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	<description>ハーバード白熱教室を全文日本語テキスト化｜オリジナル電子書籍「セイギのつくり方」無料配布｜世界の大学動画まとめ｜TED動画まとめ｜世界の知識を身につけよう&#124;学ぶことは楽しい</description>
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		<title>JUSTICE 第９回「差別することで逆に公平さは生み出されるか」「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:43:54 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
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		<description><![CDATA[Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」
ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として１９９６年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション（積極的差別是正措置）を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は１人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture17
ARGUING AFFIRMATIVE ACTION
Lecture18
WHERE OUR LOYALTY LIES　



時間：55:11











Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」
前回は種類が異なる２つの主張、道徳的な対価と正当な期待に対する資格との間で、ロールズが引いた区別について議論した。
ロールズは分配の正義を道徳的な対価への問題へと考えたり、その人間の美徳に従って報いるためのものだと考えたりすることは、間違いだ、と論じた。
今回は道徳的な対価の問題とそれが分配な正義とどう関連するのか考えてみよう。収入や富との関連ではなく、就職の決定や入試の際の合否判定との関連を考えていきたい。
そのために、アファーマティブ・アクション、積極的差別是正措置を取り上げてみたいと思う。

みんな、シェリル・ホップウッドの訴訟を読んだね。彼女はテキサス大学のロースクールに入学願書を出した。シェリル・ホップウッドは裕福な家庭の出身ではなかったため、働きながら高校を卒業。コミュニティカレッジを経て、カリフォルニア州立大学サクラメント校で学び、成績の平均点は５点満点中３.８という優秀なものだった。その後、テキサスに　引越し、ロースクールへの適正試験を受けて高得点を取り、テキサス大学ロースクールに願書を出した。
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結果は不合格だった。
彼女が不合格となった当時、テキサス大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクションを採用しており、合否を決定する際、人種や民族的バックグラウンドを考慮に入れていた。
テキサス大学の主張をこうだった。テキサスの人口の４割をアフリカ系、メキシコ系のアメリカ人が占めている。ロースクールとしては学生の多様性は重要なので、学業成績やテストの得点だけで選抜するのではなく、人種や民族的バックグランドを含め、クラスの中に様々な学生がいるように考慮している。
ホップウッドが訴えたのは、その方針の結果、自分よりも学業成績やテストの点が劣る出願者がテキサス大学ロースクールに認められ、彼女自身は不合格がなったことだった。彼女は自分が白人であるという理由だけで不合格になったと主張した。もし、自分が白人でなくマイノリティであったなら、あの成績なら合格していただろうと、そして実際、裁判で入学審査のデータが明らかにされたところ、その年のアフリカ系アメリカ人、メキシコ系アメリカ人の出願者で、学業成績とテストの点が彼女と同じだったものは合格していたことが判明した。
その訴訟は連邦裁判所に持ち込まれた。法律的なことはさておき、正義と道徳という観点から考えていこう。これは公正か不公正か。シェリル・ホップウッドには告訴する権利があるのだろうか。ロースクールの方針により、彼女の権利は侵害されたのだろうか。
ロースクールを支持し、合否判定の際に人種や民族を考慮するのは正しい、と思う人はどれくらいいる？ホップウッドを支持し、彼女の権利は侵害されたと思う人は？ちょうど半分に意見が割れたね。じゃあ、ホップウッドを弁護する人の意見から聞こうか。君！
学生Ａ：この場合は恣意的な要素に根拠が置かれています。白人であってマイノリティではないということについて、彼女には何もできず、努力すれば結果が出せる結果が出せるテストとは違います。自分の人種を変えることはできないのですから。
結構、名前は？
学生Ａ：ブリーです。
ブリー、ちょっと立っていてくれ。ブリーに対して何か意見がある人は？君！
学生Ｂ：教育制度には格差が存在しています。私が育ったニューヨークでは多くの場合、マイノリティが通う学校は、白人の学校に比べて、予算も少なく設備も整っていないので、必然的にマイノリティと白人の間では格差が生じます。マイノリティがいい学校に行ったとしても、いい成績はとれないでしょう。なぜなら、それまでの教育環境が、、、
あぁ、話の途中だが、、君の名前は？
学生Ｂ：アニーシャです。
アニーシャ、君が言うのは、マイノリティが子供時代に通った学校は、裕福な家庭の子が通った学校と同等の教育の機会を提供しない場合がある、ということだね。
学生Ｂ（アニーシャ）：はい。
だから、彼らのテストで採った点は潜在能力を正確には示していないかもしれない、というわけだ。
学生Ｂ（アニーシャ）：もっと予算のある学校でいい教育を受けていれば、才能は開花していたかもしれません。
アニーシャが言うのは、大学が学問という面からみて、もっとも延びる見込みのある者を選ぶのは当然だが、学業成績や入試の点を審査する際、背景にある教育的不利な条件を考慮に入れて、合否をすべきだ、といういことだ。これは、アマーマティブ・アクションを是とする論拠の１つだ。アニーシャの言ったとおり、それまでの不平等な教育環境を是正しなければならない、というものだ。
別の議論もある。これと対立する原理があるかどうかをみるために、２人の出願者がいると仮定しよう。２人はテストでも成績でも等しく優秀で、どちらも一流の学校に通っていたとしよう。２人の出願者のうち、どちらか１人を選ばなければならない時、この２人の出願者の場合は不平等な教育関係を是正する必要がないわけだが、どんな大学でも、ハーバードでもいいが是正する必要がなくとも、それでも学生構成における人種や民族は多様性があった方がいい、と考えるのは不公正だろうか、この場合はどう思う？ブリー？
学生Ａ（ブリー）：落とされる方はショックですから、このことが正当化されるケースはただ１つ、人種や民族以外の全てのことを検討し、その人の才能や出身やどんな人であるかについて、恣意的な要素を除いて検討した結果が全て同じたる場合だけだと思います。
恣意的な要素を除くと言ったね、だが、君はさっき、人種や民族は出願者にはどうしてもない恣意的な要素だと言った。本人にはどうしようもない、恣意的な要素に基づいて合否は判定してはならない、ということだね。
学生Ａ（ブリー）：そうです。
よろしい、他に意見のある人！２人ともありがとう。他に意見のある人は？君！
学生Ｃ：アファーマティブ・アクションには一時的に賛成です。理由は２つ。
１つは大学教育の目的は学生を教育することだからです。異なる人種、異なるバックグラウンドを持つ学生は様々な方法で教育に貢献します。
２つ目の理由は、歴史を振り返り、奴隷制を考えた時に、平等な背景が存在するとは言えないからです。アファーマティブ・アクションはある種の償いであり、得にアフリカ系アメリカ人に対して行われた過ちを緩和するための、一時的な解決策だと思います。
名前は？
学生Ｃ：デイビットです。
デイビット、君の意見はアファーマティブ・アクションは少なくとも現時点では正当化されるというわけだ。奴隷制や人種分離など、過去を償いための方法として。
学生Ｃ（デイビット）：はい。
この意見に反論したい人は？アファーマティブ・アクションに対する批判を聞きたい、君！
学生Ｄ：過去に起こったことは、今起こっていることと関係ないと思います。人種差別は常に間違っています。差別されるのがどの人種であれ間違いです。私たちの祖先が何かをしたからと言って、現代に生きている私たちに影響を及ぼすべきではないと思います。
よろしい、君の名前は？
学生Ｄ：ケイトです。
ケイトに反論のある人は？君！
学生Ｅ：反論といよりは、コメントですが。
名前は？
学生Ｅ：モンソーです。奴隷制度では過去の差別のせいで今でもアフリカ系アメリカ人の多くが貧困に苦しみ、社会進出の機会も白人より劣ります。つまり、２００年前の奴隷制度、人種分離が現在までに続く人種に基づく不正を生んだわけです。
ケイト！
ケイト：もちろん格差はあると思います。でも格差を是正するには、結果を人為的に操作をするのではなく、問題そのものを解決すべきです。育児や教育の格差解消のため、適切なプログラムを実施したり、低所得者地域の学校に資金を援助すべきであって、結果を操作して実際は平等ではないのに、平等にみえる状況をつくり出すべきではないと思います。
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君！
学生Ｆ：白人だって、４００年以上、自分たちを優遇するアファーマティブ・アクションを行ってきているわけではありませんか。円弧主義などのかたちで、ですから４００年間、黒人に対して行われてきた、不正義と是正することには何ら間違いはありません。（会場拍手）
君の名前は？
学生Ｇ：ハナです。
誰かハナに意見のある人は？議論の展開のために、今のハナの主張に付け加えると、レガシー・アドミッションについても触れてみてもよかったねぇ。
学生Ｇ（ハナ）：はい、レガシー・アドミッションには反対すべきだと言おうとしているところでした。ハーバード大学の歴史では黒人よりも白人の法がレガシーの持つ学生が多いですから。
レガシー・アドミッションとは？
学生Ｇ（ハナ）：それは、自分が入りたい大学に親も通っていたという恣意的な特権を持つ出願者は入学において、有利に扱われるというものです。
結構、ハナへの反論は？バルコニー席にいる、君！
学生Ｈ：まず、アファーマティブ・アクションが過去の正義へのつぐないなら、なぜアメリカにおいて歴史的には差別されていないマイノリティにまで、この制度が適用されるのでしょうか。また、アファーマティブ・アクションは人種にこだわらない社会をつくるという目標を達成させるのではなく、人種間の問題をかえって長引かせているように思えます。
名前は？
学生Ｈ：ダニエルです。
学生Ｇ（ハナ）：その意見には賛成できません。多様性を促進し異なるバックグラウンドを持つ人々と交流させることで、全ての学生、特に白人地域で育った白人学生への教育になります。白人学生を白人学生の環境に置くことは、白人学生にとっても不利益です。
学生Ｈ（ダニエル）：多様性には様々なものがあるのに、なぜ人種だけを取り上げるんですか？それが大学や社会での人種間の問題を長引かせていると思います。
ハナ！
学生Ｇ（ハナ）：有利な扱いを受けているアフリカ系アメリカ人たちは特別な貢献をもたらします。なぜなら彼らは独自の視点があるからで、それは異なる宗教や社会、経済的バックグラウンドを持つ人たちと同様です。あなたが言う通り、様々な多様性がありますが、人種の多様性が除外される理由はありません。
君！
学生Ｉ：この国で人種差別は違法です。アフリカ系アメリカ人の指導者だったマーティン・ルーサーキングも肌の色ではなく、自分の人柄、実力、業績で判断されたいと言っています。人種だけに基づいて判断することは不公正だと思います。不利なバックグラウンドを考慮して是正しようとすることはいいと思いますが、白人でも恵まれない人はいます。白人でも黒人でも関係なく、、。
名前は？
学生Ｉ：テッドです。
テッド、ホップウッドを考えてみよう。人種を考慮するのが不公正なら、民族や宗教を考慮するのも不公正だと言うことになるよね。
学生Ｉ（テッド）：はい。
では、君の意見では、成績とテスト結果で合否判定される権利があると思うかな？
学生Ｉ（テッド）：いいえ、それだけではないです。大学は多様性を促進する必要がある思います。
多様性の促進には賛成なのか？
学生Ｉ（テッド）：自分ではどうしようもない要素のみに基づいて人を差別しなくても、多様性を促進する方法はあります。
よろしい、つまり問題はホップウッドには自分が白人であるということは変えることができない、という点だ。これが彼女に対する不公正さの確信だ。ブリーもさっき指摘していたね、自分ではどうすることもできない要素に基づいて、合否判定が行われるのは根本的に不公正だと、どう思う。
学生Ｊ：自分ではどうすることもできないことはたくさんありますし、実力やテストの結果でで選抜されるにせよ、学業成績の大部分も育った家庭環境に関係しています。両親が学問好きならば、子供も学問を好きになり、良い成績をとる確立は高くなりますが、子供に親は選べないし、、。
よろしい、素晴らしい議論だ。名前は？
学生Ｊ：ダーです。
テッド、君は自分の家族から得られるアドバンテージには反対かな？レガシーアドミッションをどう思う？
学生Ｉ（テッド）：レガシーアドミッションについては優遇すべきではないと思います。たしかにレガシーアドミッションは別の形の多様性であるとはいえ、先祖が数世代に渡って、ハーバードに入学してきた家の人を少しくらい入学させることも少し重要だと言えるかもしれません。しかし、人種と同様、有利な要素になるべきではないと思います。多様性を促進する１つの要素であるべきだと思います。
考慮すべきなのか。卒業生だという地位を考慮すべきか？
テッド：はい、すべきだと思います。
よろしい、今までの議論から少し離れて、、、発言してくれたみんな、どうもありがとう。
注意深い耳を傾けた人は人種や民族を合否判定の際の要素に考慮することに賛成する議論から、３つの論拠が浮かび上がったことに気付いたと思う。
１つはそれまでの教育環境から不利だったことから生じる是正、ということだ。
これはアニーシャの主張で、是正の議論と呼ぶことにしよう。通った学校、与えられた教育の機会などの教育的背景格差を是正する、というものだ。これが１つ目。
とはいえ、この主張は合否判定において考慮されるべきは学問的な有望さ、学習面での潜在だけだ、という考え方と整合する。ただ、学問的な有望さ、学習面での潜在能力を真に評価するためには学業成績とテストの点だけをみるのは足りない、ということだ。これが１つ目の議論。
２つ目の議論は、ある特定の出願者の場合は、たとえ教育的に不利な条件を是正する必要がなくても、アファーマティブ・アクションは正当化されるといものだ。つまり、過去の過ち、歴史上の不正義に対して正当化される、という議論である。過去の過ちをつぐなうためのものだ、というつぐないの議論だ。
３つ目はハナをはじめとする何人かファーマティブ・アクションを支持した議論で、その理由は多様性である。多様性の議論は償いの議論とは異なる。なぜなら、社会における、大学の目的や使命に訴えかけるものだからだ。
多様性の議論には２つの側面がある。１つはみんなの教育的経験のために、多様な学生構成を持つことは重要なことだ、ということだ。これはハナも指摘した点だ。より広い社会について言及する者もいる。ホップウッド訴訟においてテキサス大学はこう主張した。我々はテキサス州のそして、国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員を育成しなければならない。
このように多様性の議論には２つの側面があるが、どちらも社会的な目的、社会的な使命、あるいはその大学が行使する公共の利益。
これらの議論には反論もあった。償いの議論に対する最も強力な反論は次のようなものだ。
過去に犯されたひどい不正義を償うため、現代を生きるシェリルホップウッドに犠牲を強いることは公正なだろうか、しかも彼女自身には、その過去の不正義とは何の関係もないのに。償えと要求することは公正なことなのだろうか。これは償いの議論に対する重要な反論だ。この反論に答えるためには時間を超えた集団の権利や集合的責任といったものが、はたして存在するのかどうかを検討しなければならない。
明らかになったこの問題点は脇に置いておき、多様性の議論に戻ろう。
多様性の議論においては、過去の過ちに対する集合的責任を気にする必要はない。なぜなら、ハナたちが指摘したみたいに、もし人種的、民族的に多様な学生がいれば、公共の利益がもたらされ、促進されるからだ。多様性によって皆がその恩恵を受ける。この論拠は実際にアファーマティブ・アクションが争点となった１９７８年のバッキ訴訟で、ハーバードがあげた論拠であり、最高裁に法定助言者意見書として提出された。
この訴訟においては、当初、浮動票であったパウエル判事はハーバード大学の意見書を引用し、彼はアファーマティブ・アクション支持にまわった。彼は憲法上認められる論拠としてハーバードの意見書を引用した。
ハーバードの意見書の論拠はこうだ。
我々は多様性を重んじる。学術的な優秀さが、ハーバード大学、入学審査の際の唯一の基準であったことは、今までに１度もない。
１５年前、多様性とはカリフォルニアやニューヨークやマセチューセッツ出身の学生を意味した。都会人と農場の少年、バイオリニスト、画家、フットボール選手、生物学者、歴史家、古典学者を意味した。
当時と現在の唯一の違いは多様性を考慮するこの長いリストに人種と民族という項目を加えたことだ。優秀な成績を期待できる多数の志願者を審査する際、人種はプラスに働く。それはアイオワ出身であることや、優秀なフットボール選手やピアニストであることと同じだ。アイダホの農場の少年はボストン出身者にはでできない何かを大学にもたらす、同様に黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらす。
全学生の経験的教育の質はそれぞれの学生に固有のバックグラウンドの違いやものの見方の違うところも大きい。これがハーバードの議論だ。
この多様性の議論に説得力があるだろうか。
説得力を持つためには、非常に強力な反論に答えなければならない。
この講義で出された、ケントとブリーの反論に対してだ。
君たちが功利主義者ではない限り、個人の権利は侵害されてはならない、と信じているはずだ。
そうすると問題は、ここで個人の権利は侵害されるのかということになる。シェリルホップウッドの権利は侵害、あるいは利用されたのか。つまり、テキサス大学ロースクールの掲げる公共の利益や社会的使命のために入学を拒否されたのだろうか、彼女に権利はあるのだろうか。
私たちは業績、功績、努力によって評価されるのに値するのではないだろうか、それなのに、それは危機に瀕してる権利なのではないか。
私たちはすでにこの議論に対する答えを知っている。彼女に権利はない。
彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。値する者は１人もいないのだ。
このことは対価対視角の論点に私たちを引き戻す。
ホップウッドには個人的な権利はない。彼女は自分が重要だと考える、どのような基準に従ってもその中には努力や功績のみを考慮するという基準を含まれるが、入学を入学許可されるには値しない。
なぜ値しないか。この議論が暗示しているものは、ロールズが分配の正義に根拠として、道徳的対価を否定したのとどこか似ている。
ハーバードがひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の資格を持つことになるのだ。
だが、この議論によれば、誰もその存在自体で入学の値する、ということはないのだ。ハーバードはまずその使命を定め、入学審査基準を決めるが、それは出願者がたまたま豊かに備えている資質を評価する、という方法で基準を決める。ピアノの才能であれ、優れたフットボール選手であれ、アイオワ出身であれ、マイノリティグループの出身であれ。
このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論がなぜ私たちを権利の問題に引き戻すか、そしてさらには道徳的対価が分配の正義の基礎となるかどうか、という問題に引き戻すか、理解してくれたと思う。このことについてじっくり考えてみて欲しい。次回もこの議論を続けよう。




Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」
アファーマティブ・アクションの人種差別について、過去にはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人を差別した選別があった。それには彼らが他の人間より劣っているとする決めつけが内在しており、悪意があったが、今回の人種差別は多様性を促進するという目的なため悪意がないので良いという意見がある。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や公共の利益の名の下に展開させる議論だ。公共の利益や福祉を促進する過程で個人の権利が侵害されてしまっても、公共の利益や福祉が優先されるべきなのだろうか。実はロールズは単純にはそう信じてはいない。ロールズは分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。おそらく私たちも仕事の地位や、大学入試の合否も、道徳的対価と関係ない方法で行われることを認めてしまってはいないだろうか。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。しか平等主義的ではないリバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家も、分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではないとしている。つまり、分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等主義的な理由だけではありえないということだ。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らに共通している前提は何かを知るために、古代の哲学者アリストテレスを考える。彼は正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。アリストテレスの分配の正義論は目的から逆算して考える「目的論的論法」だ。例えば、誰が最高のフルートを手に入れるべきかという問いに、アリストテレスは一番上手なフルート奏者だと答える。フルートを持つにはふさわしい美徳を持つことなのだ。フルートに最高額をつける者や貴族や身体の美しい者やくじ引きなどという理由でフルートを分配することは間違っている。なぜか。それは良い演奏がなされることが「フルートの目的」だからだ。重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということだ。たしかに目的から論理を組み立てるという思考法は少し奇妙だ。その背景には古代ギリシャでは自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的を問い、読み取るということを大事にしていた。現代科学に慣れた我々からすれば目的論的論法を考えることは難しい。むしろこのような世界観から抜け出すよう子供たちを教育しなければならない。自然を理解するには目的論的な説明から脱却し科学的に考える必要がある。しかし、正義を目的から論じることは、我々がさきほど考えた、アファーマティブ・アクションの話の「大学教育にふさわしい目的とは何か」という問いに置き換えてみることもできるではないか。次回もアリストテレスの目的論的論法を考える。



Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」
前回の講義は、入試審査の際、人種を合否判定の要素の１つとして考慮する、アファーマティブ・アクションの是非の論拠を検討して終わった。議論の過程で、3つの考え方がアファーマティブ・アクションを支持する論拠として、浮かび上がってきた。
１つ目は、人種や民族的バック・グラウンドを考慮して、テストの点や学業成績が、受験者の持つ学力の潜在能力を正確に表すものになるように、是正していくことが必要だ、という考え方だ。
２つ目は、償いの論拠と呼ぶべきもので、過去の過ちや不正義を正す、と言う考え方だ。
そして３つ目が、多様性の根拠だ。
シェリル・ホップウッドが１９９０年代に起こした、テキサス大学ロースクールのアファーマティブ・アクション・プログラムに対する訴訟は、連邦裁判所に持ち込まれたが、そのときテキサス大学が示したのは、別の種類の多様性の論拠だった。
テキサス大学ロースクールは、より広い社会的な目的、社会的使命を担っており、それは、法曹界や政界において、裁判官や弁護士や議員の中において、指導者を輩出することである。そのため、テキサス州のバックグラウンド、歴史や人種、民族的人口構成を反映する指導者層を育てることが重要である。それが、大学のより広い社会的使命を果たすためにも重要なのだ。
これが、テキサス大学ロースクールの主張だった。
次に私たちは、多様性の論拠に対する反論について考えた。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や、公共の利益の名の下に展開させる議論だ。
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公共の利益、ないし一般的福祉を促進する過程で、個人の権利が侵害されてしまっても、それでもやはり、公共の利益、ないし一般的福祉は優先されるべきだと、ロールズは単純には信じていない。
それが、前回の講義の最後に投げかけられた多様性の論拠に対する疑問である。
この場合、どのような個人的権利が問題となるのだろうか。
自分の力が及ぶ範囲の権利。それを考えなければいけないのだ。
シェリル・ホップウッドがあんに主張したのはこの点ではないだろうか。
自分が白人であるという事実は変えようがない。なぜロースクールへの入学の可能性が、自分では変えようのない要素に左右されなければいけないのか。
前回この議論の中で、ハーバードはその使命を好きなように決める権利がある、という意見もあった。ハーバードは私立の教育機関だからだ。ハーバードがひとたびその社会的使命を定めたら、学生に求める資質が何かは明らかになる。ゆえに何の権利も侵害されない。
さてこの主張は果たして正しいか。この主張への反論を聞きたい。
その後、他の意見も聞いてみたい。君、名前は？
学生Ａ：ダーです。
ダー、前回も発言してくれたね。じゃあ君の反論を聞こう。
学生Ａ（ダー）：論点は2つあります。１つは私的な機関はその使命を自由に決めて良いという点ですが、それが必ずしも正しく決められるとは限りません。例えば、私は自分の使命を世界中のお金を集めること、と定めてもよいでしょうが、それが正しい使命でしょうか。だから、私立の機関だからといって、なんでも好きに決めて良いとは言えません。アファーマティブ・アクションの場合、他にも関連する要素がたくさんあるので、人種をその１つに含めても良いのではないでしょうか。
ああぁ、まずは君の１つ目の論点について考えて行こう。
ダーが今言ってくれた反論は、大学は自分の社会的使命を好きなように定めていいのか、そしてそれに従って入試の合否を判定していいのか、ということだ。
テキサス大学ロースクールはどうだろうか。現在ではなく１９５０年代のことだ。１９５０年代にもテキサス大学ロースクールへの訴訟が最高裁に持ち込まれたことがあった。入試が人種差別的で、白人しか入学を許可していなかったのだ。５０年代の訴訟の時も、テキサス大学ロースクールは、大学の社会的使命を引き合いに出した。ロースクールとしての我々の使命は、テキサスの法曹界や法律事務所のために弁護士を要請することだ。アフリカ系アメリカ人を雇うテキサスの法律事務所はない。ゆえに、我々の使命を全うするためにも白人にしか入学を認めない。
１９３０年代のハーバードもユダヤ人学生の入学を制限していた。３０年代の学長だったローエルは、個人的にはユダヤ人に対して何ら反感もないと述べた。しかし彼は、ハーバードの社会的使命を引き合いに出し、知識人の育成だけではなく、ウォール街の株式仲買人や大統領や上院議員の育成もまた、ハーバードの使命であるが、そういう職種に進むユダヤ人はほとんどいないのが現状だ、と述べた。
そこで君たちに問題だ。
現代の大学が、多様性の論拠として掲げる大学の使命と、１９５０年代のテキサス大学や、３０年代のハーバード大学が掲げた、大学の社会的使命の間に、原理的な違いはあるのだろうか。原理上違いはあるのだろうか。誰か意見は？ハナ！
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学生Ｂ（ハナ）：原理上の違いはあると思います。それは、含むということと、除外することの違いです。大学が宗教や人種を理由に出願者を除外するのは道徳的に間違っています。これは恣意的な要素に基づく拒絶です。今のハーバードは、多様性を促進することで、過去に除外されていた集団も含めようとしています。
よろしい。ちょっと待っていて。誰か、反論のある人は？君！。
学生Ｃ：反論と言うよりもハナを支持したいのですが、、。
よろしい。
学生Ｃ：私が考えるもう１つの違いは、過去の人種差別は悪意が動機だった、という点です。黒人やユダヤ人の入学を許可しないのは、彼らが劣った人々や集団だと考えたからではないかと思うのです。
現在は悪意の要素はない、ということだね？名前は？
学生Ｃ：スティービーです。
スティービーが言っているのは、過去の人種的分離主義者や、人種差別主義者、反ユダヤ的な制限や禁止には、ある種の悪意、つまりアフリカ系アメリカ人やユダヤ人は他の人間より劣っているとする決めつけが内在していた。
しかし、現在のアファーマティブ・アクションには、そういう決めつけはない、ということだ。
これはつまり、人間を本質的に劣っているものと決めつけない。スティービー流に言えば、悪意を持って決めつけないものであるならば、選抜の方針が人間をその機関の社会的使命に沿って貴重な存在として扱う限りオーケーだ、ということだ。
ここで質問だ。
仕事上の地位や、大学入試の合否を巡って競争する時、私たちは皆、判断されるのではなく、利用されること。しかも道徳的対価と関係のないやり方で利用されることを、認めてしまってはいないだろうか。
アファーマティブ・アクションについての議論を始めたのは、分配の正義は道徳的対価と結びつけられるべきか否か、について考えていた時だったことを思い出して欲しい。
その課題に取り組むきっかけはロールズだった。
ロールズは分配の正義、それが階級や収入や財産における地位であれ、立場であれ、分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。仮にそれがハーバードの入学審査方針の道徳的根拠だったとしよう。この点についてハーバードは、不合格者と合格者にどのような手紙を書くだろうか。それは次のようなものになるだろう。
不合格となった出願者様へ
残念ながらあなたは不合格ですが、あなたに落ち度はありません。社会が、たまたまあなたの資質を必要としていなかったのです。（会場笑い）あなたの代わりに合格した人も、その人自身が合格に値するというわけではなく、合格の決めてとなった要素を持っていたに過ぎず、賞賛に値するというわけではありません。我々は社会的な目的のためにそれらの要素と皆さんを利用するだけなのです。次回の幸運をお祈りします。
君たちは合格した時、手紙を受け取っただろうが、その手紙は次のように書いてあるべきだった。
合格となった出願者様へ
喜んであなたの合格をお知らせします。あなたにとって幸運なことに、あなたが社会が、今必要とする資質を有しているので、社会の便宜のためにその資質を利用させていただきます。あなたは、あなたが合格に繋がる資質を持っていたから賞賛に値するのではなく、宝くじの当選者が祝福されるのと同じ意味合いで祝福されるに過ぎません。我々の申し出を受け入れてくださるのであれば、このように利用されることに付随する便益を得る資格が与えられます。それでは入学式でお会いしましょう。（会場笑い）
これらの手紙は、少々おかしい。
この文面が入学審査方針の底に流れている理論や哲学を反映しているものだとしたら、道徳的におかしいところがある。このことから提起される問いがある。それは私たちを政治哲学の重大な問題に引き戻す問いである。
分配の正義の問題を、道徳的対価の問題、美徳の問題から切り離すことは可能なのだろうか。
そして、それは望ましいことなのだろうか。
この論点は、現代の政治哲学を古典政治思想から多くの点で区別している。
道徳的対価を脇におけるかどうか、という問いにおいて問題となるのは何だろう。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。道徳的対価を考慮しなければ、平等主義的な考えを実践するためのより広い視野が得られる。
無知のベール、２つの原理、最も恵まれない人々への援助、再分配などである。
しかし、興味深いことに今まで取り上げてきた思想家をみてみると、正義を道徳的対価から切り離したいと考える理由は、平等への関心とは別のところへあるようだ。
リバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家たち。そして平等主義の立場を取る権利中心の理論家たち。その中にはロールズやこの論点に関してはカントも含まれるが、彼らは分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではない。という点では意見が一致している。なぜ全員がそう考えるのであろうか。
それは平等主義的な理由だけではありえない。全員が平等主義的ではないからだ。
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ここで我々は大きな哲学的問題に突き当たる。
なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。
彼らが問題だと考えていることを理解するために、また、彼らに共通している前提は何かを知るために、１人の思想家、哲学者をとりあげてみよう。
この思想家は彼らとは違い、正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。
この思想家とはアリストテレスだ。
正義についてのアリストテレスの考え方は、直感的に非常に強力である。ある意味では変わった考え方でもある。その力、説得力、変わっている点を引き出し、正義、及び、正義が道徳的対価と美徳と結びつけられるべきかどうかについての議論において、何か問題なのかを明らかにしていきたい。
それでは、アリストテレスは正義をどんなものだと考えているのか。アリストテレスにとって正義とは人々に値するものを与えること、与えられるべきものを与えることだ。それぞれに美徳を持つ個人と適切な社会的役割の間に適切な適合関係を見出すことである。
このような正義の在り方はどのようなものなのか、また、リバタリアンや平等主義的な権利中心の理論家たちが共有していると思われる概念とどう違うのだろうか。
正義とは、その人に与えられるべきもの、値するものを与えることだ。
では、ある人に与えられるべきものとは何だろうか、そんな真価や対価の適切な動機は何か。アリストテレスはそれは分配されるものの性質によるという。
正義には２つの要素がある。
１つは物、１つは物が割り与えられる人々だ。一般に言えることは平等である人々には、平等な物が割り与えられるべきである。
しかし、ここで難問が生じる。平等というのは、何に関しての平等だろうか。
アリストテレスはそれは分配されるものの性質による、という。
仮にフルートを分配するとしよう。フルートを得るに値する、適切な真価や根拠とは何だろうか。誰が最高のフルートを手に入れるべきなのだろうか。アリストテレスの答えは何かわかる人？
学生Ｄ：一番上手なフルート奏者。
学生Ｄ：一番上手なフルート奏者！正解だ。
フルートを手にすべきは一番上手なフルート奏者である。フルートを分配するにあたって、人を差別するのは正しいか、答えはイエスだ。全ての正義は差別を内向するとアリストテレスはいう。
重要なのは、その差別が関連する卓越性。この場合はフルートを持つに、ふさわしい美徳を持つことである。アリストテレスは他の根拠に基づいてフルートを分配するのは正しくない、と述べている。
例えば、富により最高額を払える人々に最高のフルートを与えること、生まれる高貴さにより貴族に与えること、身体的な美しさにより、または偶然任せ、くじ引きで与えることは正しくない。生まれや美しさはフルートを吹く能力よりも大きな
善かもしれず、その善を持った人たちがそれらの資質において優れている度合いは、フルート奏者がフルートを吹く能力に勝っているかもしれない、しかし、最高のフルートを得るべきなのは、最高のフルート奏者である、という事実は動かない。
ところで、この比較は奇妙だ。
私がハンサムである度合いは、彼女はラクラスの良い選手である度合いより上だ。というのは実に奇妙な比較だ。でも、それはさておき、アリストテレスの意見では私たちは全てにおいて最高の人を求めているのではなく、最高のフルート奏者を求めているのだ。
それはなぜか、ここが重要だ。
なぜ最高のフルートが最高のフルート奏者に与えられるべきか、なぜだと思う？誰かわかる人？ん？何？彼らが最高の音楽を奏でるから？そして皆が音楽をもっと楽しめば？、、それはアリストテレスの答えではない。アリストテレスは功利主義者ではない。そうすれば、よりよい音楽がもたらされ、皆が楽しめてより快適になるから、とは彼は言わない。
彼の答えはこうだ。
最高のフルートが最高のフルート奏者の手に渡るべきなのは、良い演奏がなされることがフルートの目的だからだ。
フルート演奏の目的は、素晴らしい音楽を創り出すことであり、その目的をもっともうまく達成できる人間が最高のフルートを得るべきである。もちろん、うれしい副時的効果として、その音楽を聴いて皆が楽しめる、というのも真実だろう。だから、さっきの答えも打倒なものだとは言える。
しかし、重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということは理解することだ。皆には少し奇妙なものに思えるかもしれないが、アリストテレスの理由はフルート演奏の目的、意義、目標を重要視している。別のいい方をすれば、目的をみることから正義にかなう分配が導き出される、ということだ。
目的や目標のことをギリシャ語では「テロス」という。
アリストテレスはこう言う。
物事の意義、目的、目標、すなわち物事のテロスを考えねばならない。
この場合はフルート演奏だが、その目的が明確になって、はじめて正義にかなった分配、正義にかなった差別が可能になるのである。
テロス、つまり目的から逆算してくるこの論理の考え方を「目的論的論法」「目的論的道徳論理」と呼ぶ。
これがアリストテレスの思考法だ
目的、目標から論理を組み立てる。
私がさっき言ったように、目的から論理を組み立てるという思考法は、奇妙に思えるかもしれないが、ある種の直感的な積極力がある。
ハーバードを例にとり、一番良いテニスコートを、あるいはスカッシュコートの割り当てについて考えてみよう。
一番良いコートを使う優先的な権利を与えられるのは、誰であるべきか。一番金を払える人間に使わせればいい、と君たちは言うかもしれない。しかし、アリストテレスはノーと言うだろう。ならば、ハーバードの有力者、一番影響力のある人間に使わせたらどうだろう。例えば、偉い教授たちに使わせるとか。いや、アリストテレスはこれにもノーと言うだろう。学校代表のテニス選手がテニス選手という度合いよりも、科学者が偉大な科学者の方が上かもしれない。それでもテニス選手が一番良いテニスコートの優先権を持つべきなのだ。
この考え方には、ある種の直感的な説得力がある。だが、この考え方を奇妙に感じさせる理由の１つは、アリストテレスが暮らしていた古代の世界では、目的論的論法や目的論的説明に支配されていたのは、社会的な実践だけではない、ということだ。自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し、自然を把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的やテロスを問い、読み取るということを意味していた。
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現代科学の出現と共に、そのように世界を考えることは難しくなってきており、正義を目的論的に考えることはもっと難しくなってきている。しかし、自然界にも目的論的な秩序を持っている、目的論的な統一性だと考えることには、ある種の自然さがある。
実際にはこのような世界観から抜け出すよう、子供たちを教育しなければならない。
私はまだ子供たちが小さかった頃、クマのプーさんを読んで聞かせた時にこのことに気付いた。
クマのプーさんを読むと目的論的な物の見方に、ある種の自然な子供らしい世界観があるのがよくわかる。君たちもこの話を知っているかもしれない。
ある日プーさんは森の中を歩いていると、木のてっぺんからブンブンという大きな音が聞こえてきた。プーさんは木の根本に腰をおろし、ほうづえをついて考え始め、こう独り言を言った。
このブンブン言う音には何か意味がある。こんなにブンブンする以上、何の意味もないということはあり得ない。ブンブン音がするということは、誰かがブンブン音をたてているからだ。そしてブンブン音をたてる僕が知っている理由はハチだからだ。そして、またプーさんはしばらく考え、こう言う。
ハチである理由で僕が知っている唯一の理由はハチミツをつくることだ。プーさんは立ち上がりこう言う。そしてハチミツをつくる唯一の理由は僕が食べられるようにだ。そしてプーさんは木に登りはじめる。これが目的論的論法の１つの例だ。（会場笑い＆拍手）
こう考えてしまうことは、そんなあり得ないことではない。しかし私たちは成長し、このような世界の見方をしないようにと教育された。
だが、ここでさっきの質問をしよう。目的論的な説明が、現代科学と相容れなくとも、自然理解する上では、そういう考え方からは脱却しても、アリストテレスの考え方は直感的ないし道徳的に説得力があり、強力ですらあるのではないだろうか。
彼は正義について考える唯一の方法は社会的実践の目的や目標、つまりテロスから論じることである、と主張した。これはアファーマティブ・アクションへの反論で、まさに私たちがしたことではないだろうか。アファーマティブ・アクションに対する反論を大学教育にふさわしい目的や目標とは何か、という問いに置き換えてみることもできる。
目的から論じること、目標から、テロスから、論じることは正義について考えるには不可欠だ、とアリストテレスは言っている。彼は正しいだろうか。アリストテレスの政治学に取り組む時、この問いについて考えて欲しい。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」</p>
<p>ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として１９９６年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション（積極的差別是正措置）を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は１人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/AUhReMT5uqA&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/AUhReMT5uqA&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture17<br />
<strong>ARGUING AFFIRMATIVE ACTION</strong><br />
Lecture18<br />
<strong>WHERE OUR LOYALTY LIES</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:11
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」</font></h2>
<p>前回は種類が異なる２つの主張、道徳的な対価と正当な期待に対する資格との間で、ロールズが引いた区別について議論した。</p>
<p>ロールズは分配の正義を道徳的な対価への問題へと考えたり、その人間の美徳に従って報いるためのものだと考えたりすることは、間違いだ、と論じた。</p>
<p>今回は道徳的な対価の問題とそれが分配な正義とどう関連するのか考えてみよう。収入や富との関連ではなく、就職の決定や入試の際の合否判定との関連を考えていきたい。</p>
<p>そのために、アファーマティブ・アクション、積極的差別是正措置を取り上げてみたいと思う。<br />
<span id="more-3096"></span><br />
みんな、シェリル・ホップウッドの訴訟を読んだね。彼女はテキサス大学のロースクールに入学願書を出した。シェリル・ホップウッドは裕福な家庭の出身ではなかったため、働きながら高校を卒業。コミュニティカレッジを経て、カリフォルニア州立大学サクラメント校で学び、成績の平均点は５点満点中３.８という優秀なものだった。その後、テキサスに　引越し、ロースクールへの適正試験を受けて高得点を取り、テキサス大学ロースクールに願書を出した。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
結果は不合格だった。<br />
彼女が不合格となった当時、テキサス大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクションを採用しており、合否を決定する際、人種や民族的バックグラウンドを考慮に入れていた。<br />
テキサス大学の主張をこうだった。テキサスの人口の４割をアフリカ系、メキシコ系のアメリカ人が占めている。ロースクールとしては学生の多様性は重要なので、学業成績やテストの得点だけで選抜するのではなく、人種や民族的バックグランドを含め、クラスの中に様々な学生がいるように考慮している。</p>
<p>ホップウッドが訴えたのは、その方針の結果、自分よりも学業成績やテストの点が劣る出願者がテキサス大学ロースクールに認められ、彼女自身は不合格がなったことだった。彼女は自分が白人であるという理由だけで不合格になったと主張した。もし、自分が白人でなくマイノリティであったなら、あの成績なら合格していただろうと、そして実際、裁判で入学審査のデータが明らかにされたところ、その年のアフリカ系アメリカ人、メキシコ系アメリカ人の出願者で、学業成績とテストの点が彼女と同じだったものは合格していたことが判明した。</p>
<p>その訴訟は連邦裁判所に持ち込まれた。法律的なことはさておき、正義と道徳という観点から考えていこう。これは公正か不公正か。シェリル・ホップウッドには告訴する権利があるのだろうか。ロースクールの方針により、彼女の権利は侵害されたのだろうか。</p>
<p>ロースクールを支持し、合否判定の際に人種や民族を考慮するのは正しい、と思う人はどれくらいいる？ホップウッドを支持し、彼女の権利は侵害されたと思う人は？ちょうど半分に意見が割れたね。じゃあ、ホップウッドを弁護する人の意見から聞こうか。君！</p>
<p>学生Ａ：この場合は恣意的な要素に根拠が置かれています。白人であってマイノリティではないということについて、彼女には何もできず、努力すれば結果が出せる結果が出せるテストとは違います。自分の人種を変えることはできないのですから。</p>
<p>結構、名前は？<br />
学生Ａ：ブリーです。<br />
ブリー、ちょっと立っていてくれ。ブリーに対して何か意見がある人は？君！</p>
<p>学生Ｂ：教育制度には格差が存在しています。私が育ったニューヨークでは多くの場合、マイノリティが通う学校は、白人の学校に比べて、予算も少なく設備も整っていないので、必然的にマイノリティと白人の間では格差が生じます。マイノリティがいい学校に行ったとしても、いい成績はとれないでしょう。なぜなら、それまでの教育環境が、、、</p>
<p>あぁ、話の途中だが、、君の名前は？<br />
学生Ｂ：アニーシャです。<br />
アニーシャ、君が言うのは、マイノリティが子供時代に通った学校は、裕福な家庭の子が通った学校と同等の教育の機会を提供しない場合がある、ということだね。<br />
学生Ｂ（アニーシャ）：はい。<br />
だから、彼らのテストで採った点は潜在能力を正確には示していないかもしれない、というわけだ。<br />
学生Ｂ（アニーシャ）：もっと予算のある学校でいい教育を受けていれば、才能は開花していたかもしれません。<br />
アニーシャが言うのは、大学が学問という面からみて、もっとも延びる見込みのある者を選ぶのは当然だが、学業成績や入試の点を審査する際、背景にある教育的不利な条件を考慮に入れて、合否をすべきだ、といういことだ。これは、アマーマティブ・アクションを是とする論拠の１つだ。アニーシャの言ったとおり、それまでの不平等な教育環境を是正しなければならない、というものだ。</p>
<p>別の議論もある。これと対立する原理があるかどうかをみるために、２人の出願者がいると仮定しよう。２人はテストでも成績でも等しく優秀で、どちらも一流の学校に通っていたとしよう。２人の出願者のうち、どちらか１人を選ばなければならない時、この２人の出願者の場合は不平等な教育関係を是正する必要がないわけだが、どんな大学でも、ハーバードでもいいが是正する必要がなくとも、それでも学生構成における人種や民族は多様性があった方がいい、と考えるのは不公正だろうか、この場合はどう思う？ブリー？</p>
<p>学生Ａ（ブリー）：落とされる方はショックですから、このことが正当化されるケースはただ１つ、人種や民族以外の全てのことを検討し、その人の才能や出身やどんな人であるかについて、恣意的な要素を除いて検討した結果が全て同じたる場合だけだと思います。</p>
<p>恣意的な要素を除くと言ったね、だが、君はさっき、人種や民族は出願者にはどうしてもない恣意的な要素だと言った。本人にはどうしようもない、恣意的な要素に基づいて合否は判定してはならない、ということだね。<br />
学生Ａ（ブリー）：そうです。<br />
よろしい、他に意見のある人！２人ともありがとう。他に意見のある人は？君！</p>
<p>学生Ｃ：アファーマティブ・アクションには一時的に賛成です。理由は２つ。<br />
１つは大学教育の目的は学生を教育することだからです。異なる人種、異なるバックグラウンドを持つ学生は様々な方法で教育に貢献します。<br />
２つ目の理由は、歴史を振り返り、奴隷制を考えた時に、平等な背景が存在するとは言えないからです。アファーマティブ・アクションはある種の償いであり、得にアフリカ系アメリカ人に対して行われた過ちを緩和するための、一時的な解決策だと思います。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｃ：デイビットです。<br />
デイビット、君の意見はアファーマティブ・アクションは少なくとも現時点では正当化されるというわけだ。奴隷制や人種分離など、過去を償いための方法として。<br />
学生Ｃ（デイビット）：はい。<br />
この意見に反論したい人は？アファーマティブ・アクションに対する批判を聞きたい、君！</p>
<p>学生Ｄ：過去に起こったことは、今起こっていることと関係ないと思います。人種差別は常に間違っています。差別されるのがどの人種であれ間違いです。私たちの祖先が何かをしたからと言って、現代に生きている私たちに影響を及ぼすべきではないと思います。</p>
<p>よろしい、君の名前は？<br />
学生Ｄ：ケイトです。<br />
ケイトに反論のある人は？君！</p>
<p>学生Ｅ：反論といよりは、コメントですが。<br />
名前は？<br />
学生Ｅ：モンソーです。奴隷制度では過去の差別のせいで今でもアフリカ系アメリカ人の多くが貧困に苦しみ、社会進出の機会も白人より劣ります。つまり、２００年前の奴隷制度、人種分離が現在までに続く人種に基づく不正を生んだわけです。</p>
<p>ケイト！<br />
ケイト：もちろん格差はあると思います。でも格差を是正するには、結果を人為的に操作をするのではなく、問題そのものを解決すべきです。育児や教育の格差解消のため、適切なプログラムを実施したり、低所得者地域の学校に資金を援助すべきであって、結果を操作して実際は平等ではないのに、平等にみえる状況をつくり出すべきではないと思います。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
君！<br />
学生Ｆ：白人だって、４００年以上、自分たちを優遇するアファーマティブ・アクションを行ってきているわけではありませんか。円弧主義などのかたちで、ですから４００年間、黒人に対して行われてきた、不正義と是正することには何ら間違いはありません。（会場拍手）</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｇ：ハナです。<br />
誰かハナに意見のある人は？議論の展開のために、今のハナの主張に付け加えると、レガシー・アドミッションについても触れてみてもよかったねぇ。</p>
<p>学生Ｇ（ハナ）：はい、レガシー・アドミッションには反対すべきだと言おうとしているところでした。ハーバード大学の歴史では黒人よりも白人の法がレガシーの持つ学生が多いですから。</p>
<p>レガシー・アドミッションとは？<br />
学生Ｇ（ハナ）：それは、自分が入りたい大学に親も通っていたという恣意的な特権を持つ出願者は入学において、有利に扱われるというものです。<br />
結構、ハナへの反論は？バルコニー席にいる、君！</p>
<p>学生Ｈ：まず、アファーマティブ・アクションが過去の正義へのつぐないなら、なぜアメリカにおいて歴史的には差別されていないマイノリティにまで、この制度が適用されるのでしょうか。また、アファーマティブ・アクションは人種にこだわらない社会をつくるという目標を達成させるのではなく、人種間の問題をかえって長引かせているように思えます。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｈ：ダニエルです。</p>
<p>学生Ｇ（ハナ）：その意見には賛成できません。多様性を促進し異なるバックグラウンドを持つ人々と交流させることで、全ての学生、特に白人地域で育った白人学生への教育になります。白人学生を白人学生の環境に置くことは、白人学生にとっても不利益です。</p>
<p>学生Ｈ（ダニエル）：多様性には様々なものがあるのに、なぜ人種だけを取り上げるんですか？それが大学や社会での人種間の問題を長引かせていると思います。<br />
ハナ！</p>
<p>学生Ｇ（ハナ）：有利な扱いを受けているアフリカ系アメリカ人たちは特別な貢献をもたらします。なぜなら彼らは独自の視点があるからで、それは異なる宗教や社会、経済的バックグラウンドを持つ人たちと同様です。あなたが言う通り、様々な多様性がありますが、人種の多様性が除外される理由はありません。</p>
<p>君！<br />
学生Ｉ：この国で人種差別は違法です。アフリカ系アメリカ人の指導者だったマーティン・ルーサーキングも肌の色ではなく、自分の人柄、実力、業績で判断されたいと言っています。人種だけに基づいて判断することは不公正だと思います。不利なバックグラウンドを考慮して是正しようとすることはいいと思いますが、白人でも恵まれない人はいます。白人でも黒人でも関係なく、、。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｉ：テッドです。<br />
テッド、ホップウッドを考えてみよう。人種を考慮するのが不公正なら、民族や宗教を考慮するのも不公正だと言うことになるよね。<br />
学生Ｉ（テッド）：はい。</p>
<p>では、君の意見では、成績とテスト結果で合否判定される権利があると思うかな？<br />
学生Ｉ（テッド）：いいえ、それだけではないです。大学は多様性を促進する必要がある思います。</p>
<p>多様性の促進には賛成なのか？<br />
学生Ｉ（テッド）：自分ではどうしようもない要素のみに基づいて人を差別しなくても、多様性を促進する方法はあります。</p>
<p>よろしい、つまり問題はホップウッドには自分が白人であるということは変えることができない、という点だ。これが彼女に対する不公正さの確信だ。ブリーもさっき指摘していたね、自分ではどうすることもできない要素に基づいて、合否判定が行われるのは根本的に不公正だと、どう思う。</p>
<p>学生Ｊ：自分ではどうすることもできないことはたくさんありますし、実力やテストの結果でで選抜されるにせよ、学業成績の大部分も育った家庭環境に関係しています。両親が学問好きならば、子供も学問を好きになり、良い成績をとる確立は高くなりますが、子供に親は選べないし、、。</p>
<p>よろしい、素晴らしい議論だ。名前は？<br />
学生Ｊ：ダーです。</p>
<p>テッド、君は自分の家族から得られるアドバンテージには反対かな？レガシーアドミッションをどう思う？<br />
学生Ｉ（テッド）：レガシーアドミッションについては優遇すべきではないと思います。たしかにレガシーアドミッションは別の形の多様性であるとはいえ、先祖が数世代に渡って、ハーバードに入学してきた家の人を少しくらい入学させることも少し重要だと言えるかもしれません。しかし、人種と同様、有利な要素になるべきではないと思います。多様性を促進する１つの要素であるべきだと思います。</p>
<p>考慮すべきなのか。卒業生だという地位を考慮すべきか？</p>
<p>テッド：はい、すべきだと思います。<br />
よろしい、今までの議論から少し離れて、、、発言してくれたみんな、どうもありがとう。</p>
<p>注意深い耳を傾けた人は人種や民族を合否判定の際の要素に考慮することに賛成する議論から、３つの論拠が浮かび上がったことに気付いたと思う。</p>
<p>１つはそれまでの教育環境から不利だったことから生じる是正、ということだ。<br />
これはアニーシャの主張で、是正の議論と呼ぶことにしよう。通った学校、与えられた教育の機会などの教育的背景格差を是正する、というものだ。これが１つ目。</p>
<p>とはいえ、この主張は合否判定において考慮されるべきは学問的な有望さ、学習面での潜在だけだ、という考え方と整合する。ただ、学問的な有望さ、学習面での潜在能力を真に評価するためには学業成績とテストの点だけをみるのは足りない、ということだ。これが１つ目の議論。</p>
<p>２つ目の議論は、ある特定の出願者の場合は、たとえ教育的に不利な条件を是正する必要がなくても、アファーマティブ・アクションは正当化されるといものだ。つまり、過去の過ち、歴史上の不正義に対して正当化される、という議論である。過去の過ちをつぐなうためのものだ、というつぐないの議論だ。</p>
<p>３つ目はハナをはじめとする何人かファーマティブ・アクションを支持した議論で、その理由は多様性である。多様性の議論は償いの議論とは異なる。なぜなら、社会における、大学の目的や使命に訴えかけるものだからだ。</p>
<p>多様性の議論には２つの側面がある。１つはみんなの教育的経験のために、多様な学生構成を持つことは重要なことだ、ということだ。これはハナも指摘した点だ。より広い社会について言及する者もいる。ホップウッド訴訟においてテキサス大学はこう主張した。我々はテキサス州のそして、国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員を育成しなければならない。</p>
<p>このように多様性の議論には２つの側面があるが、どちらも社会的な目的、社会的な使命、あるいはその大学が行使する公共の利益。</p>
<p>これらの議論には反論もあった。償いの議論に対する最も強力な反論は次のようなものだ。</p>
<p>過去に犯されたひどい不正義を償うため、現代を生きるシェリルホップウッドに犠牲を強いることは公正なだろうか、しかも彼女自身には、その過去の不正義とは何の関係もないのに。償えと要求することは公正なことなのだろうか。これは償いの議論に対する重要な反論だ。この反論に答えるためには時間を超えた集団の権利や集合的責任といったものが、はたして存在するのかどうかを検討しなければならない。</p>
<p>明らかになったこの問題点は脇に置いておき、多様性の議論に戻ろう。</p>
<p>多様性の議論においては、過去の過ちに対する集合的責任を気にする必要はない。なぜなら、ハナたちが指摘したみたいに、もし人種的、民族的に多様な学生がいれば、公共の利益がもたらされ、促進されるからだ。多様性によって皆がその恩恵を受ける。この論拠は実際にアファーマティブ・アクションが争点となった１９７８年のバッキ訴訟で、ハーバードがあげた論拠であり、最高裁に法定助言者意見書として提出された。</p>
<p>この訴訟においては、当初、浮動票であったパウエル判事はハーバード大学の意見書を引用し、彼はアファーマティブ・アクション支持にまわった。彼は憲法上認められる論拠としてハーバードの意見書を引用した。</p>
<p>ハーバードの意見書の論拠はこうだ。</p>
<p>我々は多様性を重んじる。学術的な優秀さが、ハーバード大学、入学審査の際の唯一の基準であったことは、今までに１度もない。</p>
<p>１５年前、多様性とはカリフォルニアやニューヨークやマセチューセッツ出身の学生を意味した。都会人と農場の少年、バイオリニスト、画家、フットボール選手、生物学者、歴史家、古典学者を意味した。</p>
<p>当時と現在の唯一の違いは多様性を考慮するこの長いリストに人種と民族という項目を加えたことだ。優秀な成績を期待できる多数の志願者を審査する際、人種はプラスに働く。それはアイオワ出身であることや、優秀なフットボール選手やピアニストであることと同じだ。アイダホの農場の少年はボストン出身者にはでできない何かを大学にもたらす、同様に黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらす。</p>
<p>全学生の経験的教育の質はそれぞれの学生に固有のバックグラウンドの違いやものの見方の違うところも大きい。これがハーバードの議論だ。</p>
<p>この多様性の議論に説得力があるだろうか。<br />
説得力を持つためには、非常に強力な反論に答えなければならない。<br />
この講義で出された、ケントとブリーの反論に対してだ。</p>
<p>君たちが功利主義者ではない限り、個人の権利は侵害されてはならない、と信じているはずだ。</p>
<p>そうすると問題は、ここで個人の権利は侵害されるのかということになる。シェリルホップウッドの権利は侵害、あるいは利用されたのか。つまり、テキサス大学ロースクールの掲げる公共の利益や社会的使命のために入学を拒否されたのだろうか、彼女に権利はあるのだろうか。<br />
私たちは業績、功績、努力によって評価されるのに値するのではないだろうか、それなのに、それは危機に瀕してる権利なのではないか。</p>
<p>私たちはすでにこの議論に対する答えを知っている。彼女に権利はない。</p>
<p>彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。値する者は１人もいないのだ。</p>
<p>このことは対価対視角の論点に私たちを引き戻す。<br />
ホップウッドには個人的な権利はない。彼女は自分が重要だと考える、どのような基準に従ってもその中には努力や功績のみを考慮するという基準を含まれるが、入学を入学許可されるには値しない。</p>
<p>なぜ値しないか。この議論が暗示しているものは、ロールズが分配の正義に根拠として、道徳的対価を否定したのとどこか似ている。</p>
<p>ハーバードがひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の資格を持つことになるのだ。</p>
<p>だが、この議論によれば、誰もその存在自体で入学の値する、ということはないのだ。ハーバードはまずその使命を定め、入学審査基準を決めるが、それは出願者がたまたま豊かに備えている資質を評価する、という方法で基準を決める。ピアノの才能であれ、優れたフットボール選手であれ、アイオワ出身であれ、マイノリティグループの出身であれ。</p>
<p>このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論がなぜ私たちを権利の問題に引き戻すか、そしてさらには道徳的対価が分配の正義の基礎となるかどうか、という問題に引き戻すか、理解してくれたと思う。このことについてじっくり考えてみて欲しい。次回もこの議論を続けよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」</p>
<p>アファーマティブ・アクションの人種差別について、過去にはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人を差別した選別があった。それには彼らが他の人間より劣っているとする決めつけが内在しており、悪意があったが、今回の人種差別は多様性を促進するという目的なため悪意がないので良いという意見がある。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や公共の利益の名の下に展開させる議論だ。公共の利益や福祉を促進する過程で個人の権利が侵害されてしまっても、公共の利益や福祉が優先されるべきなのだろうか。実はロールズは単純にはそう信じてはいない。ロールズは分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。おそらく私たちも仕事の地位や、大学入試の合否も、道徳的対価と関係ない方法で行われることを認めてしまってはいないだろうか。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。しか平等主義的ではないリバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家も、分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではないとしている。つまり、分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等主義的な理由だけではありえないということだ。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らに共通している前提は何かを知るために、古代の哲学者アリストテレスを考える。彼は正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。アリストテレスの分配の正義論は目的から逆算して考える「目的論的論法」だ。例えば、誰が最高のフルートを手に入れるべきかという問いに、アリストテレスは一番上手なフルート奏者だと答える。フルートを持つにはふさわしい美徳を持つことなのだ。フルートに最高額をつける者や貴族や身体の美しい者やくじ引きなどという理由でフルートを分配することは間違っている。なぜか。それは良い演奏がなされることが「フルートの目的」だからだ。重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということだ。たしかに目的から論理を組み立てるという思考法は少し奇妙だ。その背景には古代ギリシャでは自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的を問い、読み取るということを大事にしていた。現代科学に慣れた我々からすれば目的論的論法を考えることは難しい。むしろこのような世界観から抜け出すよう子供たちを教育しなければならない。自然を理解するには目的論的な説明から脱却し科学的に考える必要がある。しかし、正義を目的から論じることは、我々がさきほど考えた、アファーマティブ・アクションの話の「大学教育にふさわしい目的とは何か」という問いに置き換えてみることもできるではないか。次回もアリストテレスの目的論的論法を考える。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」</font></h2>
<p>前回の講義は、入試審査の際、人種を合否判定の要素の１つとして考慮する、アファーマティブ・アクションの是非の論拠を検討して終わった。議論の過程で、3つの考え方がアファーマティブ・アクションを支持する論拠として、浮かび上がってきた。</p>
<p>１つ目は、人種や民族的バック・グラウンドを考慮して、テストの点や学業成績が、受験者の持つ学力の潜在能力を正確に表すものになるように、是正していくことが必要だ、という考え方だ。</p>
<p>２つ目は、償いの論拠と呼ぶべきもので、過去の過ちや不正義を正す、と言う考え方だ。</p>
<p>そして３つ目が、多様性の根拠だ。<br />
シェリル・ホップウッドが１９９０年代に起こした、テキサス大学ロースクールのアファーマティブ・アクション・プログラムに対する訴訟は、連邦裁判所に持ち込まれたが、そのときテキサス大学が示したのは、別の種類の多様性の論拠だった。</p>
<p>テキサス大学ロースクールは、より広い社会的な目的、社会的使命を担っており、それは、法曹界や政界において、裁判官や弁護士や議員の中において、指導者を輩出することである。そのため、テキサス州のバックグラウンド、歴史や人種、民族的人口構成を反映する指導者層を育てることが重要である。それが、大学のより広い社会的使命を果たすためにも重要なのだ。</p>
<p>これが、テキサス大学ロースクールの主張だった。</p>
<p>次に私たちは、多様性の論拠に対する反論について考えた。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や、公共の利益の名の下に展開させる議論だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
公共の利益、ないし一般的福祉を促進する過程で、個人の権利が侵害されてしまっても、それでもやはり、公共の利益、ないし一般的福祉は優先されるべきだと、ロールズは単純には信じていない。</p>
<p>それが、前回の講義の最後に投げかけられた多様性の論拠に対する疑問である。</p>
<p>この場合、どのような個人的権利が問題となるのだろうか。<br />
自分の力が及ぶ範囲の権利。それを考えなければいけないのだ。</p>
<p>シェリル・ホップウッドがあんに主張したのはこの点ではないだろうか。<br />
自分が白人であるという事実は変えようがない。なぜロースクールへの入学の可能性が、自分では変えようのない要素に左右されなければいけないのか。</p>
<p>前回この議論の中で、ハーバードはその使命を好きなように決める権利がある、という意見もあった。ハーバードは私立の教育機関だからだ。ハーバードがひとたびその社会的使命を定めたら、学生に求める資質が何かは明らかになる。ゆえに何の権利も侵害されない。</p>
<p>さてこの主張は果たして正しいか。この主張への反論を聞きたい。<br />
その後、他の意見も聞いてみたい。君、名前は？</p>
<p>学生Ａ：ダーです。<br />
ダー、前回も発言してくれたね。じゃあ君の反論を聞こう。</p>
<p>学生Ａ（ダー）：論点は2つあります。１つは私的な機関はその使命を自由に決めて良いという点ですが、それが必ずしも正しく決められるとは限りません。例えば、私は自分の使命を世界中のお金を集めること、と定めてもよいでしょうが、それが正しい使命でしょうか。だから、私立の機関だからといって、なんでも好きに決めて良いとは言えません。アファーマティブ・アクションの場合、他にも関連する要素がたくさんあるので、人種をその１つに含めても良いのではないでしょうか。</p>
<p>ああぁ、まずは君の１つ目の論点について考えて行こう。<br />
ダーが今言ってくれた反論は、大学は自分の社会的使命を好きなように定めていいのか、そしてそれに従って入試の合否を判定していいのか、ということだ。</p>
<p>テキサス大学ロースクールはどうだろうか。現在ではなく１９５０年代のことだ。１９５０年代にもテキサス大学ロースクールへの訴訟が最高裁に持ち込まれたことがあった。入試が人種差別的で、白人しか入学を許可していなかったのだ。５０年代の訴訟の時も、テキサス大学ロースクールは、大学の社会的使命を引き合いに出した。ロースクールとしての我々の使命は、テキサスの法曹界や法律事務所のために弁護士を要請することだ。アフリカ系アメリカ人を雇うテキサスの法律事務所はない。ゆえに、我々の使命を全うするためにも白人にしか入学を認めない。</p>
<p>１９３０年代のハーバードもユダヤ人学生の入学を制限していた。３０年代の学長だったローエルは、個人的にはユダヤ人に対して何ら反感もないと述べた。しかし彼は、ハーバードの社会的使命を引き合いに出し、知識人の育成だけではなく、ウォール街の株式仲買人や大統領や上院議員の育成もまた、ハーバードの使命であるが、そういう職種に進むユダヤ人はほとんどいないのが現状だ、と述べた。</p>
<p>そこで君たちに問題だ。<br />
現代の大学が、多様性の論拠として掲げる大学の使命と、１９５０年代のテキサス大学や、３０年代のハーバード大学が掲げた、大学の社会的使命の間に、原理的な違いはあるのだろうか。原理上違いはあるのだろうか。誰か意見は？ハナ！<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
学生Ｂ（ハナ）：原理上の違いはあると思います。それは、含むということと、除外することの違いです。大学が宗教や人種を理由に出願者を除外するのは道徳的に間違っています。これは恣意的な要素に基づく拒絶です。今のハーバードは、多様性を促進することで、過去に除外されていた集団も含めようとしています。</p>
<p>よろしい。ちょっと待っていて。誰か、反論のある人は？君！。</p>
<p>学生Ｃ：反論と言うよりもハナを支持したいのですが、、。<br />
よろしい。<br />
学生Ｃ：私が考えるもう１つの違いは、過去の人種差別は悪意が動機だった、という点です。黒人やユダヤ人の入学を許可しないのは、彼らが劣った人々や集団だと考えたからではないかと思うのです。</p>
<p>現在は悪意の要素はない、ということだね？名前は？<br />
学生Ｃ：スティービーです。</p>
<p>スティービーが言っているのは、過去の人種的分離主義者や、人種差別主義者、反ユダヤ的な制限や禁止には、ある種の悪意、つまりアフリカ系アメリカ人やユダヤ人は他の人間より劣っているとする決めつけが内在していた。<br />
しかし、現在のアファーマティブ・アクションには、そういう決めつけはない、ということだ。<br />
これはつまり、人間を本質的に劣っているものと決めつけない。スティービー流に言えば、悪意を持って決めつけないものであるならば、選抜の方針が人間をその機関の社会的使命に沿って貴重な存在として扱う限りオーケーだ、ということだ。</p>
<p>ここで質問だ。<br />
仕事上の地位や、大学入試の合否を巡って競争する時、私たちは皆、判断されるのではなく、利用されること。しかも道徳的対価と関係のないやり方で利用されることを、認めてしまってはいないだろうか。</p>
<p>アファーマティブ・アクションについての議論を始めたのは、分配の正義は道徳的対価と結びつけられるべきか否か、について考えていた時だったことを思い出して欲しい。</p>
<p>その課題に取り組むきっかけはロールズだった。<br />
ロールズは分配の正義、それが階級や収入や財産における地位であれ、立場であれ、分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。仮にそれがハーバードの入学審査方針の道徳的根拠だったとしよう。この点についてハーバードは、不合格者と合格者にどのような手紙を書くだろうか。それは次のようなものになるだろう。</p>
<p>不合格となった出願者様へ<br />
残念ながらあなたは不合格ですが、あなたに落ち度はありません。社会が、たまたまあなたの資質を必要としていなかったのです。（会場笑い）あなたの代わりに合格した人も、その人自身が合格に値するというわけではなく、合格の決めてとなった要素を持っていたに過ぎず、賞賛に値するというわけではありません。我々は社会的な目的のためにそれらの要素と皆さんを利用するだけなのです。次回の幸運をお祈りします。</p>
<p>君たちは合格した時、手紙を受け取っただろうが、その手紙は次のように書いてあるべきだった。</p>
<p>合格となった出願者様へ<br />
喜んであなたの合格をお知らせします。あなたにとって幸運なことに、あなたが社会が、今必要とする資質を有しているので、社会の便宜のためにその資質を利用させていただきます。あなたは、あなたが合格に繋がる資質を持っていたから賞賛に値するのではなく、宝くじの当選者が祝福されるのと同じ意味合いで祝福されるに過ぎません。我々の申し出を受け入れてくださるのであれば、このように利用されることに付随する便益を得る資格が与えられます。それでは入学式でお会いしましょう。（会場笑い）</p>
<p>これらの手紙は、少々おかしい。</p>
<p>この文面が入学審査方針の底に流れている理論や哲学を反映しているものだとしたら、道徳的におかしいところがある。このことから提起される問いがある。それは私たちを政治哲学の重大な問題に引き戻す問いである。</p>
<p>分配の正義の問題を、道徳的対価の問題、美徳の問題から切り離すことは可能なのだろうか。<br />
そして、それは望ましいことなのだろうか。</p>
<p>この論点は、現代の政治哲学を古典政治思想から多くの点で区別している。</p>
<p>道徳的対価を脇におけるかどうか、という問いにおいて問題となるのは何だろう。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。道徳的対価を考慮しなければ、平等主義的な考えを実践するためのより広い視野が得られる。</p>
<p>無知のベール、２つの原理、最も恵まれない人々への援助、再分配などである。</p>
<p>しかし、興味深いことに今まで取り上げてきた思想家をみてみると、正義を道徳的対価から切り離したいと考える理由は、平等への関心とは別のところへあるようだ。</p>
<p>リバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家たち。そして平等主義の立場を取る権利中心の理論家たち。その中にはロールズやこの論点に関してはカントも含まれるが、彼らは分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではない。という点では意見が一致している。なぜ全員がそう考えるのであろうか。</p>
<p>それは平等主義的な理由だけではありえない。全員が平等主義的ではないからだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ここで我々は大きな哲学的問題に突き当たる。<br />
なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。<br />
彼らが問題だと考えていることを理解するために、また、彼らに共通している前提は何かを知るために、１人の思想家、哲学者をとりあげてみよう。</p>
<p>この思想家は彼らとは違い、正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。<br />
この思想家とはアリストテレスだ。</p>
<p>正義についてのアリストテレスの考え方は、直感的に非常に強力である。ある意味では変わった考え方でもある。その力、説得力、変わっている点を引き出し、正義、及び、正義が道徳的対価と美徳と結びつけられるべきかどうかについての議論において、何か問題なのかを明らかにしていきたい。</p>
<p>それでは、アリストテレスは正義をどんなものだと考えているのか。アリストテレスにとって正義とは人々に値するものを与えること、与えられるべきものを与えることだ。それぞれに美徳を持つ個人と適切な社会的役割の間に適切な適合関係を見出すことである。</p>
<p>このような正義の在り方はどのようなものなのか、また、リバタリアンや平等主義的な権利中心の理論家たちが共有していると思われる概念とどう違うのだろうか。</p>
<p>正義とは、その人に与えられるべきもの、値するものを与えることだ。</p>
<p>では、ある人に与えられるべきものとは何だろうか、そんな真価や対価の適切な動機は何か。アリストテレスはそれは分配されるものの性質によるという。</p>
<p>正義には２つの要素がある。<br />
１つは物、１つは物が割り与えられる人々だ。一般に言えることは平等である人々には、平等な物が割り与えられるべきである。</p>
<p>しかし、ここで難問が生じる。平等というのは、何に関しての平等だろうか。</p>
<p>アリストテレスはそれは分配されるものの性質による、という。</p>
<p>仮にフルートを分配するとしよう。フルートを得るに値する、適切な真価や根拠とは何だろうか。誰が最高のフルートを手に入れるべきなのだろうか。アリストテレスの答えは何かわかる人？</p>
<p>学生Ｄ：一番上手なフルート奏者。<br />
学生Ｄ：一番上手なフルート奏者！正解だ。</p>
<p>フルートを手にすべきは一番上手なフルート奏者である。フルートを分配するにあたって、人を差別するのは正しいか、答えはイエスだ。全ての正義は差別を内向するとアリストテレスはいう。</p>
<p>重要なのは、その差別が関連する卓越性。この場合はフルートを持つに、ふさわしい美徳を持つことである。アリストテレスは他の根拠に基づいてフルートを分配するのは正しくない、と述べている。</p>
<p>例えば、富により最高額を払える人々に最高のフルートを与えること、生まれる高貴さにより貴族に与えること、身体的な美しさにより、または偶然任せ、くじ引きで与えることは正しくない。生まれや美しさはフルートを吹く能力よりも大きな<br />
善かもしれず、その善を持った人たちがそれらの資質において優れている度合いは、フルート奏者がフルートを吹く能力に勝っているかもしれない、しかし、最高のフルートを得るべきなのは、最高のフルート奏者である、という事実は動かない。</p>
<p>ところで、この比較は奇妙だ。<br />
私がハンサムである度合いは、彼女はラクラスの良い選手である度合いより上だ。というのは実に奇妙な比較だ。でも、それはさておき、アリストテレスの意見では私たちは全てにおいて最高の人を求めているのではなく、最高のフルート奏者を求めているのだ。</p>
<p>それはなぜか、ここが重要だ。<br />
なぜ最高のフルートが最高のフルート奏者に与えられるべきか、なぜだと思う？誰かわかる人？ん？何？彼らが最高の音楽を奏でるから？そして皆が音楽をもっと楽しめば？、、それはアリストテレスの答えではない。アリストテレスは功利主義者ではない。そうすれば、よりよい音楽がもたらされ、皆が楽しめてより快適になるから、とは彼は言わない。</p>
<p>彼の答えはこうだ。<br />
最高のフルートが最高のフルート奏者の手に渡るべきなのは、良い演奏がなされることがフルートの目的だからだ。</p>
<p>フルート演奏の目的は、素晴らしい音楽を創り出すことであり、その目的をもっともうまく達成できる人間が最高のフルートを得るべきである。もちろん、うれしい副時的効果として、その音楽を聴いて皆が楽しめる、というのも真実だろう。だから、さっきの答えも打倒なものだとは言える。</p>
<p>しかし、重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということは理解することだ。皆には少し奇妙なものに思えるかもしれないが、アリストテレスの理由はフルート演奏の目的、意義、目標を重要視している。別のいい方をすれば、目的をみることから正義にかなう分配が導き出される、ということだ。</p>
<p>目的や目標のことをギリシャ語では「テロス」という。</p>
<p>アリストテレスはこう言う。<br />
物事の意義、目的、目標、すなわち物事のテロスを考えねばならない。</p>
<p>この場合はフルート演奏だが、その目的が明確になって、はじめて正義にかなった分配、正義にかなった差別が可能になるのである。</p>
<p>テロス、つまり目的から逆算してくるこの論理の考え方を「目的論的論法」「目的論的道徳論理」と呼ぶ。</p>
<p>これがアリストテレスの思考法だ<br />
目的、目標から論理を組み立てる。</p>
<p>私がさっき言ったように、目的から論理を組み立てるという思考法は、奇妙に思えるかもしれないが、ある種の直感的な積極力がある。</p>
<p>ハーバードを例にとり、一番良いテニスコートを、あるいはスカッシュコートの割り当てについて考えてみよう。</p>
<p>一番良いコートを使う優先的な権利を与えられるのは、誰であるべきか。一番金を払える人間に使わせればいい、と君たちは言うかもしれない。しかし、アリストテレスはノーと言うだろう。ならば、ハーバードの有力者、一番影響力のある人間に使わせたらどうだろう。例えば、偉い教授たちに使わせるとか。いや、アリストテレスはこれにもノーと言うだろう。学校代表のテニス選手がテニス選手という度合いよりも、科学者が偉大な科学者の方が上かもしれない。それでもテニス選手が一番良いテニスコートの優先権を持つべきなのだ。</p>
<p>この考え方には、ある種の直感的な説得力がある。だが、この考え方を奇妙に感じさせる理由の１つは、アリストテレスが暮らしていた古代の世界では、目的論的論法や目的論的説明に支配されていたのは、社会的な実践だけではない、ということだ。自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し、自然を把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的やテロスを問い、読み取るということを意味していた。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
現代科学の出現と共に、そのように世界を考えることは難しくなってきており、正義を目的論的に考えることはもっと難しくなってきている。しかし、自然界にも目的論的な秩序を持っている、目的論的な統一性だと考えることには、ある種の自然さがある。</p>
<p>実際にはこのような世界観から抜け出すよう、子供たちを教育しなければならない。<br />
私はまだ子供たちが小さかった頃、クマのプーさんを読んで聞かせた時にこのことに気付いた。</p>
<p>クマのプーさんを読むと目的論的な物の見方に、ある種の自然な子供らしい世界観があるのがよくわかる。君たちもこの話を知っているかもしれない。</p>
<p>ある日プーさんは森の中を歩いていると、木のてっぺんからブンブンという大きな音が聞こえてきた。プーさんは木の根本に腰をおろし、ほうづえをついて考え始め、こう独り言を言った。</p>
<p>このブンブン言う音には何か意味がある。こんなにブンブンする以上、何の意味もないということはあり得ない。ブンブン音がするということは、誰かがブンブン音をたてているからだ。そしてブンブン音をたてる僕が知っている理由はハチだからだ。そして、またプーさんはしばらく考え、こう言う。</p>
<p>ハチである理由で僕が知っている唯一の理由はハチミツをつくることだ。プーさんは立ち上がりこう言う。そしてハチミツをつくる唯一の理由は僕が食べられるようにだ。そしてプーさんは木に登りはじめる。これが目的論的論法の１つの例だ。（会場笑い＆拍手）</p>
<p>こう考えてしまうことは、そんなあり得ないことではない。しかし私たちは成長し、このような世界の見方をしないようにと教育された。</p>
<p>だが、ここでさっきの質問をしよう。目的論的な説明が、現代科学と相容れなくとも、自然理解する上では、そういう考え方からは脱却しても、アリストテレスの考え方は直感的ないし道徳的に説得力があり、強力ですらあるのではないだろうか。</p>
<p>彼は正義について考える唯一の方法は社会的実践の目的や目標、つまりテロスから論じることである、と主張した。これはアファーマティブ・アクションへの反論で、まさに私たちがしたことではないだろうか。アファーマティブ・アクションに対する反論を大学教育にふさわしい目的や目標とは何か、という問いに置き換えてみることもできる。</p>
<p>目的から論じること、目標から、テロスから、論じることは正義について考えるには不可欠だ、とアリストテレスは言っている。彼は正しいだろうか。アリストテレスの政治学に取り組む時、この問いについて考えて欲しい。</p>
<p class="hiroken23"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3098"><img src="http://www.visualecture.com/img/nextrogo.jpg" height="40"></a></p>
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		<title>VisuaLecture について</title>
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		<pubDate>Mon, 12 Apr 2010 12:25:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[
VisuaLecture とは？

YouTubeEDUに登録されている世界の大学の講義動画をまとめています。
TEDに登録されているすばらしい動画をまとめています。
　※「日本語」に翻訳されているものをセレクトしています。

＜特集＞当サイト独自のまとめもしております。
・ハーバード大学サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE（正義・公正）」
＜特集＞当サイト・オリジナル電子書籍「セイギのつくり方。」

サンデル教授の講義の素晴らしさをもっと広めたいと思い制作。
２０１０年８月１３日より無料配布開始。ダウンロードはこちらから。
＜特集＞「政治哲学者タイプ別診断チャート」
電子書籍「セイギのつくり方。」の制作途中に生まれたものを、WEB上に公開しました。統計もとれます。
２０１０年８月２９日より設置。


YouTube EDU 紹介


「YouTubeEDU」はアメリカの企業が運営する動画共有サービス「YouTube」のサイト内に世界の大学の動画コンテンツを集めたサイトです。

翻訳の仕方
動画再生／音声を文字に変換／キャプションを翻訳で日本語を選択
→グーグルによる音声認識によるテキスト変換のようですが、日本語らしくない翻訳であり、雰囲気程度しか伝わりません。


紹介の意図
世界の大学講義に触れることで、グローバルな視点を持つことができる。
YouTubeEduに登録されている世界の大学リンク集



TED 紹介


TED（テクノロジー、エンターテイメント、デザインの頭文字）とは、アメリカで講演会を主催しているグループ。学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物が講演を行っており、２００６年から講演動画を無料で公開している。

翻訳の仕方
Viewsubtitleをクリック/Japaneseを選択
TEDボランティアによる日本語訳のため、すばらしくわかりやすい翻訳です。感謝!!


