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JUSTICE 第2回「命に値段をつけることに正義はあるか」「喜びを測定して出した結論は公平か」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」

功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。この講義ではタバコ会社、自動車会社が行った費用便益分析を取り上げ、その問題点を考える。そして功利主義に対する2つの反論が学生から示された。1つは「個人の権利もしくは少数派の権利を尊重していない」というもので、もう1つは「人々の好みあるいは価値を合計することをできない」というもの。後者に関しては心理学者ソーンダイクの実験を示し、その結論をどう捉えるべきか?と疑問を残し講義は終了する。

ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture03
PUTTING A PRICE TAG ON LIFE
Lecture04
HOW TO MEASURE PLEASURE 


時間:55:10



Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」

前回の講義で私たちは2人の船乗り、ダドリーとスティーブンズの裁判について議論した。海で遭難した男たちが少年を殺して食べた事件だ。まず、議論の内容を思い出して欲しい。船長と航海士が何をしたか。それに対してどんな意見が出たか。それを頭に入れた上で、哲学者やジェレミ・ベンサムの功利主義の話に戻ろう


ベンサム(Link:wiki)は1748年のイギリス生まれ。12歳でフォックスフォード大学に進学し、15歳でロースクールに入った。19歳で司法試験に合格したが、弁護士にはならず、法学と道徳哲学に人生を捧げた。

ベンサムの功利主義については前回も触れたが、その中心となる議論が単純だった。

道徳の最高原則は社会の幸福のために、一般的福祉を最大化することで、全体として快楽が苦痛を上回るようにすることである。つまり、一言で言うと「効用の最大化」だ。

ベンサムは次のような推論でこの原則にたどりついた

私たちは皆、苦痛と喜びに支配されている。だからどんな時も苦痛と喜びを考慮する必要がある。その最も良い方法が最大化だ。これが最大多数のための最大幸福の原則へとつながる。

では、何を最大化すべきか。

ベンサムは幸福、あるいは現実には効用だと言っている。効用を最大化するのは個人のためだけでなく、共同体や法律を定める者へのためでもある。

しかし結局のところ、共同体とは何なのか。ベンサムは考えた。それは個人の集まり。だから、より良い政策や法律を定めようとする時、あるいは正しい行いとは何かを考える時、人はこう自分に問いかけてみなければならない。
この政策によって生じる全ての便益の合計から代償を差し引いた時、幸福が苦痛を上回るだろうか。最大の喜びをもたらすものこそ最善である。効用の最大化とはそういうことだ。

さて今日は、君たちがこの考え方に賛成かどうか聞きたいと思う。
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ところで、

この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使ってきた。その場合、効用は数値で表される。たいていはドルに換算され、様々な事業についてその費用と便益が数値化される。

最近、チェコ共和国ではタバコの消費税率を上げようという提案があった。

そこで、チェコで大規模な事業を展開している。あるアメリカのタバコ会社がチェコにおける喫煙の費用便益分析を行った

その結果、一つのことが明らかになった。チェコ政府が国民の喫煙によって得をする。ということだ。

さて、政府はどのように得をするのか

チェコ政府の財政にマイナス効果があるのは事実だ。喫煙により病気を発症する人々への医療費の負担が増えるからだ。一方、プラス効果もあった。そういったものは帳簿の便益蘭に加算された。プラス効果の大部分を占めていたのはタバコ関連商品の販売による様々な税収だ。しかし、それ以外に人々が早死にした時に政府が節約できる医療費も含まれていた。また、年金や高齢者のための住宅費用も節約できる。
これら全ての費用と便益を踏まえたタバコ会社の調査結果がこれだ。
チェコ政府の純収入は1億4700万ドル増加する。喫煙が原因で早く亡くなる人については政府や住宅費や医療費、年金を支払う必要がなくなるから、一人当たり1200ドル以上節約できる。
これが費用便益分析だ。

