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JUSTICE 第4回「国ができる前の正義を考える」「同意と契約によってつくられた公平さ」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture07「国ができる前の正義を考える」

ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture07
THIS LAND IS MY LAND
Lecture08
WHO OWNS ME? 


時間:54:59



Lecture07「国ができる前の正義を考える」

今日はジョン・ロックを取り上げる。
一見したところロックは、市場原理主義者、リバタリアンの強力な味方だ。
まず、彼は今日のリバタリアンが主張しているように、ある考え方を信じていた。それは、例え代理政府や民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せない、ある種の個人の基本的な権利が存在する、というものだ。

それだけではなく、彼はそういった基本的な権利には、生命、自由、財産に対する「自然権」が含まれていると信じていた。
さらに彼はこう論じている。
財産権は単なる政府や法律の創造物ではない、と。
財産を保有する権利は政治以前のものであるという意味で「自然権」である。

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それは私たち、一人一人が人間として、本来持っている権利であって、政府が登場する前から、そして、議会や立法者が法を制定して、権利を手にする前から存在したものなのだ。

ロックは自然権を持つというのは、どういうことか理解するためには、政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像してみる必要があるという。彼はその状態を「自然状態」と呼んだ。

彼は自然状態は自由な状態だと言う。人間は自由で平等な存在だ。
王様に生まれる人も入れば、農奴に生まれる人もいる。というのは間違った考え方で、私たちはあくまで自由で平等なのだ。それでも彼は自由であることと、好き勝手に行動することは違うと主張した。

なぜなら、自然状態であっても、ある種の法が存在するからだ。

それは、自然法と呼ばれるもので、立法者が制定するようなものではない。この自然法があるから、私たちは自由であっても行動は制約される。では、どんな制約があるのか。

自然法により、制約される行動とは!
私たちの誰もが持っている権利、つまり、自然権を自ら手放すことだ、または他人から取り上げることだ。
自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、もちろん、自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。

私たちは自由であっても、自然法侵害する自由はない。自分の人生を取り上げる自由も、自分を奴隷として売る自由も、誰かに自分を支配する絶対的な力を与える自由もない。君たちからみれば、最低限の制約かもしれないが、なぜそのような制約があるのか。

ロックはこうした疑問に対して2つの答えを出している。
人間はすべて 唯一神 全知全能なる創造主の作品であり、彼の所有物にあって他の誰のためでもなく、彼が喜ぶ限りにおいて生存するようにつくられている。

つまり、我々が生命、自由、財産の自然権を手放すことができないのは、厳密にはそれらは自分のものではないからだ。結局我々は神の創造物である。そして神はより大きな財産権、優先される権利を持っている、というわけだ。

しかし、神を信じないものは、この答えに納得できないかもしれない。
彼らにはどう説明すべきだろう。

ロックはここで人々の理性に訴えた。
こういう考え方だ。

自由であることの意味をよく考えれば、それが望むことの何でもしていい、という意味ではないことはおのずとわかってくる。

このことを意味するロックの言葉が
「自然状態には それを統治する自然法があり、何人もそれに従わなければならない。その法である理性は人類にすべての人は平等で独立しており、他人の生命、健康、自由または財産を害するべきではない」と教えている。

これはロックの権利についての説明の不可解で矛盾する部分につながる。
ある意味わかりやすいが、奇妙な考え方だ。

彼は私たちの自然権な不可譲のものと言った。
不可譲とはどういう意味か、あげてしまったり、取引したり、売ったりすることができないということだ。
例えば、航空券は譲渡できない。NFLのペイトリオッツやメジャーリーグのレッドソックスのチケットもそうだ。
人にあげられないチケットは不可譲だ。
私はそのチケットを自分で使うことはできるが、売ることはできないという限定された意味で所有されている。だからある意味で不可譲の権利、譲渡できない権利の元で私が所有しているものは、完全に私のものではないとも言える。

しかし、不可譲の権利を別の意味で考えると、特に生命、自由、財産の場合では、原理が不可譲のものであれば、それだけ深く完全に私のものになる。それがロック言うところの不可譲だ。