紹介の意図
TEDの講演は内容が刺激的であるだけでなく、講演者自身に魅力がある。
動画を見ていると、自分の意見を持つことが大切なんだと改めて思い知らされるし、
挑戦することへの勇気をもらうことができる。
こんなすばらしい動画をもっと広めるべきだと思っています。
社会人のあなたにも刺激があるだろうし、子供のあなたにも刺激がある。
自分自身がどんな自分になりたいかを想像することは最も重要なことだが、
その自分の将来像をTEDの講演者と重ね合わせることで、何か見えてくるのではないだろうか。



ハーバード大学：サンデル教授：JUSTICE（正義・公正）白熱教室のまとめ・解説

ハーバード大学の人気講義であるマイケル・サンデル教授の「JUSTICE（正義・公正）」をテーマにした政治哲学の講義。この講義をハーバード大学は公式にYouTubeEduにアップし、世界的にこの動画が再生されています。日本ではNHKが白熱教室という題名にして、２０１０年の４月〜６月にかけて吹き替え版を放送しました。１時間の動画が１２回分あり、１回分に２コマの講義（Lecture）が入っています。
当サイトは「JUSTICE（正義・公正）」を１２回分の動画を全て「音声からテキスト」に起こしました。これは日本人の方にこの素晴らしい講義をより多くの方に知ってもらいたいと思ったからです。
当サイト独自の視点で、やや偏った解釈かもしれませんが、まとめ解説をしております。

・当サイト：ハーバード大学サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE（正義・公正）」まとめ

＜講義の主な論理＞

・幸福の最大化（効用の最大化）の功利主義（ジェレミ・ベンサム＆ジョン・スチュアート・ミル）
・自己所有のリバタリアニズム（ロバート・ノージック）
・基本的人権・同意と契約（ジョン・ロック）
・動機と自由（イマヌエル・カント）
・無知のベールから公平さを生み出す（ジョン・ロールズ）
・目的と名誉（アリストテレス）
・集団の構成員から生まれる義務のコミュニタリアニズム（アラスデア・マッキンタイア）
講義は彼らの主張で正義を論じながら、進んでいく。

＜サンデル教授の正義（結論？）＞

私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり（懐疑主義）、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。



VisuaLecture管理人
当サイトは、管理人一人で更新、管理しております。
不定期に更新しています。
（電子書籍「セイギのつくり方。」は３人で制作しました。）



リンクについて
リンクフリーです。ご自由にどうぞ。


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お気軽にこちらまでどうぞ。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken08">
<strong>VisuaLecture とは？</strong><br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
YouTubeEDUに登録されている世界の大学の講義動画をまとめています。<br />
TEDに登録されているすばらしい動画をまとめています。<br />
　※「日本語」に翻訳されているものをセレクトしています。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/img/a.png" height="20"><br />
＜特集＞当サイト独自のまとめもしております。<br />
・<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?page_id=3139">ハーバード大学サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE（正義・公正）」</a><br />
＜特集＞当サイト・オリジナル電子書籍「セイギのつくり方。」<br />
<a href="http://www.visualecture.com/justice.html"><img src="http://www.visualecture.com/img/seigi-hyoushi.jpg" width="100"></a><br />
サンデル教授の講義の素晴らしさをもっと広めたいと思い制作。<br />
２０１０年８月１３日より無料配布開始。<a href="http://www.visualecture.com/justice.html">ダウンロードはこちらから</a>。<br />
＜特集＞「政治哲学者タイプ別診断チャート」<br />
電子書籍「セイギのつくり方。」の制作途中に生まれたものを、<a href="http://www.visualecture.com/type/index.html">WEB上に公開しました。</a>統計もとれます。<br />
２０１０年８月２９日より設置。</p>
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<p class="hiroken08">
<strong>YouTube EDU 紹介</strong><br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
<a href="http://www.youtube.com/education?b=400" target="_blank"><img class="alignnone size-full wp-image-79" title="youtube-edu-rogo" src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/youtube-edu-rogo.png" alt="" width="212" height="50" /></a><br />
「YouTubeEDU」はアメリカの企業が運営する動画共有サービス「YouTube」のサイト内に世界の大学の動画コンテンツを集めたサイトです。<br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
<strong>翻訳の仕方</strong><br />
動画再生／音声を文字に変換／キャプションを翻訳で日本語を選択<br />
→グーグルによる音声認識によるテキスト変換のようですが、日本語らしくない翻訳であり、雰囲気程度しか伝わりません。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/youtubehonyakusetumei.jpg" alt="" title="youtubehonyakusetumei" width="400" height="317" class="alignnone size-full wp-image-2899" /><br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
<strong>紹介の意図</strong><br />
世界の大学講義に触れることで、グローバルな視点を持つことができる。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?page_id=643">YouTubeEduに登録されている世界の大学リンク集</a>
</p>
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<strong>TED 紹介</strong><br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
<a href="http://www.ted.com" target="_blank"><img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/ted_logo.gif" alt="" title="ted_logo" width="280" height="53" class="alignnone size-full wp-image-2843" /></a><br />
TED（テクノロジー、エンターテイメント、デザインの頭文字）とは、アメリカで講演会を主催しているグループ。学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物が講演を行っており、２００６年から講演動画を無料で公開している。<br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
<strong>翻訳の仕方</strong><br />
Viewsubtitleをクリック/Japaneseを選択<br />
TEDボランティアによる日本語訳のため、すばらしくわかりやすい翻訳です。感謝!!<br />
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/04/tedhonyakusetumei.jpg" alt="" title="tedhonyakusetumei" width="400" height="307" class="alignnone size-full wp-image-2900" /><br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
<strong>紹介の意図</strong><br />
TEDの講演は内容が刺激的であるだけでなく、講演者自身に魅力がある。<br />
動画を見ていると、自分の意見を持つことが大切なんだと改めて思い知らされるし、<br />
挑戦することへの勇気をもらうことができる。<br />
こんなすばらしい動画をもっと広めるべきだと思っています。<br />
社会人のあなたにも刺激があるだろうし、子供のあなたにも刺激がある。<br />
自分自身がどんな自分になりたいかを想像することは最も重要なことだが、<br />
その自分の将来像をTEDの講演者と重ね合わせることで、何か見えてくるのではないだろうか。
</p>
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<strong>ハーバード大学：サンデル教授：JUSTICE（正義・公正）白熱教室のまとめ・解説</strong><br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
ハーバード大学の人気講義であるマイケル・サンデル教授の「JUSTICE（正義・公正）」をテーマにした政治哲学の講義。この講義をハーバード大学は公式にYouTubeEduにアップし、世界的にこの動画が再生されています。日本ではNHKが白熱教室という題名にして、２０１０年の４月〜６月にかけて吹き替え版を放送しました。１時間の動画が１２回分あり、１回分に２コマの講義（Lecture）が入っています。<br />
当サイトは「JUSTICE（正義・公正）」を１２回分の動画を全て「音声からテキスト」に起こしました。これは日本人の方にこの素晴らしい講義をより多くの方に知ってもらいたいと思ったからです。<br />
当サイト独自の視点で、やや偏った解釈かもしれませんが、まとめ解説をしております。<br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
・<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?page_id=3139">当サイト：ハーバード大学サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE（正義・公正）」まとめ</a><br />
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＜講義の主な論理＞<br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
・幸福の最大化（効用の最大化）の功利主義（ジェレミ・ベンサム＆ジョン・スチュアート・ミル）<br />
・自己所有のリバタリアニズム（ロバート・ノージック）<br />
・基本的人権・同意と契約（ジョン・ロック）<br />
・動機と自由（イマヌエル・カント）<br />
・無知のベールから公平さを生み出す（ジョン・ロールズ）<br />
・目的と名誉（アリストテレス）<br />
・集団の構成員から生まれる義務のコミュニタリアニズム（アラスデア・マッキンタイア）<br />
講義は彼らの主張で正義を論じながら、進んでいく。<br />
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＜サンデル教授の正義（結論？）＞<br />
<img src="img/a.png" width="1" height="5"><br />
私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり（懐疑主義）、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。
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<strong>VisuaLecture管理人</strong><br />
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	</item>
		<item>
		<title>ハーバード大学：サンデル教授「 JUSTICE 」 当サイト独自のまとめ（白熱教室）</title>
		<link>http://www.visualecture.com/wordpress/?page_id=3139</link>
		<comments>http://www.visualecture.com/wordpress/?page_id=3139#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 30 Jun 2010 03:39:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ハーバード大学：サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE（正義・公正）」をまとめております。日本人の多くの方にこの講義の良さを知ってもらいたいと思ったからです。全１２回分（約１２時間）の講義を全て、音声からテキストに当サイト管理人が起しました。１時間の動画を見るには１時間かかりますが、テキストは１０分ほどで読めるため、時間の短縮になると思います。
日本語テキスト化リンク先↓（※Lectureの題名は管理人が独自につけました。）



第０１回
Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」
Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」


第０２回
Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」


第０３回
Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」


第０４回
Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」


第０５回
Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」


第０６回
Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」


第０７回
Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」


第０８回
Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」


第０９回
Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」


第１０回
Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」


第１１回
Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」


第１２回
Lecture23 &#038; Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」Lecture24後半「サンデル教授の正義」


TED
サンデル教授のTEDでの講演「失われた民主的議論の技術」



当サイトオリジナル電子書籍「セイギのつくり方。」

サンデル教授の「JUSTICE」の素晴らしさを広めたいと思い、電子書籍「セイギのつくり方。」を制作しました。
http://www.visualecture.com/justice.html（ダウンロードはこちら）
PDFファイルで５４ページ。８月１３日から無料配付中。


９人の哲学者を軸に制作しました。
（１）「タイプ診断チャート」であなたがどの哲学者と意見が近いか調べてみましょう。
（２）「道徳に関する２０の質問」であなたの考えと９人の哲学者の考えを比べてみましょう。
（３）「サンデル教授の講義の概要」を９人の哲学者を軸に簡単にまとめました。
（４）日常とリンクさせるため、正義を軸にした「議論マニュアル」を作成しました。


パソコンにダウンロードして頂き、iTunesからiPadのiBooKsへ移して頂けると、楽しく読むことができますよ。

電子書籍「セイギのつくり方。」は当サイト管理人とその友人が「ハーバード白熱教室ノート」のサイトを運営されている管理人にコンタクトをとり、３人で作成しました。

リンクフリー。直リンクフリー。表紙画像フリー。

	電子書籍「セイギのつくり方。」の「政治哲学者タイプ診断チャート」がWEB上でできるようになりました。
http://www.visualecture.com/type/index.html
（２０１０年８月２９日より）

電子書籍「セイギのつくり方。」おかげさまで５０００ダウンロードを超えました。ありがとうございます。
そこで、電子書籍「セイギのつくり方。」に、どなたかページを追加させたいという方はいらっしゃいませんか？
９月末まで募集します。
http://www.visualecture.com/justice-plus.html
（２０１０年９月１日より）
Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」
１人の命を犠牲にすれば５人の命が助かるなら、１人の命を犠牲にすることは正しいのか。もし１人の命の犠牲の仕方が殺人であったならばどうか。その殺人に正義はあるのだろうか。電車事故のケースと医療のケースで考える。ここで大きく２つの考え方がみえてくる。５人と１人の命を天秤にかけ結果を考えてから決断を出す考え方と、結果を考えるのではなく行動の動機、殺人という行為が無条件的に正義ではないと考え決断を出す考え方だ。そして前者は哲学者ベンサムが、後者は哲学者カントが代表的な哲学者であると示す。また、政治哲学を学ぶことにリスクがあることをソクラテスの時代と重ね合わせて説明している。サンデル教授は締めくくりに、この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べる。
第０１回-Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」

Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」
実際にあった話を例に、許される殺人はあるのかを考える。１９世紀のイギリスで乗組員４人の船が沈没した。４人は救命ボートに避難したが、食糧はカブの缶詰２つだけ。真水もなかった。４日目、カブの缶詰を１つ開けて食べ、5日目亀をつかまえ、亀と残りのカブの缶詰で数日過ごした。それから８日間、彼らには何もなかった。１９日目船長は残りの者を助けるため、くじびきを行い誰が死ぬか決めようと言ったが、反対され結局はくじは行われなかった。２０日目、海水を飲んで今にも死にそうで、しかも身寄りもいなかった１７歳の乗組員パーカーを殺した。４日間、乗組員３人はパーカーの身体と血液で生き残った。そして助けがきた。彼らは裁判にかけられ、３人が生き残れるのなら１人の犠牲は仕方がないと論じた。この事件に対して学生たちの意見から３つの問題が提起された。（１）殺人は殺人であり正当化されるべきではないという反論から、殺人が正当化され得ないのは１７歳の少年にも基本的人権があるからだろうか、だとしたらその権利はどこからやってくるのかという問題。（２）もし皆がくじをすることに同意していればと仮定すると、殺人は許されたかもしれないと思う人は増えた。なぜ、ある公正な手続きをふめば、それによって生じた結果は正当化できるのかという問題。（３）もしパーカーが強制でなく、残りの者を助けるために自ら同意したと仮定すれば、命を奪うことに対して許されると思う人は多かった。ではなぜ、同意があれば命を奪うことが道徳的に許されるようになるのかという問題。この３つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならないとし、次回以降にまわすとした。
第０１回-Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」

Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」
功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。この講義ではタバコ会社、自動車会社が行った費用便益分析を取り上げ、その問題点を考える。そして功利主義に対する２つの反論が学生から示された。１つは「個人の権利もしくは少数派の権利を尊重していない」というもので、もう１つは「人々の好みあるいは価値を合計することをできない」というもの。後者に関しては心理学者ソーンダイクの実験を示し、その結論をどう捉えるべきか？と疑問を残し講義は終了する。
第０２回-Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」
功利主義のベンサムを弁護する哲学者ミルを考える。ミルは道徳的な高さは効用の大きさで決まるとした。効用の大きさの計り方は、人は２つのものを両方経験すれば、自然と高級なものを選ぶ。経験から生まれる願望は正しい道徳的根拠だとした。しかし本当だろうか。シェイクスピアのハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。この２つを理解なしに経験したらシンプソンズの方が今は好きだと思う人は多い。だとすれば、両方経験しても自然と高級を選ぶという考えは間違いではないか。また、功利主義は社会全体の幸福の最大化を目指すわけだが、一方、少数派はないがしろにされているのではないか、この個人の権利はミルはどう考えているのだろうか。ミルは個人の権利は尊重されるべきだとしている、そして個人が正義を行えば、長期的にみて社会全体は向上するという。本当だろうか。どうも、まずは、個人の権利について考える必要がありそうだ。１度功利主義から離れて、個人の権利を次回から考えることにしよう、として講義は終わる。
第０２回-Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」

Lecture05「課税に正義はあるか」
ベンサムの功利主義を弁護するミルだが、その主張には限界があるように思える。そこでもっと強力な原理理論を紹介したい。哲学者ロバート・ノージックたちが主張し、個人の権利を非常に重要だと考えるリバタリアニズム（自由原理主義）だ。彼らはシートベルト着用という自分を守ることを強制するような干渉主義的な法律に反対し、同性愛者間の性的な親密さを禁止するような道徳的な法律に反対し、金持ちから貧しい人に再分配する課税法に反対する。その例としてビルゲイツやマイケルジョーダンをあげる。ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。課税は盗みだ。極端に言えば課税は道徳的に強制労働に等しい。個人の労働に対する独占権を政治団体が部分的に所有していることになるから、奴隷のようなものだ。つまり自分が自分を所有していないことになる。このようなリバタリアニズムの考え方の根本的な原則に自己所有の考え方がある。そしてもし彼らを否定したいなら、この論理展開を論破しなくてはいけない。その疑問を残し講義は終了する。
第０３回-Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」

Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」
学生のリバタリアニズムチームへの４つの反論。第１の反論は『貧しい者はより金を必要としているではないか』→たしかにその通りだが、その議論を考える上でも、前提となる自己所有の原則に矛盾してはいけない。人間には所有権があるのだ、貧しい者を助けるためであっても前提である権利を侵害してはならない。第２の反論は『民主的な議会という同意による課税なのだから強制ではない、奴隷制度ではない』→民主主義には賛成だが、個人の権利は重視すべきだ。自分の権利を通すためにアメリカ人２億８０００人を説得しなければならないといった大変なことをやりとげる必要はないはずだ。第３の反論は『ビルゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから税金を払うことでその借りを返すべきだ』第４の反論は『自己所有という前提がそもそもおかしい。社会の中で生きるなら完全に自己を所有はできないはずだ』リバタリアンは集団の幸福のために人を手段として利用するという功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。リバタニアニズムの哲学者ノージックは自己所有という考え方はイギリスの政治哲学者ジョン・ロックから借りてきた。次回はロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要があるとして講義は終了する。
第０３回-Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」

Lecture07「国ができる前の正義を考える」
ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。
第０４回-Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」
ジョン・ロックは同意という考えについて論じた偉大な哲学者の１人だ。そもそも自然状態では人々が行き過ぎた自然法の侵略行為が行われ、とても暴力に満ちたものだ。だから自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。ここがリバタリアニズムと違うところだ。ロックの考えの根底には君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。さらに自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではなく、全てアメリカについて話していた。このことも頭に入れてロックをよむべきかもしれない。今回残念ながら答えが出なかったのは、同意はどのような働きをするか、同意の限界とは何なのかだ。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げるとして講義は終了する。
第０４回-Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」

Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」
前回、所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う（リバタリアンなら命令できないと言うだろう）。しかし将軍は兵士から１ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。これに対して学生から大きく２つの意見がでた。金持ちが有利であり、不公平だという意見。もう１つは、兵役とはお金を得るための単なる仕事と捉えるべきではなく、愛国心や市民の義務を考えべきであり、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。兵役は市民の義務の１つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。これらの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう、として講義は終了する。
第０５回-Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」

Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」
ベビーＭ訴訟問題を考える。代理母の問題だ。ある夫婦は子供を望んでいたが、妻が医学的な危険をおかさずして子をもうけることは不可能だったため、夫婦は不妊治療クリニックを訪れ、代理母と出会う。彼らは、代理母が人工受精をし子供を生み、出産後は夫婦に子供を引き渡すことに同意し契約した。しかし、出産後、代理母は気が変わり子供を手放したくなくなった。そして裁判になった。下級裁判所はこの契約を法的強制力があるとしたが、最高裁判所は法的強制力はないとした。父親に教育権を認め、代理母には面会権を認めた。なぜか。同意に瑕疵（かし・不備）があったとしたのだ。それは代理母は子を生んだ後の、子に対する気持ちを考えられなかったというものだ。代理母に与えられる情報に不備があったということだ。しかし、それだけが原因ではない。同意があろうが、同意に瑕疵があろうが、情報が十分であっただろうが、そういうこととは関係なく、文明社会では金では買えないものがある。最高裁判所はそう考えたのだ。これは子供を売るのと同じである。少なくとも母親の子供に対する権利を売るのと同じである。出産を市場での取引にすることは非人間的な感じがするという意見があるのだ。これは功利主義の議論を思い出させる。命や兵役や出産などを取り扱うことに対して、功利主義が言うように利用や効用だけが唯一の適切な方法なのだろうか。もしそうでないとしたら、これらのものを評価するのに適切な方法をどうやって考え出していけばいいのだろうか。これらの問題については今後の講義で考えていこう、として講義は終了する。
第０５回-Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」

Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」
今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは１つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。第０６回-Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」
カントが設定した３つの対比を知ることでカントの哲学を理解するのに役立つ。１つ目は道徳（義務vs傾向性）、２つ目は自由（自律vs他律）、３つ目は理性（定言命法vs仮言命法）。１つ目の対比。カントは道徳性をもたらす動機は唯一「義務」だと言った。反対に自分の欲望や好みを満足させる、あるいは何らかの利益を追い求めることで動機がある場合、私たちは「傾向性」に従って行動しているとした。自分勝手で複数な動機を持っていたとしても、そこに義務がからむ動機があり行為に結びついていたとすれば道徳的に価値があるとする。２つ目の対比。カントは人が自由なのは「自律的」に意思を決定するときだけだという。つまり自分に与える法則に従うときだけであり、それは理性からくる。その理性はどうやって意思を決めることができるのか。それが３つ目の対比に繋がる。カントは理性は２種類の命令を出すという。命法の１つが仮言命法だ。ＸがほしいならＹをしよう。目的に対して手段を選ぶ理性。もし行為が単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。行為がそれ自体においてよいと示され、それが理性と一致している意思のために必要であるなら命法は定言命法だ。定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。自律的な意味で自由になるためには、定言命法から行動することが必要になる。理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。
第０６回-Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」

Lecture13「嘘と正義」
自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため（傾向性・他律）から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ！ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ（嘘はつかず）、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う＝すること（自由の領域）」、「相手を傷つけたくない＝すべきこと（必要の領域）」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。
第０７回-Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」

Lecture14「契約は契約だ」
カントの政治理論。カントは契約論者だが、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。憲法制定会議に集まった人々は、異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や知識にも個人差があるだろう。だから、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわない。正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶもので、仮説的契約だ。実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。それを調べるためには、現代の哲学者ジョン・ロールズの論理を考える必要がある。ロールズはカントと同じく功利主義を批判し、正義の原理は仮説的な社会契約から導かれるとした。彼は「無知のベール」という考えで仮説的契約を考える。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だと主張する。その原理については次回考える。ちなみにロールズはハーバード大学の教授であった。
第０７回-Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」

Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」
ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が１人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は７５％ほど手をあげた。１人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。
第０８回-Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」
前回の講義の終わりに自分が１人目の子だと言う人は７５％ほどいた。１人目に生まれたという偶然性だ。これが努力に対する１つ目の反論。反論はもう１つある。２人の建設労働者がいたとして、１人は力が強く、汗もかかずに１時間で壁を立てることができる。もう１人は小柄でひどく痩せていて、３日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義者は、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。能力主義者は本当は努力ではなく、貢献を大事にしているのだ。しかし貢献は生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そしてそのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。偶然性だ。ここで偶然のゲームと技能のゲームを考える。宝くじは運という偶然性のゲームであり、もしあなたが当たり、賞金をもらう資格を得たとしても、あなたがその賞金に道徳的にふさわしいとはならない。野球という技能のゲームにおいて、優勝者はトロフィーをもらう資格があるが、道徳的にみてトロフィーをもらう資格があるかと問えば、それはゲームの内容による。ロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。あなたの才能は市場経済でどんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。例えば高収入を稼ぐ毒舌のコメディアンは、幸運にも毒のある冗談を高く評価する社会に偶然生きている。もしコメディアンが狩猟社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性。偶然は自分の功績だとは主張できるものではない。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では狩猟社会では、彼らの価値は下がるのか。ロールズの答えは下がらないとする。ここが重要だ。逆に現社会で求められる才能をたまたま持っていない人にも同じことが言える。偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。では機会と名誉はどうだろうか。エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。次回はアファーマティブ・アクションについて考えよう。
第０８回-Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

Lecture17: 「差別することで逆に公平さは生み出されるか」
ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として１９９６年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション（積極的差別是正措置）を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は１人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。
第０９回-Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」
アファーマティブ・アクションの人種差別について、過去にはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人を差別した選別があった。それには彼らが他の人間より劣っているとする決めつけが内在しており、悪意があったが、今回の人種差別は多様性を促進するという目的なため悪意がないので良いという意見がある。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や公共の利益の名の下に展開させる議論だ。公共の利益や福祉を促進する過程で個人の権利が侵害されてしまっても、公共の利益や福祉が優先されるべきなのだろうか。実はロールズは単純にはそう信じてはいない。ロールズは分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。おそらく私たちも仕事の地位や、大学入試の合否も、道徳的対価と関係ない方法で行われることを認めてしまってはいないだろうか。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。しかし平等主義的ではないリバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家も、分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではないとしている。つまり、分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等主義的な理由だけではありえないということだ。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らに共通している前提は何かを知るために、古代の哲学者アリストテレスを考える。彼は正義を、名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。アリストテレスの分配の正義論は目的から逆算して考える「目的論的論法」だ。例えば、誰が最高のフルートを手に入れるべきかという問いに、アリストテレスは一番上手なフルート奏者だと答える。フルートを持つにはふさわしい美徳を持つことなのだ。フルートに最高額をつける者や貴族や身体の美しい者やくじ引きなどという理由でフルートを分配することは間違っている。なぜか。それは良い演奏がなされることが「フルートの目的」だからだ。重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということだ。たしかにフルートという物が持つ目的から論理を組み立てるという思考法は少し奇妙だ。その背景には古代ギリシャでは自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的を問い、読み取るということを大事にしていた。現代科学に慣れた我々からすれば目的論的論法を考えることは難しい。むしろこのような世界観から抜け出すよう子供たちを教育しなければならない。自然を理解するには目的論的な説明から脱却し科学的に考える必要がある。しかし、正義を目的から論じることは、我々がさきほど考えた、アファーマティブ・アクションの話の「大学教育にふさわしい目的とは何か」という問いに置き換えてみることもできるではないか。次回もアリストテレスの目的論的論法を考える。
第０９回-Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」

Lecture19「目的から考える正義について」
カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の１つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。
第１０回-Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」

Lecture20「公平さと名誉について」
前回の講義で、足が不自由なマーティはPGAのゴルフツアーでゴルフカートを使用する権利があるか、という議論で、目的と名誉の２つの要素があることがわかった。マーティにとって名誉とは最高峰のPGAのゴルフツアーで勝利することであり、プロゴルファーにとっての名誉はゴルフがスポーツとして認められている上での名誉を気にしているのだ。スポーツとは見世物とは違う。その違いはスポーツは卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところだ。スポーツの美徳がわかる人こと理解のある本物のファンだ。ゴルフがスポーツかどうかを問うことは重要なのだ。それは名誉と関係があるからだ。アリストテレスの正義論は権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。正義とは適合させることだ。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。さて、アリストテレスの正義論は正しいのかどうかを考えよう。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。実は彼は彼の生きていた時代の制度として奴隷制を擁護していた。市民が政治を論じ合うには家事などから解放されなければならない。生活の面倒をみてくれる奴隷が必要だ。しかし適合の基準によれば、奴隷にふさわしい人がいなければならないということになる。これについてアリストテレスは、生まれつき奴隷に適した人間がいると主張している。だが、戦争で捉えられ、仕方なく奴隷になった者などは、奴隷の役割を与えるのは一種の強制であり、本人の本来の役割と適合していないので問題としている。ここでの要点は、アリストテレスの目的論法が奴隷を認めているから正しくないのではなく、むしろ目的論法自体は原理的には間違っていないのだ。なぜなら、彼の目的論法で奴隷制を考えた場合、何が間違っていたのかを、彼自身の言葉によって説明することができるからだ。では目的論法は何が問題となるのか。それは多元的な考えを持つ現代の社会において、目的や善について同意を得ることが難しい。だからこそ現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としているのだ。カントやロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けたのだ。アリストテレスのように正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されないではないか。自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないのだ。吟味すべき問題は２つある。１つ目は権利は善に優先するのかどうか。２つ目は自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。ただしロールズが言うような、自分の役割や目標や目的を選択できることが本当に自由なのか。次回考えよう。
第１０回-Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」

Lecture21「コミュニティの一員としての義務」
アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、カントの自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン（共同体主義者）の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。２人の子供が溺れている。どちらか１人しか助けられない。１人はあなたの子供、もう１人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第２次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回考えよう。
第１１回-Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」
コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。ふるさとと祖国のコミュニティに属していた例を考えよう。南北戦争の前夜、アメリカ南部のヴァージニアにふるさとを持っていた北軍のリー大佐の話。彼は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対し、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとしたが、リーはそれを断った。リーは連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれなかったのだ。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。彼は祖国よりもより身近なふるさとというコミュニティの義務を選んだのだ。講義では他に２つの例が示されるが、どちらもより身近な限定的なコミュニティを選んでいる。おそらくほとんどのアメリカ人も祖国アメリカよりも自分の家族の方が大事だと考えているだろう。しかし、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦ったという例も当然あったのだ。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示している。つまりコミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないと言えそうだ。ある特定のコミュニティの中でだけ「是」とされるだけならば、正義の原理があるとは言えない。ある時代のある社会においてのみ通用する共通の理解や価値観や習わしへの忠誠心に過ぎなくなってしまう。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。
第１１回-Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」

Lecture23＋Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」
私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。それを明らかにするために同性結婚について考える。同性結婚は道徳的にも宗教的にも論争の的となっている。まず、多くの人は結婚は道徳的、宗教的に男女間に限るべきだとまず思うだろう。同時に多くの人は同性結婚も異性結婚と等しく扱われるべきだという。こちらも道徳的、宗教的な信念を持っている。１つの要点として、どう選択するかが道徳的に価値があるのではなく、個人が様々なことを選択できる権利があるかどうかが問題となっている。道徳的に同性結婚は間違っていると思う者でも、２人の男性が結婚したいと思っているのに、自分がなぜそのことに反対できるのかわからないと答えた。同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。ジャーナリストのマイケル・キンズリーは国の機能としての結婚の廃止に賛成している。彼は同性結婚に反対しているわけだが、その理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。ではここで結婚の目的を考えてみよう。多くの人はまず、子供を生んで育てること、つまり生殖を考えるだろう。しかし、不妊カップルの結婚を我々は認めるだろう。あるいは、閉経後の女性との年配結婚、死に瀕した者との結婚などを考えると、生殖が結婚の目的ではないような気がしてくる。では、同性結婚の問題に裁判所はどう判決を下すだろうか。マサチューセッツ州に対し結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたグッドリッチという男性の訴訟を考える。裁判所はまずは、中立性を考えたが結論は違った。結婚の目的は生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点だとし、名誉を重要視した。裁判所は結婚は、個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。結婚を望む２人とそれを承認する国家の３者の関わり。結婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。この見解は中立性を超えている。同性結婚を公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定したのだ。実はサンデル教授は中立的な立場に反対だ。中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚を正当化することはできない。問題となるのは同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうかだ。サンデル教授は中立的に反対なのは、同性結婚の話に限らない。私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自律の問題だから、我々はどの立場も取らないと言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできなかったのだ。
第１２回-Lecture23-Lecture24「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」

Lecture24後半「サンデル教授の正義」
私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり（懐疑主義）、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。
第１２回-Lecture23-Lecture24「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」






































































































































































































































































]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><font color="#aa1525"><strong>ハーバード大学：サンデル教授の政治哲学の講義「JUSTICE（正義・公正）」をまとめております。日本人の多くの方にこの講義の良さを知ってもらいたいと思ったからです。全１２回分（約１２時間）の講義を全て、音声からテキストに当サイト管理人が起しました。１時間の動画を見るには１時間かかりますが、テキストは１０分ほどで読めるため、時間の短縮になると思います。</strong></font></p>
<p>日本語テキスト化リンク先↓（※Lectureの題名は管理人が独自につけました。）</p>
<table width="700" border=0>
<tr>
<td width="70" align="center">
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3079">第０１回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3079">Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」<br />
Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」<br /></a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3081">第０２回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3081">Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」<br />Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3083">第０３回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3083">Lecture05「課税に正義はあるか」<br />Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086">第０４回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086">Lecture07「国ができる前の正義を考える」<br />Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3088">第０５回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3088">Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」<br />Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3090">第０６回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3090">Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」<br />Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3092">第０７回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3092">Lecture13「嘘と正義」<br />Lecture14「契約は契約だ」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3094">第０８回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3094">Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」<br />Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3096">第０９回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3096">Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」<br />Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3098">第１０回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3098">Lecture19「目的から考える正義について」<br />Lecture20「公平さと名誉について」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3102">第１１回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3102">Lecture21「コミュニティの一員としての義務」<br />Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3105">第１２回</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3105">Lecture23 &#038; Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」<br />Lecture24後半「サンデル教授の正義」</a></td>
</tr>
<tr>
<td width="70" align="center"><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3252">TED</a></td>
<td><a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3252">サンデル教授のTEDでの講演「失われた民主的議論の技術」</a></td>
</tr>
</table>
<p class="hiroken08">
当サイトオリジナル電子書籍「セイギのつくり方。」<br />
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サンデル教授の「JUSTICE」の素晴らしさを広めたいと思い、電子書籍「セイギのつくり方。」を制作しました。<br />
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PDFファイルで５４ページ。８月１３日から<a href="http://www.visualecture.com/justice.html">無料配付中</a>。<br />
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<b>９人の哲学者を軸に制作しました。</b><br />
（１）「<a href="http://www.visualecture.com/type/index.html">タイプ診断チャート</a>」であなたがどの哲学者と意見が近いか調べてみましょう。<br />
（２）「道徳に関する２０の質問」であなたの考えと９人の哲学者の考えを比べてみましょう。<br />
（３）「サンデル教授の講義の概要」を９人の哲学者を軸に簡単にまとめました。<br />
（４）日常とリンクさせるため、正義を軸にした「議論マニュアル」を作成しました。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/type/a.png"  height="10"><br />
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パソコンにダウンロードして頂き、iTunesからiPadのiBooKsへ移して頂けると、楽しく読むことができますよ。<br />
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電子書籍「セイギのつくり方。」は当サイト管理人とその友人が「<a href="http://deztec.jp/z/dw/j/index.html"  target="_blank">ハーバード白熱教室ノート</a>」のサイトを運営されている管理人にコンタクトをとり、３人で作成しました。<br />
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リンクフリー。直リンクフリー。表紙画像フリー。</p>
<p class="hiroken08">
	電子書籍「セイギのつくり方。」の「政治哲学者タイプ診断チャート」がWEB上でできるようになりました。<br />
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（２０１０年８月２９日より）</p>
<p class="hiroken08">
電子書籍「セイギのつくり方。」おかげさまで５０００ダウンロードを超えました。ありがとうございます。<br />
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（２０１０年９月１日より）</p>
<p class="hiroken16">Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」</p>
<p>１人の命を犠牲にすれば５人の命が助かるなら、１人の命を犠牲にすることは正しいのか。もし１人の命の犠牲の仕方が殺人であったならばどうか。その殺人に正義はあるのだろうか。電車事故のケースと医療のケースで考える。ここで大きく２つの考え方がみえてくる。５人と１人の命を天秤にかけ結果を考えてから決断を出す考え方と、結果を考えるのではなく行動の動機、殺人という行為が無条件的に正義ではないと考え決断を出す考え方だ。そして前者は哲学者ベンサムが、後者は哲学者カントが代表的な哲学者であると示す。また、政治哲学を学ぶことにリスクがあることをソクラテスの時代と重ね合わせて説明している。サンデル教授は締めくくりに、この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べる。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3079">第０１回-Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」</p>
<p>実際にあった話を例に、許される殺人はあるのかを考える。１９世紀のイギリスで乗組員４人の船が沈没した。４人は救命ボートに避難したが、食糧はカブの缶詰２つだけ。真水もなかった。４日目、カブの缶詰を１つ開けて食べ、5日目亀をつかまえ、亀と残りのカブの缶詰で数日過ごした。それから８日間、彼らには何もなかった。１９日目船長は残りの者を助けるため、くじびきを行い誰が死ぬか決めようと言ったが、反対され結局はくじは行われなかった。２０日目、海水を飲んで今にも死にそうで、しかも身寄りもいなかった１７歳の乗組員パーカーを殺した。４日間、乗組員３人はパーカーの身体と血液で生き残った。そして助けがきた。彼らは裁判にかけられ、３人が生き残れるのなら１人の犠牲は仕方がないと論じた。この事件に対して学生たちの意見から３つの問題が提起された。（１）殺人は殺人であり正当化されるべきではないという反論から、殺人が正当化され得ないのは１７歳の少年にも基本的人権があるからだろうか、だとしたらその権利はどこからやってくるのかという問題。（２）もし皆がくじをすることに同意していればと仮定すると、殺人は許されたかもしれないと思う人は増えた。なぜ、ある公正な手続きをふめば、それによって生じた結果は正当化できるのかという問題。（３）もしパーカーが強制でなく、残りの者を助けるために自ら同意したと仮定すれば、命を奪うことに対して許されると思う人は多かった。ではなぜ、同意があれば命を奪うことが道徳的に許されるようになるのかという問題。この３つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならないとし、次回以降にまわすとした。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3079">第０１回-Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」</p>
<p>功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。この講義ではタバコ会社、自動車会社が行った費用便益分析を取り上げ、その問題点を考える。そして功利主義に対する２つの反論が学生から示された。１つは「個人の権利もしくは少数派の権利を尊重していない」というもので、もう１つは「人々の好みあるいは価値を合計することをできない」というもの。後者に関しては心理学者ソーンダイクの実験を示し、その結論をどう捉えるべきか？と疑問を残し講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3081">第０２回-Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」</p>
<p>功利主義のベンサムを弁護する哲学者ミルを考える。ミルは道徳的な高さは効用の大きさで決まるとした。効用の大きさの計り方は、人は２つのものを両方経験すれば、自然と高級なものを選ぶ。経験から生まれる願望は正しい道徳的根拠だとした。しかし本当だろうか。シェイクスピアのハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。この２つを理解なしに経験したらシンプソンズの方が今は好きだと思う人は多い。だとすれば、両方経験しても自然と高級を選ぶという考えは間違いではないか。また、功利主義は社会全体の幸福の最大化を目指すわけだが、一方、少数派はないがしろにされているのではないか、この個人の権利はミルはどう考えているのだろうか。ミルは個人の権利は尊重されるべきだとしている、そして個人が正義を行えば、長期的にみて社会全体は向上するという。本当だろうか。どうも、まずは、個人の権利について考える必要がありそうだ。１度功利主義から離れて、個人の権利を次回から考えることにしよう、として講義は終わる。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3081">第０２回-Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture05「課税に正義はあるか」</p>
<p>ベンサムの功利主義を弁護するミルだが、その主張には限界があるように思える。そこでもっと強力な原理理論を紹介したい。哲学者ロバート・ノージックたちが主張し、個人の権利を非常に重要だと考えるリバタリアニズム（自由原理主義）だ。彼らはシートベルト着用という自分を守ることを強制するような干渉主義的な法律に反対し、同性愛者間の性的な親密さを禁止するような道徳的な法律に反対し、金持ちから貧しい人に再分配する課税法に反対する。その例としてビルゲイツやマイケルジョーダンをあげる。ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。課税は盗みだ。極端に言えば課税は道徳的に強制労働に等しい。個人の労働に対する独占権を政治団体が部分的に所有していることになるから、奴隷のようなものだ。つまり自分が自分を所有していないことになる。このようなリバタリアニズムの考え方の根本的な原則に自己所有の考え方がある。そしてもし彼らを否定したいなら、この論理展開を論破しなくてはいけない。その疑問を残し講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3083">第０３回-Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」</p>
<p>学生のリバタリアニズムチームへの４つの反論。第１の反論は『貧しい者はより金を必要としているではないか』→たしかにその通りだが、その議論を考える上でも、前提となる自己所有の原則に矛盾してはいけない。人間には所有権があるのだ、貧しい者を助けるためであっても前提である権利を侵害してはならない。第２の反論は『民主的な議会という同意による課税なのだから強制ではない、奴隷制度ではない』→民主主義には賛成だが、個人の権利は重視すべきだ。自分の権利を通すためにアメリカ人２億８０００人を説得しなければならないといった大変なことをやりとげる必要はないはずだ。第３の反論は『ビルゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから税金を払うことでその借りを返すべきだ』第４の反論は『自己所有という前提がそもそもおかしい。社会の中で生きるなら完全に自己を所有はできないはずだ』リバタリアンは集団の幸福のために人を手段として利用するという功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。リバタニアニズムの哲学者ノージックは自己所有という考え方はイギリスの政治哲学者ジョン・ロックから借りてきた。次回はロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要があるとして講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3083">第０３回-Lecture05「課税に正義はあるか」Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture07「国ができる前の正義を考える」</p>
<p>ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086">第０４回-Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」</p>
<p>ジョン・ロックは同意という考えについて論じた偉大な哲学者の１人だ。そもそも自然状態では人々が行き過ぎた自然法の侵略行為が行われ、とても暴力に満ちたものだ。だから自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。ここがリバタリアニズムと違うところだ。ロックの考えの根底には君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。さらに自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではなく、全てアメリカについて話していた。このことも頭に入れてロックをよむべきかもしれない。今回残念ながら答えが出なかったのは、同意はどのような働きをするか、同意の限界とは何なのかだ。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げるとして講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086">第０４回-Lecture07「国ができる前の正義を考える」Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」</p>
<p>前回、所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う（リバタリアンなら命令できないと言うだろう）。しかし将軍は兵士から１ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。これに対して学生から大きく２つの意見がでた。金持ちが有利であり、不公平だという意見。もう１つは、兵役とはお金を得るための単なる仕事と捉えるべきではなく、愛国心や市民の義務を考えべきであり、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。兵役は市民の義務の１つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。これらの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう、として講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3088">第０５回-Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」</p>
<p>ベビーＭ訴訟問題を考える。代理母の問題だ。ある夫婦は子供を望んでいたが、妻が医学的な危険をおかさずして子をもうけることは不可能だったため、夫婦は不妊治療クリニックを訪れ、代理母と出会う。彼らは、代理母が人工受精をし子供を生み、出産後は夫婦に子供を引き渡すことに同意し契約した。しかし、出産後、代理母は気が変わり子供を手放したくなくなった。そして裁判になった。下級裁判所はこの契約を法的強制力があるとしたが、最高裁判所は法的強制力はないとした。父親に教育権を認め、代理母には面会権を認めた。なぜか。同意に瑕疵（かし・不備）があったとしたのだ。それは代理母は子を生んだ後の、子に対する気持ちを考えられなかったというものだ。代理母に与えられる情報に不備があったということだ。しかし、それだけが原因ではない。同意があろうが、同意に瑕疵があろうが、情報が十分であっただろうが、そういうこととは関係なく、文明社会では金では買えないものがある。最高裁判所はそう考えたのだ。これは子供を売るのと同じである。少なくとも母親の子供に対する権利を売るのと同じである。出産を市場での取引にすることは非人間的な感じがするという意見があるのだ。これは功利主義の議論を思い出させる。命や兵役や出産などを取り扱うことに対して、功利主義が言うように利用や効用だけが唯一の適切な方法なのだろうか。もしそうでないとしたら、これらのものを評価するのに適切な方法をどうやって考え出していけばいいのだろうか。これらの問題については今後の講義で考えていこう、として講義は終了する。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3088">第０５回-Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」</p>
<p>今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは１つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3090">第０６回-Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」</p>
<p>カントが設定した３つの対比を知ることでカントの哲学を理解するのに役立つ。１つ目は道徳（義務vs傾向性）、２つ目は自由（自律vs他律）、３つ目は理性（定言命法vs仮言命法）。１つ目の対比。カントは道徳性をもたらす動機は唯一「義務」だと言った。反対に自分の欲望や好みを満足させる、あるいは何らかの利益を追い求めることで動機がある場合、私たちは「傾向性」に従って行動しているとした。自分勝手で複数な動機を持っていたとしても、そこに義務がからむ動機があり行為に結びついていたとすれば道徳的に価値があるとする。２つ目の対比。カントは人が自由なのは「自律的」に意思を決定するときだけだという。つまり自分に与える法則に従うときだけであり、それは理性からくる。その理性はどうやって意思を決めることができるのか。それが３つ目の対比に繋がる。カントは理性は２種類の命令を出すという。命法の１つが仮言命法だ。ＸがほしいならＹをしよう。目的に対して手段を選ぶ理性。もし行為が単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。行為がそれ自体においてよいと示され、それが理性と一致している意思のために必要であるなら命法は定言命法だ。定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。自律的な意味で自由になるためには、定言命法から行動することが必要になる。理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3090">第０６回-Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture13「嘘と正義」</p>
<p>自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため（傾向性・他律）から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ！ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ（嘘はつかず）、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う＝すること（自由の領域）」、「相手を傷つけたくない＝すべきこと（必要の領域）」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3092">第０７回-Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture14「契約は契約だ」</p>
<p>カントの政治理論。カントは契約論者だが、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。憲法制定会議に集まった人々は、異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や知識にも個人差があるだろう。だから、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわない。正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶもので、仮説的契約だ。実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。それを調べるためには、現代の哲学者ジョン・ロールズの論理を考える必要がある。ロールズはカントと同じく功利主義を批判し、正義の原理は仮説的な社会契約から導かれるとした。彼は「無知のベール」という考えで仮説的契約を考える。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だと主張する。その原理については次回考える。ちなみにロールズはハーバード大学の教授であった。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3092">第０７回-Lecture13「嘘と正義」Lecture14「契約は契約だ」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」</p>
<p>ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が１人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は７５％ほど手をあげた。１人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3094">第０８回-Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」</p>
<p>前回の講義の終わりに自分が１人目の子だと言う人は７５％ほどいた。１人目に生まれたという偶然性だ。これが努力に対する１つ目の反論。反論はもう１つある。２人の建設労働者がいたとして、１人は力が強く、汗もかかずに１時間で壁を立てることができる。もう１人は小柄でひどく痩せていて、３日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義者は、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。能力主義者は本当は努力ではなく、貢献を大事にしているのだ。しかし貢献は生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そしてそのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。偶然性だ。ここで偶然のゲームと技能のゲームを考える。宝くじは運という偶然性のゲームであり、もしあなたが当たり、賞金をもらう資格を得たとしても、あなたがその賞金に道徳的にふさわしいとはならない。野球という技能のゲームにおいて、優勝者はトロフィーをもらう資格があるが、道徳的にみてトロフィーをもらう資格があるかと問えば、それはゲームの内容による。ロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。あなたの才能は市場経済でどんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。例えば高収入を稼ぐ毒舌のコメディアンは、幸運にも毒のある冗談を高く評価する社会に偶然生きている。もしコメディアンが狩猟社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性。偶然は自分の功績だとは主張できるものではない。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では狩猟社会では、彼らの価値は下がるのか。ロールズの答えは下がらないとする。ここが重要だ。逆に現社会で求められる才能をたまたま持っていない人にも同じことが言える。偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。では機会と名誉はどうだろうか。エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。次回はアファーマティブ・アクションについて考えよう。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3094">第０８回-Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture17: 「差別することで逆に公平さは生み出されるか」</p>
<p>ロールズは分配の正義は、道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する「資格」の問題だとした。今回は大学への入学に対する「資格」を考える。例として１９９６年に訴訟を起したシェリル・ホップウッドという女性を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールに願書を出したのだが、学業成績やテストの得点が良かったにも関わらず不合格となった。大学は入学審査の方針としてアファーマティブ・アクション（積極的差別是正措置）を採用していたからだ。大学側は合否を決定する際、人種や民族的バックグランドを考慮に入れており、彼女が白人であったため不合格としたのだ。事実、彼女と学業成績やテストの得点が同程度であり人種がアフリカ系アメリカ人は合格していた。大学側は多様性を重視したのだ。この例に限らず、大学は優秀な成績を期待できる多数の出願者を審査する際、多様性を保持するためアファーマティブ・アクションを利用することがある。優秀なスポーツ選手やピアニストといった技能を持つ者が他の学生にはできない何かをもたらすように、田舎の農場出身者といった経験が、都会出身者にはできない何かをもたらすように、そして黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらすように、様々な人と共に学生生活を過ごす、その多様性が教育的経験に重要なのだ。そしてそれが国全体の市民的な強みとなる弁護士、裁判官、指導者、公務員の育成を伸ばし公共の利益につながるのだ。それが大学の使命だ、だから多様性を重視する。だからアファーマティブ・アクションを実施する。大学の公共の利益や社会的使命のために彼女は入学を拒否された。彼女には権利があるのか。彼女には権利はないのだ。彼女は入学を許可されるのに値するとは言えない。いや、値する者は１人もいない。誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。大学がひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致するものが入学を許可されることになる。つまり、入学の「資格」を持つことになるのだ。このアファーマティブ・アクションについての議論、特に多様性についての議論は、ロールズの分配の正義の議論とどこか似ているだろう。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3096">第０９回-Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」</p>
<p>アファーマティブ・アクションの人種差別について、過去にはアフリカ系アメリカ人やユダヤ人を差別した選別があった。それには彼らが他の人間より劣っているとする決めつけが内在しており、悪意があったが、今回の人種差別は多様性を促進するという目的なため悪意がないので良いという意見がある。多様性の論拠とは、結局のところ、社会の使命や公共の利益の名の下に展開させる議論だ。公共の利益や福祉を促進する過程で個人の権利が侵害されてしまっても、公共の利益や福祉が優先されるべきなのだろうか。実はロールズは単純にはそう信じてはいない。ロールズは分配の正義は道徳的対価の問題であるという考え方を否定している。おそらく私たちも仕事の地位や、大学入試の合否も、道徳的対価と関係ない方法で行われることを認めてしまってはいないだろうか。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。しかし平等主義的ではないリバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家も、分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではないとしている。つまり、分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等主義的な理由だけではありえないということだ。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らに共通している前提は何かを知るために、古代の哲学者アリストテレスを考える。彼は正義を、名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。アリストテレスの分配の正義論は目的から逆算して考える「目的論的論法」だ。例えば、誰が最高のフルートを手に入れるべきかという問いに、アリストテレスは一番上手なフルート奏者だと答える。フルートを持つにはふさわしい美徳を持つことなのだ。フルートに最高額をつける者や貴族や身体の美しい者やくじ引きなどという理由でフルートを分配することは間違っている。なぜか。それは良い演奏がなされることが「フルートの目的」だからだ。重要なのはアリストテレスの理由は功利主義の理由とは違うということだ。たしかにフルートという物が持つ目的から論理を組み立てるという思考法は少し奇妙だ。その背景には古代ギリシャでは自然の全てが意義のある秩序として理解されており、自然を理解し把握し、自然の中に自分たちの居場所を見つけるということや、自然の目的を問い、読み取るということを大事にしていた。現代科学に慣れた我々からすれば目的論的論法を考えることは難しい。むしろこのような世界観から抜け出すよう子供たちを教育しなければならない。自然を理解するには目的論的な説明から脱却し科学的に考える必要がある。しかし、正義を目的から論じることは、我々がさきほど考えた、アファーマティブ・アクションの話の「大学教育にふさわしい目的とは何か」という問いに置き換えてみることもできるではないか。次回もアリストテレスの目的論的論法を考える。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3096">第０９回-Lecture17「差別することで逆に公平さは生み出されるか」Lecture18「最高のフルートは誰に分配されれば公平か」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture19「目的から考える正義について」</p>
<p>カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の１つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3098">第１０回-Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture20「公平さと名誉について」</p>
<p>前回の講義で、足が不自由なマーティはPGAのゴルフツアーでゴルフカートを使用する権利があるか、という議論で、目的と名誉の２つの要素があることがわかった。マーティにとって名誉とは最高峰のPGAのゴルフツアーで勝利することであり、プロゴルファーにとっての名誉はゴルフがスポーツとして認められている上での名誉を気にしているのだ。スポーツとは見世物とは違う。その違いはスポーツは卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところだ。スポーツの美徳がわかる人こと理解のある本物のファンだ。ゴルフがスポーツかどうかを問うことは重要なのだ。それは名誉と関係があるからだ。アリストテレスの正義論は権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。正義とは適合させることだ。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。さて、アリストテレスの正義論は正しいのかどうかを考えよう。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。実は彼は彼の生きていた時代の制度として奴隷制を擁護していた。市民が政治を論じ合うには家事などから解放されなければならない。生活の面倒をみてくれる奴隷が必要だ。しかし適合の基準によれば、奴隷にふさわしい人がいなければならないということになる。これについてアリストテレスは、生まれつき奴隷に適した人間がいると主張している。だが、戦争で捉えられ、仕方なく奴隷になった者などは、奴隷の役割を与えるのは一種の強制であり、本人の本来の役割と適合していないので問題としている。ここでの要点は、アリストテレスの目的論法が奴隷を認めているから正しくないのではなく、むしろ目的論法自体は原理的には間違っていないのだ。なぜなら、彼の目的論法で奴隷制を考えた場合、何が間違っていたのかを、彼自身の言葉によって説明することができるからだ。では目的論法は何が問題となるのか。それは多元的な考えを持つ現代の社会において、目的や善について同意を得ることが難しい。だからこそ現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としているのだ。カントやロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けたのだ。アリストテレスのように正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されないではないか。自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないのだ。吟味すべき問題は２つある。１つ目は権利は善に優先するのかどうか。２つ目は自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。ただしロールズが言うような、自分の役割や目標や目的を選択できることが本当に自由なのか。次回考えよう。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3098">第１０回-Lecture19「目的から考える正義について」Lecture20「公平さと名誉について」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture21「コミュニティの一員としての義務」</p>
<p>アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、カントの自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン（共同体主義者）の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。２人の子供が溺れている。どちらか１人しか助けられない。１人はあなたの子供、もう１人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第２次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回考えよう。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3102">第１１回-Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」</p>
<p>コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。ふるさとと祖国のコミュニティに属していた例を考えよう。南北戦争の前夜、アメリカ南部のヴァージニアにふるさとを持っていた北軍のリー大佐の話。彼は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対し、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとしたが、リーはそれを断った。リーは連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれなかったのだ。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。彼は祖国よりもより身近なふるさとというコミュニティの義務を選んだのだ。講義では他に２つの例が示されるが、どちらもより身近な限定的なコミュニティを選んでいる。おそらくほとんどのアメリカ人も祖国アメリカよりも自分の家族の方が大事だと考えているだろう。しかし、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦ったという例も当然あったのだ。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示している。つまりコミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないと言えそうだ。ある特定のコミュニティの中でだけ「是」とされるだけならば、正義の原理があるとは言えない。ある時代のある社会においてのみ通用する共通の理解や価値観や習わしへの忠誠心に過ぎなくなってしまう。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3102">第１１回-Lecture21「コミュニティの一員としての義務」Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture23＋Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」</p>
<p>私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。それを明らかにするために同性結婚について考える。同性結婚は道徳的にも宗教的にも論争の的となっている。まず、多くの人は結婚は道徳的、宗教的に男女間に限るべきだとまず思うだろう。同時に多くの人は同性結婚も異性結婚と等しく扱われるべきだという。こちらも道徳的、宗教的な信念を持っている。１つの要点として、どう選択するかが道徳的に価値があるのではなく、個人が様々なことを選択できる権利があるかどうかが問題となっている。道徳的に同性結婚は間違っていると思う者でも、２人の男性が結婚したいと思っているのに、自分がなぜそのことに反対できるのかわからないと答えた。同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。ジャーナリストのマイケル・キンズリーは国の機能としての結婚の廃止に賛成している。彼は同性結婚に反対しているわけだが、その理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。ではここで結婚の目的を考えてみよう。多くの人はまず、子供を生んで育てること、つまり生殖を考えるだろう。しかし、不妊カップルの結婚を我々は認めるだろう。あるいは、閉経後の女性との年配結婚、死に瀕した者との結婚などを考えると、生殖が結婚の目的ではないような気がしてくる。では、同性結婚の問題に裁判所はどう判決を下すだろうか。マサチューセッツ州に対し結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたグッドリッチという男性の訴訟を考える。裁判所はまずは、中立性を考えたが結論は違った。結婚の目的は生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点だとし、名誉を重要視した。裁判所は結婚は、個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。結婚を望む２人とそれを承認する国家の３者の関わり。結婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。この見解は中立性を超えている。同性結婚を公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定したのだ。実はサンデル教授は中立的な立場に反対だ。中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚を正当化することはできない。問題となるのは同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうかだ。サンデル教授は中立的に反対なのは、同性結婚の話に限らない。私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自律の問題だから、我々はどの立場も取らないと言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできなかったのだ。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3105">第１２回-Lecture23-Lecture24「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」</a></p>
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken16">Lecture24後半「サンデル教授の正義」</p>
<p>私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり（懐疑主義）、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3105">第１２回-Lecture23-Lecture24「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」</a></p>
<p class="hiroken0">
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		<title>「孫の二乗の兵法」孫正義（ソフトバンクアカデミア開校式）</title>
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		<pubDate>Wed, 28 Jul 2010 17:43:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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一 流 攻 守 群 （戦略）
智 信 仁 勇 厳 （将の心得）
風 林 火 山 海 （戦術）



時間：02:16:31












iPhoneアプリ

　



孫の二乗の兵法アプリは、孫正義の経営の神髄である25文字を、いつでもどこでも学べるように、一文字ずつテキストの解説と孫正義の肉声、映像を交えたものになっています。
本アプリは孫正義公認です。

孫の二乗の兵法
ソフトバンクの代表執行役社長である「孫正義」氏がリーダーが持つべきものを２５文字で表し、「孫の二乗の兵法」と名付け、自らも応用し、現在も常にアップデートしているとのことです。
（１）ランチェスターの法則、（２）孫子の兵法、（３）自らの孫正義の兵法を混ぜてつくりあげています。２５文字のうち１４文字は孫子の兵法から取り入れています。
道 天 地 将 法
智 信 仁 勇 厳
風 林 火 山
この１４文字に自らの１１文字加え、「孫の二乗の兵法」としています。
道 天 地 将 法 （理念）
頂 情 略 七 闘 （ビジョン）
一 流 攻 守 群 （戦略）
智 信 仁 勇 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object classid="clsid:d27cdb6e-ae6d-11cf-96b8-444553540000" width="480" height="386" id="utv519049" name="utv_n_321073"><param name="flashvars" value="loc=%2F&amp;autoplay=false&amp;vid=8563104&amp;locale=ja_JP" /><param name="allowfullscreen" value="true" /><param name="allowscriptaccess" value="always" /><param name="src" value="http://www.ustream.tv/flash/video/8563104" /><embed flashvars="loc=%2F&amp;autoplay=false&amp;vid=8563104&amp;locale=ja_JP" width="480" height="386" allowfullscreen="true" allowscriptaccess="always" id="utv519049" name="utv_n_321073" src="http://www.ustream.tv/flash/video/8563104" type="application/x-shockwave-flash" /></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken17">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/07/son2.jpg" alt="" title="son2" width="200" class="alignnone size-full wp-image-3268" /></p>
<p class="hiroken05">
ソフトバンク<br />
孫正義</p>
<hr class="hiroken07" />
<p class="hiroken06">
孫の二乗の兵法<br />
道 天 地 将 法 （理念）<br />
頂 情 略 七 闘 （ビジョン）<br />
一 流 攻 守 群 （戦略）<br />
智 信 仁 勇 厳 （将の心得）<br />
風 林 火 山 海 （戦術）
</p>
<hr class="hiroken07" />
<p class="hiroken07">
時間：02:16:31
</p>
<hr class="hiroken07" />
<p class="hiroken17">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/07/softbank-rogo.png" alt="" title="softbank-rogo" width="150" class="alignnone size-full wp-image-3262" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<table>
<tr>iPhoneアプリ
<td></td>
<td>　</td>
</tr>
<tr>
<td><a href="http://itunes.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewSoftware?id=392602372&amp;mt=8&amp;ign-mpt=uo%3D6"><img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/07/sonapri.png" alt="" title="sonapri"  height="120" class="alignnone size-full wp-image-3434" /></a></td>
<td>孫の二乗の兵法アプリは、孫正義の経営の神髄である25文字を、いつでもどこでも学べるように、一文字ずつテキストの解説と孫正義の肉声、映像を交えたものになっています。<br />
本アプリは孫正義公認です。</td>
</table>
<h2><font color="#000000">孫の二乗の兵法</font></h2>
<p>ソフトバンクの代表執行役社長である「孫正義」氏がリーダーが持つべきものを２５文字で表し、「孫の二乗の兵法」と名付け、自らも応用し、現在も常にアップデートしているとのことです。<br />
（１）ランチェスターの法則、（２）孫子の兵法、（３）自らの孫正義の兵法を混ぜてつくりあげています。２５文字のうち１４文字は孫子の兵法から取り入れています。<br />
道 天 地 将 法<br />
智 信 仁 勇 厳<br />
風 林 火 山<br />
この１４文字に自らの１１文字加え、「孫の二乗の兵法」としています。</p>
<p>道 天 地 将 法 （理念）<br />
頂 情 略 七 闘 （ビジョン）<br />
一 流 攻 守 群 （戦略）<br />
智 信 仁 勇 厳 （将の心得）<br />
風 林 火 山 海 （戦術）</p>
<p>動画はソフトバンクグループにとっての２５文字の説明をしています。</p>
<p>下記は当サイト管理人が動画を見てメモをとったものです。<br />
<span id="more-3260"></span></p>
<p>■ソフトバンクグループにとっては<br />
道 天 地 将 法 （理念）<br />
道＿情報革命で人々を幸せに。<br />
天＿天のタイミング（情報ビッグバン、マイクロプロセッサ、インターネット）<br />
情報ビッグバン＿５０年前、１００年前はなかった。<br />
松下幸之助さんは情報ビッグバンよりも前に生まれてしまった。<br />
地＿地の利＿２０１５年はネット人口はアジア人が５０％（約２６億）<br />
将＿優れた将を得なければ大きな成功が治められない、大将としての器になる必要があり、<br />
大将を支える１０人が必要。志を共有する。<br />
法＿システム、方法論の法、ルールつくり、しくみ、ビジネスモデル（法律ではない）<br />
→まぐれあたりで得たのは続かない、勢いで勝ったのでは継続できない。<br />
継続して勝つにはしくみ、システムが必要。<br />
→ものごとをシステマティックに考える。</p>
<p>頂 情 略 七 闘 （ビジョン）<br />
頂＿ビジョン、山の頂上から見て、見渡した時の景色（下界の景色）<br />
→ビジョンを持つとは、登る前に頂上からみた景色をみること。<br />
１０年後にこうなるだろう。<br />
３０年後にこうなるだろうを描く。<br />
未来はこうなるではダメ。具体的<br />
ビジョンを持っていないリーダーは最悪です。<br />
１０年後にこうなるってバシっと言えないリーダーは失格。</p>
<p>情＿情報収集してビジョンを立てる<br />
１年半かけて４０の新しいビジネスモデルの事業を考えた。新しい切り口。<br />
ナンバーワンになれるだろう企業を考えた。<br />
１０年後の予想バランスシート、予想損益計算表、予想人員計画表、予想マーケットシェア。<br />
競合になるだろう規模、ビジネスモデル、売上、利益、バランスシートを調べた。<br />
自分の過去のアイデアを超える。</p>
<p>略＿各種の戦略、戦略とは略するという意味、<br />
集めた情報をそぎ落とし、急所をみつける。</p>
<p>七＿７割の勝算。<br />
五分五分の戦いは愚か。勝率９割では手遅れ。<br />
もちろん短期間で勝率９割ならOK。<br />
→日本の大企業は９割まで待って、手遅れ。<br />
トカゲも３割のしっぽは切り離す。<br />
イチかバチかもやってはいけない。失敗は３割まで。<br />
もしかしての７割ではダメ、確実の７割。<br />
軽い気持ちで７割はダメ、考え抜いて７割。<br />
維持になってはいけない。３割失ったら、一目散に逃げる。<br />
３割失って、勿体ないと思って突っ込んだら最悪。<br />
退却することがどれほど勇気がいることか。<br />
退却したら、マスコミに叩かれるぞ。</p>
<p>闘＿事を成すには闘ってはじめてできる。<br />
評論家、コンサルタントは言うだけ。じゃああんたがやれよ言えよ！<br />
やるということは難しい、やるということは闘わなんとできない！！<br />
事業家、革命家は闘わねばならない。</p>
<p>一 流 攻 守 群 （戦略）<br />
一＿圧倒的ナンバーワン戦略<br />
圧倒的にナンバーワンでないと、すぐに追いつかれる。<br />
本質的な存在意義を長く享受できる。<br />
孫子にもランチェスターにもナンバーワン戦略は入っている。</p>
<p>ボーダフォンジャパンを買収した時、<br />
目が死んでいる、自信がない、負け癖がついている、どうせダメという諦めムード<br />
累積ナンバーワンは難しい、時間がかかるが、<br />
１ヶ月でもナンバーワンをとると、</p>
<p>大きなことを成すには、２、３番だと無理。<br />
ナンバーワンを持つ社風がないと闘えない。</p>
<p>流＿時代の流れ、流れに逆らってはいけない。<br />
沈みゆく産業になぜ、そこにいるのか。<br />
農耕社会→工業社会→情報社会<br />
川の流れに逆らって泳ぐと遅くなるだろ！<br />
ニッチを選んだことは一度もない。<br />
今が小さなニッチであっても５年後、１０年後に本流、<br />
マスマーケットになっていることが重要。<br />
沈み行くもの、枝葉になっていくものを選んではいけない。</p>
<p>攻＿営業、技術開発、M&#038;A、新規事業などなど<br />
攻撃はガンガンやれなきゃダメ。攻撃は最大の防御。<br />
リーダーは攻撃力を持っていないとダメ。</p>
<p>守＿キャシュフロー経営、コスト削減、投資の効率化、撤退、コンプライアンス、監査、報道リスクなどなど。<br />
ベンチャーは攻撃力は強いが、ベンチャーのつぶれる時はたいていがこれ。<br />
つぶれる時の直接的な原因が資金繰りである。<br />
攻めるということは金がかかる。かかる金をマネージメントしないとダメ。<br />
４、５年後に実質無借金になり、その後も無借金を続ける。<br />
新たな借り入れをなし、いかに攻め続けるか、それには頭を使う必要がある。<br />
正しき義を満たさねばならない→法律は変わるから。<br />
→現在の法律で違法でなくとも、正しき義がないものは違法となる。</p>
<p>群＿３０年以内に５０００社。<br />
戦略的シナジーグループ。マルチブランド。</p>
<p>智 信 仁 勇 厳 （将の心得）<br />
智＿思考力、グローバル交渉力、プレゼン能力、エクノロジー、ファイナンス、分析力</p>
<p>信＿信義、信用、信念、同志的結合、パートナーシップ<br />
お金、技術があっても、裏切られる気がする、そんな会社はダメ。<br />
２、３社は集められても５０００社は集められない。</p>
<p>仁＿仁愛</p>
<p>勇＿大きな敵と闘う勇気、撤退する勇気<br />
退却するとは１０倍難しい。<br />
退却の時の決断はトップしかできない。<br />
トップが自分１人で泥をかぶる、それがリーダー。<br />
人のせいにするような者に部下はついてこない。</p>
<p>厳＿誠の愛のため<br />
時として鬼になれ！鬼になりきれない者はリーダーにはなれない。<br />
愛する部下に対しても鬼になれなきゃならない。<br />
いい人では組織は持たん。</p>
<p>風 林 火 山 海 （戦術）<br />
疾（と）きこと風の如く、徐（しず）かなること林の如く、<br />
侵（おか）し掠（かす）めること火の如く、動かざること山の如し）の通称。<br />
風＿風のように早く。<br />
林＿超極秘、水面下の交渉。半年以上前から、グーグルとヤフージャパンは交渉していた。<br />
火＿動く時は火のように。<br />
山＿動かない時は山のように</p>
<p>海＿海のようにすべてを飲み込んだ、平和な状態まで持っていって初めて戦いは完結します。<br />
本当に戦いに勝つとは、海の状態にして戦いは完結する。<br />
孫子は「影」のようにと言っているが、孫さんが勝手にバージョンアップした。</p>
]]></content:encoded>
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	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3260" />
	</item>
		<item>
		<title>当サイト・オリジナル電子書籍「セイギのつくり方」無料配布</title>
		<link>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3364</link>
		<comments>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3364#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 26 Aug 2010 18:59:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[セイギのつくり方]]></category>

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		<description><![CDATA[セイギのつくり方。

セイギのつくり方。
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ダウンロードはこちらのページから（無料配付中）。
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サンデル教授の「JUSTICE」の素晴らしさを広めたいと思い、電子書籍「セイギのつくり方。」を制作しました。
http://www.visualecture.com/justice.html（ダウンロードはこちら）
PDFファイルで５４ページ。８月１３日から無料配付中。


９人の哲学者を軸に制作しました。
（１）「タイプ診断チャート」であなたがどの哲学者と意見が近いか調べてみましょう。
（２）「道徳に関する２０の質問」であなたの考えと９人の哲学者の考えを比べてみましょう。
（３）「サンデル教授の講義の概要」を９人の哲学者を軸に簡単にまとめました。
（４）日常とリンクさせるため、正義を軸にした「議論マニュアル」を作成しました。


パソコンにダウンロードして頂き、iTunesからiPadのiBooKsへ移して頂けると、楽しく読むことができますよ。

電子書籍「セイギのつくり方。」は当サイト管理人とその友人が「ハーバード白熱教室ノート」のサイトを運営されている管理人にコンタクトをとり、３人で作成しました。

リンクフリー。直リンクフリー。表紙画像フリー。

	電子書籍「セイギのつくり方。」の「政治哲学者タイプ診断チャート」がWEB上でできるようになりました。
http://www.visualecture.com/type/index.html
（２０１０年８月２９日より）

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そこで、電子書籍「セイギのつくり方。」に、どなたかページを追加させたいという方はいらっしゃいませんか？
９月末まで募集します。
http://www.visualecture.com/justice-plus.html
（２０１０年９月１日より）

電子書籍「セイギのつくり方」紹介ムービー




電子書籍「セイギのつくり方」全５４ページのスライドショー



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<p><a href="http://www.visualecture.com/justice.html"><img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/08/slie.jpg" alt="" title="slie" width="700" class="alignnone size-full wp-image-3276" /></a></p>
<p class="hiroken16">セイギのつくり方。</p>
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<p>ダウンロードは<a href="http://www.visualecture.com/justice.html" target="_blank">こちらのページから（無料配付中）</a>。<br />
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<span id="more-3364"></span></p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p class="hiroken08">
当サイトオリジナル電子書籍「セイギのつくり方。」<br />
<a href="http://www.visualecture.com/justice.html"><img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/seigi-hyoushi1-300x219.jpg" alt="" title="seigi-hyoushi" width="300" height="219" class="alignnone size-medium wp-image-3278" /></a><br />
サンデル教授の「JUSTICE」の素晴らしさを広めたいと思い、電子書籍「セイギのつくり方。」を制作しました。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/justice.html">http://www.visualecture.com/justice.html（ダウンロードはこちら）</a><br />
PDFファイルで５４ページ。８月１３日から<a href="http://www.visualecture.com/justice.html">無料配付中</a>。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/type/a.png"  height="10"><br />
<img src="http://www.visualecture.com/type/type02.jpg" alt="哲学者" width="500"><br />
<b>９人の哲学者を軸に制作しました。</b><br />
（１）「<a href="http://www.visualecture.com/type/index.html">タイプ診断チャート</a>」であなたがどの哲学者と意見が近いか調べてみましょう。<br />
（２）「道徳に関する２０の質問」であなたの考えと９人の哲学者の考えを比べてみましょう。<br />
（３）「サンデル教授の講義の概要」を９人の哲学者を軸に簡単にまとめました。<br />
（４）日常とリンクさせるため、正義を軸にした「議論マニュアル」を作成しました。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/type/a.png"  height="10"><br />
<a href="http://www.visualecture.com/justice.html"><img src="http://www.visualecture.com/img/seigitop21.jpg" width="400"></a><br />
パソコンにダウンロードして頂き、iTunesからiPadのiBooKsへ移して頂けると、楽しく読むことができますよ。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/type/a.png"  height="20"><br />
電子書籍「セイギのつくり方。」は当サイト管理人とその友人が「<a href="http://deztec.jp/z/dw/j/index.html"  target="_blank">ハーバード白熱教室ノート</a>」のサイトを運営されている管理人にコンタクトをとり、３人で作成しました。<br />
<img src="http://www.visualecture.com/type/a.png"  height="10"><br />
リンクフリー。直リンクフリー。表紙画像フリー。</p>
<p class="hiroken08">
	電子書籍「セイギのつくり方。」の「政治哲学者タイプ診断チャート」がWEB上でできるようになりました。<br />
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（２０１０年８月２９日より）</p>
<p class="hiroken08">
電子書籍「セイギのつくり方。」おかげさまで５０００ダウンロードを超えました。ありがとうございます。<br />
そこで、電子書籍「セイギのつくり方。」に、どなたかページを追加させたいという方はいらっしゃいませんか？<br />
９月末まで募集します。<br />
<a href="http://www.visualecture.com/justice-plus.html">http://www.visualecture.com/justice-plus.html</a><br />
（２０１０年９月１日より）</p>
<p><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/dBK63GTq4-4?fs=1&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/dBK63GTq4-4?fs=1&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object><br />
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<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/wt4iyPw3QTg?fs=1&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/wt4iyPw3QTg?fs=1&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object><br />
電子書籍「セイギのつくり方」全５４ページのスライドショー</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><span style="color: #aa1525;">ダウンロード</span></h2>
<p>ダウンロードは<a href="http://www.visualecture.com/justice.html" target="_blank">こちらのページから（無料配付中）</a>。<br />
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	</item>
		<item>
		<title>JUSTICE 第４回「国ができる前の正義を考える」「同意と契約によってつくられた公平さ」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
		<link>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086</link>
		<comments>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:39:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
		<category><![CDATA[JUSTICE]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3086</guid>
		<description><![CDATA[Lecture07「国ができる前の正義を考える」
ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture07
THIS LAND IS MY LAND
Lecture08
WHO OWNS ME?　



時間：54:59











Lecture07「国ができる前の正義を考える」
今日はジョン・ロックを取り上げる。
一見したところロックは、市場原理主義者、リバタリアンの強力な味方だ。
まず、彼は今日のリバタリアンが主張しているように、ある考え方を信じていた。それは、例え代理政府や民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せない、ある種の個人の基本的な権利が存在する、というものだ。
それだけではなく、彼はそういった基本的な権利には、生命、自由、財産に対する「自然権」が含まれていると信じていた。
さらに彼はこう論じている。
財産権は単なる政府や法律の創造物ではない、と。
財産を保有する権利は政治以前のものであるという意味で「自然権」である。

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それは私たち、一人一人が人間として、本来持っている権利であって、政府が登場する前から、そして、議会や立法者が法を制定して、権利を手にする前から存在したものなのだ。
ロックは自然権を持つというのは、どういうことか理解するためには、政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像してみる必要があるという。彼はその状態を「自然状態」と呼んだ。
彼は自然状態は自由な状態だと言う。人間は自由で平等な存在だ。
王様に生まれる人も入れば、農奴に生まれる人もいる。というのは間違った考え方で、私たちはあくまで自由で平等なのだ。それでも彼は自由であることと、好き勝手に行動することは違うと主張した。
なぜなら、自然状態であっても、ある種の法が存在するからだ。
それは、自然法と呼ばれるもので、立法者が制定するようなものではない。この自然法があるから、私たちは自由であっても行動は制約される。では、どんな制約があるのか。
自然法により、制約される行動とは！
私たちの誰もが持っている権利、つまり、自然権を自ら手放すことだ、または他人から取り上げることだ。
自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、もちろん、自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。
私たちは自由であっても、自然法侵害する自由はない。自分の人生を取り上げる自由も、自分を奴隷として売る自由も、誰かに自分を支配する絶対的な力を与える自由もない。君たちからみれば、最低限の制約かもしれないが、なぜそのような制約があるのか。
ロックはこうした疑問に対して２つの答えを出している。
人間はすべて　唯一神　全知全能なる創造主の作品であり、彼の所有物にあって他の誰のためでもなく、彼が喜ぶ限りにおいて生存するようにつくられている。
つまり、我々が生命、自由、財産の自然権を手放すことができないのは、厳密にはそれらは自分のものではないからだ。結局我々は神の創造物である。そして神はより大きな財産権、優先される権利を持っている、というわけだ。
しかし、神を信じないものは、この答えに納得できないかもしれない。
彼らにはどう説明すべきだろう。
ロックはここで人々の理性に訴えた。
こういう考え方だ。
自由であることの意味をよく考えれば、それが望むことの何でもしていい、という意味ではないことはおのずとわかってくる。
このことを意味するロックの言葉が
「自然状態には　それを統治する自然法があり、何人もそれに従わなければならない。その法である理性は人類にすべての人は平等で独立しており、他人の生命、健康、自由または財産を害するべきではない」と教えている。
これはロックの権利についての説明の不可解で矛盾する部分につながる。
ある意味わかりやすいが、奇妙な考え方だ。
彼は私たちの自然権な不可譲のものと言った。
不可譲とはどういう意味か、あげてしまったり、取引したり、売ったりすることができないということだ。
例えば、航空券は譲渡できない。NFLのペイトリオッツやメジャーリーグのレッドソックスのチケットもそうだ。
人にあげられないチケットは不可譲だ。
私はそのチケットを自分で使うことはできるが、売ることはできないという限定された意味で所有されている。だからある意味で不可譲の権利、譲渡できない権利の元で私が所有しているものは、完全に私のものではないとも言える。
しかし、不可譲の権利を別の意味で考えると、特に生命、自由、財産の場合では、原理が不可譲のものであれば、それだけ深く完全に私のものになる。それがロック言うところの不可譲だ。
トーマス・ジェファーソンはアメリカ独立宣言にロックのこの考え方を活かした。
アメリカ国民には生命、自由、そして幸福の追求に対する不可譲の権利がある、というものだ。
不可譲の権利とは本質的に自分だけのもので、誰にも渡すことのできないものである。政府が存在する前から私たちが自然状態で持ち合わせている権利だ。私たちは他人の命を取り上げることや奴隷にすることができないように、自分の命を奪うことも、自分を奴隷として売ることもできない。
では、財産の場合はどうだろう。ロックの理論では私たちは政府が存在する前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。しかし、政府がない状態で私有財産が発生することなど、ありえるだろうか。
それに対するロックの答えは２７章にでてくる。
人は誰でも、自らの一身に対する所有権を持っている。これについては彼以外の何者も権利を所有しない。彼の身体による労働、手による仕事はまさしく彼のものであるといってよい。
そしてロックはリバタリアンと同じような論理を展開した。
私たちは、自分自身を所有しているということは、自分自身の労働を所有していることにもなる。彼はさらにこう主張した。所有されていないものに私たちの労働を加えると、それは私たち自身の所有物になる。
自然が備えた状態から取り出すものは何でも、自分の労働を交えたものであり、彼自身の何かを付け加えたものであるから、彼の財産となる。
なぜか。
労働はその労働者の疑いの余地のない財産だから、よって彼以外の誰かが彼の労働が加えられたものに対する権利を持つことはない。だが、これには重要な但し書きがある。他者のために同じようによいものが十分に残されている限り。
私たちは収穫した果実やつかまえた鹿、採った魚に対してだけ、所有権を持っているわけではない。土地を耕して周りを囲み、ジャガイモを育てるのであれば、採れたジャガイモだけでなく、それを育てる土、そして、大地も所有しているのだ。
人が耕し、植物を育て、改善した土地から得られるものを利用するかぎり、その土地は彼の所有物である。彼の労働が加わることで、それは一般とは区別される。
権利は不可譲という考えはロックをリバタリアンから遠ざけるように思う。リバタリアンが言いたいのは、私たちには自分自身に対する絶対的な所有権があるから、望むことは何でもできる。とういことだ。
ロックはその考え方の完全な味方ではない。実際、彼は自然権について真剣に考えれば、私たちが自然権でできることには制約があることが気付くはずだと言っている。理性によって与えらえる制約だ。自由であるとはどういうことか考えてみれば、権利は不可譲であり、そこには制約があることがわかるはずだと。
これがロックとリバタリアンの違いだが、ロックの私有財産の説明にあてると，再びリバタリアンのとても良い味方に見えてくる。彼は私有財産についてこう考えていた。
私たちは自分自身の所有者であり、その労働の所有者であり、労働の果実の所有者である。自然状態で集めたり、狩りをして手に入れたものだけでなく、囲いこみ耕した土地の所有者でもある。労働が加わったことで、誰のものでもない何かが、その人の所有物になる、という感覚が、道徳的に正当化される例はいくつかある。そして、これは時には論争の的にもなる。
裕福な国と発展途上国の間では、貿易に関連する知的財産権の論争がある。
最近の例をあげると薬の特許法についての論争だ。
西側の国、特にアメリカは私たちには新薬を開発する大きな製薬業界がある。世界の全ての国に特許を尊重してもらいたい、と言った。
それから、南アフリカでエイズ危機が起きた。
アメリカのエイズ薬はあまりにも高かったので、アフリカではそれを買える人はほとんどいなかった。そこで南アフリカ政府は言った。私たちはアメリカの抗レトルウイルス薬と同じ成分の薬をそれよりずっと安い値段で手に入れるつもりだ。その薬をつくる方法を解明したインドの製薬会社を見つけたからだ。特許を尊重しなければ、はるかに少ない金額で大勢の命を救うことができるのだ。
すると、アメリカ政府は言った。それはダメだ、研究に投資し、この薬をつくりだした会社はどうなる。ライセンス料を払わずに勝手に薬を製造することは許されない。こうして論争がおきた。
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その製薬会社は南アフリカ政府を訴え、より安い、彼らが海賊版と考えるエイズ薬を南アフリカ政府が買うのを防ごうとした。この件は最終的にはアメリカの製薬会社が折れて解決することになる。
しかし、この所有権、知的財産権、薬の特許権についての論争は自然状態において、ある意味、最後の未開拓分野と言えるかもしれない。今のところ特許権や所有権に関する国家間の一律の法律はないからだ。国際的な合意により規則が制定されるまでは
、その合意の仕方はまちまち、ということになる。
政府や法が存在しない状態でも、私有財産権が生じるロックの考え方はどうだろう。成功しているだろうか。説得力があると思う人は手をあげて。では、説得力がないと思う人は？反対意見から聞こうか？同意なしに自然財産が生じるというロックの考えはどこに問題があるのだろうか？どうぞ！
学生Ａ：彼はヨーロッパ人の文化的規範を正当化しようとしていると思います。ネイティブアメリカンはアメリカお土地を文明化できなかったけれど、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到着したことで、そのままでは起きなかったかもしれないアメリカの発展が出現したからです。
つまり、土地の所有権を守るための弁護だと思うんだね。
学生Ａ：はい、到着したというだけでは、その土地を手に入れたとは言いにくいからだと思います。
なるほど、君の名前は？
学生Ａ：ロシェルです。
ロシェルはヨーロッパ人が入植した頃、北米で何が起きていたかを考えると所有権に関するロックの説明はそれに適合していると言う。ロシェル、つまりそれは土地の占有を正当化するための弁護だということだね。
学生Ａ（ロシェル）：はい、ロックは名誉革命も正当化しています。だから植民地化を正当化することがあってもおかしくないと思います。
なるほど、たしかにそれはおもしろい説だね。賛成意見も多いだろう。
でも、彼の議論の有効性についてはどうだろう。君の言うように、これは土地を囲っていなかったネイティブアメリカンから北米の土地を取り上げることを正当化するのかもしれない。だが、そもそもロックの理論は正しいのだろうか、それとも彼は単に道徳的に正しくない行いを正当化しようとしているだけなんだろうか。
学生Ａ（ロシェル）：後者だと思います。個人的な意見ですが。
後者か。それじゃあ次はロックの私有財産の考え方を支持する人に聞こう。ロシェルはそれはアメリカの入植者がネイティブアメリカンから土地を取り上げたことを正当化するための手段に過ぎないと言ったが、これに対する反論が聞けたらおもしろいね。ロックを弁護できる人はいないかな？君、弁護できる？
学生Ｂ：はい、ロックがヨーロッパ人の植民地化を正当化しようとしたという証拠はありません。たぶん植民地化は正しくないでしょう。それは彼が「統治二論（ロックの著書）」で言っていた戦争状態です。
つまり、ネイティブアメリカンとヨーロッパ人の入植者との間で起きたことは戦争状態だと。お互いの合意があってはじめて起こるものであり、それがなければ始まり得ないものだった。
学生Ｂ：そうです。双方がそれに同意しなければならなかったはずです。
君の名前は？
学生Ｂ：ダンです。
ダン、さっきロシェルにも聞いたが、土地の所有権についてのロックの議論はどうだろう。これが打倒なものなら、入植者が土地を占有して、そこから他のものから排除したことは正当化されるのだろうか。ロックの理論をどう評価する？
学生Ｂ（ダン）：ネイティブアメリカンはまだ占有していなかったということですよね？
ネイティブアメリカンは狩猟や採取を行っていたから、土地を囲ってはいなかった。ロシェルにもその点は承知していると思う，今聞きたいのは、、、。
学生Ｂ（ダン）：でも、ロックはある特定の土地でどんぐりを拾ったり、リンゴを摘んだり、バッフォローを殺したりすれば、労働によってその土地自体も自分のものになると言っています。だからその定義によれば、ネイティブアメリカンも周りをフェンスで囲っていなかっただけで、、、、。
土地を使っていた。
学生Ｂ（ダン）：そうです。だったら、、、、
ロックの定義によれば、ネイティブアメリカンも土地の権利を主張できただろう。
学生Ｂ（ダン）：でも、それを主張する人がいなかった。
なるほど、ありがとう。他にロックを弁護する人は？君！
学生Ｃ：ロックを擁護するために言いますが、彼は他の土地を取ることができない場合もあると言っています。例えば、人々の共有財産である土地を獲得することはできません。ネイティブアメリカンの場合は自分たちの文明を持っていて、土地を共同で使っていたと思います。ですからそのような共同財産を取り上げることはできません。
それはおもしろいね
学生Ｃ：また、他の人のために土地が残されていることを確かめない限り、土地を取得することはできません。自分が取得したのと同じくらい良い土地が他の人たちのために十分に残されているかどうか確かめる必要があると思います。
その通りだ。ロックは土地の私有財産権には他の人のために同じくらい同じように良いものが残されている、という但し書きがると言っている。君の名前は？
学生Ｃ：フェンです。
フェンもある意味ダンと同じでロックと同じで、ネイティブアメリカンに有利に展開できる部分もあると言っている。
では、次の質問だ。
私有財産権が自然に生じるものである。政府が誕生する前から、私たちが持っているものであれば、それによって政府にできることはどの程度、制約されるだろうか。ロックは政府をどう捉えていたのだろうか。その点についてはリバタリアンに同調的なのか、それとも批判的なのか、それを見極めるために自然権が社会に入ったらどうなるのかについて考えていきたい。
私たちは自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入った。しかし、人間と法律というのはそれが私たちの自然権を尊重し、生命、自由、財産に対する不可譲の権利を尊重する場合のみ正当なものだ。
どんな議会、どんな立法者、それがいかに民主的なものであっても、合法的に私たちの自然権を侵害することはできない。いかなる法律も私たちの生命、自由、財産に対する権利を侵害できない、というこの考え方は、制限された政府という考え方を主張することになるので、結局、リバタリアンを喜ばせることに見えるかもしれない。
しかし、リバタリアンはすぐに喜ぶべきではない。たしかにロックは政府がつくられた後も自然法は存続すると言っている。さらに彼は政府をつくる目的は主に財産権を守ることであり、政府はそれに制約されているということを強く主張した。
しかし、一方で、何をもって所有権とするか、どうすれば生命や自由を尊重していることになるのか、そういったことを定義するのは政府だ。私たちの財産や生命、自由が尊重されている以上、政府にできることは限られているように思える。しかし、その一方で、何をもって私たちの生命や財産が尊重されているとみなすかを決めるのは政府なのだ。
そんなことが可能なのか、矛盾しているのではないか。それともここには重要な区別があるのだろうか。
ロックの見方がリバタリアンと一致するかどうか詳しく確かめるため、次回はロックの考える正当な政府とどんなものか詳しくみていこう。




Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」
ジョン・ロックは同意という考えについて論じた偉大な哲学者の１人だ。そもそも自然状態では人々が行き過ぎた自然法の侵略行為が行われ、ともて暴力に満ちたものだ。だから自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。ここがリバタリアニズムと違うところだ。ロックの考えの根底には君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。さらに自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではなく、全てアメリカについて話していた。このことも頭に入れてロックをよむべきかもしれない。今回残念ながら答えが出なかったのは、同意はどのような働きをするか、同意の限界とは何なのかだ。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げるとして講義は終了する。



Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」
前回の講義で、私たちはロックの自然状態、私有財産についての説明、そして、同意による制限された正当な政府とはいかなるものかといったことを議論し始めた。ロックは人間には政府を制約するある種の根本的な権利があると信じている。そして、その権利は生まれながらのもので、法律や政府に由来するものではないと言っている。
彼の行った偉大な哲学的実験は政府や立法者が所有権を定義する前に、同意なしで私有財産を持つことは可能なのか、ということを確かめようとするものだった。それが彼の疑問であり主張したかったことだ。
ロックは他者のために同様の土地が十分に残されている場合に限り、私たちは狩猟や採集の青果だけでなく、土地そのものも所有することができると論じた。今日はロックの哲学の２つ目の重要な問題である同意の問題に取り組みたい。ちなみに１つめは私有財産だった。
同意の働きとは何だろうか。ここにいる君たちもこの講義の初日に同意という言葉を使った。覚えているかな？太った男を橋から突き落とすという話をしていた時、彼は同意していなかった、と言った人がいた。また、海で遭難した男たちが少年を殺して食べた話では、彼らがくじびきで同意していたら問題はなかった、という意見が出た。
ジョンロックはこの同意という考えについて論じた偉大な哲学者の１人だ。
同意は政治哲学の分野ではなじみ深い考えた。ロックは正当な政府は同意に基づいて設立されたものだというが、それは当然のように思える。政治哲学者の理論がこのロックの同意のように、よく知られているものである場合、その意味を理解することや、それをおもしろいと感じることは難しいかもしれない。
しかし、正当な政府の基礎としての同意についてのロックの説明には、いくつかの問題と奇妙な特徴がある。今日はその点について考えていこう。
ロックの同意の理論がどの程度が打倒で、どのような問題を抱えているか、同意に基づいて設立された正当な政府には何ができるのか、そういった政府にはどんな力があるのかを問う必要がある。
その問いに答えるためにここで、自然状態とはどんなものだったか振り返ってみよう。
私たちは社会に入るにあたり、自然状態から離れた。そこには同意があった。だが、なぜ離れ、なぜ政府などつくったのか、ロックはこう答えている。
自然状態にはいくつか不都合な点がある。
それはいったいどんなものか。主として自然状態では誰もが自然法が実行できる、ということだ。
誰もがロックが呼ぶところの自然状態の執行者であり、ロックは文字通り、処刑の執行者であることを意味していた。自然法を破った人がいたら、その人は侵略者であり、道理を超えているから君は彼を罰することができるのだ。
自然状態の中では処罰の内容を慎重に考える必要はない。君の後をつけ殺そうする人がいれば、君がその人を殺せばいい。それは自己防衛だ。自然状態では、誰もが法を執行する力や、人を処罰する権利を持っている。
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君は自分の命を奪おうとする者はもちろん、持ち物を盗もうとする泥棒もつかまえて処罰することができる。それも自然法に対する侵略とみなされるからだ。
誰かが第３者から盗んだ場合も、君がその泥棒を追うことができる。
なぜだろうか。
自然法の侵害は侵略行為だからだ。
警察組織がない、判事も陪審員もいない。だから、誰もが自分自身の判事なのだ
そして、ロックは人は自分自身の事件の判事となると、我を忘れて、自然状態に不都合を生じさせると言っている。
人々が行き過ぎた侵略や処罰をくり返すうちに、いつの間にか、生命、自由、財産に対する不過剰の権利を教授できなくなってしまうというのだ。
彼は非常に残忍な言葉を使って、自然法を侵害した人に対して何をすべきかを描写している。
人は戦いを仕掛けてくる人を破壊することができる。オオカミやライオンを殺すことができるのと同じように。そのような人には　力と暴力以外の法則はなく、だからこそ危険で有害な獣と同様に扱われる。その獣の手に人が陥れば、いつでも必ずその獣は彼を殺すに違いないからである。
自然状態は一見したところ、害のないようなもののように思える。そこでは、みんなが自由で法があり、人々の不可譲の権利は強力で、法の下で完全に守られている。
しかし、そんな害のないはずの状態もよくみていれば、とても荒々しく暴力に満ちたものだとわかる。だから、人々はその状態から離れたくなる。
どうやって離れるのか。そこで同意の出番だ。
人が自然状態から抜け出す、唯一の方法は他のみんなに同意することだ。
他のみんなとは誰か。それは協定や社会契約に参加したいと考える全ての人たちだ。社会契約に参加するために、自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。
問題は政府がどんな力を持っているか、そして多数派は何を決めることができるのか、ということだ。
ここがロックにとって注意を要するところだ。例え、多数派の支配に同意したとしても、本来私たちは自然法や不過剰の権利を持っているからだ。
覚えているだろうが、市民社会に入ったからといってそれらの権利が無効になることはない。だから、
多数派が管理する社会においても、多数派は個人の不過剰の権利、つまり、生命、自由、財産の基本的権利を侵害することはできない。
ここで疑問が生じる。
多数派はどれだけの力を持っているのか。
同意によってつくられた政府の権限はどれほど制限されているのか。
多数派には市民一人一人の基本的な自然権を尊重し、実行する義務がある。だからその力は制限されている。私たちは政府を受け入れたからと言って、権利を放棄したわけではない。これが独立宣言にいかされたロックの考え方だ。
不可譲の権利だ。
ここで少し考えてみて欲しい。富を均等に分けるのに、マイケルジョーダンとビルゲイツに反対だという人がいた。では、富を多くの人に分けるのに、少数派に課税することがなぜいけないのか、ということについて、ロックが説明していると思う人は、手をあげて。どうかな、君！
学生Ａ：もし多数派が課税すべきだと定めたとしても、少数派は必ずしも支払う必要はないと思います。それは自然権の１つである所有権を侵害することになるからです。
なるほど、君の名前は？
学生Ａ：ベンです。
つまり、もし多数派が少数派に対して同意を得ることなく、特別な課税法に基づいて課税したとすれば、それは無断で所有権をとりあげることと同じことだから、ロックはそれには反対するはずだと君は思うんだね。君の意見を文章で裏付けようと思うんだが、どうだろう。
学生Ａ：いいですね。
そうか、君がそう言うと思って持って来たんだ。
テキストの１３８節を見て欲しい。　
最高権力は本人の同意なく、人の財産を一部たりとも奪うことはできない。
なぜなら所有権を守ることが政府の目的であり、そのために人は社会に入るのだから財産を持つことが必然的に想定され、要請されているからである。
　
私たちが社会に入るのは、財産権を守るために他ならない。そしてロックがこの財産権という言葉を使う時、そこには生命、自由、財産の自然権全体が含まれている。
この１３８節の冒頭を読むかぎり、ベンの見解は正しいように思える。しかし、はたしてそうだろうか。続きを読んでみても同じことが言えるだろうか。
人は社会において所有権を持っており、物に対する権利はコミュニティの法律により、彼らのものとなる。
ここが重要だ。
だから、誰も同意なしに奪うことはできない。さらにこう続く。
ゆえに最高権力ないし立法権によって人々の財産を意のままに処分したり、欲しいままに取り上げたりすることができると考えるのは間違いである。
ここが難しいところだ、一方でロックは政府は本人の同意なしで財産を取り上げることはできないと、はっきり言っている。財産の自然権があるからだ。しかし、彼はコミュニティの法律により、それらは彼らのものになる、とも言っている。
そこからは所有権は自然のものではなく、政府が定義するものだと受け取れる。そして、さらに読み進めるとますますわからなくなる。
政府は大きな負担なしに支えられるものではない。政府の保護を教授するものは皆、その維持のための割り当てを自分の財産から支払うべきである。
ここからが重要だ
しかしそこには本人たち、または彼らに選ばれた代表者によって与えられた本人の同意、すなわち多数派の同意がなければならない。
これはどういうことか。財産はある意味では自然のものであるが、別の意味では協定のものである。自然のものというのは、私たちが不可譲の基本的権利を持っていて、そこには財産権をもっていることを政府は尊重しているからである。
だから、財産を恣意的に取り上げるのは自然法の侵害であり、違法である。しかし、さらなる問題がある。財産の協定的な側面だ。何をもって財産とするか、何をもって財産をとりあげたとみなすか。そういった定義するのは政府なのだ。
ここで、最初の質問に戻るわけだが、同意はどんな働きをするのだろうか、同意がなければ、合法的に税金を課すことはできない。それは税金を支払う本人、ビルゲイツ本人の同意ではない。私たちが自然状態を抜け出し、最初に政府をつくった時に、私たち社会に与えた全員の同意だ。
これは集合的な同意なのだ。この解釈によれば、同意の果たす役割はかなり大きく、同意によってつくられた政府はそれほど制限されていないように思える。これに対して何か疑問や意見がある人はいるかな？君！どうぞ！
学生Ｂ：政府がすでに機能している場合、政府のあるところに生まれた人たちはそこを出て、自然状態に戻ることは可能なのでしょうか？その点についてロックはどう考えていたのか疑問に思います。それには言及していなかったと思うので。
君はどう思う？
学生Ｂ：習慣があるので政府を離れるのはとても難しいと思います。なぜなら、もう誰も自然状態では暮らしていないからです。今では誰もが立法機関に統治されています。
なるほど、ありがとう。君の名前は？
学生Ｂ：ニコラです。
ニコラ、例えば君は市民社会からさりたいと思っているとする、自分の同意を撤回して、自然状態に戻りたいと、、、。
学生Ｂ：実際同意したとは思っていません。私はそこに生まれただけで参加したのは祖先です。
君は社会契約にサインしていない。私もしていない。では、ロックは何と言っているだろう。君！
学生Ｃ：ロックはサインが必要だとは言っていないと思います。これは暗黙の同意で政府のサービスを受けるのは政府に何かを奪われることに同意したのと同じです。
なるほど、暗黙の同意という意見がでた。暗黙の同意は有効ではないと思っている人もいるだろう。ニコラ！君も首を振っていたね。理由を聞かせて欲しい。
学生Ｂ（ニコラ）：ただ単に政府の様々な資源を利用しているというだけで、必ずしも政府のつくられたやり方に同意していることにはならないと思いますし、それが社会契約に参加することに同意したことを示唆するとは思いません。
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暗黙の同意に政府に従う義務を生じさせる力はないと思うんだね。
学生Ｂ（ニコラ）：はい、そう思います。
ニコラ、君はつかまらないとしても税金を払う？
学生（ニコラ）：（笑）たぶん払わないでしょう。
学生（ニコラ）：私が出展したい部門にだけお金を払うシステムがあったらいいと思います。
確定申告の時は自然状態にいた方がいいね。（会場笑い）
私が聞きたいのは実際に何かに同意したわけではないから、何の義務も負っていないのか、ということだ。しかし、君は良識的な理由で法律には従っているね。
学生（ニコラ）：その通りです。
学生Ｃ：たとえそう考えたとしても、他の誰かを奪ってはならないというロックお統治理論における社会契約を侵害しています。自然状態の中で生きたいのなら、政府のサービスを受けない替わりに自分も何も渡さないという姿勢でかまわないと思います。でも、政府から何も得ることはできません。税金のサービスを受けるためには、税金を払わなければいけないからです。
自然状態に変えるのは自由だが，道路を利用することはできないということだね。
学生Ｃ：そうです。
では、道路を使うことや、税金を徴収することよりも、もっと重い問題について話をしよう。命はどうだろう、徴兵制はどうだろう。どうぞ！
学生Ｄ：人を戦争に送ることは必ずしも彼らを死ぬことを意味しているわけではありません。生き残る可能性を高めていないことは明らかですが、それは死刑ではありません。だから、徴兵制が人々の命を抑圧しているかどうかを議論するのは正しいアプローチとは言えないと思います。ここでの本当の問題はロックの同意と自然権に関する見解です。私たちは自然権を放棄することも許されていません。では、税金や徴兵制について考える時、ロックは命の放棄や財産権の放棄をどう捉えていたのでしょうか。ロックは自殺には反対していたとは思いますが、それも各個人が同意の上で行うことです。
ありがとう。君の名前は？
学生Ｄ：エリックです。
エリックはロックを読み始めてからずっと格闘してきた疑問に引き戻してくれた。
私たちは生命、自由、財産に対する不可譲の権利を持っているが、それらを放棄する権利は持っていない。政府が制限されているのはそのためであって、私たちが制限することに同意したからではない。私たちは同意する際に権利を放棄することができないから、政府は制限され、それが正当な政府に関するロックの説明の真髄だ。
しかし、今、エリックが言っているのはこういうことだ。
もし、自殺や財産の放棄が許されないのため、どうして命の犠牲や財産の放棄を強制する多数派にしばられることに同意できるだろうか。
ロックはこれに対する答えを持っているのか、それとも、不過剰の権利を主張しながらも基本的に全権を持つ政府を認めるのだろうか。
誰かロックを弁護できる人はいないかな？あるいは自分なりに理解して解決作を見つけられる人は？はい、どうぞ。
学生Ｅ：個人が持っている生存権と政府が１人の個人の生存権を奪うことができないという事実の間に一般的な区別がつけられるべきだと思います。徴兵制が政府が特定の個人を戦争で戦わせるために使命するものだとすれば、それは彼らの生命に対する自然権の侵害になるでしょう。一方、徴兵制に例えば、くじ引きがあるとすれば、全住民が彼らの代表を選ぶとみなすでしょう。住民全員が送られたら財産権を守ることはできないので、基本的に無作為に彼らの代表を選ぶという考え方です。そして選ばれた代表が出兵して人々の権利のために戦うのです。それは僕の意見では選ばれた政府と同じように機能すると思います。
選ばれた政府はコミュニティを守るために市民を徴兵できる、ということだね。しかし、それで人々は権利を教授できるのだろうか？
学生Ｅ：できると思います。それは立法府の代表を選ぶ手順ととても似ているように思えます。
しかし、それでは政府が徴兵という形で特定の市民を選び、全体のために死なせるようなものだ。それは自由に対する自然権を尊重することと一致しているだろうか。
学生Ｅ：僕が言おうとしているのは特定の個人を選ぶことと、無作為に選ぶこととの間には違いがあるということです。
個人を選ぶことについて確認させて欲しい。君の名前は？
学生Ｅ：ゴクルです。
ゴクルは命を犠牲にするために、個人を選び出すのと、一般的に法律を持つことの間には違いがあると言っている。実際これはロックが出すだろう答えだと思う。
ロックは恣意的な政府には反対している。イラクへの戦費をまかなうために、ビルゲイツを選び出すようなやり方は反対しているし、戦地で戦わせるために特定の市民やグループを選び出すことにも反対している。しかし、一般的な法の元で、政府が選択したものや多数派が行ったことであれば、それは人々の基本的な権利を侵害することにはならない、と彼は考えている。
恣意的に財産・生命を奪うのは侵害行為だ。それは基本的に全ての人に法の支配や所有権の制度は存在しない、と言っていることになるからだ。それでは王様のきまぐれや議会のきまぐれで、私たちは君たちを指名して、所有権を放棄させたり、あるいは、命を放棄させたりするようになってしまう。
しかし、恣意的でない法の支配に下でそれをするのであれば許される。君はそれでは制限された政府とは言えないと思うかもしれない。リバタリアンはロックは結局すばらしい見方ではなかったと言うかもしれない。彼らは２つの理由でロックに失望する。
第１に、権利は不可譲だから結局自分自身を本当に所有することにはならない。自分の権利を侵害するようなやり方で生命や自由や財産を放棄することはできない。これが１つ目の理由だ。
第２に、一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。
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ロックが国王の絶対的な力を懸念していたことは明らかだ。
しかしもうひとつ確かなことがある。
これはロックの影の側面だが、
この同意の偉大な理論家が同意の必要のない私有財産を思いついたのは、前回、ロシェルが指摘してくれたように、ロックの２つ目の懸念、アメリカと関係があったのかもしれないのだ。
自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではない。全てアメリカについて話していたのだ。アメリカでは何が起きていたか。入植者は土地を囲いこみ、ネイティブアメリカンと戦っていた。植民地の管理者だったロックは同意なく土地を囲み、工作することを通じて、私有財産を正当化することに関心があったかもしれない。
それと同時に彼は君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。
今回答えが出なかった根本的な疑問は、同意はどのような働きをするか、ということだ。その道徳的な力とは何なのか、同意の限界とは何なのか。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げる。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture07「国ができる前の正義を考える」</p>
<p>ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。次回もロックについて考えるとして講義は終了する。
<p class="hiroken0"></p>
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/MGyygiXMzRk&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/MGyygiXMzRk&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture07<br />
<strong>THIS LAND IS MY LAND</strong><br />
Lecture08<br />
<strong>WHO OWNS ME?</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：54:59
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture07「国ができる前の正義を考える」</font></h2>
<p>今日はジョン・ロックを取り上げる。<br />
一見したところロックは、市場原理主義者、リバタリアンの強力な味方だ。<br />
まず、彼は今日のリバタリアンが主張しているように、ある考え方を信じていた。それは、例え代理政府や民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せない、ある種の個人の基本的な権利が存在する、というものだ。</p>
<p>それだけではなく、彼はそういった基本的な権利には、生命、自由、財産に対する「自然権」が含まれていると信じていた。<br />
さらに彼はこう論じている。<br />
財産権は単なる政府や法律の創造物ではない、と。<br />
財産を保有する権利は政治以前のものであるという意味で「自然権」である。<br />
<span id="more-3086"></span><br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
それは私たち、一人一人が人間として、本来持っている権利であって、政府が登場する前から、そして、議会や立法者が法を制定して、権利を手にする前から存在したものなのだ。</p>
<p>ロックは自然権を持つというのは、どういうことか理解するためには、政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像してみる必要があるという。彼はその状態を「自然状態」と呼んだ。</p>
<p>彼は自然状態は自由な状態だと言う。人間は自由で平等な存在だ。<br />
王様に生まれる人も入れば、農奴に生まれる人もいる。というのは間違った考え方で、私たちはあくまで自由で平等なのだ。それでも彼は自由であることと、好き勝手に行動することは違うと主張した。</p>
<p>なぜなら、自然状態であっても、ある種の法が存在するからだ。</p>
<p>それは、自然法と呼ばれるもので、立法者が制定するようなものではない。この自然法があるから、私たちは自由であっても行動は制約される。では、どんな制約があるのか。</p>
<p>自然法により、制約される行動とは！<br />
私たちの誰もが持っている権利、つまり、自然権を自ら手放すことだ、または他人から取り上げることだ。<br />
自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、もちろん、自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。</p>
<p>私たちは自由であっても、自然法侵害する自由はない。自分の人生を取り上げる自由も、自分を奴隷として売る自由も、誰かに自分を支配する絶対的な力を与える自由もない。君たちからみれば、最低限の制約かもしれないが、なぜそのような制約があるのか。</p>
<p>ロックはこうした疑問に対して２つの答えを出している。<br />
人間はすべて　唯一神　全知全能なる創造主の作品であり、彼の所有物にあって他の誰のためでもなく、彼が喜ぶ限りにおいて生存するようにつくられている。</p>
<p>つまり、我々が生命、自由、財産の自然権を手放すことができないのは、厳密にはそれらは自分のものではないからだ。結局我々は神の創造物である。そして神はより大きな財産権、優先される権利を持っている、というわけだ。</p>
<p>しかし、神を信じないものは、この答えに納得できないかもしれない。<br />
彼らにはどう説明すべきだろう。</p>
<p>ロックはここで人々の理性に訴えた。<br />
こういう考え方だ。</p>
<p>自由であることの意味をよく考えれば、それが望むことの何でもしていい、という意味ではないことはおのずとわかってくる。</p>
<p>このことを意味するロックの言葉が<br />
「自然状態には　それを統治する自然法があり、何人もそれに従わなければならない。その法である理性は人類にすべての人は平等で独立しており、他人の生命、健康、自由または財産を害するべきではない」と教えている。</p>
<p>これはロックの権利についての説明の不可解で矛盾する部分につながる。<br />
ある意味わかりやすいが、奇妙な考え方だ。</p>
<p>彼は私たちの自然権な不可譲のものと言った。<br />
不可譲とはどういう意味か、あげてしまったり、取引したり、売ったりすることができないということだ。<br />
例えば、航空券は譲渡できない。NFLのペイトリオッツやメジャーリーグのレッドソックスのチケットもそうだ。<br />
人にあげられないチケットは不可譲だ。<br />
私はそのチケットを自分で使うことはできるが、売ることはできないという限定された意味で所有されている。だからある意味で不可譲の権利、譲渡できない権利の元で私が所有しているものは、完全に私のものではないとも言える。</p>
<p>しかし、不可譲の権利を別の意味で考えると、特に生命、自由、財産の場合では、原理が不可譲のものであれば、それだけ深く完全に私のものになる。それがロック言うところの不可譲だ。</p>
<p>トーマス・ジェファーソンはアメリカ独立宣言にロックのこの考え方を活かした。<br />
アメリカ国民には生命、自由、そして幸福の追求に対する不可譲の権利がある、というものだ。<br />
不可譲の権利とは本質的に自分だけのもので、誰にも渡すことのできないものである。政府が存在する前から私たちが自然状態で持ち合わせている権利だ。私たちは他人の命を取り上げることや奴隷にすることができないように、自分の命を奪うことも、自分を奴隷として売ることもできない。</p>
<p>では、財産の場合はどうだろう。ロックの理論では私たちは政府が存在する前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。しかし、政府がない状態で私有財産が発生することなど、ありえるだろうか。</p>
<p>それに対するロックの答えは２７章にでてくる。<br />
人は誰でも、自らの一身に対する所有権を持っている。これについては彼以外の何者も権利を所有しない。彼の身体による労働、手による仕事はまさしく彼のものであるといってよい。</p>
<p>そしてロックはリバタリアンと同じような論理を展開した。</p>
<p>私たちは、自分自身を所有しているということは、自分自身の労働を所有していることにもなる。彼はさらにこう主張した。所有されていないものに私たちの労働を加えると、それは私たち自身の所有物になる。</p>
<p>自然が備えた状態から取り出すものは何でも、自分の労働を交えたものであり、彼自身の何かを付け加えたものであるから、彼の財産となる。</p>
<p>なぜか。</p>
<p>労働はその労働者の疑いの余地のない財産だから、よって彼以外の誰かが彼の労働が加えられたものに対する権利を持つことはない。だが、これには重要な但し書きがある。他者のために同じようによいものが十分に残されている限り。</p>
<p>私たちは収穫した果実やつかまえた鹿、採った魚に対してだけ、所有権を持っているわけではない。土地を耕して周りを囲み、ジャガイモを育てるのであれば、採れたジャガイモだけでなく、それを育てる土、そして、大地も所有しているのだ。</p>
<p>人が耕し、植物を育て、改善した土地から得られるものを利用するかぎり、その土地は彼の所有物である。彼の労働が加わることで、それは一般とは区別される。</p>
<p>権利は不可譲という考えはロックをリバタリアンから遠ざけるように思う。リバタリアンが言いたいのは、私たちには自分自身に対する絶対的な所有権があるから、望むことは何でもできる。とういことだ。<br />
ロックはその考え方の完全な味方ではない。実際、彼は自然権について真剣に考えれば、私たちが自然権でできることには制約があることが気付くはずだと言っている。理性によって与えらえる制約だ。自由であるとはどういうことか考えてみれば、権利は不可譲であり、そこには制約があることがわかるはずだと。</p>
<p>これがロックとリバタリアンの違いだが、ロックの私有財産の説明にあてると，再びリバタリアンのとても良い味方に見えてくる。彼は私有財産についてこう考えていた。</p>
<p>私たちは自分自身の所有者であり、その労働の所有者であり、労働の果実の所有者である。自然状態で集めたり、狩りをして手に入れたものだけでなく、囲いこみ耕した土地の所有者でもある。労働が加わったことで、誰のものでもない何かが、その人の所有物になる、という感覚が、道徳的に正当化される例はいくつかある。そして、これは時には論争の的にもなる。</p>
<p>裕福な国と発展途上国の間では、貿易に関連する知的財産権の論争がある。<br />
最近の例をあげると薬の特許法についての論争だ。</p>
<p>西側の国、特にアメリカは私たちには新薬を開発する大きな製薬業界がある。世界の全ての国に特許を尊重してもらいたい、と言った。</p>
<p>それから、南アフリカでエイズ危機が起きた。<br />
アメリカのエイズ薬はあまりにも高かったので、アフリカではそれを買える人はほとんどいなかった。そこで南アフリカ政府は言った。私たちはアメリカの抗レトルウイルス薬と同じ成分の薬をそれよりずっと安い値段で手に入れるつもりだ。その薬をつくる方法を解明したインドの製薬会社を見つけたからだ。特許を尊重しなければ、はるかに少ない金額で大勢の命を救うことができるのだ。</p>
<p>すると、アメリカ政府は言った。それはダメだ、研究に投資し、この薬をつくりだした会社はどうなる。ライセンス料を払わずに勝手に薬を製造することは許されない。こうして論争がおきた。<br />
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その製薬会社は南アフリカ政府を訴え、より安い、彼らが海賊版と考えるエイズ薬を南アフリカ政府が買うのを防ごうとした。この件は最終的にはアメリカの製薬会社が折れて解決することになる。</p>
<p>しかし、この所有権、知的財産権、薬の特許権についての論争は自然状態において、ある意味、最後の未開拓分野と言えるかもしれない。今のところ特許権や所有権に関する国家間の一律の法律はないからだ。国際的な合意により規則が制定されるまでは<br />
、その合意の仕方はまちまち、ということになる。</p>
<p>政府や法が存在しない状態でも、私有財産権が生じるロックの考え方はどうだろう。成功しているだろうか。説得力があると思う人は手をあげて。では、説得力がないと思う人は？反対意見から聞こうか？同意なしに自然財産が生じるというロックの考えはどこに問題があるのだろうか？どうぞ！</p>
<p>学生Ａ：彼はヨーロッパ人の文化的規範を正当化しようとしていると思います。ネイティブアメリカンはアメリカお土地を文明化できなかったけれど、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到着したことで、そのままでは起きなかったかもしれないアメリカの発展が出現したからです。</p>
<p>つまり、土地の所有権を守るための弁護だと思うんだね。<br />
学生Ａ：はい、到着したというだけでは、その土地を手に入れたとは言いにくいからだと思います。</p>
<p>なるほど、君の名前は？<br />
学生Ａ：ロシェルです。</p>
<p>ロシェルはヨーロッパ人が入植した頃、北米で何が起きていたかを考えると所有権に関するロックの説明はそれに適合していると言う。ロシェル、つまりそれは土地の占有を正当化するための弁護だということだね。</p>
<p>学生Ａ（ロシェル）：はい、ロックは名誉革命も正当化しています。だから植民地化を正当化することがあってもおかしくないと思います。</p>
<p>なるほど、たしかにそれはおもしろい説だね。賛成意見も多いだろう。<br />
でも、彼の議論の有効性についてはどうだろう。君の言うように、これは土地を囲っていなかったネイティブアメリカンから北米の土地を取り上げることを正当化するのかもしれない。だが、そもそもロックの理論は正しいのだろうか、それとも彼は単に道徳的に正しくない行いを正当化しようとしているだけなんだろうか。</p>
<p>学生Ａ（ロシェル）：後者だと思います。個人的な意見ですが。</p>
<p>後者か。それじゃあ次はロックの私有財産の考え方を支持する人に聞こう。ロシェルはそれはアメリカの入植者がネイティブアメリカンから土地を取り上げたことを正当化するための手段に過ぎないと言ったが、これに対する反論が聞けたらおもしろいね。ロックを弁護できる人はいないかな？君、弁護できる？</p>
<p>学生Ｂ：はい、ロックがヨーロッパ人の植民地化を正当化しようとしたという証拠はありません。たぶん植民地化は正しくないでしょう。それは彼が「統治二論（ロックの著書）」で言っていた戦争状態です。</p>
<p>つまり、ネイティブアメリカンとヨーロッパ人の入植者との間で起きたことは戦争状態だと。お互いの合意があってはじめて起こるものであり、それがなければ始まり得ないものだった。</p>
<p>学生Ｂ：そうです。双方がそれに同意しなければならなかったはずです。<br />
君の名前は？<br />
学生Ｂ：ダンです。</p>
<p>ダン、さっきロシェルにも聞いたが、土地の所有権についてのロックの議論はどうだろう。これが打倒なものなら、入植者が土地を占有して、そこから他のものから排除したことは正当化されるのだろうか。ロックの理論をどう評価する？</p>
<p>学生Ｂ（ダン）：ネイティブアメリカンはまだ占有していなかったということですよね？</p>
<p>ネイティブアメリカンは狩猟や採取を行っていたから、土地を囲ってはいなかった。ロシェルにもその点は承知していると思う，今聞きたいのは、、、。</p>
<p>学生Ｂ（ダン）：でも、ロックはある特定の土地でどんぐりを拾ったり、リンゴを摘んだり、バッフォローを殺したりすれば、労働によってその土地自体も自分のものになると言っています。だからその定義によれば、ネイティブアメリカンも周りをフェンスで囲っていなかっただけで、、、、。</p>
<p>土地を使っていた。<br />
学生Ｂ（ダン）：そうです。だったら、、、、</p>
<p>ロックの定義によれば、ネイティブアメリカンも土地の権利を主張できただろう。<br />
学生Ｂ（ダン）：でも、それを主張する人がいなかった。<br />
なるほど、ありがとう。他にロックを弁護する人は？君！</p>
<p>学生Ｃ：ロックを擁護するために言いますが、彼は他の土地を取ることができない場合もあると言っています。例えば、人々の共有財産である土地を獲得することはできません。ネイティブアメリカンの場合は自分たちの文明を持っていて、土地を共同で使っていたと思います。ですからそのような共同財産を取り上げることはできません。</p>
<p>それはおもしろいね</p>
<p>学生Ｃ：また、他の人のために土地が残されていることを確かめない限り、土地を取得することはできません。自分が取得したのと同じくらい良い土地が他の人たちのために十分に残されているかどうか確かめる必要があると思います。</p>
<p>その通りだ。ロックは土地の私有財産権には他の人のために同じくらい同じように良いものが残されている、という但し書きがると言っている。君の名前は？<br />
学生Ｃ：フェンです。<br />
フェンもある意味ダンと同じでロックと同じで、ネイティブアメリカンに有利に展開できる部分もあると言っている。</p>
<p>では、次の質問だ。<br />
私有財産権が自然に生じるものである。政府が誕生する前から、私たちが持っているものであれば、それによって政府にできることはどの程度、制約されるだろうか。ロックは政府をどう捉えていたのだろうか。その点についてはリバタリアンに同調的なのか、それとも批判的なのか、それを見極めるために自然権が社会に入ったらどうなるのかについて考えていきたい。</p>
<p>私たちは自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入った。しかし、人間と法律というのはそれが私たちの自然権を尊重し、生命、自由、財産に対する不可譲の権利を尊重する場合のみ正当なものだ。</p>
<p>どんな議会、どんな立法者、それがいかに民主的なものであっても、合法的に私たちの自然権を侵害することはできない。いかなる法律も私たちの生命、自由、財産に対する権利を侵害できない、というこの考え方は、制限された政府という考え方を主張することになるので、結局、リバタリアンを喜ばせることに見えるかもしれない。</p>
<p>しかし、リバタリアンはすぐに喜ぶべきではない。たしかにロックは政府がつくられた後も自然法は存続すると言っている。さらに彼は政府をつくる目的は主に財産権を守ることであり、政府はそれに制約されているということを強く主張した。</p>
<p>しかし、一方で、何をもって所有権とするか、どうすれば生命や自由を尊重していることになるのか、そういったことを定義するのは政府だ。私たちの財産や生命、自由が尊重されている以上、政府にできることは限られているように思える。しかし、その一方で、何をもって私たちの生命や財産が尊重されているとみなすかを決めるのは政府なのだ。</p>
<p>そんなことが可能なのか、矛盾しているのではないか。それともここには重要な区別があるのだろうか。</p>
<p>ロックの見方がリバタリアンと一致するかどうか詳しく確かめるため、次回はロックの考える正当な政府とどんなものか詳しくみていこう。</p>
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<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」</p>
<p>ジョン・ロックは同意という考えについて論じた偉大な哲学者の１人だ。そもそも自然状態では人々が行き過ぎた自然法の侵略行為が行われ、ともて暴力に満ちたものだ。だから自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。ここがリバタリアニズムと違うところだ。ロックの考えの根底には君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。さらに自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではなく、全てアメリカについて話していた。このことも頭に入れてロックをよむべきかもしれない。今回残念ながら答えが出なかったのは、同意はどのような働きをするか、同意の限界とは何なのかだ。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げるとして講義は終了する。</p>
<p class="hiroken0">
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<h2><font color="#aa1525">Lecture08「同意と契約によってつくられた公平さ」</font></h2>
<p>前回の講義で、私たちはロックの自然状態、私有財産についての説明、そして、同意による制限された正当な政府とはいかなるものかといったことを議論し始めた。ロックは人間には政府を制約するある種の根本的な権利があると信じている。そして、その権利は生まれながらのもので、法律や政府に由来するものではないと言っている。</p>
<p>彼の行った偉大な哲学的実験は政府や立法者が所有権を定義する前に、同意なしで私有財産を持つことは可能なのか、ということを確かめようとするものだった。それが彼の疑問であり主張したかったことだ。</p>
<p>ロックは他者のために同様の土地が十分に残されている場合に限り、私たちは狩猟や採集の青果だけでなく、土地そのものも所有することができると論じた。今日はロックの哲学の２つ目の重要な問題である同意の問題に取り組みたい。ちなみに１つめは私有財産だった。</p>
<p>同意の働きとは何だろうか。ここにいる君たちもこの講義の初日に同意という言葉を使った。覚えているかな？太った男を橋から突き落とすという話をしていた時、彼は同意していなかった、と言った人がいた。また、海で遭難した男たちが少年を殺して食べた話では、彼らがくじびきで同意していたら問題はなかった、という意見が出た。</p>
<p>ジョンロックはこの同意という考えについて論じた偉大な哲学者の１人だ。</p>
<p>同意は政治哲学の分野ではなじみ深い考えた。ロックは正当な政府は同意に基づいて設立されたものだというが、それは当然のように思える。政治哲学者の理論がこのロックの同意のように、よく知られているものである場合、その意味を理解することや、それをおもしろいと感じることは難しいかもしれない。</p>
<p>しかし、正当な政府の基礎としての同意についてのロックの説明には、いくつかの問題と奇妙な特徴がある。今日はその点について考えていこう。</p>
<p>ロックの同意の理論がどの程度が打倒で、どのような問題を抱えているか、同意に基づいて設立された正当な政府には何ができるのか、そういった政府にはどんな力があるのかを問う必要がある。<br />
その問いに答えるためにここで、自然状態とはどんなものだったか振り返ってみよう。</p>
<p>私たちは社会に入るにあたり、自然状態から離れた。そこには同意があった。だが、なぜ離れ、なぜ政府などつくったのか、ロックはこう答えている。</p>
<p>自然状態にはいくつか不都合な点がある。<br />
それはいったいどんなものか。主として自然状態では誰もが自然法が実行できる、ということだ。</p>
<p>誰もがロックが呼ぶところの自然状態の執行者であり、ロックは文字通り、処刑の執行者であることを意味していた。自然法を破った人がいたら、その人は侵略者であり、道理を超えているから君は彼を罰することができるのだ。</p>
<p>自然状態の中では処罰の内容を慎重に考える必要はない。君の後をつけ殺そうする人がいれば、君がその人を殺せばいい。それは自己防衛だ。自然状態では、誰もが法を執行する力や、人を処罰する権利を持っている。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
君は自分の命を奪おうとする者はもちろん、持ち物を盗もうとする泥棒もつかまえて処罰することができる。それも自然法に対する侵略とみなされるからだ。</p>
<p>誰かが第３者から盗んだ場合も、君がその泥棒を追うことができる。<br />
なぜだろうか。</p>
<p>自然法の侵害は侵略行為だからだ。<br />
警察組織がない、判事も陪審員もいない。だから、誰もが自分自身の判事なのだ<br />
そして、ロックは人は自分自身の事件の判事となると、我を忘れて、自然状態に不都合を生じさせると言っている。<br />
人々が行き過ぎた侵略や処罰をくり返すうちに、いつの間にか、生命、自由、財産に対する不過剰の権利を教授できなくなってしまうというのだ。</p>
<p>彼は非常に残忍な言葉を使って、自然法を侵害した人に対して何をすべきかを描写している。<br />
人は戦いを仕掛けてくる人を破壊することができる。オオカミやライオンを殺すことができるのと同じように。そのような人には　力と暴力以外の法則はなく、だからこそ危険で有害な獣と同様に扱われる。その獣の手に人が陥れば、いつでも必ずその獣は彼を殺すに違いないからである。</p>
<p>自然状態は一見したところ、害のないようなもののように思える。そこでは、みんなが自由で法があり、人々の不可譲の権利は強力で、法の下で完全に守られている。<br />
しかし、そんな害のないはずの状態もよくみていれば、とても荒々しく暴力に満ちたものだとわかる。だから、人々はその状態から離れたくなる。</p>
<p>どうやって離れるのか。そこで同意の出番だ。<br />
人が自然状態から抜け出す、唯一の方法は他のみんなに同意することだ。</p>
<p>他のみんなとは誰か。それは協定や社会契約に参加したいと考える全ての人たちだ。社会契約に参加するために、自然状態の執行力を放棄して、政府やコミュニティをつくり、多数派が決めたことは何であれ、従うことに同意しなければならない。</p>
<p>問題は政府がどんな力を持っているか、そして多数派は何を決めることができるのか、ということだ。<br />
ここがロックにとって注意を要するところだ。例え、多数派の支配に同意したとしても、本来私たちは自然法や不過剰の権利を持っているからだ。</p>
<p>覚えているだろうが、市民社会に入ったからといってそれらの権利が無効になることはない。だから、<br />
多数派が管理する社会においても、多数派は個人の不過剰の権利、つまり、生命、自由、財産の基本的権利を侵害することはできない。<br />
ここで疑問が生じる。</p>
<p>多数派はどれだけの力を持っているのか。<br />
同意によってつくられた政府の権限はどれほど制限されているのか。</p>
<p>多数派には市民一人一人の基本的な自然権を尊重し、実行する義務がある。だからその力は制限されている。私たちは政府を受け入れたからと言って、権利を放棄したわけではない。これが独立宣言にいかされたロックの考え方だ。</p>
<p>不可譲の権利だ。</p>
<p>ここで少し考えてみて欲しい。富を均等に分けるのに、マイケルジョーダンとビルゲイツに反対だという人がいた。では、富を多くの人に分けるのに、少数派に課税することがなぜいけないのか、ということについて、ロックが説明していると思う人は、手をあげて。どうかな、君！</p>
<p>学生Ａ：もし多数派が課税すべきだと定めたとしても、少数派は必ずしも支払う必要はないと思います。それは自然権の１つである所有権を侵害することになるからです。</p>
<p>なるほど、君の名前は？<br />
学生Ａ：ベンです。<br />
つまり、もし多数派が少数派に対して同意を得ることなく、特別な課税法に基づいて課税したとすれば、それは無断で所有権をとりあげることと同じことだから、ロックはそれには反対するはずだと君は思うんだね。君の意見を文章で裏付けようと思うんだが、どうだろう。</p>
<p>学生Ａ：いいですね。<br />
そうか、君がそう言うと思って持って来たんだ。</p>
<p>テキストの１３８節を見て欲しい。　<br />
最高権力は本人の同意なく、人の財産を一部たりとも奪うことはできない。<br />
なぜなら所有権を守ることが政府の目的であり、そのために人は社会に入るのだから財産を持つことが必然的に想定され、要請されているからである。<br />
　<br />
私たちが社会に入るのは、財産権を守るために他ならない。そしてロックがこの財産権という言葉を使う時、そこには生命、自由、財産の自然権全体が含まれている。</p>
<p>この１３８節の冒頭を読むかぎり、ベンの見解は正しいように思える。しかし、はたしてそうだろうか。続きを読んでみても同じことが言えるだろうか。</p>
<p>人は社会において所有権を持っており、物に対する権利はコミュニティの法律により、彼らのものとなる。</p>
<p>ここが重要だ。</p>
<p>だから、誰も同意なしに奪うことはできない。さらにこう続く。</p>
<p>ゆえに最高権力ないし立法権によって人々の財産を意のままに処分したり、欲しいままに取り上げたりすることができると考えるのは間違いである。</p>
<p>ここが難しいところだ、一方でロックは政府は本人の同意なしで財産を取り上げることはできないと、はっきり言っている。財産の自然権があるからだ。しかし、彼はコミュニティの法律により、それらは彼らのものになる、とも言っている。</p>
<p>そこからは所有権は自然のものではなく、政府が定義するものだと受け取れる。そして、さらに読み進めるとますますわからなくなる。</p>
<p>政府は大きな負担なしに支えられるものではない。政府の保護を教授するものは皆、その維持のための割り当てを自分の財産から支払うべきである。</p>
<p>ここからが重要だ</p>
<p>しかしそこには本人たち、または彼らに選ばれた代表者によって与えられた本人の同意、すなわち多数派の同意がなければならない。</p>
<p>これはどういうことか。財産はある意味では自然のものであるが、別の意味では協定のものである。自然のものというのは、私たちが不可譲の基本的権利を持っていて、そこには財産権をもっていることを政府は尊重しているからである。</p>
<p>だから、財産を恣意的に取り上げるのは自然法の侵害であり、違法である。しかし、さらなる問題がある。財産の協定的な側面だ。何をもって財産とするか、何をもって財産をとりあげたとみなすか。そういった定義するのは政府なのだ。</p>
<p>ここで、最初の質問に戻るわけだが、同意はどんな働きをするのだろうか、同意がなければ、合法的に税金を課すことはできない。それは税金を支払う本人、ビルゲイツ本人の同意ではない。私たちが自然状態を抜け出し、最初に政府をつくった時に、私たち社会に与えた全員の同意だ。</p>
<p>これは集合的な同意なのだ。この解釈によれば、同意の果たす役割はかなり大きく、同意によってつくられた政府はそれほど制限されていないように思える。これに対して何か疑問や意見がある人はいるかな？君！どうぞ！</p>
<p>学生Ｂ：政府がすでに機能している場合、政府のあるところに生まれた人たちはそこを出て、自然状態に戻ることは可能なのでしょうか？その点についてロックはどう考えていたのか疑問に思います。それには言及していなかったと思うので。</p>
<p>君はどう思う？</p>
<p>学生Ｂ：習慣があるので政府を離れるのはとても難しいと思います。なぜなら、もう誰も自然状態では暮らしていないからです。今では誰もが立法機関に統治されています。</p>
<p>なるほど、ありがとう。君の名前は？<br />
学生Ｂ：ニコラです。</p>
<p>ニコラ、例えば君は市民社会からさりたいと思っているとする、自分の同意を撤回して、自然状態に戻りたいと、、、。<br />
学生Ｂ：実際同意したとは思っていません。私はそこに生まれただけで参加したのは祖先です。</p>
<p>君は社会契約にサインしていない。私もしていない。では、ロックは何と言っているだろう。君！</p>
<p>学生Ｃ：ロックはサインが必要だとは言っていないと思います。これは暗黙の同意で政府のサービスを受けるのは政府に何かを奪われることに同意したのと同じです。</p>
<p>なるほど、暗黙の同意という意見がでた。暗黙の同意は有効ではないと思っている人もいるだろう。ニコラ！君も首を振っていたね。理由を聞かせて欲しい。<br />
学生Ｂ（ニコラ）：ただ単に政府の様々な資源を利用しているというだけで、必ずしも政府のつくられたやり方に同意していることにはならないと思いますし、それが社会契約に参加することに同意したことを示唆するとは思いません。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
暗黙の同意に政府に従う義務を生じさせる力はないと思うんだね。<br />
学生Ｂ（ニコラ）：はい、そう思います。<br />
ニコラ、君はつかまらないとしても税金を払う？<br />
学生（ニコラ）：（笑）たぶん払わないでしょう。</p>
<p>学生（ニコラ）：私が出展したい部門にだけお金を払うシステムがあったらいいと思います。<br />
確定申告の時は自然状態にいた方がいいね。（会場笑い）</p>
<p>私が聞きたいのは実際に何かに同意したわけではないから、何の義務も負っていないのか、ということだ。しかし、君は良識的な理由で法律には従っているね。<br />
学生（ニコラ）：その通りです。</p>
<p>学生Ｃ：たとえそう考えたとしても、他の誰かを奪ってはならないというロックお統治理論における社会契約を侵害しています。自然状態の中で生きたいのなら、政府のサービスを受けない替わりに自分も何も渡さないという姿勢でかまわないと思います。でも、政府から何も得ることはできません。税金のサービスを受けるためには、税金を払わなければいけないからです。</p>
<p>自然状態に変えるのは自由だが，道路を利用することはできないということだね。<br />
学生Ｃ：そうです。<br />
では、道路を使うことや、税金を徴収することよりも、もっと重い問題について話をしよう。命はどうだろう、徴兵制はどうだろう。どうぞ！</p>
<p>学生Ｄ：人を戦争に送ることは必ずしも彼らを死ぬことを意味しているわけではありません。生き残る可能性を高めていないことは明らかですが、それは死刑ではありません。だから、徴兵制が人々の命を抑圧しているかどうかを議論するのは正しいアプローチとは言えないと思います。ここでの本当の問題はロックの同意と自然権に関する見解です。私たちは自然権を放棄することも許されていません。では、税金や徴兵制について考える時、ロックは命の放棄や財産権の放棄をどう捉えていたのでしょうか。ロックは自殺には反対していたとは思いますが、それも各個人が同意の上で行うことです。</p>
<p>ありがとう。君の名前は？<br />
学生Ｄ：エリックです。</p>
<p>エリックはロックを読み始めてからずっと格闘してきた疑問に引き戻してくれた。</p>
<p>私たちは生命、自由、財産に対する不可譲の権利を持っているが、それらを放棄する権利は持っていない。政府が制限されているのはそのためであって、私たちが制限することに同意したからではない。私たちは同意する際に権利を放棄することができないから、政府は制限され、それが正当な政府に関するロックの説明の真髄だ。</p>
<p>しかし、今、エリックが言っているのはこういうことだ。<br />
もし、自殺や財産の放棄が許されないのため、どうして命の犠牲や財産の放棄を強制する多数派にしばられることに同意できるだろうか。<br />
ロックはこれに対する答えを持っているのか、それとも、不過剰の権利を主張しながらも基本的に全権を持つ政府を認めるのだろうか。</p>
<p>誰かロックを弁護できる人はいないかな？あるいは自分なりに理解して解決作を見つけられる人は？はい、どうぞ。</p>
<p>学生Ｅ：個人が持っている生存権と政府が１人の個人の生存権を奪うことができないという事実の間に一般的な区別がつけられるべきだと思います。徴兵制が政府が特定の個人を戦争で戦わせるために使命するものだとすれば、それは彼らの生命に対する自然権の侵害になるでしょう。一方、徴兵制に例えば、くじ引きがあるとすれば、全住民が彼らの代表を選ぶとみなすでしょう。住民全員が送られたら財産権を守ることはできないので、基本的に無作為に彼らの代表を選ぶという考え方です。そして選ばれた代表が出兵して人々の権利のために戦うのです。それは僕の意見では選ばれた政府と同じように機能すると思います。</p>
<p>選ばれた政府はコミュニティを守るために市民を徴兵できる、ということだね。しかし、それで人々は権利を教授できるのだろうか？<br />
学生Ｅ：できると思います。それは立法府の代表を選ぶ手順ととても似ているように思えます。</p>
<p>しかし、それでは政府が徴兵という形で特定の市民を選び、全体のために死なせるようなものだ。それは自由に対する自然権を尊重することと一致しているだろうか。</p>
<p>学生Ｅ：僕が言おうとしているのは特定の個人を選ぶことと、無作為に選ぶこととの間には違いがあるということです。</p>
<p>個人を選ぶことについて確認させて欲しい。君の名前は？</p>
<p>学生Ｅ：ゴクルです。</p>
<p>ゴクルは命を犠牲にするために、個人を選び出すのと、一般的に法律を持つことの間には違いがあると言っている。実際これはロックが出すだろう答えだと思う。</p>
<p>ロックは恣意的な政府には反対している。イラクへの戦費をまかなうために、ビルゲイツを選び出すようなやり方は反対しているし、戦地で戦わせるために特定の市民やグループを選び出すことにも反対している。しかし、一般的な法の元で、政府が選択したものや多数派が行ったことであれば、それは人々の基本的な権利を侵害することにはならない、と彼は考えている。</p>
<p>恣意的に財産・生命を奪うのは侵害行為だ。それは基本的に全ての人に法の支配や所有権の制度は存在しない、と言っていることになるからだ。それでは王様のきまぐれや議会のきまぐれで、私たちは君たちを指名して、所有権を放棄させたり、あるいは、命を放棄させたりするようになってしまう。</p>
<p>しかし、恣意的でない法の支配に下でそれをするのであれば許される。君はそれでは制限された政府とは言えないと思うかもしれない。リバタリアンはロックは結局すばらしい見方ではなかったと言うかもしれない。彼らは２つの理由でロックに失望する。</p>
<p>第１に、権利は不可譲だから結局自分自身を本当に所有することにはならない。自分の権利を侵害するようなやり方で生命や自由や財産を放棄することはできない。これが１つ目の理由だ。</p>
<p>第２に、一度同意に基づいた政府が誕生したら、ロックが考えるのは生命や自由、財産を恣意的に取り上げることを制限することだけだ。しかし過半数の決定によって一般に適応できる法律が公布され、それが公正な手続きによって正式に選ばれたものであるならば、課税であろうと徴兵であろうと権利の侵害にはあたらない。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ロックが国王の絶対的な力を懸念していたことは明らかだ。<br />
しかしもうひとつ確かなことがある。<br />
これはロックの影の側面だが、<br />
この同意の偉大な理論家が同意の必要のない私有財産を思いついたのは、前回、ロシェルが指摘してくれたように、ロックの２つ目の懸念、アメリカと関係があったのかもしれないのだ。</p>
<p>自然状態について話す時、彼は想像の場所について語っていたわけではない。全てアメリカについて話していたのだ。アメリカでは何が起きていたか。入植者は土地を囲いこみ、ネイティブアメリカンと戦っていた。植民地の管理者だったロックは同意なく土地を囲み、工作することを通じて、私有財産を正当化することに関心があったかもしれない。</p>
<p>それと同時に彼は君主や恣意的な支配者の力が制限された同意に基づく政府の理論を発展させることにも関心があった。</p>
<p>今回答えが出なかった根本的な疑問は、同意はどのような働きをするか、ということだ。その道徳的な力とは何なのか、同意の限界とは何なのか。同意は政府にとってだけでなく、市場にとっても重要なものだ。次回はものを売買する時に生じる同意の限界の問題を取り上げる。</p>
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		<title>JUSTICE 第１２回(終)「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:50:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
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		<description><![CDATA[Lecture23＋Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」
私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。それを明らかにするために同性結婚について考える。同性結婚は道徳的にも宗教的にも論争の的となっている。まず、多くの人は結婚は道徳的、宗教的に男女間に限るべきだとまず思うだろう。同時に多くの人は同性結婚も異性結婚と等しく扱われるべきだという。こちらも道徳的、宗教的な信念を持っている。１つの要点として、どう選択するかが道徳的に価値があるのではなく、個人が様々なことを選択できる権利があるかどうかが問題となっている。道徳的に同性結婚は間違っていると思う者でも、２人の男性が結婚したいと思っているのに、自分がなぜそのことに反対できるのかわからないと答えた。同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。ジャーナリストのマイケル・キンズリーは国の機能としての結婚の廃止に賛成している。彼は同性結婚に反対しているわけだが、その理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。ではここで結婚の目的を考えてみよう。多くの人はまず、子供を生んで育てること、つまり生殖を考えるだろう。しかし、不妊カップルの結婚を我々は認めるだろう。あるいは、閉経後の女性との年配結婚、死に瀕した者との結婚などを考えると、生殖が結婚の目的ではないような気がしてくる。では、同性結婚の問題に裁判所はどう判決を下すだろうか。マサチューセッツ州に対し結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたグッドリッチという男性の訴訟を考える。裁判所はまずは、中立性を考えたが結論は違った。結婚の目的は生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点だとし、名誉を重要視した。裁判所は結婚は、個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。結婚を望む２人とそれを承認する国家の３者の関わり。結婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。この見解は中立性を超えている。同性結婚を公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定したのだ。実はサンデル教授は中立的な立場に反対だ。中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚を正当化することはできない。問題となるのは同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうかだ。サンデル教授は中立的に反対なのは、同性結婚の話に限らない。私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自律の問題だから、我々はどの立場も取らないと言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできなかったのだ。
Lecture24後半「サンデル教授の正義」
私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり（懐疑主義）、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture23
 DEBATING SAME-SEX MARRIAGE
Lecture24
 THE GOOD LIFE　



時間：55:11











Lecture23：DEBATING SAME-SEX MARRIAGE
前回は自己の物語的観念について議論した。そして、同意とは無関係に生じる非連帯や集団の構成員としての義務について考えてきた。そうした義務は私たちが交した契約や合意、あるいは選択とは別の理由で生じるものだった。そして私たちにはこの種の義務があるかどうか、あるいは全ての連帯や集団の構成員としての義務は同意、相互性、もしくは私たちが人として、人に負っている普遍的な義務につながるかどうか議論した。
君たちの中には忠誠心や愛国心を擁護する人たちがいた。すると、忠誠心や集団の構成員であるという考えは私たちの議論の中で道徳的に訴える力を持ち始めた。そして、講義の最後に私たちがその考えの反証と思われるもの、つまり、１９５０年代のアメリカ南部の人種分離主義者の証言映像をみた。
彼らは自らの伝統や歴史、そして生活と密接に関わるアイデンティティについて語っていた。南部の人種分離主義者にとって、その歴史や物語的なアイデンティティから生じるのはどんなものだったのか。彼らは自分たちの生活様式を守りたいと言った。これは自己の物語的観念に対する決定的な反論なのだろうか。それが私たちに残された問題だった。
今日は議論を進め、君たちがどう受け取るか見たいと思う。議論の内容はこうだ。

私は個人についての守秘主義的観念に対して、個人の物語観念を弁護したい。我々には連帯や集団の構成員としての義務があるという考え方を弁護したいのだ。そして、そのような義務が存在することが次ような考えを強めるということを信じたい。
それは正義について議論する時、結局、善の問題から離れることはできない、という考え方だ。
しかし、私は正義と善を結びつける２つの方法を区別し、そのうちの１つを支持したい。カントとロールズの人格についての守秘主義的な観念は強力で開放的なものだった。さらに魅力的なのはその普遍的な面が、つまり、偏見や差別なしに個人を個人として扱うという考え方だ。
君たちの内の何人かは集団の構成員としての義務はあっても、それは普遍的な義務、つまり、私たちが人類に対して負っている義務に、いつも劣るに違いないと論じたが、それはこの考えからきているのだと思う、だが、それは正しいのか。
私たちの普遍的な忠誠心が常に特定の人への忠誠心を優先しなくてはならないのなら、友人と知らない人との違いは乗り越えるべきだということになってしまう。友人への特別な配慮は偏見になり、いかに人類全体への配慮に対して考えていないことがわかるものさしになってしまう。
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この考え方はどのような道徳的無知、どのような道徳的想像力に私たちを導くだろうか、啓蒙思想家モンテスキューはこの容赦なく不変化しようとする傾向が、道徳的想像力をどこに導くのかについて、おそらく最も強力で最も正直な説明をしている、彼はこう表現した。
本当の有徳な人は最も他人を助けるためには友人に対するのと同様に迅速にかけつける。そして彼はこう付け加えた。完全に有徳な人に友人はいないだろう。
しかし、人々が有徳過ぎて友人が必要なくなり、普遍的な友情だけが残るような世界は想像しがたい。問題はそのような世界をつくるのは難しいとか、非現実的だと言うような、単純なものではない。
もっと深刻な問題はそのような世界は人類の世界として認識しがたいということだ。人類愛は気高い感情だが、多くの場合、私たちはもっと小さな連帯で暮らしている。これは道徳的に共感できる範囲の限界を反映しているだけではない。さらに重要なことに私たちが人類を愛することを一般論ではなく、特定の表現を通じて、学ぶという事実も反映しているのだ。こういったことは考慮すべき事柄ではあるが、決定的な議論ではない。道徳哲学に決定的な議論というものは存在せず、そこにあるのは、私たちがずっと話し合ったきたような交流事項だけだ。
さて、個人と義務の構図が正しいかどうか、評価する１つの方法はそれが正義にどうのような影響を及ぼすかみることだ。
正義に深刻な問題をもたらす例として、人種分離主義者の話に戻ろう。伝統的な生活を守りたいと望む人種分離主義者たちを私たちは賞賛するのだろうか。私たちが連帯や集団の構成員という考え方を受け入れたとすればどうだろうか？南部の人種分離主義者を含む、特定のコミュニティや伝統を含む正義が何であれ、正義は善と結びついている、と言っていることになるのだろうか。
ここで重要なことは正義と善を結びつける２つの方法を区別することだ。１つは相対主義的な方法で権利を考えるため、正義を考えるために、ある時代のあるコミュニティに広がっている価値観に頼る方法である。
その価値観を外部の基準で判断してはならない。そうではなく、正義を特定の文化の共通認識に忠実なものとして受け止めなければならない。しかし、この方法で正義を善と結びつけるには問題がある。なぜなら、正義を全く監修的な環境の産物にしてしまい、その非常に重要な特徴を奪ってしまうからだ。
しかし、正義を善と結びつけ、密接な関係と結びつける２つ目の方法がある。
正義の原理を正当化するために、特定の時代の特定の場所に広がっている価値観に頼ることはない。そうではなく、権利がもたらす道徳的な価値や目的に内在する善に頼るのだ。この非相対主義的な見方では権利を承認するかどうかは、それが何か重要な人類の善を促進するかで決まる。
もし、コミュニタリアニズムが正義の定義を特定のコミュニティにゆだねることを意味するのならば、この正義を善と結びつける２つ目の方法は厳密に言えば、コミュニタリアニズムではない。これから正義を善を結びつける２つの方法のうち、１つ目が不十分であることを示したい。
それは、正義を監修の創造物にしてしまう。それは伝統的な暮らしを守りたいと考える。南部の人種主義者を論破するのに、十分な道徳的論拠を与えてくれない。
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一方、正義が非相対主義的な方法で善を結びつくとすれば、難しい問題が残る。善を論じる方法はあるのか、善の概念は人によって異なるという事実はどうなるのか、人々は主要な社会制度の目的が何なのか、どんな社会の善や人類の善に名誉を与えるべきか、といった点について異なる考えを持っている。
私たちは多元的な社会に暮らしており、人々の間で善についての合意は存在いない。だから、特定の目的な善に依存しない、正義や原理を見つけようとするのだ。
善を論じる方法はあるのか、その質問に取りかかる前に、もう少し簡単な質問をしてみよう。正義を議論する上で善について議論することは避けられないのだろうか、私の答えはイエスだ。それは避けられないことであり、必要なことだ。
今日の残りの時間で私は正義について議論する上で、善や意図、目的について論じることは避けられないことであり、必要なことでだという主張を進めていきたいと思う。それを明らかにするために、これから同性結婚について議論を始めたい。
さて、同性結婚は道徳的にも、宗教的にも、論争の的となり、大きな物議をかもす見解を導き出している。従って同性愛が道徳的に許されるかどうか、社会制度として適切な結婚の目的は何なのか、といった代理論になる道徳的、宗教的な問題について社会全体としての判断がなくても、正義や権利の概念を構築することが、強く望まれるのだ。
これらの道徳的、宗教的紛争を社会全体として解決することを求めることなく、人々の権利を定義することができるなら、それはとても魅力的だろう。
では、これから同性結婚の事例を使って、同性愛は道徳的に許されるのか、結婚の目的は何なのか、といった個人の見解を国家が同性結婚を認めるべきかいなか、という問題から切り離すことが可能かどうか、みていきたいと思う。では、はじめよう。
まずは同性結婚はあるべきではない、と考える人。国は男女間結婚のみ認めるべきだと信じている人の意見を聞きたい。ボランティアはいるかな？この講義のブログで自分たちの意見をすでに表明した２人に頼んでおいたんだが、、、マークとライアンはどこにいるだろう。君がマークか、ライアンは？君か！ではマークから始めよう。
学生Ａ（マーク）：僕はセックスの目的、結婚の目的について、目的論的な理解をしています。僕のようなキリスト教徒でカトリックでもある人間にとって、セックスの第１の目的は生殖です。そして、もう１つの目的は結婚という制度の中で男性と女性を結びつけることです。
つまり、君は人間の生活度は生殖と深く結びついているというある種、つまりテロスの概念を持っているんだね。
学生Ａ（マーク）：はい。
すると、社会の制度としての結婚の目的はテロスを表現し、その目的、すなわち生殖という目的に名誉を与えることにある。君が言いたいのはそういうことかな。
学生Ａ（マーク）：はい。
ライアン、どうぞ、君もマークと同じ意見だろうか。
学生Ｂ（ライアン）：はい、結婚の理念は生殖と関係していると思います。同性愛者がかけおちして、一緒に住むことに問題はありません。しかし、政府にそれを後押しする責任はないと思います。
政府は結婚の承認を与えることで、同性愛の行動を促すべきではない、ということです。禁止するのは間違いでしょうが、後押しする必要もありません。
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誰か意見のある人は？ハナ！どうぞ！
学生Ｃ（ハナ）：マークに質問です。例えば、あなたが女性と結婚したとして、結婚後に自分たちが不妊のカップルであることが明らかになったとします。その行為から子供から生まれない場合に、セックスは違法だとすべきだと思いますか？
学生Ａ（マーク）：その必要はないと思います。だからさっき、セックスの目的を２つあげたのです。年老いたカップルも結婚することができると思います。既に閉経を迎え、子供を生むことができない女性もです。セックスには生殖を超えた目的があると思うからです。
学生Ｃ（ハナ）：失礼ですが、マスターベーションをしたことは？（会場笑い）
ちょっと待って、それには答えなくていい（会場笑い）
君の質問は、、（会場笑い）、、わかった、ちょっと静かに（会場笑い）、君は質問を、、
学生Ａ（マーク）：その質問に答えたいと思います。
いや、それは、、、、ちょっと待って！！（会場笑い）君たちはこの学期中とてもよくやってきた。大学で話し合えるとは思えないような問題を扱い、今もとてもうまくやっている。ただ、君はいいところをついている。でも、それを一般的な議論として言ってくれないかな？（会場笑い）個人を問いつめるのではなく。論点をはっきりさせて欲しい。君が考えている論拠は何だろうか？
学生Ｃ（ハナ）：はい、聖書では、、、
３人称でね、、あくまでも３人称で、、、（会場笑い）、、２人称ではなく、、、
学生Ｃ（ハナ）：わかりました。聖書ではマスターベーションは許されていません。子供の誕生につながらなければ、地上にあなたの種をこぼすことになるからです。でも、私が指摘したいのは、あなたが子供を生み出さない場合や結婚の絆を強めることがない場合のセックスは間違っていることです。どうして、間違っていると言えるのでしょうか。マスターベーションが明らかに子供を生み出さないのに、許されているではありませんか。
学生Ａ（マーク）：結婚は社会が美徳と考えているものを制度にしたものだと思います。たしかに僕たちは毎日、期待通りには生きられません。人には多くの点で足りないところがあります。誰かに道徳的な決定があったからと言って、その人の議論する権利が奪われることはないと思います。
ありがとう、君たちにはそこにいてもらいたい。そのまま、他の意見を聞いていこう。君！
学生Ｄ：マスターベーションへの答えは、、、
名前は？
学生Ｄ：スティーブです。
どうぞ。
学生Ｄ（スティーブ）：マスターベーションは人が許可するようなものではありませんし、同性愛のセックスは許されないと議論する人もいないと思います。マスターベーションをする人が自分自身と結婚することを社会が認めないだけです。
なるほど、ハナ。（会場笑い）
スティーブはいい意見を述べてくれた。（会場笑い）
スティーブはここには２つの問題があることを示唆している。１つは様々な行為を道徳的に許すかどうかという問題、もう１つは道徳的な面とは関係なく、ある行為が国が結婚という名誉と承認を与えることに適合性があるかという問題、スティーブはとてもいい反論をしているが、君はこれに何と答える？
学生Ｃ（ハナ）：人間の性機能はほとんどの人が生まれつき持っているもので、性活動は避けることのできないものです。マスターベーションについては、たしかに自分自身と結婚することはできません、しかし、同性愛者も同じ人間ですから、なぜ彼らが結婚できないのか、私には理解できません。もし、あなたが自分自身と結婚したいと言っても、法的には無理かもしれないけど（笑）、私はかまいません。
待って待って！私たちは今、立法者のように法がどうあるべきか決めようとしている。
スティーブにそれは構わないと言った。立法者としての君は自分自身と結婚できる法律に賛成票を投じるということかね？
学生Ｃ（ハナ）：そんなことが実際に起きるわけはないと思いますが、私としては原理上はスティーブが自分自身と結婚したいのなら、私は止めません。
君は国家の承認を与えるんだね。彼の単独結婚に。（会場笑い）
学生Ｃ（ハナ）：もちろんです。
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では、合意に基づく一夫多妻結婚はどうだろう。
複数の妻と１人の夫、あるいは複数の夫と１人の妻が同意するのであれば、許されるべきだと思います。
他の人の意見を聞いてみよう。はい、君！名前は
学生Ｄ：ビクトリアです。私たちは結婚の目的論的論法について話していますが、問題はカトリックの立場で話していることだと思います。他の宗教を信仰している人や、無神論者にとては結婚の目的が全くことなる可能性があります。政府にこの国全ての人にカトリックの目的論的論法を押し付ける必要はありません。ですから、同性結婚を認めないのは受け入れられません。それぞれの信仰をとやかく言うつもりはありませんが、同性のパートナーシップ制度、シビルユニオンはカトリックの教会では結婚とは認められません。国には望む人が誰であれシビルユニオンを認める権利がありますが、少数派であれ多数派であれ、国内で特定の信仰を押し付ける権利はないと思います。
なるほど、国は同性結婚を認めるべきだと思うかね。それとも厳密には婚姻ではない、シビルユニオンだけを認めるべきなのか。
学生Ｄ（ビクトリア）：教会は国の場所ではないので、国が教会での同性結婚を認める権利を持つとは思いません。しかし、シビルユニオンは宗教の下ではないことを除けが本質的には同じものだと思いますし、国にはそれを認める権利があると思います。
つまり、国は結婚のテロスが何であるかを判断しようとすべきではなく、それは宗教的なコミュニティだけが決めることのできるものだということだね。他には？
学生Ｅ：私にはそもそもが国が結婚を認めるべきだと考える理由がわかりません。国はいかなる結婚でも認めるべきではないと投票した７０人のうちの１人です。結婚は男性と女性の結びつき、もしくは２人の男性、あるいは２人の女性の結びつきですが、国かと結びつく許可をもらう理由はないと思います。国が結婚を認めれば、拘束力が生まれ、子供のためにもなるという人もいるかもしれませんが、現実には拘束力があるとは思えません。
君の名前は？
学生Ｅ：セザンです。
ビクトリアとセザンの意見は最初の何人かとは異なっていて、国は結婚や人間の性活動のいかなる特定のテロスや目的にも名誉を与えたり、承認したり、肯定したりすべきではない、と言っている。セザンはそれゆえ、国は結婚を認める役割から手をひくべきだという１人だ。
ここで問題だ、国はどのような結婚を認めるべきではないというセザンの意見をとることなく、つまり、結婚の適切なテロスを巡る道徳的、宗教的な論争について態度を明確にすることなしに同性結婚の問題を判断することは可能だろうか？次回はこの問題をとりあげる。参加してくれたみんな、よくやってくれた。ありがとう。




Lecture24；THE GOOD LIFE
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Lecture24；THE GOOD LIFE
　
私たちには２つの問いが残っていた。まず、正義について考える時、善き性の問題について検討することは不可欠なのか、答えはイエスだ。次に善について論じることは可能なのか、これもイエスだろう。
ではこれからこの２つの問いに対する答えを発展させたいと思う。これらの問いに取り組むために、私たちは前回、同性結婚の問題を議論し始めた。すると、同性結婚に対する反対意見が出た。結婚の目的、つまりテロスの一部は生殖であり、子供を生んで育てるということが、彼らの反対理由だった。
一方で、同性結婚を擁護する人たちもいた。彼らは異性愛者の結婚に生殖能力があること、あるいは子供を望んでいることが必ずしも求められることではないと主張し、結婚の目的は生殖であるという説明に異議を唱えた。
我々は不妊のカップルの結婚を認めている。というのはハナの主張だった。そして討論の最後に別の見解を示したビクトリアは私たちはこの問題を判断しようとすべきではないと論じた。我々は少なくても国家レベル、法律レベルでは善についてのそうした問題について合意に至ろうとすべきではない。なぜなら我々は異なる道徳的、宗教的信念が存在する多元的な社会に暮らしているからだ。
よって、これらの競合する見解について、州立的な法律や権利の枠組みをつくるべきである。
興味深いのは、これ以外に結婚を男性と女性によるものに支持するわけでもなく、同性結婚を認めることを支持するわけでもなく、中立の立場を取る人たちがいたことだ。彼らは中立の立場をとることによって政府は結婚というものを役割から撤退すべきだという３つ目の可能性を論じた。それが第３の可能性だった。
さて、アンドレアメイロウズが興味深い見解を示している。彼女は中立の立場に賛成する人たちに意見があると言う。アンドレアはどこだい？アンドレア、君の見解を話してくれないかな？意見を聞かせて欲しい。なぜ君は国家が同性結婚のような道徳的で宗教的でさえある問題に対して、中立であろうとすることが間違いだと思うのかな？
学生Ａ（アンドレア）：人々の生活は世界をどのように見るかに左右されるのに、国家が中立でいることはできるのでしょうか。私はアリストテレスが言うように、政府の役割は人々が何が良くて、何が悪いかを集合的に理解することを助けることだと思います。
それが可能かどうか、同性結婚を妊娠中絶に置き換えて考えてみよう。君は中絶は道徳的に許されるかどうかについて、自分の立場を決めることなく、あるいは判断することなく、中絶を許すべきか、禁止するすべきか、決めることができると思うかな？
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学生Ａ（アンドレア）：いいえ、それはできないと思います。だからこそ、これほどの論争になっているのではないでしょうか。人々は胎児は命かどうかについて、根本的な心情を持っているからです。もし私が胎児が生きていて、生存権を持っていると信じているとしたら、自分の考えを脇において、他の人のしたいようにさせるのは、とても難しいことです。私にとっては殺人であるということを、あなたにはさせましょう、と言うようなものだからです。
なるほど、同性結婚の例に戻るが、君は同性結婚の擁護者だと言ったね。
学生Ａ（アンドレア）：はい。
しかし、君は根本的な道徳的な問題について納得して、はじめて、その見解に達したんだね。
学生Ａ（アンドレア）：そうです。多くの人の心情は信仰により、決定されます。私もキリスト教徒でカトリックです。私はよく考え、祈り、たくさんの人と話した上で、同性愛は罪であるというカトリックの見解に反対だと判断しなければなりませんでした。そして、神と自分の個人的な関係の中でその結論がでると、嫌に宗教的に聞こえますが、多くの人は信仰から自分の心情を引き出しているんです。私が国が同性結婚を許すのに賛成だと思うのは、それでいいと思うし、道徳的にも問題ないと思うからです。
ありがとう、誰か今の意見に反論がある人はいるかな？君には、もう少し、そのままで居てもらいたい。アンドレアの考えは同性結婚についての問題を判断するには、同性愛の道徳的な立場についての問題を整理し、結婚の意味やテロス、適切な目的を解明する必要がある、というものだが、これに対して、意見のある人はいないかな？この点について、アンドレアに反対する人の意見を聞きたい。君！
学生Ｂ：自分の道徳的な意見と、どのような法であるべきかは切り離せると思います。例えば、僕は中絶は明らかに道徳的に間違っていると思いますが、法にすることで中絶がなくなるとは思えません。だから、僕は妊婦が中絶を選択できることに賛成で、女性の安全のためにも選択権があるべきだと思います。道徳的には僕は男性と結婚したくはありませんが、法という面で誰かがしたいことをする自由を邪魔しようとはしないのと同じことです。
アンドレア！！
学生Ａ（アンドレア）：何かを合法にする、あるいは違法にすることは暗黙のうちに賛成するか、反対するかということです。もし中絶を合法にすれば、私たちが社会として集団的にそれは問題ないと言っていることになります。反対にそれを違法にしたら、社会として集団的にそれはダメだと言っていることになります。それぞれの社会には異なる心情があるのです。
さっきの君、名前は？
学生Ｂ：ダニエルです。
君はどう答える？
学生Ｂ（ダニエル）：僕たちはそれは問題ないと言っているのではなく、違法なクリニックで中絶し、危険な状態に陥る女性を望まないと言っているのではないでしょうか。
なるほど、同性結婚の例に戻ろう。ダニエル、君は同性結婚は法的に認められることに賛成だね？
学生Ｂ（ダニエル）：それは僕に男性と結婚することを強制するようなものではありませんから、２人の男性が結婚したいのなら、どうして僕に反対できるのかわかりません。
害はないからね。
学生Ｂ（ダニエル）：僕にはそれは道徳的に間違っていたとしても害はありません。
結構、ではここで、アンドレアとダニエルが話した同性結婚の問題について、マサチューセッツ州の裁判所がどんな画期的な判決を下したかみていこう。２人ともありがとう。裁判所は何と言ったのか。これはグッドリッチという男性の訴訟で、マサチューセッツ州に対し、結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたものだ。
当初裁判所には意見の対立があった、判決文を注意深く読んでいくと、裁判所は私たちがついさっき聞いた２つの主張、アンドレアとダニエルの立場で対立していたことがわかる。これはマーガレット・マーシェルの判決文だ。最初はリベラルな中立性への試みからはじまる。多くの人は結婚は男女間に限るべきであり、同性愛行為は道徳的に反するという強い宗教的、道徳的信念を持っている。同時に多くの人が同性愛者には結婚する資格があり、彼らは異性愛者と等しく扱われるべきであるという、同様に強い宗教的、道徳的な信念を持っている。どちらの見解も我々の前にある問題には答えていない。
重要なことは、個人の自立性と法の下の平等の尊重である。重要なことは個人が２人だけの約束を交す相手を自由に選ぶことである。言葉を変えると、問題となっているのは、選択の道徳の価値ではなく、個人の選択する権利だ。
これは裁判所の判決文のリベラルで中立的な立場だ、主意主義的な立場で、自立、選択、同意を重視するものだ。
しかし、ここで裁判所は同性結婚を認めるためには、リベラルな主張、中立的な主張だけではうまくはいかず、その見解に到達できないことに気付いたようだった。それが個人の自立性の尊重だけの問題であって、自由意志による親密な関係の道徳的な価値に、政府が本当に中立なのであれば、違う政策をとっているはずだからだ。その政策とは、国と政府から男女の結びつきに承認の役割をなくすということだ。本当に中立的な政府というのは、第３の立場として、私たちが表現してきたものだ。
それはジャーナリストのマイケル・キンズリーが支持しているもので、彼は国の機能としての結婚の廃止に賛成している。わかりやすく言えば、国境制度の場合と同じように、結婚の制度を廃止するということだ。キンズリーの考えはこうだ。
彼は自分が同性結婚に反対する理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。それが論争の中心にあるものだ。
アリステトテレスの言葉を借りれば、ここで問題となるのは、任務と名誉の適切な分配、つまり社会的承認の問題だ。リベラルや中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚と正当化することはできない。問題になっているのは、同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうか、ということだからだ。
キンズリーは君は中立になりたいのかと問う。それなら、教会や他の宗教機関に結婚式を提供させよう。デパートやカジノが望むなら、彼らにも参入させよう。カップルに望み通りのやり方で挙式させ、好きな時に結婚したと考えさせよう。結婚を望む３人がいれば、あるいは自分自身と結婚したい人がいれば、そしてほかの誰かが彼らのために式を行い結婚を宣言したいのであればそうさせよう。あなたと政府が関わっていないのなら気にすることなどない。そうキンズリーは言う。
しかし、これはマサチューセッツ州最高裁判所の望んでいた立場ではない。彼らは結婚制度の廃止を訴えたわけではないのだ。裁判所はある親密な関係に社会的な承認を与える政府の役割については問題にせず、反対に結婚について、私たちのコミュニティでもっとも実り多い、大切にされている制度の１つである、と雄弁に語り、結婚の定義を同性のパートナーを含むところまで拡大した。
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その過程で裁判所は結婚は個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。それは社会の承認と名誉の問題でもある。
マーシャル判事はこう書いている。
全ての民事婚には３者が関わっている。結婚を望む２人とそれを承認する国家である。民事婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。これが裁判所の見解だ。
リベラルな中立性をはるかに超えている。彼らは公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定している。裁判所は結婚のテロスについての議論を避けることはできないと、気付いたのだ。
判決文の中で、マーシャル判事は結婚の主要な目的は生殖であるという概念を検討し、却下している。彼女は結婚を許可証を希望する異性愛者にする子供をもうける能力や意思を証明する要件はないとした。受胎能力は結婚の条件ではないのだ。
死に瀕した者も結婚するかもしれない。そこで彼女は私たちが前回はじめたように、結婚の適切な目的、本質的な性質、テロスについての議論を進め、こう結論付ける。生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点であり、目的なのである。
さて、私がこの裁判所の判決について言いたいことは、同性結婚への賛成でも、反対でもない。根底にある、道徳的、宗教的な問題に中立的な立場をとりながら、同性結婚を支持、あるいは否定できるという主張には反対だと言うことだ。
このことは次のことを示している。
私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自立の問題だから、我々はどの立場も取らない、と言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできないとわかった。
では、善の論じ方の問題はどうだろうか。正義と権利の議論において、善について論じることが、避けられないのなら、善を論じる方法はあるのだろうか、善について論じることが道徳性に関して意見の相違があるたびに照らし合わせる、善き生についての唯一の原理で、あるいは規則をみつけなければいけないのだとしたら、答えはノーだ。
ただ１つの原理、規則を持つことは、善き生や正義について論じる、唯一の方法でも、最善の方法でもない。
正義や権利について、そして善き生について、私たちがここで議論してきたことを思い出してみよう。
議論はどのように進んだだろうか、それは、アリストテレスが指摘した通りのやり方で、進んできた。つまり、ここの事例、出来事、問題についての私たちの判断は行ったりきたりしていた。ここの事例や問題についての判断と、ここでそのような立場をとった理由を説明する。より一般的な原理の間で、行ったり来たりしていたのだ。
このような道徳的論法の弁証法的なやり方は、古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスまでさかのぼる。しかしそれは、彼らで終わることはなかった。ロールズが正義論を正当化する手法を説明した際、彼は素晴らしい明晰さと説得力を持って、ソクラテス的、弁証論的な道徳的な論法を擁護したからだ。
ロールズが論じたのは、無知のベールとその背後で選ばれる原理だけではない、彼は反証的均衡という正義についての道徳的論法についても論じているのだ。
反証的均衡とは何だろうか。それは、ここの事例について、私たちが下した判断とそれらの判断の根拠となる、一般的な原理との間を行ったり来たりすることだ。だが、私たちの直感は間違っているかもしれないから、そこにとどまるのではなく、その作業をした後に、ここの判断を原理に照らして見直すこともある。
原理を見直すこともあれば、個々の事例の判断と直感を見直すこともある。ロールズによれば、その一般的な主旨はこうだ。正義の観念は自明の前提からは導き出され得ない。それは多くの考慮事項が相互に支え合い、全てが１つの趣味一環した見方に整合化される。のちに彼は正義論でこう書いている。
道徳的哲学はソクラテス的である。私たちは自分たちの差し当たりの判断を１度、それらを規制する原理が明るみにでれば、変えたくなるかもしれない。ロールズがこのように考え、反証的均衡の考え方を進めるなら、私たちに残された問題は、彼がそれを道徳性と善き生の問題ではなく、正義の問題にあてはめていくことを、そしてそれゆえ、彼が善よりも権利が優先するという考え方を問い続けているということだ。
ロールズは反証的均衡の手法は正義と権利については、共有される判断を生み出すことができると考えているが、それが善き生と包括的な道徳的、宗教的問題についてまで共有されると生み出すとは考えていない。
なぜなら、彼は現代社会には善についての考え方が多元的に存在すると考えるからだ。論理的に考える良心的な人たちでさえ、善き生の問題、道徳性や宗教の問題は互いに意見が合わないことに気付くだろう。その点において、ロールズは正しいと思われる。
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彼は多元的社会には意見の相違があるという事実を語っているだけではない。善き生と道徳的、宗教的問題の間には、たえず意見の相違があるであろうことも示唆している。しかし、それが真実だとすると、正義については同じことが言えないという、彼のさらなる主張は正しいと言えるのだろうか。
私たちは実際のところ、多元的社会において、正義についても合意しないのではないか。そして、少なくとも、それらの意見の相違のいくつかは、道理にかなった当然の不一致なのではないか。リバタリアンの正義論を支持する人もいれば、もっと平等主義的な正義論を好む人もいる。自由放任主義的なリバタリアンの正義論から、より平等主義的なものまで私たちの社会では私たちの社会では多元的な考え方がある。
私たちが正義や言論の自由の意味、宗教的、自由の性質について議論について生じる、道徳的論法や意見の相違の間に何か原理上の違いはあるのだろうか。最高裁判所の判事指名をめぐる議論を考えてみよう。
正義と権利についての意見の相違ばかりだ。道理にかなった考え方が多元に存在するという事実に、正義と権利の場合と道徳性の宗教の場合とでは違いがあるだろうか。原理上、違いがあるとは思えない。どちらの場合も意見が合わなければ、我々はこの講義を通じてやってきたように、対話の相手を意見を交えることになる。そして、個々の事例から生じた議論を検討し、自分たちを１つの方法に導いてくれる理由を発展させようとする。他者の理由を聞き、時には自分の見解を見直すように説得される。自分の見解を補強し、強化するよういとまれることもある。
しかし、正義に関する道徳的な議論はこうして進むのであり、私には、善き生の問題についても同様であるように思われる。さて、さらなる懸念、リベラルな懸念が残っている。
私たちが、道徳性と宗教について意見が異なるのであれば、正義について意見が異なるのは当然だと考えるようになったらどうだろうか。どうしたら、意見が合わない同胞市民を認める社会に辿り着くことができるだろうか。それは、私たちがどのような尊重の観念を受け入れるかによると思う。
リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。
私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。
しかし、私には他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念のように思える。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは、道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになると思える。
講義の最初に、この場所に集まった時、私は政治哲学を賞讃すると共に、その危険性について話した。
つまり、政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにするかという話だ。私は１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはないと、君たちに警告しようとした。
君たちが多少がこの不安を経験してくれていればいいと思う。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。私たちの議論は、ある意味では終わりにはたどり着いたが、別の意味では続いている。私たちは当初、なぜ永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのかと尋ねた。
その理由は私たちは日々、これらの質問に対する答えを生きているからだ。
私たちの公的な生活、私的な生活の中、時には答えなどないと思えても、哲学は避けることができないものだ。私たちはカントの思想からはじめた。懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ、しかし永久にとどまる場所ではない、単に懐疑主義や自己満足に従っても、理性の不安を克服することは決してできない。カントはそう書いた。
この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかをみることだった。我々が少なくとも、それを実行し、その不安が、この先、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。ありがとう（拍手喝采）
THANK YOU !!（拍手喝采）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture23＋Lecture24前半「同性結婚と正義を考える」</p>
<p>私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。それを明らかにするために同性結婚について考える。同性結婚は道徳的にも宗教的にも論争の的となっている。まず、多くの人は結婚は道徳的、宗教的に男女間に限るべきだとまず思うだろう。同時に多くの人は同性結婚も異性結婚と等しく扱われるべきだという。こちらも道徳的、宗教的な信念を持っている。１つの要点として、どう選択するかが道徳的に価値があるのではなく、個人が様々なことを選択できる権利があるかどうかが問題となっている。道徳的に同性結婚は間違っていると思う者でも、２人の男性が結婚したいと思っているのに、自分がなぜそのことに反対できるのかわからないと答えた。同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。ジャーナリストのマイケル・キンズリーは国の機能としての結婚の廃止に賛成している。彼は同性結婚に反対しているわけだが、その理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。ではここで結婚の目的を考えてみよう。多くの人はまず、子供を生んで育てること、つまり生殖を考えるだろう。しかし、不妊カップルの結婚を我々は認めるだろう。あるいは、閉経後の女性との年配結婚、死に瀕した者との結婚などを考えると、生殖が結婚の目的ではないような気がしてくる。では、同性結婚の問題に裁判所はどう判決を下すだろうか。マサチューセッツ州に対し結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたグッドリッチという男性の訴訟を考える。裁判所はまずは、中立性を考えたが結論は違った。結婚の目的は生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点だとし、名誉を重要視した。裁判所は結婚は、個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。結婚を望む２人とそれを承認する国家の３者の関わり。結婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。この見解は中立性を超えている。同性結婚を公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定したのだ。実はサンデル教授は中立的な立場に反対だ。中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚を正当化することはできない。問題となるのは同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうかだ。サンデル教授は中立的に反対なのは、同性結婚の話に限らない。私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自律の問題だから、我々はどの立場も取らないと言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできなかったのだ。</p>
<p class="hiroken16">Lecture24後半「サンデル教授の正義」</p>
<p>私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。善と正義を結びつけることは容易ではない。しかし、サンデル教授は正義を議論する上で、善について議論することは避けられないとし、目的について議論することも避けられないと主張する。リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。しかしサンデル教授はこう説く。他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになるのだ。講義の最初でも触れたが、政治哲学には危険性がある。それは政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにすりかえてしまうからだ。１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはない。しかし、この不安を経験することが重要だ。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。哲学なんて答えが出ないと思ったり（懐疑主義）、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/EzD9P-9sj4M&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/EzD9P-9sj4M&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
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<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture23<br />
<strong> DEBATING SAME-SEX MARRIAGE</strong><br />
Lecture24<br />
<strong> THE GOOD LIFE</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:11
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
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</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture23：DEBATING SAME-SEX MARRIAGE</font></h2>
<p>前回は自己の物語的観念について議論した。そして、同意とは無関係に生じる非連帯や集団の構成員としての義務について考えてきた。そうした義務は私たちが交した契約や合意、あるいは選択とは別の理由で生じるものだった。そして私たちにはこの種の義務があるかどうか、あるいは全ての連帯や集団の構成員としての義務は同意、相互性、もしくは私たちが人として、人に負っている普遍的な義務につながるかどうか議論した。</p>
<p>君たちの中には忠誠心や愛国心を擁護する人たちがいた。すると、忠誠心や集団の構成員であるという考えは私たちの議論の中で道徳的に訴える力を持ち始めた。そして、講義の最後に私たちがその考えの反証と思われるもの、つまり、１９５０年代のアメリカ南部の人種分離主義者の証言映像をみた。</p>
<p>彼らは自らの伝統や歴史、そして生活と密接に関わるアイデンティティについて語っていた。南部の人種分離主義者にとって、その歴史や物語的なアイデンティティから生じるのはどんなものだったのか。彼らは自分たちの生活様式を守りたいと言った。これは自己の物語的観念に対する決定的な反論なのだろうか。それが私たちに残された問題だった。</p>
<p>今日は議論を進め、君たちがどう受け取るか見たいと思う。議論の内容はこうだ。<br />
<span id="more-3105"></span><br />
私は個人についての守秘主義的観念に対して、個人の物語観念を弁護したい。我々には連帯や集団の構成員としての義務があるという考え方を弁護したいのだ。そして、そのような義務が存在することが次ような考えを強めるということを信じたい。</p>
<p>それは正義について議論する時、結局、善の問題から離れることはできない、という考え方だ。</p>
<p>しかし、私は正義と善を結びつける２つの方法を区別し、そのうちの１つを支持したい。カントとロールズの人格についての守秘主義的な観念は強力で開放的なものだった。さらに魅力的なのはその普遍的な面が、つまり、偏見や差別なしに個人を個人として扱うという考え方だ。</p>
<p>君たちの内の何人かは集団の構成員としての義務はあっても、それは普遍的な義務、つまり、私たちが人類に対して負っている義務に、いつも劣るに違いないと論じたが、それはこの考えからきているのだと思う、だが、それは正しいのか。</p>
<p>私たちの普遍的な忠誠心が常に特定の人への忠誠心を優先しなくてはならないのなら、友人と知らない人との違いは乗り越えるべきだということになってしまう。友人への特別な配慮は偏見になり、いかに人類全体への配慮に対して考えていないことがわかるものさしになってしまう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
この考え方はどのような道徳的無知、どのような道徳的想像力に私たちを導くだろうか、啓蒙思想家モンテスキューはこの容赦なく不変化しようとする傾向が、道徳的想像力をどこに導くのかについて、おそらく最も強力で最も正直な説明をしている、彼はこう表現した。</p>
<p>本当の有徳な人は最も他人を助けるためには友人に対するのと同様に迅速にかけつける。そして彼はこう付け加えた。完全に有徳な人に友人はいないだろう。</p>
<p>しかし、人々が有徳過ぎて友人が必要なくなり、普遍的な友情だけが残るような世界は想像しがたい。問題はそのような世界をつくるのは難しいとか、非現実的だと言うような、単純なものではない。</p>
<p>もっと深刻な問題はそのような世界は人類の世界として認識しがたいということだ。人類愛は気高い感情だが、多くの場合、私たちはもっと小さな連帯で暮らしている。これは道徳的に共感できる範囲の限界を反映しているだけではない。さらに重要なことに私たちが人類を愛することを一般論ではなく、特定の表現を通じて、学ぶという事実も反映しているのだ。こういったことは考慮すべき事柄ではあるが、決定的な議論ではない。道徳哲学に決定的な議論というものは存在せず、そこにあるのは、私たちがずっと話し合ったきたような交流事項だけだ。</p>
<p>さて、個人と義務の構図が正しいかどうか、評価する１つの方法はそれが正義にどうのような影響を及ぼすかみることだ。</p>
<p>正義に深刻な問題をもたらす例として、人種分離主義者の話に戻ろう。伝統的な生活を守りたいと望む人種分離主義者たちを私たちは賞賛するのだろうか。私たちが連帯や集団の構成員という考え方を受け入れたとすればどうだろうか？南部の人種分離主義者を含む、特定のコミュニティや伝統を含む正義が何であれ、正義は善と結びついている、と言っていることになるのだろうか。</p>
<p>ここで重要なことは正義と善を結びつける２つの方法を区別することだ。１つは相対主義的な方法で権利を考えるため、正義を考えるために、ある時代のあるコミュニティに広がっている価値観に頼る方法である。</p>
<p>その価値観を外部の基準で判断してはならない。そうではなく、正義を特定の文化の共通認識に忠実なものとして受け止めなければならない。しかし、この方法で正義を善と結びつけるには問題がある。なぜなら、正義を全く監修的な環境の産物にしてしまい、その非常に重要な特徴を奪ってしまうからだ。</p>
<p>しかし、正義を善と結びつけ、密接な関係と結びつける２つ目の方法がある。<br />
正義の原理を正当化するために、特定の時代の特定の場所に広がっている価値観に頼ることはない。そうではなく、権利がもたらす道徳的な価値や目的に内在する善に頼るのだ。この非相対主義的な見方では権利を承認するかどうかは、それが何か重要な人類の善を促進するかで決まる。</p>
<p>もし、コミュニタリアニズムが正義の定義を特定のコミュニティにゆだねることを意味するのならば、この正義を善と結びつける２つ目の方法は厳密に言えば、コミュニタリアニズムではない。これから正義を善を結びつける２つの方法のうち、１つ目が不十分であることを示したい。</p>
<p>それは、正義を監修の創造物にしてしまう。それは伝統的な暮らしを守りたいと考える。南部の人種主義者を論破するのに、十分な道徳的論拠を与えてくれない。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
一方、正義が非相対主義的な方法で善を結びつくとすれば、難しい問題が残る。善を論じる方法はあるのか、善の概念は人によって異なるという事実はどうなるのか、人々は主要な社会制度の目的が何なのか、どんな社会の善や人類の善に名誉を与えるべきか、といった点について異なる考えを持っている。</p>
<p>私たちは多元的な社会に暮らしており、人々の間で善についての合意は存在いない。だから、特定の目的な善に依存しない、正義や原理を見つけようとするのだ。</p>
<p>善を論じる方法はあるのか、その質問に取りかかる前に、もう少し簡単な質問をしてみよう。正義を議論する上で善について議論することは避けられないのだろうか、私の答えはイエスだ。それは避けられないことであり、必要なことだ。</p>
<p>今日の残りの時間で私は正義について議論する上で、善や意図、目的について論じることは避けられないことであり、必要なことでだという主張を進めていきたいと思う。それを明らかにするために、これから同性結婚について議論を始めたい。</p>
<p>さて、同性結婚は道徳的にも、宗教的にも、論争の的となり、大きな物議をかもす見解を導き出している。従って同性愛が道徳的に許されるかどうか、社会制度として適切な結婚の目的は何なのか、といった代理論になる道徳的、宗教的な問題について社会全体としての判断がなくても、正義や権利の概念を構築することが、強く望まれるのだ。</p>
<p>これらの道徳的、宗教的紛争を社会全体として解決することを求めることなく、人々の権利を定義することができるなら、それはとても魅力的だろう。</p>
<p>では、これから同性結婚の事例を使って、同性愛は道徳的に許されるのか、結婚の目的は何なのか、といった個人の見解を国家が同性結婚を認めるべきかいなか、という問題から切り離すことが可能かどうか、みていきたいと思う。では、はじめよう。</p>
<p>まずは同性結婚はあるべきではない、と考える人。国は男女間結婚のみ認めるべきだと信じている人の意見を聞きたい。ボランティアはいるかな？この講義のブログで自分たちの意見をすでに表明した２人に頼んでおいたんだが、、、マークとライアンはどこにいるだろう。君がマークか、ライアンは？君か！ではマークから始めよう。</p>
<p>学生Ａ（マーク）：僕はセックスの目的、結婚の目的について、目的論的な理解をしています。僕のようなキリスト教徒でカトリックでもある人間にとって、セックスの第１の目的は生殖です。そして、もう１つの目的は結婚という制度の中で男性と女性を結びつけることです。<br />
つまり、君は人間の生活度は生殖と深く結びついているというある種、つまりテロスの概念を持っているんだね。<br />
学生Ａ（マーク）：はい。<br />
すると、社会の制度としての結婚の目的はテロスを表現し、その目的、すなわち生殖という目的に名誉を与えることにある。君が言いたいのはそういうことかな。<br />
学生Ａ（マーク）：はい。</p>
<p>ライアン、どうぞ、君もマークと同じ意見だろうか。<br />
学生Ｂ（ライアン）：はい、結婚の理念は生殖と関係していると思います。同性愛者がかけおちして、一緒に住むことに問題はありません。しかし、政府にそれを後押しする責任はないと思います。<br />
政府は結婚の承認を与えることで、同性愛の行動を促すべきではない、ということです。禁止するのは間違いでしょうが、後押しする必要もありません。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
誰か意見のある人は？ハナ！どうぞ！</p>
<p>学生Ｃ（ハナ）：マークに質問です。例えば、あなたが女性と結婚したとして、結婚後に自分たちが不妊のカップルであることが明らかになったとします。その行為から子供から生まれない場合に、セックスは違法だとすべきだと思いますか？</p>
<p>学生Ａ（マーク）：その必要はないと思います。だからさっき、セックスの目的を２つあげたのです。年老いたカップルも結婚することができると思います。既に閉経を迎え、子供を生むことができない女性もです。セックスには生殖を超えた目的があると思うからです。</p>
<p>学生Ｃ（ハナ）：失礼ですが、マスターベーションをしたことは？（会場笑い）</p>
<p>ちょっと待って、それには答えなくていい（会場笑い）<br />
君の質問は、、（会場笑い）、、わかった、ちょっと静かに（会場笑い）、君は質問を、、</p>
<p>学生Ａ（マーク）：その質問に答えたいと思います。<br />
いや、それは、、、、ちょっと待って！！（会場笑い）君たちはこの学期中とてもよくやってきた。大学で話し合えるとは思えないような問題を扱い、今もとてもうまくやっている。ただ、君はいいところをついている。でも、それを一般的な議論として言ってくれないかな？（会場笑い）個人を問いつめるのではなく。論点をはっきりさせて欲しい。君が考えている論拠は何だろうか？</p>
<p>学生Ｃ（ハナ）：はい、聖書では、、、<br />
３人称でね、、あくまでも３人称で、、、（会場笑い）、、２人称ではなく、、、</p>
<p>学生Ｃ（ハナ）：わかりました。聖書ではマスターベーションは許されていません。子供の誕生につながらなければ、地上にあなたの種をこぼすことになるからです。でも、私が指摘したいのは、あなたが子供を生み出さない場合や結婚の絆を強めることがない場合のセックスは間違っていることです。どうして、間違っていると言えるのでしょうか。マスターベーションが明らかに子供を生み出さないのに、許されているではありませんか。</p>
<p>学生Ａ（マーク）：結婚は社会が美徳と考えているものを制度にしたものだと思います。たしかに僕たちは毎日、期待通りには生きられません。人には多くの点で足りないところがあります。誰かに道徳的な決定があったからと言って、その人の議論する権利が奪われることはないと思います。</p>
<p>ありがとう、君たちにはそこにいてもらいたい。そのまま、他の意見を聞いていこう。君！</p>
<p>学生Ｄ：マスターベーションへの答えは、、、<br />
名前は？<br />
学生Ｄ：スティーブです。<br />
どうぞ。</p>
<p>学生Ｄ（スティーブ）：マスターベーションは人が許可するようなものではありませんし、同性愛のセックスは許されないと議論する人もいないと思います。マスターベーションをする人が自分自身と結婚することを社会が認めないだけです。</p>
<p>なるほど、ハナ。（会場笑い）<br />
スティーブはいい意見を述べてくれた。（会場笑い）<br />
スティーブはここには２つの問題があることを示唆している。１つは様々な行為を道徳的に許すかどうかという問題、もう１つは道徳的な面とは関係なく、ある行為が国が結婚という名誉と承認を与えることに適合性があるかという問題、スティーブはとてもいい反論をしているが、君はこれに何と答える？</p>
<p>学生Ｃ（ハナ）：人間の性機能はほとんどの人が生まれつき持っているもので、性活動は避けることのできないものです。マスターベーションについては、たしかに自分自身と結婚することはできません、しかし、同性愛者も同じ人間ですから、なぜ彼らが結婚できないのか、私には理解できません。もし、あなたが自分自身と結婚したいと言っても、法的には無理かもしれないけど（笑）、私はかまいません。</p>
<p>待って待って！私たちは今、立法者のように法がどうあるべきか決めようとしている。<br />
スティーブにそれは構わないと言った。立法者としての君は自分自身と結婚できる法律に賛成票を投じるということかね？</p>
<p>学生Ｃ（ハナ）：そんなことが実際に起きるわけはないと思いますが、私としては原理上はスティーブが自分自身と結婚したいのなら、私は止めません。<br />
君は国家の承認を与えるんだね。彼の単独結婚に。（会場笑い）<br />
学生Ｃ（ハナ）：もちろんです。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
では、合意に基づく一夫多妻結婚はどうだろう。<br />
複数の妻と１人の夫、あるいは複数の夫と１人の妻が同意するのであれば、許されるべきだと思います。</p>
<p>他の人の意見を聞いてみよう。はい、君！名前は<br />
学生Ｄ：ビクトリアです。私たちは結婚の目的論的論法について話していますが、問題はカトリックの立場で話していることだと思います。他の宗教を信仰している人や、無神論者にとては結婚の目的が全くことなる可能性があります。政府にこの国全ての人にカトリックの目的論的論法を押し付ける必要はありません。ですから、同性結婚を認めないのは受け入れられません。それぞれの信仰をとやかく言うつもりはありませんが、同性のパートナーシップ制度、シビルユニオンはカトリックの教会では結婚とは認められません。国には望む人が誰であれシビルユニオンを認める権利がありますが、少数派であれ多数派であれ、国内で特定の信仰を押し付ける権利はないと思います。</p>
<p>なるほど、国は同性結婚を認めるべきだと思うかね。それとも厳密には婚姻ではない、シビルユニオンだけを認めるべきなのか。<br />
学生Ｄ（ビクトリア）：教会は国の場所ではないので、国が教会での同性結婚を認める権利を持つとは思いません。しかし、シビルユニオンは宗教の下ではないことを除けが本質的には同じものだと思いますし、国にはそれを認める権利があると思います。</p>
<p>つまり、国は結婚のテロスが何であるかを判断しようとすべきではなく、それは宗教的なコミュニティだけが決めることのできるものだということだね。他には？</p>
<p>学生Ｅ：私にはそもそもが国が結婚を認めるべきだと考える理由がわかりません。国はいかなる結婚でも認めるべきではないと投票した７０人のうちの１人です。結婚は男性と女性の結びつき、もしくは２人の男性、あるいは２人の女性の結びつきですが、国かと結びつく許可をもらう理由はないと思います。国が結婚を認めれば、拘束力が生まれ、子供のためにもなるという人もいるかもしれませんが、現実には拘束力があるとは思えません。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｅ：セザンです。</p>
<p>ビクトリアとセザンの意見は最初の何人かとは異なっていて、国は結婚や人間の性活動のいかなる特定のテロスや目的にも名誉を与えたり、承認したり、肯定したりすべきではない、と言っている。セザンはそれゆえ、国は結婚を認める役割から手をひくべきだという１人だ。</p>
<p>ここで問題だ、国はどのような結婚を認めるべきではないというセザンの意見をとることなく、つまり、結婚の適切なテロスを巡る道徳的、宗教的な論争について態度を明確にすることなしに同性結婚の問題を判断することは可能だろうか？次回はこの問題をとりあげる。参加してくれたみんな、よくやってくれた。ありがとう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture24；THE GOOD LIFE</p>
<p>xxx</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p>　</p>
<h2><font color="#aa1525">Lecture24；THE GOOD LIFE</font></h2>
<p>　</p>
<p>私たちには２つの問いが残っていた。まず、正義について考える時、善き性の問題について検討することは不可欠なのか、答えはイエスだ。次に善について論じることは可能なのか、これもイエスだろう。</p>
<p>ではこれからこの２つの問いに対する答えを発展させたいと思う。これらの問いに取り組むために、私たちは前回、同性結婚の問題を議論し始めた。すると、同性結婚に対する反対意見が出た。結婚の目的、つまりテロスの一部は生殖であり、子供を生んで育てるということが、彼らの反対理由だった。</p>
<p>一方で、同性結婚を擁護する人たちもいた。彼らは異性愛者の結婚に生殖能力があること、あるいは子供を望んでいることが必ずしも求められることではないと主張し、結婚の目的は生殖であるという説明に異議を唱えた。</p>
<p>我々は不妊のカップルの結婚を認めている。というのはハナの主張だった。そして討論の最後に別の見解を示したビクトリアは私たちはこの問題を判断しようとすべきではないと論じた。我々は少なくても国家レベル、法律レベルでは善についてのそうした問題について合意に至ろうとすべきではない。なぜなら我々は異なる道徳的、宗教的信念が存在する多元的な社会に暮らしているからだ。</p>
<p>よって、これらの競合する見解について、州立的な法律や権利の枠組みをつくるべきである。</p>
<p>興味深いのは、これ以外に結婚を男性と女性によるものに支持するわけでもなく、同性結婚を認めることを支持するわけでもなく、中立の立場を取る人たちがいたことだ。彼らは中立の立場をとることによって政府は結婚というものを役割から撤退すべきだという３つ目の可能性を論じた。それが第３の可能性だった。</p>
<p>さて、アンドレアメイロウズが興味深い見解を示している。彼女は中立の立場に賛成する人たちに意見があると言う。アンドレアはどこだい？アンドレア、君の見解を話してくれないかな？意見を聞かせて欲しい。なぜ君は国家が同性結婚のような道徳的で宗教的でさえある問題に対して、中立であろうとすることが間違いだと思うのかな？</p>
<p>学生Ａ（アンドレア）：人々の生活は世界をどのように見るかに左右されるのに、国家が中立でいることはできるのでしょうか。私はアリストテレスが言うように、政府の役割は人々が何が良くて、何が悪いかを集合的に理解することを助けることだと思います。</p>
<p>それが可能かどうか、同性結婚を妊娠中絶に置き換えて考えてみよう。君は中絶は道徳的に許されるかどうかについて、自分の立場を決めることなく、あるいは判断することなく、中絶を許すべきか、禁止するすべきか、決めることができると思うかな？<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
学生Ａ（アンドレア）：いいえ、それはできないと思います。だからこそ、これほどの論争になっているのではないでしょうか。人々は胎児は命かどうかについて、根本的な心情を持っているからです。もし私が胎児が生きていて、生存権を持っていると信じているとしたら、自分の考えを脇において、他の人のしたいようにさせるのは、とても難しいことです。私にとっては殺人であるということを、あなたにはさせましょう、と言うようなものだからです。</p>
<p>なるほど、同性結婚の例に戻るが、君は同性結婚の擁護者だと言ったね。<br />
学生Ａ（アンドレア）：はい。<br />
しかし、君は根本的な道徳的な問題について納得して、はじめて、その見解に達したんだね。<br />
学生Ａ（アンドレア）：そうです。多くの人の心情は信仰により、決定されます。私もキリスト教徒でカトリックです。私はよく考え、祈り、たくさんの人と話した上で、同性愛は罪であるというカトリックの見解に反対だと判断しなければなりませんでした。そして、神と自分の個人的な関係の中でその結論がでると、嫌に宗教的に聞こえますが、多くの人は信仰から自分の心情を引き出しているんです。私が国が同性結婚を許すのに賛成だと思うのは、それでいいと思うし、道徳的にも問題ないと思うからです。</p>
<p>ありがとう、誰か今の意見に反論がある人はいるかな？君には、もう少し、そのままで居てもらいたい。アンドレアの考えは同性結婚についての問題を判断するには、同性愛の道徳的な立場についての問題を整理し、結婚の意味やテロス、適切な目的を解明する必要がある、というものだが、これに対して、意見のある人はいないかな？この点について、アンドレアに反対する人の意見を聞きたい。君！</p>
<p>学生Ｂ：自分の道徳的な意見と、どのような法であるべきかは切り離せると思います。例えば、僕は中絶は明らかに道徳的に間違っていると思いますが、法にすることで中絶がなくなるとは思えません。だから、僕は妊婦が中絶を選択できることに賛成で、女性の安全のためにも選択権があるべきだと思います。道徳的には僕は男性と結婚したくはありませんが、法という面で誰かがしたいことをする自由を邪魔しようとはしないのと同じことです。</p>
<p>アンドレア！！</p>
<p>学生Ａ（アンドレア）：何かを合法にする、あるいは違法にすることは暗黙のうちに賛成するか、反対するかということです。もし中絶を合法にすれば、私たちが社会として集団的にそれは問題ないと言っていることになります。反対にそれを違法にしたら、社会として集団的にそれはダメだと言っていることになります。それぞれの社会には異なる心情があるのです。</p>
<p>さっきの君、名前は？<br />
学生Ｂ：ダニエルです。<br />
君はどう答える？</p>
<p>学生Ｂ（ダニエル）：僕たちはそれは問題ないと言っているのではなく、違法なクリニックで中絶し、危険な状態に陥る女性を望まないと言っているのではないでしょうか。<br />
なるほど、同性結婚の例に戻ろう。ダニエル、君は同性結婚は法的に認められることに賛成だね？<br />
学生Ｂ（ダニエル）：それは僕に男性と結婚することを強制するようなものではありませんから、２人の男性が結婚したいのなら、どうして僕に反対できるのかわかりません。<br />
害はないからね。<br />
学生Ｂ（ダニエル）：僕にはそれは道徳的に間違っていたとしても害はありません。</p>
<p>結構、ではここで、アンドレアとダニエルが話した同性結婚の問題について、マサチューセッツ州の裁判所がどんな画期的な判決を下したかみていこう。２人ともありがとう。裁判所は何と言ったのか。これはグッドリッチという男性の訴訟で、マサチューセッツ州に対し、結婚の枠組みを同性カップルにまで拡大するように求めたものだ。</p>
<p>当初裁判所には意見の対立があった、判決文を注意深く読んでいくと、裁判所は私たちがついさっき聞いた２つの主張、アンドレアとダニエルの立場で対立していたことがわかる。これはマーガレット・マーシェルの判決文だ。最初はリベラルな中立性への試みからはじまる。多くの人は結婚は男女間に限るべきであり、同性愛行為は道徳的に反するという強い宗教的、道徳的信念を持っている。同時に多くの人が同性愛者には結婚する資格があり、彼らは異性愛者と等しく扱われるべきであるという、同様に強い宗教的、道徳的な信念を持っている。どちらの見解も我々の前にある問題には答えていない。</p>
<p>重要なことは、個人の自立性と法の下の平等の尊重である。重要なことは個人が２人だけの約束を交す相手を自由に選ぶことである。言葉を変えると、問題となっているのは、選択の道徳の価値ではなく、個人の選択する権利だ。</p>
<p>これは裁判所の判決文のリベラルで中立的な立場だ、主意主義的な立場で、自立、選択、同意を重視するものだ。</p>
<p>しかし、ここで裁判所は同性結婚を認めるためには、リベラルな主張、中立的な主張だけではうまくはいかず、その見解に到達できないことに気付いたようだった。それが個人の自立性の尊重だけの問題であって、自由意志による親密な関係の道徳的な価値に、政府が本当に中立なのであれば、違う政策をとっているはずだからだ。その政策とは、国と政府から男女の結びつきに承認の役割をなくすということだ。本当に中立的な政府というのは、第３の立場として、私たちが表現してきたものだ。</p>
<p>それはジャーナリストのマイケル・キンズリーが支持しているもので、彼は国の機能としての結婚の廃止に賛成している。わかりやすく言えば、国境制度の場合と同じように、結婚の制度を廃止するということだ。キンズリーの考えはこうだ。</p>
<p>彼は自分が同性結婚に反対する理由は、中立的な寛容の限度を超えて、同性結婚に政府の承認を与えることになるからだと指摘する。それが論争の中心にあるものだ。</p>
<p>アリステトテレスの言葉を借りれば、ここで問題となるのは、任務と名誉の適切な分配、つまり社会的承認の問題だ。リベラルや中立性や無差別性、あるいは自立的な権利だけに基づいて同性結婚と正当化することはできない。問題になっているのは、同性結婚には道徳的価値はあるのか、それは名誉と承認に値するのか、結婚という社会制度の目的に合致しているのだろうか、ということだからだ。</p>
<p>キンズリーは君は中立になりたいのかと問う。それなら、教会や他の宗教機関に結婚式を提供させよう。デパートやカジノが望むなら、彼らにも参入させよう。カップルに望み通りのやり方で挙式させ、好きな時に結婚したと考えさせよう。結婚を望む３人がいれば、あるいは自分自身と結婚したい人がいれば、そしてほかの誰かが彼らのために式を行い結婚を宣言したいのであればそうさせよう。あなたと政府が関わっていないのなら気にすることなどない。そうキンズリーは言う。</p>
<p>しかし、これはマサチューセッツ州最高裁判所の望んでいた立場ではない。彼らは結婚制度の廃止を訴えたわけではないのだ。裁判所はある親密な関係に社会的な承認を与える政府の役割については問題にせず、反対に結婚について、私たちのコミュニティでもっとも実り多い、大切にされている制度の１つである、と雄弁に語り、結婚の定義を同性のパートナーを含むところまで拡大した。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
その過程で裁判所は結婚は個人の選択をどこまで強要するかという問題以上のものであると認めた。それは社会の承認と名誉の問題でもある。</p>
<p>マーシャル判事はこう書いている。<br />
全ての民事婚には３者が関わっている。結婚を望む２人とそれを承認する国家である。民事婚は深く個人的や約束である一方で、相互関係、交友、親密さ、家族の理念に対する法的な賞讃でもある。これが裁判所の見解だ。</p>
<p>リベラルな中立性をはるかに超えている。彼らは公式な承認という形で、結婚を名誉あるものであると祝福し肯定している。裁判所は結婚のテロスについての議論を避けることはできないと、気付いたのだ。</p>
<p>判決文の中で、マーシャル判事は結婚の主要な目的は生殖であるという概念を検討し、却下している。彼女は結婚を許可証を希望する異性愛者にする子供をもうける能力や意思を証明する要件はないとした。受胎能力は結婚の条件ではないのだ。</p>
<p>死に瀕した者も結婚するかもしれない。そこで彼女は私たちが前回はじめたように、結婚の適切な目的、本質的な性質、テロスについての議論を進め、こう結論付ける。生殖ではなく、パートナーのお互いに対する高級な約束が結婚の本質的な点であり、目的なのである。</p>
<p>さて、私がこの裁判所の判決について言いたいことは、同性結婚への賛成でも、反対でもない。根底にある、道徳的、宗教的な問題に中立的な立場をとりながら、同性結婚を支持、あるいは否定できるという主張には反対だと言うことだ。</p>
<p>このことは次のことを示している。<br />
私たちの社会で、正義と権利をめぐって、激しく争われている議論のいくつかにおいては、ただの同意と、選択と自立の問題だから、我々はどの立場も取らない、と言って中立であろうとしても、うまくいかないのだ。道徳的、宗教的な論争では、中立でありたい裁判所であるさえも、そうはできないとわかった。</p>
<p>では、善の論じ方の問題はどうだろうか。正義と権利の議論において、善について論じることが、避けられないのなら、善を論じる方法はあるのだろうか、善について論じることが道徳性に関して意見の相違があるたびに照らし合わせる、善き生についての唯一の原理で、あるいは規則をみつけなければいけないのだとしたら、答えはノーだ。</p>
<p>ただ１つの原理、規則を持つことは、善き生や正義について論じる、唯一の方法でも、最善の方法でもない。</p>
<p>正義や権利について、そして善き生について、私たちがここで議論してきたことを思い出してみよう。</p>
<p>議論はどのように進んだだろうか、それは、アリストテレスが指摘した通りのやり方で、進んできた。つまり、ここの事例、出来事、問題についての私たちの判断は行ったりきたりしていた。ここの事例や問題についての判断と、ここでそのような立場をとった理由を説明する。より一般的な原理の間で、行ったり来たりしていたのだ。</p>
<p>このような道徳的論法の弁証法的なやり方は、古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスまでさかのぼる。しかしそれは、彼らで終わることはなかった。ロールズが正義論を正当化する手法を説明した際、彼は素晴らしい明晰さと説得力を持って、ソクラテス的、弁証論的な道徳的な論法を擁護したからだ。</p>
<p>ロールズが論じたのは、無知のベールとその背後で選ばれる原理だけではない、彼は反証的均衡という正義についての道徳的論法についても論じているのだ。</p>
<p>反証的均衡とは何だろうか。それは、ここの事例について、私たちが下した判断とそれらの判断の根拠となる、一般的な原理との間を行ったり来たりすることだ。だが、私たちの直感は間違っているかもしれないから、そこにとどまるのではなく、その作業をした後に、ここの判断を原理に照らして見直すこともある。</p>
<p>原理を見直すこともあれば、個々の事例の判断と直感を見直すこともある。ロールズによれば、その一般的な主旨はこうだ。正義の観念は自明の前提からは導き出され得ない。それは多くの考慮事項が相互に支え合い、全てが１つの趣味一環した見方に整合化される。のちに彼は正義論でこう書いている。</p>
<p>道徳的哲学はソクラテス的である。私たちは自分たちの差し当たりの判断を１度、それらを規制する原理が明るみにでれば、変えたくなるかもしれない。ロールズがこのように考え、反証的均衡の考え方を進めるなら、私たちに残された問題は、彼がそれを道徳性と善き生の問題ではなく、正義の問題にあてはめていくことを、そしてそれゆえ、彼が善よりも権利が優先するという考え方を問い続けているということだ。</p>
<p>ロールズは反証的均衡の手法は正義と権利については、共有される判断を生み出すことができると考えているが、それが善き生と包括的な道徳的、宗教的問題についてまで共有されると生み出すとは考えていない。</p>
<p>なぜなら、彼は現代社会には善についての考え方が多元的に存在すると考えるからだ。論理的に考える良心的な人たちでさえ、善き生の問題、道徳性や宗教の問題は互いに意見が合わないことに気付くだろう。その点において、ロールズは正しいと思われる。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
彼は多元的社会には意見の相違があるという事実を語っているだけではない。善き生と道徳的、宗教的問題の間には、たえず意見の相違があるであろうことも示唆している。しかし、それが真実だとすると、正義については同じことが言えないという、彼のさらなる主張は正しいと言えるのだろうか。</p>
<p>私たちは実際のところ、多元的社会において、正義についても合意しないのではないか。そして、少なくとも、それらの意見の相違のいくつかは、道理にかなった当然の不一致なのではないか。リバタリアンの正義論を支持する人もいれば、もっと平等主義的な正義論を好む人もいる。自由放任主義的なリバタリアンの正義論から、より平等主義的なものまで私たちの社会では私たちの社会では多元的な考え方がある。</p>
<p>私たちが正義や言論の自由の意味、宗教的、自由の性質について議論について生じる、道徳的論法や意見の相違の間に何か原理上の違いはあるのだろうか。最高裁判所の判事指名をめぐる議論を考えてみよう。</p>
<p>正義と権利についての意見の相違ばかりだ。道理にかなった考え方が多元に存在するという事実に、正義と権利の場合と道徳性の宗教の場合とでは違いがあるだろうか。原理上、違いがあるとは思えない。どちらの場合も意見が合わなければ、我々はこの講義を通じてやってきたように、対話の相手を意見を交えることになる。そして、個々の事例から生じた議論を検討し、自分たちを１つの方法に導いてくれる理由を発展させようとする。他者の理由を聞き、時には自分の見解を見直すように説得される。自分の見解を補強し、強化するよういとまれることもある。</p>
<p>しかし、正義に関する道徳的な議論はこうして進むのであり、私には、善き生の問題についても同様であるように思われる。さて、さらなる懸念、リベラルな懸念が残っている。</p>
<p>私たちが、道徳性と宗教について意見が異なるのであれば、正義について意見が異なるのは当然だと考えるようになったらどうだろうか。どうしたら、意見が合わない同胞市民を認める社会に辿り着くことができるだろうか。それは、私たちがどのような尊重の観念を受け入れるかによると思う。</p>
<p>リベラルな観念では同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらの政治的目的のためにあえて無視することである。そういった道徳的、宗教的信念を脇に置いたまま、それらにはふれずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。しかし、それは、民主的な生活に欠かせない相互尊重を理解する唯一の方法でもなければ、おそらく、最も打倒なやり方でもない。</p>
<p>私たちが同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法はある。それを無視するのではなく、それらに関わる関心を向け、時には挑み、競い、そして時には、耳を傾け学ぶことだ。道徳的、宗教的に関与する政治がいかなる場合でも合意につながるという保証はない。それが、他者の道徳的、宗教的信念の深く理解することにつながるという保証もない。宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局それがさらに好きでなくなることは常にありうる。</p>
<p>しかし、私には他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念のように思える。私たちの道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての、究極的な多元性が存在する限り、私たちは、道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善をより深く理解できるようになると思える。</p>
<p>講義の最初に、この場所に集まった時、私は政治哲学を賞讃すると共に、その危険性について話した。</p>
<p>つまり、政治哲学がいかに私たちを馴れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにするかという話だ。私は１度、慣れ親しんだものが、見慣れないものに変わると、それは２度と同じものになることはないと、君たちに警告しようとした。</p>
<p>君たちが多少がこの不安を経験してくれていればいいと思う。なぜなら、この不安は批判的な考え方や政治的な改善、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。私たちの議論は、ある意味では終わりにはたどり着いたが、別の意味では続いている。私たちは当初、なぜ永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのかと尋ねた。</p>
<p>その理由は私たちは日々、これらの質問に対する答えを生きているからだ。</p>
<p>私たちの公的な生活、私的な生活の中、時には答えなどないと思えても、哲学は避けることができないものだ。私たちはカントの思想からはじめた。懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ、しかし永久にとどまる場所ではない、単に懐疑主義や自己満足に従っても、理性の不安を克服することは決してできない。カントはそう書いた。</p>
<p>この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかをみることだった。我々が少なくとも、それを実行し、その不安が、この先、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。ありがとう（拍手喝采）</p>
<p>THANK YOU !!（拍手喝采）</p>
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		<title>JUSTICE 第１１回「コミュニティの一員としての義務」「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:47:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
		<category><![CDATA[JUSTICE]]></category>

