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JUSTICE 第6回「行動ではなく動機に正義の源があるのか」「哲学者カントの道徳性の最高原理」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」

今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは1つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture11
MIND YOUR MOTIVE
Lecture12
THE SUPREME PRINCIPLE OF MORALITY 


時間:55:14



Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」

さぁ、今日はこの講義の中で、もっとも難解な哲学者である。
イマヌエル・カントにとりかかる。
彼はなぜ私たちは人の尊厳を尊重しなければならないのか、なぜ良い目的であっても人をただの道具として使ってはいけないのか、ということについて独自の説明をしてくれる。
カントは16歳でケーニヒスベルク大学を卒業した。31歳で初めて大学講師の職を得た。給与は完全歩合制で授業出席した学生の数に基づいて支払われた。これはハーバードも検討すべき懸命なシステムだ。(会場笑い&拍手)

カントは人気講師で勤勉だったので、貧しいながらも何とか生計を立てることができた。57歳でようやく最初の主要作「純粋理性批判」を発表。しかし、それは待つに値するものだった。
おそらく近代哲学における最も重要な著作だろう。それから数年後カントは私たちがこの授業で読む「人倫の形而上(けいじじょう)学の基礎づけ」を書いた。
たしかにカントは難解な思想家だ。しかし、彼の言っていることを理解しようとするのは重要なことだ。
なぜなら彼はこの本で、道徳性の最高原理は何か、ということを説いているからだ。さらに彼は自由とは何か、という問題に対して強力な説明を与えてくれる。
では、はじめよう。

カントは功利主義を認めなかった。彼はこう考えていた。
全ての個人、全ての人間は、私たちが尊敬するに値するある種の尊厳を持っていると。
カントによれば個人が神聖であり、権利の担い手である理由は自分自身を所有しているからでなく、私たちは皆、理性的な存在だからだ。
理性的な存在というのは、単純に理性を行使できる存在である、という意味だ。
私たちはまた、自立した存在でもある。つまり、自由に行動し、選択性能力がある、ということだ。

ところで、この理性と自由の能力以外でも私たちには能力がある。
苦痛と喜び、苦しみと満足の能力だ。
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カントは功利主義者にも正しい部分があると認めている。
もちろん私たちは苦痛を避けようとし、喜びを好む。
カントはこれを否定してはいない。彼が否定しているのはジェレミーベンサムの苦痛と喜びは我々は最高の支配者である、という主張だ。
カントは私たちの理性的な能力が私たちが特別なものにし単なる動物的存在から引き離す、と考えていた。
それは私たちを、欲求を持った肉体的な生き物以上のものにすると。

ところで、私たちはよく、自由とは望むことができることだと考える。
あるいは望むものを手に入れる上で障害がないことだと。
しかし、これはカントの考える自由ではない、カントの自由な概念はもっと厳格で厳しいものだ。
しかし、じっくり考えてみれば、実は非常に説得力のあるものだとわかる。

カントはこう推論した。
私たちが動物のように喜びや満足や欲望を追い求め、苦痛を避けようとした時、本当に自由に行動しているとは言えない。
なぜか、実際には私たちは欲望や衝動の奴隷として行動しているからだ。
私たちは特定の餓えや欲望を選ぶわけではない。
だから、それを満足させるために行動するのは自然の必要に迫られているからに過ぎない。
そしてカントにとって、自由と必要は相反するものだ。

2、3年前、ある炭酸飲料のこんな宣伝文句があった
それは「渇きに従え」というものだ。

この宣伝文句にはカント的な洞察が埋め込められている。
これはある意味、カント主張だ。

君たちは炭酸飲料を求める時、自分は自由に好きなものを選んでいる、と思うかもしれない。
実際はそうではなく、喉の渇きや宣伝によりつくられ、操作された欲望に従っている。
自分自身で選んだわけでも、つくってもない支持に従っているのだ。
そしてここが、カントの考える特別に厳しい自由の概念の注目に値する概念だ。

私たちはどのように行動すれば周りからの刺激や餓え、欲望、願望の支持に従うことなく、自分の意思を決定することができるのだろうか。
カントの答えはこうだ。
自由に行動することは自立的に行動することである。そして、自立的に行動することは自分自身で与えた法則に従って行動することであり、食べたり飲んだりする欲望、レストランで食べ物を選ぶ欲望といった、物理的な法則や原因と結果の法則に従うことではない。

