへの回答なのだ。

ここで、能力主義の概念の擁護者へのロールズの回答に目を向けたい。
彼らは、道徳的な対価の根拠として、努力を引き合いに出した。自分の才能を発展させるために一生懸命働く人は、その才能を行使することで得られる便益に値する。この問題に対する、ロールズの1つめの答えは、すでに見てきた。それは、生まれた順番の調査からも明らかだった。

彼の1つめの答えは、勤労倫理や誠実に頑張る意欲でさえ、私たちは自分の功績だとは主張できない。家庭の環境や、社会的、文化的偶然性などによって決まる、というものだ。

私たちは自分のおかげで第1子に生まれたのではない。第1子に生まれ、心理学的、社会的な理由から頑張り、努力することができたのは、自分の功績だとは主張できない。これが1つめの答えだ。

2つめの答えもある。努力を引き合いに出す人は、本当は道徳的な対価は、努力に付随していると信じていないのだ。
2人の建設労働者がいる。1人は力が強く、汗もかかずに1時間で壁を立てることができる。もう1人は小柄でひどく痩せていて、3日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義の擁護者には、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。これが能力主義の主張に対する、2つ目の回答だ。

能力主義の擁護者が、分配の道徳的な根拠だと信じているのは、本当は努力ではなく、貢献だ。どれだけ貢献したかが、重要なのだ。しかし、貢献は、私たちを単なる努力ではなく、生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そして私たちが、そのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。

では、努力がすべてではない。能力主義の観点から重要なのは、貢献だ。努力ですら、私たち自身の行いではない、という理論を君たちが受け入れたとしよう。それはつまり、ロールズによれば、道徳的な対価と分配の正義の間には何の関係もない、ということだろうか。

その通りだ。

分配の正義は、道徳的な対価とはまったく関係ない。
さあここで、ロールズは重要かつ巧妙な区別を導入している。

それは、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の違いだ。

道徳的な対価と資格の違いは何だろうか。2つのゲームを考えてみよう。偶然のゲームと技能のゲームだ。

先ずは偶然のゲームから。
マサチューセッツ州の宝くじを買って、私の番号が当たったとする。私は自分の賞金に対する資格を持っている。しかし、賞金に対する資格があっても、これは単なる運のゲームなので、私がその賞金に道徳的にふさわしいということには、ならない。これが資格だ。

では、宝くじとは対照的なゲーム、技能のゲームはどうだろう。
たとえば、ボストン・レッド・ソックスが、ワールド・シリーズで優勝したとする。優勝した彼らには、トロフィーをもらう資格がある。しかし、技能のゲームでは常にこう問われる。彼らは勝利にふさわしかったのか。技能のゲームでは、原則として、誰かが規則の下で勝利の資格を与えられることと、その人物が勝利に値するかということを分けて考えることができる。

そしてロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。

ここで彼は説明している。

公正な仕組みは人間の持つ資格にこたえ、社会制度に基づいた人間の正当な期待を満足させる。しかし彼らが持つ資格は、彼らの内在的な価値に釣り合うものではなく、あるいはそれによって決まるものではない。
基本的な構造を規定する正義の原理は、道徳的な対価とは関係ない。そして、分配の量が道徳的な対価と対応する傾向もない。

ロールズは、なぜこれを区別したのか、何が道徳的に問題になるのか。
1つ目は、これまで議論してきた努力の問題すべてだ。しかし2つ目の偶然性もある。それもまた、道徳的な恣意性の源になるもので、才能を持つことが自分の功績であるか否かという問題を超えたものだ。

そしてそれは、自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性と関係がある。

デイヴィッド・レターマンの毒のある冗談を、非常に高く評価するという社会に彼が生きているという事実は、彼の努力の結果ではない。彼は幸運にも偶然そのような社会に生きているのだ。これが2つ目の偶然性だ。自分の功績だと主張できるものではない。

もし私が、自分の才能と努力について、唯一の疑いようのない主張権を持っていたとしても、私がそれらの才能を使うことによって得る便益は、道徳的な観点からは、やはり、恣意的な要因によって決まることになるだろう。

私の才能は、市場経済で、どんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。需要と供給の法則によって決まるのであって、私の行いで決まるのではない。貢献と見なされるものは、社会が偶然重んじるものの資質で決まる。私たちの多くは、幸運にも、この社会が偶然重んじる資質、社会が要求するものを提供できる資質を大いに持っている。

資本家の社会では、企業家精神を持っていることが役立つ。官僚的な社会では、上司とうまくやることが役立つ。大衆民主主義社会では、テレビ映りを善くすることや、手短に表面的な話をすることが役立つ。訴訟社会では、ロースクールに行くことや、そのための試験でうまくやることが役立つ。しかしこれらは、いずれも私たちの努力とは関係ない。私たちがこの技術的に発展した高度な訴訟社会ではなく、狩猟社会か戦闘社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では、別の社会では、私たちの美徳は少なくなるのだろうか。狩猟社会や戦闘社会では、私たちの価値は下がるのだろうか。ロールズの答えはノーだ。

私たちの稼ぎは少なくなるかもしれない。しかし、少ない報酬に対する資格しか持たなくなると言って、私たちの価値が下がるということではない。

ここが重要だ。

私たちの社会において、偶然、それほど有力な地位にない人、私たちの社会が報酬を与える才能を、たまたま持っていない人についても、同じことがいえる。これが、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の区別の重要な点だ。私たちは、才能を行使することで得られる便益に対する資格を持っている。しかし私たちが、偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。

ここまで、収入と富について話してきた。では、機会と名誉はどうだろうか。
エリート大学の学生になるための分配はどうだろうか。確かに、君たちは皆、ほとんどが第1子で、ハーバード大学に入るために一生懸命勉強し、頑張って自分の才能を伸ばしてきた。

しかしロールズはたずねる。君たちが自分の持っている機会に付随する便益を主張することは、道徳的にみてどうなのだろうか。大学の学生になることは、一生懸命努力したから、それに値する者への一種の報酬であり、名誉なのだろうか。それとも、エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。

その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。これは、マイケル・ジョーダンやディヴィッド・レターマン、ジュディ判事の年収について問われる可能性のある質問だが、同様にトップの大学に行く機会について、問われる可能性のある質問である。このことは次回、アファーマティブ・アクション、つまり格差の是正を議論する中で、引き続き考えよう。