君たちの中で、功利主義を擁護する人もこれはひどい実験だと思うかもしれない。このタバコ会社はメディアにたたかれ、結局この心ない計算について謝罪した。

君たちはこの分析に命の価値だと言うかもしれない。つまり、肺癌で亡くなる人やその家族にとっての命の価値だ。

命の価値はどうなるのか。

費用便益分析はそれを計算で組み込んでいるものがある。
中でも得に有名なのがアメリカの自動車メーカーが発売したある車の事例だ。70年代に起きた事件だが、ピントという車を覚えている人はいるかな。これは小さな車でとても人気があった。

ただ、一つ問題があった。
燃料タンクが車の後方にあり、後ろから追突されると炎上するという点だ

事故で亡くなった人もいれば、重傷を負った人もいた。負傷した被害者たちはこの自動車メーカーを訴えた。そしてその訴訟の中でメーカーがずいぶん前から燃料タンクの弱点を認識していることが明らかになった。燃料タンクの周りに保護シートをつけることを考え、それを実行する価値があるかどうかを判断するために費用便益分析を実施していたのだ。

その際、車の安全性を向上させるためにかかる費用は1台あたり、11ドルとした。そしてこれが裁判の中で公開された会社側の費用便益分析の結果だ。
1250万台の車の安全性を向上させるには1台あたり11ドルとして、1億3700万ドルかかる。それからこの金額を投じて、車を修理した場合の便益、つまり、事故を防ぐことへの価値を計算した。
死者180名。1人当たりの価値をドルに換算すると20万ドル。負傷者を180人。
1人当たり67000ドル。事故を起して炎上する車は2000台で修理費用は1台あたり700ドルだ。これらの便益を合計すると4950万ドルにしかならなかった。メーカーは車を直さなかった。

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言うまでもないが、裁判の中で会社がつくった費用便益分析のメモが公開されると、陪審員が愕然として、巨額の和解金の支払いを命じた。この自動車メーカーは命の価値という基準を加えたからこれは合理主義的な計算とは言えないだろうか。

さぁここでメーカーの側に立って費用便益分析を弁護したい人はいないだろうか。
弁護できる人は?
もしくはこれが功利主義の計算法を完全に破壊していると思う人は?どうぞ!

学生A:この自動車メーカーもさきほどの例を同じ間違いを犯していると思います。彼らは人の命に値段をつけましたが、家族の苦痛や喪失感を全く考慮していません。家族は収入だけでなく愛する人を失います。それは20万ドル程度のものではありません。

なるほど。君の名前は?

学生A:ジュリアです。

ジュリアに聞こう。君は愛する人が永遠に失われることを考慮すると20万ドルでは安すぎると思うかね。それなら適切な額はいくらだと思う?

学生A(ジュリア):数字で表せるものではないと思います。人の命をこの種の分析に利用すべきではありません。

金額が低すぎたというだけでなく、数字で表そうとしたこと自体がそもそも間違っていたと。
他に意見はあるかな?

学生B:インフレを考慮しないと。

インフレを考慮しないといけない。(会場笑い)
なるほど、その通りだ。では、今ならいくらになると思う?これは35年前の話だ。
学生B:200万ドルです。
200万ドル。200万ドルをつけるか。君の名前は?

学生B:ボイテクです。

ボイテクはインフレを考慮してもっと奮発するべきだと言っている。
ということは君は数字に置き換えること自体は賛成なんだね。

学生B(ボイテク):あいにく、そうです。 なんらかの数字に置き換えなければならないと思います。適切な数字というのはわかりませんが、おそらく命の価値を数字で表すことはできると思います。

なるほど、ボイテクはジュリアとは違う意見だ。ジュリアは命の価値を数字で置き換えるのはできないと言った。ボイテクは何らかの決断を下すためには、それも必要だと言った。

では、他の人はどうだろう。
費用便益分析を弁護できる人はいないかな?いい事だと思う人は?どうぞ。

学生C:この自動車メーカーも他のメーカーも費用便益分析を行わなければ利益を出せず倒産してしまうと思います。そうなれば、何百万人のも人々が通勤に車を使えなくなり、生活に支障をきたします。ですから、この場合、費用便益分析が行われなかったら、より多くな幸福が犠牲になっていたと思います。

ありがとう。君の名前は?
学生C:ラウルです。

ラウル。最近、運転中のケータイ電話の使用についての調査が行われた。この行為を禁止すべきかどうかが行われた。そして、調査の結果、毎年おそよ2000人が運転中にケータイ電話を使ったために事故を起こし、命を落としていることがわかった。
しかし、ハーバード大学のリスク分析センターが行った費用便益分析では、運転中にケータイ電話を使うことでもたらされる便益と失われる命の価値はほぼ同じだという結果が出た。運転中に商談を進めたり、友人と話したりすれば時間を節約でき、大きな経済効果が生まれるというわけだ。
これを聞いてもまだ、命を価値をドルに換算することが間違いだとは思わないかな?

