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JUSTICE 第7回「嘘と正義」「契約は契約だ」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture13「嘘と正義」

自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため(傾向性・他律)から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ!ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ(嘘はつかず)、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う=すること(自由の領域)」、「相手を傷つけたくない=すべきこと(必要の領域)」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture13
A LESSON IN LYING
Lecture14
A DEAL IS A DEAL 


時間:55:05



Lecture13「嘘と正義」

前回の講義は、カントの道徳理論を一通り見ていくことからはじめた。
さて、「人倫の形而上学の基礎づけ(カント著作)」で述べられている、カントの道徳理論を理解するには、3つの質問に答えられることが必要だ。義務と自律とはどうやったら両立することができるのか。義務に応えることになる重要な尊厳とはなにか。義務と自律という2つの観念は、一見対立しているように見える。これに対するカントの答えは何か、誰か解説してもらいたい。カントには答えがあるのかどうか。君!

学生A:カントの考えでは、人間が自律的に行動しているといえるのは、義務という名のもとに何かを追求しているときだけ。自分の個人的な利益のためではなく、義務のために何かよい道徳的な行為をしているときだけだからです。

その行為はなぜ、、名前は?
学生A:マットです。
その行為はなぜ義務から生じたといえるのかな?
学生A(マット):道徳法則を受け入れることを自分で選んでいるからです。強制されたのではなく。

よろしい。義務から生じた行動が、則っている道徳法則は。
学生A:自分が自分で課したものだから。
自分で自分に課したものだから、それが義務と自由を両立可能にする。
学生A(マット):はい。

よろしい。その通り。それがカントの答えだ。ありがとう。

カントは、私は法に従っているから、私には尊厳がある、とは考えない。

いやむしろ、まさにその法に関しては、私が創作者なのだ。そして私がその法に服している理由は、私がその法を引き受けたから、マットの言葉で言えば、自分で自分に課したものだからだ。私がその法を望んだからなのだ。それがカントにとって、義務に従って行動することと、自由に行動することが、自律という意味において同じであるという理由だ。
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そこから次の疑問が出てくる。
道徳法則はいくつあるのか、なぜなら、もし尊厳が私が自分で自分に課する法によって統治するされることになるのであれば、私の両親が君の両親と同じであることを保障してくれるものはなにか。これについてカントの答えは?君!

学生B:道徳法則は主観的な条件には左右されません。個人の間の違いをすべて凌駕するので、普遍的な法であるわけです。つまり、それは究極の法なので世界には1つの法しか存在しません。

そう、その通りだ。名前は?
学生B:ケリーです。
ケリー、カントの考えでは、私たちが自由に自分の良心から道徳法則を選べば、私たちは唯一の同じ道徳法則にたどり着けることになっている。なぜかというと、それは私、マイケル・サンデルが選んでいるのではなく、ケリーが、ケリー自身で選んでいるわけでもないからだ。それは正確にはどういうことか、選択しているのは誰か、誰が主体、行為者なのか、選んでいるのは誰か。

学生B(ケリー):理性?
そう理性。
学生B(ケリー):純粋理性です。

純粋理性。純粋理性とは、正確にはどういうことかな?
学生B(ケリー):純粋理性とは、さっきも出ましたが、どんな外部条件にも左右されずに、自分自身に適用されるものです。
そう、その通りだ。

望むことをする理性。つまり私が道徳法則を望むときに、私の意思を支配する理性は君が君自身で道徳法則を選ぶ時に働く理性と一致するのだ。だから、それが自律的に行動すること、自分で選択すること、一人一人が自分自身で自律的な存在になろうとすると、その結果として、全員が最終的には同じ道徳法則、つまり定言命法を望むことになるのだ。
ところが、だとすると、大きな難問が1つ残る。マットとケリーが言ったことを、すべてその通りだと受け入れたとしても、定言命法は、どうやったら可能になるのか、道徳性はどうやったら可能になるのか、この問いにカントは、区別することで可能となると言っている。
私たちは、自分の経験を理解する2つの立場を区別する必要がある、という。
これら2つの立場によって、カントが何を意味したのか説明しよう。

経験の対象としての私は、感覚の世界、感性界に属している。そこでは私の行為は自然の法則や原因と結果の規則性によって決まる。しかし、経験の主体としての私は知性によって理解可能な世界、叡智(えいち)界に住んでいる。ここでは自然の法則の支配を受けずに、私には自立の能力がある。つまり私は、自分で自分の与える法によって行動できるのだ。