では、その反対は何だろうか。自立の反対は何だろうか。

カントは自律の反対の意味を持つ、特別な用語を考えだした。
それはヘテロノミー、他律だ。

他律的に行動する時、私たちは自分で選んだわけではない、本能や欲望、つまり、傾向性に従っている。
だから、自律性としての自由はカントは強く主張した得に説得力のある考えだ。

では、なぜ、自立の反対が他律的に行動すること、あるいは、自然の命令に従って行動することなのか。
カントは資源は法則によって、例えば、原因と結果の法則に支配されていると言う。

ボールを落とすとしよう。それは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。
なぜなら、それは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に従って動いているからだ。

カントはこのように厳しい説得力のある自由の概念を持っていたが、それだけでなく、同じように厳しい道徳性の概念も持っていた。自由に行動することは与えられた目的のために最善の手段を選ぶことではなく、目的自体のために目的を選ぶことである。そして、それは人間にはできるがボールにはできないことだ。

傾向性に従って行動する時や快楽を追う時、私たちは外から与えれる目的を実現する手段として行動している。
私たちは自分が追い求める目的の作者ではなく、むしろ道具になっている。
それが他律的な意思の決定だ。

一方自立的、つまり自らが与える法に従って行動する時、私たちはそれ自体を目的としてそのために行動する。自立的に行動する時、私たちは外から与えられた道具であることをやめ、自分自身を自分自身の目的として考えられるようになるのだ。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。
人の尊厳を尊重することは人を単なる道具とみなすのではなく、目的そのものとして考えることを意味する。
だからこそ他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いである。
これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。
だからこそ、人の尊厳を尊重し、権利を守ることが重要なのだと。

思い出して欲しい、ジョンスチュワートミルは私たちは正義を守り、人の尊厳を尊重すれば、長期的には人間の幸福を最大化できると言った。これに対してカントはどう答えたか。彼はこう答えた。

例えそれが真実で、その計算がうまくいったとしても、たとえ将来的に恐怖が広がり、効用が低下するから、ライオンと戦わせるべきではないと判断したとしても、功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。まさに無条件ではない理由。つまり、道具的な理由のためだ。将来的に計算がうまく行き、最善な結果がもたらされる結果が出ても、それは人を目的そのものとして尊重しているのではなく、むしろ手段として使っていることになる。

これがカントの考える自立としての自由だ。
このあたりから、彼の自由と道徳性の概念のつながりが見えてくる。
しかし、まだ答えの出ていない問題がある。
何が行動に道徳的価値があるのか、という問題だ。

効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。
これは私たちをカントの厳しい自由の概念から厳しい道徳性の概念へと導く。

カントはこう言っている。
行動を道徳的に価値のあるものにするのは、そこから生じる帰結でも、結果でもない。
行動を道徳的価値のあるものにするのは、動機、意思の質、そして行為がなされる意図である。

重要なのは動機だ。
そして動機はある種のものでなければならない。

つまり、行為の道徳的価値は動機で決まる。そして重要なのはその人が正しい行いを正しい理由ですることだ。
善意はその結果や成果のために良いものになるのではない。それ自体が良いものなのだ。
最善の努力をもってしても、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして宝石のように光り輝く。

どんな行為でも道徳的に良いであるためには道徳法則に従うだけでなく、道徳法則そのもののためになされなければならない。
動機は行為に道徳的価値を与える。そして行為に道徳的価値を与えることができる唯一の動機は義務の動機である。ということだ。
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では、それが正しいからという理由で義務感から何かをする反対とは何だろうか。
カントはその反対は、我々の傾向性に関係する全ての動機だと言う。
そして、傾向性は私たちの全ての欲望、全ての偶然に与えられた願望、好み、衝動などを意味している。

道徳法則のため、そして義務のためになされた行為だけが道徳的な価値を持つ。これについて君たちがどう考えるか聞きたいが、その前にいくつかの例を考えてみよう。

カントはまず、ある店の主の例を出した。
行為に道徳的価値が与えられるのは、それが正しい理由がなされた場合のみだ。
ということを直感的に理解させようとしたのだ。

ある店に買物に不慣れな客が入ってくるとしよう。
そこの店主はその客に渡すおつりをごまかしても彼にはバレないことを知っている。少なくともその客にはわからない。しかし、そこで店主は考える。いや、もしこの客のおつりをごまかしたらうわさがたつ。自分の評判が傷つき、客がこなくなるだろう。だから、おつりをごまかすのはやめよう。亭主は間違ったことはせずに、正しいおつりを渡す。