学生C(ラウル):もし、大多数の人々がケータイ電話のようなサービスを利用し、その利便性を最大限に活かしたいと考えるなら、仕方ないと思います。満足には犠牲がつきものですから。

君は完全は功利主義者だ。
学生C(ラウル):まぁ、そうですね。

それじゃあ最後の質問だこれはボイテクにも聞いたが、人の命に値段をつけるとしたら、この場合はいくらが打倒だと思う?
学生C(ラウル):そうですね。今、この場で思いつきで数字をあげたくはないですが、、、(会場笑い)
じっくり考えたい?
学生C(ラウル):そうですね。

大体でいいんだ。死者は2300人ケータイ。ケータイ電話の使用を禁止するかどうか決めるにはなんらかの数字が必要だ。だから、直感で言ってみて欲しい。100万ドル?200万ドル?ボイテクは200万ドルと言ったが、君はどう?
学生C(ラウル):100万で!
100万ドル?よく答えてくれた、ありがとう。
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最近ではこのような費用便益分析を巡って論争が起きている。
計算のために何にでも値段をつけてしまうことが問題視されているからだ。

では、ここからはそういった反対意見に目を向けてみよう。
ただし、費用便益分析は厳密に言えば、功利主義の理論を実践した1つの例に過ぎないのだ。
それだけに絞らず、功利主義全体に対する反論について考えてみよう。

功利主義の理論とはこういうものだった。
正しい行いや正しい政策や法律とは効用を最大化するものである。

この法律や公共の利益に関する功利主義の考えに反対の者はどれくらいいる?
では、賛成の人は?反対よりも賛成の方が多いね。
では、反対意見から聞こう。どうぞ

学生D:功利主義に問題があると感じるのは少数派がないがしろにされているからです。多数派の望むことの方が価値があるとは限りません。ですから、最大多数のために最大幸福の考え方には賛成できません。少数派にとっては公平ではないし、発言の機会を得られなくなってしまうと思います。

おもしろい意見だ。君は少数への効果を心配しているんだね。

学生D:そうです。
君の名前は?
学生D:アナです。

少数派へ効果を心配するアナの意見に反対の人はいるかな?どう反対する?

学生E:彼女は少数派が軽んじていると言いましたが、そんなことはないと思います。少数派であろうと多数派であろうと1人1人の価値に差はありません。多数派は数で上回っているだけです。時には意思決定をしなければならないこともあります。少数派は気の毒ですが、それはより大きな幸福のためです。

より大きな幸福か。君の名前は?
学生E:ヨンダです。

アナはどう答える?ヨンダは人々の好みを集計した結果、多数派の意見が上回るだけであり、その中には少数の意見も加味されていると言ってる。君は功利主義は少数派をないがしろにしていると言ったが、なぜそう思うのか教えて欲しい。例を上げてもらえるかな?

学生D(アナ):これまでにあがったどんな事例にも言えると思います。例えば、救命ボートの事件では食べられてしまった少年には
他の人たちと同じようにまだ生きる権利があったと思います。たしかに、彼はあの場合の少数で生き残る可能性は低かったかもしれませんが、だからといって殺していいということにはなりません。より多くの人に生きる可能性を与えるからというだけで、他の人たちが彼を食べる権利も持つようにはなりません。

なるほど、つまり、少数派の1人1人にもある種の権利があり、それは効用のために犠牲にされるべきものではないと。そういうことかな?