カントの考えでは、この2番目の立場からのみ、私は自分を自由だとみなすことができる。なぜんら、原因による決定の支配を受けないとうことは自由であると言うことだからだ。もし、私が功利主義者が考えるような、経験主義的存在だった場合、もし私が、苦痛と喜び、餓えと渇きと食欲などの自分の感覚だけに支配される存在だった場合、もしそれが人間性の全てであるとすれば、私たちに自由の能力はない。とカントは論じた。

なぜならこの場合、意思の実行は全て、何らかの対象に向けられた欲望によって条件付けられているからだ。この場合、全ての選択は他律的な選択であり、外部の目的を追求することに支配されている。

我々が自分自身を自由だと考える時、我々は叡智界の一員として、意思の自立性を認識する、とカントは述べた。
これが2つの立場についての考え方だ。

では、どうやったら定言命法は可能になるのか。その理由は、ただ自由という考えが私を叡智界の一員にするからである。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。私たちは叡智界、つまり自由の領域だけに住んでいるわけではない。もしそうであるなら、私たちの行為全ては、必ず、常に、意思の自律性と一致するだろう。
しかし同時に2つの領域、自由の領域と、必要の領域という、2つの領域に住んでいるからこそ、常に両方の領域に住んでいるからこそ、私たちが「すること」と「すべきこと」との間には、常に潜在的な隔たりがあるのだ。
「何々である」と「何々であるべき」の違いがある。この論点を別の方法で説明しよう。

カントはこの説明で『人倫の形而上学の基礎づけ』を締めくくったが、それは道徳性は経験的なものではない、ということだ。この世界で何を見ようが、科学を通して何を発見しようが、道徳的な問題を判断することはできない。道徳性は経験主義的なこの世界から、一定の距離をおいて存在している。それが科学が道徳的な真理を導き出すことができない理由なのだ。
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ではカントの道徳理論を、カントが提起した最も難しい状況で考えてみよう。
人殺しが来たらどうするか?だ。

カントは嘘はいけないという。その理由については話し合ってきたが、嘘をつくことは、定言命法とは相いれないからだ。フランスの哲学者、ベンジャミン・コンスタンは『人倫の形而上学の基礎付け』に対して、論文を書き、嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っている。それが正しいはずがない、と述べた。

もし殺人犯が、君の家に隠れている友達を探して、玄関に現れたら、どうする?
殺人犯から単刀直入に「友達は家にいるのか」と聞かれたら、どうする?

哲学者コンスタンは、そんな場合であっても、道徳的に正しいのは、真実を告げることだと言うのはおかしい、と述べた。コンスタンは、殺人犯は真実を告げられるには値しないと主張した。それに対して、カントはこう答えた。

カントは嘘をつくのは間違っている、という原則を譲らなかった。たとえ家にやってきた殺人犯に対してもだ。そしてそれが間違っている理由は、帰結を考慮に入れ始めると、定言命法に例外を設けなければならなくなり、道徳の枠組み全体を諦めることになってしまうからだ、と述べた。そうなれば、帰結主義者か規則行為主義者になってしまう。
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しかし、君たちの多く、そしてカントの読者の多くは、この答えに納得できないのではないか、と思う。

この点について私はカントを弁護してみたい。
そして君たちが私の弁護を聞いて納得するかどうかを見てみたい。

私はカントの弁護を、カント自身の道徳性の説明の精神の範囲内で行ってみたい。

さて、殺人犯が君の家の玄関にやってきて「友達はいるか」と聞く。
君は、友達をかくまっている。嘘をつかずに、かつ、友達を売り渡さないで済む方法はあるだろうか。
誰かいいアイデアがある人は?君!

学生C:私だったら、かくまっている友達と、前もって打ち合わせをしておいて、もし殺人犯が来たら、あなたがここにいるって言っちゃうけど、逃げてねって言っておきます。(会場笑い)
でも選択肢のひとつでしょう?
 