彼の行動に道徳的な価値はあるか。カントはないという。

亭主は自己の利益という間違った理由で正しいことを行っただけで、そこには道徳的価値はない。
これはとてもわかりやすい事例だ。

カントはもう1つ。自殺の事例を取り上げている。
彼は私たちには自分を守る義務がある。人生を愛するほとんどの人は自分の命を奪わない理由をいくらでもあげられるだろう。
だが、自殺しない真の動機を見極めるためには、誰かひどく不幸で本当に悲惨な生活をおくっている人のことを想像する必要がある。

つまり、ひどく不幸で、惨めな生活をおくっているが、それにも関わらず自分自身を保つ義務をきちんと認識し自殺せずにいる人だ。
この例の意味するところは重要な動機を明るめに出す、ということだ。そして、道徳性のために重要な動機は義務のために正しいことをすることだ。

他に1つ、2つ例をあげてみよう。商事改善協会の例だ。
彼らの標語を知っているかな?正直は最善の策。そして、もっとも有益なもの。
これはニューヨークタイムズ誌に載った商事改善協会の広告だ。
正直さ、それは財産と同様に重要なもの。真実と公開性、公正な値段による取引は必ずうまくいくからだ。我々と一緒に利益を上げよう。

商事改善協会のメンバーの正直な取引の道徳的価値を、カントはどう見るだろうか。
彼らが顧客と正直に取引する理由は、利益を上げるためだ。だから彼らの行動には道徳的価値が欠けている。これがカントの主張だ。

あるいは数年前、メリーランド大学でカンニングの問題が起こり、彼らは自主管理制度をはじめた。地元の商店とともに作ったプログラムで、カンニングをしないという誓約にサインをすると、店で10%〜25%の割引を受けられる、というものだ。
割引のために倫理規定を守ろうとする人をどう思うだろう。
それはカントの店主の話と同じようなものだ。重要なのは意思の質、動機の性格だ。そして道徳に関係する動機は義務の動機だけであり、傾向性の動機ではない。そして人が義務によって行動し、傾向性や自己の利益、同情、他人の利益といった動機に抵抗するとき、人は初めて自由に、自律的に行動していることになる。そのときになって初めて、人間の意思は外部の考慮事項に決定されたり、支配されたりはしていないといえるのだ。これが、カントの言う自由と道徳性の概念の繋がりだ。

ここでいったん止めて、君たちがついて来ているか確認したい。
何か質問や、疑問がある人はいるかな?確認したい点がある人、あるいは義務の動機だけが行動に道徳的価値を与える、この考え方に意義があるならそれも聞こう。では君!

学生A:はっきりさせたい問題が二つあります。まず、この考え方には、一度何が道徳的かを意識すると、道徳性の目的を達成するために自分の動機を変えることができるような、ある種の自滅的な側面があるように思います。

例をあげてくれるかな。

学生A:店主の例です。客に正しいお釣りをおつりを渡そうと判断するとき、彼は道徳的になるために自分の動機を決められます。道徳性が彼の動機で決まるとすると、行動の純粋性を無にするようなものではないでしょうか。彼の動機は道徳的に行動することではありません。

つまり君が想像しているのは、ただ純粋に利己的で計算高い店主ではなく、客のおつりをごまかすことを考えているかもしれないが、口では悪いうわさがたつと、自分の評判が傷つく、とは言わずに、自分は客に正しいおつりを渡す正直な人になりたい、それが正しい行いにだからだ、という人のことだね?

学生A:あるいは道徳的になりたいから。

道徳的になりたい。良い人になりたい。だから道徳性が求めるものに従うようにする。
それは微妙なところだ。
君の質問はカントに重要なことを問い詰めている。カントは道徳法則に従うためには、何らかのインセンティブが必要だと言っている。それは自己の利益のインセンティブではない。それは定義からして意味をなさない。

彼が言っているのは、傾向性とは異なる種類のインセンティブで、それは道徳法則に対する敬意だ。もしその店主が、道徳法則に対する敬意を養いたいから、私は正しい行いをしよう、と言ったとしたら、彼の行為には道徳的価値があると思う。自分の動機を形成し、一度その重要性を理解すれば、彼の意思は道徳法則に一致するからだ。だからその行為には価値がある。