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		<description><![CDATA[Lecture21「コミュニティの一員としての義務」
アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン（共同体主義者）の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。２人の子供が溺れている。どちらか１人しか助けられない。１人はあなたの子供、もう１人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第２次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture21
THE CLAIMS OF COMMUNITY
Lecture22
WHERE OUR LOYALTY LIES　



時間：55:11











Lecture21「コミュニティの一員としての義務」
今日はアリストテレスに対する、カントの反論について考えていこう。
カントはアリストテレスの考えは間違っていると主張した。
権利が保証される公正な枠組みを整え、枠組みの中で人々がそれぞれに思いえがく、善き生を追求することは大事だが、ある特定の善き生の概念に基づいて法律や正義の原理を定めることは強制の危険を犯すことであり、認めることはできないとした。
アリストテレスは理想的な政治体制を追求には最善の生き方を理解しなければならないと述べたが、カントはこれを否定するだろう。カントの意見では政治体制や法律や権利は特定の生き方を具現化し、支持し、促進するべきものではない。なぜなら、自由と対立するからだ。一方アリストテレスにとって法律の本質やポリスの目的とは市民の特性を形成し、市民の美徳をはぐくむ、市民としての卓越性を教え込み、善き生を可能にすることだった。著作「政治学」でそう述べられている。
それに対し、カントにとっては法律の目的や政治体制の意義は、美徳をはぐぐんだり、促進したりするものではなく、権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれに思いえがく善の観念を自由に追求するためのものだ。
これで、２人の正義論の違いがわかったと思う。

法律の意味、憲法の役割、政治の意味において、違いがみられる。これらの違いの根底にあるのは、自由な人間であるのはどういうことかの解釈の違いだ。アリストテレスによれば、人間は自分の潜在の能力を発揮する能力がある限り自由なのだ。
この考えは個人とその個人にふさわしい役割の適合の問題につながる。そのためには、自分が何に向いているか理解するということが必要であり、それが自由の生活をおくるということであり、自分の潜在能力にふさわしい生活を送るということなのだ、カントはその考えを否定し、そのかわりに、自立的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張している。
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自由とは自分が自分に与えらる法則に従って行動すること、すなわち自立を意味する。
カントやロールズの考え方は魅力的で道徳的に説得力のある場合、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。
自由で独立した自己、というイメージは力強くて、開放的なビジョンをもらたす。このビジョンとは自由で道徳的な個人としての私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない、過去のことがらにはしばられない、ということだ。
人間は自分で選ばない限り、いかなる道徳的つながりにしばられることもない。
これが意味するのは、人間は自由で独立した至上権を持った自己だということだ。
人間は自らがつくり出した義務のよってのみ、自らを律するのである。
カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン（共同体主義者）ですら、自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ、という主張には説得力があると認めている。
しかし、コミュニタリアンはそこからは道徳的、政治的、生という側面がそっくり欠けてしまっていると論じる。カント派の考えに従っていけば、一般の人々に広く認めれ、賞賛される道徳的政治的な義務を説明できなくなってしまう。例えば、集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあると、コミュニタリアンは言う。
コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに、物語的観念を用いている。これは自己についてカントなどとは異なる考え方だ。
人間は、本質的に物語をつむぐ動物である。私は何をするべきか、という問いに答えるには、まずどんな物語の中で私は自分の役を見つけれるか、という問いに答えてからでないと答えることはできない。
これがマッキンタイアの言う自己の物語的観念である。
これがコミュニティや帰属意識とどうかかわってくるのか、マッキンタイアはこう述べている。
道徳的な考え方の物語的側面を一度受け入れれば、次のことに気付くだろう。
私は単なる個人として善を求め、美徳を実践することはできない。私たちは皆、特定の社会的アイデンティティーの担い手として、周囲とつきあう。
私は誰かの息子か娘であり、どこかの都市の市民であり、この一族、あの民族、この国民に属している。
従って、私にとって良いことはこのような役割を生きる者にとって、善いことであるはずだ。私は自分の家族、都市、民族、国民の過去から様々な負債や遺産、期待や義務を受け継いでいる。
私の人生にもともと与えられたものであり、私の道徳的な出発点である。それがある程度、私の人生に道徳的特性を与えるのである。
これが自己の物語的観念だ。
これは自己というものはある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。不可をかけられる存在であり、という考え方である。そういった特徴に関心を向けないまま、何をすべきか考えても人生の意味を理解することはできない。心理的な問題としてだけではなく、道徳的な問題としてもだ。
さて、マッキンタイアは自分の物語的観念、負荷ありき自己という図式は現代のリベラリズムや個人主義と対立する、ということを認識する。
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個人主義の観点から言うと、私とは自らこうありたいと、選んだものである。つまり、私は生物学的には父の息子かもしれないが、自分が望まない限りは、父のしたことを責任を負わされることはない。同様に自分が望まない限りは自分の国がしたきたことへの責任を負わされることもない。
しかし、マッキンタイアはそういう考え方は道徳的に浅はかであり、無知であるという。この無知とは、集団的な責任や過去の歴史から生じる責任を含む最も重要な責任を逃れようとする無知である。
彼はいくつか、そのような個人主義の例をあげている。例えば、自分は奴隷を所有したがない、奴隷制がアメリカの黒人に与えた影響について責任を否定する現代アメリカ人を、あるいは、あるいは１９４５年以降に生まれているから、ナチスがユダヤ人に対してしたことは自分と現代ユダヤ人との関係に何の道徳的な関連も持たない、若いドイツ人。
マッキンタイヤによれば、自分が誰であり、自分の義務が何であるかを明らかにし、切り離して考えることはできず、切り離すべきでもない。１度このことがわかれば歴史に対するこのような記憶喪失的な態度は道徳的を放棄することに等しい。マッキンタイアは言う、物語的な自己の見方とコントラストは明らかであり、私の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、私のアイデンティティーはそこから生まれるからである。私は過去と共に生まれてきた。私をその過去から切り離そうとするのは、私の現在の関連をゆがめることになる。
自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない、とする。
マッキンタイアの強力なメッセージをわかってくれたと思う。
さて、個人主義の言う、負荷なき自己に対するコミュニタリアンからの批判について、君たちの反論を知りたい。話を具体的にしよう。君たちの答えが議論だけに限られないように、道徳的、政治的な義務についての２つの異なる考え方についてみていこう。
人格についての概念のどちらを受け入れるかでこの考え方が変わってくる。
リベラルの観念では、道徳的、政治的な義務は次の２つの方法のどちらかで生じる。
１つは人として人を尊重するといったような、私たちが人間に対して生じる、こういう義務は普遍的なものだ。
もう１つはロールズが指摘したような、自発的な義務。約束であれ、取引であれ、契約などであれ、自分が同意したことによって発生する、特定の誰かに対して負う義務だ。
自己の解釈におけるリベラリズムとコミュニタリアニズムとの論点は、義務にはこれとは別のカテゴリーがあるのではないか、ということだ。コミュニタリアンは別のカテゴリーがある、連帯、忠誠心、集団の構成員としての義務とでも呼ぶべき、第３のカテゴリーがあると主張する。コミュニタリアンは全ての義務を自然の義務、あるいは自発的な義務のどちらかにしてしまえば、集団の構成員としての義務や連帯の義務を捉え損なうと考える。
集団の構成員としての義務や連帯の義務を捉え損なうと考える。集団の構成員としての義務が持つ道徳的な力はその義務に従って生きることのみが私たち自身を理解する上で、切り離せないという事実に立脚している。
これから例をあげてみるので、君たちがどう思うか意見を聞きたい。
集団の構成員であるがゆえの義務は特定のものであるが、必ずしも同意によって生じるものではなく、集団の構成員であること、物語、コミュニティ、個人的な状況によって生じるものである。最も一般的な義務は家族に対する義務だ。
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親子関係を例にあげてみよう。２人の子供がおぼれているとする。どちらか１人しか助けられない。１人は君の子でもう１人は見知らぬ人の子だ。コインを投げてどちらか決めることなのか、自分の子の助けに駆けつけなかったら、道徳的に鈍感ではないだろうか。
この場合、君たちは親は子供を持つことに同意している。逆のケース、親に対する子供の義務を考えてみよう。私たちは自分の親を選んでいない。そもそも親を持つことを選んでいない。そこには非対称性がある。しかし、年老いた人がいたとして、１人は君の親、１人は見知らぬ人の親だと考えてみよう。自分の親の面倒をみる義務の方が、コインを投げて決めたり、見知らぬ人の親をみる義務より大きい、と考えることが道徳的に筋が通っていないだろうか、しかしその義務は同意から発生した義務なのか、そうではないだろう。
次は政治的な例を考えみよう。第２次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットが占領下にあるフランスを空爆した。ある日、パイロットの１人自分が攻撃する標的の村は自分のふるさとであることに気付いた。彼は空爆を拒否した。その村への爆撃の必要性が昨日爆撃した村との比べてなかったと考えたからではない、彼はフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとを人々を爆撃するのは道徳的な罪であり、爆撃の行為には参加できないという理由で拒否したのだ。
彼のしたことが賞賛されるとするならば、それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ。とコミュニタリアンたちは主張する。
別の例をあげよう。何年か前にエチオピアで飢饉がおこり、何十万人の人々が飢えに直面した。イスラエル政府はエチオピア系ユダヤ人を救出するために飛行機を手配した。エチオピアにいる全員を助ける能力はなかったので、数百人のエチオピア系ユダヤ人だけを選んで救出したのだ。君たちはこれを道徳的にどう評価するかな？
これは道徳的にみて、問題になる「えこひいき」であり、ある種、偏った愛なのか、あるいは、イスラエル政府が考えたように私たちには連帯という特別な義務があり、空輸による救出作戦はそれに従って行われたのだろうか、それは愛国心というさらに範囲の広い問題へつながる。
道徳的にいって愛国心とは何か。同じフランクリンという名前の街を例にあげよう。１つはテキスト州、もう１つはリオグランデ川を渡ったメキシコにある。
国境の道徳的な重要性とは何か。なぜ私たちはアメリカ人としてテキサス州フランクリンの住民に対し、健康や教育や福祉に対してより大きな責任を負っているのか、川を渡ってすぐのところにあるメキシコ側のフランクリンの住人も同じように生活に困っているのに。コミュニタリアの考え方によれば、集団の構成員であることは重要であり、愛国心が少なくとも潜在的な美徳である理由は、それが市民の義務の１つの現れであるからである。
義務についての第３のカテゴリー、連帯や集団の構成員としての義務がある。という考え方に賛成の人は？共感する人はどれくらいいるかな？では、この考えに反対の人は？全ての義務は最初の２つのカテゴリーで説明できる、という人はどれくらいいるかな？
結構、ではまず、コミュニタリアニズム反対の人の意見を聞こう。君！
学生Ａ：義務を持つという考えについて、僕が一番心配なのは、集団の構成員だとか、連帯という理由で道徳的な拘束力があるものとして、そういう義務を受け入れたら義務が重複して、善と善が対立する可能性が高そうだということです。その場合、自分がどちらかということが許されるかどうかわからないのです。
君の名前は？
学生Ａ：パトリックです。
つまり、君の心配は、集団の構成員であることや連帯の義務を認めたら、私たちは複数のコミュニティに属しているからコミュニティ同士の主張がぶつかる場合があり、義務が競合したらどうするのか、ということだね。君！
学生Ｂ：解決作の１つは自分を人類という究極の構成員とみなすことです。その中に小さな領域があります。例えば、私はアメリカ人だし、ハーバード大学の学生です。でも、私たちが義務を負うべきもっとも大きなコミュニティは人類というコミュニティです。そこから自分にとって最も重要な義務を選ぶことができると思うんです。
名前は？
学生Ｂ：ニコラです。
最も不変的なコミュニティである、人類というコミュニティが常に最優先されるというわけだ。パトリック納得したかな？
学生Ａ（パトリック）：いいえ。
それはなぜ？
特定な義務よりも普遍的な義務を選ぶべきよりは、どちらかと言うと恣意的に思います。僕はまず自分にとって、最も具体的な義務を果たすべきだと思います。コミュニティの最小単位である僕の家族です。僕はまず家族に対して義務を負い、次に街、次に国家、次に人類になるでしょう。
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よろしい、ありがとう。もう１人、コミュニタリアニズムに反対する人の意見を聞きたい。もし、善と善が衝突したらどうするのか、という反論が出たが、コミュニタリアニズムそのものに反対する人、愛国心は弊害の一種であり、乗り越えるのが理想だと考える人は？君！
学生Ｃ：愛国心はコミュニティの構成員であることを反映されおり、与えられたものです。問題は自然で物語意識のある一方で、市民の物語はつくられたものであり、間違った場合もあるということです。リオグランデ川が国境なのは、歴史の偶然なのと同じで、私がメキシコではなく、アメリカ側に生まれたのは偶然なのに、アメリカ側に構成員としての意識を持つのが当然だというのは、おかしな話です
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よろしい。名前は？
学生Ｃ：エリザベスです。
反論のある人は？君！
学生Ｄ：一般的に私たちの道徳的な義務はどこからどのように生じるのかを考える必要があると思います。僕は基本的には、１つは血縁関係から、１つは相互依存生から生じると思います。他人と密接に結びつけば結びつくほど、やりとりは深まり、自然発生的な相互作用が生じるのではないでしょうか。自分の家の近所の人と同様、同じ国の人の方が経済的な交流も多いだろうし、、、。
しかし、私も君もメキシコのフランクリンよりもテキサス州フランクリンのことを知っているわけではないだろう？
学生Ｄ：他の国人よりは同じ国の人の方が交流や取引の点で、おそらく自然につながっているのでは、、。
よろしい、他には？君！
学生Ｅ：愛国心の基礎は大学に対する愛校心や入っている寮に対する気持ちと似ていると思います。新入生は
寮に入ると１日で、その寮に対する愛着や誇りを持つようになります。なので、コミュニタリアニズムのいうところと、道徳的な義務と、単なる情緒的な愛着とは区別がつくのではないでしょうか？
ちょっと待って、名前は？
学生Ｅ：リナです。
さっき、親に対する子供の義務について話をしたが、君はそれについても同じ意見かな？情緒的なつながりだけで道徳的な重みはないのか、そもそも始めの段階で偶然だから、道徳的な義務は発生しないかどうか、私には言い切ることはできません。私たちはどの寮に入るかは選んでいないし、どの親の下に、どの国の下に生まれてくるかを選んでいません。でも、自分が選んでいないからと言って、受け取った便益に基づいて義務を発展させるのは必ずしも否定しませんが。
では、自分の老いた親への義務が世界中の他の老いた親への義務より大きい理由は、君が成長する過程で君の親が与えてくれた便益に報いるため、という以外に理由はない、ということかな？
学生Ｅ（リナ）：例えば、養子縁組のケースを考えると、実の親とは全く交流がなく、育ての親は自分を引き取って育ててくれたわけです。どちらかを選ばなければならないとしたら、自分を慈しんでくれた育ての親に対して、より多くの義務がある、と考える人は多いのではないでしょうか？
親についてもう１つ聞きたい。悪い親の場合、親への義務は少なくなるかな？
学生Ｅ（リナ）：わかりません、悪い親を持ったことがないので。（会場笑い）
閉めの言葉としていいので、ここで終わろう。次回もこのテーマを続けよう。




Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」
コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。ふるさとと祖国のコミュニティに属していた例を考えよう。南北戦争の前夜、アメリカ南部のヴァージニアにふるさとを持っていた北軍のリー大佐の話。彼は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対し、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとしたが、リーはそれを断った。リーは連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれなかったのだ。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。彼は祖国よりもより身近なふるさとというコミュニティの義務を選んだのだ。講義では他に２つの例が示されるが、どちらもより身近な限定的なコミュニティを選んでいる。おそらくほとんどのアメリカ人も祖国アメリカよりも自分の家族の方が大事だと考えているだろう。しかし、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦ったという例も当然あったのだ。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示している。つまりコミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないと言えそうだ。ある特定のコミュニティの中でだけ「是」とされるだけならば、正義の原理があるとは言えない。ある時代のある社会においてのみ通用する共通の理解や価値観や習わしへの忠誠心に過ぎなくなってしまう。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。



Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」
 今回、取り上げてみたいのは、コミュニティの構成員であることや、連帯から生じる義務があるという考え方に対する、もっとも強力な反論だ。そこからこれらコミュニティから生まれる義務が擁護できるものかどうか検討していく。
前回の議論の中から１つ反論がでてきた。パトリックがうまく言ってくれたが、あるコミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。
これは、考えられる反論の１つだ。
そして、前回の講義で、あるコミュニティの構成員であることから生じる、道徳的な力を明らかにするためにいくつかの例を出した。親と子供の例。フランスのレジスタンスの兵士が自分のふるさとの村を爆撃するように命じられて拒否した例だ。イスラエルによるエチオピア系ユダヤ人救出の例だったが、これらの例は直感に訴えかけるものかもしれないが、実際には、感情的な問題、情緒的な問題を示しているのであって、真に道徳的な義務を示しているのではない、とリナが発言してくれた。
そして、このような愛国心、自体に対する反論ではなく、個人の同意を超えた、コミュニティンの意識や連帯から生じる義務としての、愛国心に対しても、多くの反論があった。
この反論は愛国心の義務も含め、自分が属するコミュニティに対する義務がありえることを認めはするが、愛国心やコミュニティの構成員であることから生じる全ての義務は、実際にはリベラルな考え方に基づいており、リベラリズムと相反しないと主張する。
それらはコミュニティの構成員だから生じている義務ではなく、暗黙のあるいは明白な同意や相互性に基づく義務だからである。
例えば、ジュリアはこの講義のウェブサイトでリバラリズムはカント的な愛国心を自発的な道徳的義務として支持することが可能だと述べた。愛国心と家族愛は両方とも、このカテゴリーに入る。ジュリアが指摘したようにカント的な枠組みは個人が望むのであれば、愛国心のような美徳を選ぶ選択の自由を認めているからだ。そのため、コミュニティの価値観の道徳的な力を説明するのに、わざわざ自発的でない道徳的義務という考え方を持ち出す必要はない。
ジュリアは、、そっか、君の意見の要約は今のでいいのかな。ジュリアの意見はまさにロールズがこのテーマについて言っていることとピッタリと一致している。そのことを知っていたかなぁ。
学生Ａ（ジュリア）：（ジュリア首を横に振る）
では君は自力で結論に達したわけだ！素晴らしい！
ロールズは政治的義務についてこう述べた。自らの意思でそれを選ぶのなら、選挙に出たり、軍に入隊したりするのもいいだろう。しかし、厳密に言えば、市民一般には何の政治的義務もない。なぜなら、市民を拘束するのに必要な行為は何なのか、誰がそれを実行するのか、明らかでないからだ。
そこからロールズは普通の市民には、政治的義務はないとする。ただし、特定の市民が自ら望み、同意した上で政治的義務を選択し引き受ける場合は別だと主張する。これはジュリアの主張と全く同じだ。これはもう１つ別の反論と関係してくる。
自分は家族、あるいは祖国に対して、特定の義務を負う。という考えることには全く問題がない。ただし、それらの義務を尊重することが、人として人を尊重するというような自然の義務や不変的に求められるものを妨げない限り、という条件付きである。
この考え方は個人や国や国民や家族に対する忠誠心を表現したければ、それでかまわない。ただし、不変的な義務が優先されることを認め、その枠組みの中で、いかなる不正行為を行わない。という条件付きで、とする考え方と同じだ。
講義ではふれなかった、もう１つの反論は、コミュニティの構成員であることから生じる義務は、集合的な利己主義ではないのか！というものだ。名誉なことはないのではないか。単なる偏った愛ではないのか。
さて、コミュニティの構成員としての義務に対して、批判的な意見をウェブに書き込んでくれた諸君は、下に降りて来て集まってくれないか。前にもやったようにチームをつくり、愛国心はコミュニティから生じる義務だと考える人たちに、君たちが反論できるかどうか、やってみよう。
さて、コミュニタリアンが考えているように、愛国心を擁護する人は大勢いた。それなら、私は愛国心批判派、コミュニタリアニズム批判派に加わることにしよう。使えるマイクあるかなぁ、ありがとう。ケイト。
愛国心、コミュニティから生まれる愛国心を共有すべきだ、という考え方に反対の人は、ここに勢力を結集しよう。パトリック、君も参加したければぜひ、リーナもぜひ。このテーマについて発言した人は自由に参加して欲しい。
しかしまずは、愛国心を擁護する側の意見を聞きたい。純粋に個人の同意を根拠付けることができなくとも、リベラルな考え方で正当化できなくとも、愛国心は道徳的な義務である、と考える人の意見を聞きたい。
AJクマールは、AJ？君は有名人だな？ではAJの意見を聞こう。君はこう言ったね。私が一般的なコミュニティよりも家族の方により多くを負っていると感じているのと同じように、全人類よりも祖国の方により多くを負っていると感じているのは、祖国が自分のアイデンティの形成において重要だからだ。祖国を愛するのは弊害ではない。それは自分の親を他人の親より愛するのは弊害ではないのと同じだと言った。さぁ、AJ、批判派をどう説得する。
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学生Ｂ（AJ）：人間には、自分のアイデンティティーを形成するコミュニティーの人々に対する共同的な責任があり、そこからくる根本的な道徳的義務があると思います。例えば、今の政府について僕が支持しないことはたくさんあります。でも、僕のアイデンティティーの一部はアメリカが反対意見の表明を許す自由な社会を重んじることにあります。それも愛国心の表現の１つの形です。ハーバードの例に戻るとルームメイトは僕のアイデンティティーを形成しているので、大学のコミュニティの全体よりも多くを負っています。それと同じことが祖国にも言えます。もちろん親も国も選べませんが、そこで育ったということがアイデンティティーの一部をつくりあげているからです。
よろしい。誰か他には？マイク！
学生Ｃ（マイク）：他人に対して義務を負う理由として、ただ単にその人たちから影響を受けているからというtことが、理由になるかどうかについてですが、僕はドイツ国籍ですが、もし、８０年早く生まれていたら、ナチスドイツ構成員だったことになります。でも、ナチスにしたことにより、自分が便益を受けたからと言って、ドイツに義務を感じるとは、とても思えないんです。
学生Ｂ（AJ）：今、アメリカには平和こそ愛国だと、プラカードを掲げて抗議する人が何十万人もいます。この教室には抗議行動に反対の人もいるでしょうが、僕は賛成です。彼らはブッシュ政権がしていること全てに強く反対していますが、同時に祖国を愛しています。祖国にとって最善の大義のために抗議をしているからです。僕も愛国的な運動としてそれに賛成したい気がしています。
学生Ｃ（マイク）：なぜ、祖国を好きでいられるんですが、なぜそれでも愛国的なのですか？それは感情的な愛着じゃないですか。義務はどこにあるのですか？
学生Ｄ：議論をジョンロックまで戻すべきではないでしょうが、私はジョンロックまで戻りたいと思います。（会場笑い）ロックの考え方では、人間が社会に参加しても出口があります。社会が気にいらなかったら出ていくことができます。自分で選んでその社会に生まれてくるわけではないし、出て行くことは現実問題としては難しいと思いますが、それでも出て行くことができないわけではありません。でも、個人が社会に負う義務が道徳的なものだとすれば、人間は自分の属する社会が、どんな社会になるのかを知る前に、また、自分の地位がどのようになるのかを知る前に、自分の個人的な心情とは全く相容れないコミュニティに拘束される義務を負うことになるのです。
つまり、コミュニティから生じる義務や愛国心はコミュニティに道徳的の白紙委任状を与えてしまうことにになるというわけだ。
学生Ｄ：基本的にはそうです。そのコミュニティで育つ過程で相互性に基づいてある種の義務を負うようになるのは道理にかなっていると思いますが、最初から道徳的な義務を負っているというには、もっと強い理由がなければ正当化されないと思います。
他の意見を付け加えた人は？
学生Ｅ：個人と社会がお互いに利益を享受していれば、社会に対して道徳的義務があると言えます。それが社会に参加するという意味で、税金を払い、投票するというのは、私たちが社会に何かを負っているからです。とはいえ、社会の構成員たちは自動的に何かを追うとは思いません。保護や安全を与える限りは私たちは社会に何かを追いますが、それは私たちが社会に与えるものを超えることはありません。
他に意見は？ラウル！
学生Ｆ（ラウル）：その意味では、コミュニティに道徳の白紙委任状を与えるとは思いません。道徳の白紙委任上は与えるのは、私たちが市民の責任についての判断を放棄し、愛国心は悪だから、この議論は無意味だと言う時だけです。僕は愛国心は重要だと思います。コミュニティ意識、共通の市民的な美徳の意識をもたらすからです。政府のやり方に賛成ではなくても、自分の国を愛して、このその行動を嫌悪することは可能です。祖国に対する愛があるから、他の人と討論し、彼らの意見を尊重し、議論に関わることができるわけです。しかし、ただ単に愛国心は悪だと言ってしまえば、議論から降りてしまうことになり、もっときょうこうな考えを持ち、コミュニティにその考え方を強制する、原理主義者に人知をゆずってしまうことになります。そうではなく、同じ道徳的人知に立って、他のメンバーと関わるべきでしょう。
AGとラウルの言っているのは、とても多元主義的、論争的、批判思考の強い愛国心だが、愛国心を批判する側が懸念していることは、愛国的な義務はコミュニティの一員として、当然だ、ということになると、私たちが国家に関する心情や行動や習慣を自分の意思で選ぶことを許さないような、忠誠心になってしまうのではないか、ということだ。さらに、私たちが追求しているのは、正義の原理に対する忠誠心だとしたら、それが私たちのコミュニティで通用している場合もそうでない場合もある。
そうでない場合、その実現を拒否できるのであろうか。私にはわからない。失礼、答えを言ってしまったも同じだね。夢中になり過ぎた。ジュリア！
学生Ａ（ジュリア）：まず、愛国心が何であるか、定義すべきだと思います。私たち批判派は愛国心を弱い意味で捉えていると思われがちですが、逆にコミュニタリアンの方が社会の中で市民が議論に参加すること程度にしか捉えていない程度に聞こえ、愛国心の道徳的価値を埋没させていると思います。愛国心をもっと強いものだと考えれば、もっと強い道徳的な義務が生じるのではないでしょうか？
はっきりと議論すべきなのは、コミュニタリアニズム擁護派から出された例で、どのような場合に、コミュニティへの忠誠心が普遍的な正義と競合したり、忠誠心が正義の原則を上回る可能性があるのか、という点だ。それが一番難しいテストではないかな？
それについて、皆に聞いてみたい。君たちの中で、原則からすれば正義でなくても、コミュニティの構成員や連帯からくる義務を優先する、という人はいるかな？普遍的な道徳的観念や人として人に対する敬意よりも、コミュニティへの忠誠心が勝った。あるいは、勝るべきという例をげられる人はいるかな？君！
学生Ｇ：経済学の課題中、ルームメイトがカンニングしているのを見たとします。いけないことかもしれません。僕は彼を大学当局には突き出しません。
突き出さないのか？
学生Ｇ：突き出しません。突き出さないことが正しいのです。僕は彼に義務があるからです。いけないことかもしれませんが、僕は黙認するでしょう。多くの人もそうすると思います。
よろしい、これはいいテストだ。ルームメイトというコミュニティの名において行うことが、普遍的な正義の原理と競合するという例だ。ちょっと待って！君の名は？
学生Ｇ：ダンです。
ダン、皆はダンがあげた例をどう思うかな？これは忠誠心の倫理を問うより難しいケースだ、しかもより真実みがある。ダンに賛成する人は？（会場わりと手があがる）いやぁ、忠誠心は大事なようだねぇ。ダンに反対する人は？（会場笑い）ペディ！
学生Ｈ（ペディ）；私も黙認しますが、それは選択であり、正しい正しくないではないのです。私はルームメイトの方を選ぶという正しくないとう選択をしますが、その選択が道徳的に正しくないことはわかっています。
君はダンの忠誠心ですらも、選択の問題だと言うわけだね。しかし、何が正しい行いなのか、ほとんどの人はダンがルームメイトを守り、彼を突き出さないのは正しいと賛成している。君！
学生Ｉ：ルームメイトという立場から得た、いわばインサイダー情報を利用したくない、ということもあります。それを持ち出して、彼を告白するのは、不公正かもしれません。一緒に長い時間を過ごすルームメイトについては多くを知ることになりますが、それをもっと多くのコミュニティに暴露するのはフェアではないでしょう。
つまり、忠誠心だねぇ。君はダンに賛成？忠誠心がここで問題になる倫理だね。
学生Ｉ：その通りです。
君には真実を告げる義務、不正行為を告発義務はないのか？
学生Ｉ：ないと思います。その情報を得るのに、有利な立場にいた場合には。
愛国心批判派が席に戻る前に、もう１つ別の例をあげよう。
私はこれを忠誠心についてのダンのジレンマと呼ぶことにするが、次の例はもっと公共的な例だ。
この例について君たちの意見を聞いていきたい。これは数年前にマサチューセッツで起こったことだ。これが誰だが知っている人は？
学生Ｊ：ビリー・バルジャー
そう、ビリー・バルジャー、正解だ！ビリー・バルジャーとは誰か。バルジャーは長年マサチューセッツ州の州議会議長を務めた人だ、マサチューセッツのもっとも有力な政治家の１人であり、マサチューセッツ大学の学長にもなった。皆はダンのジレンマを抱えたビリー・バルジャーの話は知らないかなぁ？ビリー・バルジャーにはワイティー・バルジャーという弟がいる。ワイティー・バルジャーをみてもらおう。
ビリーの弟、ワイティーはFBIの最重要指名手配に載っている。ボストンのギャングのリーダーであり、多くの殺人に関与した疑いがかけられているが、現在も逃走中だ。しかし、アメリカ連邦検事が陪審が始まる前に当時マサチューセッツの学長だった兄ビリー・バルジャーを呼び出す。逃走中の弟の行き先について情報を求めた時、兄ビリーは情報提供を拒否した。連邦検事はこう尋ねた。お聞きしますが、バルジャーさん、マサチューセッツ州よりも弟の方に忠誠心を感じられるのですか？ビリー・バルジャーは答えた。そんな風に考えたことはありませんが、もちろん弟のことを大切に思っています。弟と対立する人間に手をかさずにすむように願っていますし、弟をつかまえようとする人に協力する義務はありません。
ダン、君は賛成だろうね？ビリー・バルジャーの姿勢に賛成する人は？（会場手をあげる人もいる）もう１つ別の例をあげてから忠誠心批判派の反論意見を聞こう。
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今度はアメリカの歴史上の人物のより運命的な例だ。その人物とはロバート・E・リー。南北戦争の前夜、彼は北軍の大佐だった。リー大佐は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対で、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとした。しかし、リーはそれを断り、息子たちの手紙の中で自分が拒否した理由を説明した。
私の連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれない。ふるさととヴァージニアのことだ。連邦が解体したら、私はふるさとの州に戻り、同郷の人々と窮状（キュウジョウ大変困っているようす）を分かち合おう。ふるさとを守る以外に私が剣を抜くことはない。
ここに真のテストがある。ダン！君の忠誠心の原理のテストだ。南北戦争の北軍の大義は連邦の維持だけではない、奴隷制反対もかかっていた。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。コミュニタリアンは彼の行動は賞讃されるべきだと言うだろう。彼の判断は究極的には正しいかはさておき、賞讃に値するところがあると言うだろう。
リー大佐のジレンマを道徳的ジレンマとして理解するには、彼が何者であるか、彼はどこで育ったのか、というような物語的に生じている忠誠心から、情緒的、感傷的葛藤ではなく、道徳的葛藤が生まれていると認識することが必要だ。
ダンやビリー・バルジャーやリー大佐の忠誠心に対して、何か言うことがある人は？どうかな？ジュリア！
学生Ａ（ジュリア）：彼らのケースはどれも家族と国家というような対立するコミュニティが存在して、複数の影響力が及んでしまうという典型的な例です。義務を自分で選択できることが重要な理由は、自分で選ばなければ解決できないからです。どちらのコミュニティに対しても道徳的義務を負っているとすれば、身動くがとれません。ですから選ぶことが必要です。その場合、たまたま、このコミュニティの構成員だからという恣意的な事実ではなく、他の要素に基づいて選ぶことができることが重要です。そうでなければ、選択は成り行き任せになる他なくなります。
ジュリア、問題はダンやビリー・バルジャーやリー大佐が選択をしたかどうかではない。もちろん、彼らは選択をしている。だが、問題は何の原理を下に選ぶかということだ。コミュニタリアはなされるべき選択を否定してはいない。問題は選ぶ際に何を根拠に選ぶか、忠誠心、それ自体をどこまで重視するかということだ。アンドレ、君はどう思う？何と言う？
学生Ｊ（アンドレ）：これら３つのケースでは、全員自分が所属するもっとも身近なより限定的なコミュニティを選んでいます。これは注目すべきことで、単なる偶然ではないと思います。実はそこには対立はないんじゃないでしょうか。３人ともどちらが自分にとって重要なのか、はっきりわかっているように思います。なぜなら、経済学のクラスよりルームメイト、マサチューセッツ州より自分の弟、祖国よりふるさとの衆とわかっているからです。それが何がより重要かということに対する答えだと思います。
自分にとって身近でより限定的なものの方が常に道徳的に重みがあると。
学生Ｊ（アンドレ）：この３つの例では、同じ傾向があると思います。私はそれに同意します。おそらく私たちのほとんどはアメリカ合衆国より自分の家族の方が大事だと考えているんじゃないでしょうか。
だから、君はダンと同じに経済学のクラスの真実よりもルームメイトへの忠誠心をとるわけだ。
学生Ｊ（アンドレ）：はい、その通りです。だって、そうでしょう。
経済学の真実じゃなくて、真実を言うということだよ。よろしい、ありがとう。（会場笑い）君！
学生Ｋ：でも、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦った例もありました。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示しています。つまり、コミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないのです。私はコミュニタリアニズムの最大の問題点は道徳的義務に基準がないことだと思います。
名前は？
学生Ｋ：サマンサ
サマンサ、君はパトリックの側だね。パトリックは義務がそのコミュニティの構成員というアイデンティによって定義されてしまったら、義務同士が対立したり、重複したり、競合したりするかもしれない。そこに明らかな原則はないからだ、と指摘した。
アンドレは最も身近なコミュニティを選ぶという明らかな原則があると言い、ニコラは人として、もっとも普遍的な義務が最優先されるべきだと主張した。サマンサ！君が言うのは、コミュニティの大きさ、短さのようなものは決定的な道徳的要因にはなりえない。だから、他に何か道徳的な基準がなければならない。ということだね。
よろしい、では、コミュニティで生まれる愛国心の考え方に面々、立ったままで議論に答えてくれてありがとう。おかげで問題が明快になった。
ここで、私たちがここまで議論してきた正義について、その意味合いについて考えてみよう。
それぞれ、独立した道徳的重みを持つ構成員であり、忠誠心を持つべきだという考え方に、複数の反対意見が出たが、その根底にある懸念とは、特定のコミュニティの存在する善き生、という概念から離れては、正義の原理を見つけることはできない。
と、主張しているところにあるようだ。
仮にコミュニタリアンの議論が正しいとしよう、権利が常に善より優先されるという主張は維持できないとしよう。その変わり、正義と権利とは善という概念と密接に関係しているとしよう。それが意味するのは、正義とはただ単にその時代、そのコミュニティにおいて、たまたま是とされている価値観や、ならわしからつくられるものに過ぎない、ということなのか。コミュニタリアニズムを主張する思想家の１人、マイケル・ウォルツァーは正義の意味合いについて、次のように述べている。
正義は、社会的な意味に相関している。ある社会が正しいのは、その社会の実質的な生が、その社会の構成員の共通の理解に忠実な方法で営まれている場合である。
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ウォルツァーの説明は私たちの懸念を裏付けているように思える。もし、独立した正義の原理、ある特定のコミュニティの中で是とされる善の観念に左右されない正義の原理を見つけることができなければ、正義とはある時代のある社会においてのみ、通用する共通の理解や価値観や、ならわしへの忠誠心に過ぎなくなってしまうのではないか。
しかし、それが、正義について考えるのに、打倒な方法だろうか。
さて、ここでドキュメンタリーの一場面を見てもらおう。タイトルは「獲得すべきものを見据えて」。これは１９５０年代の南部を取り上げた作品だ。当時、南部には、人種分離を社会の共通認識である、伝統だと考える人々がいた。彼らが忠誠心と伝統について話しているのを聞くと、正義の議論をある時代のある社会において広まっている共通認識や伝統に安易に結びつけてしまうことに対して、君たちも不安を感じるのではないだろうか。
では、映像をみて欲しい。
ムービー：この土地には白人と黒人の２つの文化があります。生まれてから今まで両方を身近に感じてきました。しかし、私たちのしてきたことは虐待であり、変わらなければならないと言われている。変化は考えていたよりずっと早く始まっています。新しい考え方で決めろと言われても南部人には難しい。
これで、わかったと思う。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。それとも、この例を見てもまだ、その主張を救う道があるだろうか。
それについては次回の講義で。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture21「コミュニティの一員としての義務」</p>
<p>アリストテレスの考えをカントは否定する。彼らの違いの根底にあるものは「自由の考え方について」だ。アリストテレスは理想的な政治体制を追求するには最善の生き方を理解する必要があるとするが、カントはそれを具現化すれば自由と対立すると否定するだろう。アリストテレスの国の目的は市民の美徳をはぐくみ善き生を可能にすることだが、カントは権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれ思いえがく善の観念を自由に追求するべきだと否定するだろう。アリストテレスの自由とは、自分が何に向いているのかを理解し、その潜在能力を発揮できるような生活を送ること。自分の潜在的な役割と適合できることが自由だとする。カントは自由とは自分が自分に与えられる法則に従って行動すること、すなわち自律を意味する。自律的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張する。ロールズもそうだが、カント派の考え方が魅力的だと思えるのは、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない。過去のことがらにはしばられない、ということだ。ここで、カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン（共同体主義者）の考え方をみてみよう。批判する彼らも「自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ」という主張には説得力があることは認めている。しかし、国や家族といった集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあるのではないだろうか。コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに「物語的観念」を用いる。自分の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、自分のアイデンティティーはそこから生まれるのだ。自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない。集団の構成員であるがゆえの義務は、必ずしも同意によって生じたりはしていない。例えば家族という集団に対するあなたの義務。２人の子供が溺れている。どちらか１人しか助けられない。１人はあなたの子供、もう１人は見知らぬ子。コインを投げて助ける方を決めることなのか、自分の子を助けに駆けつけなかったら、どこか道徳的に鈍感なのではないだろうか。逆のケース、自分の親と他人の親のどちらの面倒を見るか、コインで決めることなのか、自分の親の面倒をみる義務の方が大きいと思うことの方が、道徳的に筋が通っていないだろうか。もっと大きな集団の例だと、第２次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットはフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとの人々を爆撃するのは道徳的に罪だとして、空爆を拒否した。それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ、とコミュニタリアンたちは言う。しかし、反論もある。コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうということだ。これについては次回。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/iOotE9_OGGs&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/iOotE9_OGGs&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture21<br />
<strong>THE CLAIMS OF COMMUNITY</strong><br />
Lecture22<br />
<strong>WHERE OUR LOYALTY LIES</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:11
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
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</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture21「コミュニティの一員としての義務」</font></h2>
<p>今日はアリストテレスに対する、カントの反論について考えていこう。</p>
<p>カントはアリストテレスの考えは間違っていると主張した。<br />
権利が保証される公正な枠組みを整え、枠組みの中で人々がそれぞれに思いえがく、善き生を追求することは大事だが、ある特定の善き生の概念に基づいて法律や正義の原理を定めることは強制の危険を犯すことであり、認めることはできないとした。<br />
アリストテレスは理想的な政治体制を追求には最善の生き方を理解しなければならないと述べたが、カントはこれを否定するだろう。カントの意見では政治体制や法律や権利は特定の生き方を具現化し、支持し、促進するべきものではない。なぜなら、自由と対立するからだ。一方アリストテレスにとって法律の本質やポリスの目的とは市民の特性を形成し、市民の美徳をはぐくむ、市民としての卓越性を教え込み、善き生を可能にすることだった。著作「政治学」でそう述べられている。</p>
<p>それに対し、カントにとっては法律の目的や政治体制の意義は、美徳をはぐぐんだり、促進したりするものではなく、権利が保証される公正や枠組みを構築し、その枠組みの中で市民がそれぞれに思いえがく善の観念を自由に追求するためのものだ。</p>
<p>これで、２人の正義論の違いがわかったと思う。<br />
<span id="more-3102"></span><br />
法律の意味、憲法の役割、政治の意味において、違いがみられる。これらの違いの根底にあるのは、自由な人間であるのはどういうことかの解釈の違いだ。アリストテレスによれば、人間は自分の潜在の能力を発揮する能力がある限り自由なのだ。<br />
この考えは個人とその個人にふさわしい役割の適合の問題につながる。そのためには、自分が何に向いているか理解するということが必要であり、それが自由の生活をおくるということであり、自分の潜在能力にふさわしい生活を送るということなのだ、カントはその考えを否定し、そのかわりに、自立的に行動する能力という、自由についてよく知られた厳しい考え方を主張している。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
自由とは自分が自分に与えらる法則に従って行動すること、すなわち自立を意味する。</p>
<p>カントやロールズの考え方は魅力的で道徳的に説得力のある場合、自由で独立した自己としての個人、自分の目標を自分で選ぶ能力がある個人、という捉え方にある。</p>
<p>自由で独立した自己、というイメージは力強くて、開放的なビジョンをもらたす。このビジョンとは自由で道徳的な個人としての私たちは歴史や伝統など自分が自ら選んだわけではない、過去のことがらにはしばられない、ということだ。</p>
<p>人間は自分で選ばない限り、いかなる道徳的つながりにしばられることもない。<br />
これが意味するのは、人間は自由で独立した至上権を持った自己だということだ。<br />
人間は自らがつくり出した義務のよってのみ、自らを律するのである。</p>
<p>カント派やロールズ派の考えを批判するコミュニタリアン（共同体主義者）ですら、自由とは自由で独立した自己が自らの行動を選びとることだ、という主張には説得力があると認めている。</p>
<p>しかし、コミュニタリアンはそこからは道徳的、政治的、生という側面がそっくり欠けてしまっていると論じる。カント派の考えに従っていけば、一般の人々に広く認めれ、賞賛される道徳的政治的な義務を説明できなくなってしまう。例えば、集団の構成員としての義務や忠誠心、連帯など、その人自身には同意したことなくても、人間には守らなければならない道徳的なつながりがあると、コミュニタリアンは言う。</p>
<p>コミュニタリアニズムの政治哲学者、アラスデア・マッキンタイアは自己を説明するのに、物語的観念を用いている。これは自己についてカントなどとは異なる考え方だ。</p>
<p>人間は、本質的に物語をつむぐ動物である。私は何をするべきか、という問いに答えるには、まずどんな物語の中で私は自分の役を見つけれるか、という問いに答えてからでないと答えることはできない。</p>
<p>これがマッキンタイアの言う自己の物語的観念である。</p>
<p>これがコミュニティや帰属意識とどうかかわってくるのか、マッキンタイアはこう述べている。<br />
道徳的な考え方の物語的側面を一度受け入れれば、次のことに気付くだろう。</p>
<p>私は単なる個人として善を求め、美徳を実践することはできない。私たちは皆、特定の社会的アイデンティティーの担い手として、周囲とつきあう。<br />
私は誰かの息子か娘であり、どこかの都市の市民であり、この一族、あの民族、この国民に属している。</p>
<p>従って、私にとって良いことはこのような役割を生きる者にとって、善いことであるはずだ。私は自分の家族、都市、民族、国民の過去から様々な負債や遺産、期待や義務を受け継いでいる。</p>
<p>私の人生にもともと与えられたものであり、私の道徳的な出発点である。それがある程度、私の人生に道徳的特性を与えるのである。</p>
<p>これが自己の物語的観念だ。</p>
<p>これは自己というものはある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定される。不可をかけられる存在であり、という考え方である。そういった特徴に関心を向けないまま、何をすべきか考えても人生の意味を理解することはできない。心理的な問題としてだけではなく、道徳的な問題としてもだ。</p>
<p>さて、マッキンタイアは自分の物語的観念、負荷ありき自己という図式は現代のリベラリズムや個人主義と対立する、ということを認識する。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
個人主義の観点から言うと、私とは自らこうありたいと、選んだものである。つまり、私は生物学的には父の息子かもしれないが、自分が望まない限りは、父のしたことを責任を負わされることはない。同様に自分が望まない限りは自分の国がしたきたことへの責任を負わされることもない。</p>
<p>しかし、マッキンタイアはそういう考え方は道徳的に浅はかであり、無知であるという。この無知とは、集団的な責任や過去の歴史から生じる責任を含む最も重要な責任を逃れようとする無知である。</p>
<p>彼はいくつか、そのような個人主義の例をあげている。例えば、自分は奴隷を所有したがない、奴隷制がアメリカの黒人に与えた影響について責任を否定する現代アメリカ人を、あるいは、あるいは１９４５年以降に生まれているから、ナチスがユダヤ人に対してしたことは自分と現代ユダヤ人との関係に何の道徳的な関連も持たない、若いドイツ人。</p>
<p>マッキンタイヤによれば、自分が誰であり、自分の義務が何であるかを明らかにし、切り離して考えることはできず、切り離すべきでもない。１度このことがわかれば歴史に対するこのような記憶喪失的な態度は道徳的を放棄することに等しい。マッキンタイアは言う、物語的な自己の見方とコントラストは明らかであり、私の人生の物語は、常にコミュニティーの物語に深く根付いており、私のアイデンティティーはそこから生まれるからである。私は過去と共に生まれてきた。私をその過去から切り離そうとするのは、私の現在の関連をゆがめることになる。</p>
<p>自己は集団の構成員であること、歴史、物語との、特定のつながりから切り離すことはできず、切り離すべきでもない、とする。</p>
<p>マッキンタイアの強力なメッセージをわかってくれたと思う。</p>
<p>さて、個人主義の言う、負荷なき自己に対するコミュニタリアンからの批判について、君たちの反論を知りたい。話を具体的にしよう。君たちの答えが議論だけに限られないように、道徳的、政治的な義務についての２つの異なる考え方についてみていこう。</p>
<p>人格についての概念のどちらを受け入れるかでこの考え方が変わってくる。<br />
リベラルの観念では、道徳的、政治的な義務は次の２つの方法のどちらかで生じる。</p>
<p>１つは人として人を尊重するといったような、私たちが人間に対して生じる、こういう義務は普遍的なものだ。<br />
もう１つはロールズが指摘したような、自発的な義務。約束であれ、取引であれ、契約などであれ、自分が同意したことによって発生する、特定の誰かに対して負う義務だ。</p>
<p>自己の解釈におけるリベラリズムとコミュニタリアニズムとの論点は、義務にはこれとは別のカテゴリーがあるのではないか、ということだ。コミュニタリアンは別のカテゴリーがある、連帯、忠誠心、集団の構成員としての義務とでも呼ぶべき、第３のカテゴリーがあると主張する。コミュニタリアンは全ての義務を自然の義務、あるいは自発的な義務のどちらかにしてしまえば、集団の構成員としての義務や連帯の義務を捉え損なうと考える。</p>
<p>集団の構成員としての義務や連帯の義務を捉え損なうと考える。集団の構成員としての義務が持つ道徳的な力はその義務に従って生きることのみが私たち自身を理解する上で、切り離せないという事実に立脚している。</p>
<p>これから例をあげてみるので、君たちがどう思うか意見を聞きたい。</p>
<p>集団の構成員であるがゆえの義務は特定のものであるが、必ずしも同意によって生じるものではなく、集団の構成員であること、物語、コミュニティ、個人的な状況によって生じるものである。最も一般的な義務は家族に対する義務だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
親子関係を例にあげてみよう。２人の子供がおぼれているとする。どちらか１人しか助けられない。１人は君の子でもう１人は見知らぬ人の子だ。コインを投げてどちらか決めることなのか、自分の子の助けに駆けつけなかったら、道徳的に鈍感ではないだろうか。</p>
<p>この場合、君たちは親は子供を持つことに同意している。逆のケース、親に対する子供の義務を考えてみよう。私たちは自分の親を選んでいない。そもそも親を持つことを選んでいない。そこには非対称性がある。しかし、年老いた人がいたとして、１人は君の親、１人は見知らぬ人の親だと考えてみよう。自分の親の面倒をみる義務の方が、コインを投げて決めたり、見知らぬ人の親をみる義務より大きい、と考えることが道徳的に筋が通っていないだろうか、しかしその義務は同意から発生した義務なのか、そうではないだろう。</p>
<p>次は政治的な例を考えみよう。第２次世界大戦中、フランスのレジスタンスのパイロットが占領下にあるフランスを空爆した。ある日、パイロットの１人自分が攻撃する標的の村は自分のふるさとであることに気付いた。彼は空爆を拒否した。その村への爆撃の必要性が昨日爆撃した村との比べてなかったと考えたからではない、彼はフランス解放という大義のためであっても、自分のふるさとを人々を爆撃するのは道徳的な罪であり、爆撃の行為には参加できないという理由で拒否したのだ。</p>
<p>彼のしたことが賞賛されるとするならば、それは私たちが連帯の義務を認識しているからだ。とコミュニタリアンたちは主張する。</p>
<p>別の例をあげよう。何年か前にエチオピアで飢饉がおこり、何十万人の人々が飢えに直面した。イスラエル政府はエチオピア系ユダヤ人を救出するために飛行機を手配した。エチオピアにいる全員を助ける能力はなかったので、数百人のエチオピア系ユダヤ人だけを選んで救出したのだ。君たちはこれを道徳的にどう評価するかな？</p>
<p>これは道徳的にみて、問題になる「えこひいき」であり、ある種、偏った愛なのか、あるいは、イスラエル政府が考えたように私たちには連帯という特別な義務があり、空輸による救出作戦はそれに従って行われたのだろうか、それは愛国心というさらに範囲の広い問題へつながる。</p>
<p>道徳的にいって愛国心とは何か。同じフランクリンという名前の街を例にあげよう。１つはテキスト州、もう１つはリオグランデ川を渡ったメキシコにある。</p>
<p>国境の道徳的な重要性とは何か。なぜ私たちはアメリカ人としてテキサス州フランクリンの住民に対し、健康や教育や福祉に対してより大きな責任を負っているのか、川を渡ってすぐのところにあるメキシコ側のフランクリンの住人も同じように生活に困っているのに。コミュニタリアの考え方によれば、集団の構成員であることは重要であり、愛国心が少なくとも潜在的な美徳である理由は、それが市民の義務の１つの現れであるからである。</p>
<p>義務についての第３のカテゴリー、連帯や集団の構成員としての義務がある。という考え方に賛成の人は？共感する人はどれくらいいるかな？では、この考えに反対の人は？全ての義務は最初の２つのカテゴリーで説明できる、という人はどれくらいいるかな？</p>
<p>結構、ではまず、コミュニタリアニズム反対の人の意見を聞こう。君！</p>
<p>学生Ａ：義務を持つという考えについて、僕が一番心配なのは、集団の構成員だとか、連帯という理由で道徳的な拘束力があるものとして、そういう義務を受け入れたら義務が重複して、善と善が対立する可能性が高そうだということです。その場合、自分がどちらかということが許されるかどうかわからないのです。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ａ：パトリックです。<br />
つまり、君の心配は、集団の構成員であることや連帯の義務を認めたら、私たちは複数のコミュニティに属しているからコミュニティ同士の主張がぶつかる場合があり、義務が競合したらどうするのか、ということだね。君！</p>
<p>学生Ｂ：解決作の１つは自分を人類という究極の構成員とみなすことです。その中に小さな領域があります。例えば、私はアメリカ人だし、ハーバード大学の学生です。でも、私たちが義務を負うべきもっとも大きなコミュニティは人類というコミュニティです。そこから自分にとって最も重要な義務を選ぶことができると思うんです。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｂ：ニコラです。<br />
最も不変的なコミュニティである、人類というコミュニティが常に最優先されるというわけだ。パトリック納得したかな？</p>
<p>学生Ａ（パトリック）：いいえ。<br />
それはなぜ？<br />
特定な義務よりも普遍的な義務を選ぶべきよりは、どちらかと言うと恣意的に思います。僕はまず自分にとって、最も具体的な義務を果たすべきだと思います。コミュニティの最小単位である僕の家族です。僕はまず家族に対して義務を負い、次に街、次に国家、次に人類になるでしょう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
よろしい、ありがとう。もう１人、コミュニタリアニズムに反対する人の意見を聞きたい。もし、善と善が衝突したらどうするのか、という反論が出たが、コミュニタリアニズムそのものに反対する人、愛国心は弊害の一種であり、乗り越えるのが理想だと考える人は？君！</p>
<p>学生Ｃ：愛国心はコミュニティの構成員であることを反映されおり、与えられたものです。問題は自然で物語意識のある一方で、市民の物語はつくられたものであり、間違った場合もあるということです。リオグランデ川が国境なのは、歴史の偶然なのと同じで、私がメキシコではなく、アメリカ側に生まれたのは偶然なのに、アメリカ側に構成員としての意識を持つのが当然だというのは、おかしな話です<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
よろしい。名前は？<br />
学生Ｃ：エリザベスです。<br />
反論のある人は？君！</p>
<p>学生Ｄ：一般的に私たちの道徳的な義務はどこからどのように生じるのかを考える必要があると思います。僕は基本的には、１つは血縁関係から、１つは相互依存生から生じると思います。他人と密接に結びつけば結びつくほど、やりとりは深まり、自然発生的な相互作用が生じるのではないでしょうか。自分の家の近所の人と同様、同じ国の人の方が経済的な交流も多いだろうし、、、。</p>
<p>しかし、私も君もメキシコのフランクリンよりもテキサス州フランクリンのことを知っているわけではないだろう？<br />
学生Ｄ：他の国人よりは同じ国の人の方が交流や取引の点で、おそらく自然につながっているのでは、、。</p>
<p>よろしい、他には？君！<br />
学生Ｅ：愛国心の基礎は大学に対する愛校心や入っている寮に対する気持ちと似ていると思います。新入生は<br />
寮に入ると１日で、その寮に対する愛着や誇りを持つようになります。なので、コミュニタリアニズムのいうところと、道徳的な義務と、単なる情緒的な愛着とは区別がつくのではないでしょうか？</p>
<p>ちょっと待って、名前は？<br />
学生Ｅ：リナです。<br />
さっき、親に対する子供の義務について話をしたが、君はそれについても同じ意見かな？情緒的なつながりだけで道徳的な重みはないのか、そもそも始めの段階で偶然だから、道徳的な義務は発生しないかどうか、私には言い切ることはできません。私たちはどの寮に入るかは選んでいないし、どの親の下に、どの国の下に生まれてくるかを選んでいません。でも、自分が選んでいないからと言って、受け取った便益に基づいて義務を発展させるのは必ずしも否定しませんが。</p>
<p>では、自分の老いた親への義務が世界中の他の老いた親への義務より大きい理由は、君が成長する過程で君の親が与えてくれた便益に報いるため、という以外に理由はない、ということかな？</p>
<p>学生Ｅ（リナ）：例えば、養子縁組のケースを考えると、実の親とは全く交流がなく、育ての親は自分を引き取って育ててくれたわけです。どちらかを選ばなければならないとしたら、自分を慈しんでくれた育ての親に対して、より多くの義務がある、と考える人は多いのではないでしょうか？</p>
<p>親についてもう１つ聞きたい。悪い親の場合、親への義務は少なくなるかな？<br />
学生Ｅ（リナ）：わかりません、悪い親を持ったことがないので。（会場笑い）<br />
閉めの言葉としていいので、ここで終わろう。次回もこのテーマを続けよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」</p>
<p>コミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。ふるさとと祖国のコミュニティに属していた例を考えよう。南北戦争の前夜、アメリカ南部のヴァージニアにふるさとを持っていた北軍のリー大佐の話。彼は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対し、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとしたが、リーはそれを断った。リーは連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれなかったのだ。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。彼は祖国よりもより身近なふるさとというコミュニティの義務を選んだのだ。講義では他に２つの例が示されるが、どちらもより身近な限定的なコミュニティを選んでいる。おそらくほとんどのアメリカ人も祖国アメリカよりも自分の家族の方が大事だと考えているだろう。しかし、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦ったという例も当然あったのだ。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示している。つまりコミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないと言えそうだ。ある特定のコミュニティの中でだけ「是」とされるだけならば、正義の原理があるとは言えない。ある時代のある社会においてのみ通用する共通の理解や価値観や習わしへの忠誠心に過ぎなくなってしまう。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture22「複数のコミュニティの一員としての義務の衝突」</font></h2>
<p> 今回、取り上げてみたいのは、コミュニティの構成員であることや、連帯から生じる義務があるという考え方に対する、もっとも強力な反論だ。そこからこれらコミュニティから生まれる義務が擁護できるものかどうか検討していく。</p>
<p>前回の議論の中から１つ反論がでてきた。パトリックがうまく言ってくれたが、あるコミュニティの構成員というアイデンティティから義務が生じるのであれば、私たちは複数のコミュニティに属しているので、義務と義務がぶつかってしまうことがあるのではないだろうか。</p>
<p>これは、考えられる反論の１つだ。<br />
そして、前回の講義で、あるコミュニティの構成員であることから生じる、道徳的な力を明らかにするためにいくつかの例を出した。親と子供の例。フランスのレジスタンスの兵士が自分のふるさとの村を爆撃するように命じられて拒否した例だ。イスラエルによるエチオピア系ユダヤ人救出の例だったが、これらの例は直感に訴えかけるものかもしれないが、実際には、感情的な問題、情緒的な問題を示しているのであって、真に道徳的な義務を示しているのではない、とリナが発言してくれた。</p>
<p>そして、このような愛国心、自体に対する反論ではなく、個人の同意を超えた、コミュニティンの意識や連帯から生じる義務としての、愛国心に対しても、多くの反論があった。</p>
<p>この反論は愛国心の義務も含め、自分が属するコミュニティに対する義務がありえることを認めはするが、愛国心やコミュニティの構成員であることから生じる全ての義務は、実際にはリベラルな考え方に基づいており、リベラリズムと相反しないと主張する。</p>
<p>それらはコミュニティの構成員だから生じている義務ではなく、暗黙のあるいは明白な同意や相互性に基づく義務だからである。</p>
<p>例えば、ジュリアはこの講義のウェブサイトでリバラリズムはカント的な愛国心を自発的な道徳的義務として支持することが可能だと述べた。愛国心と家族愛は両方とも、このカテゴリーに入る。ジュリアが指摘したようにカント的な枠組みは個人が望むのであれば、愛国心のような美徳を選ぶ選択の自由を認めているからだ。そのため、コミュニティの価値観の道徳的な力を説明するのに、わざわざ自発的でない道徳的義務という考え方を持ち出す必要はない。</p>
<p>ジュリアは、、そっか、君の意見の要約は今のでいいのかな。ジュリアの意見はまさにロールズがこのテーマについて言っていることとピッタリと一致している。そのことを知っていたかなぁ。<br />
学生Ａ（ジュリア）：（ジュリア首を横に振る）<br />
では君は自力で結論に達したわけだ！素晴らしい！</p>
<p>ロールズは政治的義務についてこう述べた。自らの意思でそれを選ぶのなら、選挙に出たり、軍に入隊したりするのもいいだろう。しかし、厳密に言えば、市民一般には何の政治的義務もない。なぜなら、市民を拘束するのに必要な行為は何なのか、誰がそれを実行するのか、明らかでないからだ。</p>
<p>そこからロールズは普通の市民には、政治的義務はないとする。ただし、特定の市民が自ら望み、同意した上で政治的義務を選択し引き受ける場合は別だと主張する。これはジュリアの主張と全く同じだ。これはもう１つ別の反論と関係してくる。</p>
<p>自分は家族、あるいは祖国に対して、特定の義務を負う。という考えることには全く問題がない。ただし、それらの義務を尊重することが、人として人を尊重するというような自然の義務や不変的に求められるものを妨げない限り、という条件付きである。</p>
<p>この考え方は個人や国や国民や家族に対する忠誠心を表現したければ、それでかまわない。ただし、不変的な義務が優先されることを認め、その枠組みの中で、いかなる不正行為を行わない。という条件付きで、とする考え方と同じだ。</p>
<p>講義ではふれなかった、もう１つの反論は、コミュニティの構成員であることから生じる義務は、集合的な利己主義ではないのか！というものだ。名誉なことはないのではないか。単なる偏った愛ではないのか。</p>
<p>さて、コミュニティの構成員としての義務に対して、批判的な意見をウェブに書き込んでくれた諸君は、下に降りて来て集まってくれないか。前にもやったようにチームをつくり、愛国心はコミュニティから生じる義務だと考える人たちに、君たちが反論できるかどうか、やってみよう。</p>
<p>さて、コミュニタリアンが考えているように、愛国心を擁護する人は大勢いた。それなら、私は愛国心批判派、コミュニタリアニズム批判派に加わることにしよう。使えるマイクあるかなぁ、ありがとう。ケイト。</p>
<p>愛国心、コミュニティから生まれる愛国心を共有すべきだ、という考え方に反対の人は、ここに勢力を結集しよう。パトリック、君も参加したければぜひ、リーナもぜひ。このテーマについて発言した人は自由に参加して欲しい。</p>
<p>しかしまずは、愛国心を擁護する側の意見を聞きたい。純粋に個人の同意を根拠付けることができなくとも、リベラルな考え方で正当化できなくとも、愛国心は道徳的な義務である、と考える人の意見を聞きたい。</p>
<p>AJクマールは、AJ？君は有名人だな？ではAJの意見を聞こう。君はこう言ったね。私が一般的なコミュニティよりも家族の方により多くを負っていると感じているのと同じように、全人類よりも祖国の方により多くを負っていると感じているのは、祖国が自分のアイデンティの形成において重要だからだ。祖国を愛するのは弊害ではない。それは自分の親を他人の親より愛するのは弊害ではないのと同じだと言った。さぁ、AJ、批判派をどう説得する。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
学生Ｂ（AJ）：人間には、自分のアイデンティティーを形成するコミュニティーの人々に対する共同的な責任があり、そこからくる根本的な道徳的義務があると思います。例えば、今の政府について僕が支持しないことはたくさんあります。でも、僕のアイデンティティーの一部はアメリカが反対意見の表明を許す自由な社会を重んじることにあります。それも愛国心の表現の１つの形です。ハーバードの例に戻るとルームメイトは僕のアイデンティティーを形成しているので、大学のコミュニティの全体よりも多くを負っています。それと同じことが祖国にも言えます。もちろん親も国も選べませんが、そこで育ったということがアイデンティティーの一部をつくりあげているからです。</p>
<p>よろしい。誰か他には？マイク！</p>
<p>学生Ｃ（マイク）：他人に対して義務を負う理由として、ただ単にその人たちから影響を受けているからというtことが、理由になるかどうかについてですが、僕はドイツ国籍ですが、もし、８０年早く生まれていたら、ナチスドイツ構成員だったことになります。でも、ナチスにしたことにより、自分が便益を受けたからと言って、ドイツに義務を感じるとは、とても思えないんです。</p>
<p>学生Ｂ（AJ）：今、アメリカには平和こそ愛国だと、プラカードを掲げて抗議する人が何十万人もいます。この教室には抗議行動に反対の人もいるでしょうが、僕は賛成です。彼らはブッシュ政権がしていること全てに強く反対していますが、同時に祖国を愛しています。祖国にとって最善の大義のために抗議をしているからです。僕も愛国的な運動としてそれに賛成したい気がしています。</p>
<p>学生Ｃ（マイク）：なぜ、祖国を好きでいられるんですが、なぜそれでも愛国的なのですか？それは感情的な愛着じゃないですか。義務はどこにあるのですか？</p>
<p>学生Ｄ：議論をジョンロックまで戻すべきではないでしょうが、私はジョンロックまで戻りたいと思います。（会場笑い）ロックの考え方では、人間が社会に参加しても出口があります。社会が気にいらなかったら出ていくことができます。自分で選んでその社会に生まれてくるわけではないし、出て行くことは現実問題としては難しいと思いますが、それでも出て行くことができないわけではありません。でも、個人が社会に負う義務が道徳的なものだとすれば、人間は自分の属する社会が、どんな社会になるのかを知る前に、また、自分の地位がどのようになるのかを知る前に、自分の個人的な心情とは全く相容れないコミュニティに拘束される義務を負うことになるのです。</p>
<p>つまり、コミュニティから生じる義務や愛国心はコミュニティに道徳的の白紙委任状を与えてしまうことにになるというわけだ。</p>
<p>学生Ｄ：基本的にはそうです。そのコミュニティで育つ過程で相互性に基づいてある種の義務を負うようになるのは道理にかなっていると思いますが、最初から道徳的な義務を負っているというには、もっと強い理由がなければ正当化されないと思います。</p>
<p>他の意見を付け加えた人は？</p>
<p>学生Ｅ：個人と社会がお互いに利益を享受していれば、社会に対して道徳的義務があると言えます。それが社会に参加するという意味で、税金を払い、投票するというのは、私たちが社会に何かを負っているからです。とはいえ、社会の構成員たちは自動的に何かを追うとは思いません。保護や安全を与える限りは私たちは社会に何かを追いますが、それは私たちが社会に与えるものを超えることはありません。</p>
<p>他に意見は？ラウル！</p>
<p>学生Ｆ（ラウル）：その意味では、コミュニティに道徳の白紙委任状を与えるとは思いません。道徳の白紙委任上は与えるのは、私たちが市民の責任についての判断を放棄し、愛国心は悪だから、この議論は無意味だと言う時だけです。僕は愛国心は重要だと思います。コミュニティ意識、共通の市民的な美徳の意識をもたらすからです。政府のやり方に賛成ではなくても、自分の国を愛して、このその行動を嫌悪することは可能です。祖国に対する愛があるから、他の人と討論し、彼らの意見を尊重し、議論に関わることができるわけです。しかし、ただ単に愛国心は悪だと言ってしまえば、議論から降りてしまうことになり、もっときょうこうな考えを持ち、コミュニティにその考え方を強制する、原理主義者に人知をゆずってしまうことになります。そうではなく、同じ道徳的人知に立って、他のメンバーと関わるべきでしょう。</p>
<p>AGとラウルの言っているのは、とても多元主義的、論争的、批判思考の強い愛国心だが、愛国心を批判する側が懸念していることは、愛国的な義務はコミュニティの一員として、当然だ、ということになると、私たちが国家に関する心情や行動や習慣を自分の意思で選ぶことを許さないような、忠誠心になってしまうのではないか、ということだ。さらに、私たちが追求しているのは、正義の原理に対する忠誠心だとしたら、それが私たちのコミュニティで通用している場合もそうでない場合もある。</p>
<p>そうでない場合、その実現を拒否できるのであろうか。私にはわからない。失礼、答えを言ってしまったも同じだね。夢中になり過ぎた。ジュリア！</p>
<p>学生Ａ（ジュリア）：まず、愛国心が何であるか、定義すべきだと思います。私たち批判派は愛国心を弱い意味で捉えていると思われがちですが、逆にコミュニタリアンの方が社会の中で市民が議論に参加すること程度にしか捉えていない程度に聞こえ、愛国心の道徳的価値を埋没させていると思います。愛国心をもっと強いものだと考えれば、もっと強い道徳的な義務が生じるのではないでしょうか？</p>
<p>はっきりと議論すべきなのは、コミュニタリアニズム擁護派から出された例で、どのような場合に、コミュニティへの忠誠心が普遍的な正義と競合したり、忠誠心が正義の原則を上回る可能性があるのか、という点だ。それが一番難しいテストではないかな？</p>
<p>それについて、皆に聞いてみたい。君たちの中で、原則からすれば正義でなくても、コミュニティの構成員や連帯からくる義務を優先する、という人はいるかな？普遍的な道徳的観念や人として人に対する敬意よりも、コミュニティへの忠誠心が勝った。あるいは、勝るべきという例をげられる人はいるかな？君！</p>
<p>学生Ｇ：経済学の課題中、ルームメイトがカンニングしているのを見たとします。いけないことかもしれません。僕は彼を大学当局には突き出しません。<br />
突き出さないのか？<br />
学生Ｇ：突き出しません。突き出さないことが正しいのです。僕は彼に義務があるからです。いけないことかもしれませんが、僕は黙認するでしょう。多くの人もそうすると思います。</p>
<p>よろしい、これはいいテストだ。ルームメイトというコミュニティの名において行うことが、普遍的な正義の原理と競合するという例だ。ちょっと待って！君の名は？<br />
学生Ｇ：ダンです。</p>
<p>ダン、皆はダンがあげた例をどう思うかな？これは忠誠心の倫理を問うより難しいケースだ、しかもより真実みがある。ダンに賛成する人は？（会場わりと手があがる）いやぁ、忠誠心は大事なようだねぇ。ダンに反対する人は？（会場笑い）ペディ！</p>
<p>学生Ｈ（ペディ）；私も黙認しますが、それは選択であり、正しい正しくないではないのです。私はルームメイトの方を選ぶという正しくないとう選択をしますが、その選択が道徳的に正しくないことはわかっています。</p>
<p>君はダンの忠誠心ですらも、選択の問題だと言うわけだね。しかし、何が正しい行いなのか、ほとんどの人はダンがルームメイトを守り、彼を突き出さないのは正しいと賛成している。君！</p>
<p>学生Ｉ：ルームメイトという立場から得た、いわばインサイダー情報を利用したくない、ということもあります。それを持ち出して、彼を告白するのは、不公正かもしれません。一緒に長い時間を過ごすルームメイトについては多くを知ることになりますが、それをもっと多くのコミュニティに暴露するのはフェアではないでしょう。</p>
<p>つまり、忠誠心だねぇ。君はダンに賛成？忠誠心がここで問題になる倫理だね。<br />
学生Ｉ：その通りです。<br />
君には真実を告げる義務、不正行為を告発義務はないのか？<br />
学生Ｉ：ないと思います。その情報を得るのに、有利な立場にいた場合には。</p>
<p>愛国心批判派が席に戻る前に、もう１つ別の例をあげよう。<br />
私はこれを忠誠心についてのダンのジレンマと呼ぶことにするが、次の例はもっと公共的な例だ。</p>
<p>この例について君たちの意見を聞いていきたい。これは数年前にマサチューセッツで起こったことだ。これが誰だが知っている人は？<br />
学生Ｊ：ビリー・バルジャー<br />
そう、ビリー・バルジャー、正解だ！ビリー・バルジャーとは誰か。バルジャーは長年マサチューセッツ州の州議会議長を務めた人だ、マサチューセッツのもっとも有力な政治家の１人であり、マサチューセッツ大学の学長にもなった。皆はダンのジレンマを抱えたビリー・バルジャーの話は知らないかなぁ？ビリー・バルジャーにはワイティー・バルジャーという弟がいる。ワイティー・バルジャーをみてもらおう。</p>
<p>ビリーの弟、ワイティーはFBIの最重要指名手配に載っている。ボストンのギャングのリーダーであり、多くの殺人に関与した疑いがかけられているが、現在も逃走中だ。しかし、アメリカ連邦検事が陪審が始まる前に当時マサチューセッツの学長だった兄ビリー・バルジャーを呼び出す。逃走中の弟の行き先について情報を求めた時、兄ビリーは情報提供を拒否した。連邦検事はこう尋ねた。お聞きしますが、バルジャーさん、マサチューセッツ州よりも弟の方に忠誠心を感じられるのですか？ビリー・バルジャーは答えた。そんな風に考えたことはありませんが、もちろん弟のことを大切に思っています。弟と対立する人間に手をかさずにすむように願っていますし、弟をつかまえようとする人に協力する義務はありません。</p>
<p>ダン、君は賛成だろうね？ビリー・バルジャーの姿勢に賛成する人は？（会場手をあげる人もいる）もう１つ別の例をあげてから忠誠心批判派の反論意見を聞こう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
今度はアメリカの歴史上の人物のより運命的な例だ。その人物とはロバート・E・リー。南北戦争の前夜、彼は北軍の大佐だった。リー大佐は南部がアメリカ連合から脱退しようとしていることに反対で、それは反逆罪だとも考えていた。戦争が迫って来た時、リンカーン大統領はリーを北軍の司令官にしようとした。しかし、リーはそれを断り、息子たちの手紙の中で自分が拒否した理由を説明した。</p>
<p>私の連邦への献身の全てをもってしても、自分の身内や子供、ふるさとを攻撃する気にはなれない。ふるさととヴァージニアのことだ。連邦が解体したら、私はふるさとの州に戻り、同郷の人々と窮状（キュウジョウ大変困っているようす）を分かち合おう。ふるさとを守る以外に私が剣を抜くことはない。</p>
<p>ここに真のテストがある。ダン！君の忠誠心の原理のテストだ。南北戦争の北軍の大義は連邦の維持だけではない、奴隷制反対もかかっていた。リー大佐は南部が連邦から脱退することには反対だったにも関わらず、南軍の司令官となってふるさとヴァージニアのために戦った。コミュニタリアンは彼の行動は賞讃されるべきだと言うだろう。彼の判断は究極的には正しいかはさておき、賞讃に値するところがあると言うだろう。</p>
<p>リー大佐のジレンマを道徳的ジレンマとして理解するには、彼が何者であるか、彼はどこで育ったのか、というような物語的に生じている忠誠心から、情緒的、感傷的葛藤ではなく、道徳的葛藤が生まれていると認識することが必要だ。</p>
<p>ダンやビリー・バルジャーやリー大佐の忠誠心に対して、何か言うことがある人は？どうかな？ジュリア！</p>
<p>学生Ａ（ジュリア）：彼らのケースはどれも家族と国家というような対立するコミュニティが存在して、複数の影響力が及んでしまうという典型的な例です。義務を自分で選択できることが重要な理由は、自分で選ばなければ解決できないからです。どちらのコミュニティに対しても道徳的義務を負っているとすれば、身動くがとれません。ですから選ぶことが必要です。その場合、たまたま、このコミュニティの構成員だからという恣意的な事実ではなく、他の要素に基づいて選ぶことができることが重要です。そうでなければ、選択は成り行き任せになる他なくなります。</p>
<p>ジュリア、問題はダンやビリー・バルジャーやリー大佐が選択をしたかどうかではない。もちろん、彼らは選択をしている。だが、問題は何の原理を下に選ぶかということだ。コミュニタリアはなされるべき選択を否定してはいない。問題は選ぶ際に何を根拠に選ぶか、忠誠心、それ自体をどこまで重視するかということだ。アンドレ、君はどう思う？何と言う？</p>
<p>学生Ｊ（アンドレ）：これら３つのケースでは、全員自分が所属するもっとも身近なより限定的なコミュニティを選んでいます。これは注目すべきことで、単なる偶然ではないと思います。実はそこには対立はないんじゃないでしょうか。３人ともどちらが自分にとって重要なのか、はっきりわかっているように思います。なぜなら、経済学のクラスよりルームメイト、マサチューセッツ州より自分の弟、祖国よりふるさとの衆とわかっているからです。それが何がより重要かということに対する答えだと思います。</p>
<p>自分にとって身近でより限定的なものの方が常に道徳的に重みがあると。</p>
<p>学生Ｊ（アンドレ）：この３つの例では、同じ傾向があると思います。私はそれに同意します。おそらく私たちのほとんどはアメリカ合衆国より自分の家族の方が大事だと考えているんじゃないでしょうか。</p>
<p>だから、君はダンと同じに経済学のクラスの真実よりもルームメイトへの忠誠心をとるわけだ。</p>
<p>学生Ｊ（アンドレ）：はい、その通りです。だって、そうでしょう。<br />
経済学の真実じゃなくて、真実を言うということだよ。よろしい、ありがとう。（会場笑い）君！</p>
<p>学生Ｋ：でも、南北戦争では、家族よりも国を選び、兄弟が敵味方に分かれて戦った例もありました。このことは同じ戦争でも、人が違えば選択は違ってくることを示しています。つまり、コミュニタリアンが固執できる価値観や道徳性は存在しないのです。私はコミュニタリアニズムの最大の問題点は道徳的義務に基準がないことだと思います。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｋ：サマンサ<br />
サマンサ、君はパトリックの側だね。パトリックは義務がそのコミュニティの構成員というアイデンティによって定義されてしまったら、義務同士が対立したり、重複したり、競合したりするかもしれない。そこに明らかな原則はないからだ、と指摘した。</p>
<p>アンドレは最も身近なコミュニティを選ぶという明らかな原則があると言い、ニコラは人として、もっとも普遍的な義務が最優先されるべきだと主張した。サマンサ！君が言うのは、コミュニティの大きさ、短さのようなものは決定的な道徳的要因にはなりえない。だから、他に何か道徳的な基準がなければならない。ということだね。</p>
<p>よろしい、では、コミュニティで生まれる愛国心の考え方に面々、立ったままで議論に答えてくれてありがとう。おかげで問題が明快になった。</p>
<p>ここで、私たちがここまで議論してきた正義について、その意味合いについて考えてみよう。</p>
<p>それぞれ、独立した道徳的重みを持つ構成員であり、忠誠心を持つべきだという考え方に、複数の反対意見が出たが、その根底にある懸念とは、特定のコミュニティの存在する善き生、という概念から離れては、正義の原理を見つけることはできない。</p>
<p>と、主張しているところにあるようだ。</p>
<p>仮にコミュニタリアンの議論が正しいとしよう、権利が常に善より優先されるという主張は維持できないとしよう。その変わり、正義と権利とは善という概念と密接に関係しているとしよう。それが意味するのは、正義とはただ単にその時代、そのコミュニティにおいて、たまたま是とされている価値観や、ならわしからつくられるものに過ぎない、ということなのか。コミュニタリアニズムを主張する思想家の１人、マイケル・ウォルツァーは正義の意味合いについて、次のように述べている。</p>
<p>正義は、社会的な意味に相関している。ある社会が正しいのは、その社会の実質的な生が、その社会の構成員の共通の理解に忠実な方法で営まれている場合である。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ウォルツァーの説明は私たちの懸念を裏付けているように思える。もし、独立した正義の原理、ある特定のコミュニティの中で是とされる善の観念に左右されない正義の原理を見つけることができなければ、正義とはある時代のある社会においてのみ、通用する共通の理解や価値観や、ならわしへの忠誠心に過ぎなくなってしまうのではないか。</p>
<p>しかし、それが、正義について考えるのに、打倒な方法だろうか。</p>
<p>さて、ここでドキュメンタリーの一場面を見てもらおう。タイトルは「獲得すべきものを見据えて」。これは１９５０年代の南部を取り上げた作品だ。当時、南部には、人種分離を社会の共通認識である、伝統だと考える人々がいた。彼らが忠誠心と伝統について話しているのを聞くと、正義の議論をある時代のある社会において広まっている共通認識や伝統に安易に結びつけてしまうことに対して、君たちも不安を感じるのではないだろうか。</p>
<p>では、映像をみて欲しい。<br />
ムービー：この土地には白人と黒人の２つの文化があります。生まれてから今まで両方を身近に感じてきました。しかし、私たちのしてきたことは虐待であり、変わらなければならないと言われている。変化は考えていたよりずっと早く始まっています。新しい考え方で決めろと言われても南部人には難しい。</p>
<p>これで、わかったと思う。物語的な自己、ある境遇に位置する自己は伝統にとらわれてしまう。このことは、ある時代のあるコミュニティで正しいとされている善の共通理解に、正義を結びつけてはならないことを示していないだろうか。それとも、この例を見てもまだ、その主張を救う道があるだろうか。</p>
<p>それについては次回の講義で。</p>
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		<title>JUSTICE 第１０回「目的から考える正義について」「公平さと名誉について」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:44:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
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		<description><![CDATA[Lecture19「目的から考える正義について」
カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の１つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture19
THE GOOD CITIZEN
Lecture20
FREEDOM VS. FIT　