カントがその選択肢を選ぶかな?それはやはり嘘だ。

学生C:いいえ、友達はまだ家にいます。あとで出て行くけど。  
ああ、そうか。(会場笑い)よろしい。もう一人聞いてみよう。

学生D:友達がどこにいるか知らない。と言ったらどうでしょう。
友達はクローゼットから出て行ったかもしれないから、どこにいるかはわからない。
だから知らないと言ってもよいわけだ。君はその瞬間、クローゼットの中を覗いていないわけだから、それは嘘にはならない。
学生D:そうです。
だから厳密にいえば、真実だ。
学生D:はい。

だが厳密には、人を欺くような誤解を招く言い方だよね?
学生D:でも真実です。(会場笑い)
名前は?
学生D:ジョンです。

ジョン、結構。ジョンはいいところに気がついたかもしれない。ジョン、君は賢く言い逃れるオプションを提示してくれた。それは厳密にいえば真実だ。ここで1つ疑問が生じる。あからさまな嘘と、誤解を招くような言い方で述べられた真実との間に、道徳的な違いは、あるのか、ないのか、という疑問だ。

カントの考え方からすると、嘘と誤解を招くような言い方で述べられた真実の間には、大きな違いがある。それはなぜか。両方とも同じ結果を生むかもしれないのに、なぜ違うのか。

ここで思い出してほしいのは、カントは道徳性の基礎を結果には置かない、ということだ。
カントは道徳性の基礎を、道徳法則の形式的な遵守に置いている。

さて、日常生活の中で、私たちは嘘をついてはいけないというルールに、嘘も方便という例外を設けることがある。たとえば、人の気持ちを傷つけないためにつく嘘は、嘘ではあるが、結果よって正当化されると私たちは考える。

カントは嘘も方便には賛成できないが、誤解を招くような真実には賛成できるかもしれない。たとえば誰からネクタイをもらったとしよう。箱を開けてみるとひどい代物だった。
さて、何て言う?

学生E:ありがとう。
ありがとう?ありがとうは良い。だが相手は君がそのネクタイをどう思ったか知りたいし、聞いてくるかもしれない。君は嘘も方便だとばかり、すばらしいということもできるが、それはカントの考え方からすれば許されない。なので、誤解をまねくような真実で逃げてみる。

箱を開けて「こんなネクタイ見たことないよ(会場笑い)ありがとう!」

学生F:「気を使ってくれなくてもよかったのに」
気を使ってくれなくてもよかったのに。それはいい。(会場笑い)

現代の政治指導者で、このテクニックを使った人物を思いつかないか?思いつく?それは誰かな?
クリントンアメリカ元大統領が、モニカ・ルインスキーとの情事を否定するのに、注意深く選んだ言葉を覚えているかな?その否定は、弾劾公聴会で、非常に露骨な討論や議論の対象となった。クリントン元大統領の発言を見てみよう。嘘と、注意深く表現された誤解を招くような真実との区別に、道徳的に重要な何かがあるのだろうか。

(ムービー:ビル・クリントン大統領:1998年1月26日) 
国民の皆さんに言いたい。ルインスキーさんと性的な関係を持ったことはありません。誰にも一度も嘘をつけと言ったことはありません。疑惑は誤りです。

(ムービー:下院司法委員会 弾劾公聴会:1998年12月8日)
下院議員:「その女性とセックスをしたことがない」と嘘をついたでしょう。
弁護士:大統領は嘘をついたとは思っていません。彼は国民に「性的な関係を持っていない」といいました。
あなたが、この答えを納得せず、言い逃れだというのはわかります。しかし彼の定義では、、、。
弁護士:結構、その主張は分りました。

両者のやり取りを聞いたね?当時、君たちはこのやり取りをクリントンを弾劾したい共和党と、彼を擁護しようとする弁護士の間の、杓子定規な重箱の隅を突くようなやり取りだと思ったかもしれない。しかし今は、カントの見方に照らして、嘘と言い逃れ、つまり、真実だけれども誤解を招く主張との間の違いに、道徳的に重要なものがあると思うかな?違いがあると考える人、カントを擁護する人から聞きたい。よし、君の弁護を聞こう。

学生G:嘘と誤解を招くような真実は同じだという場合、それは帰結主義に基づく議論です。どちらも同じ目的を達成するからです。でも真実を話し、それを人に信じてもらおうとするのと、嘘を話し、それを人に真実だと信じてもらおうとするのとでは、それは道徳的には同じではないと思います。

よろしい。名前は?
学生G: ダイアナです。
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ダイアナの意見では、カントに一理あることになるね。クリントン元大統領を援護する主張だが、その点はどうかな? 君!