学生A:では2つ目の質問です。どうすれば完全に道徳性が主観的になることを防げるのでしょうか。
どうすれば、主観的になるのを防げるか?
学生A:そうです。道徳性が完全に自分の道徳によって決められるのであれば、どのようにこれを適用できるのでしょうか。
すばらしい質問だ!君の名前は?
学生A:アマディです。

アマディ、ありがとう。
確かにアマディの言うとおり、道徳的に行動することが、義務から道徳の法則に従って行動することであり、自律的という意味で、自由に行動することであるのなら、私が、自分自身に与える法則に従って行動するのは、自律的に行動することを意味するはずだ。
しかしそれは、面白い問題を提起する。自律的に行動することが自分自身に与える法則に従って行動することを意味し、原因と結果の法則や自然法則から逃れる方法なのであれば、私が義務から行動している時、自分自身に与える法則が、アマディが自分自身に与える法則や、君たち一人一人が自分自身に与える法則と同じだという保証は、いったいどこにあるのだろうか。

ここで問題だ。カントはこの教室にいくつの道徳法則があると考えるだろう。1000か、それとも1つか。
彼は1つだと考えた。それはある意味で道徳的法則とは何か、という問題に戻る。

自律的に行動することは、良心に従って、つまり自分自身の法則に従って行動することだ。しかし私たちが理性を実行するとき、全員が同じ道徳法則を見つけ出すという保証はどこにあるのか。

カントの答えはこうだ。
私たちは皆、自律的な存在として自分に法則を与えるが、そこへ導く理性は一つである。
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それはある種の実践的な理性であり、私たちが人間として共有しているもので、特異なものではない。人の尊厳を尊重する必要があるのは、私たちが、皆、理性的な存在だからだ。そして誰もが持っている理性の能力を実践することが、私たちすべてを、尊厳に値するものにしているのだ。そして、その理性の能力は、経歴や環境に左右されず、誰もが持つ普遍的な能力であり、道徳の法則を実現するものであるから、自律的に行動することは、結局私たちが自分に与える法則に従って行動し、理性を実践することなのだ。

それは私たちが共有している普遍的な理性であり、生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それはカントの言葉を借りれば、純粋実践理性であり、特定の目的とは無関係に、アプリオリに、つまり、経験的認識に先だって法則を制定するものだ。

そのような理性が実現する道徳法則とは、何だろうか。どんな内容なのか。
その質問に答えるために、次回は、人倫の形而上学の基礎づけを読んでいこう。


Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

カントが設定した3つの対比を知ることでカントの哲学を理解するのに役立つ。1つ目は道徳(義務vs傾向性)、2つ目は自由(自律vs他律)、3つ目は理性(定言命法vs仮言命法)。1つ目の対比。カントは道徳性をもたらす動機は唯一「義務」だと言った。反対に自分の欲望や好みを満足させる、あるいは何らかの利益を追い求めることで動機がある場合、私たちは「傾向性」に従って行動しているとした。自分勝手で複数な動機を持っていたとしても、そこに義務がからむ動機があり行為に結びついていたとすれば道徳的に価値があるとする。2つ目の対比。カントは人が自由なのは「自律的」に意思を決定するときだけだという。つまり自分に与える法則に従うときだけであり、それは理性からくる。その理性はどうやって意思を決めることができるのか。それが3つ目の対比に繋がる。カントは理性は2種類の命令を出すという。命法の1つが仮言命法だ。XがほしいならYをしよう。目的に対して手段を選ぶ理性。もし行為が単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。行為がそれ自体においてよいと示され、それが理性と一致している意思のために必要であるなら命法は定言命法だ。定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。自律的な意味で自由になるためには、定言命法から行動することが必要になる。理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。


Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

今週で君たちも基本的にカントを理解し、今週で君たちも基本的にカントを理解し、彼が何をしようとしたのかわかるだろう。笑ってるね。でも本当にそうなる。カントはその著作『人倫の形而上学の基礎付け』で、2つの大きな問題に取り組んだ。1つ目は、道徳性の最高原理は何か、2つ目はどうすれば自由は可能になるか、この2点だ。

さて、カントの密度の濃い哲学書を理解する1つの方法は、互いに関連している2つの事柄の対比や対象、あるいは二言論を整理しながら読んでいくことだ。今回はそれらについて話したい。