時間：55:08











Lecture19「目的から考える正義について」
前回に引き続き、今回もアリストテレスについて考えていこう。
現代の正義論は、道徳的に対価や美徳といった概念から、正義や権利を切り離そうとする権利だった。アリストテレスの主張はカントやロールズとは異なる。彼の考える正義は人々にふさわしいものを与えることだ。アリストテレスの正義論の中心には１つの考え方がある。正義や権利を論じる時には社会的実践や制度の維持、目的、つまりテロスに関する議論が避けられないというのだ。
正義が平等な人々に平等にものを分配することだと考えると、すぐに問題がでてくる。何を持って平等というのか。その質問に答えるためには分配するもの、それぞれの目標、本質的な性質、そして目的を考えなければならない、とアリストテレスは言う。フルートの話をしたね。誰が最高のフルートを手にするべきか、アリストテレスは最高のフルート奏者であると答える。最高のフルート奏者が最高のフルートを手にする。それこそが名誉だ。
最高のフルート、それを与えられることで、最高の演奏と優れた演奏奏者の持つ美徳が認めれる。
今日のテーマになる興味深い論点は我々が社会制度や政治的実践について考える時、目的論なしで済ますのは決して簡単なことではない、ということだ。

一般的に目的論を無しにして、倫理や正義、道徳的議論を考えるのは難しい。少なくともアリストテレスはそう考えた。では彼の主張の力を明らかにするために、２つの例をあげてみよう。
１つはアリストテレスもかなりの長さで論じている政治の問題だ。
政治的地位や名誉、政治的統治はどのように分配されるべきか。
２つめの例は現代のゴルフに関する論争だ、全米プロゴルフ境界PGAは足に障害にあるゴルファー、ケーシー・マーティに対して、試合中のカートの使用を許可すべきかどうか。
この２つの例から私たちは、アリストテレスの目的論に基づいた正義をより深く理解することができる。
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テロス、つまり目的について考えた時、社会的実践の本当の目的というのは、意見が分かれるところだ。そのような意見の不一致が乱れるのは、誰が何を得るか、という点だけではない。単に分配の問題ではなく、名誉の問題でもある。いったい、どのような個人の資質や秀逸さに対して名誉が与えられるのだろうか。
目的やテロスについての議論は同時に名誉についての議論であることが多い。
それでは、ここでアリストテレスの政治論をみていこう。
現代における分配的正義は収入、財産、そして機会の分配が主な争点となる。しかし、アリストテレスは収入や財産よりも地位や名誉についての分配を考えた。誰が統治権を持つべきか、誰が市民であるべきか、どのように政治権力が分配されるべきか。これらの問いに彼はどう答えたのか。
アリストテレスは目的論に基づいて正義を考えた。
正義権力の分配方法を理解するためには、まず政治の目的、意義、そしてテロスとは何かを問わなければならない。では、政治とは何だろうか、この問いに答えられれば統治者を決定できるのだろうか。アリストテレスはこう答える。
　
政治とは、善い人格を形成すること、市民たちの美徳を高めること、つまり、善き生をもたらすものだ。
著作「政治学」の第３巻で彼はこのように言っている。国家的、共同体の目的は単なる生活ではない、経済活動や安全保証に基づいたものではない。政治の目的は善き生をもたらすものだ。
君たちの中では、この考えに疑問を持ち、近代の正義論や政治論の方が正しいと思う人がいるかもしれない。思い出して欲しい。カントやロールズにとっての政治の意味は、市民の道徳的人格を形成することではなかった。政治は私たちをよくするものではなく、私たちが善や価値、目的を選択する自由を尊重し、他者にも同様の自由を認めることだった。
アリストテレスは違う。名ばかりでなく、真にポリスと呼ばれるものは、善の追求という目的に献身すべきだ。さもなければ、政治的共同体は、ただの同盟に陥る。
法は他人から人間から権利を保証する約束事になってしまう、本来はポリスの市民に善と正義を与える規範であるべきなのに。
ポリスは同じ場所に済む者の集団ではない。互いの不正義を防ぎ、取引を容易にするためのものでもない。ポリスの目的と意義は善き生であり社会生活の諸制度は、その目的のための手段である。
アリストテレスはさらに次のように問いかける。これが政治やポリスの目的だとすると、分配的正義の原理を下に誰が一番発言力を持つべきか、誰が最高の政治権力をふるうべきか、アリストテレスはこう答える。このような特徴を持つ集団、つまり、善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治的統治における役割や、ポリスにおける名声を得るべきである。
なぜなら、政治的共同体の本質的な部分に貢献する力があるからだ。
アリストテレスがどのように公認権や政治権力の分配原理と政治の目的を結びつけたか理解できたと思う。
しかし、すぐに疑問が浮かぶだろう。なぜアリストテレスや政治的生活や政治への参加が善き生に不可欠だと主張したのだろうか。道徳的生活を送ることは不可能なのだろうか。彼はこの問いに２つの答えをあげた。
１つ目は「政治学」の第１巻で手短かに述べられている。アリストテレス曰く、ポリスで生活し、政治に参加することによってのみ、我々は人間としての本質を十分に発揮できる。つまり、人間は本来、ポリスで生きるものだ、と言うのだ。なぜなら、我々は政治的生活によってのみ、人間固有の言語能力を活用できるからだ。アリステレスはこの言語能力によって物ごとの生や不正義を論じることができると考えていた。
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彼は「政治学」の第１巻でこう書いている。
政治的共同体であるポリスは、自然に発生するものであり、個人に優先する。時間的に優先するのではなく、その目的において優先するのだ。
人間は共同体の外で暮らしても自己自足することはできない。
孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神であるに違いない。
私たちは言語能力を活用する時のみ、人間としての本質や能力を十分に発揮できる。つまり、私たちが同胞である市民たちと物ごとの善し悪し、または正義、不正義について議論する時だ。
それでは私たちはなぜ政治的共同体にしか言語能力が発揮することができないのであろうか。アリストテレスのより詳しい２つ目の答えは、彼の著作「ニコマコス倫理学」で説明されている。この抜粋は課題の読み物には入れてある。彼はその中で政治について論じること、市民として生きること。統治し統治されること、そして権力を分配されること全てが美徳に必要不可欠だと説明している。
アリストテレスが定義する幸福は苦痛に対する喜びを最大にするものではない。幸福とは美徳に基づいた魂の活動である。さらに彼は政治を学ぶ全ての者は魂と学ぶ必要があると言う。魂と形作りことは、善き都市における法の目的の１つなのだ。
しかし、徳のある生活を暮らすために善きとして暮らす必要がるのか、家庭の中や哲学の授業、あるいは本から道徳的規範を学び、そういった原則や規則、または指針に従って生きるだけではダメなのだろうか。アリストテレスは美徳はそのように得るものではないと言う。
彼によれば、
美徳とは実践し、自分で行動することによってのみ得られるものだ。
実際にやってみることで始めて身に付く。本から学ぶべきではない。そういう点ではフルートの演奏に似ている。教則本を読んだだけでは、上手に演奏することはできない。練習したり、優れたフルート奏者の演奏を聞いてみたりしなければならない。他にも似たような例がある。料理だ。一流の料理人の中で、料理本だけで調理法を学んだ人はいない。料理は実践によってのみ学べる。お笑いももう一つの例と言えるだろう。コメディの原理を読んだだけで、一流のコメディアンになった人はいない。
これはなぜだろう。お笑い、料理、楽器の演奏に共通するものは何だろうか。本や授業からルールを理解するだけでは、なぜ習得できないのだろうか。これら３つの活動に共通するのは、コツをつかむ、ということだ。
では、料理、演奏、そしてお笑いのために必要なコツとは何だろうか、与えられた個別の状況の特徴を見抜くことだ。コメディアンや料理家や演奏家はそれぞれ与えられた個別の状況の特徴がどのよなものか把握しなければならない。しかし、それを把握する習慣を身につけることができる、規則や指針はどこにも存在しない。
美徳も同じだとアリストテレスは言う。
では、これがどう政治に結びつくのだろうか。我々がよく生きるためには美徳を得なければならない。そのための唯一の方法は、必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することである。これが政治の究極的な姿だ。
我々には市民的な美徳や対等な仲間たちと論じ合う能力が必要だ。こういったものは政治に参加せず、１人で生きていたら決して得られない。従って、我々は本質を発揮するために政治に参加しなければならない。そしてアテネの政治家やヘレクレスのように最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉を与えられる。つまり、地位や名誉の分配についての議論は目的論的な性格だけなく、名誉という側面も持っている。ヘリクレスのような人々を讃えることも、政治の目的の１つだからだ。
ヘリクレスに大きな発言力が与えられるのは、最善の結果を市民にもたらすような判断を下せる、という理由だけではない、もちろんそれも事実だし重要なことだ。
しかし、へリクレスのような人物がポリスで最高の地位や名誉、権力、そして影響力を持つべき理由がもう１つある。ふさわしい美徳を持つ者を選び、名誉を与えることも政治の重要な点の１つだからだ。この場合の美徳とは市民的な美徳や卓越性、実践的な知恵などをさす。この名誉と言う美徳はかかせない。
では、ここでアリストテレスの議論を実例によって現代社会の論争に当てはめて考えてみたいと思う。アリストテレスの２つの議論のつながりをみるためだ。２つの議論とは、正義と権利についての議論、そして社会的実践のテロスや目的についての議論だった。
これからみていく、ケーシー・マーティとゴルフカートの訴訟はそれだけなく、次の２つの問題も明らかにしてくれる。
１つの問題は社会的実践の目的、この例で言うと競技の目的だ。
もう１つは名誉に値するべき資質とは何か、という問題だ。
つまり、目的論と名誉に基づく分配的正義の関係である。
ケーシー・マーティは大変優れたゴルファーで一流選手たちと競う実力を持っていた。しかし１つ問題があった。彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くのに困難だった。こんなんどころか危険だった。
そこでマーティはプロゴルフツアーを運営するPGAに対してある申請をした。
プロトーナメントに参加する際、ゴルフカートの使用を認めて欲しいと言ったのだ、PGAは申請を却下した。そこで彼はアメリカ障害者法に基づいて、PGAを訴え、この訴訟は最高裁判所まで持ち込まれた。
そして、最高裁判所で争点となったのはマーティにはPGAから許可を得て、ツアー中にカートを使用する権利があるかどうか、という問題だった
意見を聞いてみよう。君たちの中で道徳的に考えて、ケーシー・マーティがゴルフカートを使う権利があるはずだと考える人は手をあげて欲しい。（会場半分以上手をあげる）では、トーナメントでカートを使う権利がないと言う人は？過半数はマーティの権利を認めているようだ。でも、反対派もかなりいるようだね。
まず、マーティの権利を認めない意見を聞いてみよう。なぜPGAはカートの使用を認めるべきではないと考えるのか？君！
学生Ａ：ゴルフというスポーツが生まれた時から、コースを歩くことが競技の一環であり、今ではゴルフの本質的な要素となっています。だからゴルフコースを歩くことができなければ、プロとして競う上で必要な条件を満たしていないことだと思います。
なるほど、君の名前は？
学生Ａ：トムです。
君はゴルフはするかい？
学生Ａ：それほどじゃありませんが、少しは。
ゴルフをする人はいないかな？本物のゴルファーは？
学生Ａ（トム）：言ってくれますねぇ。
あぁ、いやいやいや、、、（会場笑い）悪気はないよ。
ゴルフ部の人はいないかな？君！では名前と意見を聞かせて欲しい。
学生Ｂ：マイケルです。僕はいつもカートに乗っているので、、たぶん、、（会場笑い）
あまり参考にならないかも。
だから、おそるおそる手をあげたのか。（会場笑い）
いいだろう。さっきトムは少なくとも、プロゴルファーにとってはコースを歩くことが試合の本質的な要素だと言っていたが、君は賛成する？
学生Ｂ（マイケル）：はい。
自分はカートに乗るのに？それでも君はゴルファーか？（会場笑い）いやいや、冗談だ。理由を聞かせて欲しい。
学生Ｂ（マイケル）：コースを歩くことは、大きな負担になって、試合にはるかに大変になります。
なるほど、それじゃあマイケルとトムはそのままでいてくれ。
今度はマーティにはカートを使う権利があるはずだという意見を聞いてみよう。マーティの主張を弁護できる人は？君！
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学生Ｃ；PGAはカートの使用を認めるべきだと思います。判決の中でもマーティが疲労を感じないわけではないと述べられています。カートが入れないところもあるので、１マイルくらい歩く必要があります。その１マイルでも、彼は他の選手より疲れや痛みを感じるのです。負担がすっかりなくなるわけではありません。
名前は？
学生Ｃ：リーバです。
リーバ、コースを歩くことはゴルフの本質的なものである、というトムの意見にはどう反論する？例えば、障害を持つ選手がNBAの試合に参加することができたらコースを走り回る必要がないのかな？
学生Ｃ（リーバ）：それには２つの答えがあると思います。まず、歩くことがゴルフの本質だとは思えません。特に趣味でゴルフをする人はカートを使うし、、、。
マイケルのそうだね。
学生Ｃ（リーバ）：それからカートを使える大会もあります。例えば、PGAのシニアの大会、大学の大会、どれもPGAと同様にレベルの高い大会です。歩くことがゴルフの重要な要素だなんて、かってな考え方だと思います。それにマーティは全く歩かないわけじゃない、座ったままでなく立ってゴルフをします。
ありがとう。他には？君！
学生Ｄ：競争の目的は１番、２番、３番と順位を決めることだと思います。これは世界的なツアーですから、最高峰のレベルです。問題は競争の目的です。競争の目的を考えれば、規則を変えるべきではありません。
競争の目的は歩くことも含まれている。
学生Ｄ：はい。
トムと同じ意見だ。名前は？
学生Ｄ：デイビットです。
最高裁はPGAがケーシー・マーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。その根拠はリーバが言った通り、歩くことが試合の本質ではないということだ。彼らはコースを歩くことはハンバーガーを食べて得るほどのカロリーしか消費しない。という証言を引用した。それが多数派の判事の意見だ。
だがスカリア判事は意義を唱えた。彼はデイビットを同じ意見だった。
スカリア曰く、ゴルフには目的などないし、ゴルフの本質的な目的を考えるのは法定の役割ではない。ゴルフの他の競技であり娯楽である。特定のスタイルにこだわりたければそうすればいい。人々がそれを楽しめるか、観戦を見にいくか、テレビ中継を見るかどうかは市場が判断することだ。
スカリアの反対意見は反アリストテレス的なものだ。
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ここで２つの点に着目して欲しい。まず我々はゴルフの本質的な性質や目的について話し合った。歩く事はゴルフの本質に含まれるだろうか。この議論にはもっと確信的な問題がある。歩く事のゴルフの一部とするかどうかは、ゴルフが本当にスポーツ競技なのか、という問いにつながる。ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームだ、これはバスケットボールや野球、アメリカンフットボールに近いだろうか、それよりもビリヤードに近いのか。（会場笑い）ボールは静止しているし、身体を鍛えなくても勝つことはできる。技術は必要だが、運動能力はとわれない。
一流のプロゴルファーの気持ちを考えてみよう。彼らにとってゴルフがビリヤードのような技術中心の競技ではなく、スポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。
もし、そうならば、この議論は目的やテロスだけでなく、名誉という問題をはらんでいることになる。ゴルフという競技はいったい、どのような美徳を評価し、讃えているのだろうか。アリストテレスが提示した２つの問いだ。続きは次回考えよう。




Lecture20「公平さと名誉について」
前回の講義で、足が不自由なマーティはPGAのゴルフツアーでゴルフカートを使用する権利があるか、という議論で、目的と名誉の２つの要素があることがわかった。マーティにとって名誉とは最高峰のPGAのゴルフツアーで勝利することであり、プロゴルファーにとっての名誉はゴルフがスポーツとして認められている上での名誉を気にしているのだ。スポーツとは見世物とは違う。その違いはスポーツは卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところだ。スポーツの美徳がわかる人こと理解のある本物のファンだ。ゴルフがスポーツかどうかを問うことは重要なのだ。それは名誉と関係があるからだ。アリストテレスの正義論は権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。正義とは適合させることだ。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。さて、アリストテレスの正義論は正しいのかどうかを考えよう。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。実は彼は彼の生きていた時代の制度として奴隷制を擁護していた。市民が政治を論じ合うには家事などから解放されなければならない。生活の面倒をみてくれる奴隷が必要だ。しかし適合の基準によれば、奴隷にふさわしい人がいなければならないということになる。これについてアリストテレスは、生まれつき奴隷に適した人間がいると主張している。だが、戦争で捉えられ、仕方なく奴隷になった者などは、奴隷の役割を与えるのは一種の強制であり、本人の本来の役割と適合していないので問題としている。ここでの要点は、アリストテレスの目的論法が奴隷を認めているから正しくないのではなく、むしろ目的論法自体は原理的には間違っていないのだ。なぜなら、彼の目的論法で奴隷制を考えた場合、何が間違っていたのかを、彼自身の言葉によって説明することができるからだ。では目的論法は問題となるのか。それは多元的な考えを持つ現代の社会において、目的や善について同意を得ることが難しい。だからこそ現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としているのだ。カントやロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けたのだ。アリストテレスのように正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されないではないか。自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないのだ。吟味すべき問題は２つある。１つ目は権利は善に優先するのかどうか。２つ目は自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。ただしロールズが言うような、自分の役割や目標や目的を選択できることが本当に自由なのか。次回考えよう。



Lecture20「公平さと名誉について」
前回はケーシー・マーティがPGAトーナメントにゴルフカートに乗る権利があるかどうかを話し合った。このような議論をすることが政治哲学を理解する上でどう重要なのかを思い出して欲しい。
我々はアリストテレスについて正義論について考えていた。彼の正義論のアプローチを目的論と呼ぶことがある。アリストテレスは権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。
アリストテレスの正義論を別の言葉で言い表すなら、正義とは適応性の問題だ。
つまり、美徳や卓越性を備えたものはふさわしい役割を与えらねなければならない、ということだ。では前回に引き続き、ゴルフカートを使いたいと言う、ケーシー・マーティについて議論しよう。
その後でアリストテレスをめぐるもう１つの重要な論点である。奴隷制の問題を考えていく。
君たちはケーシー・マーティの要求をどう考えるだろうか。競技やトーナメントの性質と目的を踏まえて便宜が計られるべきか、それとも却下されるべきか。ゴルフカートの使用を禁止することは差別だと言う人もいるだろう。反対に彼がカートを使うのは、他の選手に対して不公平だと言う人もいるだろう。他の選手は歩くことで体力を消耗してしまう。
前回はここで終わったねぇ。
公正の議論はどうだろうか。ではジェニー。
学生Ａ（ジェニー）：なぜPGAが全ての選手にカートの使用する許可を与えないのかわかりません。課題の読み物の中にもありましたが、PGA以外ではカートを禁止しないゴルフトーメントがたくさんあります。シニアトーナメントでは、むしろ使用が奨励されています。なぜPGAもそうしないのでしょうか。
全員にカートを使わせる？
学生Ａ（ジェニー）：あるいはカートを使うかどうか、全員に選択させるんです。保守的な人はカートに乗るよりも疲れることを承知した上でコースを歩く方を選べばいいと思います。
なるほど、今のジェニーの提案はどうだろう。カートにのることが有利な条件になるとすれば、公正をきするためにマーティンだけでなく、希望する者全員にカートを使わせる。この解決策で誰もが満足するだろうか。ジレンマは解消されたかな。ジェニーに対して意見がある人は？君！
学生Ｂ（ダー）：先生が前回おっしゃったように、全員にカートの使用を認めてしまうと、大勢の人が抱くゴルフの精神が損なわれることになります。例え、全員に同じ条件を与えるためにも、ゴルフがスポーツ競技から離れてしまうと思います。かってに競技のルールを変えてしまうようなものです。例えば、水泳で足ヒレを使いたい人がいれば、全員が足ヒレを使えるようにするんでしょうか？
もし、誰もが自由に足ヒレを使えるとしたら、オリンピックの水泳競技はどうなるだろう。ジェニーの意見を聞いてみよう。ダーはオリンピック水泳競技で足ヒレを使用を認めるのと同じで、カートの使用はスポーツ競技の精神を損なうと言っている。ジェニーはどう答える？スポーツの精神を損なうだろうか。
学生Ａ（ジェニー）：ゴルフの情熱をそそぎ、実力のある選手がいるのに、競技の一面に参加させないのは、同じようにゴルフの精神を損なうことです。ゴルフで一番大事なのはクラブでボールを売ってホールに入れることです。私はゴルフはやらないんですけど、でも私に言わせればそれがゴルフの主旨です。PGA対ケーシー・マーティーの判決文を読んでいたら、同じことが書いてありました。コースを歩くことではなく、クラブを振ることがゴルフの本質的な要素だと。
つまり、ジェニーはダーとは違う意見でコースを歩くことはゴルフの本質ではないと言う。目的の話に戻ったね。
学生Ａ（ダー）：例えば、腕だけを使える人が参加できる車イスバスケットのような競技もありますが、それは別の種類のものだと思います。
結構だ。マイケル、どう思う？
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学生Ｃ（マイケル）：バスケットボールができないなら車イスバスケットボールという選択肢があるように、PGAツアーとは、別の選択があると思います。PGAはゴルフ会の頂点だから、参加するためには資格条件を満たす必要があると思います。
なるほど、つまり障害者のためにオリンピックとしてパラリンピックがあるのだから、ケーシー・マーティーもパラリンピックのような大会に参加すれば良い。これが君の意見だね、マイケル。
学生Ｃ（マイケル）：はい、歩くことはゴルフの一部です。コースを歩けないなら、PGAツアーに参加する資
格はありません。
なるほど、貴重な意見をありがとう。
今の議論はアリストテレスの正義論とどう結びつくだろうか。
ここでは歩くことがゴルフの本質的な要素かどうかが問われた。PGAはケーシー・マーティーが主張した権利を認めるべきかどうか、その答えを出すために、アリストテレスが示唆した方法をとらなければならない。
我々は歩く事がゴルフの試合に本質的なものかを議論し、決着をつけなければならないのだ。
これが教訓の１つだ。
この話には２つ目の教訓がある。
アリストテレス的な観点から考えた時、ここで争点となっているもの、それは名誉だ。
ケーシー・マーティンがカートの使用許可を求めたのは、最高峰の支配で勝利するという名誉のためだった。
課題の読み物にあるように、ジャック・ニクラスやトムカイトのような一流のプロゴルファーたちはこの裁判で証言を行い、マーティーのカート使用に反対した。おそらく彼らは全員にカートを使用させるというジェニー提案にも猛反発したはずだ。
ここでダーの主張に戻ろう。
これは非常に言いにくいことだが、プロゴルファーたちはゴルフが本当にスポーツとして認められているかどうか、とても気にしているのだ。（会場笑い）
誰もがカートに乗って移動する。もしくはそういった選択肢がある場合、人によってゴルフはスポーツ競技ではなく、ゲームだと考えるだろう。運動競技ではなく、技術を競うゲームと言うことだ。
私たちは目的論という観点から、ゴルフの意義を考えた。それと同時にゴルフにとって何が本質的な要素なのかを論じてきた。アリストテレスはこのような議論が必然的に名誉の配分という問題に通じると言う。ゴルフの目的は観客を楽しませることだけではない。アリストテレスの観点から言えれば、その点でスカリア判事は間違っている。ゴルフは人々に娯楽を与えて、幸せにするだけのものではない。ゴルフはスポーツ選手の卓越性を認め、讃え、そして名誉を与えるものだ。
少なくとも最高の名誉を勝ち取った者にはゴルフはスポーツだという見方を維持することが重要なのだ。
君たちの中にはスカリア判事と同じ意見だった者もいた。何がゴルフの本質なんて、あまりに難解だし、くだらない問題だと言っている。合衆国最高裁判所は判断できないし、する必要もない。これが彼の意見だ。
スカリア判事がこのように述べたのは、ゲームというものを定義するにあたって、確固たる反アリストテレス的立場をとっていたからだ。スカリア判事はこう言った
ゲームの本質は娯楽の他に目的がないことである。これがゲームと生産的な活動の違いである。（会場笑い）
彼がどんなスポーツファンか想像がつくだろう。彼はこうも言った。
ゲームのどんな任意のルールも本質的だと言えない。
そして、ゴルフに対するマーク・トウェインの抽象を引用した。
多くの者は歩くことがゴルフの特色だと考えている。マーク・トウェインは「それは散歩の楽しみに失礼な話だ」と言ってゴルフを批判した。（会場笑い）
しかし、ここでスカリア判事は重要な局面を見落としている。ゲームにまつわる権利や公平性の問題だ。
彼はゲーム、スポーツあるいは、運動競技をただの娯楽目的だと考えている。
つまり、功利主義的な活動だ。
一方でアリストテレス的見方では、スポーツとはただの娯楽とは捉えない。真のスポーツ、真の運動競技は正当な評価を必要とする。スポーツを観戦し、スポーツを愛し、実際にスポーツに参加する人ならわかるだろう。スポーツとはただの見世物とは違うといことだ。
スポーツと見世物との違い、それをスポーツが卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところにある。そういったスポーツの美徳がわかる人こそ、理解のある本物のファンだ。
彼らにとってのスポーツ観戦は単なる娯楽ではない。従って、どのような要素がスポーツにとって本質的か、という問いには意味がある。あってしかるべき議論なのだ。法定が判断すべきかどうかは重要ではない。
PGAの内部競技でも、この議論は重要な意味を持った。だからこそPGAはコースを歩き、疲労することが本質的なものだと強く主張したのだ。ゴルフというスポーツにとっては決してささいな要素ではないと。
この例は権利についての議論に、目的と名誉という２つの要素が存在することを明らかにしている。
アリストテレス曰く、正義について考える時にはこの２つの要素が不可欠だ。
次はアリストテレスの正義論がはたして正しいのかどうか、そして、説得力があるのかどうかを考えていきたい。
君たちの考えを聞きたいが、その前にまず重要な反論を１つ話しておこう。
アリストテレスは正義とは適合させることだと言った。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。ではそこに自由の余地はあるのだろうか？アリストテレスの目的論に基づいた正義論にはこのような疑問が生じる。
例えば、私にピッタリで役割や人生の目的を選ぶ権利はあるのだろうか。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。思い出して欲しい。ロールズは目的論よる正義の解釈を否定した。彼が言うには目的論によって正義を論じた場合、市民の平等な基本的事件が脅かされてしまう。
それでは考えてみよう。アリストテレスは正しいのか。目的論による正義の解釈は自由と相いれないものなのだろうか、我々が懸念すべき確固たる事実がある。
アリストテレスは奴隷制を擁護した。
彼が生きた時代のアテネで制度として確立していた奴隷制を擁護していたのだ。
では、どのように擁護したのか。
奴隷制が正義にかなうためには、２つの条件を満たさねばならない。
１つは必要性だ。アリストテレスは少なくとも彼の社会では奴隷制が必要だと言っている。
理由はこうだ。集会に出向き、政治を論じ合う市民たちは、手作業、単純作業、あるいは家事から解放されなければならない。だから彼らに変わって生活の面倒をみる人が必要だと言うわけだ。
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科学の力によってＳＦに出て来るような雑用ロボットが発明されない限り、辛い肉体労働や単純作業に従事する人間は存在し続ける。そのような雑用にとらわれず、善について考え、本質を発揮するべき人間がいるべきだからだ。市民が考え、議論し実践的な知恵を得ていくためには、奴隷制はポリスの生活に不可欠なものだ。
しかし、そこにはもう１つの条件がある。共同体が機能するためだけに奴隷制が存在してはならない。
なぜなら、適合の基準によれば、奴隷が存在するということは、奴隷となるのが正義にかない、それにふさわしい人がいなければならない、ということだからだ。
奴隷制が正義にかなるためには、この２つの条件がみたされ、それが正しくなければならないとアリストテレスも認めている。
彼はなげかわしい一節を残している。
生まれつき奴隷に適した人間がいることは事実である。肉体が魂と異なるのと同様に、このような人間は普通の人間とは異なる。統治されることを定められた人間なのだ。彼らの本質は奴隷となることで活かされる。他者の理性を認識することはできるが、それに預かり公使することはできない。我々にはそのことがわかっている。
アリストテレス自身も自らもこの主張がいかがわしく、無理があることに悟っていたに違いない。
なぜなら、彼は反対派の言い分にも一理あると認めているからだ。
反対派の指摘はこうだ。アテネにいる奴隷の多くは生まれながらの奴隷や奴隷にふさわしいものではない。彼らは戦争に負けて捉えられ、仕方なく奴隷となったのだ。
だからアリストテレスも古代アテネに存在していた奴隷制では、必ずしもふさわしい者が奴隷になったことを認めていた。奴隷の中には運悪く戦争で捉えられた者もいたからである。
アリストテレス自身の考えでは、例え市民のために奴隷制が必要であっても、ふさわしくない者が奴隷になることは正義に反していた。不適合が生じているからだ。
奴隷にふさわしくないものに、その役割を与えるのは一種の強制だ。ただし強制そのものが問題であるのではない。自然にかなわないことを強制することが問題なのだ。誰かを強制的に何らかの役割につけることは、それが本来の彼の役割ではなく、彼に適していない事を示している。
アリストテレスは奴隷制を擁護した。しかし、彼の目的論の議論や、人と役割の適合が正義だとする、考え方は
原理的には間違っていない。なぜなら、アリストテレスが彼の理論が奴隷制に応用した時、何が間違っていたかを、彼自身の言葉によって説明することが可能だからだ。
では、自由をめぐってアリストテレスの理論にさらに切り込んでみよう。
その前に君たちの意見を聞かせて欲しい。適合を正義とするアリストテレスの理論、正義の目的論的な論法。それから権利や分配的正義における名誉という概念をどう思うだろうか。
これまで、フルート、政治、ゴルフの例を考えてきたね。
アリストテレスに関して不明な点はないかな？あるいは彼の理論全般について反論がある人！君！
学生Ｄ：僕はアリストテレスが個人と役割を一致している点に反対します。例えば、海賊のように歩き、海賊のように話していたら、海賊になるべきだ。アリストテレスはそう主張しています。でも、彼の考えは不自然だし矛盾を感じます。海賊のように歩いたり、話したりする人がいたら、その人は投資銀行家になるべきではない。本質的に向いていない、ということになってしまいます。義足をつけ、眼帯をして、不機嫌そうな態度なら、海賊船に乗り込み、生みに乗り出すことになってしまいます。だから、、、
あぁ、もしかしたら、海賊と投資銀行家では、それほど違いがないのかもしれないよ（会場笑い、拍手）
だが、言いたいことはわかった。君！どうぞ！
学生Ｅ：個人の権利が無視されているように感じます。例えば、私が世の中で１番ある仕事に向いていて、誰よりも効率良く仕事ができるかもしれない。その場合、例え私がその仕事につくのが嫌でも、他の仕事につくことを否定されているように思います。
君の名前は？
学生Ｆ：メアリーケイトです。
もう少し意見を聞いてみよう。君！
学生Ｇ：さきほどのゴルフカートに関する議論がアリストテレスの目的論的論法に対する反論を投げかけていたと思います。君はマイケルだったよねぇ。マイケルは歩くことがゴルフの本質だと言いました。でも、僕自信は歩くことはゴルフの固有のものではないと思う。この論争にどれだけ長い時間を費やそうとも、僕らの意見は一致することはないでしょう。目的論的論法という枠組みの中では、僕たちが意見に至ることはできないような気がします。
君の名前は？
学生Ｈ：パトリックです。
では、アリストテレスに対する一連の反論について考えてみよう。まずパトリックの反論からだ。
これは重要な反論だ。我々は歩くことがゴルフの本質かどうか議論したが、そのような一見ささいな話においても、同意に達することができなかった。もっと重要な問題、例えば、政治的コミュニティの根本的な目的を論じるとしたら、意見が一致するはずがない。
市民の共同生活における、目的や善について、同意を得ることができないのであれば、我々は目的や善という概念に基づいて、正義や権利を考えることもできないだろう。これは重要な反論だ。
だから、現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としている。
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そして、結論としては、正義や権利や憲法は特定の善の考え方や政治的生活の目的などを前提にすべきではない。そうではなく、権利の枠組みを提供し、人々に自分たちの善や、人生の目的を自由に選ばせるという発想にしているのだ。一方、メアリーケイトが言ったのは、ある仕事にふさわしい人が、もっと高いところを目指したい。別の生き方を選びたいと思ったらどうなるだろうか、という問題だった。
ここで再び自由の問題が出て来る。
もし、私たちが自分たちの本質のふさわしい役割に基づいて、生き方を決められてしまうなら、少なくとも私たちがその役割を選ぶ自由があるべきではないか。どの役割がふさわしいか、自分たちで決めるべきではないか。
アリストテレスとカントやロールズの論争を思い出してみて欲しい。
カントとロールズはパトリックと同じ考えだった。多元的な社会においては、善き生の本質において同意するこができない。だから、この問いに対する答えに基づいて、正義を考えるべきではない。カントとロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けた。
ロールズ的、カント的なリベラル派によれば、目的論の論争で重要なのは次の点だ。
正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されない。そして、自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではない、とういことになる。
アリストテレスかもしくはカントとロールズか、
２つの大きな伝統をどちらが正しいのか判断するために吟味すべき問題がある。
１つは権利は善に優先するのかどうか。
そしてもう１つは自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。
自由とは、自分の役割や目標、目的を選択できることなのだろうか、それとも、自分の本質を見つけようとすることなのだろうか。
次回これらの問題をとりあげよう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture19「目的から考える正義について」</p>
<p>カントやロールズにとって政治の意味とは、善や価値や目的を選択する「自由を尊重」し、他者にも同様の自由を認めることだった。目的を重視するアリストテレスにとっての政治の意味とは、「市民の道徳的人格を形成すること」だとする。政治の目的は善き生をもたらすことである。善い人格を形成することであり、市民たちの美徳を高めることだ。そのためには市民は政治に参加することが必要不可欠だと説く。授業や本からでは美徳は得られない。政治に参加し、正義、不正義を論じ、統治し、統治されることを実践することで美徳は得られる。一流の料理人の中で料理本だけで一流になった者はいない。調理をするという実践によってのみ学べるのだ。善い人格形成や美徳もそれと同じだ。政治に参加するという実践によってのみ学べるのだ。必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することこそ、政治の究極的な姿だ。そして最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉という美徳が与えられる。優れた者を讃えることも政治の目的の１つだ。実際にはヘリクレスという人物が讃えられ、名誉が与えられ、大きな発言力が与えられた。善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治権力をふるい名声を得るべきなのだ。アリストテレスは目的論と名誉に基づく分配の正義を重視した。今日の例で考えなおしてみよう。ケーシー・マーティという人物は一流のゴルファーと競う実力を持っていたが、彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くことが困難だった。彼はプロゴルフツアーを運営するPGAにツアー中のカートの使用を求めたが却下された。彼はPGAを訴えた。結果的に最高裁はPGAに対してマーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。歩くことが試合の本質ではないとした。ゴルフの目的を考え結論を出したのだ。しかしプロフォルファーの気持ちを考えてみよう。歩くことがゴルフの本質に含まれないとしたら、ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームということになる。これはビリヤードに近い。技術は必要だが、運動能力は問われない。このことはゴルフは本当にスポーツ競技なのかという問題につながってくる。一流プロゴルファーにとって、ゴルフはスポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。つまり名誉の問題だ。続きは次回考えよう。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/MuiazbyOSqQ&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/MuiazbyOSqQ&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture19<br />
<strong>THE GOOD CITIZEN</strong><br />
Lecture20<br />
<strong>FREEDOM VS. FIT</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:08
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture19「目的から考える正義について」</font></h2>
<p>前回に引き続き、今回もアリストテレスについて考えていこう。</p>
<p>現代の正義論は、道徳的に対価や美徳といった概念から、正義や権利を切り離そうとする権利だった。アリストテレスの主張はカントやロールズとは異なる。彼の考える正義は人々にふさわしいものを与えることだ。アリストテレスの正義論の中心には１つの考え方がある。正義や権利を論じる時には社会的実践や制度の維持、目的、つまりテロスに関する議論が避けられないというのだ。</p>
<p>正義が平等な人々に平等にものを分配することだと考えると、すぐに問題がでてくる。何を持って平等というのか。その質問に答えるためには分配するもの、それぞれの目標、本質的な性質、そして目的を考えなければならない、とアリストテレスは言う。フルートの話をしたね。誰が最高のフルートを手にするべきか、アリストテレスは最高のフルート奏者であると答える。最高のフルート奏者が最高のフルートを手にする。それこそが名誉だ。</p>
<p>最高のフルート、それを与えられることで、最高の演奏と優れた演奏奏者の持つ美徳が認めれる。</p>
<p>今日のテーマになる興味深い論点は我々が社会制度や政治的実践について考える時、目的論なしで済ますのは決して簡単なことではない、ということだ。<br />
<span id="more-3098"></span><br />
一般的に目的論を無しにして、倫理や正義、道徳的議論を考えるのは難しい。少なくともアリストテレスはそう考えた。では彼の主張の力を明らかにするために、２つの例をあげてみよう。</p>
<p>１つはアリストテレスもかなりの長さで論じている政治の問題だ。<br />
政治的地位や名誉、政治的統治はどのように分配されるべきか。<br />
２つめの例は現代のゴルフに関する論争だ、全米プロゴルフ境界PGAは足に障害にあるゴルファー、ケーシー・マーティに対して、試合中のカートの使用を許可すべきかどうか。</p>
<p>この２つの例から私たちは、アリストテレスの目的論に基づいた正義をより深く理解することができる。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
テロス、つまり目的について考えた時、社会的実践の本当の目的というのは、意見が分かれるところだ。そのような意見の不一致が乱れるのは、誰が何を得るか、という点だけではない。単に分配の問題ではなく、名誉の問題でもある。いったい、どのような個人の資質や秀逸さに対して名誉が与えられるのだろうか。</p>
<p>目的やテロスについての議論は同時に名誉についての議論であることが多い。<br />
それでは、ここでアリストテレスの政治論をみていこう。</p>
<p>現代における分配的正義は収入、財産、そして機会の分配が主な争点となる。しかし、アリストテレスは収入や財産よりも地位や名誉についての分配を考えた。誰が統治権を持つべきか、誰が市民であるべきか、どのように政治権力が分配されるべきか。これらの問いに彼はどう答えたのか。</p>
<p>アリストテレスは目的論に基づいて正義を考えた。<br />
正義権力の分配方法を理解するためには、まず政治の目的、意義、そしてテロスとは何かを問わなければならない。では、政治とは何だろうか、この問いに答えられれば統治者を決定できるのだろうか。アリストテレスはこう答える。<br />
　<br />
政治とは、善い人格を形成すること、市民たちの美徳を高めること、つまり、善き生をもたらすものだ。</p>
<p>著作「政治学」の第３巻で彼はこのように言っている。国家的、共同体の目的は単なる生活ではない、経済活動や安全保証に基づいたものではない。政治の目的は善き生をもたらすものだ。</p>
<p>君たちの中では、この考えに疑問を持ち、近代の正義論や政治論の方が正しいと思う人がいるかもしれない。思い出して欲しい。カントやロールズにとっての政治の意味は、市民の道徳的人格を形成することではなかった。政治は私たちをよくするものではなく、私たちが善や価値、目的を選択する自由を尊重し、他者にも同様の自由を認めることだった。</p>
<p>アリストテレスは違う。名ばかりでなく、真にポリスと呼ばれるものは、善の追求という目的に献身すべきだ。さもなければ、政治的共同体は、ただの同盟に陥る。<br />
法は他人から人間から権利を保証する約束事になってしまう、本来はポリスの市民に善と正義を与える規範であるべきなのに。<br />
ポリスは同じ場所に済む者の集団ではない。互いの不正義を防ぎ、取引を容易にするためのものでもない。ポリスの目的と意義は善き生であり社会生活の諸制度は、その目的のための手段である。</p>
<p>アリストテレスはさらに次のように問いかける。これが政治やポリスの目的だとすると、分配的正義の原理を下に誰が一番発言力を持つべきか、誰が最高の政治権力をふるうべきか、アリストテレスはこう答える。このような特徴を持つ集団、つまり、善を追求する集団に最も貢献する者こそ、政治的統治における役割や、ポリスにおける名声を得るべきである。</p>
<p>なぜなら、政治的共同体の本質的な部分に貢献する力があるからだ。</p>
<p>アリストテレスがどのように公認権や政治権力の分配原理と政治の目的を結びつけたか理解できたと思う。</p>
<p>しかし、すぐに疑問が浮かぶだろう。なぜアリストテレスや政治的生活や政治への参加が善き生に不可欠だと主張したのだろうか。道徳的生活を送ることは不可能なのだろうか。彼はこの問いに２つの答えをあげた。</p>
<p>１つ目は「政治学」の第１巻で手短かに述べられている。アリストテレス曰く、ポリスで生活し、政治に参加することによってのみ、我々は人間としての本質を十分に発揮できる。つまり、人間は本来、ポリスで生きるものだ、と言うのだ。なぜなら、我々は政治的生活によってのみ、人間固有の言語能力を活用できるからだ。アリステレスはこの言語能力によって物ごとの生や不正義を論じることができると考えていた。<br />
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彼は「政治学」の第１巻でこう書いている。<br />
政治的共同体であるポリスは、自然に発生するものであり、個人に優先する。時間的に優先するのではなく、その目的において優先するのだ。</p>
<p>人間は共同体の外で暮らしても自己自足することはできない。<br />
孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神であるに違いない。</p>
<p>私たちは言語能力を活用する時のみ、人間としての本質や能力を十分に発揮できる。つまり、私たちが同胞である市民たちと物ごとの善し悪し、または正義、不正義について議論する時だ。</p>
<p>それでは私たちはなぜ政治的共同体にしか言語能力が発揮することができないのであろうか。アリストテレスのより詳しい２つ目の答えは、彼の著作「ニコマコス倫理学」で説明されている。この抜粋は課題の読み物には入れてある。彼はその中で政治について論じること、市民として生きること。統治し統治されること、そして権力を分配されること全てが美徳に必要不可欠だと説明している。</p>
<p>アリストテレスが定義する幸福は苦痛に対する喜びを最大にするものではない。幸福とは美徳に基づいた魂の活動である。さらに彼は政治を学ぶ全ての者は魂と学ぶ必要があると言う。魂と形作りことは、善き都市における法の目的の１つなのだ。</p>
<p>しかし、徳のある生活を暮らすために善きとして暮らす必要がるのか、家庭の中や哲学の授業、あるいは本から道徳的規範を学び、そういった原則や規則、または指針に従って生きるだけではダメなのだろうか。アリストテレスは美徳はそのように得るものではないと言う。</p>
<p>彼によれば、<br />
美徳とは実践し、自分で行動することによってのみ得られるものだ。</p>
<p>実際にやってみることで始めて身に付く。本から学ぶべきではない。そういう点ではフルートの演奏に似ている。教則本を読んだだけでは、上手に演奏することはできない。練習したり、優れたフルート奏者の演奏を聞いてみたりしなければならない。他にも似たような例がある。料理だ。一流の料理人の中で、料理本だけで調理法を学んだ人はいない。料理は実践によってのみ学べる。お笑いももう一つの例と言えるだろう。コメディの原理を読んだだけで、一流のコメディアンになった人はいない。</p>
<p>これはなぜだろう。お笑い、料理、楽器の演奏に共通するものは何だろうか。本や授業からルールを理解するだけでは、なぜ習得できないのだろうか。これら３つの活動に共通するのは、コツをつかむ、ということだ。</p>
<p>では、料理、演奏、そしてお笑いのために必要なコツとは何だろうか、与えられた個別の状況の特徴を見抜くことだ。コメディアンや料理家や演奏家はそれぞれ与えられた個別の状況の特徴がどのよなものか把握しなければならない。しかし、それを把握する習慣を身につけることができる、規則や指針はどこにも存在しない。</p>
<p>美徳も同じだとアリストテレスは言う。</p>
<p>では、これがどう政治に結びつくのだろうか。我々がよく生きるためには美徳を得なければならない。そのための唯一の方法は、必要な習慣を身につけるために徳を実践し、さらに善の本質について市民同士が議論することである。これが政治の究極的な姿だ。</p>
<p>我々には市民的な美徳や対等な仲間たちと論じ合う能力が必要だ。こういったものは政治に参加せず、１人で生きていたら決して得られない。従って、我々は本質を発揮するために政治に参加しなければならない。そしてアテネの政治家やヘレクレスのように最高の市民的美徳を持つものは最高の政治的地位と名誉を与えられる。つまり、地位や名誉の分配についての議論は目的論的な性格だけなく、名誉という側面も持っている。ヘリクレスのような人々を讃えることも、政治の目的の１つだからだ。</p>
<p>ヘリクレスに大きな発言力が与えられるのは、最善の結果を市民にもたらすような判断を下せる、という理由だけではない、もちろんそれも事実だし重要なことだ。</p>
<p>しかし、へリクレスのような人物がポリスで最高の地位や名誉、権力、そして影響力を持つべき理由がもう１つある。ふさわしい美徳を持つ者を選び、名誉を与えることも政治の重要な点の１つだからだ。この場合の美徳とは市民的な美徳や卓越性、実践的な知恵などをさす。この名誉と言う美徳はかかせない。</p>
<p>では、ここでアリストテレスの議論を実例によって現代社会の論争に当てはめて考えてみたいと思う。アリストテレスの２つの議論のつながりをみるためだ。２つの議論とは、正義と権利についての議論、そして社会的実践のテロスや目的についての議論だった。</p>
<p>これからみていく、ケーシー・マーティとゴルフカートの訴訟はそれだけなく、次の２つの問題も明らかにしてくれる。</p>
<p>１つの問題は社会的実践の目的、この例で言うと競技の目的だ。<br />
もう１つは名誉に値するべき資質とは何か、という問題だ。</p>
<p>つまり、目的論と名誉に基づく分配的正義の関係である。<br />
ケーシー・マーティは大変優れたゴルファーで一流選手たちと競う実力を持っていた。しかし１つ問題があった。彼は足に血液循環障害を抱えており、歩くのに困難だった。こんなんどころか危険だった。</p>
<p>そこでマーティはプロゴルフツアーを運営するPGAに対してある申請をした。</p>
<p>プロトーナメントに参加する際、ゴルフカートの使用を認めて欲しいと言ったのだ、PGAは申請を却下した。そこで彼はアメリカ障害者法に基づいて、PGAを訴え、この訴訟は最高裁判所まで持ち込まれた。</p>
<p>そして、最高裁判所で争点となったのはマーティにはPGAから許可を得て、ツアー中にカートを使用する権利があるかどうか、という問題だった</p>
<p>意見を聞いてみよう。君たちの中で道徳的に考えて、ケーシー・マーティがゴルフカートを使う権利があるはずだと考える人は手をあげて欲しい。（会場半分以上手をあげる）では、トーナメントでカートを使う権利がないと言う人は？過半数はマーティの権利を認めているようだ。でも、反対派もかなりいるようだね。</p>
<p>まず、マーティの権利を認めない意見を聞いてみよう。なぜPGAはカートの使用を認めるべきではないと考えるのか？君！</p>
<p>学生Ａ：ゴルフというスポーツが生まれた時から、コースを歩くことが競技の一環であり、今ではゴルフの本質的な要素となっています。だからゴルフコースを歩くことができなければ、プロとして競う上で必要な条件を満たしていないことだと思います。</p>
<p>なるほど、君の名前は？<br />
学生Ａ：トムです。<br />
君はゴルフはするかい？<br />
学生Ａ：それほどじゃありませんが、少しは。</p>
<p>ゴルフをする人はいないかな？本物のゴルファーは？<br />
学生Ａ（トム）：言ってくれますねぇ。<br />
あぁ、いやいやいや、、、（会場笑い）悪気はないよ。</p>
<p>ゴルフ部の人はいないかな？君！では名前と意見を聞かせて欲しい。<br />
学生Ｂ：マイケルです。僕はいつもカートに乗っているので、、たぶん、、（会場笑い）<br />
あまり参考にならないかも。</p>
<p>だから、おそるおそる手をあげたのか。（会場笑い）<br />
いいだろう。さっきトムは少なくとも、プロゴルファーにとってはコースを歩くことが試合の本質的な要素だと言っていたが、君は賛成する？<br />
学生Ｂ（マイケル）：はい。<br />
自分はカートに乗るのに？それでも君はゴルファーか？（会場笑い）いやいや、冗談だ。理由を聞かせて欲しい。</p>
<p>学生Ｂ（マイケル）：コースを歩くことは、大きな負担になって、試合にはるかに大変になります。<br />
なるほど、それじゃあマイケルとトムはそのままでいてくれ。</p>
<p>今度はマーティにはカートを使う権利があるはずだという意見を聞いてみよう。マーティの主張を弁護できる人は？君！<br />
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学生Ｃ；PGAはカートの使用を認めるべきだと思います。判決の中でもマーティが疲労を感じないわけではないと述べられています。カートが入れないところもあるので、１マイルくらい歩く必要があります。その１マイルでも、彼は他の選手より疲れや痛みを感じるのです。負担がすっかりなくなるわけではありません。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｃ：リーバです。<br />
リーバ、コースを歩くことはゴルフの本質的なものである、というトムの意見にはどう反論する？例えば、障害を持つ選手がNBAの試合に参加することができたらコースを走り回る必要がないのかな？</p>
<p>学生Ｃ（リーバ）：それには２つの答えがあると思います。まず、歩くことがゴルフの本質だとは思えません。特に趣味でゴルフをする人はカートを使うし、、、。<br />
マイケルのそうだね。<br />
学生Ｃ（リーバ）：それからカートを使える大会もあります。例えば、PGAのシニアの大会、大学の大会、どれもPGAと同様にレベルの高い大会です。歩くことがゴルフの重要な要素だなんて、かってな考え方だと思います。それにマーティは全く歩かないわけじゃない、座ったままでなく立ってゴルフをします。</p>
<p>ありがとう。他には？君！<br />
学生Ｄ：競争の目的は１番、２番、３番と順位を決めることだと思います。これは世界的なツアーですから、最高峰のレベルです。問題は競争の目的です。競争の目的を考えれば、規則を変えるべきではありません。</p>
<p>競争の目的は歩くことも含まれている。<br />
学生Ｄ：はい。<br />
トムと同じ意見だ。名前は？<br />
学生Ｄ：デイビットです。</p>
<p>最高裁はPGAがケーシー・マーティの要求を受け入れなければならないという結論を下した。その根拠はリーバが言った通り、歩くことが試合の本質ではないということだ。彼らはコースを歩くことはハンバーガーを食べて得るほどのカロリーしか消費しない。という証言を引用した。それが多数派の判事の意見だ。</p>
<p>だがスカリア判事は意義を唱えた。彼はデイビットを同じ意見だった。<br />
スカリア曰く、ゴルフには目的などないし、ゴルフの本質的な目的を考えるのは法定の役割ではない。ゴルフの他の競技であり娯楽である。特定のスタイルにこだわりたければそうすればいい。人々がそれを楽しめるか、観戦を見にいくか、テレビ中継を見るかどうかは市場が判断することだ。</p>
<p>スカリアの反対意見は反アリストテレス的なものだ。<br />
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ここで２つの点に着目して欲しい。まず我々はゴルフの本質的な性質や目的について話し合った。歩く事はゴルフの本質に含まれるだろうか。この議論にはもっと確信的な問題がある。歩く事のゴルフの一部とするかどうかは、ゴルフが本当にスポーツ競技なのか、という問いにつながる。ゴルフは静止したボールをホールにいれるゲームだ、これはバスケットボールや野球、アメリカンフットボールに近いだろうか、それよりもビリヤードに近いのか。（会場笑い）ボールは静止しているし、身体を鍛えなくても勝つことはできる。技術は必要だが、運動能力はとわれない。</p>
<p>一流のプロゴルファーの気持ちを考えてみよう。彼らにとってゴルフがビリヤードのような技術中心の競技ではなく、スポーツとして認められ、讃えられることが重要なのではないだろうか。</p>
<p>もし、そうならば、この議論は目的やテロスだけでなく、名誉という問題をはらんでいることになる。ゴルフという競技はいったい、どのような美徳を評価し、讃えているのだろうか。アリストテレスが提示した２つの問いだ。続きは次回考えよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture20「公平さと名誉について」</p>
<p>前回の講義で、足が不自由なマーティはPGAのゴルフツアーでゴルフカートを使用する権利があるか、という議論で、目的と名誉の２つの要素があることがわかった。マーティにとって名誉とは最高峰のPGAのゴルフツアーで勝利することであり、プロゴルファーにとっての名誉はゴルフがスポーツとして認められている上での名誉を気にしているのだ。スポーツとは見世物とは違う。その違いはスポーツは卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところだ。スポーツの美徳がわかる人こと理解のある本物のファンだ。ゴルフがスポーツかどうかを問うことは重要なのだ。それは名誉と関係があるからだ。アリストテレスの正義論は権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。正義とは適合させることだ。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。さて、アリストテレスの正義論は正しいのかどうかを考えよう。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。実は彼は彼の生きていた時代の制度として奴隷制を擁護していた。市民が政治を論じ合うには家事などから解放されなければならない。生活の面倒をみてくれる奴隷が必要だ。しかし適合の基準によれば、奴隷にふさわしい人がいなければならないということになる。これについてアリストテレスは、生まれつき奴隷に適した人間がいると主張している。だが、戦争で捉えられ、仕方なく奴隷になった者などは、奴隷の役割を与えるのは一種の強制であり、本人の本来の役割と適合していないので問題としている。ここでの要点は、アリストテレスの目的論法が奴隷を認めているから正しくないのではなく、むしろ目的論法自体は原理的には間違っていないのだ。なぜなら、彼の目的論法で奴隷制を考えた場合、何が間違っていたのかを、彼自身の言葉によって説明することができるからだ。では目的論法は問題となるのか。それは多元的な考えを持つ現代の社会において、目的や善について同意を得ることが難しい。だからこそ現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としているのだ。カントやロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けたのだ。アリストテレスのように正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されないではないか。自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではないのだ。吟味すべき問題は２つある。１つ目は権利は善に優先するのかどうか。２つ目は自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。ただしロールズが言うような、自分の役割や目標や目的を選択できることが本当に自由なのか。次回考えよう。</p>
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<h2><font color="#aa1525">Lecture20「公平さと名誉について」</font></h2>
<p>前回はケーシー・マーティがPGAトーナメントにゴルフカートに乗る権利があるかどうかを話し合った。このような議論をすることが政治哲学を理解する上でどう重要なのかを思い出して欲しい。</p>
<p>我々はアリストテレスについて正義論について考えていた。彼の正義論のアプローチを目的論と呼ぶことがある。アリストテレスは権利を分配するためには、まず問題となっている社会的実践の意味や目的を理解しなければならないと言う。</p>
<p>アリストテレスの正義論を別の言葉で言い表すなら、正義とは適応性の問題だ。</p>
<p>つまり、美徳や卓越性を備えたものはふさわしい役割を与えらねなければならない、ということだ。では前回に引き続き、ゴルフカートを使いたいと言う、ケーシー・マーティについて議論しよう。</p>
<p>その後でアリストテレスをめぐるもう１つの重要な論点である。奴隷制の問題を考えていく。</p>
<p>君たちはケーシー・マーティの要求をどう考えるだろうか。競技やトーナメントの性質と目的を踏まえて便宜が計られるべきか、それとも却下されるべきか。ゴルフカートの使用を禁止することは差別だと言う人もいるだろう。反対に彼がカートを使うのは、他の選手に対して不公平だと言う人もいるだろう。他の選手は歩くことで体力を消耗してしまう。</p>
<p>前回はここで終わったねぇ。</p>
<p>公正の議論はどうだろうか。ではジェニー。</p>
<p>学生Ａ（ジェニー）：なぜPGAが全ての選手にカートの使用する許可を与えないのかわかりません。課題の読み物の中にもありましたが、PGA以外ではカートを禁止しないゴルフトーメントがたくさんあります。シニアトーナメントでは、むしろ使用が奨励されています。なぜPGAもそうしないのでしょうか。</p>
<p>全員にカートを使わせる？<br />
学生Ａ（ジェニー）：あるいはカートを使うかどうか、全員に選択させるんです。保守的な人はカートに乗るよりも疲れることを承知した上でコースを歩く方を選べばいいと思います。</p>
<p>なるほど、今のジェニーの提案はどうだろう。カートにのることが有利な条件になるとすれば、公正をきするためにマーティンだけでなく、希望する者全員にカートを使わせる。この解決策で誰もが満足するだろうか。ジレンマは解消されたかな。ジェニーに対して意見がある人は？君！</p>
<p>学生Ｂ（ダー）：先生が前回おっしゃったように、全員にカートの使用を認めてしまうと、大勢の人が抱くゴルフの精神が損なわれることになります。例え、全員に同じ条件を与えるためにも、ゴルフがスポーツ競技から離れてしまうと思います。かってに競技のルールを変えてしまうようなものです。例えば、水泳で足ヒレを使いたい人がいれば、全員が足ヒレを使えるようにするんでしょうか？</p>
<p>もし、誰もが自由に足ヒレを使えるとしたら、オリンピックの水泳競技はどうなるだろう。ジェニーの意見を聞いてみよう。ダーはオリンピック水泳競技で足ヒレを使用を認めるのと同じで、カートの使用はスポーツ競技の精神を損なうと言っている。ジェニーはどう答える？スポーツの精神を損なうだろうか。</p>
<p>学生Ａ（ジェニー）：ゴルフの情熱をそそぎ、実力のある選手がいるのに、競技の一面に参加させないのは、同じようにゴルフの精神を損なうことです。ゴルフで一番大事なのはクラブでボールを売ってホールに入れることです。私はゴルフはやらないんですけど、でも私に言わせればそれがゴルフの主旨です。PGA対ケーシー・マーティーの判決文を読んでいたら、同じことが書いてありました。コースを歩くことではなく、クラブを振ることがゴルフの本質的な要素だと。</p>
<p>つまり、ジェニーはダーとは違う意見でコースを歩くことはゴルフの本質ではないと言う。目的の話に戻ったね。</p>
<p>学生Ａ（ダー）：例えば、腕だけを使える人が参加できる車イスバスケットのような競技もありますが、それは別の種類のものだと思います。</p>
<p>結構だ。マイケル、どう思う？<br />
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学生Ｃ（マイケル）：バスケットボールができないなら車イスバスケットボールという選択肢があるように、PGAツアーとは、別の選択があると思います。PGAはゴルフ会の頂点だから、参加するためには資格条件を満たす必要があると思います。</p>
<p>なるほど、つまり障害者のためにオリンピックとしてパラリンピックがあるのだから、ケーシー・マーティーもパラリンピックのような大会に参加すれば良い。これが君の意見だね、マイケル。</p>
<p>学生Ｃ（マイケル）：はい、歩くことはゴルフの一部です。コースを歩けないなら、PGAツアーに参加する資<br />
格はありません。<br />
なるほど、貴重な意見をありがとう。</p>
<p>今の議論はアリストテレスの正義論とどう結びつくだろうか。</p>
<p>ここでは歩くことがゴルフの本質的な要素かどうかが問われた。PGAはケーシー・マーティーが主張した権利を認めるべきかどうか、その答えを出すために、アリストテレスが示唆した方法をとらなければならない。</p>
<p>我々は歩く事がゴルフの試合に本質的なものかを議論し、決着をつけなければならないのだ。<br />
これが教訓の１つだ。</p>
<p>この話には２つ目の教訓がある。<br />
アリストテレス的な観点から考えた時、ここで争点となっているもの、それは名誉だ。</p>
<p>ケーシー・マーティンがカートの使用許可を求めたのは、最高峰の支配で勝利するという名誉のためだった。</p>
<p>課題の読み物にあるように、ジャック・ニクラスやトムカイトのような一流のプロゴルファーたちはこの裁判で証言を行い、マーティーのカート使用に反対した。おそらく彼らは全員にカートを使用させるというジェニー提案にも猛反発したはずだ。</p>
<p>ここでダーの主張に戻ろう。</p>
<p>これは非常に言いにくいことだが、プロゴルファーたちはゴルフが本当にスポーツとして認められているかどうか、とても気にしているのだ。（会場笑い）</p>
<p>誰もがカートに乗って移動する。もしくはそういった選択肢がある場合、人によってゴルフはスポーツ競技ではなく、ゲームだと考えるだろう。運動競技ではなく、技術を競うゲームと言うことだ。</p>
<p>私たちは目的論という観点から、ゴルフの意義を考えた。それと同時にゴルフにとって何が本質的な要素なのかを論じてきた。アリストテレスはこのような議論が必然的に名誉の配分という問題に通じると言う。ゴルフの目的は観客を楽しませることだけではない。アリストテレスの観点から言えれば、その点でスカリア判事は間違っている。ゴルフは人々に娯楽を与えて、幸せにするだけのものではない。ゴルフはスポーツ選手の卓越性を認め、讃え、そして名誉を与えるものだ。</p>
<p>少なくとも最高の名誉を勝ち取った者にはゴルフはスポーツだという見方を維持することが重要なのだ。</p>
<p>君たちの中にはスカリア判事と同じ意見だった者もいた。何がゴルフの本質なんて、あまりに難解だし、くだらない問題だと言っている。合衆国最高裁判所は判断できないし、する必要もない。これが彼の意見だ。</p>
<p>スカリア判事がこのように述べたのは、ゲームというものを定義するにあたって、確固たる反アリストテレス的立場をとっていたからだ。スカリア判事はこう言った</p>
<p>ゲームの本質は娯楽の他に目的がないことである。これがゲームと生産的な活動の違いである。（会場笑い）</p>
<p>彼がどんなスポーツファンか想像がつくだろう。彼はこうも言った。<br />
ゲームのどんな任意のルールも本質的だと言えない。<br />
そして、ゴルフに対するマーク・トウェインの抽象を引用した。</p>
<p>多くの者は歩くことがゴルフの特色だと考えている。マーク・トウェインは「それは散歩の楽しみに失礼な話だ」と言ってゴルフを批判した。（会場笑い）</p>
<p>しかし、ここでスカリア判事は重要な局面を見落としている。ゲームにまつわる権利や公平性の問題だ。</p>
<p>彼はゲーム、スポーツあるいは、運動競技をただの娯楽目的だと考えている。<br />
つまり、功利主義的な活動だ。</p>
<p>一方でアリストテレス的見方では、スポーツとはただの娯楽とは捉えない。真のスポーツ、真の運動競技は正当な評価を必要とする。スポーツを観戦し、スポーツを愛し、実際にスポーツに参加する人ならわかるだろう。スポーツとはただの見世物とは違うといことだ。</p>
<p>スポーツと見世物との違い、それをスポーツが卓越性や美徳を引き出し、それを讃えて、評価するというところにある。そういったスポーツの美徳がわかる人こそ、理解のある本物のファンだ。</p>
<p>彼らにとってのスポーツ観戦は単なる娯楽ではない。従って、どのような要素がスポーツにとって本質的か、という問いには意味がある。あってしかるべき議論なのだ。法定が判断すべきかどうかは重要ではない。</p>
<p>PGAの内部競技でも、この議論は重要な意味を持った。だからこそPGAはコースを歩き、疲労することが本質的なものだと強く主張したのだ。ゴルフというスポーツにとっては決してささいな要素ではないと。</p>
<p>この例は権利についての議論に、目的と名誉という２つの要素が存在することを明らかにしている。</p>
<p>アリストテレス曰く、正義について考える時にはこの２つの要素が不可欠だ。</p>
<p>次はアリストテレスの正義論がはたして正しいのかどうか、そして、説得力があるのかどうかを考えていきたい。</p>
<p>君たちの考えを聞きたいが、その前にまず重要な反論を１つ話しておこう。</p>
<p>アリストテレスは正義とは適合させることだと言った。正義とは人々に役割を与え、美徳にふさわしい名誉や承認を与えることだ。ではそこに自由の余地はあるのだろうか？アリストテレスの目的論に基づいた正義論にはこのような疑問が生じる。</p>
<p>例えば、私にピッタリで役割や人生の目的を選ぶ権利はあるのだろうか。目的論には自由が存在する余地があるのだろうか。思い出して欲しい。ロールズは目的論よる正義の解釈を否定した。彼が言うには目的論によって正義を論じた場合、市民の平等な基本的事件が脅かされてしまう。</p>
<p>それでは考えてみよう。アリストテレスは正しいのか。目的論による正義の解釈は自由と相いれないものなのだろうか、我々が懸念すべき確固たる事実がある。</p>
<p>アリストテレスは奴隷制を擁護した。<br />
彼が生きた時代のアテネで制度として確立していた奴隷制を擁護していたのだ。</p>
<p>では、どのように擁護したのか。</p>
<p>奴隷制が正義にかなうためには、２つの条件を満たさねばならない。<br />
１つは必要性だ。アリストテレスは少なくとも彼の社会では奴隷制が必要だと言っている。</p>
<p>理由はこうだ。集会に出向き、政治を論じ合う市民たちは、手作業、単純作業、あるいは家事から解放されなければならない。だから彼らに変わって生活の面倒をみる人が必要だと言うわけだ。<br />
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科学の力によってＳＦに出て来るような雑用ロボットが発明されない限り、辛い肉体労働や単純作業に従事する人間は存在し続ける。そのような雑用にとらわれず、善について考え、本質を発揮するべき人間がいるべきだからだ。市民が考え、議論し実践的な知恵を得ていくためには、奴隷制はポリスの生活に不可欠なものだ。</p>
<p>しかし、そこにはもう１つの条件がある。共同体が機能するためだけに奴隷制が存在してはならない。<br />
なぜなら、適合の基準によれば、奴隷が存在するということは、奴隷となるのが正義にかない、それにふさわしい人がいなければならない、ということだからだ。</p>
<p>奴隷制が正義にかなるためには、この２つの条件がみたされ、それが正しくなければならないとアリストテレスも認めている。</p>
<p>彼はなげかわしい一節を残している。<br />
生まれつき奴隷に適した人間がいることは事実である。肉体が魂と異なるのと同様に、このような人間は普通の人間とは異なる。統治されることを定められた人間なのだ。彼らの本質は奴隷となることで活かされる。他者の理性を認識することはできるが、それに預かり公使することはできない。我々にはそのことがわかっている。</p>
<p>アリストテレス自身も自らもこの主張がいかがわしく、無理があることに悟っていたに違いない。<br />
なぜなら、彼は反対派の言い分にも一理あると認めているからだ。</p>
<p>反対派の指摘はこうだ。アテネにいる奴隷の多くは生まれながらの奴隷や奴隷にふさわしいものではない。彼らは戦争に負けて捉えられ、仕方なく奴隷となったのだ。</p>
<p>だからアリストテレスも古代アテネに存在していた奴隷制では、必ずしもふさわしい者が奴隷になったことを認めていた。奴隷の中には運悪く戦争で捉えられた者もいたからである。</p>
<p>アリストテレス自身の考えでは、例え市民のために奴隷制が必要であっても、ふさわしくない者が奴隷になることは正義に反していた。不適合が生じているからだ。</p>
<p>奴隷にふさわしくないものに、その役割を与えるのは一種の強制だ。ただし強制そのものが問題であるのではない。自然にかなわないことを強制することが問題なのだ。誰かを強制的に何らかの役割につけることは、それが本来の彼の役割ではなく、彼に適していない事を示している。</p>
<p>アリストテレスは奴隷制を擁護した。しかし、彼の目的論の議論や、人と役割の適合が正義だとする、考え方は<br />
原理的には間違っていない。なぜなら、アリストテレスが彼の理論が奴隷制に応用した時、何が間違っていたかを、彼自身の言葉によって説明することが可能だからだ。</p>
<p>では、自由をめぐってアリストテレスの理論にさらに切り込んでみよう。</p>
<p>その前に君たちの意見を聞かせて欲しい。適合を正義とするアリストテレスの理論、正義の目的論的な論法。それから権利や分配的正義における名誉という概念をどう思うだろうか。</p>
<p>これまで、フルート、政治、ゴルフの例を考えてきたね。<br />
アリストテレスに関して不明な点はないかな？あるいは彼の理論全般について反論がある人！君！</p>
<p>学生Ｄ：僕はアリストテレスが個人と役割を一致している点に反対します。例えば、海賊のように歩き、海賊のように話していたら、海賊になるべきだ。アリストテレスはそう主張しています。でも、彼の考えは不自然だし矛盾を感じます。海賊のように歩いたり、話したりする人がいたら、その人は投資銀行家になるべきではない。本質的に向いていない、ということになってしまいます。義足をつけ、眼帯をして、不機嫌そうな態度なら、海賊船に乗り込み、生みに乗り出すことになってしまいます。だから、、、</p>
<p>あぁ、もしかしたら、海賊と投資銀行家では、それほど違いがないのかもしれないよ（会場笑い、拍手）<br />
だが、言いたいことはわかった。君！どうぞ！</p>
<p>学生Ｅ：個人の権利が無視されているように感じます。例えば、私が世の中で１番ある仕事に向いていて、誰よりも効率良く仕事ができるかもしれない。その場合、例え私がその仕事につくのが嫌でも、他の仕事につくことを否定されているように思います。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｆ：メアリーケイトです。</p>
<p>もう少し意見を聞いてみよう。君！</p>
<p>学生Ｇ：さきほどのゴルフカートに関する議論がアリストテレスの目的論的論法に対する反論を投げかけていたと思います。君はマイケルだったよねぇ。マイケルは歩くことがゴルフの本質だと言いました。でも、僕自信は歩くことはゴルフの固有のものではないと思う。この論争にどれだけ長い時間を費やそうとも、僕らの意見は一致することはないでしょう。目的論的論法という枠組みの中では、僕たちが意見に至ることはできないような気がします。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｈ：パトリックです。<br />
では、アリストテレスに対する一連の反論について考えてみよう。まずパトリックの反論からだ。</p>
<p>これは重要な反論だ。我々は歩くことがゴルフの本質かどうか議論したが、そのような一見ささいな話においても、同意に達することができなかった。もっと重要な問題、例えば、政治的コミュニティの根本的な目的を論じるとしたら、意見が一致するはずがない。</p>
<p>市民の共同生活における、目的や善について、同意を得ることができないのであれば、我々は目的や善という概念に基づいて、正義や権利を考えることもできないだろう。これは重要な反論だ。</p>
<p>だから、現代の政治理論の多くが、善についての意見の不一致を出発点としている。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
そして、結論としては、正義や権利や憲法は特定の善の考え方や政治的生活の目的などを前提にすべきではない。そうではなく、権利の枠組みを提供し、人々に自分たちの善や、人生の目的を自由に選ばせるという発想にしているのだ。一方、メアリーケイトが言ったのは、ある仕事にふさわしい人が、もっと高いところを目指したい。別の生き方を選びたいと思ったらどうなるだろうか、という問題だった。</p>
<p>ここで再び自由の問題が出て来る。</p>
<p>もし、私たちが自分たちの本質のふさわしい役割に基づいて、生き方を決められてしまうなら、少なくとも私たちがその役割を選ぶ自由があるべきではないか。どの役割がふさわしいか、自分たちで決めるべきではないか。</p>
<p>アリストテレスとカントやロールズの論争を思い出してみて欲しい。</p>
<p>カントとロールズはパトリックと同じ考えだった。多元的な社会においては、善き生の本質において同意するこができない。だから、この問いに対する答えに基づいて、正義を考えるべきではない。カントとロールズは正義と特定の善の考え方を結びつけるような目的論を退けた。</p>
<p>ロールズ的、カント的なリベラル派によれば、目的論の論争で重要なのは次の点だ。<br />
正義をある特定の善の概念と結びつけ、正義が人と役割を適合させることだと考えれば、自由の余地は残されない。そして、自由であるためには、自分の両親や社会から与えられるような特定の役割、伝統、あるいは慣習などにとらわれるべきではない、とういことになる。</p>
<p>アリストテレスかもしくはカントとロールズか、<br />
２つの大きな伝統をどちらが正しいのか判断するために吟味すべき問題がある。</p>
<p>１つは権利は善に優先するのかどうか。<br />
そしてもう１つは自由な人間、自由な道徳的主体とはどのようなものなのか。</p>
<p>自由とは、自分の役割や目標、目的を選択できることなのだろうか、それとも、自分の本質を見つけようとすることなのだろうか。</p>
<p>次回これらの問題をとりあげよう。</p>
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		<title>JUSTICE 第８回「架空の平等の状態から公平さを生み出す」「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:42:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
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		<description><![CDATA[Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」
ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が１人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は７５％ほど手をあげた。１人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture15
WHATS A FAIR START?
Lecture16
WHAT DO WE DESERVE?　