学生H:カントにとっては動機がカギです。自己満足から誰かにほどこしをしたら、カントは道徳的な価値を認めないでしょう。となると、誤解を招くような言い方は、嘘と同じで人を欺くことが目的ですから、動機は同じ、つまり両者は同じです。

よろしい。ではダイアナに聞こう。両者の動機は違うのかな?動機は同じだとする意見に対する君の反論は?どちらも真実を追求しようとする相手を欺こう、欺きたいと思っているわけだが。

学生G(ダイアナ):直接の動機は、私を信じるべきだということだと思います。結果的には皆が騙されて、事実を誤認するかも知れませんが、言う側の動機は、自分が真実を言っているのだから皆は信じるべきだということだと思うんです。

助けてあげようか?
学生G(ダイアナ):ぜひ。

君とカントを。失礼、君の名前は?(ダイアナの前に発言した学生を指して)
学生H:ウエズリー。
 
ウエズリーにこう反論したらどうだろう。
嘘をつくケース、誤解を招くような真実を言うケース、この両者のどちらも人を欺くことが動機だとは必ずしも言えない。友達が何処にいるか知らないとか、決して性的な関係を持ってはいない、ということによって、発言者は相手が欺かれることを期待している。相手が欺かれることを期待してはいるが、しかし真実を話しているのは確かであり、その動機は欺くことであったとしても、真実を告げ、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。
カントの答えはきっとこうなると思う。ダイアナ、どうかな?

学生G(ダイアナ):はい。
賛成かな?
学生G(ダイアナ):はい。
よろしい。

カントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、私は思う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れをも正当化するものだ。ダイアナ、賛成かな?よろしい。
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慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。クリントン元大統領はあからさまな嘘をつくこともできたが、そうしなかった。だからカントはきっとこう言うだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する一種の敬意がある。そして、その敬意はあからさまな嘘には存在しないものだ。ウエズリー、それも動機の一部だ。

確かに私は殺人犯が欺かれてくれることを願っている。殺人犯があきらめてどこかへ行ってくれることを望んでおり、クローゼットの中を覗いて欲しくはない、私はその効果を望んでいるが、しかし、そうコントロールすることはできない。私は結果をコントロールすることはできないのだ。私にできることは、どんなに自分が望む結果が出るように努めても、道徳法則に対する経緯と調和するやり方で見守ることだけなのだ。
ウエズリーが完全に納得してくれたとは思えないが、少なくとも今回の議論ではカントの定言命法の概念ににおいて、何が道徳的に問題になるのかを明らかにできたと思う。


Lecture14「契約は契約だ」

カントの政治理論。カントは契約論者だが、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。憲法制定会議に集まった人々は、異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や知識にも個人差があるだろう。だから、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわない。正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶもので、仮説的契約だ。実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。それを調べるためには、現代の哲学者ジョン・ロールズの論理を考える必要がある。ロールズはカントと同じく功利主義を批判し、正義の原理は仮説的な社会契約から導かれるとした。彼は「無知のベール」という考えで仮説的契約を考える。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だと主張する。その原理については次回考える。ちなみにロールズはハーバード大学の教授であった。


Lecture14「契約は契約だ」

前回の講義では、カントの定言命法について話し合い、カントが嘘に対して、どんなふうに定言命法の考え方を適用するのか考えた。カントの道徳理論を適用した例を、もう1つ見ていきたい。それはカントの政治理論だ。

カントは、正義にかなう法はある種の社会契約から、法はただ発生するのだという。しかしこの契約は、特殊な性質の契約だ。この契約を、特殊なものにしているのは、人々が共に集まって、憲法をどのようなものにしようか考えて生じる現実の契約ではない。カントの指摘によれば、正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶものなのだ。それは、憲法を制定する会議に集まった現実の人々の間を現実の契約ではない。

なぜそうではないのか。カントはこう論じる。

本物の憲法制定会議に集まった、現実の人々は異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や、知識にも個人差があるはずだ。ということは、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわず、必ずしも権利の原則に従うものでもなく、ただ単に、交渉能力や特殊な利害関係、ある人は他の人よりも法律や政治についてよく知っているかもしれないという事実、それを反映したものになってしまうだろう。そのためカントはこう述べている。

権利の原則を生み出す契約は、単なる理性の理念である。しかしそれは、疑いのない実践的な現実を持っている。それは、すべての立法者に法を起草する際、その法が国全体の統一意思によって生み出されたかのように起草するよう義務付けることができる。

だからカントは契約論者だ。しかしカントは、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。このことは当然ながら、1つの疑問を提起する。仮説的契約、つまり、実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。これが今回、私たちが取り上げるテーマだ。

しかし、それを調べるためにはまず、現代の哲学者、ジョン・ロールズに向かう必要がある。

ジョン・ロールズは、彼の著書『正義論』で、正義の根拠としての仮説的合意の重要性について非常に詳細に解き明かしている。ロールズの正議論は、大体のところで、2つの重要な点でカントの理論に沿っている。カントと同じくロールズも功利主義を批判した。