トーマス・ジェファーソンはアメリカ独立宣言にロックのこの考え方を活かした。
アメリカ国民には生命、自由、そして幸福の追求に対する不可譲の権利がある、というものだ。
不可譲の権利とは本質的に自分だけのもので、誰にも渡すことのできないものである。政府が存在する前から私たちが自然状態で持ち合わせている権利だ。私たちは他人の命を取り上げることや奴隷にすることができないように、自分の命を奪うことも、自分を奴隷として売ることもできない。

では、財産の場合はどうだろう。ロックの理論では私たちは政府が存在する前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。しかし、政府がない状態で私有財産が発生することなど、ありえるだろうか。

それに対するロックの答えは27章にでてくる。
人は誰でも、自らの一身に対する所有権を持っている。これについては彼以外の何者も権利を所有しない。彼の身体による労働、手による仕事はまさしく彼のものであるといってよい。

そしてロックはリバタリアンと同じような論理を展開した。

私たちは、自分自身を所有しているということは、自分自身の労働を所有していることにもなる。彼はさらにこう主張した。所有されていないものに私たちの労働を加えると、それは私たち自身の所有物になる。

自然が備えた状態から取り出すものは何でも、自分の労働を交えたものであり、彼自身の何かを付け加えたものであるから、彼の財産となる。

なぜか。

労働はその労働者の疑いの余地のない財産だから、よって彼以外の誰かが彼の労働が加えられたものに対する権利を持つことはない。だが、これには重要な但し書きがある。他者のために同じようによいものが十分に残されている限り。

私たちは収穫した果実やつかまえた鹿、採った魚に対してだけ、所有権を持っているわけではない。土地を耕して周りを囲み、ジャガイモを育てるのであれば、採れたジャガイモだけでなく、それを育てる土、そして、大地も所有しているのだ。

人が耕し、植物を育て、改善した土地から得られるものを利用するかぎり、その土地は彼の所有物である。彼の労働が加わることで、それは一般とは区別される。

権利は不可譲という考えはロックをリバタリアンから遠ざけるように思う。リバタリアンが言いたいのは、私たちには自分自身に対する絶対的な所有権があるから、望むことは何でもできる。とういことだ。
ロックはその考え方の完全な味方ではない。実際、彼は自然権について真剣に考えれば、私たちが自然権でできることには制約があることが気付くはずだと言っている。理性によって与えらえる制約だ。自由であるとはどういうことか考えてみれば、権利は不可譲であり、そこには制約があることがわかるはずだと。

これがロックとリバタリアンの違いだが、ロックの私有財産の説明にあてると,再びリバタリアンのとても良い味方に見えてくる。彼は私有財産についてこう考えていた。

私たちは自分自身の所有者であり、その労働の所有者であり、労働の果実の所有者である。自然状態で集めたり、狩りをして手に入れたものだけでなく、囲いこみ耕した土地の所有者でもある。労働が加わったことで、誰のものでもない何かが、その人の所有物になる、という感覚が、道徳的に正当化される例はいくつかある。そして、これは時には論争の的にもなる。

裕福な国と発展途上国の間では、貿易に関連する知的財産権の論争がある。
最近の例をあげると薬の特許法についての論争だ。

西側の国、特にアメリカは私たちには新薬を開発する大きな製薬業界がある。世界の全ての国に特許を尊重してもらいたい、と言った。

それから、南アフリカでエイズ危機が起きた。
アメリカのエイズ薬はあまりにも高かったので、アフリカではそれを買える人はほとんどいなかった。そこで南アフリカ政府は言った。私たちはアメリカの抗レトルウイルス薬と同じ成分の薬をそれよりずっと安い値段で手に入れるつもりだ。その薬をつくる方法を解明したインドの製薬会社を見つけたからだ。特許を尊重しなければ、はるかに少ない金額で大勢の命を救うことができるのだ。