時間：55:07











Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」
今日は分配の正義の問題に取り組みたい。私たちはどんな原理に従って富や権力、機会を分配するべきか。ジョン・ロールズは、この問いに詳しく答えている。今日はその答えを検討しよう。
前回私たちは、その取っ掛かりとしてロールズのある考え方を学んだ。
正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれる、というものだ。肝心なのはその仮説的契約はロールズが無知のベールと呼ぶものの背後にある、平等な原初状態の下で実現される、ということだ。ここまではいいかな？では次に進もう。

ロールズのいう無知のベールの背後で、人々選ぶ原理とは何だろうか。まず彼はいくつか他の可能性を検討した。功利主義はどうだろうか。功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だが、原初状態にある人々は功利主義による統治を選ぶだろうか。いや、選ばないだろう、とロールズは言う。
なぜなら無知のベールの背後では一度ベールがあがり実際の生活がはじまれば、私たち一人一人が尊厳を持ち尊重されたいと願うことことを、誰もが知っているからだ。たとえ少数派の一員になっても抑圧されたくはない。だから私たちは功利主義を拒否し、その代わりに第１の原理である「平等な基本的自由」を採用することに同意するのだ。
言論の自由、結社の自由、宗教の自由、良心の自由といった基本的権利だ。
私たちは多数派が圧政を振るう中で、抑圧され、さげすまされる少数派の一員にはなりたくない。誰もそんなリスクを取りたがる人はいない。だからロールズは功利主義は拒否される、と考えた。彼はこう書いている。
「功利主義は人格の違いを忘れる。あるいは重要視しないという、間違いを犯している」
原初状態では、私たちはそのことを認識し功利主義を拒否するのだ。
私たちは自らの基本的権利と自由をいかなる経済的利益とも交換しない。これが第１の原理だ。
第２の原理は社会的、経済的不平等に関係する。私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか、不健康になるのかわからない、ということを思い出してほしい。金持ちの家に生まれるのか、貧しい家に生まれるのか、それは誰にもわからない。だから最初はこう考えるかもしれない。そうだな、念のため所得と富を平等に分配することを要求しよう。その方が確実だ。しかしもし不幸なことに、私たちが最下層に陥る結果となったとしても、もっとよくなるやり方があることに気がつくだろう。もっとよいやり方とは、ロールズが格差原理と呼ぶ条件付きの原理に同意することだ。
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格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。
つまり私たちはすべての所得や富の不平等を拒否するわけではなく、ある部分を認めるというわけだ。
ロールズの原理によれば、その基準となるのは特に最下層にいる人たちの便益になるかどうか、ということだ。
無知のベールの背後では、最も恵まれない人たちの便益になるような不平等だけが正義に適う、とロールズは論じた。
以前、マイケル・ジョーダンは１年に３１００万ドルを稼ぎ、ビル・ゲイツには何百億ドルもの資産があるという話をした。格差原理の下ではこの不平等は許されるだろうか、その格差によって最も恵まれない人びとが便益を得るようなシステムである場合にのみ許される、それはどんなシステムか。ある仕事に適した人を呼び込むためには、現実的には何らのインセンティブをつけなければならない。
そして、最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だからロールズは、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、と言っているのだ。無知のベールの背後でこれら2つの原理が選ばれる、というロールズの主張を君たちはどう考えるだろうか。この意見に反対の人、考えを聴かせてほしい。そこのバルコニーの君、どうぞ。
学生Ａ：先生の議論は、政策や正義を下からから、つまり最下層の目線から議論していることを前提としていますが、なぜ上からではないのでしょうか。
君の名前は？
学生Ａ：マイクです。
マイク、いい質問だ。では自分を無知のベールの背後に置いて、思考実験をしてみよう。君はどんな原理を選ぶだろうか、考えてみてほしい。
学生Ａ（マイク）：ハーバードも上層思考を進める1つの例だと思います。僕は生まれた時は自分がどの程度頭がよくなるのかわからなかったけど、この場所にたどり着けるよう頑張って来ました。ハーバードが何の資格もない１６００人を無作為に受け入れるとしたら、勉強は無意味になってしまいます。
それで、君はどんな原理を選ぶ？
学生Ａ（マイク）：僕だったら能力ベースの原理を選びます。自分の努力に応じて報いられるシステムがいいと思います。
では君は、無知のベールの背後で人々が努力に応じて報いられる能力ベースのシステムを選ぶんだね。結構だ。君、どうぞ。
学生Ｂ：１つ疑問があります。その能力ベースというのは皆が平等なレベルからスタートできることを前提としていて、そこからどこに辿り着くかによって報いられるということでしょうか。教育が始まったとき、その人がどれほど有利な状態にあったかは無視するということでしょうか。
学生Ａ（マイク）：誰もが平等なレベルからスタートできるわけではない、と言いたいのでしょうが、僕はそうは思いません。能力に報いるシステムは誰にとっても最善のものだと思います。上位２％に属する人も、下位２％に属する人もいますが、結局のところ、それは生まれながらの違いではありません。努力に報いることが最下層のレベルを押し上げるのです。
学生Ｂ：でもここにたどり着くまでの過程で、明らかに有利な条件下にいた人もいるはずです。そういった人の努力になぜ報いなければならないのでしょうか。私と同じだけ努力した人が皆、この大学に来ることができる同じだけのチャンスがあったとは思えません。
なるほど、君の名前は？
学生Ｂ：ケイトです。
ケイト、つまり君は、こう考えているんだね？トップ・スクールに入る能力は、裕福な家庭の出身であることや家庭環境に恵まれていること、あるいは社会的、文化的、経済的に有利であることに大きく左右されると。
学生Ｂ（ケイト）：特に経済的な意味で言いましたが、その通りです。
以前、こんな調査を行った人がいた。アメリカの優秀な大学、１４６校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたんだ。その中で家族の所得が下から２５％に属する学生はどのくらいいたと思う？わかるかな？
最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生はたった３％しかいなかった。７０％以上が裕福な家庭出身だったのだ。
ではもう一歩進めてマイクの意見について考えてみよう。
ロールズは彼の正義の原理、特に格差原理を支持するために1つではなく、2つの議論をあげている。
１つ目は無知のベールの背後で何が選ばれるのか、という議論だ。この議論に対し、人々は賭けにでるのではないか。無知のベールが上がった時、トップにいるかもしれないと期待してギャンブルをするのではないか、と異議を唱える者もいる。これがロールズに突き付けられてきた1つの挑戦だ。しかしロールズはこの原初状態の議論を支える２つ目の議論を持っている。それは端的に道徳的な議論でこのようなものだ。
所得や富、あるいは機会の分配は、自分の功績だと主張できないものに基づくべきではない。
それは、道徳的観点から、恣意的な要素に基づくべきではないのだ。
ロールズは正議論に挑んでくるいくつかの説を検討することにより、これを実証した。
彼はまず、今日ではほとんどの人が拒否するであろう封建的貴族社会について述べた。封建的貴族社会において、一人一人が与えられる将来性は、何が間違っているだろうか。
ロールズは言った。明らかに間違っているのは、人間の将来が生まれによって決まる点だ。高貴な家に生まれるか、農家に生まれるか、奴隷に生まれるか、それで決まってしまう。上昇することはない。どこに行きつくか、どんな機会があるかは君の行いとは関係ない。それは道徳的に見て恣意的なものだ。だから封建的貴族社会に対して、人々は歴史の中でこう反論してきた。
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キャリアは才能に対して開かれたものであるべきだ。生まれに関わらず、形式的な機会の平等が与えられるべきだ。すべての人に社会のあらゆる職に就く努力をする自由があるべきだ。つまり、もし君が求人を行い、応募した人がその仕事に精一杯取り組むのであれば、その結果は正義にかなっている、ということだ。
これは、多かれ少なかれ、リバタニアリズム的なシステムである。
これについて、ロールズはどう考えるか。彼はこれは進歩だと言う。生まれによって将来が決まらない点は進歩だ。しかし彼は形式的には機会が均等に与えられるとしても、リバタリアン的な考え方だけでは十分ではない、と言う。誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとは言えないからだ。このシステムが明らかに正義に反しているのは、道徳的観点から見て恣意的な要素の影響を受けるからだと、彼は言う。それは良い教育を受けたかどうか、君を応援して、勤労倫理を養い、機会を与えてくれる家庭で育ったかどうか、と言ったことだ。これは公正な機会均等のシステムへの移行を示している。そしてこれが、まさにマイクが主張したシステムで、私たちが能力ベースのシステム、能力主義システムと呼ぶものだ。
公正な能力主義の社会では、競争が始まる前に皆が同じようなスタート地点に着くようなシステムを作り上げる。それは平等な教育の機会であり、例えば、就学前教育プログラムでは、家庭環境に関わらず全ての子供に、真に公正な機会が与えられるように、貧しい地域の学校を支援する。誰もが同じスタート地点からスタートするのだ。
では、ロールズは能力主義システムをどう考えるか。このシステムでさえも、自然の巡り合わせという、道徳的な恣意性を修正するには、十分ではないと、そう彼は言う。皆同じスタート地点に連れて来て、競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合、誰が勝つだろう。一番足の速い人だ。しかし、早く走る才能にたまたま恵まれたのは、彼らの功績なのだろうか。ロールズはこう言っている。
皆を同じスタート地点に立たせた場合、能力主義の原理は社会の偶然性の影響を排除することはできるかもしれないが、それは依然として、富と所得の分配が自然が分配した能力と才能によって決定されることを許容している。
だから、所得と富の分配における道徳的な恣意性を排除する原理は、マイクのお気に入りの能力主義システムを超える必要があると彼は考えた。さぁ、どうやってそれを超えるか。
皆を同じスタート地点に立たせても、足の早い人とそうでない人のいる事実がまだ気になるのなら、どうすればいいか。より平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれは避けたい。競争の本質を台無しにしてしまう。皆の水準を一定にする必要はないと言う。才能ある者がその才能を使うことは認める。あるいは奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利を手にする際の条件を変えればいいのだと言うのだ。そして、それがまさに格差原理である。
人々が遺伝子の巡り合わせという幸運よって便益を教授することはそれが最も恵まれない人の便益になるという条件の下のみ許される。だから、例えば、マイケルジョーダンは稼ぎの大部分を他の人たちを助けるために税金として支払うというシステムにおいてのみ、３１００万ドルを稼ぐことが許される。
ビルゲイツも同じだ。何十億ドルも稼ぐことはできるが、自分が道徳的にそれだけの価値が値すると考えてはいけないのだ。
恵まれた者は恵まれない者の状況を改善するという条件でのみ、その幸運から便益を得ることが許される。これが格差原理で、道徳的な恣意性に基づく理論だ。
ロールズはもし君が道徳的観点から見て、恣意的な要素に基づく分配に問題があると感じるなら、貴族社会を拒否して自由市場を支持することも、能力主義システムに満足することもないだろうと、主張した。
運良く才能に恵まれた人が、その才能を発揮することで最下層の人を含む全てが恩恵を受けるシステムをつくりあげる。この議論に説得力があるだろうか。ロールズのこの理論には説得力がないと思う人、意見を聞かせて欲しい。どうぞ！
学生Ｂ（ケイト）：平等主義者の主張は、才能のある人が稼いだものの一部が分配されてしまうことを知っているのに、それでも一生懸命働くだろうと考えるもので、ずいぶん楽観的だと思います。能力がある人が才能を最大限に発揮することができるシステムは能力主義システムだけだと思います。
なるほど、君の名前は
学生Ｂ：ケイトです。
ケイト、それからマイクにも聞きたい。能力主義システムの下では公正に機会が与えられるとしても、一部の人はたまたま優れた才能に恵まれたというだけで、分不相応の報酬を受け取っている。そのことをどう思う？
学生Ｂ（ケイト）：才能といのは明らかに恣意的な要素だと思いますが、それを正そうとするのは弊害があると思います。そうすることで、、、。
インセンティブが減るから？
学生Ｂ（ケイト）：はい、そうです。
マイク、どう思う？
学生Ａ（マイク）：この教室に座っている僕たちは皆、君たちは何もつくりだしていない癖に受けるに値しない名誉を受けていると言われているようなものです。足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべきです。一番才能に恵まれた人が早く走ることで、僕らももっとも早く走れるかもしれないし、僕の後ろの人やさらにその後ろの人ももっと早く走れるかもしれません。
わかった。マイク、君はさっき努力について話したが、成功するために一生懸命働いた人には、その努力に見合った報酬を得る価値がある、と考えているんだね。それが君の弁護の背景にある考え方だ。
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学生Ａ（マイク）：もちろんです。マイケルジョーダンをここに連れてきて、なぜ３１００万ドル稼ぐのか聞いてみれば、トップに立つまでに彼がどれだけ努力したかわかると思います。違った角度から見れば、僕たちも基本的にを少数派を抑圧する多数派です。
ありがとう、努力か、、、（会場一部拍手）賛同者がいるようだねぇ。
学生Ａ（マイク）：そんなに多くはないですけど（笑）
努力、ロールズはそれに対し、こう答えた。
ある人が強い勤労倫理を持って、根気強く頑張り努力したとしても、その努力ですら、幸運な家庭の状況の下で生じるものであるから、私たちは自分の功績だとは主張できない。さぁここでテストをしてみよう。
経済的な差による違いはとても大きいが、とりあえずそれは脇において置こう。
心理学者は生まれた順番によって勤労倫理やがんばり、努力の大きさが変わると言う。
では君たちの中で、自分は１人目の子供だと言う人は手をあげて。（会場大多数、笑い）
私もだ。（会場笑い）マイク、君も手をあげていたね。（会場笑い）
能力主義の概念では努力は報いられるべきだと言う、しかし、努力やがんばり、勤労倫理などが生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績ではない、というロールズの言い分は正しいように思える。
マイク、君は自分の力で最初に生まれたのかい？もちろんそうではないだろう。そこで、ロールズは問う。
道徳的な観点から見た時、人生における所得と富と機会が恣意的な要素に基づいていいのだろうか。
これはロールズが市場社会に突きつけた挑戦だが、同時にこのような場所にいる、私たちへの挑戦でもある。この続きは次回考えよう。




Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」
前回の講義の終わりに自分が１人目の子だと言う人は７５％ほどいた。１人目に生まれたという偶然性だ。これが努力に対する１つ目の反論。反論はもう１つある。２人の建設労働者がいたとして、１人は力が強く、汗もかかずに１時間で壁を立てることができる。もう１人は小柄でひどく痩せていて、３日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義者は、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。能力主義者は本当は努力ではなく、貢献を大事にしているのだ。しかし貢献は生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そしてそのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。偶然性だ。ここで偶然のゲームと技能のゲームを考える。宝くじは運という偶然性のゲームであり、もしあなたが当たり、賞金をもらう資格を得たとしても、あなたがその賞金に道徳的にふさわしいとはならない。野球という技能のゲームにおいて、優勝者はトロフィーをもらう資格があるが、道徳的にみてトロフィーをもらう資格があるかと問えば、それはゲームの内容による。ロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。あなたの才能は市場経済でどんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。例えば高収入を稼ぐ毒舌のコメディアンは、幸運にも毒のある冗談を高く評価する社会に偶然生きている。もしコメディアンが狩猟社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性。偶然は自分の功績だとは主張できるものではない。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では狩猟社会では、彼らの価値は下がるのか。ロールズの答えは下がらないとする。ここが重要だ。逆に現社会で求められる才能をたまたま持っていない人にも同じことが言える。偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。では機会と名誉はどうだろうか。エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。次回はアファーマティブ・アクションについて考えよう。



Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」
前回の講義の終わりに君たちの生まれた順番について、調査を行った。その結果、この教室の何パーセントの人たちが、自分は第１子だと言って手をあげただろう。７５〜８０％だ。
分配の正義について考えるとき、なぜこれが重要なのだろうか。前回議論した、分配の正義に関する3つの異なる理論を思い出してほしい。収入や富や機会など、人生に幸福をもたらすものは、どのように分配されるべきか、という質問には3つの答えがあった。
先ず私たちは、正義にかなった分配のシステムは、自由取引、自由市場経済のシステムであるという、リバタリアンの答えをみた。このシステムは、形式的な機会の均等を背景に、仕事や、キャリヤが誰にでも開かれていることを意味する。誰もがすべての仕事を巡って競うことができ、才能に対し、キャリアが開かれているため、ロールズは「これは貴族社会やカースト制からみれば、進歩だ」と言った。
分配の正義は、自由取引、自発的な取引からも生じるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。しかしロールズは、「それは形式的な平等でしかなく、仕事が誰に対して開かれていたとしても、公正な結果にはならないだろう」と論じた。
それでは、偶然、裕福な家庭に生まれ、偶然、善い教育を受けることに恵まれた者に有利な、偏ったものになってしまうからだ。生まれによる偶然の差があるなら、機会が正義にかなって分配されているとはいえない。
そして、このことから、ロールズは、この不公平さに気付いた多くの人びとは、公正な機会均等のシステムを受け入れるようになるだろう、と論じた。
それが、能力主義システムへと通じる。公正な機会の均等だ。
しかし、ロールズは、競争で全員を同じスタートラインに立たせた場合、誰が勝つだろうか、という。一番足の速いランナーだ。私たちは、分配が道徳的に恣意的な要素に基づくことに違和感を持ったなら、そこで論理的に考えてみるべきだ。そうすれば、ロールズが民主的な概念、より平等主義的な概念と呼ぶ、分配の正義の概念にたどり着くはずだ。彼はそれを、格差原理で定義している。
彼は、生まれつきの才能や、能力を修正する唯一の方法は、皆のレベルを均等にすることや、結果の平等性を保障することだ、とは言っていない。しかし、偶然性に対応する、別の方法があると、述べている。
人は自らの幸運によって、便益を得ることができる。それはもっとも恵まれない人が有利になるという条件においてのみである。私たちの社会におけるいくつかの賃金格差を考えることで、この理論が実際にどう働くか、確かめることができる。
アメリカの学校教師の平均的な年収は、どのくらいだと思う？大体でいい。
学生Ａ：３万５０００ドル。
おしい。４万〜４万２０００だ。では、デイヴィット・レターマンはどのくらい稼いでいると思う？教師よりも多いだろうか？デイヴィット・レターマンの年収は３１００万ドルだ。彼は、教師より遥かにたくさん稼いでいるが、これは公平だろうか。ロールズはこう答えるだろう。
それが公平かどうかは、レターマンの３１００万ドルが課税され、その収入のいくらかが、もっとも恵まれない人の便益のために使われるような、社会の仕組みがあるかどうかによる。
賃金格差のもう１つの例だ。
アメリカの最高裁判事は、どのくらい稼いでいるだろう。２０万ドル以下だ。このサンドラ・デイ・オコーナーもその一人だ。彼女より遥かに稼いでいるもう一人の判事がいる。誰だと思う？
学生Ｂ：ジュディ判事！
その通り、よくわかったね。番組を見ている？
学生Ｂ：いえ
そうか、でもあたりだ。
ジュディ判事はいくら稼いでいるだろう。これだ。彼女の年収は２５００万ドルだ！さあ、これは正義に適っているだろうか。公正だろうか。それは、こうした格差の背景に、格差原理といえる原理があるかどうかによる。つまり、所得と富において成功した人が、社会で最も恵まれない人々の便益になるように課税されるシステムがあるかどうかによる、ということだ。
ではここで一度、ロールズの理論に立ち戻って、より平等主義的な理論である、格差原理に対する反論について検討したいと思う。
1つ目は、前回の討論で君たちの多くが懸念したことだ。インセンティブはどうなるのか。累進課税が７０％、８０％、９０％に達したら、マイケル・ジョーダンがバスケット・ボールをしなくなったり、デイヴィット・レターマンが、深夜にコメディをやらなくなったり、ＣＥＯが別の職種についたりするリスクが、生じるのではないか。
さあ、ロールズを擁護する人の中で、インセンティブは必要だ、というこの反論に、答えられる人はいるかな？はい、君どうぞ。
学生Ｃ：ロールズは、最も恵まれない人を助ける場合にのみ、格差は存在すべきだと言っています。平等過ぎたら、恵まれない人は深夜番組を見ることも職に就くこともできなくなるかもしれません。コメディアンやＣＥＯが働く気をなくす恐れがあるからです。ですから、恵まれない人々が、才能から利益を受ける十分なインセンティブが残るように、正しい税金のバランスを探すことが必要になります。
君の名前は？
学生Ｃ：ティムです。
ティム、要するにロールズはインセンティブを考慮に入れている。そして、インセンティブを考慮した上で、賃金格差と、いくらかの税率の修正を認めることができると、言っている。と言うことだね？
ティムは、インセンティブの問題は、経済全体の効果という観点からではなく、最下層の人々の幸福に係わるインセンティブ、つまり、不利な条件にある人々の福祉への効果、という観点から、検討されるべきだと指摘している、そうだね？
学生Ｃ（ティム）：はい。
ありがとう。これが、ロールズの言うことだと思う。実際に彼が格差原理を説明している１７章を見てみると、インセンティブを認めていることがわかる。
生まれながらに有利なものは、より才能があると言うだけの理由で便益を得るべきではなく、訓練と教育の費用をまかない、恵まれない者たちの助けになるように、その資質を使うべきである。
インセンティブを持つことはできるのだ。そしてデイヴィド・レターマンやマイケル・ジョーダン、ビル・ゲイツから取り過ぎて、最下層の人々に害を与える結果になった場合には、税率を調節することもできる、そういうことだ。
インセンティブは、ロールズの格差原理に対する決定的な反論ではなかった。しかし、もっと重要で、難しい反論が２つある。
そのうちの1つは、能力主義の概念を擁護する者による反論だ。努力はどうなるのか、という意見だ。一生懸命働いた人はどうなるのか。彼らはそのために努力したのだから、稼いだものに対する権利があるはずだ。これが、努力と道徳的な対価からの反論だ。そして、もう1つの反論は、リバタリアンによるものだ。私たちの生まれながらの才能や資質を、共有資産のように扱うことによって、格差原理は、私たちが自分自身を所有しているという考え方を侵害するのではないか。
さて、まずはリバタリアンによるこの反論に取り組もう。リバタリアンはの１人、経済学者のミルトン・フリードマンは、著書『選択の自由』の中で、こう書いている。
人生は公正ではない。人は政府が自然の引き起こすことを修正できると信じる誘惑に駆られる。そして彼は、こう考える。それを修正しようとするには、結果を均等にしなければならない。つまり、皆が、競争で、同時にゴールするようにしなければならず、それは最悪のことだ。これは簡単に答えられる議論だ。ロールズはこれについて、著書『正議論』の、私が非常に強力だと思う説の中で触れている。それは１７章にある。
自然の分配、つまり、才能や資質と言った自然の分配は、正義でも不正義でもない。人が社会のある特定の地位に生まれるのも不正義ではない。これらは単なる自然の事実である。正義や不正義は制度がこういった事実を扱う方法にある。
これは、人生は不公正だが乗り越えろ。そして少なくとも、そこからでる便益を最大化できるか見てみようという、ミルトン・フリードマンのような自由放任主義の経済学者に対する、彼の答えだ。
しかし、ロールズに対するリバタリアンの反論には、フリードマンの反論よりさらに強力なものがある。それは、ノージックが発展させた、自己所有の議論を用いた反論だ。そしてその観点からいえば、誰でもいい学校に行くことができるように、そして、競争を同じスタートラインからできるように、就学前教育プログラムや、公立学校をつくることはいいことかもしれない。しかし、公立学校を作るために、人々に課税すれば、彼らの意思に反して課税すれば、それは強制になる。盗みの一種だ。公立学校を支援するために、レターマンの３１００万ドルのいくらかを彼の意思に反して税金として盗れば、国家がまさに彼から盗んだことになる。それは強制だ。なぜなら私たちは、自分自身を才能と資質を所有するものと考えなければいけないからだ。さもなければ、私たちは、ただ人びとを使い、強制することに戻ってしまう。これがリバタリアンの意見だ。
この反論に、ロールズはどう答えているか。
彼は、自己所有の考えに直接には言及していない。しかし、格差原理についての彼の議論の、道徳的な側面からは、私たちは自分自身を完全な意味では所有していないのではないか、と受け取れる。
彼は、これは国家が私の人生を徴用することができるから、国家が私の所有者である、ということではない、と言っている。なぜなら無知のベールの背後で、私たちが合意するであろう、第１の原理は、平等な基本的自由の原理、つまり、言論や宗教の自由、良心の自由だからだ。
だから、自己所有の考え方は、唯一次のような点において譲歩しなければならない。
私たちは、自分の才能を市場経済の中で行使することで得られる便益に対して、特権を主張できるかもしれないが、それは自分自身を所有しているということを意味しているわけではない。ロールズはよく考えて見れば、私たちは自分自身を所有していない、という。私たちは、自己所有の考えを受け入れることなく、権利を擁護することも、個人を尊重することも、人間の尊厳を守ることもできる。これが要するに、彼のリバタリアンへの回答なのだ。
ここで、能力主義の概念の擁護者へのロールズの回答に目を向けたい。
彼らは、道徳的な対価の根拠として、努力を引き合いに出した。自分の才能を発展させるために一生懸命働く人は、その才能を行使することで得られる便益に値する。この問題に対する、ロールズの1つめの答えは、すでに見てきた。それは、生まれた順番の調査からも明らかだった。
彼の1つめの答えは、勤労倫理や誠実に頑張る意欲でさえ、私たちは自分の功績だとは主張できない。家庭の環境や、社会的、文化的偶然性などによって決まる、というものだ。
私たちは自分のおかげで第１子に生まれたのではない。第１子に生まれ、心理学的、社会的な理由から頑張り、努力することができたのは、自分の功績だとは主張できない。これが１つめの答えだ。
２つめの答えもある。努力を引き合いに出す人は、本当は道徳的な対価は、努力に付随していると信じていないのだ。
２人の建設労働者がいる。１人は力が強く、汗もかかずに１時間で壁を立てることができる。もう１人は小柄でひどく痩せていて、３日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義の擁護者には、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。これが能力主義の主張に対する、2つ目の回答だ。
能力主義の擁護者が、分配の道徳的な根拠だと信じているのは、本当は努力ではなく、貢献だ。どれだけ貢献したかが、重要なのだ。しかし、貢献は、私たちを単なる努力ではなく、生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そして私たちが、そのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。
では、努力がすべてではない。能力主義の観点から重要なのは、貢献だ。努力ですら、私たち自身の行いではない、という理論を君たちが受け入れたとしよう。それはつまり、ロールズによれば、道徳的な対価と分配の正義の間には何の関係もない、ということだろうか。
その通りだ。
分配の正義は、道徳的な対価とはまったく関係ない。
さあここで、ロールズは重要かつ巧妙な区別を導入している。
それは、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の違いだ。
道徳的な対価と資格の違いは何だろうか。2つのゲームを考えてみよう。偶然のゲームと技能のゲームだ。
先ずは偶然のゲームから。
マサチューセッツ州の宝くじを買って、私の番号が当たったとする。私は自分の賞金に対する資格を持っている。しかし、賞金に対する資格があっても、これは単なる運のゲームなので、私がその賞金に道徳的にふさわしいということには、ならない。これが資格だ。
では、宝くじとは対照的なゲーム、技能のゲームはどうだろう。
たとえば、ボストン・レッド・ソックスが、ワールド・シリーズで優勝したとする。優勝した彼らには、トロフィーをもらう資格がある。しかし、技能のゲームでは常にこう問われる。彼らは勝利にふさわしかったのか。技能のゲームでは、原則として、誰かが規則の下で勝利の資格を与えられることと、その人物が勝利に値するかということを分けて考えることができる。
そしてロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。
ここで彼は説明している。
公正な仕組みは人間の持つ資格にこたえ、社会制度に基づいた人間の正当な期待を満足させる。しかし彼らが持つ資格は、彼らの内在的な価値に釣り合うものではなく、あるいはそれによって決まるものではない。
基本的な構造を規定する正義の原理は、道徳的な対価とは関係ない。そして、分配の量が道徳的な対価と対応する傾向もない。
ロールズは、なぜこれを区別したのか、何が道徳的に問題になるのか。
１つ目は、これまで議論してきた努力の問題すべてだ。しかし２つ目の偶然性もある。それもまた、道徳的な恣意性の源になるもので、才能を持つことが自分の功績であるか否かという問題を超えたものだ。
そしてそれは、自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性と関係がある。
デイヴィッド・レターマンの毒のある冗談を、非常に高く評価するという社会に彼が生きているという事実は、彼の努力の結果ではない。彼は幸運にも偶然そのような社会に生きているのだ。これが２つ目の偶然性だ。自分の功績だと主張できるものではない。
もし私が、自分の才能と努力について、唯一の疑いようのない主張権を持っていたとしても、私がそれらの才能を使うことによって得る便益は、道徳的な観点からは、やはり、恣意的な要因によって決まることになるだろう。
私の才能は、市場経済で、どんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。需要と供給の法則によって決まるのであって、私の行いで決まるのではない。貢献と見なされるものは、社会が偶然重んじるものの資質で決まる。私たちの多くは、幸運にも、この社会が偶然重んじる資質、社会が要求するものを提供できる資質を大いに持っている。
資本家の社会では、企業家精神を持っていることが役立つ。官僚的な社会では、上司とうまくやることが役立つ。大衆民主主義社会では、テレビ映りを善くすることや、手短に表面的な話をすることが役立つ。訴訟社会では、ロースクールに行くことや、そのための試験でうまくやることが役立つ。しかしこれらは、いずれも私たちの努力とは関係ない。私たちがこの技術的に発展した高度な訴訟社会ではなく、狩猟社会か戦闘社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では、別の社会では、私たちの美徳は少なくなるのだろうか。狩猟社会や戦闘社会では、私たちの価値は下がるのだろうか。ロールズの答えはノーだ。
私たちの稼ぎは少なくなるかもしれない。しかし、少ない報酬に対する資格しか持たなくなると言って、私たちの価値が下がるということではない。
ここが重要だ。
私たちの社会において、偶然、それほど有力な地位にない人、私たちの社会が報酬を与える才能を、たまたま持っていない人についても、同じことがいえる。これが、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の区別の重要な点だ。私たちは、才能を行使することで得られる便益に対する資格を持っている。しかし私たちが、偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。
ここまで、収入と富について話してきた。では、機会と名誉はどうだろうか。
エリート大学の学生になるための分配はどうだろうか。確かに、君たちは皆、ほとんどが第１子で、ハーバード大学に入るために一生懸命勉強し、頑張って自分の才能を伸ばしてきた。
しかしロールズはたずねる。君たちが自分の持っている機会に付随する便益を主張することは、道徳的にみてどうなのだろうか。大学の学生になることは、一生懸命努力したから、それに値する者への一種の報酬であり、名誉なのだろうか。それとも、エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。
その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。これは、マイケル・ジョーダンやディヴィッド・レターマン、ジュディ判事の年収について問われる可能性のある質問だが、同様にトップの大学に行く機会について、問われる可能性のある質問である。このことは次回、アファーマティブ・アクション、つまり格差の是正を議論する中で、引き続き考えよう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」</p>
<p>ロールズは正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれるとし、仮説的契約は「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。ロールズは様々なケースを考えた。封建的貴族社会システムが明らかに間違っているのは人間の将来が生まれによって決まる点だ。次に能力主義システムについてだが、機会の平等が与えられ努力による能力で差別するシステムだが、ロールズは誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとはいえないとし、仮に皆を同じスタート地点に立たせ競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合ならば一番足の速い人が勝つことになる。これは公正か。そして早く走る才能にたまたま恵まれたのは彼らの功績なのだろうか。平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれでは競争の本質を台無しにしてしまう。だからロールズは格差原理を持ち出す。皆の水準を一定にする必要はない。才能ある者がその才能を使うことを認め、奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利は最下層にいる人の便益にする。しかし能力主義者は反論する。それでは努力はどうなるんだ、と。ハーバード大学に入るために努力した学生は大いに反論する。ここでサンデル教授は自分が１人目の子供だと言う人に手をあげさせる。会場は７５％ほど手をあげた。１人目の子供に生まれたのは自分の力で生まれたのか。違うだろう。もし努力が生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績とは言えない。この続きは次回考えよう。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
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<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
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<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture15<br />
<strong>WHATS A FAIR START?</strong><br />
Lecture16<br />
<strong>WHAT DO WE DESERVE?</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:07
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
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</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h3><font color="#aa1525">Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」</font></h3>
<p>今日は分配の正義の問題に取り組みたい。私たちはどんな原理に従って富や権力、機会を分配するべきか。ジョン・ロールズは、この問いに詳しく答えている。今日はその答えを検討しよう。</p>
<p>前回私たちは、その取っ掛かりとしてロールズのある考え方を学んだ。<br />
正義の原理は仮説的契約から最もうまく導かれる、というものだ。肝心なのはその仮説的契約はロールズが無知のベールと呼ぶものの背後にある、平等な原初状態の下で実現される、ということだ。ここまではいいかな？では次に進もう。<br />
<span id="more-3094"></span><br />
ロールズのいう無知のベールの背後で、人々選ぶ原理とは何だろうか。まず彼はいくつか他の可能性を検討した。功利主義はどうだろうか。功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だが、原初状態にある人々は功利主義による統治を選ぶだろうか。いや、選ばないだろう、とロールズは言う。<br />
なぜなら無知のベールの背後では一度ベールがあがり実際の生活がはじまれば、私たち一人一人が尊厳を持ち尊重されたいと願うことことを、誰もが知っているからだ。たとえ少数派の一員になっても抑圧されたくはない。だから私たちは功利主義を拒否し、その代わりに第１の原理である「平等な基本的自由」を採用することに同意するのだ。</p>
<p>言論の自由、結社の自由、宗教の自由、良心の自由といった基本的権利だ。</p>
<p>私たちは多数派が圧政を振るう中で、抑圧され、さげすまされる少数派の一員にはなりたくない。誰もそんなリスクを取りたがる人はいない。だからロールズは功利主義は拒否される、と考えた。彼はこう書いている。<br />
「功利主義は人格の違いを忘れる。あるいは重要視しないという、間違いを犯している」<br />
原初状態では、私たちはそのことを認識し功利主義を拒否するのだ。<br />
私たちは自らの基本的権利と自由をいかなる経済的利益とも交換しない。これが第１の原理だ。</p>
<p>第２の原理は社会的、経済的不平等に関係する。私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか、不健康になるのかわからない、ということを思い出してほしい。金持ちの家に生まれるのか、貧しい家に生まれるのか、それは誰にもわからない。だから最初はこう考えるかもしれない。そうだな、念のため所得と富を平等に分配することを要求しよう。その方が確実だ。しかしもし不幸なことに、私たちが最下層に陥る結果となったとしても、もっとよくなるやり方があることに気がつくだろう。もっとよいやり方とは、ロールズが格差原理と呼ぶ条件付きの原理に同意することだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。<br />
つまり私たちはすべての所得や富の不平等を拒否するわけではなく、ある部分を認めるというわけだ。</p>
<p>ロールズの原理によれば、その基準となるのは特に最下層にいる人たちの便益になるかどうか、ということだ。<br />
無知のベールの背後では、最も恵まれない人たちの便益になるような不平等だけが正義に適う、とロールズは論じた。</p>
<p>以前、マイケル・ジョーダンは１年に３１００万ドルを稼ぎ、ビル・ゲイツには何百億ドルもの資産があるという話をした。格差原理の下ではこの不平等は許されるだろうか、その格差によって最も恵まれない人びとが便益を得るようなシステムである場合にのみ許される、それはどんなシステムか。ある仕事に適した人を呼び込むためには、現実的には何らのインセンティブをつけなければならない。</p>
<p>そして、最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だからロールズは、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、と言っているのだ。無知のベールの背後でこれら2つの原理が選ばれる、というロールズの主張を君たちはどう考えるだろうか。この意見に反対の人、考えを聴かせてほしい。そこのバルコニーの君、どうぞ。</p>
<p>学生Ａ：先生の議論は、政策や正義を下からから、つまり最下層の目線から議論していることを前提としていますが、なぜ上からではないのでしょうか。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ａ：マイクです。<br />
マイク、いい質問だ。では自分を無知のベールの背後に置いて、思考実験をしてみよう。君はどんな原理を選ぶだろうか、考えてみてほしい。</p>
<p>学生Ａ（マイク）：ハーバードも上層思考を進める1つの例だと思います。僕は生まれた時は自分がどの程度頭がよくなるのかわからなかったけど、この場所にたどり着けるよう頑張って来ました。ハーバードが何の資格もない１６００人を無作為に受け入れるとしたら、勉強は無意味になってしまいます。</p>
<p>それで、君はどんな原理を選ぶ？</p>
<p>学生Ａ（マイク）：僕だったら能力ベースの原理を選びます。自分の努力に応じて報いられるシステムがいいと思います。<br />
では君は、無知のベールの背後で人々が努力に応じて報いられる能力ベースのシステムを選ぶんだね。結構だ。君、どうぞ。</p>
<p>学生Ｂ：１つ疑問があります。その能力ベースというのは皆が平等なレベルからスタートできることを前提としていて、そこからどこに辿り着くかによって報いられるということでしょうか。教育が始まったとき、その人がどれほど有利な状態にあったかは無視するということでしょうか。</p>
<p>学生Ａ（マイク）：誰もが平等なレベルからスタートできるわけではない、と言いたいのでしょうが、僕はそうは思いません。能力に報いるシステムは誰にとっても最善のものだと思います。上位２％に属する人も、下位２％に属する人もいますが、結局のところ、それは生まれながらの違いではありません。努力に報いることが最下層のレベルを押し上げるのです。</p>
<p>学生Ｂ：でもここにたどり着くまでの過程で、明らかに有利な条件下にいた人もいるはずです。そういった人の努力になぜ報いなければならないのでしょうか。私と同じだけ努力した人が皆、この大学に来ることができる同じだけのチャンスがあったとは思えません。</p>
<p>なるほど、君の名前は？<br />
学生Ｂ：ケイトです。<br />
ケイト、つまり君は、こう考えているんだね？トップ・スクールに入る能力は、裕福な家庭の出身であることや家庭環境に恵まれていること、あるいは社会的、文化的、経済的に有利であることに大きく左右されると。</p>
<p>学生Ｂ（ケイト）：特に経済的な意味で言いましたが、その通りです。<br />
以前、こんな調査を行った人がいた。アメリカの優秀な大学、１４６校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたんだ。その中で家族の所得が下から２５％に属する学生はどのくらいいたと思う？わかるかな？</p>
<p>最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生はたった３％しかいなかった。７０％以上が裕福な家庭出身だったのだ。</p>
<p>ではもう一歩進めてマイクの意見について考えてみよう。<br />
ロールズは彼の正義の原理、特に格差原理を支持するために1つではなく、2つの議論をあげている。<br />
１つ目は無知のベールの背後で何が選ばれるのか、という議論だ。この議論に対し、人々は賭けにでるのではないか。無知のベールが上がった時、トップにいるかもしれないと期待してギャンブルをするのではないか、と異議を唱える者もいる。これがロールズに突き付けられてきた1つの挑戦だ。しかしロールズはこの原初状態の議論を支える２つ目の議論を持っている。それは端的に道徳的な議論でこのようなものだ。</p>
<p>所得や富、あるいは機会の分配は、自分の功績だと主張できないものに基づくべきではない。<br />
それは、道徳的観点から、恣意的な要素に基づくべきではないのだ。</p>
<p>ロールズは正議論に挑んでくるいくつかの説を検討することにより、これを実証した。<br />
彼はまず、今日ではほとんどの人が拒否するであろう封建的貴族社会について述べた。封建的貴族社会において、一人一人が与えられる将来性は、何が間違っているだろうか。</p>
<p>ロールズは言った。明らかに間違っているのは、人間の将来が生まれによって決まる点だ。高貴な家に生まれるか、農家に生まれるか、奴隷に生まれるか、それで決まってしまう。上昇することはない。どこに行きつくか、どんな機会があるかは君の行いとは関係ない。それは道徳的に見て恣意的なものだ。だから封建的貴族社会に対して、人々は歴史の中でこう反論してきた。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
キャリアは才能に対して開かれたものであるべきだ。生まれに関わらず、形式的な機会の平等が与えられるべきだ。すべての人に社会のあらゆる職に就く努力をする自由があるべきだ。つまり、もし君が求人を行い、応募した人がその仕事に精一杯取り組むのであれば、その結果は正義にかなっている、ということだ。</p>
<p>これは、多かれ少なかれ、リバタニアリズム的なシステムである。<br />
これについて、ロールズはどう考えるか。彼はこれは進歩だと言う。生まれによって将来が決まらない点は進歩だ。しかし彼は形式的には機会が均等に与えられるとしても、リバタリアン的な考え方だけでは十分ではない、と言う。誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとは言えないからだ。このシステムが明らかに正義に反しているのは、道徳的観点から見て恣意的な要素の影響を受けるからだと、彼は言う。それは良い教育を受けたかどうか、君を応援して、勤労倫理を養い、機会を与えてくれる家庭で育ったかどうか、と言ったことだ。これは公正な機会均等のシステムへの移行を示している。そしてこれが、まさにマイクが主張したシステムで、私たちが能力ベースのシステム、能力主義システムと呼ぶものだ。</p>
<p>公正な能力主義の社会では、競争が始まる前に皆が同じようなスタート地点に着くようなシステムを作り上げる。それは平等な教育の機会であり、例えば、就学前教育プログラムでは、家庭環境に関わらず全ての子供に、真に公正な機会が与えられるように、貧しい地域の学校を支援する。誰もが同じスタート地点からスタートするのだ。</p>
<p>では、ロールズは能力主義システムをどう考えるか。このシステムでさえも、自然の巡り合わせという、道徳的な恣意性を修正するには、十分ではないと、そう彼は言う。皆同じスタート地点に連れて来て、競争を始めたら誰が勝つだろうか。例えばランナーの場合、誰が勝つだろう。一番足の速い人だ。しかし、早く走る才能にたまたま恵まれたのは、彼らの功績なのだろうか。ロールズはこう言っている。</p>
<p>皆を同じスタート地点に立たせた場合、能力主義の原理は社会の偶然性の影響を排除することはできるかもしれないが、それは依然として、富と所得の分配が自然が分配した能力と才能によって決定されることを許容している。</p>
<p>だから、所得と富の分配における道徳的な恣意性を排除する原理は、マイクのお気に入りの能力主義システムを超える必要があると彼は考えた。さぁ、どうやってそれを超えるか。</p>
<p>皆を同じスタート地点に立たせても、足の早い人とそうでない人のいる事実がまだ気になるのなら、どうすればいいか。より平等主義的な批判者は足の早い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれは避けたい。競争の本質を台無しにしてしまう。皆の水準を一定にする必要はないと言う。才能ある者がその才能を使うことは認める。あるいは奨励さえするが、その才能を発揮した結果、得られる果実の権利を手にする際の条件を変えればいいのだと言うのだ。そして、それがまさに格差原理である。</p>
<p>人々が遺伝子の巡り合わせという幸運よって便益を教授することはそれが最も恵まれない人の便益になるという条件の下のみ許される。だから、例えば、マイケルジョーダンは稼ぎの大部分を他の人たちを助けるために税金として支払うというシステムにおいてのみ、３１００万ドルを稼ぐことが許される。</p>
<p>ビルゲイツも同じだ。何十億ドルも稼ぐことはできるが、自分が道徳的にそれだけの価値が値すると考えてはいけないのだ。<br />
恵まれた者は恵まれない者の状況を改善するという条件でのみ、その幸運から便益を得ることが許される。これが格差原理で、道徳的な恣意性に基づく理論だ。</p>
<p>ロールズはもし君が道徳的観点から見て、恣意的な要素に基づく分配に問題があると感じるなら、貴族社会を拒否して自由市場を支持することも、能力主義システムに満足することもないだろうと、主張した。</p>
<p>運良く才能に恵まれた人が、その才能を発揮することで最下層の人を含む全てが恩恵を受けるシステムをつくりあげる。この議論に説得力があるだろうか。ロールズのこの理論には説得力がないと思う人、意見を聞かせて欲しい。どうぞ！</p>
<p>学生Ｂ（ケイト）：平等主義者の主張は、才能のある人が稼いだものの一部が分配されてしまうことを知っているのに、それでも一生懸命働くだろうと考えるもので、ずいぶん楽観的だと思います。能力がある人が才能を最大限に発揮することができるシステムは能力主義システムだけだと思います。</p>
<p>なるほど、君の名前は<br />
学生Ｂ：ケイトです。</p>
<p>ケイト、それからマイクにも聞きたい。能力主義システムの下では公正に機会が与えられるとしても、一部の人はたまたま優れた才能に恵まれたというだけで、分不相応の報酬を受け取っている。そのことをどう思う？</p>
<p>学生Ｂ（ケイト）：才能といのは明らかに恣意的な要素だと思いますが、それを正そうとするのは弊害があると思います。そうすることで、、、。<br />
インセンティブが減るから？<br />
学生Ｂ（ケイト）：はい、そうです。</p>
<p>マイク、どう思う？<br />
学生Ａ（マイク）：この教室に座っている僕たちは皆、君たちは何もつくりだしていない癖に受けるに値しない名誉を受けていると言われているようなものです。足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべきです。一番才能に恵まれた人が早く走ることで、僕らももっとも早く走れるかもしれないし、僕の後ろの人やさらにその後ろの人ももっと早く走れるかもしれません。</p>
<p>わかった。マイク、君はさっき努力について話したが、成功するために一生懸命働いた人には、その努力に見合った報酬を得る価値がある、と考えているんだね。それが君の弁護の背景にある考え方だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
学生Ａ（マイク）：もちろんです。マイケルジョーダンをここに連れてきて、なぜ３１００万ドル稼ぐのか聞いてみれば、トップに立つまでに彼がどれだけ努力したかわかると思います。違った角度から見れば、僕たちも基本的にを少数派を抑圧する多数派です。</p>
<p>ありがとう、努力か、、、（会場一部拍手）賛同者がいるようだねぇ。<br />
学生Ａ（マイク）：そんなに多くはないですけど（笑）</p>
<p>努力、ロールズはそれに対し、こう答えた。<br />
ある人が強い勤労倫理を持って、根気強く頑張り努力したとしても、その努力ですら、幸運な家庭の状況の下で生じるものであるから、私たちは自分の功績だとは主張できない。さぁここでテストをしてみよう。</p>
<p>経済的な差による違いはとても大きいが、とりあえずそれは脇において置こう。</p>
<p>心理学者は生まれた順番によって勤労倫理やがんばり、努力の大きさが変わると言う。<br />
では君たちの中で、自分は１人目の子供だと言う人は手をあげて。（会場大多数、笑い）<br />
私もだ。（会場笑い）マイク、君も手をあげていたね。（会場笑い）</p>
<p>能力主義の概念では努力は報いられるべきだと言う、しかし、努力やがんばり、勤労倫理などが生まれた順番に左右されるのであれば、それは自分の功績ではない、というロールズの言い分は正しいように思える。</p>
<p>マイク、君は自分の力で最初に生まれたのかい？もちろんそうではないだろう。そこで、ロールズは問う。<br />
道徳的な観点から見た時、人生における所得と富と機会が恣意的な要素に基づいていいのだろうか。</p>
<p>これはロールズが市場社会に突きつけた挑戦だが、同時にこのような場所にいる、私たちへの挑戦でもある。この続きは次回考えよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」</p>
<p>前回の講義の終わりに自分が１人目の子だと言う人は７５％ほどいた。１人目に生まれたという偶然性だ。これが努力に対する１つ目の反論。反論はもう１つある。２人の建設労働者がいたとして、１人は力が強く、汗もかかずに１時間で壁を立てることができる。もう１人は小柄でひどく痩せていて、３日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義者は、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。能力主義者は本当は努力ではなく、貢献を大事にしているのだ。しかし貢献は生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そしてそのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。偶然性だ。ここで偶然のゲームと技能のゲームを考える。宝くじは運という偶然性のゲームであり、もしあなたが当たり、賞金をもらう資格を得たとしても、あなたがその賞金に道徳的にふさわしいとはならない。野球という技能のゲームにおいて、優勝者はトロフィーをもらう資格があるが、道徳的にみてトロフィーをもらう資格があるかと問えば、それはゲームの内容による。ロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。あなたの才能は市場経済でどんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。例えば高収入を稼ぐ毒舌のコメディアンは、幸運にも毒のある冗談を高く評価する社会に偶然生きている。もしコメディアンが狩猟社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性。偶然は自分の功績だとは主張できるものではない。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では狩猟社会では、彼らの価値は下がるのか。ロールズの答えは下がらないとする。ここが重要だ。逆に現社会で求められる才能をたまたま持っていない人にも同じことが言える。偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。では機会と名誉はどうだろうか。エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。次回はアファーマティブ・アクションについて考えよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h3><font color="#aa1525">Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」</font></h3>
<p>前回の講義の終わりに君たちの生まれた順番について、調査を行った。その結果、この教室の何パーセントの人たちが、自分は第１子だと言って手をあげただろう。７５〜８０％だ。</p>
<p>分配の正義について考えるとき、なぜこれが重要なのだろうか。前回議論した、分配の正義に関する3つの異なる理論を思い出してほしい。収入や富や機会など、人生に幸福をもたらすものは、どのように分配されるべきか、という質問には3つの答えがあった。</p>
<p>先ず私たちは、正義にかなった分配のシステムは、自由取引、自由市場経済のシステムであるという、リバタリアンの答えをみた。このシステムは、形式的な機会の均等を背景に、仕事や、キャリヤが誰にでも開かれていることを意味する。誰もがすべての仕事を巡って競うことができ、才能に対し、キャリアが開かれているため、ロールズは「これは貴族社会やカースト制からみれば、進歩だ」と言った。</p>
<p>分配の正義は、自由取引、自発的な取引からも生じるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。しかしロールズは、「それは形式的な平等でしかなく、仕事が誰に対して開かれていたとしても、公正な結果にはならないだろう」と論じた。</p>
<p>それでは、偶然、裕福な家庭に生まれ、偶然、善い教育を受けることに恵まれた者に有利な、偏ったものになってしまうからだ。生まれによる偶然の差があるなら、機会が正義にかなって分配されているとはいえない。</p>
<p>そして、このことから、ロールズは、この不公平さに気付いた多くの人びとは、公正な機会均等のシステムを受け入れるようになるだろう、と論じた。</p>
<p>それが、能力主義システムへと通じる。公正な機会の均等だ。</p>
<p>しかし、ロールズは、競争で全員を同じスタートラインに立たせた場合、誰が勝つだろうか、という。一番足の速いランナーだ。私たちは、分配が道徳的に恣意的な要素に基づくことに違和感を持ったなら、そこで論理的に考えてみるべきだ。そうすれば、ロールズが民主的な概念、より平等主義的な概念と呼ぶ、分配の正義の概念にたどり着くはずだ。彼はそれを、格差原理で定義している。</p>
<p>彼は、生まれつきの才能や、能力を修正する唯一の方法は、皆のレベルを均等にすることや、結果の平等性を保障することだ、とは言っていない。しかし、偶然性に対応する、別の方法があると、述べている。</p>
<p>人は自らの幸運によって、便益を得ることができる。それはもっとも恵まれない人が有利になるという条件においてのみである。私たちの社会におけるいくつかの賃金格差を考えることで、この理論が実際にどう働くか、確かめることができる。</p>
<p>アメリカの学校教師の平均的な年収は、どのくらいだと思う？大体でいい。<br />
学生Ａ：３万５０００ドル。<br />
おしい。４万〜４万２０００だ。では、デイヴィット・レターマンはどのくらい稼いでいると思う？教師よりも多いだろうか？デイヴィット・レターマンの年収は３１００万ドルだ。彼は、教師より遥かにたくさん稼いでいるが、これは公平だろうか。ロールズはこう答えるだろう。</p>
<p>それが公平かどうかは、レターマンの３１００万ドルが課税され、その収入のいくらかが、もっとも恵まれない人の便益のために使われるような、社会の仕組みがあるかどうかによる。</p>
<p>賃金格差のもう１つの例だ。<br />
アメリカの最高裁判事は、どのくらい稼いでいるだろう。２０万ドル以下だ。このサンドラ・デイ・オコーナーもその一人だ。彼女より遥かに稼いでいるもう一人の判事がいる。誰だと思う？</p>
<p>学生Ｂ：ジュディ判事！<br />
その通り、よくわかったね。番組を見ている？<br />
学生Ｂ：いえ<br />
そうか、でもあたりだ。</p>
<p>ジュディ判事はいくら稼いでいるだろう。これだ。彼女の年収は２５００万ドルだ！さあ、これは正義に適っているだろうか。公正だろうか。それは、こうした格差の背景に、格差原理といえる原理があるかどうかによる。つまり、所得と富において成功した人が、社会で最も恵まれない人々の便益になるように課税されるシステムがあるかどうかによる、ということだ。</p>
<p>ではここで一度、ロールズの理論に立ち戻って、より平等主義的な理論である、格差原理に対する反論について検討したいと思う。</p>
<p>1つ目は、前回の討論で君たちの多くが懸念したことだ。インセンティブはどうなるのか。累進課税が７０％、８０％、９０％に達したら、マイケル・ジョーダンがバスケット・ボールをしなくなったり、デイヴィット・レターマンが、深夜にコメディをやらなくなったり、ＣＥＯが別の職種についたりするリスクが、生じるのではないか。</p>
<p>さあ、ロールズを擁護する人の中で、インセンティブは必要だ、というこの反論に、答えられる人はいるかな？はい、君どうぞ。</p>
<p>学生Ｃ：ロールズは、最も恵まれない人を助ける場合にのみ、格差は存在すべきだと言っています。平等過ぎたら、恵まれない人は深夜番組を見ることも職に就くこともできなくなるかもしれません。コメディアンやＣＥＯが働く気をなくす恐れがあるからです。ですから、恵まれない人々が、才能から利益を受ける十分なインセンティブが残るように、正しい税金のバランスを探すことが必要になります。<br />
君の名前は？<br />
学生Ｃ：ティムです。</p>
<p>ティム、要するにロールズはインセンティブを考慮に入れている。そして、インセンティブを考慮した上で、賃金格差と、いくらかの税率の修正を認めることができると、言っている。と言うことだね？</p>
<p>ティムは、インセンティブの問題は、経済全体の効果という観点からではなく、最下層の人々の幸福に係わるインセンティブ、つまり、不利な条件にある人々の福祉への効果、という観点から、検討されるべきだと指摘している、そうだね？<br />
学生Ｃ（ティム）：はい。<br />
ありがとう。これが、ロールズの言うことだと思う。実際に彼が格差原理を説明している１７章を見てみると、インセンティブを認めていることがわかる。</p>
<p>生まれながらに有利なものは、より才能があると言うだけの理由で便益を得るべきではなく、訓練と教育の費用をまかない、恵まれない者たちの助けになるように、その資質を使うべきである。</p>
<p>インセンティブを持つことはできるのだ。そしてデイヴィド・レターマンやマイケル・ジョーダン、ビル・ゲイツから取り過ぎて、最下層の人々に害を与える結果になった場合には、税率を調節することもできる、そういうことだ。</p>
<p>インセンティブは、ロールズの格差原理に対する決定的な反論ではなかった。しかし、もっと重要で、難しい反論が２つある。</p>
<p>そのうちの1つは、能力主義の概念を擁護する者による反論だ。努力はどうなるのか、という意見だ。一生懸命働いた人はどうなるのか。彼らはそのために努力したのだから、稼いだものに対する権利があるはずだ。これが、努力と道徳的な対価からの反論だ。そして、もう1つの反論は、リバタリアンによるものだ。私たちの生まれながらの才能や資質を、共有資産のように扱うことによって、格差原理は、私たちが自分自身を所有しているという考え方を侵害するのではないか。<br />
さて、まずはリバタリアンによるこの反論に取り組もう。リバタリアンはの１人、経済学者のミルトン・フリードマンは、著書『選択の自由』の中で、こう書いている。</p>
<p>人生は公正ではない。人は政府が自然の引き起こすことを修正できると信じる誘惑に駆られる。そして彼は、こう考える。それを修正しようとするには、結果を均等にしなければならない。つまり、皆が、競争で、同時にゴールするようにしなければならず、それは最悪のことだ。これは簡単に答えられる議論だ。ロールズはこれについて、著書『正議論』の、私が非常に強力だと思う説の中で触れている。それは１７章にある。</p>
<p>自然の分配、つまり、才能や資質と言った自然の分配は、正義でも不正義でもない。人が社会のある特定の地位に生まれるのも不正義ではない。これらは単なる自然の事実である。正義や不正義は制度がこういった事実を扱う方法にある。</p>
<p>これは、人生は不公正だが乗り越えろ。そして少なくとも、そこからでる便益を最大化できるか見てみようという、ミルトン・フリードマンのような自由放任主義の経済学者に対する、彼の答えだ。</p>
<p>しかし、ロールズに対するリバタリアンの反論には、フリードマンの反論よりさらに強力なものがある。それは、ノージックが発展させた、自己所有の議論を用いた反論だ。そしてその観点からいえば、誰でもいい学校に行くことができるように、そして、競争を同じスタートラインからできるように、就学前教育プログラムや、公立学校をつくることはいいことかもしれない。しかし、公立学校を作るために、人々に課税すれば、彼らの意思に反して課税すれば、それは強制になる。盗みの一種だ。公立学校を支援するために、レターマンの３１００万ドルのいくらかを彼の意思に反して税金として盗れば、国家がまさに彼から盗んだことになる。それは強制だ。なぜなら私たちは、自分自身を才能と資質を所有するものと考えなければいけないからだ。さもなければ、私たちは、ただ人びとを使い、強制することに戻ってしまう。これがリバタリアンの意見だ。</p>
<p>この反論に、ロールズはどう答えているか。<br />
彼は、自己所有の考えに直接には言及していない。しかし、格差原理についての彼の議論の、道徳的な側面からは、私たちは自分自身を完全な意味では所有していないのではないか、と受け取れる。</p>
<p>彼は、これは国家が私の人生を徴用することができるから、国家が私の所有者である、ということではない、と言っている。なぜなら無知のベールの背後で、私たちが合意するであろう、第１の原理は、平等な基本的自由の原理、つまり、言論や宗教の自由、良心の自由だからだ。</p>
<p>だから、自己所有の考え方は、唯一次のような点において譲歩しなければならない。<br />
私たちは、自分の才能を市場経済の中で行使することで得られる便益に対して、特権を主張できるかもしれないが、それは自分自身を所有しているということを意味しているわけではない。ロールズはよく考えて見れば、私たちは自分自身を所有していない、という。私たちは、自己所有の考えを受け入れることなく、権利を擁護することも、個人を尊重することも、人間の尊厳を守ることもできる。これが要するに、彼のリバタリアンへの回答なのだ。</p>
<p>ここで、能力主義の概念の擁護者へのロールズの回答に目を向けたい。<br />
彼らは、道徳的な対価の根拠として、努力を引き合いに出した。自分の才能を発展させるために一生懸命働く人は、その才能を行使することで得られる便益に値する。この問題に対する、ロールズの1つめの答えは、すでに見てきた。それは、生まれた順番の調査からも明らかだった。</p>
<p>彼の1つめの答えは、勤労倫理や誠実に頑張る意欲でさえ、私たちは自分の功績だとは主張できない。家庭の環境や、社会的、文化的偶然性などによって決まる、というものだ。</p>
<p>私たちは自分のおかげで第１子に生まれたのではない。第１子に生まれ、心理学的、社会的な理由から頑張り、努力することができたのは、自分の功績だとは主張できない。これが１つめの答えだ。</p>
<p>２つめの答えもある。努力を引き合いに出す人は、本当は道徳的な対価は、努力に付随していると信じていないのだ。<br />
２人の建設労働者がいる。１人は力が強く、汗もかかずに１時間で壁を立てることができる。もう１人は小柄でひどく痩せていて、３日かけなければ同じ仕事をすることができない。能力主義の擁護者には、ひ弱で痩せた建設労働者の努力を見て、彼は頑張っているからもっともらうべきだ、という人はいない。それは本当は努力とは違うからだ。これが能力主義の主張に対する、2つ目の回答だ。</p>
<p>能力主義の擁護者が、分配の道徳的な根拠だと信じているのは、本当は努力ではなく、貢献だ。どれだけ貢献したかが、重要なのだ。しかし、貢献は、私たちを単なる努力ではなく、生まれながらの才能と能力の問題に引き戻してしまう。そして私たちが、そのような才能を持つに至ったのは、自分の行いのおかげではない。</p>
<p>では、努力がすべてではない。能力主義の観点から重要なのは、貢献だ。努力ですら、私たち自身の行いではない、という理論を君たちが受け入れたとしよう。それはつまり、ロールズによれば、道徳的な対価と分配の正義の間には何の関係もない、ということだろうか。</p>
<p>その通りだ。</p>
<p>分配の正義は、道徳的な対価とはまったく関係ない。<br />
さあここで、ロールズは重要かつ巧妙な区別を導入している。</p>
<p>それは、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の違いだ。</p>
<p>道徳的な対価と資格の違いは何だろうか。2つのゲームを考えてみよう。偶然のゲームと技能のゲームだ。</p>
<p>先ずは偶然のゲームから。<br />
マサチューセッツ州の宝くじを買って、私の番号が当たったとする。私は自分の賞金に対する資格を持っている。しかし、賞金に対する資格があっても、これは単なる運のゲームなので、私がその賞金に道徳的にふさわしいということには、ならない。これが資格だ。</p>
<p>では、宝くじとは対照的なゲーム、技能のゲームはどうだろう。<br />
たとえば、ボストン・レッド・ソックスが、ワールド・シリーズで優勝したとする。優勝した彼らには、トロフィーをもらう資格がある。しかし、技能のゲームでは常にこう問われる。彼らは勝利にふさわしかったのか。技能のゲームでは、原則として、誰かが規則の下で勝利の資格を与えられることと、その人物が勝利に値するかということを分けて考えることができる。</p>
<p>そしてロールズは、分配の正義は道徳的な対価の問題ではなく、正当な期待に対する資格の問題だ、という。</p>
<p>ここで彼は説明している。</p>
<p>公正な仕組みは人間の持つ資格にこたえ、社会制度に基づいた人間の正当な期待を満足させる。しかし彼らが持つ資格は、彼らの内在的な価値に釣り合うものではなく、あるいはそれによって決まるものではない。<br />
基本的な構造を規定する正義の原理は、道徳的な対価とは関係ない。そして、分配の量が道徳的な対価と対応する傾向もない。</p>
<p>ロールズは、なぜこれを区別したのか、何が道徳的に問題になるのか。<br />
１つ目は、これまで議論してきた努力の問題すべてだ。しかし２つ目の偶然性もある。それもまた、道徳的な恣意性の源になるもので、才能を持つことが自分の功績であるか否かという問題を超えたものだ。</p>
<p>そしてそれは、自分の才能をたまたま重んじる社会に生きている、という偶然性と関係がある。</p>
<p>デイヴィッド・レターマンの毒のある冗談を、非常に高く評価するという社会に彼が生きているという事実は、彼の努力の結果ではない。彼は幸運にも偶然そのような社会に生きているのだ。これが２つ目の偶然性だ。自分の功績だと主張できるものではない。</p>
<p>もし私が、自分の才能と努力について、唯一の疑いようのない主張権を持っていたとしても、私がそれらの才能を使うことによって得る便益は、道徳的な観点からは、やはり、恣意的な要因によって決まることになるだろう。</p>
<p>私の才能は、市場経済で、どんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。需要と供給の法則によって決まるのであって、私の行いで決まるのではない。貢献と見なされるものは、社会が偶然重んじるものの資質で決まる。私たちの多くは、幸運にも、この社会が偶然重んじる資質、社会が要求するものを提供できる資質を大いに持っている。</p>
<p>資本家の社会では、企業家精神を持っていることが役立つ。官僚的な社会では、上司とうまくやることが役立つ。大衆民主主義社会では、テレビ映りを善くすることや、手短に表面的な話をすることが役立つ。訴訟社会では、ロースクールに行くことや、そのための試験でうまくやることが役立つ。しかしこれらは、いずれも私たちの努力とは関係ない。私たちがこの技術的に発展した高度な訴訟社会ではなく、狩猟社会か戦闘社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では、別の社会では、私たちの美徳は少なくなるのだろうか。狩猟社会や戦闘社会では、私たちの価値は下がるのだろうか。ロールズの答えはノーだ。</p>
<p>私たちの稼ぎは少なくなるかもしれない。しかし、少ない報酬に対する資格しか持たなくなると言って、私たちの価値が下がるということではない。</p>
<p>ここが重要だ。</p>
<p>私たちの社会において、偶然、それほど有力な地位にない人、私たちの社会が報酬を与える才能を、たまたま持っていない人についても、同じことがいえる。これが、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の区別の重要な点だ。私たちは、才能を行使することで得られる便益に対する資格を持っている。しかし私たちが、偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい考えるのは間違いであり、うぬぼれである。</p>
<p>ここまで、収入と富について話してきた。では、機会と名誉はどうだろうか。<br />
エリート大学の学生になるための分配はどうだろうか。確かに、君たちは皆、ほとんどが第１子で、ハーバード大学に入るために一生懸命勉強し、頑張って自分の才能を伸ばしてきた。</p>
<p>しかしロールズはたずねる。君たちが自分の持っている機会に付随する便益を主張することは、道徳的にみてどうなのだろうか。大学の学生になることは、一生懸命努力したから、それに値する者への一種の報酬であり、名誉なのだろうか。それとも、エリート大学に入ることや、その機会や名誉を与えられることは、正当な期待に対する資格なのだろうか。</p>
<p>その機会や名誉を、社会の最下層にいる人々の便益になるように利用しなければ正当化できない資格なのだろうか。これが、ロールズの格差原理が投げかける質問だ。これは、マイケル・ジョーダンやディヴィッド・レターマン、ジュディ判事の年収について問われる可能性のある質問だが、同様にトップの大学に行く機会について、問われる可能性のある質問である。このことは次回、アファーマティブ・アクション、つまり格差の是正を議論する中で、引き続き考えよう。</p>
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		<title>JUSTICE 第６回「行動ではなく動機に正義の源があるのか」「哲学者カントの道徳性の最高原理」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:41:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
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		<description><![CDATA[Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」
今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは１つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture11
MIND YOUR MOTIVE
Lecture12
THE SUPREME PRINCIPLE OF MORALITY　



時間：55:14











Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」
さぁ、今日はこの講義の中で、もっとも難解な哲学者である。
イマヌエル・カントにとりかかる。
彼はなぜ私たちは人の尊厳を尊重しなければならないのか、なぜ良い目的であっても人をただの道具として使ってはいけないのか、ということについて独自の説明をしてくれる。
カントは１６歳でケーニヒスベルク大学を卒業した。３１歳で初めて大学講師の職を得た。給与は完全歩合制で授業出席した学生の数に基づいて支払われた。これはハーバードも検討すべき懸命なシステムだ。（会場笑い＆拍手）

カントは人気講師で勤勉だったので、貧しいながらも何とか生計を立てることができた。５７歳でようやく最初の主要作「純粋理性批判」を発表。しかし、それは待つに値するものだった。
おそらく近代哲学における最も重要な著作だろう。それから数年後カントは私たちがこの授業で読む「人倫の形而上（けいじじょう）学の基礎づけ」を書いた。
たしかにカントは難解な思想家だ。しかし、彼の言っていることを理解しようとするのは重要なことだ。
なぜなら彼はこの本で、道徳性の最高原理は何か、ということを説いているからだ。さらに彼は自由とは何か、という問題に対して強力な説明を与えてくれる。
では、はじめよう。
カントは功利主義を認めなかった。彼はこう考えていた。
全ての個人、全ての人間は、私たちが尊敬するに値するある種の尊厳を持っていると。
カントによれば個人が神聖であり、権利の担い手である理由は自分自身を所有しているからでなく、私たちは皆、理性的な存在だからだ。
理性的な存在というのは、単純に理性を行使できる存在である、という意味だ。
私たちはまた、自立した存在でもある。つまり、自由に行動し、選択性能力がある、ということだ。
ところで、この理性と自由の能力以外でも私たちには能力がある。
苦痛と喜び、苦しみと満足の能力だ。
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カントは功利主義者にも正しい部分があると認めている。
もちろん私たちは苦痛を避けようとし、喜びを好む。
カントはこれを否定してはいない。彼が否定しているのはジェレミーベンサムの苦痛と喜びは我々は最高の支配者である、という主張だ。
カントは私たちの理性的な能力が私たちが特別なものにし単なる動物的存在から引き離す、と考えていた。
それは私たちを、欲求を持った肉体的な生き物以上のものにすると。
ところで、私たちはよく、自由とは望むことができることだと考える。
あるいは望むものを手に入れる上で障害がないことだと。
しかし、これはカントの考える自由ではない、カントの自由な概念はもっと厳格で厳しいものだ。
しかし、じっくり考えてみれば、実は非常に説得力のあるものだとわかる。
カントはこう推論した。
私たちが動物のように喜びや満足や欲望を追い求め、苦痛を避けようとした時、本当に自由に行動しているとは言えない。
なぜか、実際には私たちは欲望や衝動の奴隷として行動しているからだ。
私たちは特定の餓えや欲望を選ぶわけではない。
だから、それを満足させるために行動するのは自然の必要に迫られているからに過ぎない。
そしてカントにとって、自由と必要は相反するものだ。
２、３年前、ある炭酸飲料のこんな宣伝文句があった
それは「渇きに従え」というものだ。
この宣伝文句にはカント的な洞察が埋め込められている。
これはある意味、カント主張だ。
君たちは炭酸飲料を求める時、自分は自由に好きなものを選んでいる、と思うかもしれない。
実際はそうではなく、喉の渇きや宣伝によりつくられ、操作された欲望に従っている。
自分自身で選んだわけでも、つくってもない支持に従っているのだ。
そしてここが、カントの考える特別に厳しい自由の概念の注目に値する概念だ。
私たちはどのように行動すれば周りからの刺激や餓え、欲望、願望の支持に従うことなく、自分の意思を決定することができるのだろうか。
カントの答えはこうだ。
自由に行動することは自立的に行動することである。そして、自立的に行動することは自分自身で与えた法則に従って行動することであり、食べたり飲んだりする欲望、レストランで食べ物を選ぶ欲望といった、物理的な法則や原因と結果の法則に従うことではない。
では、その反対は何だろうか。自立の反対は何だろうか。
カントは自律の反対の意味を持つ、特別な用語を考えだした。
それはヘテロノミー、他律だ。
他律的に行動する時、私たちは自分で選んだわけではない、本能や欲望、つまり、傾向性に従っている。
だから、自律性としての自由はカントは強く主張した得に説得力のある考えだ。
では、なぜ、自立の反対が他律的に行動すること、あるいは、自然の命令に従って行動することなのか。
カントは資源は法則によって、例えば、原因と結果の法則に支配されていると言う。
ボールを落とすとしよう。それは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。
なぜなら、それは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に従って動いているからだ。
カントはこのように厳しい説得力のある自由の概念を持っていたが、それだけでなく、同じように厳しい道徳性の概念も持っていた。自由に行動することは与えられた目的のために最善の手段を選ぶことではなく、目的自体のために目的を選ぶことである。そして、それは人間にはできるがボールにはできないことだ。
傾向性に従って行動する時や快楽を追う時、私たちは外から与えれる目的を実現する手段として行動している。
私たちは自分が追い求める目的の作者ではなく、むしろ道具になっている。
それが他律的な意思の決定だ。
一方自立的、つまり自らが与える法に従って行動する時、私たちはそれ自体を目的としてそのために行動する。自立的に行動する時、私たちは外から与えられた道具であることをやめ、自分自身を自分自身の目的として考えられるようになるのだ。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。
人の尊厳を尊重することは人を単なる道具とみなすのではなく、目的そのものとして考えることを意味する。
だからこそ他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いである。
これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。
だからこそ、人の尊厳を尊重し、権利を守ることが重要なのだと。
思い出して欲しい、ジョンスチュワートミルは私たちは正義を守り、人の尊厳を尊重すれば、長期的には人間の幸福を最大化できると言った。これに対してカントはどう答えたか。彼はこう答えた。
例えそれが真実で、その計算がうまくいったとしても、たとえ将来的に恐怖が広がり、効用が低下するから、ライオンと戦わせるべきではないと判断したとしても、功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。まさに無条件ではない理由。つまり、道具的な理由のためだ。将来的に計算がうまく行き、最善な結果がもたらされる結果が出ても、それは人を目的そのものとして尊重しているのではなく、むしろ手段として使っていることになる。
これがカントの考える自立としての自由だ。
このあたりから、彼の自由と道徳性の概念のつながりが見えてくる。
しかし、まだ答えの出ていない問題がある。
何が行動に道徳的価値があるのか、という問題だ。
効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。
これは私たちをカントの厳しい自由の概念から厳しい道徳性の概念へと導く。
カントはこう言っている。
行動を道徳的に価値のあるものにするのは、そこから生じる帰結でも、結果でもない。
行動を道徳的価値のあるものにするのは、動機、意思の質、そして行為がなされる意図である。
重要なのは動機だ。
そして動機はある種のものでなければならない。
つまり、行為の道徳的価値は動機で決まる。そして重要なのはその人が正しい行いを正しい理由ですることだ。
善意はその結果や成果のために良いものになるのではない。それ自体が良いものなのだ。
最善の努力をもってしても、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして宝石のように光り輝く。
どんな行為でも道徳的に良いであるためには道徳法則に従うだけでなく、道徳法則そのもののためになされなければならない。
動機は行為に道徳的価値を与える。そして行為に道徳的価値を与えることができる唯一の動機は義務の動機である。ということだ。
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では、それが正しいからという理由で義務感から何かをする反対とは何だろうか。
カントはその反対は、我々の傾向性に関係する全ての動機だと言う。
そして、傾向性は私たちの全ての欲望、全ての偶然に与えられた願望、好み、衝動などを意味している。
道徳法則のため、そして義務のためになされた行為だけが道徳的な価値を持つ。これについて君たちがどう考えるか聞きたいが、その前にいくつかの例を考えてみよう。
カントはまず、ある店の主の例を出した。
行為に道徳的価値が与えられるのは、それが正しい理由がなされた場合のみだ。
ということを直感的に理解させようとしたのだ。
ある店に買物に不慣れな客が入ってくるとしよう。
そこの店主はその客に渡すおつりをごまかしても彼にはバレないことを知っている。少なくともその客にはわからない。しかし、そこで店主は考える。いや、もしこの客のおつりをごまかしたらうわさがたつ。自分の評判が傷つき、客がこなくなるだろう。だから、おつりをごまかすのはやめよう。亭主は間違ったことはせずに、正しいおつりを渡す。
彼の行動に道徳的な価値はあるか。カントはないという。
亭主は自己の利益という間違った理由で正しいことを行っただけで、そこには道徳的価値はない。
これはとてもわかりやすい事例だ。
カントはもう１つ。自殺の事例を取り上げている。
彼は私たちには自分を守る義務がある。人生を愛するほとんどの人は自分の命を奪わない理由をいくらでもあげられるだろう。
だが、自殺しない真の動機を見極めるためには、誰かひどく不幸で本当に悲惨な生活をおくっている人のことを想像する必要がある。
つまり、ひどく不幸で、惨めな生活をおくっているが、それにも関わらず自分自身を保つ義務をきちんと認識し自殺せずにいる人だ。
この例の意味するところは重要な動機を明るめに出す、ということだ。そして、道徳性のために重要な動機は義務のために正しいことをすることだ。
他に１つ、２つ例をあげてみよう。商事改善協会の例だ。
彼らの標語を知っているかな？正直は最善の策。そして、もっとも有益なもの。
これはニューヨークタイムズ誌に載った商事改善協会の広告だ。
正直さ、それは財産と同様に重要なもの。真実と公開性、公正な値段による取引は必ずうまくいくからだ。我々と一緒に利益を上げよう。
商事改善協会のメンバーの正直な取引の道徳的価値を、カントはどう見るだろうか。
彼らが顧客と正直に取引する理由は、利益を上げるためだ。だから彼らの行動には道徳的価値が欠けている。これがカントの主張だ。
あるいは数年前、メリーランド大学でカンニングの問題が起こり、彼らは自主管理制度をはじめた。地元の商店とともに作ったプログラムで、カンニングをしないという誓約にサインをすると、店で10％〜25％の割引を受けられる、というものだ。
割引のために倫理規定を守ろうとする人をどう思うだろう。
それはカントの店主の話と同じようなものだ。重要なのは意思の質、動機の性格だ。そして道徳に関係する動機は義務の動機だけであり、傾向性の動機ではない。そして人が義務によって行動し、傾向性や自己の利益、同情、他人の利益といった動機に抵抗するとき、人は初めて自由に、自律的に行動していることになる。そのときになって初めて、人間の意思は外部の考慮事項に決定されたり、支配されたりはしていないといえるのだ。これが、カントの言う自由と道徳性の概念の繋がりだ。
ここでいったん止めて、君たちがついて来ているか確認したい。
何か質問や、疑問がある人はいるかな？確認したい点がある人、あるいは義務の動機だけが行動に道徳的価値を与える、この考え方に意義があるならそれも聞こう。では君！
学生Ａ：はっきりさせたい問題が二つあります。まず、この考え方には、一度何が道徳的かを意識すると、道徳性の目的を達成するために自分の動機を変えることができるような、ある種の自滅的な側面があるように思います。
例をあげてくれるかな。
学生Ａ：店主の例です。客に正しいお釣りをおつりを渡そうと判断するとき、彼は道徳的になるために自分の動機を決められます。道徳性が彼の動機で決まるとすると、行動の純粋性を無にするようなものではないでしょうか。彼の動機は道徳的に行動することではありません。
つまり君が想像しているのは、ただ純粋に利己的で計算高い店主ではなく、客のおつりをごまかすことを考えているかもしれないが、口では悪いうわさがたつと、自分の評判が傷つく、とは言わずに、自分は客に正しいおつりを渡す正直な人になりたい、それが正しい行いにだからだ、という人のことだね？
学生Ａ：あるいは道徳的になりたいから。
道徳的になりたい。良い人になりたい。だから道徳性が求めるものに従うようにする。
それは微妙なところだ。
君の質問はカントに重要なことを問い詰めている。カントは道徳法則に従うためには、何らかのインセンティブが必要だと言っている。それは自己の利益のインセンティブではない。それは定義からして意味をなさない。
彼が言っているのは、傾向性とは異なる種類のインセンティブで、それは道徳法則に対する敬意だ。もしその店主が、道徳法則に対する敬意を養いたいから、私は正しい行いをしよう、と言ったとしたら、彼の行為には道徳的価値があると思う。自分の動機を形成し、一度その重要性を理解すれば、彼の意思は道徳法則に一致するからだ。だからその行為には価値がある。
学生Ａ：では2つ目の質問です。どうすれば完全に道徳性が主観的になることを防げるのでしょうか。
どうすれば、主観的になるのを防げるか？
学生Ａ：そうです。道徳性が完全に自分の道徳によって決められるのであれば、どのようにこれを適用できるのでしょうか。
すばらしい質問だ！君の名前は？
学生Ａ：アマディです。
アマディ、ありがとう。
確かにアマディの言うとおり、道徳的に行動することが、義務から道徳の法則に従って行動することであり、自律的という意味で、自由に行動することであるのなら、私が、自分自身に与える法則に従って行動するのは、自律的に行動することを意味するはずだ。
しかしそれは、面白い問題を提起する。自律的に行動することが自分自身に与える法則に従って行動することを意味し、原因と結果の法則や自然法則から逃れる方法なのであれば、私が義務から行動している時、自分自身に与える法則が、アマディが自分自身に与える法則や、君たち一人一人が自分自身に与える法則と同じだという保証は、いったいどこにあるのだろうか。
ここで問題だ。カントはこの教室にいくつの道徳法則があると考えるだろう。１０００か、それとも１つか。
彼は１つだと考えた。それはある意味で道徳的法則とは何か、という問題に戻る。
自律的に行動することは、良心に従って、つまり自分自身の法則に従って行動することだ。しかし私たちが理性を実行するとき、全員が同じ道徳法則を見つけ出すという保証はどこにあるのか。
カントの答えはこうだ。
私たちは皆、自律的な存在として自分に法則を与えるが、そこへ導く理性は一つである。
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それはある種の実践的な理性であり、私たちが人間として共有しているもので、特異なものではない。人の尊厳を尊重する必要があるのは、私たちが、皆、理性的な存在だからだ。そして誰もが持っている理性の能力を実践することが、私たちすべてを、尊厳に値するものにしているのだ。そして、その理性の能力は、経歴や環境に左右されず、誰もが持つ普遍的な能力であり、道徳の法則を実現するものであるから、自律的に行動することは、結局私たちが自分に与える法則に従って行動し、理性を実践することなのだ。
それは私たちが共有している普遍的な理性であり、生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それはカントの言葉を借りれば、純粋実践理性であり、特定の目的とは無関係に、アプリオリに、つまり、経験的認識に先だって法則を制定するものだ。
そのような理性が実現する道徳法則とは、何だろうか。どんな内容なのか。
その質問に答えるために、次回は、人倫の形而上学の基礎づけを読んでいこう。




Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」
カントが設定した３つの対比を知ることでカントの哲学を理解するのに役立つ。１つ目は道徳（義務vs傾向性）、２つ目は自由（自律vs他律）、３つ目は理性（定言命法vs仮言命法）。１つ目の対比。カントは道徳性をもたらす動機は唯一「義務」だと言った。反対に自分の欲望や好みを満足させる、あるいは何らかの利益を追い求めることで動機がある場合、私たちは「傾向性」に従って行動しているとした。自分勝手で複数な動機を持っていたとしても、そこに義務がからむ動機があり行為に結びついていたとすれば道徳的に価値があるとする。２つ目の対比。カントは人が自由なのは「自律的」に意思を決定するときだけだという。つまり自分に与える法則に従うときだけであり、それは理性からくる。その理性はどうやって意思を決めることができるのか。それが３つ目の対比に繋がる。カントは理性は２種類の命令を出すという。命法の１つが仮言命法だ。ＸがほしいならＹをしよう。目的に対して手段を選ぶ理性。もし行為が単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。行為がそれ自体においてよいと示され、それが理性と一致している意思のために必要であるなら命法は定言命法だ。定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。自律的な意味で自由になるためには、定言命法から行動することが必要になる。理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。



Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」
今週で君たちも基本的にカントを理解し、今週で君たちも基本的にカントを理解し、彼が何をしようとしたのかわかるだろう。笑ってるね。でも本当にそうなる。カントはその著作『人倫の形而上学の基礎付け』で、２つの大きな問題に取り組んだ。１つ目は、道徳性の最高原理は何か、２つ目はどうすれば自由は可能になるか、この２点だ。
さて、カントの密度の濃い哲学書を理解する１つの方法は、互いに関連している２つの事柄の対比や対象、あるいは二言論を整理しながら読んでいくことだ。今回はそれらについて話したい。
これから、カントの提起した道徳性の最高原理は何か、という問いに答えていく。この問いに対するカントの答えにたどり着こうとする中で、カントが設定した３つの対比、あるいは二原論を覚えておくことは役に立つだろう。
１つ目の対比は、私たちの行為の動機、つまり何に基づいて行動するか、ということに関係してくる。
彼は、道徳性をもたらす動機は唯１つだけで、それは義務だといった。その場合、正しいことを正しい理由でしていくことになる。では他にはどんな動機があるだろう。カントはそれらを傾向別に分類した。
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私たちの動機が自分の欲望や好みを満足させること、あるいは何らかの利益を追い求めることである場合、私たちは傾向性に従って行動していることになる。
さてここで、君たちの意見を聞きたい。義務や善意の問題について考える上で、カントの主張に何か質問がある人はいるかな。それとも皆、納得しているだろうか。どうかな。君！
学生Ａ：本当に道徳的な行動は存在するのでしょうか。いつも何かしら自分勝手な動機があるのではないでしょうか。
人は多くの場合、自己の利益のために行動するだろう。カントもそれを認めている。しかしカントが言っているのは、私たちが道徳的に行動する場合、つまり、私たちの行為に道徳的価値がある場合、その価値を与えるのは、自己の利益や傾向性を超越し、義務に基づいて行動できる私たちの能力だ、ということだ。
何年か前、私は単語を正確につづれるかどうかを競う、スペリング・コンテストについての記事を読んだ。そこには優勝したアンドリューという１３歳の少年のことが書いてあった。彼が勝利を決めた単語は、エコラリアった。エコラリアを知っている人はいるかな。
学生Ｂ：花？花の名前？
いや花の種類ではない（会場笑い）
それはエコーのように聞いたことを反復する傾向のことだ。いずれにしても、彼は実際は綴りを間違えていた。だが、審判が聞き間違えたために、彼は全国スペリング・コンテストの優勝者になってしまった。しかし、彼はあとで審判のところに行って、本当は自分はスペルを間違えたので賞に値しない、と言ったんだ。彼は道徳的な英雄と見なされ、ニューヨークタイムズ紙にも載った。スペルをまちがえたスペリング・コンテストの英雄（会場笑い）。これがアンドリュート。自慢げな母親だ（会場笑い）
しかしここからが重要だ。
彼はあとでインタビューを受けたとき、自分が真実を告げた動機をこう説明した。
「審判の人たちは、僕がとても誠実だと言いましたが、僕は自分が嫌や奴だと思いたくなかったのです。」
さあ、カントは何と言うだろう。どうぞ。
学生Ｃ：それが、彼が綴りをまちがえたことを告白しようと決めた、決定的な理由だったか、それともほんの一部の理由だったかに寄ると思います。
君の名前は？　
学生Ｃ：バスコです。　
おもしろい意見だ。誰かこれについて他に意見がある人。カントの原則はあまりにも厳格で要求が厳しすぎるのか、カントはこれについて何というだろうか。君！
学生Ｄ：カントは行為に道徳的な価値を与えるのは、義務から生じた純粋な動機だというのではないでしょうか。この場合、彼は複数の動機を持っていたかもしれません。自分を嫌な奴だと思いたくないという動機の他に、義務から正しいことをするという動機も持っていたかもしれません。ひとつ別の動機を持っていたからというだけで、彼の行為に道徳的価値が欠けていることにはならないと思います。義務がからむ動機は、行為に道徳的価値を与えるものだからです。
君の名前は。
学生Ｄ：ジュディスです。
ジュディス、君の説明はカントに忠実だと思う。道徳以外の別の気持ちや感情が行為を支えるだけで、動機そのものにならない限り、それは問題ない。ジュディスはこの動機の問題について、とても的確にカントを弁護してくれた。 ありがとう。
さあ、ここで、３つの対比の話に戻ろう。
ある行為が、道徳的価値を持つためには、傾向性からではなく、それを義務のために行わなければならない、というカントの意図はよくわかった。しかし、前回の講義で触れたように、カントの厳格な概念と、特に厳しい自由の理解の間には繋がりがある。
そしてそれは、２つめの対比、さらには道徳性と自由の繋がりに通じる。２つ目の対比は、自律的と他律的という人の意思を決めることができる２つの異なる方法を表している。カントは人が自由なのは、自律的に意思を決定するときだけだという。つまり、自分に与える法則に従うときだけだ。
私たちに自律としての能力があるなら、押しつけられる法則ではなく、自ら与える法則に従って行動できるはずである。しかし、私たちが自分自身に与える法則とは、どこからくるのだろうか。それは理性だ。
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理性が人の意思を決めるなら、その意思は自然の支配や傾向性、あるいは状況から独立して判断する力となる。だから、カントの厳しい道徳性と自由の概念に関係しているのは、特に厳しい理性の概念なのである。
では理性はどうやって意思を決めることができるのか。２つの方法があり、３つ目の対比に繋がる。
カントは、理性は２種類の命令を出すという。そして理性の命令を、カントは命法と呼んだ。命法とはしなければならないことだ。命法の１つは、おそらく最も親しみのあるもので、仮言命法だ。
仮言命法が使うのは、道具的理性だ。ＸがほしいならＹをしよう。これは目的に対して手段を選ぶ理性だ。店の評判を良くしたいなら、うわさが立つかもしれないから客のお釣りをごまかすな。これが仮言命法だ。
もし行為が、単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。
行為がそれ自体においてよいと示され、それゆえ、それが理性と一致している意思のために必要であるなら
命法は定言的である。これが、定言命法と仮言命法の違いだ。
定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。これらの3つの対比の間に、繋がりが見えてきただろう。
自律的な意味で自由になるためには、仮言命法から行動するのではなく、定言命法から行動することが必要になる。
カントはこれらの３つの対比を用いて、私たちを、彼の考え出した定言命法にまで導いた。しかしここで１つの大きな問題が残る。定言命法とは何か。道徳の最高原理は何なのか。それは私たちに何を命令するのか。カントは定言命法について３つの定式をあげている。そのうちの２つについて、君たちの意見を聞きたい。１つ目の定式のことを、彼は普遍的法則の定式と呼んだ。
同時に　普遍的法則となることを意識しうるような格率に従ってのみ行為せよ。
格率とはどういうことか。
それは人がそれに従って行動する原則、原理だ。
例えば、約束を守ること。私には100ドルが必要だとする。なんとしても。でもすぐには返せない。君の所に行って、守れないとわかっていながら嘘の約束をする。「今日、100ドル貸してくれないか、来週返すから」この約束は、定言命法に合致しているか。カントはノーという。そしてウソの約束が、定言命法と喰い違っているといると判断する方法は、それを普遍化してみることだ。その行為の格率を普遍化してみるのだ。
お金を必要としている人が、全員ウソの約束をしているとしたら、誰もそれらの約束を信じなくなる。約束というものは機能しなくなり矛盾が生じる。普遍化された格率は、自らを掘り崩すのだ。
このテストによって、ウソの約束が間違いであることがわかる。普遍的法則の定式はどうだろうか。説得力があるだろうか。意見を聞きたい。君！
学生Ｅ：定言的と仮言的の違いについて質問があるのですが、もし、格率が、、。
定言的と仮言的の違い？
学生Ｅ：そうです。
命法だね？
学生Ｅ：はい。もし、格率が自らを掘り崩すことがないよう、定言命法で行動するとしたら、私はＹがほしいからＸをしますと言っているようなものです。私は世界が約束を守るように機能して欲しいからウソをつきません、ということです。
約束の慣行を壊したくないから？
学生Ｅ：そうです。それは目的により手段を正当化しているようです。
帰結主義者の理由づけのようだ、と言いたいんだね？
学生Ｅ：はい。
君の名前は？
学生Ｅ：ティムです。
ティム、ジョン・スチュアート・ミルも、君と同じ意見だった。彼も同じようにカントを批判した。ミルは「もしその格率を普遍化することで、約束を守る慣行がすべて破壊されるなら、それがウソの約束をしてはならない理由ならば、私は何らかの帰結に訴えなければならない」と言った。
ミルは君のカントに対する意見に同意していたんだ。だが彼は間違っていた（会場笑い）
でも君たちはよい同志だ。いい仲間だ。
カントは、ティムがちょうど彼を解釈したように、帰結に訴えるように解釈されることが多い。皆がウソをついたら、誰も他人の言うことを信頼できなくなるから、世界はいっそう悪くなる、だからウソをつくべきではない。そのように解釈されがちだが、カントは厳密にはそうは言っていない。
カントは「格率を普遍化するのはテストだ」と言っている。
それは格率が定言命法にあっているかどうかのテストであって、厳密には理由ではない。格率をテストするために普遍化しなければならない理由は、自分の特定の要求や欲望を、他の皆の者に対し、優先させていないかどうか、見るためだ。
自分の利益や要求、特別な状況が、他の人のそれより重要だという理由で、自分の行動を正当化するべきではない、というのが定言命法の特徴であり、要求である。
これが普遍化のテストの背後にある道徳的直観だ。
では、カントの２つめの定言命法について説明しよう。
たぶんこれは、普遍的形式よりも直観的に取っ付きやすいだろう。
それは目的としての人間性の定式だ。カントは定言命法の２つ目の定式を、次のような一連の議論で紹介している。
定言命法の根拠は、特定の利益や目的にあってはならない。なぜなら、そうするとそれが、目的の持ち主にだけ関係するものになてしまうからだ。
しかしながら　その存在そのものが　絶対的な価値を持つもの、つまりそれ自体の中に目的を持つものがあると仮定すると、そのものにのみ定言命法の根拠が見いだされる。
では、この目的をそれ自体のなかに持っているものとは何か。カントの答えはこうだ。
人間、および一般的に理性的な存在すべてはl、目的自体として存在し、誰かの意思を恣意的に使用するための手段として存在するのではない。
ここでカントは、人と物を区別している。
理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。この一連の推論で、カントは定言命法の第２の定式にたどり着く。
君の人格にも、他のすべての人の人格にもある人間性を単に手段としてのみではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ。
これが目的としての人間性の定式だ。
理性的な存在としての人間は、自分自身の中に目的があり、単に手段として自由に使用するとはできない、という考え方だ。私が君にウソをつき、君を私の目的、つまり１００ドルを得るという欲望のための手段として使うとすると、私は君の尊厳を尊重することを怠り、君を操っていることになる。
ここで、自殺に反対する義務の例を考えてみよう。
殺人と自殺は、定言命法に逆らっている。なぜか。
もし私が誰かを殺害したら、その人の命を何らかの目的で奪っていることになる。私が雇われた殺し屋だからにしろ、激怒か激情のためにしろ、私には何らかの利益や特定の目的があってその人を手段として使うことになる。
だから、殺人は定言命法に違反している。
カントにとって自殺は道徳的に言って殺人に等しい。たとえ自分の命であろうと、誰かの命を奪うのは、その人を使うことになるからだ。私たちは理性的な存在を使い、人間性を手段として使うことで、人間を目的そのものとして尊重することに失敗しているのだ。そしてこの理性の能力や、尊敬に値する人間性は尊厳の根拠であり、そのようなに人間性と理性の能力は、私たち全員の中に、無差別に備わっている。自殺は自分自身の人格を侵害することであり、殺人は誰かの命を奪うことでその尊厳を侵害することだ。道徳的な観点からはどちらも同じことなのだ。
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そしてそれらが同じであることは、道徳法則の普遍的な正確に関係している。
私たちが他の人の尊厳を尊重しなければならない理由は、彼らの個人的な特徴とは関係ない。だからカント派の尊敬は、そういう意味では愛とは違う。同情とも違う。団結や仲間意識や利己主義とも違う。
愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。
しかし、カントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。
従って、自分自身の人間性を侵害するのは他人の場合と同じように好ましくないことなのだ。
質問と反論は？どうぞ。
学生Ｆ：カントの、誰もが、自分自身の中に目的があるから、人を手段として使うことはできないという主張が気になります。僕たちは毎日、その日に何かを成し遂げるために、自分自身や周りの人たちを目的のための手段として使わなければなりません。例えば、授業でいい成績をとるためにレポートを書かなければならないとします。僕は自分自身をレポートを書く手段として使わなければなりません。食べ物を買うためには、僕は店員を手段として使わなければなりません。
そうだね、それは事実だ。君の名前は？
学生Ｆ：パトリックです。　　
パトリック、君は何も間違ったことはしていない。君は、他の人を手段として使うことで、定言命法には違反していない。
私たちは自分たちのプロジェクトや目的、利益のために他人を使うとき、彼らの尊厳を尊重するやり方で接すれば、何も問題はないのだ。そして、彼らを尊重するということの意味は、定言命法によって与えられる。
納得しただろうか？カントは道徳性の最高原理に、抵抗しがたい、説得力のある説明を与えていると思うだろうか、その質問には次回答えることにしよう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」</p>
<p>今回はイマヌエル・カントを考える。彼は「道徳性の最高原理は何か」「自由とは何か」を説く。カントは功利主義を認めなかったが、我々は苦痛を避け喜びを好むことに対しては認めていた。だが、功利主義者ベンサムの苦痛と喜びは我々の最高支配者であるという主張に反対だった。カントは個人を尊重するが、理由はリバタリアニズムのように自己所有によるものではない。カントは人間は『理性的』な存在であり『自由』に行動し選択能力があるからだとする。私たちは、自由とは望むことができることだと考えるが、カントの自由の概念はもっと厳しい。我々は欲望を求め、苦痛を避けようとした行動には自由がないという。のどの渇きに従って自分の意思でコーラを飲む事にも自由はないとする。カントが言う自由に行動とは、自分自身で与えた法則に従って行動することだとする。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いだ。これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。行動を道徳的価値のあるものにするのは『動機』が重要とする。ショップの例で考えよう。買物に不慣れな客が来店したとして、店主はだましてお金を得られるとしよう。しかし、店主は長期的にみると、店の評判が悪くなり売上が下がると考える。だから客のおつりをごまかすのをやめようと考える。長期的にみて店の効用を重要視する。功利主義の考えだ。しかしカントは『動機』が悪いので、この行動には道徳的に価値がないと言うのだ。道徳的価値のあるものにするのが動機ならば、道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは１つしかないと言う。それが『理性』だ。私たちは普遍的な理性を共有している。生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それをカントは「純粋実践理性」と呼ぶ。その理性による道徳法則に従うことが自由だ。ボールを落とすことを考えると、ボールは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。ボールは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に支配されているのだ。同じように、我々は社会の法則によって支配されており、自由がない。だから道徳法則に従うことが自由があるとカントは呼ぶのだ。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/8rv-4aUbZxQ&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/8rv-4aUbZxQ&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture11<br />
<strong>MIND YOUR MOTIVE</strong><br />
Lecture12<br />
<strong>THE SUPREME PRINCIPLE OF MORALITY</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:14
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h3><font color="#aa1525">Lecture11「行動ではなく動機に正義の源があるのか」</font></h3>
<p>さぁ、今日はこの講義の中で、もっとも難解な哲学者である。<br />
イマヌエル・カントにとりかかる。<br />
彼はなぜ私たちは人の尊厳を尊重しなければならないのか、なぜ良い目的であっても人をただの道具として使ってはいけないのか、ということについて独自の説明をしてくれる。<br />
カントは１６歳でケーニヒスベルク大学を卒業した。３１歳で初めて大学講師の職を得た。給与は完全歩合制で授業出席した学生の数に基づいて支払われた。これはハーバードも検討すべき懸命なシステムだ。（会場笑い＆拍手）<br />
<span id="more-3090"></span><br />
カントは人気講師で勤勉だったので、貧しいながらも何とか生計を立てることができた。５７歳でようやく最初の主要作「純粋理性批判」を発表。しかし、それは待つに値するものだった。<br />
おそらく近代哲学における最も重要な著作だろう。それから数年後カントは私たちがこの授業で読む「人倫の形而上（けいじじょう）学の基礎づけ」を書いた。<br />
たしかにカントは難解な思想家だ。しかし、彼の言っていることを理解しようとするのは重要なことだ。<br />
なぜなら彼はこの本で、道徳性の最高原理は何か、ということを説いているからだ。さらに彼は自由とは何か、という問題に対して強力な説明を与えてくれる。<br />
では、はじめよう。</p>
<p>カントは功利主義を認めなかった。彼はこう考えていた。<br />
全ての個人、全ての人間は、私たちが尊敬するに値するある種の尊厳を持っていると。<br />
カントによれば個人が神聖であり、権利の担い手である理由は自分自身を所有しているからでなく、私たちは皆、理性的な存在だからだ。<br />
理性的な存在というのは、単純に理性を行使できる存在である、という意味だ。<br />
私たちはまた、自立した存在でもある。つまり、自由に行動し、選択性能力がある、ということだ。</p>
<p>ところで、この理性と自由の能力以外でも私たちには能力がある。<br />
苦痛と喜び、苦しみと満足の能力だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
カントは功利主義者にも正しい部分があると認めている。<br />
もちろん私たちは苦痛を避けようとし、喜びを好む。<br />
カントはこれを否定してはいない。彼が否定しているのはジェレミーベンサムの苦痛と喜びは我々は最高の支配者である、という主張だ。<br />
カントは私たちの理性的な能力が私たちが特別なものにし単なる動物的存在から引き離す、と考えていた。<br />
それは私たちを、欲求を持った肉体的な生き物以上のものにすると。</p>
<p>ところで、私たちはよく、自由とは望むことができることだと考える。<br />
あるいは望むものを手に入れる上で障害がないことだと。<br />
しかし、これはカントの考える自由ではない、カントの自由な概念はもっと厳格で厳しいものだ。<br />
しかし、じっくり考えてみれば、実は非常に説得力のあるものだとわかる。</p>
<p>カントはこう推論した。<br />
私たちが動物のように喜びや満足や欲望を追い求め、苦痛を避けようとした時、本当に自由に行動しているとは言えない。<br />
なぜか、実際には私たちは欲望や衝動の奴隷として行動しているからだ。<br />
私たちは特定の餓えや欲望を選ぶわけではない。<br />
だから、それを満足させるために行動するのは自然の必要に迫られているからに過ぎない。<br />
そしてカントにとって、自由と必要は相反するものだ。</p>
<p>２、３年前、ある炭酸飲料のこんな宣伝文句があった<br />
それは「渇きに従え」というものだ。</p>
<p>この宣伝文句にはカント的な洞察が埋め込められている。<br />
これはある意味、カント主張だ。</p>
<p>君たちは炭酸飲料を求める時、自分は自由に好きなものを選んでいる、と思うかもしれない。<br />
実際はそうではなく、喉の渇きや宣伝によりつくられ、操作された欲望に従っている。<br />
自分自身で選んだわけでも、つくってもない支持に従っているのだ。<br />
そしてここが、カントの考える特別に厳しい自由の概念の注目に値する概念だ。</p>
<p>私たちはどのように行動すれば周りからの刺激や餓え、欲望、願望の支持に従うことなく、自分の意思を決定することができるのだろうか。<br />
カントの答えはこうだ。<br />
自由に行動することは自立的に行動することである。そして、自立的に行動することは自分自身で与えた法則に従って行動することであり、食べたり飲んだりする欲望、レストランで食べ物を選ぶ欲望といった、物理的な法則や原因と結果の法則に従うことではない。</p>
<p>では、その反対は何だろうか。自立の反対は何だろうか。</p>
<p>カントは自律の反対の意味を持つ、特別な用語を考えだした。<br />
それはヘテロノミー、他律だ。</p>
<p>他律的に行動する時、私たちは自分で選んだわけではない、本能や欲望、つまり、傾向性に従っている。<br />
だから、自律性としての自由はカントは強く主張した得に説得力のある考えだ。</p>
<p>では、なぜ、自立の反対が他律的に行動すること、あるいは、自然の命令に従って行動することなのか。<br />
カントは資源は法則によって、例えば、原因と結果の法則に支配されていると言う。</p>
<p>ボールを落とすとしよう。それは地面に落ちるが、誰もボールが自由に行動しているとは言わない。<br />
なぜなら、それは自然の法則、原因と結果の法則、重力の法則に従って動いているからだ。</p>
<p>カントはこのように厳しい説得力のある自由の概念を持っていたが、それだけでなく、同じように厳しい道徳性の概念も持っていた。自由に行動することは与えられた目的のために最善の手段を選ぶことではなく、目的自体のために目的を選ぶことである。そして、それは人間にはできるがボールにはできないことだ。</p>
<p>傾向性に従って行動する時や快楽を追う時、私たちは外から与えれる目的を実現する手段として行動している。<br />
私たちは自分が追い求める目的の作者ではなく、むしろ道具になっている。<br />
それが他律的な意思の決定だ。</p>
<p>一方自立的、つまり自らが与える法に従って行動する時、私たちはそれ自体を目的としてそのために行動する。自立的に行動する時、私たちは外から与えられた道具であることをやめ、自分自身を自分自身の目的として考えられるようになるのだ。この自由に行動する能力が人間の生命に特別な尊厳を与えているとカントは言う。<br />
人の尊厳を尊重することは人を単なる道具とみなすのではなく、目的そのものとして考えることを意味する。<br />
だからこそ他の人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いである。<br />
これが功利主義が間違っている本当の理由だと言う。<br />
だからこそ、人の尊厳を尊重し、権利を守ることが重要なのだと。</p>
<p>思い出して欲しい、ジョンスチュワートミルは私たちは正義を守り、人の尊厳を尊重すれば、長期的には人間の幸福を最大化できると言った。これに対してカントはどう答えたか。彼はこう答えた。</p>
<p>例えそれが真実で、その計算がうまくいったとしても、たとえ将来的に恐怖が広がり、効用が低下するから、ライオンと戦わせるべきではないと判断したとしても、功利主義者は間違った理由で正義と権利を守り、人を尊重している。まさに無条件ではない理由。つまり、道具的な理由のためだ。将来的に計算がうまく行き、最善な結果がもたらされる結果が出ても、それは人を目的そのものとして尊重しているのではなく、むしろ手段として使っていることになる。</p>
<p>これがカントの考える自立としての自由だ。<br />
このあたりから、彼の自由と道徳性の概念のつながりが見えてくる。<br />
しかし、まだ答えの出ていない問題がある。<br />
何が行動に道徳的価値があるのか、という問題だ。</p>
<p>効用や願望、欲望をみたすことが目的ではないとすると、何が行動にその道徳的価値を与えるのか。<br />
これは私たちをカントの厳しい自由の概念から厳しい道徳性の概念へと導く。</p>
<p>カントはこう言っている。<br />
行動を道徳的に価値のあるものにするのは、そこから生じる帰結でも、結果でもない。<br />
行動を道徳的価値のあるものにするのは、動機、意思の質、そして行為がなされる意図である。</p>
<p>重要なのは動機だ。<br />
そして動機はある種のものでなければならない。</p>
<p>つまり、行為の道徳的価値は動機で決まる。そして重要なのはその人が正しい行いを正しい理由ですることだ。<br />
善意はその結果や成果のために良いものになるのではない。それ自体が良いものなのだ。<br />
最善の努力をもってしても、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして宝石のように光り輝く。</p>
<p>どんな行為でも道徳的に良いであるためには道徳法則に従うだけでなく、道徳法則そのもののためになされなければならない。<br />
動機は行為に道徳的価値を与える。そして行為に道徳的価値を与えることができる唯一の動機は義務の動機である。ということだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
では、それが正しいからという理由で義務感から何かをする反対とは何だろうか。<br />
カントはその反対は、我々の傾向性に関係する全ての動機だと言う。<br />
そして、傾向性は私たちの全ての欲望、全ての偶然に与えられた願望、好み、衝動などを意味している。</p>
<p>道徳法則のため、そして義務のためになされた行為だけが道徳的な価値を持つ。これについて君たちがどう考えるか聞きたいが、その前にいくつかの例を考えてみよう。</p>
<p>カントはまず、ある店の主の例を出した。<br />
行為に道徳的価値が与えられるのは、それが正しい理由がなされた場合のみだ。<br />
ということを直感的に理解させようとしたのだ。</p>
<p>ある店に買物に不慣れな客が入ってくるとしよう。<br />
そこの店主はその客に渡すおつりをごまかしても彼にはバレないことを知っている。少なくともその客にはわからない。しかし、そこで店主は考える。いや、もしこの客のおつりをごまかしたらうわさがたつ。自分の評判が傷つき、客がこなくなるだろう。だから、おつりをごまかすのはやめよう。亭主は間違ったことはせずに、正しいおつりを渡す。</p>
<p>彼の行動に道徳的な価値はあるか。カントはないという。</p>
<p>亭主は自己の利益という間違った理由で正しいことを行っただけで、そこには道徳的価値はない。<br />
これはとてもわかりやすい事例だ。</p>
<p>カントはもう１つ。自殺の事例を取り上げている。<br />
彼は私たちには自分を守る義務がある。人生を愛するほとんどの人は自分の命を奪わない理由をいくらでもあげられるだろう。<br />
だが、自殺しない真の動機を見極めるためには、誰かひどく不幸で本当に悲惨な生活をおくっている人のことを想像する必要がある。</p>
<p>つまり、ひどく不幸で、惨めな生活をおくっているが、それにも関わらず自分自身を保つ義務をきちんと認識し自殺せずにいる人だ。<br />
この例の意味するところは重要な動機を明るめに出す、ということだ。そして、道徳性のために重要な動機は義務のために正しいことをすることだ。</p>
<p>他に１つ、２つ例をあげてみよう。商事改善協会の例だ。<br />
彼らの標語を知っているかな？正直は最善の策。そして、もっとも有益なもの。<br />
これはニューヨークタイムズ誌に載った商事改善協会の広告だ。<br />
正直さ、それは財産と同様に重要なもの。真実と公開性、公正な値段による取引は必ずうまくいくからだ。我々と一緒に利益を上げよう。</p>
<p>商事改善協会のメンバーの正直な取引の道徳的価値を、カントはどう見るだろうか。<br />
彼らが顧客と正直に取引する理由は、利益を上げるためだ。だから彼らの行動には道徳的価値が欠けている。これがカントの主張だ。</p>
<p>あるいは数年前、メリーランド大学でカンニングの問題が起こり、彼らは自主管理制度をはじめた。地元の商店とともに作ったプログラムで、カンニングをしないという誓約にサインをすると、店で10％〜25％の割引を受けられる、というものだ。<br />
割引のために倫理規定を守ろうとする人をどう思うだろう。<br />
それはカントの店主の話と同じようなものだ。重要なのは意思の質、動機の性格だ。そして道徳に関係する動機は義務の動機だけであり、傾向性の動機ではない。そして人が義務によって行動し、傾向性や自己の利益、同情、他人の利益といった動機に抵抗するとき、人は初めて自由に、自律的に行動していることになる。そのときになって初めて、人間の意思は外部の考慮事項に決定されたり、支配されたりはしていないといえるのだ。これが、カントの言う自由と道徳性の概念の繋がりだ。</p>
<p>ここでいったん止めて、君たちがついて来ているか確認したい。<br />
何か質問や、疑問がある人はいるかな？確認したい点がある人、あるいは義務の動機だけが行動に道徳的価値を与える、この考え方に意義があるならそれも聞こう。では君！</p>
<p>学生Ａ：はっきりさせたい問題が二つあります。まず、この考え方には、一度何が道徳的かを意識すると、道徳性の目的を達成するために自分の動機を変えることができるような、ある種の自滅的な側面があるように思います。</p>
<p>例をあげてくれるかな。</p>
<p>学生Ａ：店主の例です。客に正しいお釣りをおつりを渡そうと判断するとき、彼は道徳的になるために自分の動機を決められます。道徳性が彼の動機で決まるとすると、行動の純粋性を無にするようなものではないでしょうか。彼の動機は道徳的に行動することではありません。</p>
<p>つまり君が想像しているのは、ただ純粋に利己的で計算高い店主ではなく、客のおつりをごまかすことを考えているかもしれないが、口では悪いうわさがたつと、自分の評判が傷つく、とは言わずに、自分は客に正しいおつりを渡す正直な人になりたい、それが正しい行いにだからだ、という人のことだね？</p>
<p>学生Ａ：あるいは道徳的になりたいから。</p>
<p>道徳的になりたい。良い人になりたい。だから道徳性が求めるものに従うようにする。<br />
それは微妙なところだ。<br />
君の質問はカントに重要なことを問い詰めている。カントは道徳法則に従うためには、何らかのインセンティブが必要だと言っている。それは自己の利益のインセンティブではない。それは定義からして意味をなさない。</p>
<p>彼が言っているのは、傾向性とは異なる種類のインセンティブで、それは道徳法則に対する敬意だ。もしその店主が、道徳法則に対する敬意を養いたいから、私は正しい行いをしよう、と言ったとしたら、彼の行為には道徳的価値があると思う。自分の動機を形成し、一度その重要性を理解すれば、彼の意思は道徳法則に一致するからだ。だからその行為には価値がある。</p>
<p>学生Ａ：では2つ目の質問です。どうすれば完全に道徳性が主観的になることを防げるのでしょうか。<br />
どうすれば、主観的になるのを防げるか？<br />
学生Ａ：そうです。道徳性が完全に自分の道徳によって決められるのであれば、どのようにこれを適用できるのでしょうか。<br />
すばらしい質問だ！君の名前は？<br />
学生Ａ：アマディです。</p>
<p>アマディ、ありがとう。<br />
確かにアマディの言うとおり、道徳的に行動することが、義務から道徳の法則に従って行動することであり、自律的という意味で、自由に行動することであるのなら、私が、自分自身に与える法則に従って行動するのは、自律的に行動することを意味するはずだ。<br />
しかしそれは、面白い問題を提起する。自律的に行動することが自分自身に与える法則に従って行動することを意味し、原因と結果の法則や自然法則から逃れる方法なのであれば、私が義務から行動している時、自分自身に与える法則が、アマディが自分自身に与える法則や、君たち一人一人が自分自身に与える法則と同じだという保証は、いったいどこにあるのだろうか。</p>
<p>ここで問題だ。カントはこの教室にいくつの道徳法則があると考えるだろう。１０００か、それとも１つか。<br />
彼は１つだと考えた。それはある意味で道徳的法則とは何か、という問題に戻る。</p>
<p>自律的に行動することは、良心に従って、つまり自分自身の法則に従って行動することだ。しかし私たちが理性を実行するとき、全員が同じ道徳法則を見つけ出すという保証はどこにあるのか。</p>
<p>カントの答えはこうだ。<br />
私たちは皆、自律的な存在として自分に法則を与えるが、そこへ導く理性は一つである。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
それはある種の実践的な理性であり、私たちが人間として共有しているもので、特異なものではない。人の尊厳を尊重する必要があるのは、私たちが、皆、理性的な存在だからだ。そして誰もが持っている理性の能力を実践することが、私たちすべてを、尊厳に値するものにしているのだ。そして、その理性の能力は、経歴や環境に左右されず、誰もが持つ普遍的な能力であり、道徳の法則を実現するものであるから、自律的に行動することは、結局私たちが自分に与える法則に従って行動し、理性を実践することなのだ。</p>
<p>それは私たちが共有している普遍的な理性であり、生い立ちや特定の価値観、利益により規定される特殊な理性ではない。それはカントの言葉を借りれば、純粋実践理性であり、特定の目的とは無関係に、アプリオリに、つまり、経験的認識に先だって法則を制定するものだ。</p>
<p>そのような理性が実現する道徳法則とは、何だろうか。どんな内容なのか。<br />
その質問に答えるために、次回は、人倫の形而上学の基礎づけを読んでいこう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」</p>
<p>カントが設定した３つの対比を知ることでカントの哲学を理解するのに役立つ。１つ目は道徳（義務vs傾向性）、２つ目は自由（自律vs他律）、３つ目は理性（定言命法vs仮言命法）。１つ目の対比。カントは道徳性をもたらす動機は唯一「義務」だと言った。反対に自分の欲望や好みを満足させる、あるいは何らかの利益を追い求めることで動機がある場合、私たちは「傾向性」に従って行動しているとした。自分勝手で複数な動機を持っていたとしても、そこに義務がからむ動機があり行為に結びついていたとすれば道徳的に価値があるとする。２つ目の対比。カントは人が自由なのは「自律的」に意思を決定するときだけだという。つまり自分に与える法則に従うときだけであり、それは理性からくる。その理性はどうやって意思を決めることができるのか。それが３つ目の対比に繋がる。カントは理性は２種類の命令を出すという。命法の１つが仮言命法だ。ＸがほしいならＹをしよう。目的に対して手段を選ぶ理性。もし行為が単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。行為がそれ自体においてよいと示され、それが理性と一致している意思のために必要であるなら命法は定言命法だ。定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。自律的な意味で自由になるためには、定言命法から行動することが必要になる。理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。しかしカントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h3><font color="#aa1525">Lecture12「哲学者カントの道徳性の最高原理」</font></h3>
<p>今週で君たちも基本的にカントを理解し、今週で君たちも基本的にカントを理解し、彼が何をしようとしたのかわかるだろう。笑ってるね。でも本当にそうなる。カントはその著作『人倫の形而上学の基礎付け』で、２つの大きな問題に取り組んだ。１つ目は、道徳性の最高原理は何か、２つ目はどうすれば自由は可能になるか、この２点だ。</p>
<p>さて、カントの密度の濃い哲学書を理解する１つの方法は、互いに関連している２つの事柄の対比や対象、あるいは二言論を整理しながら読んでいくことだ。今回はそれらについて話したい。</p>
<p>これから、カントの提起した道徳性の最高原理は何か、という問いに答えていく。この問いに対するカントの答えにたどり着こうとする中で、カントが設定した３つの対比、あるいは二原論を覚えておくことは役に立つだろう。</p>
<p>１つ目の対比は、私たちの行為の動機、つまり何に基づいて行動するか、ということに関係してくる。</p>
<p>彼は、道徳性をもたらす動機は唯１つだけで、それは義務だといった。その場合、正しいことを正しい理由でしていくことになる。では他にはどんな動機があるだろう。カントはそれらを傾向別に分類した。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
私たちの動機が自分の欲望や好みを満足させること、あるいは何らかの利益を追い求めることである場合、私たちは傾向性に従って行動していることになる。</p>
<p>さてここで、君たちの意見を聞きたい。義務や善意の問題について考える上で、カントの主張に何か質問がある人はいるかな。それとも皆、納得しているだろうか。どうかな。君！</p>
<p>学生Ａ：本当に道徳的な行動は存在するのでしょうか。いつも何かしら自分勝手な動機があるのではないでしょうか。</p>
<p>人は多くの場合、自己の利益のために行動するだろう。カントもそれを認めている。しかしカントが言っているのは、私たちが道徳的に行動する場合、つまり、私たちの行為に道徳的価値がある場合、その価値を与えるのは、自己の利益や傾向性を超越し、義務に基づいて行動できる私たちの能力だ、ということだ。<br />
何年か前、私は単語を正確につづれるかどうかを競う、スペリング・コンテストについての記事を読んだ。そこには優勝したアンドリューという１３歳の少年のことが書いてあった。彼が勝利を決めた単語は、エコラリアった。エコラリアを知っている人はいるかな。</p>
<p>学生Ｂ：花？花の名前？<br />
いや花の種類ではない（会場笑い）</p>
<p>それはエコーのように聞いたことを反復する傾向のことだ。いずれにしても、彼は実際は綴りを間違えていた。だが、審判が聞き間違えたために、彼は全国スペリング・コンテストの優勝者になってしまった。しかし、彼はあとで審判のところに行って、本当は自分はスペルを間違えたので賞に値しない、と言ったんだ。彼は道徳的な英雄と見なされ、ニューヨークタイムズ紙にも載った。スペルをまちがえたスペリング・コンテストの英雄（会場笑い）。これがアンドリュート。自慢げな母親だ（会場笑い）</p>
<p>しかしここからが重要だ。<br />
彼はあとでインタビューを受けたとき、自分が真実を告げた動機をこう説明した。<br />
「審判の人たちは、僕がとても誠実だと言いましたが、僕は自分が嫌や奴だと思いたくなかったのです。」</p>
<p>さあ、カントは何と言うだろう。どうぞ。</p>
<p>学生Ｃ：それが、彼が綴りをまちがえたことを告白しようと決めた、決定的な理由だったか、それともほんの一部の理由だったかに寄ると思います。</p>
<p>君の名前は？　<br />
学生Ｃ：バスコです。　</p>
<p>おもしろい意見だ。誰かこれについて他に意見がある人。カントの原則はあまりにも厳格で要求が厳しすぎるのか、カントはこれについて何というだろうか。君！</p>
<p>学生Ｄ：カントは行為に道徳的な価値を与えるのは、義務から生じた純粋な動機だというのではないでしょうか。この場合、彼は複数の動機を持っていたかもしれません。自分を嫌な奴だと思いたくないという動機の他に、義務から正しいことをするという動機も持っていたかもしれません。ひとつ別の動機を持っていたからというだけで、彼の行為に道徳的価値が欠けていることにはならないと思います。義務がからむ動機は、行為に道徳的価値を与えるものだからです。</p>
<p>君の名前は。<br />
学生Ｄ：ジュディスです。</p>
<p>ジュディス、君の説明はカントに忠実だと思う。道徳以外の別の気持ちや感情が行為を支えるだけで、動機そのものにならない限り、それは問題ない。ジュディスはこの動機の問題について、とても的確にカントを弁護してくれた。 ありがとう。</p>
<p>さあ、ここで、３つの対比の話に戻ろう。</p>
<p>ある行為が、道徳的価値を持つためには、傾向性からではなく、それを義務のために行わなければならない、というカントの意図はよくわかった。しかし、前回の講義で触れたように、カントの厳格な概念と、特に厳しい自由の理解の間には繋がりがある。</p>
<p>そしてそれは、２つめの対比、さらには道徳性と自由の繋がりに通じる。２つ目の対比は、自律的と他律的という人の意思を決めることができる２つの異なる方法を表している。カントは人が自由なのは、自律的に意思を決定するときだけだという。つまり、自分に与える法則に従うときだけだ。</p>
<p>私たちに自律としての能力があるなら、押しつけられる法則ではなく、自ら与える法則に従って行動できるはずである。しかし、私たちが自分自身に与える法則とは、どこからくるのだろうか。それは理性だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
理性が人の意思を決めるなら、その意思は自然の支配や傾向性、あるいは状況から独立して判断する力となる。だから、カントの厳しい道徳性と自由の概念に関係しているのは、特に厳しい理性の概念なのである。</p>
<p>では理性はどうやって意思を決めることができるのか。２つの方法があり、３つ目の対比に繋がる。</p>
<p>カントは、理性は２種類の命令を出すという。そして理性の命令を、カントは命法と呼んだ。命法とはしなければならないことだ。命法の１つは、おそらく最も親しみのあるもので、仮言命法だ。</p>
<p>仮言命法が使うのは、道具的理性だ。ＸがほしいならＹをしよう。これは目的に対して手段を選ぶ理性だ。店の評判を良くしたいなら、うわさが立つかもしれないから客のお釣りをごまかすな。これが仮言命法だ。</p>
<p>もし行為が、単に別の何かのための手段としてのみよいのであれば、命法は仮言的である。</p>
<p>行為がそれ自体においてよいと示され、それゆえ、それが理性と一致している意思のために必要であるなら<br />
命法は定言的である。これが、定言命法と仮言命法の違いだ。</p>
<p>定言命法はそれ以外の目的に言及したり、依存したりすることなく、定言的に、つまり、無条件に命令を出すという意味だ。これらの3つの対比の間に、繋がりが見えてきただろう。</p>
<p>自律的な意味で自由になるためには、仮言命法から行動するのではなく、定言命法から行動することが必要になる。</p>
<p>カントはこれらの３つの対比を用いて、私たちを、彼の考え出した定言命法にまで導いた。しかしここで１つの大きな問題が残る。定言命法とは何か。道徳の最高原理は何なのか。それは私たちに何を命令するのか。カントは定言命法について３つの定式をあげている。そのうちの２つについて、君たちの意見を聞きたい。１つ目の定式のことを、彼は普遍的法則の定式と呼んだ。</p>
<p>同時に　普遍的法則となることを意識しうるような格率に従ってのみ行為せよ。</p>
<p>格率とはどういうことか。<br />
それは人がそれに従って行動する原則、原理だ。</p>
<p>例えば、約束を守ること。私には100ドルが必要だとする。なんとしても。でもすぐには返せない。君の所に行って、守れないとわかっていながら嘘の約束をする。「今日、100ドル貸してくれないか、来週返すから」この約束は、定言命法に合致しているか。カントはノーという。そしてウソの約束が、定言命法と喰い違っているといると判断する方法は、それを普遍化してみることだ。その行為の格率を普遍化してみるのだ。<br />
お金を必要としている人が、全員ウソの約束をしているとしたら、誰もそれらの約束を信じなくなる。約束というものは機能しなくなり矛盾が生じる。普遍化された格率は、自らを掘り崩すのだ。</p>
<p>このテストによって、ウソの約束が間違いであることがわかる。普遍的法則の定式はどうだろうか。説得力があるだろうか。意見を聞きたい。君！</p>
<p>学生Ｅ：定言的と仮言的の違いについて質問があるのですが、もし、格率が、、。<br />
定言的と仮言的の違い？<br />
学生Ｅ：そうです。<br />
命法だね？<br />
学生Ｅ：はい。もし、格率が自らを掘り崩すことがないよう、定言命法で行動するとしたら、私はＹがほしいからＸをしますと言っているようなものです。私は世界が約束を守るように機能して欲しいからウソをつきません、ということです。</p>
<p>約束の慣行を壊したくないから？<br />
学生Ｅ：そうです。それは目的により手段を正当化しているようです。<br />
帰結主義者の理由づけのようだ、と言いたいんだね？<br />
学生Ｅ：はい。<br />
君の名前は？<br />
学生Ｅ：ティムです。</p>
<p>ティム、ジョン・スチュアート・ミルも、君と同じ意見だった。彼も同じようにカントを批判した。ミルは「もしその格率を普遍化することで、約束を守る慣行がすべて破壊されるなら、それがウソの約束をしてはならない理由ならば、私は何らかの帰結に訴えなければならない」と言った。</p>
<p>ミルは君のカントに対する意見に同意していたんだ。だが彼は間違っていた（会場笑い）<br />
でも君たちはよい同志だ。いい仲間だ。</p>
<p>カントは、ティムがちょうど彼を解釈したように、帰結に訴えるように解釈されることが多い。皆がウソをついたら、誰も他人の言うことを信頼できなくなるから、世界はいっそう悪くなる、だからウソをつくべきではない。そのように解釈されがちだが、カントは厳密にはそうは言っていない。</p>
<p>カントは「格率を普遍化するのはテストだ」と言っている。<br />
それは格率が定言命法にあっているかどうかのテストであって、厳密には理由ではない。格率をテストするために普遍化しなければならない理由は、自分の特定の要求や欲望を、他の皆の者に対し、優先させていないかどうか、見るためだ。<br />
自分の利益や要求、特別な状況が、他の人のそれより重要だという理由で、自分の行動を正当化するべきではない、というのが定言命法の特徴であり、要求である。</p>
<p>これが普遍化のテストの背後にある道徳的直観だ。</p>
<p>では、カントの２つめの定言命法について説明しよう。</p>
<p>たぶんこれは、普遍的形式よりも直観的に取っ付きやすいだろう。<br />
それは目的としての人間性の定式だ。カントは定言命法の２つ目の定式を、次のような一連の議論で紹介している。</p>
<p>定言命法の根拠は、特定の利益や目的にあってはならない。なぜなら、そうするとそれが、目的の持ち主にだけ関係するものになてしまうからだ。</p>
<p>しかしながら　その存在そのものが　絶対的な価値を持つもの、つまりそれ自体の中に目的を持つものがあると仮定すると、そのものにのみ定言命法の根拠が見いだされる。</p>
<p>では、この目的をそれ自体のなかに持っているものとは何か。カントの答えはこうだ。</p>
<p>人間、および一般的に理性的な存在すべてはl、目的自体として存在し、誰かの意思を恣意的に使用するための手段として存在するのではない。</p>
<p>ここでカントは、人と物を区別している。</p>
<p>理性的な存在とは人間である。人間は単に相対的な価値を持っているのではなく、絶対的な価値、内外的な価値を持っている。理性的な存在は尊厳を持っており、彼らは敬意と尊敬に値する。この一連の推論で、カントは定言命法の第２の定式にたどり着く。</p>
<p>君の人格にも、他のすべての人の人格にもある人間性を単に手段としてのみではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ。</p>
<p>これが目的としての人間性の定式だ。</p>
<p>理性的な存在としての人間は、自分自身の中に目的があり、単に手段として自由に使用するとはできない、という考え方だ。私が君にウソをつき、君を私の目的、つまり１００ドルを得るという欲望のための手段として使うとすると、私は君の尊厳を尊重することを怠り、君を操っていることになる。</p>
<p>ここで、自殺に反対する義務の例を考えてみよう。</p>
<p>殺人と自殺は、定言命法に逆らっている。なぜか。</p>
<p>もし私が誰かを殺害したら、その人の命を何らかの目的で奪っていることになる。私が雇われた殺し屋だからにしろ、激怒か激情のためにしろ、私には何らかの利益や特定の目的があってその人を手段として使うことになる。</p>
<p>だから、殺人は定言命法に違反している。</p>
<p>カントにとって自殺は道徳的に言って殺人に等しい。たとえ自分の命であろうと、誰かの命を奪うのは、その人を使うことになるからだ。私たちは理性的な存在を使い、人間性を手段として使うことで、人間を目的そのものとして尊重することに失敗しているのだ。そしてこの理性の能力や、尊敬に値する人間性は尊厳の根拠であり、そのようなに人間性と理性の能力は、私たち全員の中に、無差別に備わっている。自殺は自分自身の人格を侵害することであり、殺人は誰かの命を奪うことでその尊厳を侵害することだ。道徳的な観点からはどちらも同じことなのだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
そしてそれらが同じであることは、道徳法則の普遍的な正確に関係している。</p>
<p>私たちが他の人の尊厳を尊重しなければならない理由は、彼らの個人的な特徴とは関係ない。だからカント派の尊敬は、そういう意味では愛とは違う。同情とも違う。団結や仲間意識や利己主義とも違う。</p>
<p>愛や他人を気にかける特定の美徳は、相手の個人としての具体的特徴に関係する。<br />
しかし、カントにとって尊重とは、普遍的な人間性、普遍的な理性的能力に対する尊重だ。</p>
<p>従って、自分自身の人間性を侵害するのは他人の場合と同じように好ましくないことなのだ。</p>
<p>質問と反論は？どうぞ。</p>
<p>学生Ｆ：カントの、誰もが、自分自身の中に目的があるから、人を手段として使うことはできないという主張が気になります。僕たちは毎日、その日に何かを成し遂げるために、自分自身や周りの人たちを目的のための手段として使わなければなりません。例えば、授業でいい成績をとるためにレポートを書かなければならないとします。僕は自分自身をレポートを書く手段として使わなければなりません。食べ物を買うためには、僕は店員を手段として使わなければなりません。</p>
<p>そうだね、それは事実だ。君の名前は？<br />
学生Ｆ：パトリックです。　　<br />
パトリック、君は何も間違ったことはしていない。君は、他の人を手段として使うことで、定言命法には違反していない。</p>
<p>私たちは自分たちのプロジェクトや目的、利益のために他人を使うとき、彼らの尊厳を尊重するやり方で接すれば、何も問題はないのだ。そして、彼らを尊重するということの意味は、定言命法によって与えられる。</p>
<p>納得しただろうか？カントは道徳性の最高原理に、抵抗しがたい、説得力のある説明を与えていると思うだろうか、その質問には次回答えることにしよう。</p>
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		<title>JUSTICE 第７回「嘘と正義」「契約は契約だ」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:42:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
		<category><![CDATA[JUSTICE]]></category>

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		<description><![CDATA[Lecture13「嘘と正義」
自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため（傾向性・他律）から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ！ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ（嘘はつかず）、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う＝すること（自由の領域）」、「相手を傷つけたくない＝すべきこと（必要の領域）」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture13
A LESSON IN LYING
Lecture14
A DEAL IS A DEAL　



時間：55:05











Lecture13「嘘と正義」
前回の講義は、カントの道徳理論を一通り見ていくことからはじめた。
さて、「人倫の形而上学の基礎づけ（カント著作）」で述べられている、カントの道徳理論を理解するには、３つの質問に答えられることが必要だ。義務と自律とはどうやったら両立することができるのか。義務に応えることになる重要な尊厳とはなにか。義務と自律という２つの観念は、一見対立しているように見える。これに対するカントの答えは何か、誰か解説してもらいたい。カントには答えがあるのかどうか。君！
学生Ａ：カントの考えでは、人間が自律的に行動しているといえるのは、義務という名のもとに何かを追求しているときだけ。自分の個人的な利益のためではなく、義務のために何かよい道徳的な行為をしているときだけだからです。
その行為はなぜ、、名前は？
学生Ａ：マットです。
その行為はなぜ義務から生じたといえるのかな？
学生Ａ（マット）：道徳法則を受け入れることを自分で選んでいるからです。強制されたのではなく。
よろしい。義務から生じた行動が、則っている道徳法則は。
学生Ａ：自分が自分で課したものだから。
自分で自分に課したものだから、それが義務と自由を両立可能にする。
学生Ａ（マット）：はい。
よろしい。その通り。それがカントの答えだ。ありがとう。
カントは、私は法に従っているから、私には尊厳がある、とは考えない。

いやむしろ、まさにその法に関しては、私が創作者なのだ。そして私がその法に服している理由は、私がその法を引き受けたから、マットの言葉で言えば、自分で自分に課したものだからだ。私がその法を望んだからなのだ。それがカントにとって、義務に従って行動することと、自由に行動することが、自律という意味において同じであるという理由だ。
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そこから次の疑問が出てくる。
道徳法則はいくつあるのか、なぜなら、もし尊厳が私が自分で自分に課する法によって統治するされることになるのであれば、私の両親が君の両親と同じであることを保障してくれるものはなにか。これについてカントの答えは？君！
学生Ｂ：道徳法則は主観的な条件には左右されません。個人の間の違いをすべて凌駕するので、普遍的な法であるわけです。つまり、それは究極の法なので世界には１つの法しか存在しません。
そう、その通りだ。名前は？
学生Ｂ：ケリーです。
ケリー、カントの考えでは、私たちが自由に自分の良心から道徳法則を選べば、私たちは唯一の同じ道徳法則にたどり着けることになっている。なぜかというと、それは私、マイケル・サンデルが選んでいるのではなく、ケリーが、ケリー自身で選んでいるわけでもないからだ。それは正確にはどういうことか、選択しているのは誰か、誰が主体、行為者なのか、選んでいるのは誰か。
学生Ｂ（ケリー）：理性？
そう理性。
学生Ｂ（ケリー）：純粋理性です。
純粋理性。純粋理性とは、正確にはどういうことかな？
学生Ｂ（ケリー）：純粋理性とは、さっきも出ましたが、どんな外部条件にも左右されずに、自分自身に適用されるものです。
そう、その通りだ。
望むことをする理性。つまり私が道徳法則を望むときに、私の意思を支配する理性は君が君自身で道徳法則を選ぶ時に働く理性と一致するのだ。だから、それが自律的に行動すること、自分で選択すること、一人一人が自分自身で自律的な存在になろうとすると、その結果として、全員が最終的には同じ道徳法則、つまり定言命法を望むことになるのだ。
ところが、だとすると、大きな難問が１つ残る。マットとケリーが言ったことを、すべてその通りだと受け入れたとしても、定言命法は、どうやったら可能になるのか、道徳性はどうやったら可能になるのか、この問いにカントは、区別することで可能となると言っている。
私たちは、自分の経験を理解する２つの立場を区別する必要がある、という。
これら２つの立場によって、カントが何を意味したのか説明しよう。
経験の対象としての私は、感覚の世界、感性界に属している。そこでは私の行為は自然の法則や原因と結果の規則性によって決まる。しかし、経験の主体としての私は知性によって理解可能な世界、叡智（えいち）界に住んでいる。ここでは自然の法則の支配を受けずに、私には自立の能力がある。つまり私は、自分で自分の与える法によって行動できるのだ。
カントの考えでは、この２番目の立場からのみ、私は自分を自由だとみなすことができる。なぜんら、原因による決定の支配を受けないとうことは自由であると言うことだからだ。もし、私が功利主義者が考えるような、経験主義的存在だった場合、もし私が、苦痛と喜び、餓えと渇きと食欲などの自分の感覚だけに支配される存在だった場合、もしそれが人間性の全てであるとすれば、私たちに自由の能力はない。とカントは論じた。
なぜならこの場合、意思の実行は全て、何らかの対象に向けられた欲望によって条件付けられているからだ。この場合、全ての選択は他律的な選択であり、外部の目的を追求することに支配されている。
我々が自分自身を自由だと考える時、我々は叡智界の一員として、意思の自立性を認識する、とカントは述べた。
これが２つの立場についての考え方だ。
では、どうやったら定言命法は可能になるのか。その理由は、ただ自由という考えが私を叡智界の一員にするからである。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。私たちは叡智界、つまり自由の領域だけに住んでいるわけではない。もしそうであるなら、私たちの行為全ては、必ず、常に、意思の自律性と一致するだろう。
しかし同時に2つの領域、自由の領域と、必要の領域という、2つの領域に住んでいるからこそ、常に両方の領域に住んでいるからこそ、私たちが「すること」と「すべきこと」との間には、常に潜在的な隔たりがあるのだ。
｢何々である」と「何々であるべき」の違いがある。この論点を別の方法で説明しよう。
カントはこの説明で『人倫の形而上学の基礎づけ』を締めくくったが、それは道徳性は経験的なものではない、ということだ。この世界で何を見ようが、科学を通して何を発見しようが、道徳的な問題を判断することはできない。道徳性は経験主義的なこの世界から、一定の距離をおいて存在している。それが科学が道徳的な真理を導き出すことができない理由なのだ。
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ではカントの道徳理論を、カントが提起した最も難しい状況で考えてみよう。
人殺しが来たらどうするか？だ。
カントは嘘はいけないという。その理由については話し合ってきたが、嘘をつくことは、定言命法とは相いれないからだ。フランスの哲学者、ベンジャミン・コンスタンは『人倫の形而上学の基礎付け』に対して、論文を書き、嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っている。それが正しいはずがない、と述べた。
もし殺人犯が、君の家に隠れている友達を探して、玄関に現れたら、どうする？
殺人犯から単刀直入に「友達は家にいるのか」と聞かれたら、どうする？
哲学者コンスタンは、そんな場合であっても、道徳的に正しいのは、真実を告げることだと言うのはおかしい、と述べた。コンスタンは、殺人犯は真実を告げられるには値しないと主張した。それに対して、カントはこう答えた。
カントは嘘をつくのは間違っている、という原則を譲らなかった。たとえ家にやってきた殺人犯に対してもだ。そしてそれが間違っている理由は、帰結を考慮に入れ始めると、定言命法に例外を設けなければならなくなり、道徳の枠組み全体を諦めることになってしまうからだ、と述べた。そうなれば、帰結主義者か規則行為主義者になってしまう。
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しかし、君たちの多く、そしてカントの読者の多くは、この答えに納得できないのではないか、と思う。
この点について私はカントを弁護してみたい。
そして君たちが私の弁護を聞いて納得するかどうかを見てみたい。
私はカントの弁護を、カント自身の道徳性の説明の精神の範囲内で行ってみたい。
さて、殺人犯が君の家の玄関にやってきて「友達はいるか」と聞く。
君は、友達をかくまっている。嘘をつかずに、かつ、友達を売り渡さないで済む方法はあるだろうか。
誰かいいアイデアがある人は？君！
学生Ｃ：私だったら、かくまっている友達と、前もって打ち合わせをしておいて、もし殺人犯が来たら、あなたがここにいるって言っちゃうけど、逃げてねって言っておきます。（会場笑い）
でも選択肢のひとつでしょう？
　
カントがその選択肢を選ぶかな？それはやはり嘘だ。
学生Ｃ：いいえ、友達はまだ家にいます。あとで出て行くけど。　　
ああ、そうか。（会場笑い）よろしい。もう一人聞いてみよう。
学生Ｄ：友達がどこにいるか知らない。と言ったらどうでしょう。
友達はクローゼットから出て行ったかもしれないから、どこにいるかはわからない。
だから知らないと言ってもよいわけだ。君はその瞬間、クローゼットの中を覗いていないわけだから、それは嘘にはならない。
学生Ｄ：そうです。
だから厳密にいえば、真実だ。
学生Ｄ：はい。
だが厳密には、人を欺くような誤解を招く言い方だよね？
学生Ｄ：でも真実です。（会場笑い）
名前は？
学生Ｄ：ジョンです。
ジョン、結構。ジョンはいいところに気がついたかもしれない。ジョン、君は賢く言い逃れるオプションを提示してくれた。それは厳密にいえば真実だ。ここで１つ疑問が生じる。あからさまな嘘と、誤解を招くような言い方で述べられた真実との間に、道徳的な違いは、あるのか、ないのか、という疑問だ。
カントの考え方からすると、嘘と誤解を招くような言い方で述べられた真実の間には、大きな違いがある。それはなぜか。両方とも同じ結果を生むかもしれないのに、なぜ違うのか。
ここで思い出してほしいのは、カントは道徳性の基礎を結果には置かない、ということだ。
カントは道徳性の基礎を、道徳法則の形式的な遵守に置いている。
さて、日常生活の中で、私たちは嘘をついてはいけないというルールに、嘘も方便という例外を設けることがある。たとえば、人の気持ちを傷つけないためにつく嘘は、嘘ではあるが、結果よって正当化されると私たちは考える。
カントは嘘も方便には賛成できないが、誤解を招くような真実には賛成できるかもしれない。たとえば誰からネクタイをもらったとしよう。箱を開けてみるとひどい代物だった。
さて、何て言う？
学生Ｅ：ありがとう。
ありがとう？ありがとうは良い。だが相手は君がそのネクタイをどう思ったか知りたいし、聞いてくるかもしれない。君は嘘も方便だとばかり、すばらしいということもできるが、それはカントの考え方からすれば許されない。なので、誤解をまねくような真実で逃げてみる。
箱を開けて「こんなネクタイ見たことないよ（会場笑い）ありがとう！」
学生Ｆ：「気を使ってくれなくてもよかったのに」
気を使ってくれなくてもよかったのに。それはいい。（会場笑い）
現代の政治指導者で、このテクニックを使った人物を思いつかないか？思いつく？それは誰かな？
クリントンアメリカ元大統領が、モニカ・ルインスキーとの情事を否定するのに、注意深く選んだ言葉を覚えているかな？その否定は、弾劾公聴会で、非常に露骨な討論や議論の対象となった。クリントン元大統領の発言を見てみよう。嘘と、注意深く表現された誤解を招くような真実との区別に、道徳的に重要な何かがあるのだろうか。
（ムービー：ビル・クリントン大統領：１９９８年１月２６日）　
国民の皆さんに言いたい。ルインスキーさんと性的な関係を持ったことはありません。誰にも一度も嘘をつけと言ったことはありません。疑惑は誤りです。
（ムービー：下院司法委員会　弾劾公聴会：１９９８年１２月８日）
下院議員：「その女性とセックスをしたことがない」と嘘をついたでしょう。
弁護士：大統領は嘘をついたとは思っていません。彼は国民に「性的な関係を持っていない」といいました。
あなたが、この答えを納得せず、言い逃れだというのはわかります。しかし彼の定義では、、、。
弁護士：結構、その主張は分りました。
両者のやり取りを聞いたね？当時、君たちはこのやり取りをクリントンを弾劾したい共和党と、彼を擁護しようとする弁護士の間の、杓子定規な重箱の隅を突くようなやり取りだと思ったかもしれない。しかし今は、カントの見方に照らして、嘘と言い逃れ、つまり、真実だけれども誤解を招く主張との間の違いに、道徳的に重要なものがあると思うかな？違いがあると考える人、カントを擁護する人から聞きたい。よし、君の弁護を聞こう。
学生Ｇ：嘘と誤解を招くような真実は同じだという場合、それは帰結主義に基づく議論です。どちらも同じ目的を達成するからです。でも真実を話し、それを人に信じてもらおうとするのと、嘘を話し、それを人に真実だと信じてもらおうとするのとでは、それは道徳的には同じではないと思います。
よろしい。名前は？
学生Ｇ： ダイアナです。
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ダイアナの意見では、カントに一理あることになるね。クリントン元大統領を援護する主張だが、その点はどうかな？　君！
学生Ｈ：カントにとっては動機がカギです。自己満足から誰かにほどこしをしたら、カントは道徳的な価値を認めないでしょう。となると、誤解を招くような言い方は、嘘と同じで人を欺くことが目的ですから、動機は同じ、つまり両者は同じです。
よろしい。ではダイアナに聞こう。両者の動機は違うのかな？動機は同じだとする意見に対する君の反論は？どちらも真実を追求しようとする相手を欺こう、欺きたいと思っているわけだが。
学生Ｇ（ダイアナ）：直接の動機は、私を信じるべきだということだと思います。結果的には皆が騙されて、事実を誤認するかも知れませんが、言う側の動機は、自分が真実を言っているのだから皆は信じるべきだということだと思うんです。
助けてあげようか？
学生Ｇ（ダイアナ）：ぜひ。
君とカントを。失礼、君の名前は？（ダイアナの前に発言した学生を指して）
学生Ｈ：ウエズリー。
　
ウエズリーにこう反論したらどうだろう。
嘘をつくケース、誤解を招くような真実を言うケース、この両者のどちらも人を欺くことが動機だとは必ずしも言えない。友達が何処にいるか知らないとか、決して性的な関係を持ってはいない、ということによって、発言者は相手が欺かれることを期待している。相手が欺かれることを期待してはいるが、しかし真実を話しているのは確かであり、その動機は欺くことであったとしても、真実を告げ、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。
カントの答えはきっとこうなると思う。ダイアナ、どうかな？
学生Ｇ（ダイアナ）：はい。
賛成かな？
学生Ｇ（ダイアナ）：はい。
よろしい。
カントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、私は思う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れをも正当化するものだ。ダイアナ、賛成かな？よろしい。
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慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。クリントン元大統領はあからさまな嘘をつくこともできたが、そうしなかった。だからカントはきっとこう言うだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する一種の敬意がある。そして、その敬意はあからさまな嘘には存在しないものだ。ウエズリー、それも動機の一部だ。
確かに私は殺人犯が欺かれてくれることを願っている。殺人犯があきらめてどこかへ行ってくれることを望んでおり、クローゼットの中を覗いて欲しくはない、私はその効果を望んでいるが、しかし、そうコントロールすることはできない。私は結果をコントロールすることはできないのだ。私にできることは、どんなに自分が望む結果が出るように努めても、道徳法則に対する経緯と調和するやり方で見守ることだけなのだ。
ウエズリーが完全に納得してくれたとは思えないが、少なくとも今回の議論ではカントの定言命法の概念ににおいて、何が道徳的に問題になるのかを明らかにできたと思う。




Lecture14「契約は契約だ」
カントの政治理論。カントは契約論者だが、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。憲法制定会議に集まった人々は、異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や知識にも個人差があるだろう。だから、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわない。正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶもので、仮説的契約だ。実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。それを調べるためには、現代の哲学者ジョン・ロールズの論理を考える必要がある。ロールズはカントと同じく功利主義を批判し、正義の原理は仮説的な社会契約から導かれるとした。彼は「無知のベール」という考えで仮説的契約を考える。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だと主張する。その原理については次回考える。ちなみにロールズはハーバード大学の教授であった。