人間は正義に根ざす不可侵性を持ち、社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできない。正義により守られたその権利は、政治的な交渉や社会の利益の計算に左右されることはない。

ロールズの理論が、カントに従っている2つ目の点は、「正義の原理は、現実の契約ではなく、仮説的な社会契約から導かれるる」という考え方である。ロールズはこれを彼の考案した無知のベールという考え方を使って、非常に詳しく説明している。

私たちが尊重しなければならない、基本的な権利、権利と義務の基本的な枠組みに到達する方法は、次のように想像してみることだ。

それは私たちが、これから団体生活をはじめるにあたって、団体生活の原則を決めようとしているのだが、そこに集まっている人々が、それぞれどんな立場にあるどんな人間かを、私たちは全く知らないという状況だ。これが「無知のベール」という考え方だ。

さて、私たちが今ここにいるように、みんなで集まって、集合的生活をおさえる正義の原理を考え出そうとしたら、どんなことが起こるだろうか。それぞれの人々の異なる利益を反映して、意見や提案の不協和音が起こるだろう。強い人もいれば、弱い人もいるし、金がある人も、ない人もいる。

だがそうではなく、平等な原初状態で集まっているとしてみよう、とロールズは説く。

その平等を保障するのが、無知のベールだ。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像してみてほしい。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康であるか、そうでないかなどを一時的に取り除くか、隠してしまう。その場合にのみ、私たちが合意する原理が正義の原理となるだろう、とロールズは説く。

仮説的契約は、このようにして機能するのだ。

この種の仮説的合意の、道徳的な効力とは何か。現実の合意や現実の社会契約よりも強いのか、それとも弱いのか。その問いに答えるには、現実の契約の道徳的な効力をしっかりと確かめなければならない。

問うべきことは実際には2つある。

その1つは、現実の契約はいかにして私を拘束するか、義務を負わせるか、これが1つめの疑問。
2つ目の疑問は、現実の実生活の契約は、いかにして契約の生み出す条件を正当化するのか、2つ目の疑問についてはロールズとカントは一致している。

現実の契約は、いかにして契約の条件を正当化するのか、という問いに対しては、両者ともに正当化しないと答える。

少なくとも、現実の契約、それ自体では正当化しない。現実の契約は、それだけで十分な道徳的な手段ではない。いかなる現実の契約、または合意においては、合意している内容が公正かどうか、いつでも問うことができる。合意したという事実は、その合意の公正さを保障するものではない。

それは私たちの憲法評議会をみればわかる。評議会は奴隷制の存続を認める憲法を制定した。それは、合意された現実の契約だった。だがそのことは、合意された法のすべてが正義にかなうことを証明はしない。となると、現実の契約の道徳的な効力とは何だろう。

契約は私たちを拘束する範囲において、2つの方法で義務を負わせることなる。わかりやすいように例をあげてみよう。

私たちは契約を結ぶ。営利目的の契約だ。もし君が私にロブスターを100匹取ってくれば、私は君に100ドル払うという契約を結ぶ。君は、ロブスターを捕まえて持ってくる。私はロブスターを食べ、友達にもごちそうするが支払わない。

君は「あなたには支払う義務がある」と言うが、
私は「なぜだ?」という。
君は言う「私たちは取引をした。あなたは利益を得た。ロブスターを全部食べたじゃないか」
これはとても強力な主張だ。私が君の労働から利益を得たという事実に基づいた主張ではあるが、このように契約が相互の利益の手段である場合には、契約は私たちを拘束する場合がある。私はロブスターを食べた。だからロブスターを取ってきた君に100ドルの借りがあるわけだ。

しかしここで2番目の例を見てみよう。
さっきと同じく100匹のロブスターと100ドルの契約だが、契約をして2分後、君が漁に出掛ける前に、私は君に電話をかけ直し気が変わったと告げる。となると、私は何の利益も得ず、君もなんの仕事もしていない。つまり相互の交換という要素は何もないわけだ。

この場合はどうだろう。合意したというだけで、私には100ドル支払う義務があるだろうか。100ドル支払う義務があると思う人は?なぜかな?よし君!なぜ支払う義務がある?2分後に電話したから、まだ君は何もしていないのに。
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学生A:契約を作成するのに、僕は時間と労力を費やしたし、それに僕には仕事をするという情緒的な期待もあるからです。
契約の作成に時間がかかった?いや、我々は電話でやりとりしただけだ。
学生A:でもそれだけ正式な契約にはなりません。
では、FAXだ1分で済んだ。(会場笑い)