すると、アメリカ政府は言った。それはダメだ、研究に投資し、この薬をつくりだした会社はどうなる。ライセンス料を払わずに勝手に薬を製造することは許されない。こうして論争がおきた。
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その製薬会社は南アフリカ政府を訴え、より安い、彼らが海賊版と考えるエイズ薬を南アフリカ政府が買うのを防ごうとした。この件は最終的にはアメリカの製薬会社が折れて解決することになる。

しかし、この所有権、知的財産権、薬の特許権についての論争は自然状態において、ある意味、最後の未開拓分野と言えるかもしれない。今のところ特許権や所有権に関する国家間の一律の法律はないからだ。国際的な合意により規則が制定されるまでは
、その合意の仕方はまちまち、ということになる。

政府や法が存在しない状態でも、私有財産権が生じるロックの考え方はどうだろう。成功しているだろうか。説得力があると思う人は手をあげて。では、説得力がないと思う人は?反対意見から聞こうか?同意なしに自然財産が生じるというロックの考えはどこに問題があるのだろうか?どうぞ!

学生A:彼はヨーロッパ人の文化的規範を正当化しようとしていると思います。ネイティブアメリカンはアメリカお土地を文明化できなかったけれど、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到着したことで、そのままでは起きなかったかもしれないアメリカの発展が出現したからです。

つまり、土地の所有権を守るための弁護だと思うんだね。
学生A:はい、到着したというだけでは、その土地を手に入れたとは言いにくいからだと思います。

なるほど、君の名前は?
学生A:ロシェルです。

ロシェルはヨーロッパ人が入植した頃、北米で何が起きていたかを考えると所有権に関するロックの説明はそれに適合していると言う。ロシェル、つまりそれは土地の占有を正当化するための弁護だということだね。

学生A(ロシェル):はい、ロックは名誉革命も正当化しています。だから植民地化を正当化することがあってもおかしくないと思います。

なるほど、たしかにそれはおもしろい説だね。賛成意見も多いだろう。
でも、彼の議論の有効性についてはどうだろう。君の言うように、これは土地を囲っていなかったネイティブアメリカンから北米の土地を取り上げることを正当化するのかもしれない。だが、そもそもロックの理論は正しいのだろうか、それとも彼は単に道徳的に正しくない行いを正当化しようとしているだけなんだろうか。

学生A(ロシェル):後者だと思います。個人的な意見ですが。

後者か。それじゃあ次はロックの私有財産の考え方を支持する人に聞こう。ロシェルはそれはアメリカの入植者がネイティブアメリカンから土地を取り上げたことを正当化するための手段に過ぎないと言ったが、これに対する反論が聞けたらおもしろいね。ロックを弁護できる人はいないかな?君、弁護できる?

学生B:はい、ロックがヨーロッパ人の植民地化を正当化しようとしたという証拠はありません。たぶん植民地化は正しくないでしょう。それは彼が「統治二論(ロックの著書)」で言っていた戦争状態です。

つまり、ネイティブアメリカンとヨーロッパ人の入植者との間で起きたことは戦争状態だと。お互いの合意があってはじめて起こるものであり、それがなければ始まり得ないものだった。

学生B:そうです。双方がそれに同意しなければならなかったはずです。
君の名前は?
学生B:ダンです。

ダン、さっきロシェルにも聞いたが、土地の所有権についてのロックの議論はどうだろう。これが打倒なものなら、入植者が土地を占有して、そこから他のものから排除したことは正当化されるのだろうか。ロックの理論をどう評価する?

学生B(ダン):ネイティブアメリカンはまだ占有していなかったということですよね?

ネイティブアメリカンは狩猟や採取を行っていたから、土地を囲ってはいなかった。ロシェルにもその点は承知していると思う,今聞きたいのは、、、。

学生B(ダン):でも、ロックはある特定の土地でどんぐりを拾ったり、リンゴを摘んだり、バッフォローを殺したりすれば、労働によってその土地自体も自分のものになると言っています。だからその定義によれば、ネイティブアメリカンも周りをフェンスで囲っていなかっただけで、、、、。

土地を使っていた。
学生B(ダン):そうです。だったら、、、、

ロックの定義によれば、ネイティブアメリカンも土地の権利を主張できただろう。
学生B(ダン):でも、それを主張する人がいなかった。
なるほど、ありがとう。他にロックを弁護する人は?君!