これから、カントの提起した道徳性の最高原理は何か、という問いに答えていく。この問いに対するカントの答えにたどり着こうとする中で、カントが設定した3つの対比、あるいは二原論を覚えておくことは役に立つだろう。

1つ目の対比は、私たちの行為の動機、つまり何に基づいて行動するか、ということに関係してくる。

彼は、道徳性をもたらす動機は唯1つだけで、それは義務だといった。その場合、正しいことを正しい理由でしていくことになる。では他にはどんな動機があるだろう。カントはそれらを傾向別に分類した。
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私たちの動機が自分の欲望や好みを満足させること、あるいは何らかの利益を追い求めることである場合、私たちは傾向性に従って行動していることになる。

さてここで、君たちの意見を聞きたい。義務や善意の問題について考える上で、カントの主張に何か質問がある人はいるかな。それとも皆、納得しているだろうか。どうかな。君!

学生A:本当に道徳的な行動は存在するのでしょうか。いつも何かしら自分勝手な動機があるのではないでしょうか。

人は多くの場合、自己の利益のために行動するだろう。カントもそれを認めている。しかしカントが言っているのは、私たちが道徳的に行動する場合、つまり、私たちの行為に道徳的価値がある場合、その価値を与えるのは、自己の利益や傾向性を超越し、義務に基づいて行動できる私たちの能力だ、ということだ。
何年か前、私は単語を正確につづれるかどうかを競う、スペリング・コンテストについての記事を読んだ。そこには優勝したアンドリューという13歳の少年のことが書いてあった。彼が勝利を決めた単語は、エコラリアった。エコラリアを知っている人はいるかな。

学生B:花?花の名前?
いや花の種類ではない(会場笑い)

それはエコーのように聞いたことを反復する傾向のことだ。いずれにしても、彼は実際は綴りを間違えていた。だが、審判が聞き間違えたために、彼は全国スペリング・コンテストの優勝者になってしまった。しかし、彼はあとで審判のところに行って、本当は自分はスペルを間違えたので賞に値しない、と言ったんだ。彼は道徳的な英雄と見なされ、ニューヨークタイムズ紙にも載った。スペルをまちがえたスペリング・コンテストの英雄(会場笑い)。これがアンドリュート。自慢げな母親だ(会場笑い)

しかしここからが重要だ。
彼はあとでインタビューを受けたとき、自分が真実を告げた動機をこう説明した。
「審判の人たちは、僕がとても誠実だと言いましたが、僕は自分が嫌や奴だと思いたくなかったのです。」

さあ、カントは何と言うだろう。どうぞ。

学生C:それが、彼が綴りをまちがえたことを告白しようと決めた、決定的な理由だったか、それともほんの一部の理由だったかに寄ると思います。

君の名前は? 
学生C:バスコです。 

おもしろい意見だ。誰かこれについて他に意見がある人。カントの原則はあまりにも厳格で要求が厳しすぎるのか、カントはこれについて何というだろうか。君!

学生D:カントは行為に道徳的な価値を与えるのは、義務から生じた純粋な動機だというのではないでしょうか。この場合、彼は複数の動機を持っていたかもしれません。自分を嫌な奴だと思いたくないという動機の他に、義務から正しいことをするという動機も持っていたかもしれません。ひとつ別の動機を持っていたからというだけで、彼の行為に道徳的価値が欠けていることにはならないと思います。義務がからむ動機は、行為に道徳的価値を与えるものだからです。

君の名前は。
学生D:ジュディスです。

ジュディス、君の説明はカントに忠実だと思う。道徳以外の別の気持ちや感情が行為を支えるだけで、動機そのものにならない限り、それは問題ない。ジュディスはこの動機の問題について、とても的確にカントを弁護してくれた。 ありがとう。

さあ、ここで、3つの対比の話に戻ろう。

ある行為が、道徳的価値を持つためには、傾向性からではなく、それを義務のために行わなければならない、というカントの意図はよくわかった。しかし、前回の講義で触れたように、カントの厳格な概念と、特に厳しい自由の理解の間には繋がりがある。

そしてそれは、2つめの対比、さらには道徳性と自由の繋がりに通じる。2つ目の対比は、自律的と他律的という人の意思を決めることができる2つの異なる方法を表している。カントは人が自由なのは、自律的に意思を決定するときだけだという。つまり、自分に与える法則に従うときだけだ。