学生A:何らかの労力が費やされた限り、契約は有効で効力が生じると思います。
でもなぜ、なぜそれが、私に道徳的な義務を負わせることができるのかな?同意したことは認めるが、君は何の仕事もしていないし、私は何の利益も得ていない。

学生A:ロブスターを捕まえる作業を、心の中でやり終えたかもしれないからです。
ロブスターを捕まえる作業を心の中でやり終えた?でもそのことにそれほどの価値はないだろう。ロブスターを捕まえにいくことを想像したことに100ドルの価値があるのか?(会場笑い)

学生A:100ドルでなくとも、ある程度の価値を見出す人がいるかもしれません。
よろしい、1ドルならあげてもいい。しかし面白いことに、君はまだ契約の相互関係的な側面を指摘しているね。君は私のためになることをする、あるいはすると想像している。

学生A:例えば2人が結婚することに合意したとします。その2分後にどちらかが気が変わったと言います。でもこの契約は、双方に義務を負わせるのでは?(会場笑い)どちらもまだ何も支払っていないし、仕事もしてませんし、利益も得ていませんが。
私は何は義務はないと言いたいね。(会場笑い)
学生A:いいでしょう(会場笑い&拍手)

よろしい、名前は?
学生A:ジュリアン。
ありがとう、ジュリアン。誰か他にジュリアンと同じに、私にはまだ金を支払う義務がある、と考える人はいるかな?ただし他の理由で。君、立って!

学生B:契約を取り消すと、契約という制度を軽んじることになると気がします。
よろしい、だがなぜだ?
学生B:これはカント的だと思うのですが、相手が私が契約を履行することを期待して契約を結ぶことには内在的な価値があると思います。

よろしい。自分で義務を引き受けておきながら、取り消せば、契約の本来の趣旨を軽んじることになるだろう、そういうことだね?
学生B:そうです。
名前は?
学生B:アダムです。
 
アダムの意見は互いの利益や相互交換ではなく、合意のみに焦点を当てた意見だ。つまり、現実の契約が義務を発生させるには、実際に2つの異なる道があることが分かる。1つ目の方法は、自発的な行為としての同意と関係がある。アダムはこれをカント的な考えだと言ったがアダムは正しい。なぜならそれは、自律という理想を示しているからだ。

私が契約をする時、その義務は私が私に課したものである。そのことは、他の考慮事項とは関係なく、ある種の道徳的な重みを持っているのだ。そして契約の議論に、道徳的な効力を発生させる2つめの方法は、現実の契約は総合的な便益の手段である、ということと関係がある。

これは相互性という理想を示している。つまり、私はあなたに対して義務を負う。なぜかと言うと、あなたが私のために何かをしてくれるからだ。

私たちは今、道徳的な効力と、現実の契約の道徳的な限界を考えているわけだが、ここで、現実の契約の道徳的な限界について論じてみたい。

人と人とが集まって、君がそれをするなら私はこれをしよう、と取り決める時、どんな道徳的な要素が生じるか、もう皆にも分かっていることと思う。

まず、2人が何かを交換することに同意したからと言って、2人が合意した条件が公正であることにはならない、ということについて論じたい。

私の2人の息子たちが小さかったころ、2人は、ベースボールカードを集めては取りかえっこをしていた。上の子と下の子の年齢差は2歳あったから、カードを交換する際には、「私がいいと言わなければ取引は完了しない」というルールを作っていた。(会場笑い)

理由は言うまでもない。上の子はカードの価値について、下の子よりよく知っていたから、下の子の無知に漬け込むだろう。だから、2人の合意が公正であることを確かめるために、私が取引を確認していたわけだ。まぁ父親の干渉主義だね。(会場笑い)

確かにその通りだ。そのためにこそ父親への干渉主義があるのだ。
このことは何を示しているか。それは合意したからといって、合意条件が公正であることにはならないということだ。何年か前に読んだシカゴの新聞記事を紹介しよう。

ローズと言う夫と死に別れた84歳の女性が、トイレの水漏れで困っていた。ローズはトイレの修理を頼んだのだが、悪徳業者と契約を結んでしまった。そして、修理代は5万ドルという契約にサインをしてしまった。ローズが同意してしまったのは事実だ。彼女は正常な精神状態にあったが、おそろしく世間知らずで、配管工事の値段の相場を知らなかったのだ。幸運なことに、この契約は発覚した。銀行に行き、2万5千ドルを引き出そうとすると、窓口の係が、こんな大金を何に使うのかと訊ねたのだ。ローズは「トイレが水漏れするのよ」と答えた。そこで係が当局へ通報しこの悪徳業者は逮捕された。

さて、この教室にいる最も熱心な契約論者でさえ、ローズが同意したという事実は、同意の条件が公正であるという、十分な条件にはならないということに、賛成してくれると思う。誰か異議がある人は?誰もいないね?私が見逃しているのかな?アレックスどこだい?出ておいで?(会場笑い)では、異論はないね?私の最初の主張。

同意の事実は、義務があることの十分条件ではない、には皆も賛成だね?