学生C:ロックを擁護するために言いますが、彼は他の土地を取ることができない場合もあると言っています。例えば、人々の共有財産である土地を獲得することはできません。ネイティブアメリカンの場合は自分たちの文明を持っていて、土地を共同で使っていたと思います。ですからそのような共同財産を取り上げることはできません。

それはおもしろいね

学生C:また、他の人のために土地が残されていることを確かめない限り、土地を取得することはできません。自分が取得したのと同じくらい良い土地が他の人たちのために十分に残されているかどうか確かめる必要があると思います。

その通りだ。ロックは土地の私有財産権には他の人のために同じくらい同じように良いものが残されている、という但し書きがると言っている。君の名前は?
学生C:フェンです。
フェンもある意味ダンと同じでロックと同じで、ネイティブアメリカンに有利に展開できる部分もあると言っている。

では、次の質問だ。
私有財産権が自然に生じるものである。政府が誕生する前から、私たちが持っているものであれば、それによって政府にできることはどの程度、制約されるだろうか。ロックは政府をどう捉えていたのだろうか。その点についてはリバタリアンに同調的なのか、それとも批判的なのか、それを見極めるために自然権が社会に入ったらどうなるのかについて考えていきたい。

私たちは自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入った。しかし、人間と法律というのはそれが私たちの自然権を尊重し、生命、自由、財産に対する不可譲の権利を尊重する場合のみ正当なものだ。

どんな議会、どんな立法者、それがいかに民主的なものであっても、合法的に私たちの自然権を侵害することはできない。いかなる法律も私たちの生命、自由、財産に対する権利を侵害できない、というこの考え方は、制限された政府という考え方を主張することになるので、結局、リバタリアンを喜ばせることに見えるかもしれない。

しかし、リバタリアンはすぐに喜ぶべきではない。たしかにロックは政府がつくられた後も自然法は存続すると言っている。さらに彼は政府をつくる目的は主に財産権を守ることであり、政府はそれに制約されているということを強く主張した。

しかし、一方で、何をもって所有権とするか、どうすれば生命や自由を尊重していることになるのか、そういったことを定義するのは政府だ。私たちの財産や生命、自由が尊重されている以上、政府にできることは限られているように思える。しかし、その一方で、何をもって私たちの生命や財産が尊重されているとみなすかを決めるのは政府なのだ。

そんなことが可能なのか、矛盾しているのではないか。それともここには重要な区別があるのだろうか。

ロックの見方がリバタリアンと一致するかどうか詳しく確かめるため、次回はロックの考える正当な政府とどんなものか詳しくみていこう。


Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

ジョン・ロックは同意という考えについて論じた偉大な哲学者の1人だ。そもそも自然状態では人々が行き過ぎた自然法の侵略行為が行われ、ともて暴力に満ちたものだ。だから自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。ここがリバタリアニズムと違うところだ。ロックの考えの根底には君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。さらに自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではなく、全てアメリカについて話していた。このことも頭に入れてロックをよむべきかもしれない。今回残念ながら答えが出なかったのは、同意はどのような働きをするか、同意の限界とは何なのかだ。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げるとして講義は終了する。


Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

前回の講義で、私たちはロックの自然状態、私有財産についての説明、そして、同意による制限された正当な政府とはいかなるものかといったことを議論し始めた。ロックは人間には政府を制約するある種の根本的な権利があると信じている。そして、その権利は生まれながらのもので、法律や政府に由来するものではないと言っている。

彼の行った偉大な哲学的実験は政府や立法者が所有権を定義する前に、同意なしで私有財産を持つことは可能なのか、ということを確かめようとするものだった。それが彼の疑問であり主張したかったことだ。