私たちに自律としての能力があるなら、押しつけられる法則ではなく、自ら与える法則に従って行動できるはずである。しかし、私たちが自分自身に与える法則とは、どこからくるのだろうか。それは理性だ。
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理性が人の意思を決めるなら、その意思は自然の支配や傾向性、あるいは状況から独立して判断する力となる。だから、カントの厳しい道徳性と自由の概念に関係しているのは、特に厳しい理性の概念なのである。

では理性はどうやって意思を決めることができるのか。2つの方法があり、3つ目の対比に繋がる。

カントは、理性は2種類の命令を出すという。そして理性の命令を、カントは命法と呼んだ。命法とはしなければならないことだ。命法の1つは、おそらく最も親しみのあるもので、仮言命法だ。

仮言命法が使うのは、道具的理性だ。XがほしいならYをしよう。これは目的に対して手段を選ぶ理性だ。店の評判を良くしたいなら、うわさが立つかもしれないから客のお釣りをごまかすな。これが仮言命法だ。

もし行為が、単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。

行為がそれ自体においてよいと示され、それゆえ、それが理性と一致している意思のために必要であるなら
命法は定言的である。これが、定言命法と仮言命法の違いだ。

定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。これらの3つの対比の間に、繋がりが見えてきただろう。

自律的な意味で自由になるためには、仮言命法から行動するのではなく、定言命法から行動することが必要になる。

カントはこれらの3つの対比を用いて、私たちを、彼の考え出した定言命法にまで導いた。しかしここで1つの大きな問題が残る。定言命法とは何か。道徳の最高原理は何なのか。それは私たちに何を命令するのか。カントは定言命法について3つの定式をあげている。そのうちの2つについて、君たちの意見を聞きたい。1つ目の定式のことを、彼は普遍的法則の定式と呼んだ。

同時に 普遍的法則となることを意識しうるような格率に従ってのみ行為せよ。

格率とはどういうことか。
それは人がそれに従って行動する原則、原理だ。

例えば、約束を守ること。私には100ドルが必要だとする。なんとしても。でもすぐには返せない。君の所に行って、守れないとわかっていながら嘘の約束をする。「今日、100ドル貸してくれないか、来週返すから」この約束は、定言命法に合致しているか。カントはノーという。そしてウソの約束が、定言命法と喰い違っているといると判断する方法は、それを普遍化してみることだ。その行為の格率を普遍化してみるのだ。
お金を必要としている人が、全員ウソの約束をしているとしたら、誰もそれらの約束を信じなくなる。約束というものは機能しなくなり矛盾が生じる。普遍化された格率は、自らを掘り崩すのだ。

このテストによって、ウソの約束が間違いであることがわかる。普遍的法則の定式はどうだろうか。説得力があるだろうか。意見を聞きたい。君!

学生E:定言的と仮言的の違いについて質問があるのですが、もし、格率が、、。
定言的と仮言的の違い?
学生E:そうです。
命法だね?
学生E:はい。もし、格率が自らを掘り崩すことがないよう、定言命法で行動するとしたら、私はYがほしいからXをしますと言っているようなものです。私は世界が約束を守るように機能して欲しいからウソをつきません、ということです。

約束の慣行を壊したくないから?
学生E:そうです。それは目的により手段を正当化しているようです。
帰結主義者の理由づけのようだ、と言いたいんだね?
学生E:はい。
君の名前は?
学生E:ティムです。

ティム、ジョン・スチュアート・ミルも、君と同じ意見だった。彼も同じようにカントを批判した。ミルは「もしその格率を普遍化することで、約束を守る慣行がすべて破壊されるなら、それがウソの約束をしてはならない理由ならば、私は何らかの帰結に訴えなければならない」と言った。

ミルは君のカントに対する意見に同意していたんだ。だが彼は間違っていた(会場笑い)
でも君たちはよい同志だ。いい仲間だ。

カントは、ティムがちょうど彼を解釈したように、帰結に訴えるように解釈されることが多い。皆がウソをついたら、誰も他人の言うことを信頼できなくなるから、世界はいっそう悪くなる、だからウソをつくべきではない。そのように解釈されがちだが、カントは厳密にはそうは言っていない。