では、現実の契約の道徳的な限界についてさらに一歩進んだ、より論議を引き起こす主張をしてみたいと思う。

契約、ないしは、同意したという事実は、義務があることの十分条件でないだけでなく、必要条件でさえない。
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ここでの考え方は、相互性があれば、つまり、便益の交換があれば、同意がなくても義務が発生しうる、というものだ。

これについていい例が1つある。
18世紀のスコットランドの道徳哲学者デービッド・ヒュームだ。

ヒュームは若かったころ、ロックの原始社会契約の考えに反論する本を書いた。契約論的な考え方にあざけりのことばをあびせ、「社会契約などという考え方は、哲学的なフィクションであり、どう考えても理解できない、神秘的な考え方だ」と述べた。

ところが62歳になった時、ヒュームは義務が生じる根拠としての同意を認めない自分の考えが、実際に試される経験をした。

ヒュームはエジンバラに家を持っていた。彼はそれを友人に貸し、友人はさらに知人にまた貸ししていた。その知人は家にはペンキの塗り直しが必要だと判断し、塗装業者を雇った。業者は仕事を終え請求書をヒュームに送った。ヒュームは自分は同意していないこと、業者を雇ったのは自分でないことを理由に支払いを拒否。裁判となった。

その業者は、ヒュームは同意していないが、家は塗装が必要で「私はとてもいい仕事をした」と述べた。(会場笑い)
ヒュームは納得しなかった。この業者の唯一の論拠は、その仕事はなされる必要があったということだ。だとすれば業者は、エジンバラ中の家に行って、家主の同意がなくとも業者が考えるところの「なされる必要がある仕事」をしてしまい、あとから、その仕事は必要であり、そのために家はよくなった、という理屈を持ち出せばよいことになってしまう、と考えたからだ。

だからヒュームは、同意していないのに利益に報いる義務が生じうる、という理論が気にいらなかった。しかし、裁判には負け、ヒュームは支払いを余儀なくされた。

もう1つ例をあげよう。
義務の同意に基づいた面と、便益に基づいた面との違いについて考え、その2つの面が一体となるときもあることを考えていこう。

これは私の個人的な経験だが、何年か前、友人たちと一緒に、全国横断ドライブ旅行に出かけた。気がつくと、インディアナ州、ハモンドあたりのどこだかわからないところへ来ていた。私たちは休憩所で止まり、車を降りた。しばらくして戻ると、車は動かなくなっていた。私たちの中に車に詳しい人間は1人もおらず、どうすればいいのか途方にくれていると、駐車場にトラックが入ってきて私たちの隣に止まった。

そのトラックには、サムの移動修理トラックと書かれており、トラックから男が降りてきた。推測するにサムだ。彼は私たちのところにやってきてこう言ってきた。「お手伝いしましょうか?」私は1時間50ドルで修理を請け負います。もし5分で修理が終わっても50ドル頂きます。1時間で修理が終わらなくても50ドルいただきます。

そこで私は、車を直せる確率はどれくらいあるかをたずねた。彼は答えずに、ハンドルの下側をのぞき込み、あちこちいじり始めた。しばらくして、彼は下から這い出し、点火装置には問題ないですが、あと45分ありますから、ボンネットの中もみましょうかと言った。

私は言った、「ちょっと待て。まだ君を雇ったわけじゃない。まだ何も合意していないじゃないか。」すると彼はとても怒り、「私がハンドルの下を見ているときに、車を直したとしても、支払わないつもりだったのか」と言った。そこで私は「それはまた別の問題だ」と言った。(会場笑い)

しかし私は、同意による義務と利益による義務の違いにまでは踏み込まなかった。彼は自分がハンドルの下を覗いている間に車が直ったら、50ドルもらうのは当然だ、と考えていた。私も確かにそれはそうだと思う。だから彼は、そこから、私たちは暗黙のうちに合意したと推論した。論理展開上、過ちのある推論だが、それが彼の怒りの背景にある、と私は思う。しかし、それは私に言わせれば、その推論は間違いだ。契約の論拠の2つの面をわかっていない間違いだと思う。もし彼が、私の車をなおしていたら、私は彼に50ドルを支払う義務があったろう。だが、それは暗黙の契約を結んだからではない。実際は契約を結んでいないのだ。そうではなく、彼は車を直したことで、私に利益を与えたわけだから、相互性と公正さ考えれば、私は彼に支払いの義務を負うのだ。