学生D(アナ):はい。
そうか、ありがとう。ではヨンダに聞こう。

古代ローマでは、ローマ人は娯楽のためにキリスト教徒をライオンと戦わせていた。これを功利主義の理論にあてはめると、ライオンに教われるキリスト教徒の痛みと苦しみと大勢のローマ人の集合的なエクスタシーでは、どちらが大きいだろう。

学生E(ヨンダ):そうですねぇ。
それは過去の話で、僕は今日の制作立案者が見ている人々の快楽に数字をあてて、1人の痛み、1人の苦しみは大勢の快楽よりずっと小さいと判断するようなことはないと思います。

でも、君のさっきの考えを突き詰めていくと、大勢のローマ人の集合的な一握りのキリスト教徒の耐え難い痛みより大切だとなってしまうよ。(会場笑い)

ここまでに功利主義に対する2つの反論がでた。

1つは功利主義が個人の権利、もしくは少数派の権利を尊重していないというもの。
そして、もう1つは人々の好み、あるいは価値を合計することをできない、というもの。
つまり、全ての価値をドルに換算して計算することは不可能ではないかという考え方だ。

実は1930年代にこの2つ目の質問に答えようとしたソーンダイクという心理学者がいた。

彼は人間の行為に関わらず、全てのこと、全ての価値を一律の基準で表すことは可能だと考え、それを証明しようとした。
そして、彼は政府からの生活保護を受けている若い人を対象に調査を行った。
若者たちに不愉快な行為のリストを渡して、あなたならいくらもらえばこれらのことを実行するか、と聞いて回ったのだ。
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例えば、いくら貰えば上の前歯を1本抜くか、いくら貰えば片方の足の小指を切断するか、他には15センチのミミズを生きたまま食べる。カンザス州の農場で残りの人生を送る。(会場笑い)
素手で野良猫を窒息死させる、というのものもあった。さぁ、この中でもっとも高い金額がついたのはどれだと思う?

カンザス?(会場笑い)

その通り、カンザスだった。(会場笑い)
彼らは30万ドル貰わなければカンザスの農場では暮らさないそうだ。では、次に高かったのはどれだろう。猫じゃないよ、歯でもない、小指でもない、ミミズだ。10万ドル払わなければミミズは食べてくれないそうだ。一番安かったのは何だったと思う?猫じゃない、歯だ。大恐慌の時代、人々はたった4500ドルで喜んで歯を抜かせたんだ。

さぁ、ソーンダイクはこの研究から次のような結論を出した。
望みであれ、満足であれ、ある程度存在していれば、どんなものでも測定できる。犬や猫や鶏の生活は食欲、願望、そして満足からなっている。人間の場合も欲求や願望が多少複雑ではあるものの、基本的に動物と変わらない。

しかし、この結論をどう捉えるべきであろう。
これは全てのものの価値は同じ尺度で測ることができるという、ベンサムの考えを裏付けているのだろうか?あるいはソーンダイクがバカげた例を上げて調査を行ったことで、それとは正反対のことが示されたのかもしれない。つまり、人が重んじていることや大切にしているものは、たとえ命であれ、カンザスであれ、ミミズであれ、一律の価値基準に当てはめることなどできない。ということだ。もし、後者が正しいとすれば、功利主義の道徳的は原理がくずれてしまうことになる。

次回はそれについて議論しよう。


Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

功利主義のベンサムを弁護する哲学者ミルを考える。ミルは道徳的な高さは効用の大きさで決まるとした。効用の大きさの計り方は、人は2つのものを両方経験すれば、自然と高級なものを選ぶ。経験から生まれる願望は正しい道徳的根拠だとした。しかし本当だろうか。シェイクスピアのハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。この2つを理解なしに経験したらシンプソンズの方が今は好きだと思う人は多い。だとすれば、両方経験しても自然と高級を選ぶという考えは間違いではないか。また、功利主義は社会全体の幸福の最大化を目指すわけだが、一方、少数派はないがしろにされているのではないか、この個人の権利はミルはどう考えているのだろうか。ミルは個人の権利は尊重されるべきだとしている、そして個人が正義を行えば、長期的にみて社会全体は向上するという。本当だろうか。どうも、まずは、個人の権利について考える必要がありそうだ。1度功利主義から離れて、個人の権利を次回から考えることにしよう、として講義は終わる。


Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

これまでジェレミーベンサムの功利主義に対する、反対意見について議論してきた。
君たちは2つの反論を出した。

1つ目は、功利主義は最大多数のための最大幸福に重きをおいているため、個人の権利を尊重することができない、というものだ。

ここで、拷問とテロリズムについて考えてみたい。
9月10日にテロの容疑者を逮捕したとしよう。
君は彼が3000人以上を殺害する差し迫ったテロ攻撃についての決定的な情報を持っていると信じているが、情報を引き出すことができない。その情報を得るために容疑者を拷問することは正しいだろうか、あるいは、君には個人の権利を尊重する道徳的義務があるから、やってはいけないのか。

ある意味、これは最初に議論した路面電車と臓器移植に話に通じる問題だ。
それから前回の講義では費用便益分析の例を紹介した。だが、多くの人が費用便益分析のために、命に値段をつけることを良しとしなかった。それがこれが2つ目の反論へつながる。

はたして、すべての価値を一律の基準で捉えることは可能なのか、という問題だ。種類の違うものを同じ尺度で計ることができるであろうか。

では、ここでもう1つの例をあげてみよう。
これは実際にあった話で私の個人的な経験からきている。少なくとも、全ての価値を功利主義の議論に当てはめていいのか、どうか考えさせてくれるだろう。
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何年も前、私がまだ大学院生だったこと、オックスフォード大学は男女共学ではなく、男子カレッジと女子カレッジに分かれていた。そして女子カレッジの寮に男性を泊めることは禁じられていた。でも、この規則は形だけのものになていて、みんな平気で破っていた、と私は聞いた。(会場笑い)

1970年代の後半になると、この規則の緩和を求める圧力が高まり、女子カレッジの1つセントワンカレッジの1つで話し合いが持たれた。年配の女性教職員たちは保守的で、従来の規則を変えることに反対した。しかし、時代は既に変わっていた。彼女たちは反対する本当の理由をするのが恥ずかしかくて、議論をすり替えて、功利主義の理論に当てはめた。

男性が泊まると大学側の出費が増える、と彼女たちは言った。どうしてそうなるのか、男性が風呂に入るとお湯の消費量が増えるからだそうだ、さらにはマットレスを交換する頻度が増えるという意見まででた。(会場笑い)

改革を求める人たちは条件を付けることで大学側と合意した。各女性が泊められる男性は週に3人までとする。同じ男じゃなきゃいけないという決まりはなかった。(会場笑い)
条件はもう1つあった。宿泊客は費用をまかなうために50ペンスを支払わなければならない。翌日、全国紙の見出しにはこんな文字が載った。セントワンの女の子は1晩50ペンス。(会場笑い)

この例では定説という価値が考慮されていないことからも、全ての物ごとを功利主義にあてはめることがいかに難しいかがわかる。

ところで、功利主義に対する2つ目の反論について例をあげて説明してきた。そして少なくともその反論には次のような疑問が含まれていることがわかった。

私たちは全ての価値を同じものさしで測れるとう前提の下で、道徳的な考慮事項にもドルという価値を当てはめることができると想定しているが、果たしてこれは、これは正しいのだろうか。さらに私たちが価値や好みを集計することは懸念するのには、もう1つ理由がある。なぜ人々の好みを、良い好みと悪い好みの分類せず、全てを一律に計る必要があるのか、と考えるからだ。

私たちは高級な喜びと低級な喜びを区別すべきではないだろうか、人間の好みに優劣をつけないというのは、ある意味では魅力的なことだと言える。なぜ、そう言えるかというと、判断を必要しないし、平等主義的だから。

ベンサム派の功利主義者は誰の好みも重要だと言う。他の人が何を望むか、何をもって幸せを感じるかに関わらず、全ての好みが集計されるべきだと。

ベンサムが重要視したのは覚えているね。喜びや苦痛の種類ではなく、その大きさと長さだった。
ベンサムにとって、いわゆる高級な喜びや崇高な美徳とは、より強く、より長く喜びをもたらすものだった。この考えを表した有名な言葉がある。

喜びの量が同じであれば、プッシュピンは詩と同じように良い。プッシュピンとは子供の遊びでピンをはじくゲームだが、それは詩と同じように良いとベンサムは言った。この言葉にはこんな主張が込められている。私たちには他人を比較して、どちらの方が価値が、どちらの方が優れている、などと判断する権利はない。