ロックは他者のために同様の土地が十分に残されている場合に限り、私たちは狩猟や採集の青果だけでなく、土地そのものも所有することができると論じた。今日はロックの哲学の2つ目の重要な問題である同意の問題に取り組みたい。ちなみに1つめは私有財産だった。

同意の働きとは何だろうか。ここにいる君たちもこの講義の初日に同意という言葉を使った。覚えているかな?太った男を橋から突き落とすという話をしていた時、彼は同意していなかった、と言った人がいた。また、海で遭難した男たちが少年を殺して食べた話では、彼らがくじびきで同意していたら問題はなかった、という意見が出た。

ジョンロックはこの同意という考えについて論じた偉大な哲学者の1人だ。

同意は政治哲学の分野ではなじみ深い考えた。ロックは正当な政府は同意に基づいて設立されたものだというが、それは当然のように思える。政治哲学者の理論がこのロックの同意のように、よく知られているものである場合、その意味を理解することや、それをおもしろいと感じることは難しいかもしれない。

しかし、正当な政府の基礎としての同意についてのロックの説明には、いくつかの問題と奇妙な特徴がある。今日はその点について考えていこう。

ロックの同意の理論がどの程度が打倒で、どのような問題を抱えているか、同意に基づいて設立された正当な政府には何ができるのか、そういった政府にはどんな力があるのかを問う必要がある。
その問いに答えるためにここで、自然状態とはどんなものだったか振り返ってみよう。

私たちは社会に入るにあたり、自然状態から離れた。そこには同意があった。だが、なぜ離れ、なぜ政府などつくったのか、ロックはこう答えている。

自然状態にはいくつか不都合な点がある。
それはいったいどんなものか。主として自然状態では誰もが自然法が実行できる、ということだ。

誰もがロックが呼ぶところの自然状態の執行者であり、ロックは文字通り、処刑の執行者であることを意味していた。自然法を破った人がいたら、その人は侵略者であり、道理を超えているから君は彼を罰することができるのだ。

自然状態の中では処罰の内容を慎重に考える必要はない。君の後をつけ殺そうする人がいれば、君がその人を殺せばいい。それは自己防衛だ。自然状態では、誰もが法を執行する力や、人を処罰する権利を持っている。
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君は自分の命を奪おうとする者はもちろん、持ち物を盗もうとする泥棒もつかまえて処罰することができる。それも自然法に対する侵略とみなされるからだ。

誰かが第3者から盗んだ場合も、君がその泥棒を追うことができる。
なぜだろうか。

自然法の侵害は侵略行為だからだ。
警察組織がない、判事も陪審員もいない。だから、誰もが自分自身の判事なのだ
そして、ロックは人は自分自身の事件の判事となると、我を忘れて、自然状態に不都合を生じさせると言っている。
人々が行き過ぎた侵略や処罰をくり返すうちに、いつの間にか、生命、自由、財産に対する不過剰の権利を教授できなくなってしまうというのだ。

彼は非常に残忍な言葉を使って、自然法を侵害した人に対して何をすべきかを描写している。
人は戦いを仕掛けてくる人を破壊することができる。オオカミやライオンを殺すことができるのと同じように。そのような人には 力と暴力以外の法則はなく、だからこそ危険で有害な獣と同様に扱われる。その獣の手に人が陥れば、いつでも必ずその獣は彼を殺すに違いないからである。

自然状態は一見したところ、害のないようなもののように思える。そこでは、みんなが自由で法があり、人々の不可譲の権利は強力で、法の下で完全に守られている。
しかし、そんな害のないはずの状態もよくみていれば、とても荒々しく暴力に満ちたものだとわかる。だから、人々はその状態から離れたくなる。

どうやって離れるのか。そこで同意の出番だ。
人が自然状態から抜け出す、唯一の方法は他のみんなに同意することだ。

他のみんなとは誰か。それは協定や社会契約に参加したいと考える全ての人たちだ。社会契約に参加するために、自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。