カントは「格率を普遍化するのはテストだ」と言っている。
それは格率が定言命法にあっているかどうかのテストであって、厳密には理由ではない。格率をテストするために普遍化しなければならない理由は、自分の特定の要求や欲望を、他の皆の者に対し、優先させていないかどうか、見るためだ。
自分の利益や要求、特別な状況が、他の人のそれより重要だという理由で、自分の行動を正当化するべきではない、というのが定言命法の特徴であり、要求である。

これが普遍化のテストの背後にある道徳的直観だ。

では、カントの2つめの定言命法について説明しよう。

たぶんこれは、普遍的形式よりも直観的に取っ付きやすいだろう。
それは目的としての人間性の定式だ。カントは定言命法の2つ目の定式を、次のような一連の議論で紹介している。

定言命法の根拠は、特定の利益や目的にあってはならない。なぜなら、そうするとそれが、目的の持ち主にだけ関係するものになてしまうからだ。

しかしながら その存在そのものが 絶対的な価値を持つもの、つまりそれ自体の中に目的を持つものがあると仮定すると、そのものにのみ定言命法の根拠が見いだされる。

では、この目的をそれ自体のなかに持っているものとは何か。カントの答えはこうだ。

人間、および一般的に理性的な存在すべてはl、目的自体として存在し、誰かの意思を恣意的に使用するための手段として存在するのではない。

ここでカントは、人と物を区別している。

理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。この一連の推論で、カントは定言命法の第2の定式にたどり着く。

君の人格にも、他のすべての人の人格にもある人間性を単に手段としてのみではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ。

これが目的としての人間性の定式だ。

理性的な存在としての人間は、自分自身の中に目的があり、単に手段として自由に使用するとはできない、という考え方だ。私が君にウソをつき、君を私の目的、つまり100ドルを得るという欲望のための手段として使うとすると、私は君の尊厳を尊重することを怠り、君を操っていることになる。

ここで、自殺に反対する義務の例を考えてみよう。

殺人と自殺は、定言命法に逆らっている。なぜか。

もし私が誰かを殺害したら、その人の命を何らかの目的で奪っていることになる。私が雇われた殺し屋だからにしろ、激怒か激情のためにしろ、私には何らかの利益や特定の目的があってその人を手段として使うことになる。

だから、殺人は定言命法に違反している。

カントにとって自殺は道徳的に言って殺人に等しい。たとえ自分の命であろうと、誰かの命を奪うのは、その人を使うことになるからだ。私たちは理性的な存在を使い、人間性を手段として使うことで、人間を目的そのものとして尊重することに失敗しているのだ。そしてこの理性の能力や、尊敬に値する人間性は尊厳の根拠であり、そのようなに人間性と理性の能力は、私たち全員の中に、無差別に備わっている。自殺は自分自身の人格を侵害することであり、殺人は誰かの命を奪うことでその尊厳を侵害することだ。道徳的な観点からはどちらも同じことなのだ。
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そしてそれらが同じであることは、道徳法則の普遍的な正確に関係している。

私たちが他の人の尊厳を尊重しなければならない理由は、彼らの個人的な特徴とは関係ない。だからカント派の尊敬は、そういう意味では愛とは違う。同情とも違う。団結や仲間意識や利己主義とも違う。

愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。
しかし、カントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。

従って、自分自身の人間性を侵害するのは他人の場合と同じように好ましくないことなのだ。

質問と反論は?どうぞ。

学生F:カントの、誰もが、自分自身の中に目的があるから、人を手段として使うことはできないという主張が気になります。僕たちは毎日、その日に何かを成し遂げるために、自分自身や周りの人たちを目的のための手段として使わなければなりません。例えば、授業でいい成績をとるためにレポートを書かなければならないとします。僕は自分自身をレポートを書く手段として使わなければなりません。食べ物を買うためには、僕は店員を手段として使わなければなりません。

そうだね、それは事実だ。君の名前は?
学生F:パトリックです。  
パトリック、君は何も間違ったことはしていない。君は、他の人を手段として使うことで、定言命法には違反していない。

私たちは自分たちのプロジェクトや目的、利益のために他人を使うとき、彼らの尊厳を尊重するやり方で接すれば、何も問題はないのだ。そして、彼らを尊重するということの意味は、定言命法によって与えられる。

納得しただろうか?カントは道徳性の最高原理に、抵抗しがたい、説得力のある説明を与えていると思うだろうか、その質問には次回答えることにしよう。