この優劣の判断を拒む姿勢は魅力的だ。世の中にはモーツァルトが好きな人もいれば、マドンナが好きな人がいる。バレーが好きな人がいれば、ボーリングが好きな人もいる。

ベンサム信奉者なら、誰の喜びの方が高級で価値があるかなんて、誰にもわからない、というだろう。しかし、本当にそれでいいのか。喜びの優劣を考慮しなくていいのだろうか。同じ喜びでも、ある種のものは他のものより優れていたり、価値が高かったりする、という考えを完全に取り払っていいのだろうか。

古代ローマでは、大勢のローマ人の快楽のために、キリスト教徒の人権が侵害されていた。そして、そのことからベンサムの理論の別の問題点も見えてきた。より多くの人の幸福が何かを決めるためには、戦いを見物するローマ人が享受していた、邪悪で下劣な喜びにも、何らかの価値を与え、評価しなければならないんだろうか、ということだ。

これが、ベンサムの功利主義に対する反論だ。

実はかつて、その反論に答えようとした人物がいた。もっと後の時代の功利主義者、ジョン・スチュワート・ミルだ。

ここからはジョン・スチュワート・ミルがベンサムの功利主義に対する反論に説得力のある答えを持っていたかどうかをみていこう。

ジョン・スチュワート・ミル、1806年生まれ、父親のジャイムズ・ミルはジャレミーベンサムの弟子で、息子のジョン・スチュワート・ミルに模範的な教育を受けさせようとした。ジョン・スチュワート・ミルは神童だった。彼は3歳でギリシャ語、8歳でラテン語を理解し、10歳でローマ法の歴史について書いた。20歳で神経衰弱に陥った。

その後、5年間は鬱状態であったが、25歳の時、ハリウッドテイラーという女性と出会い、鬱状態から抜け出す。2人は結婚し幸せに暮らした。そして彼女の影響の下で、功利主義を血の通ったものにしようとした。
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ミルが試みたのは、個人の権利などの人道的問題や、高級な喜びと低級な喜びを区別する必要性を考慮に入れた上で、功利主義の計算法を拡大し修正できるかどうかを確かめようとするものだった。

1859年には、有名な著書「自由論」を書き、個人の権利と少数派の権利を擁護する側の重要性を説いた。さらに晩年1861年には、この授業でもとりあげる「功利主義論」を書いた。

ミルは道徳性への高さは効用の大きさで決まると考えていた。つまり、ベンサムの前提を否定していたわけではない。その証拠に彼ははっきりと述べている。望ましいものとは実際に人が望むものである。経験から生まれる願望こそ、正しい道徳的根拠である。というわけだ。

しかし、第2章の8ページでは、彼は功利主義者が高級な喜びと低級な喜びを区別することが可能だと論じている。

さぁ、すでにミルを読んだ人なら、彼がどうすれば区別できると言っているかわかるね。功利主義者はどうやって劣ったもの、卑しいもの、価値のないものから、質の高いものを区別するのか。君!

学生A:両方をためしてみれば、人は自然に高級なものの方を好むものです。
そのとおりだ、君の名前は?
学生A:ジョンです。
ジョンが指摘したように、ミルはこう言っている。
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人々の願望や好みを除外して考えることはできない。なぜなら、それでは功利主義の前提をくずすことになるからだ。高級な喜びと低級な喜びを区別する方法は、ただ1つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである。そして第2章には、さっきジョンが説明してくれたことをミルが主張する一説がある。

2つの喜びのうち、両方を経験した者が全員または、ほぼ全員、道徳的義務感と関係なく、つまりどんな基準にも左右されずに、迷わず選ぶものがあれば、それがより好ましい喜びである。

さぁ、君たちはどう考える?この議論は成功しているだろうか。成功している人は手をあげて。この方法で高級な喜びと低級な喜びを区別できると思う人?では、無理だと思う人?理由を聞きたいが、その前にミルの主張を確かめるために、1つ実験をしよう。

これから君たちに3つの映像をみてもらう。人気のある映画や番組のワンシーンだ。

1つ目はハムレットの「独白」。その後に別の2つの何かがつく。
では、はじめよう。

(ムービー:ハムレットの独白)
(ムービー:フィア・ファクター)
(ムービー:ザ・シンプソンズ)

どれが好きだったか、聞くまでもないね。
じゃあ、シンプソンズだと言う人。(会場大多数)
シャイクスピアの人は?(会場一部)
フィアファクターはどうかな?フィアファクターがよかった人?(手をあげて人に対して)ホントに?