問題は政府がどんな力を持っているか、そして多数派は何を決めることができるのか、ということだ。
ここがロックにとって注意を要するところだ。例え、多数派の支配に同意したとしても、本来私たちは自然法や不過剰の権利を持っているからだ。

覚えているだろうが、市民社会に入ったからといってそれらの権利が無効になることはない。だから、
多数派が管理する社会においても、多数派は個人の不過剰の権利、つまり、生命、自由、財産の基本的権利を侵害することはできない。
ここで疑問が生じる。

多数派はどれだけの力を持っているのか。
同意によってつくられた政府の権限はどれほど制限されているのか。

多数派には市民一人一人の基本的な自然権を尊重し、実行する義務がある。だからその力は制限されている。私たちは政府を受け入れたからと言って、権利を放棄したわけではない。これが独立宣言にいかされたロックの考え方だ。

不可譲の権利だ。

ここで少し考えてみて欲しい。富を均等に分けるのに、マイケルジョーダンとビルゲイツに反対だという人がいた。では、富を多くの人に分けるのに、少数派に課税することがなぜいけないのか、ということについて、ロックが説明していると思う人は、手をあげて。どうかな、君!

学生A:もし多数派が課税すべきだと定めたとしても、少数派は必ずしも支払う必要はないと思います。それは自然権の1つである所有権を侵害することになるからです。

なるほど、君の名前は?
学生A:ベンです。
つまり、もし多数派が少数派に対して同意を得ることなく、特別な課税法に基づいて課税したとすれば、それは無断で所有権をとりあげることと同じことだから、ロックはそれには反対するはずだと君は思うんだね。君の意見を文章で裏付けようと思うんだが、どうだろう。

学生A:いいですね。
そうか、君がそう言うと思って持って来たんだ。

テキストの138節を見て欲しい。 
最高権力は本人の同意なく、人の財産を一部たりとも奪うことはできない。
なぜなら所有権を守ることが政府の目的であり、そのために人は社会に入るのだから財産を持つことが必然的に想定され、要請されているからである。
 
私たちが社会に入るのは、財産権を守るために他ならない。そしてロックがこの財産権という言葉を使う時、そこには生命、自由、財産の自然権全体が含まれている。

この138節の冒頭を読むかぎり、ベンの見解は正しいように思える。しかし、はたしてそうだろうか。続きを読んでみても同じことが言えるだろうか。

人は社会において所有権を持っており、物に対する権利はコミュニティの法律により、彼らのものとなる。

ここが重要だ。

だから、誰も同意なしに奪うことはできない。さらにこう続く。

ゆえに最高権力ないし立法権によって人々の財産を意のままに処分したり、欲しいままに取り上げたりすることができると考えるのは間違いである。

ここが難しいところだ、一方でロックは政府は本人の同意なしで財産を取り上げることはできないと、はっきり言っている。財産の自然権があるからだ。しかし、彼はコミュニティの法律により、それらは彼らのものになる、とも言っている。

そこからは所有権は自然のものではなく、政府が定義するものだと受け取れる。そして、さらに読み進めるとますますわからなくなる。

政府は大きな負担なしに支えられるものではない。政府の保護を教授するものは皆、その維持のための割り当てを自分の財産から支払うべきである。

ここからが重要だ

しかしそこには本人たち、または彼らに選ばれた代表者によって与えられた本人の同意、すなわち多数派の同意がなければならない。

これはどういうことか。財産はある意味では自然のものであるが、別の意味では協定のものである。自然のものというのは、私たちが不可譲の基本的権利を持っていて、そこには財産権をもっていることを政府は尊重しているからである。

だから、財産を恣意的に取り上げるのは自然法の侵害であり、違法である。しかし、さらなる問題がある。財産の協定的な側面だ。何をもって財産とするか、何をもって財産をとりあげたとみなすか。そういった定義するのは政府なのだ。

ここで、最初の質問に戻るわけだが、同意はどんな働きをするのだろうか、同意がなければ、合法的に税金を課すことはできない。それは税金を支払う本人、ビルゲイツ本人の同意ではない。私たちが自然状態を抜け出し、最初に政府をつくった時に、私たち社会に与えた全員の同意だ。

これは集合的な同意なのだ。この解釈によれば、同意の果たす役割はかなり大きく、同意によってつくられた政府はそれほど制限されていないように思える。これに対して何か疑問や意見がある人はいるかな?君!どうぞ!