これが契約の道徳性の2つの面、同意に基づいた義務と、利益に基づいた義務の違いだ。

私のしたことが正しかったと思う人は何人くらいいるかな?(会場大多数)これは心強いね。
では私が間違っているという人は?いるかな?いたよ!それはなぜかな?

学生C:便益とは、主観によって決定されるものですよね。もし先生が車が壊れることを望んでいたのに、彼がなおしてしまったとしたら。
いや、壊れろとは思っていなかった
学生C:この場合はね。
誰が壊れろなんて思うんだ。
学生C:そういう人もいるかもしれません。もしヒュームが、塗装業者に家を青く塗られてしまい、青が嫌いだったらどうでしょう。自分が望む便益が何かを、相手が行動を起こす前に決めなければダメですよね。

君は、そこからどんな結論を導き出そうとしているのかなぁ。同意は義務があることの必要条件だと結論付けようとしているのかな?
学生:そうです。
そうか、名前は?

学生:ネイトです。 
ネイトの意見はこういうことだ。個人個人で異なる主観を評価しないならば、便益の交換が、等価ないし、公正なものだったかどうかどうやって私たちにわかるのだろうか、ということだ。なかなかいいところをを突いている。
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契約の道徳性についての2つの面の関係を試すために、もう1つ別の例を出そう。
結婚して20年間、私には妻以外の女性はいなかったとしよう。ところが20年経ってから、毎年恒例の全国旅行の際、妻が他の男と会っていたことが判明した。インディアナ州の移動修理トラックの男だ。(会場笑い)もちろんこれはフィクションだ。(会場笑い)

私の道徳的怒りには、2つの論拠がある。
1つ目は私と妻は互いに貞節(テイセツ)であることという契約をしていたのに、妻がその契約を破ったことだ。これは同意に関わる。
しかし2つ目は、契約とはまったく関係ない怒り、私は操(ミサオ)を守ってきたのにこれではあんまりだ!これが貞節であったことの見返りなのか、と言ったような怒りには、相互性の要素があるように思う。

どちらの理由も独立した道徳的な効力を持っている。それは一般的な点だ。それはこの例のバリエーションを想像してみればわかる。例えば私たちは20年は結婚していなかったとしよう。私たちは結婚したばかりで、妻の裏切りはインディアナ州、ハモンドへの新婚旅行の際中に起こった。契約が結ばれた後だが、私の側には、まだ何の遂行の歴史もない。(会場笑い)契約の遂行という意味だ。(会場笑い&拍手)

それでもまだ私は「約束しただろ!」と言えるだろうか。ジュリアンが一緒にいてくれたら、君は「約束した」と言うだろうね。
この例は、たとえ何の便益をまだ得ていなくても、それは関係ない。この考え方はわかるだろう?

中心となる考え方はこうだ。
現実の契約が、道徳的な効力を持つのは、自律と相互性という、2つの区別される理想のおかげである。

しかし、実際の日常における契約では、契約に道徳的な効力を与えるこの2つの理想が欠けていたり、実現しなかったりすることがある。自律の理想は、参加者の交渉能力に差がある場合は、実現しないかもしれない。相互性の理想も、参加者の知識に差がある場合は、実現しないかもしれない。参加者が何と何とが同等の価値を持っているのか、誤って認識してしまうかもしれないからである。

それでは考えてみよう。
自律と相互性の理想が偶発的に作用される、実現されることが保障されている契約とは、どのような契約でなければならないのだろうか。参加者たちの力と知識が平等である場合、また、参加者たちが異なった状況に置かれずに、全員が同一の状況の場合、その時の参加者たちの間の契約を考えてみよう。

これが、ロールズの主張すること。
つまり、正義について考える方法は、無知のベールの背後の仮説的契約という考え方にある、という思想だ。

無知のベールは、平等な状態を作り出す。一時的に参加者の間の力や、知識の差をなかったことにしたり、忘れたりすることにより、不公正な結果が導き出されることを、原理的に阻止するのだ。

これが、カントとロールズが平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だ、と主張する理由だ。

ではその原理とは、どのようなものになるだろうか。それについてはまた次回。