シェイクスピアの人よりもシンプソンズが好きな人の方が圧倒的に多かった。どれが最高の経験、最高の喜びだったと思うか。
シェイクスピアだと思う人?(会場ちらほら)
フィアファクターだと思う人?(手をあげて人に対して)いや、そんなわけない!ホント?(会場笑い)理由は?

学生B:一番おもしろかったからです。
それはわかるが、それがもっとも価値がある、崇高な経験だったか教えて欲しい。
学生B:僕にとっては、愉快なことに価値があります。他の人がどう考えるか関係ないのではないでしょうか。
わかった、君は純粋なベンサム派に属するわけだね。

人々の好みを集計するのはいいとしても、その価値を誰かが判断するのはおかしい。なるほど、君の名前は?ネットかぁ。

シェイクスピアが最も高級だと考える人の中で、実際にはシンプソンズの方が好きだと言う人の意見を聞きたい。

学生C:シンプソンズは笑わせてくれるので、見ているだけで楽しめます。でも、シャイクスピアを楽しむには、読み方や解釈の仕方を誰かに教えてもらわなければなりません。レンブラントの絵画などと同じだと思います。
君の名前は?
学生C:アニーシャです。

アニーシャ、もし誰かが君にシェイクスピアの方がいいと教えてたら、君はそれを無条件で受け入れるの?シェイクスピアが高級だと言ったのは、そう教えられたからなのかい?それとも自分自身でも納得しているんだろうか。

学生C(アニーシャ):シェイクスピアは教えられたからではありませんが、レンブラントはそうです。レンブラントの絵はすごい、と言われればそう思いますが、実際は彼の絵を分析することよりも、マンガを読むことの方が楽しいと思います。 

なるほど、君が言うように、文化と伝統の圧力というもの、ある程度はあると。私たちはどれが良い作品であるということを、教えられているからねぇ。他には?君!

学生D:今日のこの授業の中では、シンプソンズが1番楽しいと感じました。でも、残りの人生を3つの作品のうち、どれか1つについて考えて過ごすとしたら、僕はシンプソンズとフィアファクターは選ばないと思います。深い喜びについてじっくり考えれば、自分自身の視野が広がり、さらに多くの喜びを引き出すことができるからです。

君の名前は?
学生D:ジョーです。
ジョー、では君は、残りの人生をカンザスの農場で過ごすことになって、シェイクスピアかシンプソンズのどちらか1つしか選ばないとしたら、シェイクスピアを選ぶんだね。

ジョン・スチュワート・ミルは高級なものと低級なものの両方を経験した人は高級な方を選ぶと言ったが、それは証明されただろうか。

学生D(ジョー):別の例をあげてもいいですか?
どうぞ。
神経生物学の授業で教わったのですが、ネズミの脳には強烈な快楽をもたらす神経があり、その神経を刺激する方法を学んだねずみは食べることも忘れて死んでしまうそうです。それだけ強力な快楽を得られるそうです。僕は強烈な喜びは生涯にわたって、得られる喜びよりも質の低いものだと思います。もちろん、強烈な喜びを得たいとは思います。でも、そうでしょ?本当にそう思っています。(会場拍手)でも、長い目でみれば、ここにいるほとんど全ての人がつかのまの強烈な快楽をおぼれるねずみであるよりも、高級な喜びを享受する人間でありたいと考えると思います。先生の質問に答えると、このことが証明する、いえ、証明するとまでは言えませんが
、2つの喜びのうち、どちらを選ぶかたずねられた時、過半数の人は高級の喜びを選ぶだろうということです。

つまり、ミルは正しかったということだね?
学生D(ジョー):そうです。
ありがとう、誰かジョーに反対するという人はいないかな?今回の実験でミルの誤りがわかったと思う人?功利主義の枠組みの中で、喜びを高級なものを区別することは不可能だと考える人は?どうぞ!