学生B:政府がすでに機能している場合、政府のあるところに生まれた人たちはそこを出て、自然状態に戻ることは可能なのでしょうか?その点についてロックはどう考えていたのか疑問に思います。それには言及していなかったと思うので。

君はどう思う?

学生B:習慣があるので政府を離れるのはとても難しいと思います。なぜなら、もう誰も自然状態では暮らしていないからです。今では誰もが立法機関に統治されています。

なるほど、ありがとう。君の名前は?
学生B:ニコラです。

ニコラ、例えば君は市民社会からさりたいと思っているとする、自分の同意を撤回して、自然状態に戻りたいと、、、。
学生B:実際同意したとは思っていません。私はそこに生まれただけで参加したのは祖先です。

君は社会契約にサインしていない。私もしていない。では、ロックは何と言っているだろう。君!

学生C:ロックはサインが必要だとは言っていないと思います。これは暗黙の同意で政府のサービスを受けるのは政府に何かを奪われることに同意したのと同じです。

なるほど、暗黙の同意という意見がでた。暗黙の同意は有効ではないと思っている人もいるだろう。ニコラ!君も首を振っていたね。理由を聞かせて欲しい。
学生B(ニコラ):ただ単に政府の様々な資源を利用しているというだけで、必ずしも政府のつくられたやり方に同意していることにはならないと思いますし、それが社会契約に参加することに同意したことを示唆するとは思いません。
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暗黙の同意に政府に従う義務を生じさせる力はないと思うんだね。
学生B(ニコラ):はい、そう思います。
ニコラ、君はつかまらないとしても税金を払う?
学生(ニコラ):(笑)たぶん払わないでしょう。

学生(ニコラ):私が出展したい部門にだけお金を払うシステムがあったらいいと思います。
確定申告の時は自然状態にいた方がいいね。(会場笑い)

私が聞きたいのは実際に何かに同意したわけではないから、何の義務も負っていないのか、ということだ。しかし、君は良識的な理由で法律には従っているね。
学生(ニコラ):その通りです。

学生C:たとえそう考えたとしても、他の誰かを奪ってはならないというロックお統治理論における社会契約を侵害しています。自然状態の中で生きたいのなら、政府のサービスを受けない替わりに自分も何も渡さないという姿勢でかまわないと思います。でも、政府から何も得ることはできません。税金のサービスを受けるためには、税金を払わなければいけないからです。

自然状態に変えるのは自由だが,道路を利用することはできないということだね。
学生C:そうです。
では、道路を使うことや、税金を徴収することよりも、もっと重い問題について話をしよう。命はどうだろう、徴兵制はどうだろう。どうぞ!

学生D:人を戦争に送ることは必ずしも彼らを死ぬことを意味しているわけではありません。生き残る可能性を高めていないことは明らかですが、それは死刑ではありません。だから、徴兵制が人々の命を抑圧しているかどうかを議論するのは正しいアプローチとは言えないと思います。ここでの本当の問題はロックの同意と自然権に関する見解です。私たちは自然権を放棄することも許されていません。では、税金や徴兵制について考える時、ロックは命の放棄や財産権の放棄をどう捉えていたのでしょうか。ロックは自殺には反対していたとは思いますが、それも各個人が同意の上で行うことです。

ありがとう。君の名前は?
学生D:エリックです。

エリックはロックを読み始めてからずっと格闘してきた疑問に引き戻してくれた。

私たちは生命、自由、財産に対する不可譲の権利を持っているが、それらを放棄する権利は持っていない。政府が制限されているのはそのためであって、私たちが制限することに同意したからではない。私たちは同意する際に権利を放棄することができないから、政府は制限され、それが正当な政府に関するロックの説明の真髄だ。