学生E:人は良いものを選びます。それは相対的なもので、客観的な定義はありませんが、シンプソンズがより好まれる社会もあるでしょう。シンプソンズは誰にでも理解できますが、シェイクスピアを理解するのは教育が必要だと思います。

なるほど、高級なものを理解するには、教育が必要だ、ミルも高級な喜びは理解と教育が必要すると言っている、その点は争っていない、そして1度教育されると、人は高級なものを低級なものの違いがわからうようになり、実際に低級なものより高級なものを好むようになると言うのだ。

ジョン・スチュワート・ミルの有名な1節がある。

満足した豚であるより不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。その愚者がもし異を唱えたとしても、それは愚者が自分の側のことしか知らないからに過ぎない。
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ここからも低級な喜びと高級な喜びを区別しようとする姿勢がみてとれる。美術館にいくか、家のソファーでビールを飲むか、時には私たちも後者の誘惑に負けることがある。それはミルも承知している。しかし、私たちは物臭にダラダラ過ごしている間にも、美術館でレンブラントのもっと高級な喜びを得られるということを知っている。どちらも経験しているからだ。そしてレンブラントをみるのが高級なのは、それが人類の高度な能力に関わっているからだ。

個人の権利が尊重しないという反論にミルはどう答えようとしたのだろうか?ある意味では彼は同じような論拠を使っていて、、それは第5章に書いてある。

私は、効用に基づかない正義の架空の基準を作り出す、どのような見せかけの理論にも意義を唱える。一方で効用に根ざした正義こそがすべての道徳性に主たる部分であり、比類なくもっとも神聖で拘束力を持つものであると考える。

つまり、正義はより高級なもので、個人の権利は特権的だが、功利主義の条件から外れない場合においてのみ、尊重されるということだ。

正義とは、ある種の道徳的要請の名称であり、集合的に見れば、社会的効用は、ほかの何よりも大きく、ほかの何よりも優先されるべき義務なのである。

正義は神聖で最優先されるべきものであり、それより劣るものと簡単に交換できるものではない。しかしその理由は究極的には功利主義の考えに基づいたものであると、ミルは主張する。

私たちが考慮すべきなのは、人類全体の全てと長期的な利益である。もし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば社会全体が向上するだろう。

この考え方に説得力はあるだろうか、それともミルは質の高い喜びや神聖で特に重要な個人の権利について論じることで、知らず知らずのうちに功利主義の枠組みにはみ出してしまったのだろうか。

ここではその問いに答えることはできない。権利と正義を論じるためには、いったん功利主義から離れ、別の方法で権利とは何かを説明し、それらの考え方が成功しているかどうか、確かめなければならないからだ。

ところで、道徳と法哲学の考え方として功利主義をはじめたジェレミー・ベンサムは1832年に85歳で亡くなった。しかし今でもロンドンに行けば、文字通り彼に会うことができる。彼は自分の遺体に防腐処理をしてロンドン大学に飾って欲しいと言い残していた。

それは実行され、ベンサムは本当に生前着ていた洋服に身をつつみ、ガラスケースの中に座っている。亡くなる前、ベンサムは彼の哲学に関連するある問いに答えた。

死者はどのような形で人の役にたつことできるか。1つは解剖学の研究のために遺体を使わせることだ。しかし、偉大の哲学者の場合は未来の思想家を刺激するために、その肉体を保存する方が良い。

はく製になったベンサムをみたいかい?さぁどうぞ、これだ。
ところで近くでよくみるとわかるが、本物の頭は防腐処理に失敗したので、替わりにロウの頭がつけられている。そして、足元に目をやると、そこには本物の頭が置いてある。皿の上に(会場笑い)わかるかな?ここだ。

では、この話の教訓はなんだろう。

ところで、大学はベンサムの身体を会議につかせて、議事録には出席したが投票せずと、書いているそうだ(会場笑い)

これぞ哲学者だ。生きている間も死んでからも自分の哲学の原則に忠実だった。次回は権利について続けよう。