しかし、今、エリックが言っているのはこういうことだ。
もし、自殺や財産の放棄が許されないのため、どうして命の犠牲や財産の放棄を強制する多数派にしばられることに同意できるだろうか。
ロックはこれに対する答えを持っているのか、それとも、不過剰の権利を主張しながらも基本的に全権を持つ政府を認めるのだろうか。

誰かロックを弁護できる人はいないかな?あるいは自分なりに理解して解決作を見つけられる人は?はい、どうぞ。

学生E:個人が持っている生存権と政府が1人の個人の生存権を奪うことができないという事実の間に一般的な区別がつけられるべきだと思います。徴兵制が政府が特定の個人を戦争で戦わせるために使命するものだとすれば、それは彼らの生命に対する自然権の侵害になるでしょう。一方、徴兵制に例えば、くじ引きがあるとすれば、全住民が彼らの代表を選ぶとみなすでしょう。住民全員が送られたら財産権を守ることはできないので、基本的に無作為に彼らの代表を選ぶという考え方です。そして選ばれた代表が出兵して人々の権利のために戦うのです。それは僕の意見では選ばれた政府と同じように機能すると思います。

選ばれた政府はコミュニティを守るために市民を徴兵できる、ということだね。しかし、それで人々は権利を教授できるのだろうか?
学生E:できると思います。それは立法府の代表を選ぶ手順ととても似ているように思えます。

しかし、それでは政府が徴兵という形で特定の市民を選び、全体のために死なせるようなものだ。それは自由に対する自然権を尊重することと一致しているだろうか。

学生E:僕が言おうとしているのは特定の個人を選ぶことと、無作為に選ぶこととの間には違いがあるということです。

個人を選ぶことについて確認させて欲しい。君の名前は?

学生E:ゴクルです。

ゴクルは命を犠牲にするために、個人を選び出すのと、一般的に法律を持つことの間には違いがあると言っている。実際これはロックが出すだろう答えだと思う。

ロックは恣意的な政府には反対している。イラクへの戦費をまかなうために、ビルゲイツを選び出すようなやり方は反対しているし、戦地で戦わせるために特定の市民やグループを選び出すことにも反対している。しかし、一般的な法の元で、政府が選択したものや多数派が行ったことであれば、それは人々の基本的な権利を侵害することにはならない、と彼は考えている。

恣意的に財産・生命を奪うのは侵害行為だ。それは基本的に全ての人に法の支配や所有権の制度は存在しない、と言っていることになるからだ。それでは王様のきまぐれや議会のきまぐれで、私たちは君たちを指名して、所有権を放棄させたり、あるいは、命を放棄させたりするようになってしまう。

しかし、恣意的でない法の支配に下でそれをするのであれば許される。君はそれでは制限された政府とは言えないと思うかもしれない。リバタリアンはロックは結局すばらしい見方ではなかったと言うかもしれない。彼らは2つの理由でロックに失望する。

第1に、権利は不可譲だから結局自分自身を本当に所有することにはならない。自分の権利を侵害するようなやり方で生命や自由や財産を放棄することはできない。これが1つ目の理由だ。

第2に、一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。
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ロックが国王の絶対的な力を懸念していたことは明らかだ。
しかしもうひとつ確かなことがある。
これはロックの影の側面だが、
この同意の偉大な理論家が同意の必要のない私有財産を思いついたのは、前回、ロシェルが指摘してくれたように、ロックの2つ目の懸念、アメリカと関係があったのかもしれないのだ。

自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではない。全てアメリカについて話していたのだ。アメリカでは何が起きていたか。入植者は土地を囲いこみ、ネイティブアメリカンと戦っていた。植民地の管理者だったロックは同意なく土地を囲み、工作することを通じて、私有財産を正当化することに関心があったかもしれない。

それと同時に彼は君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。

今回答えが出なかった根本的な疑問は、同意はどのような働きをするか、ということだ。その道徳的な力とは何なのか、同意の限界とは何なのか。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げる。