Lecture14「契約は契約だ」
前回の講義では、カントの定言命法について話し合い、カントが嘘に対して、どんなふうに定言命法の考え方を適用するのか考えた。カントの道徳理論を適用した例を、もう1つ見ていきたい。それはカントの政治理論だ。
カントは、正義にかなう法はある種の社会契約から、法はただ発生するのだという。しかしこの契約は、特殊な性質の契約だ。この契約を、特殊なものにしているのは、人々が共に集まって、憲法をどのようなものにしようか考えて生じる現実の契約ではない。カントの指摘によれば、正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶものなのだ。それは、憲法を制定する会議に集まった現実の人々の間を現実の契約ではない。
なぜそうではないのか。カントはこう論じる。
本物の憲法制定会議に集まった、現実の人々は異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や、知識にも個人差があるはずだ。ということは、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわず、必ずしも権利の原則に従うものでもなく、ただ単に、交渉能力や特殊な利害関係、ある人は他の人よりも法律や政治についてよく知っているかもしれないという事実、それを反映したものになってしまうだろう。そのためカントはこう述べている。
権利の原則を生み出す契約は、単なる理性の理念である。しかしそれは、疑いのない実践的な現実を持っている。それは、すべての立法者に法を起草する際、その法が国全体の統一意思によって生み出されたかのように起草するよう義務付けることができる。
だからカントは契約論者だ。しかしカントは、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。このことは当然ながら、１つの疑問を提起する。仮説的契約、つまり、実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。これが今回、私たちが取り上げるテーマだ。
しかし、それを調べるためにはまず、現代の哲学者、ジョン・ロールズに向かう必要がある。
ジョン・ロールズは、彼の著書『正義論』で、正義の根拠としての仮説的合意の重要性について非常に詳細に解き明かしている。ロールズの正議論は、大体のところで、２つの重要な点でカントの理論に沿っている。カントと同じくロールズも功利主義を批判した。
人間は正義に根ざす不可侵性を持ち、社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできない。正義により守られたその権利は、政治的な交渉や社会の利益の計算に左右されることはない。
ロールズの理論が、カントに従っている２つ目の点は、「正義の原理は、現実の契約ではなく、仮説的な社会契約から導かれるる」という考え方である。ロールズはこれを彼の考案した無知のベールという考え方を使って、非常に詳しく説明している。
私たちが尊重しなければならない、基本的な権利、権利と義務の基本的な枠組みに到達する方法は、次のように想像してみることだ。
それは私たちが、これから団体生活をはじめるにあたって、団体生活の原則を決めようとしているのだが、そこに集まっている人々が、それぞれどんな立場にあるどんな人間かを、私たちは全く知らないという状況だ。これが「無知のベール」という考え方だ。
さて、私たちが今ここにいるように、みんなで集まって、集合的生活をおさえる正義の原理を考え出そうとしたら、どんなことが起こるだろうか。それぞれの人々の異なる利益を反映して、意見や提案の不協和音が起こるだろう。強い人もいれば、弱い人もいるし、金がある人も、ない人もいる。
だがそうではなく、平等な原初状態で集まっているとしてみよう、とロールズは説く。
その平等を保障するのが、無知のベールだ。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像してみてほしい。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康であるか、そうでないかなどを一時的に取り除くか、隠してしまう。その場合にのみ、私たちが合意する原理が正義の原理となるだろう、とロールズは説く。
仮説的契約は、このようにして機能するのだ。
この種の仮説的合意の、道徳的な効力とは何か。現実の合意や現実の社会契約よりも強いのか、それとも弱いのか。その問いに答えるには、現実の契約の道徳的な効力をしっかりと確かめなければならない。
問うべきことは実際には２つある。
その１つは、現実の契約はいかにして私を拘束するか、義務を負わせるか、これが１つめの疑問。
２つ目の疑問は、現実の実生活の契約は、いかにして契約の生み出す条件を正当化するのか、２つ目の疑問についてはロールズとカントは一致している。
現実の契約は、いかにして契約の条件を正当化するのか、という問いに対しては、両者ともに正当化しないと答える。
少なくとも、現実の契約、それ自体では正当化しない。現実の契約は、それだけで十分な道徳的な手段ではない。いかなる現実の契約、または合意においては、合意している内容が公正かどうか、いつでも問うことができる。合意したという事実は、その合意の公正さを保障するものではない。
それは私たちの憲法評議会をみればわかる。評議会は奴隷制の存続を認める憲法を制定した。それは、合意された現実の契約だった。だがそのことは、合意された法のすべてが正義にかなうことを証明はしない。となると、現実の契約の道徳的な効力とは何だろう。
契約は私たちを拘束する範囲において、２つの方法で義務を負わせることなる。わかりやすいように例をあげてみよう。
私たちは契約を結ぶ。営利目的の契約だ。もし君が私にロブスターを１００匹取ってくれば、私は君に１００ドル払うという契約を結ぶ。君は、ロブスターを捕まえて持ってくる。私はロブスターを食べ、友達にもごちそうするが支払わない。
君は「あなたには支払う義務がある」と言うが、
私は「なぜだ？」という。
君は言う「私たちは取引をした。あなたは利益を得た。ロブスターを全部食べたじゃないか」
これはとても強力な主張だ。私が君の労働から利益を得たという事実に基づいた主張ではあるが、このように契約が相互の利益の手段である場合には、契約は私たちを拘束する場合がある。私はロブスターを食べた。だからロブスターを取ってきた君に１００ドルの借りがあるわけだ。
しかしここで２番目の例を見てみよう。
さっきと同じく１００匹のロブスターと１００ドルの契約だが、契約をして２分後、君が漁に出掛ける前に、私は君に電話をかけ直し気が変わったと告げる。となると、私は何の利益も得ず、君もなんの仕事もしていない。つまり相互の交換という要素は何もないわけだ。
この場合はどうだろう。合意したというだけで、私には１００ドル支払う義務があるだろうか。１００ドル支払う義務があると思う人は？なぜかな？よし君！なぜ支払う義務がある？２分後に電話したから、まだ君は何もしていないのに。
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学生Ａ：契約を作成するのに、僕は時間と労力を費やしたし、それに僕には仕事をするという情緒的な期待もあるからです。
契約の作成に時間がかかった？いや、我々は電話でやりとりしただけだ。
学生Ａ：でもそれだけ正式な契約にはなりません。
では、FAXだ１分で済んだ。（会場笑い）
学生Ａ：何らかの労力が費やされた限り、契約は有効で効力が生じると思います。
でもなぜ、なぜそれが、私に道徳的な義務を負わせることができるのかな？同意したことは認めるが、君は何の仕事もしていないし、私は何の利益も得ていない。
学生Ａ：ロブスターを捕まえる作業を、心の中でやり終えたかもしれないからです。
ロブスターを捕まえる作業を心の中でやり終えた？でもそのことにそれほどの価値はないだろう。ロブスターを捕まえにいくことを想像したことに１００ドルの価値があるのか？（会場笑い）
学生Ａ：１００ドルでなくとも、ある程度の価値を見出す人がいるかもしれません。
よろしい、１ドルならあげてもいい。しかし面白いことに、君はまだ契約の相互関係的な側面を指摘しているね。君は私のためになることをする、あるいはすると想像している。
学生Ａ：例えば２人が結婚することに合意したとします。その２分後にどちらかが気が変わったと言います。でもこの契約は、双方に義務を負わせるのでは？（会場笑い）どちらもまだ何も支払っていないし、仕事もしてませんし、利益も得ていませんが。
私は何は義務はないと言いたいね。（会場笑い）
学生Ａ：いいでしょう（会場笑い＆拍手）
よろしい、名前は？
学生Ａ：ジュリアン。
ありがとう、ジュリアン。誰か他にジュリアンと同じに、私にはまだ金を支払う義務がある、と考える人はいるかな？ただし他の理由で。君、立って！
学生Ｂ：契約を取り消すと、契約という制度を軽んじることになると気がします。
よろしい、だがなぜだ？
学生Ｂ：これはカント的だと思うのですが、相手が私が契約を履行することを期待して契約を結ぶことには内在的な価値があると思います。
よろしい。自分で義務を引き受けておきながら、取り消せば、契約の本来の趣旨を軽んじることになるだろう、そういうことだね？
学生Ｂ：そうです。
名前は？
学生Ｂ：アダムです。
　
アダムの意見は互いの利益や相互交換ではなく、合意のみに焦点を当てた意見だ。つまり、現実の契約が義務を発生させるには、実際に２つの異なる道があることが分かる。１つ目の方法は、自発的な行為としての同意と関係がある。アダムはこれをカント的な考えだと言ったがアダムは正しい。なぜならそれは、自律という理想を示しているからだ。
私が契約をする時、その義務は私が私に課したものである。そのことは、他の考慮事項とは関係なく、ある種の道徳的な重みを持っているのだ。そして契約の議論に、道徳的な効力を発生させる２つめの方法は、現実の契約は総合的な便益の手段である、ということと関係がある。
これは相互性という理想を示している。つまり、私はあなたに対して義務を負う。なぜかと言うと、あなたが私のために何かをしてくれるからだ。
私たちは今、道徳的な効力と、現実の契約の道徳的な限界を考えているわけだが、ここで、現実の契約の道徳的な限界について論じてみたい。
人と人とが集まって、君がそれをするなら私はこれをしよう、と取り決める時、どんな道徳的な要素が生じるか、もう皆にも分かっていることと思う。
まず、２人が何かを交換することに同意したからと言って、２人が合意した条件が公正であることにはならない、ということについて論じたい。
私の２人の息子たちが小さかったころ、２人は、ベースボールカードを集めては取りかえっこをしていた。上の子と下の子の年齢差は２歳あったから、カードを交換する際には、「私がいいと言わなければ取引は完了しない」というルールを作っていた。（会場笑い）
理由は言うまでもない。上の子はカードの価値について、下の子よりよく知っていたから、下の子の無知に漬け込むだろう。だから、２人の合意が公正であることを確かめるために、私が取引を確認していたわけだ。まぁ父親の干渉主義だね。（会場笑い）
確かにその通りだ。そのためにこそ父親への干渉主義があるのだ。
このことは何を示しているか。それは合意したからといって、合意条件が公正であることにはならないということだ。何年か前に読んだシカゴの新聞記事を紹介しよう。
ローズと言う夫と死に別れた８４歳の女性が、トイレの水漏れで困っていた。ローズはトイレの修理を頼んだのだが、悪徳業者と契約を結んでしまった。そして、修理代は５万ドルという契約にサインをしてしまった。ローズが同意してしまったのは事実だ。彼女は正常な精神状態にあったが、おそろしく世間知らずで、配管工事の値段の相場を知らなかったのだ。幸運なことに、この契約は発覚した。銀行に行き、２万５千ドルを引き出そうとすると、窓口の係が、こんな大金を何に使うのかと訊ねたのだ。ローズは「トイレが水漏れするのよ」と答えた。そこで係が当局へ通報しこの悪徳業者は逮捕された。
さて、この教室にいる最も熱心な契約論者でさえ、ローズが同意したという事実は、同意の条件が公正であるという、十分な条件にはならないということに、賛成してくれると思う。誰か異議がある人は？誰もいないね？私が見逃しているのかな？アレックスどこだい？出ておいで？（会場笑い）では、異論はないね？私の最初の主張。
同意の事実は、義務があることの十分条件ではない、には皆も賛成だね？
では、現実の契約の道徳的な限界についてさらに一歩進んだ、より論議を引き起こす主張をしてみたいと思う。
契約、ないしは、同意したという事実は、義務があることの十分条件でないだけでなく、必要条件でさえない。
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ここでの考え方は、相互性があれば、つまり、便益の交換があれば、同意がなくても義務が発生しうる、というものだ。
これについていい例が１つある。
１８世紀のスコットランドの道徳哲学者デービッド・ヒュームだ。
ヒュームは若かったころ、ロックの原始社会契約の考えに反論する本を書いた。契約論的な考え方にあざけりのことばをあびせ、「社会契約などという考え方は、哲学的なフィクションであり、どう考えても理解できない、神秘的な考え方だ」と述べた。
ところが６２歳になった時、ヒュームは義務が生じる根拠としての同意を認めない自分の考えが、実際に試される経験をした。
ヒュームはエジンバラに家を持っていた。彼はそれを友人に貸し、友人はさらに知人にまた貸ししていた。その知人は家にはペンキの塗り直しが必要だと判断し、塗装業者を雇った。業者は仕事を終え請求書をヒュームに送った。ヒュームは自分は同意していないこと、業者を雇ったのは自分でないことを理由に支払いを拒否。裁判となった。
その業者は、ヒュームは同意していないが、家は塗装が必要で「私はとてもいい仕事をした」と述べた。（会場笑い）
ヒュームは納得しなかった。この業者の唯一の論拠は、その仕事はなされる必要があったということだ。だとすれば業者は、エジンバラ中の家に行って、家主の同意がなくとも業者が考えるところの「なされる必要がある仕事」をしてしまい、あとから、その仕事は必要であり、そのために家はよくなった、という理屈を持ち出せばよいことになってしまう、と考えたからだ。
だからヒュームは、同意していないのに利益に報いる義務が生じうる、という理論が気にいらなかった。しかし、裁判には負け、ヒュームは支払いを余儀なくされた。
もう１つ例をあげよう。
義務の同意に基づいた面と、便益に基づいた面との違いについて考え、その２つの面が一体となるときもあることを考えていこう。
これは私の個人的な経験だが、何年か前、友人たちと一緒に、全国横断ドライブ旅行に出かけた。気がつくと、インディアナ州、ハモンドあたりのどこだかわからないところへ来ていた。私たちは休憩所で止まり、車を降りた。しばらくして戻ると、車は動かなくなっていた。私たちの中に車に詳しい人間は１人もおらず、どうすればいいのか途方にくれていると、駐車場にトラックが入ってきて私たちの隣に止まった。
そのトラックには、サムの移動修理トラックと書かれており、トラックから男が降りてきた。推測するにサムだ。彼は私たちのところにやってきてこう言ってきた。「お手伝いしましょうか？」私は１時間５０ドルで修理を請け負います。もし５分で修理が終わっても５０ドル頂きます。１時間で修理が終わらなくても５０ドルいただきます。
そこで私は、車を直せる確率はどれくらいあるかをたずねた。彼は答えずに、ハンドルの下側をのぞき込み、あちこちいじり始めた。しばらくして、彼は下から這い出し、点火装置には問題ないですが、あと４５分ありますから、ボンネットの中もみましょうかと言った。
私は言った、「ちょっと待て。まだ君を雇ったわけじゃない。まだ何も合意していないじゃないか。」すると彼はとても怒り、「私がハンドルの下を見ているときに、車を直したとしても、支払わないつもりだったのか」と言った。そこで私は「それはまた別の問題だ」と言った。（会場笑い）
しかし私は、同意による義務と利益による義務の違いにまでは踏み込まなかった。彼は自分がハンドルの下を覗いている間に車が直ったら、５０ドルもらうのは当然だ、と考えていた。私も確かにそれはそうだと思う。だから彼は、そこから、私たちは暗黙のうちに合意したと推論した。論理展開上、過ちのある推論だが、それが彼の怒りの背景にある、と私は思う。しかし、それは私に言わせれば、その推論は間違いだ。契約の論拠の２つの面をわかっていない間違いだと思う。もし彼が、私の車をなおしていたら、私は彼に５０ドルを支払う義務があったろう。だが、それは暗黙の契約を結んだからではない。実際は契約を結んでいないのだ。そうではなく、彼は車を直したことで、私に利益を与えたわけだから、相互性と公正さ考えれば、私は彼に支払いの義務を負うのだ。
これが契約の道徳性の２つの面、同意に基づいた義務と、利益に基づいた義務の違いだ。
私のしたことが正しかったと思う人は何人くらいいるかな？（会場大多数）これは心強いね。
では私が間違っているという人は？いるかな？いたよ！それはなぜかな？
学生Ｃ：便益とは、主観によって決定されるものですよね。もし先生が車が壊れることを望んでいたのに、彼がなおしてしまったとしたら。
いや、壊れろとは思っていなかった
学生Ｃ：この場合はね。
誰が壊れろなんて思うんだ。
学生Ｃ：そういう人もいるかもしれません。もしヒュームが、塗装業者に家を青く塗られてしまい、青が嫌いだったらどうでしょう。自分が望む便益が何かを、相手が行動を起こす前に決めなければダメですよね。
君は、そこからどんな結論を導き出そうとしているのかなぁ。同意は義務があることの必要条件だと結論付けようとしているのかな？
学生：そうです。
そうか、名前は？
学生：ネイトです。　
ネイトの意見はこういうことだ。個人個人で異なる主観を評価しないならば、便益の交換が、等価ないし、公正なものだったかどうかどうやって私たちにわかるのだろうか、ということだ。なかなかいいところをを突いている。
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契約の道徳性についての2つの面の関係を試すために、もう1つ別の例を出そう。
結婚して２０年間、私には妻以外の女性はいなかったとしよう。ところが２０年経ってから、毎年恒例の全国旅行の際、妻が他の男と会っていたことが判明した。インディアナ州の移動修理トラックの男だ。（会場笑い）もちろんこれはフィクションだ。（会場笑い）
私の道徳的怒りには、2つの論拠がある。
１つ目は私と妻は互いに貞節（テイセツ）であることという契約をしていたのに、妻がその契約を破ったことだ。これは同意に関わる。
しかし2つ目は、契約とはまったく関係ない怒り、私は操（ミサオ）を守ってきたのにこれではあんまりだ！これが貞節であったことの見返りなのか、と言ったような怒りには、相互性の要素があるように思う。
どちらの理由も独立した道徳的な効力を持っている。それは一般的な点だ。それはこの例のバリエーションを想像してみればわかる。例えば私たちは２０年は結婚していなかったとしよう。私たちは結婚したばかりで、妻の裏切りはインディアナ州、ハモンドへの新婚旅行の際中に起こった。契約が結ばれた後だが、私の側には、まだ何の遂行の歴史もない。（会場笑い）契約の遂行という意味だ。（会場笑い＆拍手）
それでもまだ私は「約束しただろ！」と言えるだろうか。ジュリアンが一緒にいてくれたら、君は「約束した」と言うだろうね。
この例は、たとえ何の便益をまだ得ていなくても、それは関係ない。この考え方はわかるだろう？
中心となる考え方はこうだ。
現実の契約が、道徳的な効力を持つのは、自律と相互性という、２つの区別される理想のおかげである。
しかし、実際の日常における契約では、契約に道徳的な効力を与えるこの２つの理想が欠けていたり、実現しなかったりすることがある。自律の理想は、参加者の交渉能力に差がある場合は、実現しないかもしれない。相互性の理想も、参加者の知識に差がある場合は、実現しないかもしれない。参加者が何と何とが同等の価値を持っているのか、誤って認識してしまうかもしれないからである。
それでは考えてみよう。
自律と相互性の理想が偶発的に作用される、実現されることが保障されている契約とは、どのような契約でなければならないのだろうか。参加者たちの力と知識が平等である場合、また、参加者たちが異なった状況に置かれずに、全員が同一の状況の場合、その時の参加者たちの間の契約を考えてみよう。
これが、ロールズの主張すること。
つまり、正義について考える方法は、無知のベールの背後の仮説的契約という考え方にある、という思想だ。
無知のベールは、平等な状態を作り出す。一時的に参加者の間の力や、知識の差をなかったことにしたり、忘れたりすることにより、不公正な結果が導き出されることを、原理的に阻止するのだ。
これが、カントとロールズが平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だ、と主張する理由だ。
ではその原理とは、どのようなものになるだろうか。それについてはまた次回。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture13「嘘と正義」</p>
<p>自分の理性で創り出した道徳法則を、自らの意思で選び行動に移すことで、義務と自律を両立できる。理性は自分の個人的な利益のため（傾向性・他律）から生じてはいない。理性は普遍的なもので、誰の中にもある。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。「自由の領域」と「必要の領域」、私たちが「すること」「すべきこと」との間には常に隔たりがある。あなたが友達からネクタイをもらったとして、箱を開けてみるとひどい代物だった。何と答えればいいか。嘘をつくか、嘘も方便だ。おそらくカントは嘘も方便には賛成しないだろう。しかし、誤解を招くような真実を言うことについては賛成できるかもしれない。「こんなネクタイ見たことないよ！ありがとう」「気を使ってくれなくてもよかったのに、ありがとう」誤解を招くような真実を告げる行為は、欺くことが動機かもしれない。しかし、真実を告げ（嘘はつかず）、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。だからカントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、サンデル教授は言う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れも正当化するものだ。「義務に対して敬意を払う＝すること（自由の領域）」、「相手を傷つけたくない＝すべきこと（必要の領域）」これがカントのいう私たちは理性的な存在であるだけではない、ということだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。あからさまな嘘をつくこともできたが、そうはしなかった。嘘をついても結果はコントロールできない。道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守るだけだ。これがカントの、嘘に対してどんな風に定言命法の考え方を適用するのかだ。この嘘の説明では、どちらの行為も相手を欺くという意味では動機が同じないか、と言う者も大勢いるだろう。この嘘の説明では完全には納得できないかもしれない。しかし、少なくとも、何が道徳的に問題になるのかは明らかにできたのではないだろうか。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/KqzW0eHzDSQ&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/KqzW0eHzDSQ&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture13<br />
<strong>A LESSON IN LYING</strong><br />
Lecture14<br />
<strong>A DEAL IS A DEAL</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:05
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h3><font color="#aa1525">Lecture13「嘘と正義」</font></h3>
<p>前回の講義は、カントの道徳理論を一通り見ていくことからはじめた。<br />
さて、「人倫の形而上学の基礎づけ（カント著作）」で述べられている、カントの道徳理論を理解するには、３つの質問に答えられることが必要だ。義務と自律とはどうやったら両立することができるのか。義務に応えることになる重要な尊厳とはなにか。義務と自律という２つの観念は、一見対立しているように見える。これに対するカントの答えは何か、誰か解説してもらいたい。カントには答えがあるのかどうか。君！</p>
<p>学生Ａ：カントの考えでは、人間が自律的に行動しているといえるのは、義務という名のもとに何かを追求しているときだけ。自分の個人的な利益のためではなく、義務のために何かよい道徳的な行為をしているときだけだからです。</p>
<p>その行為はなぜ、、名前は？<br />
学生Ａ：マットです。<br />
その行為はなぜ義務から生じたといえるのかな？<br />
学生Ａ（マット）：道徳法則を受け入れることを自分で選んでいるからです。強制されたのではなく。</p>
<p>よろしい。義務から生じた行動が、則っている道徳法則は。<br />
学生Ａ：自分が自分で課したものだから。<br />
自分で自分に課したものだから、それが義務と自由を両立可能にする。<br />
学生Ａ（マット）：はい。</p>
<p>よろしい。その通り。それがカントの答えだ。ありがとう。</p>
<p>カントは、私は法に従っているから、私には尊厳がある、とは考えない。<br />
<span id="more-3092"></span><br />
いやむしろ、まさにその法に関しては、私が創作者なのだ。そして私がその法に服している理由は、私がその法を引き受けたから、マットの言葉で言えば、自分で自分に課したものだからだ。私がその法を望んだからなのだ。それがカントにとって、義務に従って行動することと、自由に行動することが、自律という意味において同じであるという理由だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
そこから次の疑問が出てくる。<br />
道徳法則はいくつあるのか、なぜなら、もし尊厳が私が自分で自分に課する法によって統治するされることになるのであれば、私の両親が君の両親と同じであることを保障してくれるものはなにか。これについてカントの答えは？君！</p>
<p>学生Ｂ：道徳法則は主観的な条件には左右されません。個人の間の違いをすべて凌駕するので、普遍的な法であるわけです。つまり、それは究極の法なので世界には１つの法しか存在しません。</p>
<p>そう、その通りだ。名前は？<br />
学生Ｂ：ケリーです。<br />
ケリー、カントの考えでは、私たちが自由に自分の良心から道徳法則を選べば、私たちは唯一の同じ道徳法則にたどり着けることになっている。なぜかというと、それは私、マイケル・サンデルが選んでいるのではなく、ケリーが、ケリー自身で選んでいるわけでもないからだ。それは正確にはどういうことか、選択しているのは誰か、誰が主体、行為者なのか、選んでいるのは誰か。</p>
<p>学生Ｂ（ケリー）：理性？<br />
そう理性。<br />
学生Ｂ（ケリー）：純粋理性です。</p>
<p>純粋理性。純粋理性とは、正確にはどういうことかな？<br />
学生Ｂ（ケリー）：純粋理性とは、さっきも出ましたが、どんな外部条件にも左右されずに、自分自身に適用されるものです。<br />
そう、その通りだ。</p>
<p>望むことをする理性。つまり私が道徳法則を望むときに、私の意思を支配する理性は君が君自身で道徳法則を選ぶ時に働く理性と一致するのだ。だから、それが自律的に行動すること、自分で選択すること、一人一人が自分自身で自律的な存在になろうとすると、その結果として、全員が最終的には同じ道徳法則、つまり定言命法を望むことになるのだ。<br />
ところが、だとすると、大きな難問が１つ残る。マットとケリーが言ったことを、すべてその通りだと受け入れたとしても、定言命法は、どうやったら可能になるのか、道徳性はどうやったら可能になるのか、この問いにカントは、区別することで可能となると言っている。<br />
私たちは、自分の経験を理解する２つの立場を区別する必要がある、という。<br />
これら２つの立場によって、カントが何を意味したのか説明しよう。</p>
<p>経験の対象としての私は、感覚の世界、感性界に属している。そこでは私の行為は自然の法則や原因と結果の規則性によって決まる。しかし、経験の主体としての私は知性によって理解可能な世界、叡智（えいち）界に住んでいる。ここでは自然の法則の支配を受けずに、私には自立の能力がある。つまり私は、自分で自分の与える法によって行動できるのだ。</p>
<p>カントの考えでは、この２番目の立場からのみ、私は自分を自由だとみなすことができる。なぜんら、原因による決定の支配を受けないとうことは自由であると言うことだからだ。もし、私が功利主義者が考えるような、経験主義的存在だった場合、もし私が、苦痛と喜び、餓えと渇きと食欲などの自分の感覚だけに支配される存在だった場合、もしそれが人間性の全てであるとすれば、私たちに自由の能力はない。とカントは論じた。</p>
<p>なぜならこの場合、意思の実行は全て、何らかの対象に向けられた欲望によって条件付けられているからだ。この場合、全ての選択は他律的な選択であり、外部の目的を追求することに支配されている。</p>
<p>我々が自分自身を自由だと考える時、我々は叡智界の一員として、意思の自立性を認識する、とカントは述べた。<br />
これが２つの立場についての考え方だ。</p>
<p>では、どうやったら定言命法は可能になるのか。その理由は、ただ自由という考えが私を叡智界の一員にするからである。カントも認めているが、私たちは理性的な存在であるだけではない。私たちは叡智界、つまり自由の領域だけに住んでいるわけではない。もしそうであるなら、私たちの行為全ては、必ず、常に、意思の自律性と一致するだろう。<br />
しかし同時に2つの領域、自由の領域と、必要の領域という、2つの領域に住んでいるからこそ、常に両方の領域に住んでいるからこそ、私たちが「すること」と「すべきこと」との間には、常に潜在的な隔たりがあるのだ。<br />
｢何々である」と「何々であるべき」の違いがある。この論点を別の方法で説明しよう。</p>
<p>カントはこの説明で『人倫の形而上学の基礎づけ』を締めくくったが、それは道徳性は経験的なものではない、ということだ。この世界で何を見ようが、科学を通して何を発見しようが、道徳的な問題を判断することはできない。道徳性は経験主義的なこの世界から、一定の距離をおいて存在している。それが科学が道徳的な真理を導き出すことができない理由なのだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ではカントの道徳理論を、カントが提起した最も難しい状況で考えてみよう。<br />
人殺しが来たらどうするか？だ。</p>
<p>カントは嘘はいけないという。その理由については話し合ってきたが、嘘をつくことは、定言命法とは相いれないからだ。フランスの哲学者、ベンジャミン・コンスタンは『人倫の形而上学の基礎付け』に対して、論文を書き、嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っている。それが正しいはずがない、と述べた。</p>
<p>もし殺人犯が、君の家に隠れている友達を探して、玄関に現れたら、どうする？<br />
殺人犯から単刀直入に「友達は家にいるのか」と聞かれたら、どうする？</p>
<p>哲学者コンスタンは、そんな場合であっても、道徳的に正しいのは、真実を告げることだと言うのはおかしい、と述べた。コンスタンは、殺人犯は真実を告げられるには値しないと主張した。それに対して、カントはこう答えた。</p>
<p>カントは嘘をつくのは間違っている、という原則を譲らなかった。たとえ家にやってきた殺人犯に対してもだ。そしてそれが間違っている理由は、帰結を考慮に入れ始めると、定言命法に例外を設けなければならなくなり、道徳の枠組み全体を諦めることになってしまうからだ、と述べた。そうなれば、帰結主義者か規則行為主義者になってしまう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
しかし、君たちの多く、そしてカントの読者の多くは、この答えに納得できないのではないか、と思う。</p>
<p>この点について私はカントを弁護してみたい。<br />
そして君たちが私の弁護を聞いて納得するかどうかを見てみたい。</p>
<p>私はカントの弁護を、カント自身の道徳性の説明の精神の範囲内で行ってみたい。</p>
<p>さて、殺人犯が君の家の玄関にやってきて「友達はいるか」と聞く。<br />
君は、友達をかくまっている。嘘をつかずに、かつ、友達を売り渡さないで済む方法はあるだろうか。<br />
誰かいいアイデアがある人は？君！</p>
<p>学生Ｃ：私だったら、かくまっている友達と、前もって打ち合わせをしておいて、もし殺人犯が来たら、あなたがここにいるって言っちゃうけど、逃げてねって言っておきます。（会場笑い）<br />
でも選択肢のひとつでしょう？<br />
　<br />
カントがその選択肢を選ぶかな？それはやはり嘘だ。</p>
<p>学生Ｃ：いいえ、友達はまだ家にいます。あとで出て行くけど。　　<br />
ああ、そうか。（会場笑い）よろしい。もう一人聞いてみよう。</p>
<p>学生Ｄ：友達がどこにいるか知らない。と言ったらどうでしょう。<br />
友達はクローゼットから出て行ったかもしれないから、どこにいるかはわからない。<br />
だから知らないと言ってもよいわけだ。君はその瞬間、クローゼットの中を覗いていないわけだから、それは嘘にはならない。<br />
学生Ｄ：そうです。<br />
だから厳密にいえば、真実だ。<br />
学生Ｄ：はい。</p>
<p>だが厳密には、人を欺くような誤解を招く言い方だよね？<br />
学生Ｄ：でも真実です。（会場笑い）<br />
名前は？<br />
学生Ｄ：ジョンです。</p>
<p>ジョン、結構。ジョンはいいところに気がついたかもしれない。ジョン、君は賢く言い逃れるオプションを提示してくれた。それは厳密にいえば真実だ。ここで１つ疑問が生じる。あからさまな嘘と、誤解を招くような言い方で述べられた真実との間に、道徳的な違いは、あるのか、ないのか、という疑問だ。</p>
<p>カントの考え方からすると、嘘と誤解を招くような言い方で述べられた真実の間には、大きな違いがある。それはなぜか。両方とも同じ結果を生むかもしれないのに、なぜ違うのか。</p>
<p>ここで思い出してほしいのは、カントは道徳性の基礎を結果には置かない、ということだ。<br />
カントは道徳性の基礎を、道徳法則の形式的な遵守に置いている。</p>
<p>さて、日常生活の中で、私たちは嘘をついてはいけないというルールに、嘘も方便という例外を設けることがある。たとえば、人の気持ちを傷つけないためにつく嘘は、嘘ではあるが、結果よって正当化されると私たちは考える。</p>
<p>カントは嘘も方便には賛成できないが、誤解を招くような真実には賛成できるかもしれない。たとえば誰からネクタイをもらったとしよう。箱を開けてみるとひどい代物だった。<br />
さて、何て言う？</p>
<p>学生Ｅ：ありがとう。<br />
ありがとう？ありがとうは良い。だが相手は君がそのネクタイをどう思ったか知りたいし、聞いてくるかもしれない。君は嘘も方便だとばかり、すばらしいということもできるが、それはカントの考え方からすれば許されない。なので、誤解をまねくような真実で逃げてみる。</p>
<p>箱を開けて「こんなネクタイ見たことないよ（会場笑い）ありがとう！」</p>
<p>学生Ｆ：「気を使ってくれなくてもよかったのに」<br />
気を使ってくれなくてもよかったのに。それはいい。（会場笑い）</p>
<p>現代の政治指導者で、このテクニックを使った人物を思いつかないか？思いつく？それは誰かな？<br />
クリントンアメリカ元大統領が、モニカ・ルインスキーとの情事を否定するのに、注意深く選んだ言葉を覚えているかな？その否定は、弾劾公聴会で、非常に露骨な討論や議論の対象となった。クリントン元大統領の発言を見てみよう。嘘と、注意深く表現された誤解を招くような真実との区別に、道徳的に重要な何かがあるのだろうか。</p>
<p>（ムービー：ビル・クリントン大統領：１９９８年１月２６日）　<br />
国民の皆さんに言いたい。ルインスキーさんと性的な関係を持ったことはありません。誰にも一度も嘘をつけと言ったことはありません。疑惑は誤りです。</p>
<p>（ムービー：下院司法委員会　弾劾公聴会：１９９８年１２月８日）<br />
下院議員：「その女性とセックスをしたことがない」と嘘をついたでしょう。<br />
弁護士：大統領は嘘をついたとは思っていません。彼は国民に「性的な関係を持っていない」といいました。<br />
あなたが、この答えを納得せず、言い逃れだというのはわかります。しかし彼の定義では、、、。<br />
弁護士：結構、その主張は分りました。</p>
<p>両者のやり取りを聞いたね？当時、君たちはこのやり取りをクリントンを弾劾したい共和党と、彼を擁護しようとする弁護士の間の、杓子定規な重箱の隅を突くようなやり取りだと思ったかもしれない。しかし今は、カントの見方に照らして、嘘と言い逃れ、つまり、真実だけれども誤解を招く主張との間の違いに、道徳的に重要なものがあると思うかな？違いがあると考える人、カントを擁護する人から聞きたい。よし、君の弁護を聞こう。</p>
<p>学生Ｇ：嘘と誤解を招くような真実は同じだという場合、それは帰結主義に基づく議論です。どちらも同じ目的を達成するからです。でも真実を話し、それを人に信じてもらおうとするのと、嘘を話し、それを人に真実だと信じてもらおうとするのとでは、それは道徳的には同じではないと思います。</p>
<p>よろしい。名前は？<br />
学生Ｇ： ダイアナです。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ダイアナの意見では、カントに一理あることになるね。クリントン元大統領を援護する主張だが、その点はどうかな？　君！</p>
<p>学生Ｈ：カントにとっては動機がカギです。自己満足から誰かにほどこしをしたら、カントは道徳的な価値を認めないでしょう。となると、誤解を招くような言い方は、嘘と同じで人を欺くことが目的ですから、動機は同じ、つまり両者は同じです。</p>
<p>よろしい。ではダイアナに聞こう。両者の動機は違うのかな？動機は同じだとする意見に対する君の反論は？どちらも真実を追求しようとする相手を欺こう、欺きたいと思っているわけだが。</p>
<p>学生Ｇ（ダイアナ）：直接の動機は、私を信じるべきだということだと思います。結果的には皆が騙されて、事実を誤認するかも知れませんが、言う側の動機は、自分が真実を言っているのだから皆は信じるべきだということだと思うんです。</p>
<p>助けてあげようか？<br />
学生Ｇ（ダイアナ）：ぜひ。</p>
<p>君とカントを。失礼、君の名前は？（ダイアナの前に発言した学生を指して）<br />
学生Ｈ：ウエズリー。<br />
　<br />
ウエズリーにこう反論したらどうだろう。<br />
嘘をつくケース、誤解を招くような真実を言うケース、この両者のどちらも人を欺くことが動機だとは必ずしも言えない。友達が何処にいるか知らないとか、決して性的な関係を持ってはいない、ということによって、発言者は相手が欺かれることを期待している。相手が欺かれることを期待してはいるが、しかし真実を話しているのは確かであり、その動機は欺くことであったとしても、真実を告げ、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。<br />
カントの答えはきっとこうなると思う。ダイアナ、どうかな？</p>
<p>学生Ｇ（ダイアナ）：はい。<br />
賛成かな？<br />
学生Ｇ（ダイアナ）：はい。<br />
よろしい。</p>
<p>カントならきっと、誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている、と言うのではないかと、私は思う。義務に対して、敬意を払うことは、言い逃れをも正当化するものだ。ダイアナ、賛成かな？よろしい。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。クリントン元大統領はあからさまな嘘をつくこともできたが、そうしなかった。だからカントはきっとこう言うだろう。慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳に対する一種の敬意がある。そして、その敬意はあからさまな嘘には存在しないものだ。ウエズリー、それも動機の一部だ。</p>
<p>確かに私は殺人犯が欺かれてくれることを願っている。殺人犯があきらめてどこかへ行ってくれることを望んでおり、クローゼットの中を覗いて欲しくはない、私はその効果を望んでいるが、しかし、そうコントロールすることはできない。私は結果をコントロールすることはできないのだ。私にできることは、どんなに自分が望む結果が出るように努めても、道徳法則に対する経緯と調和するやり方で見守ることだけなのだ。<br />
ウエズリーが完全に納得してくれたとは思えないが、少なくとも今回の議論ではカントの定言命法の概念ににおいて、何が道徳的に問題になるのかを明らかにできたと思う。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture14「契約は契約だ」</p>
<p>カントの政治理論。カントは契約論者だが、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。憲法制定会議に集まった人々は、異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や知識にも個人差があるだろう。だから、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわない。正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶもので、仮説的契約だ。実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。それを調べるためには、現代の哲学者ジョン・ロールズの論理を考える必要がある。ロールズはカントと同じく功利主義を批判し、正義の原理は仮説的な社会契約から導かれるとした。彼は「無知のベール」という考えで仮説的契約を考える。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だと主張する。その原理については次回考える。ちなみにロールズはハーバード大学の教授であった。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h3><font color="#aa1525">Lecture14「契約は契約だ」</font></h3>
<p>前回の講義では、カントの定言命法について話し合い、カントが嘘に対して、どんなふうに定言命法の考え方を適用するのか考えた。カントの道徳理論を適用した例を、もう1つ見ていきたい。それはカントの政治理論だ。</p>
<p>カントは、正義にかなう法はある種の社会契約から、法はただ発生するのだという。しかしこの契約は、特殊な性質の契約だ。この契約を、特殊なものにしているのは、人々が共に集まって、憲法をどのようなものにしようか考えて生じる現実の契約ではない。カントの指摘によれば、正義を生み出す契約は、カントが理性の理念と呼ぶものなのだ。それは、憲法を制定する会議に集まった現実の人々の間を現実の契約ではない。</p>
<p>なぜそうではないのか。カントはこう論じる。</p>
<p>本物の憲法制定会議に集まった、現実の人々は異なる利益、価値観、目的を持っているだろうし、交渉する能力や、知識にも個人差があるはずだ。ということは、彼らの討議の結果できた法は、必ずしも正義にかなわず、必ずしも権利の原則に従うものでもなく、ただ単に、交渉能力や特殊な利害関係、ある人は他の人よりも法律や政治についてよく知っているかもしれないという事実、それを反映したものになってしまうだろう。そのためカントはこう述べている。</p>
<p>権利の原則を生み出す契約は、単なる理性の理念である。しかしそれは、疑いのない実践的な現実を持っている。それは、すべての立法者に法を起草する際、その法が国全体の統一意思によって生み出されたかのように起草するよう義務付けることができる。</p>
<p>だからカントは契約論者だ。しかしカントは、法の起源や法の正しさを、現実の社会契約に求めることはない。このことは当然ながら、１つの疑問を提起する。仮説的契約、つまり、実際に結ばれていない契約の道徳的な効力とは何だろうか。これが今回、私たちが取り上げるテーマだ。</p>
<p>しかし、それを調べるためにはまず、現代の哲学者、ジョン・ロールズに向かう必要がある。</p>
<p>ジョン・ロールズは、彼の著書『正義論』で、正義の根拠としての仮説的合意の重要性について非常に詳細に解き明かしている。ロールズの正議論は、大体のところで、２つの重要な点でカントの理論に沿っている。カントと同じくロールズも功利主義を批判した。</p>
<p>人間は正義に根ざす不可侵性を持ち、社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできない。正義により守られたその権利は、政治的な交渉や社会の利益の計算に左右されることはない。</p>
<p>ロールズの理論が、カントに従っている２つ目の点は、「正義の原理は、現実の契約ではなく、仮説的な社会契約から導かれるる」という考え方である。ロールズはこれを彼の考案した無知のベールという考え方を使って、非常に詳しく説明している。</p>
<p>私たちが尊重しなければならない、基本的な権利、権利と義務の基本的な枠組みに到達する方法は、次のように想像してみることだ。</p>
<p>それは私たちが、これから団体生活をはじめるにあたって、団体生活の原則を決めようとしているのだが、そこに集まっている人々が、それぞれどんな立場にあるどんな人間かを、私たちは全く知らないという状況だ。これが「無知のベール」という考え方だ。</p>
<p>さて、私たちが今ここにいるように、みんなで集まって、集合的生活をおさえる正義の原理を考え出そうとしたら、どんなことが起こるだろうか。それぞれの人々の異なる利益を反映して、意見や提案の不協和音が起こるだろう。強い人もいれば、弱い人もいるし、金がある人も、ない人もいる。</p>
<p>だがそうではなく、平等な原初状態で集まっているとしてみよう、とロールズは説く。</p>
<p>その平等を保障するのが、無知のベールだ。私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像してみてほしい。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康であるか、そうでないかなどを一時的に取り除くか、隠してしまう。その場合にのみ、私たちが合意する原理が正義の原理となるだろう、とロールズは説く。</p>
<p>仮説的契約は、このようにして機能するのだ。</p>
<p>この種の仮説的合意の、道徳的な効力とは何か。現実の合意や現実の社会契約よりも強いのか、それとも弱いのか。その問いに答えるには、現実の契約の道徳的な効力をしっかりと確かめなければならない。</p>
<p>問うべきことは実際には２つある。</p>
<p>その１つは、現実の契約はいかにして私を拘束するか、義務を負わせるか、これが１つめの疑問。<br />
２つ目の疑問は、現実の実生活の契約は、いかにして契約の生み出す条件を正当化するのか、２つ目の疑問についてはロールズとカントは一致している。</p>
<p>現実の契約は、いかにして契約の条件を正当化するのか、という問いに対しては、両者ともに正当化しないと答える。</p>
<p>少なくとも、現実の契約、それ自体では正当化しない。現実の契約は、それだけで十分な道徳的な手段ではない。いかなる現実の契約、または合意においては、合意している内容が公正かどうか、いつでも問うことができる。合意したという事実は、その合意の公正さを保障するものではない。</p>
<p>それは私たちの憲法評議会をみればわかる。評議会は奴隷制の存続を認める憲法を制定した。それは、合意された現実の契約だった。だがそのことは、合意された法のすべてが正義にかなうことを証明はしない。となると、現実の契約の道徳的な効力とは何だろう。</p>
<p>契約は私たちを拘束する範囲において、２つの方法で義務を負わせることなる。わかりやすいように例をあげてみよう。</p>
<p>私たちは契約を結ぶ。営利目的の契約だ。もし君が私にロブスターを１００匹取ってくれば、私は君に１００ドル払うという契約を結ぶ。君は、ロブスターを捕まえて持ってくる。私はロブスターを食べ、友達にもごちそうするが支払わない。</p>
<p>君は「あなたには支払う義務がある」と言うが、<br />
私は「なぜだ？」という。<br />
君は言う「私たちは取引をした。あなたは利益を得た。ロブスターを全部食べたじゃないか」<br />
これはとても強力な主張だ。私が君の労働から利益を得たという事実に基づいた主張ではあるが、このように契約が相互の利益の手段である場合には、契約は私たちを拘束する場合がある。私はロブスターを食べた。だからロブスターを取ってきた君に１００ドルの借りがあるわけだ。</p>
<p>しかしここで２番目の例を見てみよう。<br />
さっきと同じく１００匹のロブスターと１００ドルの契約だが、契約をして２分後、君が漁に出掛ける前に、私は君に電話をかけ直し気が変わったと告げる。となると、私は何の利益も得ず、君もなんの仕事もしていない。つまり相互の交換という要素は何もないわけだ。</p>
<p>この場合はどうだろう。合意したというだけで、私には１００ドル支払う義務があるだろうか。１００ドル支払う義務があると思う人は？なぜかな？よし君！なぜ支払う義務がある？２分後に電話したから、まだ君は何もしていないのに。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
学生Ａ：契約を作成するのに、僕は時間と労力を費やしたし、それに僕には仕事をするという情緒的な期待もあるからです。<br />
契約の作成に時間がかかった？いや、我々は電話でやりとりしただけだ。<br />
学生Ａ：でもそれだけ正式な契約にはなりません。<br />
では、FAXだ１分で済んだ。（会場笑い）</p>
<p>学生Ａ：何らかの労力が費やされた限り、契約は有効で効力が生じると思います。<br />
でもなぜ、なぜそれが、私に道徳的な義務を負わせることができるのかな？同意したことは認めるが、君は何の仕事もしていないし、私は何の利益も得ていない。</p>
<p>学生Ａ：ロブスターを捕まえる作業を、心の中でやり終えたかもしれないからです。<br />
ロブスターを捕まえる作業を心の中でやり終えた？でもそのことにそれほどの価値はないだろう。ロブスターを捕まえにいくことを想像したことに１００ドルの価値があるのか？（会場笑い）</p>
<p>学生Ａ：１００ドルでなくとも、ある程度の価値を見出す人がいるかもしれません。<br />
よろしい、１ドルならあげてもいい。しかし面白いことに、君はまだ契約の相互関係的な側面を指摘しているね。君は私のためになることをする、あるいはすると想像している。</p>
<p>学生Ａ：例えば２人が結婚することに合意したとします。その２分後にどちらかが気が変わったと言います。でもこの契約は、双方に義務を負わせるのでは？（会場笑い）どちらもまだ何も支払っていないし、仕事もしてませんし、利益も得ていませんが。<br />
私は何は義務はないと言いたいね。（会場笑い）<br />
学生Ａ：いいでしょう（会場笑い＆拍手）</p>
<p>よろしい、名前は？<br />
学生Ａ：ジュリアン。<br />
ありがとう、ジュリアン。誰か他にジュリアンと同じに、私にはまだ金を支払う義務がある、と考える人はいるかな？ただし他の理由で。君、立って！</p>
<p>学生Ｂ：契約を取り消すと、契約という制度を軽んじることになると気がします。<br />
よろしい、だがなぜだ？<br />
学生Ｂ：これはカント的だと思うのですが、相手が私が契約を履行することを期待して契約を結ぶことには内在的な価値があると思います。</p>
<p>よろしい。自分で義務を引き受けておきながら、取り消せば、契約の本来の趣旨を軽んじることになるだろう、そういうことだね？<br />
学生Ｂ：そうです。<br />
名前は？<br />
学生Ｂ：アダムです。<br />
　<br />
アダムの意見は互いの利益や相互交換ではなく、合意のみに焦点を当てた意見だ。つまり、現実の契約が義務を発生させるには、実際に２つの異なる道があることが分かる。１つ目の方法は、自発的な行為としての同意と関係がある。アダムはこれをカント的な考えだと言ったがアダムは正しい。なぜならそれは、自律という理想を示しているからだ。</p>
<p>私が契約をする時、その義務は私が私に課したものである。そのことは、他の考慮事項とは関係なく、ある種の道徳的な重みを持っているのだ。そして契約の議論に、道徳的な効力を発生させる２つめの方法は、現実の契約は総合的な便益の手段である、ということと関係がある。</p>
<p>これは相互性という理想を示している。つまり、私はあなたに対して義務を負う。なぜかと言うと、あなたが私のために何かをしてくれるからだ。</p>
<p>私たちは今、道徳的な効力と、現実の契約の道徳的な限界を考えているわけだが、ここで、現実の契約の道徳的な限界について論じてみたい。</p>
<p>人と人とが集まって、君がそれをするなら私はこれをしよう、と取り決める時、どんな道徳的な要素が生じるか、もう皆にも分かっていることと思う。</p>
<p>まず、２人が何かを交換することに同意したからと言って、２人が合意した条件が公正であることにはならない、ということについて論じたい。</p>
<p>私の２人の息子たちが小さかったころ、２人は、ベースボールカードを集めては取りかえっこをしていた。上の子と下の子の年齢差は２歳あったから、カードを交換する際には、「私がいいと言わなければ取引は完了しない」というルールを作っていた。（会場笑い）</p>
<p>理由は言うまでもない。上の子はカードの価値について、下の子よりよく知っていたから、下の子の無知に漬け込むだろう。だから、２人の合意が公正であることを確かめるために、私が取引を確認していたわけだ。まぁ父親の干渉主義だね。（会場笑い）</p>
<p>確かにその通りだ。そのためにこそ父親への干渉主義があるのだ。<br />
このことは何を示しているか。それは合意したからといって、合意条件が公正であることにはならないということだ。何年か前に読んだシカゴの新聞記事を紹介しよう。</p>
<p>ローズと言う夫と死に別れた８４歳の女性が、トイレの水漏れで困っていた。ローズはトイレの修理を頼んだのだが、悪徳業者と契約を結んでしまった。そして、修理代は５万ドルという契約にサインをしてしまった。ローズが同意してしまったのは事実だ。彼女は正常な精神状態にあったが、おそろしく世間知らずで、配管工事の値段の相場を知らなかったのだ。幸運なことに、この契約は発覚した。銀行に行き、２万５千ドルを引き出そうとすると、窓口の係が、こんな大金を何に使うのかと訊ねたのだ。ローズは「トイレが水漏れするのよ」と答えた。そこで係が当局へ通報しこの悪徳業者は逮捕された。</p>
<p>さて、この教室にいる最も熱心な契約論者でさえ、ローズが同意したという事実は、同意の条件が公正であるという、十分な条件にはならないということに、賛成してくれると思う。誰か異議がある人は？誰もいないね？私が見逃しているのかな？アレックスどこだい？出ておいで？（会場笑い）では、異論はないね？私の最初の主張。</p>
<p>同意の事実は、義務があることの十分条件ではない、には皆も賛成だね？</p>
<p>では、現実の契約の道徳的な限界についてさらに一歩進んだ、より論議を引き起こす主張をしてみたいと思う。</p>
<p>契約、ないしは、同意したという事実は、義務があることの十分条件でないだけでなく、必要条件でさえない。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ここでの考え方は、相互性があれば、つまり、便益の交換があれば、同意がなくても義務が発生しうる、というものだ。</p>
<p>これについていい例が１つある。<br />
１８世紀のスコットランドの道徳哲学者デービッド・ヒュームだ。</p>
<p>ヒュームは若かったころ、ロックの原始社会契約の考えに反論する本を書いた。契約論的な考え方にあざけりのことばをあびせ、「社会契約などという考え方は、哲学的なフィクションであり、どう考えても理解できない、神秘的な考え方だ」と述べた。</p>
<p>ところが６２歳になった時、ヒュームは義務が生じる根拠としての同意を認めない自分の考えが、実際に試される経験をした。</p>
<p>ヒュームはエジンバラに家を持っていた。彼はそれを友人に貸し、友人はさらに知人にまた貸ししていた。その知人は家にはペンキの塗り直しが必要だと判断し、塗装業者を雇った。業者は仕事を終え請求書をヒュームに送った。ヒュームは自分は同意していないこと、業者を雇ったのは自分でないことを理由に支払いを拒否。裁判となった。</p>
<p>その業者は、ヒュームは同意していないが、家は塗装が必要で「私はとてもいい仕事をした」と述べた。（会場笑い）<br />
ヒュームは納得しなかった。この業者の唯一の論拠は、その仕事はなされる必要があったということだ。だとすれば業者は、エジンバラ中の家に行って、家主の同意がなくとも業者が考えるところの「なされる必要がある仕事」をしてしまい、あとから、その仕事は必要であり、そのために家はよくなった、という理屈を持ち出せばよいことになってしまう、と考えたからだ。</p>
<p>だからヒュームは、同意していないのに利益に報いる義務が生じうる、という理論が気にいらなかった。しかし、裁判には負け、ヒュームは支払いを余儀なくされた。</p>
<p>もう１つ例をあげよう。<br />
義務の同意に基づいた面と、便益に基づいた面との違いについて考え、その２つの面が一体となるときもあることを考えていこう。</p>
<p>これは私の個人的な経験だが、何年か前、友人たちと一緒に、全国横断ドライブ旅行に出かけた。気がつくと、インディアナ州、ハモンドあたりのどこだかわからないところへ来ていた。私たちは休憩所で止まり、車を降りた。しばらくして戻ると、車は動かなくなっていた。私たちの中に車に詳しい人間は１人もおらず、どうすればいいのか途方にくれていると、駐車場にトラックが入ってきて私たちの隣に止まった。</p>
<p>そのトラックには、サムの移動修理トラックと書かれており、トラックから男が降りてきた。推測するにサムだ。彼は私たちのところにやってきてこう言ってきた。「お手伝いしましょうか？」私は１時間５０ドルで修理を請け負います。もし５分で修理が終わっても５０ドル頂きます。１時間で修理が終わらなくても５０ドルいただきます。</p>
<p>そこで私は、車を直せる確率はどれくらいあるかをたずねた。彼は答えずに、ハンドルの下側をのぞき込み、あちこちいじり始めた。しばらくして、彼は下から這い出し、点火装置には問題ないですが、あと４５分ありますから、ボンネットの中もみましょうかと言った。</p>
<p>私は言った、「ちょっと待て。まだ君を雇ったわけじゃない。まだ何も合意していないじゃないか。」すると彼はとても怒り、「私がハンドルの下を見ているときに、車を直したとしても、支払わないつもりだったのか」と言った。そこで私は「それはまた別の問題だ」と言った。（会場笑い）</p>
<p>しかし私は、同意による義務と利益による義務の違いにまでは踏み込まなかった。彼は自分がハンドルの下を覗いている間に車が直ったら、５０ドルもらうのは当然だ、と考えていた。私も確かにそれはそうだと思う。だから彼は、そこから、私たちは暗黙のうちに合意したと推論した。論理展開上、過ちのある推論だが、それが彼の怒りの背景にある、と私は思う。しかし、それは私に言わせれば、その推論は間違いだ。契約の論拠の２つの面をわかっていない間違いだと思う。もし彼が、私の車をなおしていたら、私は彼に５０ドルを支払う義務があったろう。だが、それは暗黙の契約を結んだからではない。実際は契約を結んでいないのだ。そうではなく、彼は車を直したことで、私に利益を与えたわけだから、相互性と公正さ考えれば、私は彼に支払いの義務を負うのだ。</p>
<p>これが契約の道徳性の２つの面、同意に基づいた義務と、利益に基づいた義務の違いだ。</p>
<p>私のしたことが正しかったと思う人は何人くらいいるかな？（会場大多数）これは心強いね。<br />
では私が間違っているという人は？いるかな？いたよ！それはなぜかな？</p>
<p>学生Ｃ：便益とは、主観によって決定されるものですよね。もし先生が車が壊れることを望んでいたのに、彼がなおしてしまったとしたら。<br />
いや、壊れろとは思っていなかった<br />
学生Ｃ：この場合はね。<br />
誰が壊れろなんて思うんだ。<br />
学生Ｃ：そういう人もいるかもしれません。もしヒュームが、塗装業者に家を青く塗られてしまい、青が嫌いだったらどうでしょう。自分が望む便益が何かを、相手が行動を起こす前に決めなければダメですよね。</p>
<p>君は、そこからどんな結論を導き出そうとしているのかなぁ。同意は義務があることの必要条件だと結論付けようとしているのかな？<br />
学生：そうです。<br />
そうか、名前は？</p>
<p>学生：ネイトです。　<br />
ネイトの意見はこういうことだ。個人個人で異なる主観を評価しないならば、便益の交換が、等価ないし、公正なものだったかどうかどうやって私たちにわかるのだろうか、ということだ。なかなかいいところをを突いている。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
契約の道徳性についての2つの面の関係を試すために、もう1つ別の例を出そう。<br />
結婚して２０年間、私には妻以外の女性はいなかったとしよう。ところが２０年経ってから、毎年恒例の全国旅行の際、妻が他の男と会っていたことが判明した。インディアナ州の移動修理トラックの男だ。（会場笑い）もちろんこれはフィクションだ。（会場笑い）</p>
<p>私の道徳的怒りには、2つの論拠がある。<br />
１つ目は私と妻は互いに貞節（テイセツ）であることという契約をしていたのに、妻がその契約を破ったことだ。これは同意に関わる。<br />
しかし2つ目は、契約とはまったく関係ない怒り、私は操（ミサオ）を守ってきたのにこれではあんまりだ！これが貞節であったことの見返りなのか、と言ったような怒りには、相互性の要素があるように思う。</p>
<p>どちらの理由も独立した道徳的な効力を持っている。それは一般的な点だ。それはこの例のバリエーションを想像してみればわかる。例えば私たちは２０年は結婚していなかったとしよう。私たちは結婚したばかりで、妻の裏切りはインディアナ州、ハモンドへの新婚旅行の際中に起こった。契約が結ばれた後だが、私の側には、まだ何の遂行の歴史もない。（会場笑い）契約の遂行という意味だ。（会場笑い＆拍手）</p>
<p>それでもまだ私は「約束しただろ！」と言えるだろうか。ジュリアンが一緒にいてくれたら、君は「約束した」と言うだろうね。<br />
この例は、たとえ何の便益をまだ得ていなくても、それは関係ない。この考え方はわかるだろう？</p>
<p>中心となる考え方はこうだ。<br />
現実の契約が、道徳的な効力を持つのは、自律と相互性という、２つの区別される理想のおかげである。</p>
<p>しかし、実際の日常における契約では、契約に道徳的な効力を与えるこの２つの理想が欠けていたり、実現しなかったりすることがある。自律の理想は、参加者の交渉能力に差がある場合は、実現しないかもしれない。相互性の理想も、参加者の知識に差がある場合は、実現しないかもしれない。参加者が何と何とが同等の価値を持っているのか、誤って認識してしまうかもしれないからである。</p>
<p>それでは考えてみよう。<br />
自律と相互性の理想が偶発的に作用される、実現されることが保障されている契約とは、どのような契約でなければならないのだろうか。参加者たちの力と知識が平等である場合、また、参加者たちが異なった状況に置かれずに、全員が同一の状況の場合、その時の参加者たちの間の契約を考えてみよう。</p>
<p>これが、ロールズの主張すること。<br />
つまり、正義について考える方法は、無知のベールの背後の仮説的契約という考え方にある、という思想だ。</p>
<p>無知のベールは、平等な状態を作り出す。一時的に参加者の間の力や、知識の差をなかったことにしたり、忘れたりすることにより、不公正な結果が導き出されることを、原理的に阻止するのだ。</p>
<p>これが、カントとロールズが平等な人々の間の仮説的契約だけが、正義の原理について考える唯一の方法だ、と主張する理由だ。</p>
<p>ではその原理とは、どのようなものになるだろうか。それについてはまた次回。</p>
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		<item>
		<title>JUSTICE 第５回「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
		<link>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3088</link>
		<comments>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3088#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:40:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
		<category><![CDATA[JUSTICE]]></category>

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		<description><![CDATA[Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」
前回、所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う（リバタリアンなら命令できないと言うだろう）。しかし将軍は兵士から１ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。これに対して学生から大きく２つの意見がでた。金持ちが有利であり、不公平だという意見。もう１つは、兵役とはお金を得るための単なる仕事と捉えるべきではなく、愛国心や市民の義務を考えべきであり、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。兵役は市民の義務の１つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。これらの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう、として講義は終了する。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture09
HIRED GUNS
Lecture10
MOTHERHOOD: FOR SALE　



時間：55:10










]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」</p>
<p>前回、所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う（リバタリアンなら命令できないと言うだろう）。しかし将軍は兵士から１ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。これに対して学生から大きく２つの意見がでた。金持ちが有利であり、不公平だという意見。もう１つは、兵役とはお金を得るための単なる仕事と捉えるべきではなく、愛国心や市民の義務を考えべきであり、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。兵役は市民の義務の１つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。これらの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう、として講義は終了する。</p>
<p class="hiroken0">
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<tbody>
<tr>
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<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture09<br />
<strong>HIRED GUNS</strong><br />
Lecture10<br />
<strong>MOTHERHOOD: FOR SALE</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:10
</p>
<hr class="hiroken05" />
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</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0"></p</p>
<h2><font color="#aa1525">Lecture09「暗黙の同意によって生まれた義務と命と公平さ」</font></h2>
<p>前回の講義ではロックの同意による政府、という考えたについて議論をし、その結果いくつか疑問が上がった。<br />
多数派の合意があっても覆せない政府の制限とは何か。それが講義の最後で出た疑問だった。</p>
<p>所有権に関してはロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利がある。<br />
だが、それは同意に基づく課税でなければならない。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。<br />
だが、税金を制定したり徴収したりする時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。<br />
必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。</p>
<p>一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。<br />
課税についてはこれくらいにしておこう。</p>
<p>では生存権はどうなるだろう。政府は国民を徴兵し戦場に送ることはできるのか？<br />
<span id="more-3088"></span><br />
自分を所有するのは自分であるという自己所有権はどうなるのだろうか。<br />
政府は強制力のある法律を制定、施行し、君はイラクに行き、命を危険をさらして戦え、と言えるとなれば、<br />
自己所有権を侵害していることにならないか。<br />
ロックは政府にはそうする権利があると言うだろうか。<br />
答えはイエスだ<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ロックは１３９節でこう述べている。<br />
重要なのは政治的権威あるいは軍事的権威が恣意的に権力を行使しないことだと。そこが重要なのだ</p>
<p>これに関してロックは素晴らしい例をあげている。<br />
将軍はもちろんのこと、軍曹であっても、兵士に対して大砲の前に出ろと命令できるのだ。<br />
たとえ確実に死ぬとわかっていても、どんな絶望的なことであっても軍曹はそう命令できるのだ。<br />
それに兵士が従わなかったり、自分の持ち場を放棄したりすれば、将軍はその兵士に死刑を宣告することができる<br />
しかし、生死を分ける命令を出すことはできても、将軍はこの兵士から１ペニーたりとも取り上げることはできない。</p>
<p>なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。<br />
それは恣意的であり腐敗だ。<br />
だからロックいおいては同意が非常に強力だ。<br />
その同意とは特定の税金や軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意だ。</p>
<p>個人は生命、自由、財産に対する不可譲の権利持っているという事実に基づいて、権力が戦力は制限された政府は成立している。<br />
そして、その政府を統治するのは、同意によってつくられた法なのだ。同意はそれほど重要なのだ。<br />
権力の恣意的行使はあってはならない。それがロックの考え方だ</p>
<p>しかし、ここに同意についての疑問が生じる。<br />
政治的権威や従わなければならない義務をつくりだすのにおいて、<br />
なぜ同意はそこまで強力で同意的な手段なのだろうか。</p>
<p>今日はこの同意に関する問題を検討するために、軍隊の徴兵制、という具体的な事例を取り上げよう。<br />
人間が自分を所有するのは自分だとから考え方から生じる基本的人権を持っているのなら、<br />
政府が市民を徴兵して戦場に行かせるのは基本的人権の侵害だと言う人もいる。反対する人もいる。<br />
反対派はそれは民主的に選ばれた政府の正当な権限であるから市民には従う義務があると言う。</p>
<p>イラクで戦争しているアメリカを例にとってみよう。<br />
報道によれば、軍は必要な数の新兵を補充できずに、非常に苦労しているそうだ。<br />
必要な数を兵士を確保するために、アメリカ政府が実施する可能性のある３つの制作を考えてみよう。</p>
<p>解決策、その１、給与と手当を増やし、十分な数の兵士を集める。<br />
解決策、その２、徴兵制へ移行する。抽選を行い抽選に当たった人は誰であれイラクに行って戦う。<br />
解決策、その３、アウトーシング、外部委託、傭兵を呼ばれるプロの兵士を雇うことだ。<br />
傭兵は世界中にいて兵士としての基準を満たし、戦闘に長けており、相場の報酬を払えば喜んで戦ってくれる。</p>
<p>さて、みんなの意見を聞いてみよう。<br />
給与を増やすのがいいと考える人？（会場大多数）大多数だね。<br />
徴兵制に賛成の人は？（会場１０人くらい）徴兵制に賛成する人は１０人くらいしかいないね。<br />
では外部委託が良いと思う人は？（会場３０人くらい）２、３０人というところかな。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
南北戦争の間、北軍は兵士を補充するのに、徴兵制と市場システムとは組み合わせた方法を採用していた。<br />
まずは徴兵によって兵士を取るが、しかし徴収されても軍隊へ行きたくなければ自分の替わりに誰かを雇うことが認められていた。</p>
<p>多くの人が替わりを雇った。替わりを雇うために何を支払っても良かった。<br />
人々は新聞の求人欄に広告を載せ、自分の替わりに南北戦争に行ってくれれば、<br />
５００ドル、１０００ドルをつけた。<br />
後に鋼鉄王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーは自分の替わりに南北戦争に行ってくれる人間を<br />
彼が葉巻に１年で費やす額より少ない額で雇った、と伝えられている。</p>
<p>さて、南北戦争のシステムについて意見を聞きたい。<br />
基本は徴兵制だが、買収条件付きのハイブリッドシステム、とでも呼ぼうか。</p>
<p>これが公平だと思う人？南北戦争のシステムに賛成する人は？誰もいない？１人だけ？<br />
２、３、４、、、５人。<br />
不公平だという人は？（会場大多数）</p>
<p>君たちのほとんどは南北戦争のシステムが気に入れず、不公平だと考えている。<br />
なぜ気に入らないのか、どこが悪いのか？君！</p>
<p>学生Ａ：１回兵役を免除されるのに、３００ドル払おうということは人間の命に値段をつけているのと同じです。<br />
これまでの講義ではっきりさせた通り、人間の命に値段はつけられないのですから、おかしいと思います。</p>
<p>ということは、３００ドルだろうが、５００ドルだろうが、１０００ドルだろうが、、、、</p>
<p>学生Ａ：それが君の命の価値だ、と言っていることになります。</p>
<p>つまり、命に値段をつけていることになる、とうことだね、君の名前は？<br />
学生Ａ：リズ。</p>
<p>リズに反論がある人は？<br />
君は南北戦争のシステムに賛成だったね。</p>
<p>学生Ｂ：その値段が嫌なら、その人には自分を売らない、雇われない自由があります。<br />
その人次第なんですから、命に値段をつけることになるとは思いません。<br />
自分の意思でその人の替わりに戦争に行くと決めたなら、それは必ずしも間違っているとは思いません。</p>
<p>では、５００ドルを受け取った人は、自分で自分の命に、あるいは自分の命をかけるリスクに値段をつけていることになるわけだから、、<br />
学生Ｂ：そうです。<br />
その人の自由だと言うわけだね。<br />
学生Ｂ：はい。<br />
名前は？<br />
学生Ｂ：ジェイソン。<br />
ジェイソンありがとう。</p>
<p>次は南北戦争のシステムに反対の意見を聞いてみよう。君！</p>
<p>学生Ｃ：所得が低い人にとっては、これは一種の強制です。<br />
カーネギーは招集を無視できます。３００ドルは彼の収入からすれば何でもありません。<br />
そうだねぇ。<br />
学生Ｃ：低所得の人は招集されたら基本、戦場に行かなければなりません。替わりを見つけることができないでしょうから。<br />
君の名前は？<br />
学生Ｃ：サム。<br />
サム、では君は貧しい労働者が３００ドルをもらって、替わりに戦場を引き受けた場合、経済状況から考えて、実際には強制的に徴兵されたのと同じことだ、<br />
というわけだね。一方カーネギーは金があるから兵役につかずにすむ。よろしい。<br />
では、次にサムの今の意見に反論する意見を聞きたい。<br />
一見、自由な交換のように見えるが実際は強制だ、というサムの意見に反論がある人は？君！</p>
<p>学生Ｄ：僕もサムに賛成です。<br />
賛成？<br />
学生Ｄ：個人から正しく判断するという能力を奪っているという点では強制だと思います。<br />
あぁ、君の名前は？<br />
学生Ｄ：ラウル。<br />
ラウルとサムは一見、自由な交換、自由な選択、自発的な行為にみえるけれども、実際では強制であるという点では一致している。<br />
学生Ｄ（ラウル）：最悪のタイプの強制です。強制される層が社会の一部に偏っているからです。</p>
<p>よし、ラウルとサムの意見には説得力がある。誰かサムとラウルに意見のある人は？君！</p>
<p>学生Ｅ：私は強制的な徴兵でも、自分から志願して軍に入るのも、実情変わらないんじゃないかと思います。<br />
軍に入れば収入を得ることができるというのは、人々を軍に入らせるための強制的な戦略です。<br />
軍の志願者は低所得者層やさらにはイラクで戦うために、軍に志願するのは正しいことだという愛国的価値観が色濃い地域の出身者に偏っているのが現実です。</p>
<p>名前は？<br />
学生Ｅ：エミリー<br />
よし、エミリーは、、、ラウル、次は君だから準備しておくように。<br />
エミリーは南北戦争のシステム、つまり貧しい労働者が５００ドルでカーネギーの替わりに戦争に行くのを引き受ける。<br />
というようなシステムには強制的な要素があることを認めている。<br />
その上で南北戦争のシステムに問題があるのなら、現在の志願制の軍隊にも問題があるだろうという主張だ。</p>
<p>ところで君（学生のラウル）は、最初の３つのうちの選択肢のうち、志願制の軍を支持したのかな？<br />
学生Ｄ（ラウル）：手はあげていません。<br />
手はあげていない？（会場笑い）<br />
学生Ｄ（ラウル）：はい<br />
手をあげなかったのは隣の人に君の票を売ったからか？（会場笑い）、、いやぁ、冗談だ。<br />
じゃあ、意見を聞こうか。</p>
<p>学生Ｄ（ラウル）：今の状況は南北戦争の頃とは違うと思います。今は徴兵制ではなく志願制ですし、<br />
今の軍に志願する人は南北戦争の頃、入隊を強制された人よりも強い愛国心を持って自分自身の選択で志願していると思います。</p>
<p>強制の度合いは低い？<br />
学生Ｄ（ラウル）：低いです。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
アメリカ社会にまだ不平等があり、エミリーが指摘したように軍に入る人々は特定の層に偏っているという事実があってもかな？<br />
１つ実験をしてみよう。自分が兵役についたことがある、あるいは家族が兵役についたことある人はどれくらいいる？<br />
親の世代ではなく、君たち世代で、、、（会場少し手をあげる）<br />
兵役についたことがない人はどれくらいいる？（会場大多数）<br />
エミリー、思った通りだな。<br />
学生Ｅ（エミリー）；はい。<br />
いいだろう、さて、君たちの圧倒的多数は全志願制の軍を支持したが、同時に圧倒的多数が南北戦争のシステムが不公平だと思っている。<br />
サムとラウルは南北戦争のシステムに反対する理由を明確に述べた。<br />
その背景には不平等があり、ゆえに、金をもらって軍に入る選択をするのは、真に自由意思によるものではなく、ある意味では強制なのだ。<br />
エイリーはその理論を発展させて新たな問いを投げかけた。</p>
<p>志願制の軍隊を支持した人は、原則として２者のどこが違うのか、説明できるべきだし、説明しなければならない。<br />
志願制の軍は圧倒的大多数が反対した南北戦争のシステム、つまり、買収条項付きの徴兵制を不変化しただけのものではないのか、<br />
エミリー、君が言いたいのはそういうことだね。<br />
よし、では志願制の軍を支持した人にエミリーが投げかけた問いに答えてもらいたい。答えられる人は？君！</p>
<p>学生Ｆ：南北戦争のシステムには志願制の軍の違いは南北戦争では政府に雇われるのではなく、個人に雇われるということです。<br />
結果としてそれぞれが異なる人に雇われ、異なる額を受け取ります。志願制の場合は全員が政府に雇われ、同じ額を支払われます。<br />
同じサービスに対して同じ金が支払われるわけですから、志願制の軍の方が公平だと思います。</p>
<p>学生Ｅ（エミリー）：公平のことについてですが、志願制のシステムにおいては個人は軍や戦争と全く関係を持たない選択もできます。<br />
つまり、入隊によってもらえるお金も欲しくない、国を守らねばという義務を果たす必要も感じられない。その場合、志願しないのは個人の自由です。<br />
でも、強制的なシステムである徴兵制においては、全員が徴兵制について何らかの決断を下さねばならないわけで、、こちらの方が公平だと思います。<br />
どちらにしろカーネギーは兵役にはつかなかったでしょうけど、志願制では自分は関係ないと言いますが、徴兵制ではある程度まで責任を持たねばならないからです。</p>
<p>エミリー、君はどちらを支持する？　徴兵制かな？</p>
<p>学生Ｅ（エミリー）：難しい質問ですが、徴兵制です。国全体に戦争への責任を感じさせることができるから、少数派の人々だけがイデオロギー的に支持する戦争が起きてしまうよりいいです。</p>
<p>よろしい、反論は？君！</p>
<p>学生Ｇ：志願制の軍と南北戦争の当時の間では根本的な違いがあります。志願制では志願したいという気持ちが先にあって、給与は後からついてきます。一方、南北戦争のシステムでは人々は戦いたいわけではありません。お金をもらえるから戦争へ行くだけなわけです。</p>
<p>志願制の軍の場合、金を超える志願の動機は何だと思う？</p>
<p>学生Ｇ：国を愛する気持ちとか、、、。<br />
愛国心。それじゃあ、、、</p>
<p>学生Ｇ：それと、国を守りたいという願いです。お金もある程度までは動機になるでしょうが、志願制の軍の場合は国を守りたいという気持ちが最初の動機になると思います。<br />
ということは、、、、あ、君の名前は？<br />
学生Ｇ：ジャッキー<br />
ジャッキー、君は金ではなく、愛国心から兵役につくことの方がいいと思うんだね。<br />
学生Ｇ（ジャッキー）：もちろんです。南北戦争の軍のようにお金のために仕方なく軍に入り、戦場に向かった兵士は信念を持って戦いに赴いた兵士より、兵士としての質は落ちるだろうと思いますから。<br />
よろしい、ジャッキーの言う、愛国心についてみんなはどう思う？愛国心は兵役について得られる金よりも崇高な動機なのだろうか。この問いに答えられる人は？君！</p>
<p>学生Ｈ：愛国心は兵士の優秀さとは関係ないと思います。傭兵はアメリカ国旗を振りもしないし、私たちが守るべきだと政府が信じているものを守りたいとも思っていないでしょうが、優秀さにおいては変わらないからです。</p>
<p>君は外部委託派かな？<br />
学生Ｈ：イエッサー（会場笑い）</p>
<p>よし、ではジャッキーの答えを聞こう。名前は？<br />
学生Ｈ：フィリップ<br />
どうかな？ジャッキー？愛国心は無関係だそうだ。<br />
学生Ｇ（ジャッキー）：でも、意欲がある人の方がいい仕事をします。命をかけなければぎりぎりの状況になった時、お金をもらうためだけに入隊した人より、国を愛している人の方が進んで危険に飛び込んでいくんじゃないかと思います。でも傭兵は戦闘スキルは高いでしょうが、国のことなんか気にしないと思います。国がどうなろうが彼らには関係ないわけですから。</p>
<p>しかし、別の側面もある。愛国心の問題だがジャッキーの言うように最も重視するべきは、愛国心だって金ではないとしたら、その議論は軍に入ることで収入を得ることができる、今の軍のシステムを可とするのか、不可とするのか、志願制の軍隊と言うが、考えてみれば、それは誤った呼び方だ、志願制でなく、給与制の軍隊だと呼ぶべきだ。となると、兵役につく主たる動機は金では愛国心であるべきだ、という意見はどうなるだろう。現在の給与制の軍を良しとするのか、それとも徴兵制を良しとするのだろうか。論点を明確にするために、フィリップの外部委託賛成論を足がかりにすると、志願制の軍、すなわち、給与制の軍が最善だということになる。なぜなら、これぐらいの金をもらえる兵役についてもいい、という人々の気持ちと意欲に応じて市場が割り振るからだ。この論理によれば、徴兵制よりも南北戦争のハイブリッド制の方が論理にかなっているし、さらに言えば、志願制の軍の方が論理にかなっている。そして、市場における選択の自由を拡大する考えによれば、傭兵制がもっとも論理にかなっているのではないか。この論理に対し、ノートと言うなら、ジャッキーのように愛国心に意味を見出すのなら、徴兵制に戻るべきではないか。愛国心が市民の義務を意味するのならばだ。</p>
<p>さて、その議論からは少し離れて、同意が市場での交換に応用されるケースについて考えてみよう。</p>
<p>これについての反対意見は２つあった。<br />
兵役を課すのに市場での交換を介してはならない、という反対意見だ。<br />
２つ提出された。<br />
１つはサムとラウルが主張した、強制についての議論だ<br />
２人は市場の原理で兵役を割り振るのは不公平であり、自由な選択とは言えないと主張した。なぜなら、もし社会に深刻な不平等がある場合は金をもらって軍隊に入るのは、入りたいから入るのではなく、経済的機会に恵まれないから軍隊に入るのが最善の選択だ、と考える人がいるかもしれないからだ。そうなれば、そこには強制という要素がある。これが１つめの反対意見だ。<br />
兵役を割り振るのに市場を介することに対しての２つの反対意見は、兵役を給与を得るための単なる仕事を捉えるべきではないということだ。兵役は愛国心と市民の義務と密接に関わっているからだ。こちらの反対意見は、不公平、不平等、強制を理由とする反対意見とは違う。市民の義務が関わることについては、市場によって義務や権利を割り振るべきではない、という意見だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
このように大きく分けて２つの反対意見がある。<br />
この２つの反対意見をどう考えていくべきか。強制、不平等、不公平を反対する１つ目の意見については、社会の背景における不平等が人々が自分の労働を売買する際に、どうのように選択の自由をはばんでいるのか問う必要がある。これが１つ目の問いだ。<br />
２つ目の問い、それは市民の義務、愛国心を考える時、市民としての義務とは何かを問う必要がある、ということだ。兵役は市民の義務の１つなのか、それとも違うのか、私たちの市民としての義務を負わせるものは何か。政治的な義務のよりどころとは何か。それは同意なのか、それとも社会の中で共同生活をする以上、同意がなくても課せられる市民の義務があるのだろうか。<br />
今日、南北戦争のシステムと志願制の軍について議論した中からこれらの問いが提起された。こららの問いに対する答えをこれからの講義では考えていこう。</p>
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<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」</p>
<p>ベビーＭ訴訟問題を考える。代理母の問題だ。ある夫婦は子供を望んでいたが、妻が医学的な危険をおかさずして子をもうけることは不可能だったため、夫婦は不妊治療クリニックを訪れ、代理母と出会う。彼らは、代理母が人工受精をし子供を生み、出産後は夫婦に子供を引き渡すことに同意し契約した。しかし、出産後、代理母は気が変わり子供を手放したくなくなった。そして裁判になった。下級裁判所はこの契約を法的強制力があるとしたが、最高裁判所は法的強制力はないとした。父親に教育権を認め、代理母には面会権を認めた。なぜか。同意に瑕疵（かし・不備）があったとしたのだ。それは代理母は子を生んだ後の、子に対する気持ちを考えられなかったというものだ。代理母に与えられる情報に不備があったということだ。しかし、それだけが原因ではない。同意があろうが、同意に瑕疵があろうが、情報が十分であっただろうが、そういうこととは関係なく、文明社会では金では買えないものがある。最高裁判所はそう考えたのだ。これは子供を売るのと同じである。少なくとも母親の子供に対する権利を売るのと同じである。出産を市場での取引にすることは非人間的な感じがするという意見があるのだ。これは功利主義の議論を思い出させる。命や兵役や出産などを取り扱うことに対して、功利主義が言うように利用や効用だけが唯一の適切な方法なのだろうか。もしそうでないとしたら、これらのものを評価するのに適切な方法をどうやって考え出していけばいいのだろうか。これらの問題については今後の講義で考えていこう、として講義は終了する。</p>
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<h2><font color="#aa1525">Lecture10「同意があれば代理母と子は他人？ここに正義はあるか」</font></h2>
<p>ここからの講義で、みんなに考えてもらい、意見を聞いてみたいのは、人間の生殖、つまり妊娠、出産における市場の役割だ。最近では不妊治療クリニックで、卵子提供者を募集している。ハーバード大学の学生新聞、ハーバードクリムトンにも卵子提供者をつのる広告が載っている。ただし、卵子をくれる人なら誰でもいい人ではない。２、３年前に載った広告を紹介しよう。</p>
<p>この広告は巨額な金銭的享受を提供して、卵子提供者を募集した。条件は知的で、運動神経がよく、身長は１７５センチ以上、SAT（大学進学適正試験）でスコアが１４００以上あることだった。</p>
<p>この広告を出した人物は条件をみたす女性の卵子にいくら払うつもりだったと思う？君たちの予想はいくらかな？１０００ドル？１万５０００ドル？１万ドル？広告をみしてあげよう。５万ドルだ。卵子１個の値段だよ。ただしプレミアムな値段だけどね、これをどう思う？</p>
<p>ハーバードクリムトンや他の大学新聞では、精子提供者を求める広告も載っている。だから、生殖業における市場は男女の機会均等の市場と言える。いや、正確には機会均等とは言えないなぁ。卵子と違って精子は５万ドルの値段はつかない。それでも、精子を売る会社がある。大きな精子バンクだ。その会社はカリフォルニア大学にある列記とした営利企業だ。</p>
<p>この会社の精子採用基準は非常に厳しい。そしてハーバード大学とマサチューセッツ工科大学の間に支店が１つある。スタンフォード大学の近くに支店が１つある。この精子バンクの宣伝資料では精子の出所が一流であることが強調されている。これは精子バンクのウェブサイトに載っていたものだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
報酬については次のようにかかれている。精子提供者になる唯一の理由が、報酬であるべきではないとはいえ<br />
提供するには、それなりの時間と費用がかかることは確かです。（会場笑い）報酬はいくらだと思う？精子提供者は１回につき７５ドルをもらえる。週３回提供すれば、月に９００ドルまでもらえる。定期的にプレゼントも差し上げております、とある。（会場笑い）映画のチケットやギフト券ですが、これは提供者のみなさんが費やして下さった時間と労力に対する御礼です。精子提供者になるには簡単ではない。採用されるのは応募者の５％以下だ。この精子バンクの採用基準はハーバードよりもずっと厳しい。（会場笑い）</p>
<p>ここの社長はこう述べている。理想的な精子提供者は身長１８０センチ、大卒、茶色の目、金髪、エクボがあること。理由は単純でこれが顧客が望んでいる特徴だからです。もし顧客のみなさまが高校中退者の精子をのぞむのであれば、高校中退者の精子を提供します。</p>
<p>では２つの市場、卵子提供の市場と精子提供の市場について考えてみよう。</p>
<p>１つ問題を定期しよう、卵子や精子は金のために売買されるべきか、あるいは売買されるべきではないかという問題だ。これについて考えつつ、もう１つ別のケースも考えていこう。それは市場と人間の生殖、人間の生殖能力にからむ契約についてだ。このケースは営利目的の代理母のケースだ。</p>
<p>何年も前に訴訟に持ち込まれたケースで、ベビーM訴訟と呼ばれている。夫ウィリアムスターンと妻のエリザベスは共働きの夫婦で子供を望んでいた。しかし、２人の子をもうけることは妻が医学的な危険をおかさずしては不可能だった。そこで夫妻は不妊治療クリニックを訪れ、メリーベスホワイトヘッドと出会う。彼女は２９歳の２児の母で清掃作業員の妻であった。彼女は代理母を募集する広告を見て、応募してきたのだ。</p>
<p>彼らは取引をした。彼らが結んだ契約では、夫のウィリアムスタンが代理母となるメリーベスに１万ドル、プラス全経費を支払うことに同意し、メリーベスはウィリアムスターンで人工受精を受け、子供を生み、出産後はスターン夫婦に子供を引き渡すことに同意していた。</p>
<p>皆もその後、事態がどのように展開していったかをご存知であろう。<br />
メリーベスは出産後、気が変わり子供を手放したくなくなった。この事件は結局、ニュージャージー州の法定に持ち込まれた。法律的な問題を脇に置いておき、この事件を道徳的な問題として考えてみよう。</p>
<p>ベビーＭ訴訟においては、契約を守り、契約通りに移行することが正しい、と考える人は？（会場大多数）<br />
では、契約通り移行しないことの方が正しいと思う人は？移行する方が正しいと考える人の方が多いね。<br />
では、契約は守るべきだと言う人、契約は守らなくていいと言う人、どちらの意見も聞いてみよう。多数派の意見を聞きたい。なぜ契約を移行を支持するのか、なぜ移行すべきだと思うのか、その理由を言える人？君！</p>
<p>学生Ａ：この契約には拘束力があります。関係者は全員、行動する前に契約の条件を知っていましたし、これは自発的な同意です。代理母は自分が何をするのかわかっていたし、４人とも知性のある大人です。事前に自分がしようとしていることが何かを知っていて、契約をしたのですから、その約束を最後まで守るのが当然です。<br />
取引は取引だ。<br />
学生Ａ：そうです。<br />
名前は？<br />
学生Ａ：パトリック</p>
<p>パトリックの今の意見が、君たちの多くが契約を守ることを支持する理由かな？そうだね？では契約を守らなくてもいいという人の意見を聞こう、パトリックへの反論はないか？どうかな？君！</p>
<p>学生Ｂ：確かに契約は守るべきです。ただし、関係者全員が全ての情報を知っている時に限ってね。でも、この場合は子供が実際に生まれるまでは母親が子供に対してどういう感情が生まれるか知る方法はありません。だから、母親が全ての情報を知っていたことにはなりません。生まれてくる子はわからず、その子をどんな風に愛するかはわからなかったのです。</p>
<p>そうか、君の名前は？<br />
学生Ｂ：エバンウィルソン<br />
エバンは契約が結ばれた時は代理母が子供に対して自分がどんな風に感じるか知りようがなかった。だから契約移行の強制を支持しないという。</p>
<p>この契約を支持しない人は？君！<br />
学生Ｃ：私も一般的には契約は守られるべきだと思いますが、子供は実の母親に対して不可譲の権利を持っていると思います。なので、母親が望めば、子供を母親から引き放つことはできないと思います。<br />
生物学上的な母親というわけだな。<br />
学生Ｃ：はい。<br />
それはなぜ？あ、名前は？<br />
学生：アナ<br />
アナ、なぜそう思う？</p>
<p>学生（アナ）：自然によってつくられた絆は契約によってつくられたどんな絆より強いと思うからです。<br />
結構、他には？君！</p>
<p>学生Ｄ：私は反対です。子供が生物学上の母親に対し、不可譲の権利を持っているとは思えません。養子縁組や代理母は合法的な取引です。それにこれは個人が自発的に同意したことですから、どこにも強制的な要素はありません。<br />
このケースでは、強制を理由とした反論は成り立たない。<br />
学生Ｄ：そうです。<br />
名前は？<br />
学生Ｄ：キャスリン<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
キャスリン、エバンの意見に対してどう思う？エバンは同意の際に強制はなかったが、適切な情報が欠けていたと主張した。代理母は子供が生まれた感情を知りようがなかった。これについてはどう思う？</p>
<p>学生Ｄ（キャスリン）：代理母の気持ちはここでは関係ないと思います。法律的には彼女の気持ちの変化は何の関係もありません。私が自分の子供を手放して、後からやはり子供を取り返したいと思っても、それはダメです。そもそも代理母自身が決めた取引ですから。<br />
では、パトリックと同意見だね。<br />
学生Ｄ（キャスリン）：はい、取引は取引ですから。<br />
取引は取引だ。結構、君！</p>
<p>学生Ｅ：子が母親に不可譲の権利を持つのか持たないのか、僕はよくわかりませんが、母親は子に権利を持つと思います。また、市場の原理によってしきるべきではない領域があるような気がするんです。代理母というのは、人間を取り扱う領域でありながら、非人間的に感じられますし、正しいこととは思いません。これが僕が反対する主な理由です。<br />
では、何が、、あ、名前は？<br />
学生Ｅ：アンドル</p>
<p>アンドル、では金のために子供に対する権利を売り買いすることのどこが非人間的だと、君は思うのかな？<br />
学生Ｅ（アンドル）：誰かの生物学上の権利を買っているからです。法律で述べられているように自分の子を売ることはできません。自分が生んだ子でも、その子を他人に売ったり、奴隷で売ったりすることは法律で禁じられているはずです。<br />
では、これは幼児売買であると？<br />
学生Ｅ（アンドル）：はい、ある程度までは。他人と契約を結び、同意したとしても母親と子供の間には否定できない絆があります。契約したからと言って、その絆を無視するのは間違いです。</p>
<p>アンドルに反論する？<br />
学生Ｄ（キャスリン）：否定できない絆があると言いますが、ここで養子縁組や代理母に反対する必要はないんじゃないですか？ここでは感情的な変化を指摘しているだけですから。</p>
<p>学生Ｅ（アンドル）：いや、全てを数字で表したり、契約だからで片付けるのは簡単だけれども、気持ちを無視するのは違います。人間なんだから。人間は売った買ったりする対象ではない。</p>
<p>幼児売買というアンドルの意見に対しては？<br />
学生Ｄ（キャスリン）：私は養子縁組や代理母は認められるべきだと思います。私がそうするかどうかという関わりはなく、政府は国民に養子縁組、代理母になる権利を認めるべきです。<br />
しかし、養子縁組はだね、<br />
学生Ｄ（キャスリン）：養子縁組も幼児売買ですか？<br />
そうだね、君は養子をもらう時、値段をつけられるか？アンドルの意見はそういういことだ！<br />
学生Ｄ（キャスリン）：赤ちゃんに値段をつけられるか？いえ、私は、、、。もちろんイエスです。（会場笑い）それは市場の問題です。もちろん適応される程度によりますが、政府がそれを許可すべきかどうかはもっとよく考えないとわかりません。</p>
<p>結構、納得したかな、アンドル？<br />
学生Ｅ（アンドル）：はい、代理母は認められていいと思いますし、代理母になってもいいと思います。でも、１度契約したからと言って、そのことを盾に契約の移行を強制するのは間違っていると思います。</p>
<p>この種の契約を結ぶのは自由だが、裁判所によって強制執行するべきではないと！<br />
学生Ｅ（アンドル）：はい、その通りです。</p>
<p>賛成、反対のどちらでも、意見がある人は？君！<br />
学生Ｆ：ちょっと特殊な立場から意見を言わせて下さい。私の兄は精子バンクに精子を提供して、大金をもらっていました。身長は１８０センチありますが、ブロンドではありません、エクボはあったけど（笑）私は今では伯母です。兄に娘が生まれたからです。兄はオクラホマのレズビアンのカップルに精子を提供し２人から連絡をもらい、娘の写真をみています。でも、兄は娘に絆を感じてはいません。関心はあるようだけど、どんな容姿なのか、何をしているのか、元気なのかぁとか、でも愛情は感じていません。だから、母と子の絆は父と子の絆と比べられないと思います。</p>
<p>実は面白い、名前は？<br />
学生Ｆ：リリア<br />
リリア、今回は営利目的の代理母のケースをみてきた。私たちはそれを幼児売買と比較し、その例えが適切かどうかを検討してきたわけだが、君が今指摘したように、精子販売を比較することもできる。だが、君は精子を売るのと、赤ん坊を売るのと、代理母になることは全く違うと言う。<br />
学生Ｆ（リリア）：全く異なるサービスです。<br />
全く異なるサービス、それは絆が違うから。</p>
<p>学生Ｆ（リリア）：はい。母親が妊娠に費やす時間は１０ヶ月ですが、精子バンクによってポルノを見ながら紙コップに入れるだけですから、全然違います。<br />
結構。<br />
学生Ｆ（リリア）：それは精子バンクの実情ですから。（会場笑い）</p>
<p>実におもしろい、これまでのところ、このような議論がでてきた。</p>
<p>代理母に契約の移行を強制することへの反対理由には、少なくとも種類が２つある。<br />
まずは同意に瑕疵（カシ・一般的に備わっていて当然の機能が備わっていないこと）があったという反対意見だ、ただし今回は強制、もしくは暗黙の強制が原因ではなく、情報が完全ではなかったり、不備だったりしたことが原因で瑕疵が生じている。故に瑕疵のある同意は強制によっても情報の欠如によっても起こり得るわけだ。少なくとも議論ではそう結論された。</p>
<p>代理母に契約移行する強制することに対する２つ目の反対意見は、それが非人間的だから、という理由だ。この訴訟に裁判所が決断を下した時に何と言ったか、まず下級裁判所はこの契約には法的強制力があるとした、さらにその価格は交渉によって合意に至っている。一方が他方を強制したわけではない。交渉力に関してもどちらか一方に関わっていたわけではない。</p>
<p>訴訟はニュージャージー州の最高裁判所に持ち込まれた。最高裁の判決はこの契約には法的強制力はないだ。裁判所は父親としての養育権をスターン氏に認めた。それが子供にとって最善だと考えたからだ。しかしメリーベスの権利を保全し、子供との面会権が具体的にどうあるべきかは下級裁判所の判断に委ねた。裁判所があげた２つの理由はアンドルの意見とほぼ同じだ。</p>
<p>第１に十分なインフォームドコンセント、正しい情報を得た上での同意がなかった、と裁判所は述べた。母親は子供との絆の強さを知る前に変更不可な約束をさせられている。彼女は完全な情報を与えられた上で決断したのではない。なぜなら赤ん坊が生まれる前には、最も重要な意味において情報は与えられていないからである。</p>
<p>裁判所はまた、人間の商品化のくみしない２つ目の反対意見に未体験を述べた。</p>
<p>これは子供を売るのと同じである。少なくとも母親の子供に対する権利を売るのと同じである。参加者の動機となったものがどのような理想主義であれ、利益を得るという動機が優位となり、最終的にはこの取引を支配している。</p>
<p>つまり、同意があろうが、同意に瑕疵があろうが、情報が十分であっただろうが、そういうこととは関係なく、文明社会では金では買えないものがある。裁判所はそう述べて、契約を無効にしたわけだ。では、出産と生殖の領域への市場拡大に反対する、これら２つの意見について考えていこう。</p>
<p>どの制度まで説得力があるだろうか。ウイリアムスターンとメリーベスの間に契約が結ばれたのは確かだ。しかし、その同意が真に自由にならない場合が２つある。</p>
<p>１つは合意するよう強制されたり、圧力をかけられたりした場合。<br />
もう１つは十分な情報を与えられていなかった場合。</p>
<p>裁判所はたとえすでに実の子を生んだ経験であっても、金のために子供を出産して手放すのがどのようなことなのかを知り得ることができないとした。</p>
<p>１つ目の反対意見を評価する意味では、交渉力とか平等な情報をどれくらい自由に自発的に取り交わすべきなのか、考えていかなければならない。これが第１の問題だ。</p>
<p>２つ目の反対意見はどうやって評価していけばいいのか、２つ目の反対意見は捉えどころがなく、より難解だ。アンドルもそう言っていたね。出産を市場での取引にすることは非人間的な感じがする。というのはどういう意味だろうか。</p>
<p>今回のテーマについて私たちがその著作を読んだ哲学者の１人、エリザベス・アンダーソンはアンドルが表現した不安に対して、哲学的な明快さをもたらそうと試みている。</p>
<p>親として子に感じる愛情がどんなものであれ、それを抑圧するよう代理母に求めれば、出産を譲渡できる労働に変えてしまう。なぜなら、出産を妊娠に対する社会の慣行が正しく奨励している目的、すなわち子供の情緒的な絆から切り離してしまうからだ。</p>
<p>アンダーソンが示唆しているのは、ある種のものがオープンに利用したり、そこから利益を得たりすべきではない。ということだ。ある種のものは利用できなくても価値がある。自由に利用できないものをどんな方向で評価し、どう扱ったら良いのか、アンダーソンによれば、方法はたくさんある。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
尊敬、感謝、愛、名誉、畏敬（イケイ・かしこまり敬うこと）、尊厳などだ。利用という価値以外にも評価の方法はたくさんあるし、ある種のものは単に利用の対象とすると、適切に評価できないのだ。アンダーソンのこの主張をどう評価するか、ある意味それは、功利主義についての議論を思い出させる。</p>
<p>利用や効用だけが命や兵役、生殖、出産を取り扱うのに、唯一の適切な方法なのだろうか。もしそうでないなら、これらのものを評価するのに適切な方法をどうやって考え出していけばいいのだろうか。</p>
<p>何年か前、バージニア州の不妊治療専門院、セシル・ジェイコブソンが引き起こしたスキャンダルがあった。彼は外部からの精子の提供を受けず、患者には内緒でただ１人の精子提供者の精子を全患者への受精に使った、それはジェイコブソン自身によるものだった。（会場笑い）少なくとも法定で証言した女性の１人は「生まれた娘が医師によく似ているのにギョっとした」と述べている。（会場笑い）</p>
<p>ジェイコブソン医師が女性たちに事前に説明しなかったことを非難することは可能だ。それは道徳的に関する議論になるだろう。</p>
<p>コラムニストのエイミー・グッドマンはこの事件について次のように書いた。<br />
ジェイコブソン自身は不妊治療ビジネスに個人的な味付けを加えた。しかし、私たちは今では精子提供について再検討するようになってきている。コラムニストは不正とはあなたが何かをするかであって、何を提供するかではない、と結論付けた。</p>
<p>コラムニストのグッドマンや哲学者アンダーソンが言ったこと、そしてここにいるアンドルが非人間的であると、表現したこと、それらは金で買ってはならないものがあるのではないか、という疑問を提示している。単に同意に瑕疵があったからというだけではなく、ある種のものは単なる利用よりも崇高な方法で適切に評価されるべきだからだ。これらの疑問については今後の講義で哲学者たちの助けを借りて検討していくことにしよう。</p>
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		<title>JUSTICE 第３回「課税に正義はあるか」「個人の権利をどこまで認めることが公平か」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:37:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[Lecture05「課税に正義はあるか」
ベンサムの功利主義を弁護するミルだが、その主張には限界があるように思える。そこでもっと強力な原理理論を紹介したい。哲学者ロバート・ノージックたちが主張し、個人の権利を非常に重要だと考えるリバタリアニズム（自由原理主義）だ。彼らはシートベルト着用という自分を守ることを強制するような干渉主義的な法律に反対し、同性愛者間の性的な親密さを禁止するような道徳的な法律に反対し、金持ちから貧しい人に再分配する課税法に反対する。その例としてビルゲイツやマイケルジョーダンをあげる。ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。課税は盗みだ。極端に言えば課税は道徳的に強制労働に等しい。個人の労働に対する独占権を政治団体が部分的に所有していることになるから、奴隷のようなものだ。つまり自分が自分を所有していないことになる。このようなリバタリアニズムの考え方の根本的な原則に自己所有の考え方がある。そしてもし彼らを否定したいなら、この論理展開を論破しなくてはいけない。その疑問を残し講義は終了する。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture05
FREE TO CHOSE
Lecture06
WHO OWNS ME?　



時間：55:08











Lecture05「課税に正義はあるか」
前回までの講義ではベンサムの功利主義への批判に対するジョンスチュワートミルの反論について考えた。ミルは「功利主義」という著書の中で、彼の説を批判する者に対し、功利主義の枠組みの中で、高級な喜びと下級な喜びを区別することは可能だ、とういことを示そうとしている。
私たちはその考えを、アニメ、シンプソンズとシェイクスピアでためしてみた。しかし、ミルの考えに疑問を感じざる負えないような結果が出た。君たちの多くはシンプソンズの方が好きだが、シェイクスピアの方が高級であり、価値のある喜びだと考えた。この結果はミルの主張とは異なる結果だ。ミルは功利主義の第５章で個人の権利と正義が特に重要であることを説明しようとしているが、これについてはどうだろう。
ミルは個人の権利は特に尊重されるべきものであると考えている。実際、正義とは道徳の最も神聖な部分であり、他とは比べようもない拘束の強い部分である、とまで言っている。しかし、ミルの主張のこの部分についても同じ疑問を呈すことができると思う。
なぜ正義は道徳の中でもっとも重要で、他とは比べ物もないほど拘束力が強いのか。

ミルはもし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば長い目でみた時、社会は全体として良い方向へ向かうからだと言う。
本当だろうか。
もし例外を設けて、個人の権利を侵害したところ、人々の暮らしがよくなるようなケースがあったらどうだろう。
だとしたら、人を利用してもかまわないんだろうか。

正義と権利についてのミルの考え方にはさらなる反論が可能だ。
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ミルが言っているように長い目でみれば、功利主義の計算法が正しく機能するとしよう。個人の権利を尊重することで、全員の暮らしがよくなっていくと仮定しよう。
しかし、これが正しい理由だろうか。
それだけが人を尊重する理由なのだろうか。
もし医者が健康診断にきた健康な人から５人の患者を助けるために臓器を摘出したとすれば、長期的にみれば悪い影響が出てくる。いずれは人々にこのことがバレ、健康診断に行くのをやめてしまうからだ。
でも、それが正しい理由なのだろうか。
医者としてどこも悪いところがない健康な人から臓器を摘出しない唯一の理由は、そういうかたちで彼を利用すると長い目で見ればもっと多くの命が失われるからなのだろうか。
それとも、他の理由があるのか。

個人として本能的にその人を尊重しなければならないと思う。感じているからなのだ。その理由が重要なものであるならば、ミルの功利主義ではもはや説明できないのではないか。
ミルの主張に対する、この２つの懸念、反論を十分に検討するためにさらに深く考えてみよう。
高級な喜び、あるいはより価値のある喜びについて考える時、喜びの価値に対して、個人の道徳の基準を示すことのできる理論があるのか。あるとしたら、どのようなものか。
これが質問の１つだ。
正義と権利の問題については厳密には功利主義とは言えない、人間の尊厳や他人の尊重という概念にミルが知らず知らずのうちによりかかっているとするならば、ミルでさえ持っているこの直感について説明できるさらに協力な原理理論があるのではないだろうか。
つまり、他人を尊重する理由、人を利用しない理由は長い目でみれば、効用をしのぐ、というものである。
今日はそういった今日な原理理論の１つを考えていこう。
その原理理論では、個人はより大きな社会の目的のために、もしくは効用を最大化させるために使われる単なる道具ではないとされる。
個人は尊重される価値のある独立した人生を持つ、独立した存在である。
だから強力な原理理論は人々の好みや価値観を足し合わせることによって正義や法律について間違っていると、される。
今日、私たちがとりあげる協力の原理理論は、
リバタリアニズム＝自由原理主義、ないし市場原理主義である。
リバタリアニズムでは、個人の権利を非常に重要に考え、その権利は自由の権利であると考える。私たちは独立した存在であるため、社会が期待する、あるいは考えだすいかなる用途にも利用されてはならない。私たちは独立した個人であるがゆえに、自由という基本的な権利を持っているのだ。だから私たちは自由に選択する権利、自分の望むように人生を生きる権利を持っている。他人が同じようにする権利を尊重することが条件だ。これが基本的な考え方だ。
リバタリアニズムを報じる哲学者の１人、ロバート・ノージックは著書の中で次のように言っている。
個人には権利がある。その権利はあまりにも強く広範囲にわたるため、
国家が行うことがあるのか。あるとすればそれは何か。という疑問を提起する。

リバタリアニズムでは、政府や国家の役割はどう考えているだろうか。ほとんどの近代国家が行っていることで、リバタニアリズムからすれば誤りであり、不当であることは３つある。

１つは干渉主義的な立法だ。
これは人々が自分を守ることを強制する法律だ。例えば、シートベルト着用、オートバイのヘルメット着用など。
リバタリアンはシートベルトをしめるのはいいことかもしれないが、閉めるかどうかは個人に委ねられるべきだと言うのだ。国家や政府には法律によってシートベルトを閉めるよう無理強いすることはできない。それは強制だ。だから、干渉主義的な立法の否定が一番だと言う。

２番目は道徳的な立法の否定だ。
法律の多くは市民の美徳を促進しようとしたり、全体としての社会の道徳的価値観を表現しようとたりしている。リバタリアンはそれも自由に対する権利の侵害だとする。
古典的な例をあげると道徳を推進するという名の元に、同性愛者の間の性的な親密さを禁止する法律がかつては存在した。リバタニアンに言わせれば、他に誰も危害をこうむっておらず、誰の権利も侵害していない。だから国家は美徳の促進、ないしは道徳的な法律という事業からは完全に撤退すべきだ、というのだ。

そして３番目、
リバタニアリズム的な哲学においては、所得や富を、裕福な者から貧しい者に再分配するという目的でつくらた課税法や政策はいかなるものでも認められない。リバタニアンに言わせれば、再分配はある種、強制である。
それは民主主義に限っていうならば、国家、ないしは多数派が成功していて大金を稼いでいる人から盗むのに等しい。ノージックをはじめとするリバタニアンたちは唯一認めている課税とは、社会の全員が必要とする国防、警察、契約や所有権を実行する司法制度を維持するためのもの。それも最小の政府によるもの。それだけだ。
リバタニアリズム的な見方の３番目について、みんなの意見を聞きたい。
賛成の人、反対の人、それからその理由を聞いていきたいが、まずは話を具体的にするために、そして現状の問題が何かを知るために、アメリカの富の分配をみていこう。
アメリカは民主主義が発達する国家の中で、富の分配も最も不平等な社会の１つだ。
さぁ、これは公正だろうか、公正ではないだろうか。リバタニアンは何といっているだろうか。リバタニアンたちは私が今上げた事実だけでは、分配が正しいか正しくないかは知ることができないと言う。
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傾向や分配や結果を見ただけでは、それが公正かそうでないかは判断できない、どのようにしてそうなったか知る必要がある。最終状態や結果だけをみるのではなく、２つの原則を考える必要がある。

彼は１つ目の原則を取得の正義または最小の保有と呼んだ。
この意味は収入を得るための手段を公正に取得したかということだ。つまり最初の保有に正義があったかどうかを知る必要がある。その人たちは土地や工場やものを盗んで、金を稼ぐことに成功したのだろうか。正当に取得したものであるならば、１つ目の原則は満たされたことになる。
２つ目の原則は、その分配が自由な意思決定によるかどうかだ。
人々は市場でものを買い取引をする。みんなも知っている通りリバタニアリズム的な正義の概念は自由市場の正義の概念と一致している。自分が使うものを盗んだのではなく、公正に取得している。個人の自由選択の売買の結果、分配が生じたとしたらその分配は正しい。そうでなければ公正ではない。

では、理論をわかりやすくするために、実際の例を１つあげよう。
アメリカで最も裕福な人、世界一の金持ちは誰か。ビルゲイツだ。その通り。彼だ。（会場笑い）大金持ちにもなれば笑顔にもなるさ。ビルゲイツの資産はどれぐらいか検討がつく人。
（４００億ドル）すごい数字だ。クリントン政権の間、論議を呼んだ、政治資金提供者の問題を覚えているかな。選挙への大口献金者はホワイトハウスにリンカーンベットルームに一晩紹介された。２万５０００ドル以上、寄付したらぁ、、だったと思う。だとしたら、ビルゲイツは今後６万６０００年間、リンカーンベットルームに泊まり続けられることになる。と、計算した人もいた。（会場笑い）
ビルゲイツの時給はいくらか。計算した人もいた。ビルがマイクロソフト社を立ち上げてから、１日１４時間働いたとして仮定して計算した。まぁ打倒な仮定だね。その結果、ビルの報酬のレートは１５０ドル以上になった。これは１時間あたりでも、１分あたりでもない。１秒あたり１５０ドルだった。つまり、ゲイツが会社に行く途中、道に１００ドル札が落ちていることに気付いても立ち止まって拾う価値はない。（会場笑い）ということになる。
君たちのほとんどはこれだけ大金持ちなら、課税してもいい、そして、教育を受けられなかったり、食べるものや、住むところがなかった人たちのニーズを満たすべきだと言うんじゃないかな。彼らの方がずっと困っているだからね。でも、功利主義者だったらどうするか。どのような課税方針をとるだろうか。一瞬にして再分配するんじゃないだろうかな。それだけの金持ちなら、取られてもきっと気付かないくらいの金額であっても最下層の人々を生活や福祉を大きく改善することができるからだ。
しかし、リバタニアニズムにおいては

人々の好みや満足をそのようにただ集計することはできないとされている。人は他人を尊重しなければならない。他人の権利を侵害することなく、取得の正義、移転の正義という２つの原則に従って公正に稼いだ金であれば、その金を取り上げるのは間違っている。それは強制だからだ。
マイケルジョーダンはビルゲイツほど金持ちではないが、かなりの金持ちだ。
マイケルジョーダンをみてみるかい。これが彼だ。
ジョーダンはプレーによる収入が１年で３１００万ドル。
ナイキなどの企業との契約の収入が４７００万ドル。
つまり、年収７８００万ドルということになる。
貧しい人たちに食べ物や住む家や、医療や教育を与えるために、
稼ぎの３分の１を政府に寄付しろとジョーダンに要求することは強制だ。
それは公正ではなく彼の権利を侵害している。
ゆえに再分配は間違っている。
今の議論に賛成の人は？
つまり、貧しい人たちを助けるためであっても、再分配は間違っていると思う人は？
今の理論に反対の人？まず反対の人の意見から聞こう。
再分配に反対するリバタリアンの主張のどこが間違っていると思う？君？
学生Ａ：ジョーダンのような人は社会から一般の人よりは大きな贈り物をもらってるのですから、
再分配によってそれを返すより大きな義務を負っていると思います。
ジョーダンも１日十数時間、洗濯をしている人と同じくらい必死にやっているかもしれませんが、
収入ははるかに多いわけで、それを全てジョーダンが一生懸命やったからだというのは違うと思います。
結構、では、次にリバタニアニズムを擁護する側の意見を聞こう。
貧しい者を助けるために、金持ちに課税するのは間違いだと思う人は？
学生Ｂ：ジョーです。
僕のスケートボードのコレクションは１００個くらいあります。
僕が１００人の社会に住んでいるとして、突然、皆がボードを欲しいと思い、
僕のボードを９９個持っていってしまったとします。
それは公正ではないと思います。
でも、ある種の状況では、そういう不正を見過ごす必要があると思います。
難破した船の少年が殺されたのも、しかたないみたいな。
生死がかかっている場合は、不正を見逃す必要があるでしょうが、
人の所有物や資産をとりあげることは、不正だということを覚えておくべきです。
じゃあ、飢えている人に食べ物を与えるためでも、
ジョーダンに３３％の税率でやはり、間違いであり、盗みであると言うわけだね。
学生（ジョー）：えぇ、不正だし盗みです。
でも、その盗みを見逃す必要もあるかもしれない。
でも、盗みは盗み。
学生（ジョー）：はい。
なぜ、それが盗みになるのかな？
君のボードを取り上げるのと同じになる理由は？
僕の意見では、そしてリバタリアンでは、
正当に稼いだのですから彼のものです。
それを取り上げれば定義によって盗みになります。
今のジョーの意見に反論のある人は？君！
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学生Ｃ：あなたは１００個もスケートボード持っているんだから、
政府が９９個とりあげたとしても、何の問題もないと思います。
そんなにたくさんボードを持っていたって
どうせ、使いきれないんだから、
政府がその１部をとりあげて分け与えても、ちっとも悪くないじゃないですか。
政府が再分配しない社会に住んでいたら
金持ちはどんどん裕福になっていってしまい、
貧しい人はいつまでも貧しいままです。
架空の社会ではなく、現実の社会ではスタート地点ですでに差がついてしまっているわけですから、
一生人より低い賃金で働くことになってしまいます。
ある程度の富の再分配がなければ、底辺に取り残された人々には
機会の平等が与えられなくなる、ということだね。結構。
課税は盗みだという考え、ノージックはその考えをもう１歩進め、
課税は盗みだ。彼はジョーよりもっと厳しい。
盗みは盗みだが、極端な状況では許される。という意見だったね。
腹をすかせた家族を助けるために、パンを盗んだ親は許される。
ジョー、君には自分を何と呼ぶ？
思いやりのある純リバタニアン？（会場笑い）
ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。
言い換えれば、それは労働の果実を取り上げることを意味する。
国家が個人の所得や労働の果実を取り上げる権利を持っているとすると、
それは道徳的に国家が個人の労働の一部を要求する権利を持っている。
と言うに等しい。
ならば、課税は道徳的に強制労働に等しい。
なぜなら強制労働は必然的に個人の余暇や時間、努力を取り上げることになるからだ。
それは課税は個人が働いて稼いだ金を取り上げるのと同じである。
ノージックたち、リバタリアンにとっては再分配にとっての課税は盗みである。
盗みだけではなく、人間の人生と労働のある程度の時間を要求するのに、道徳的に等しい。
だから、課税は道徳的に強制労働に等しい。となる。
国家に個人の労働の果実を要求する権利があるなら、個人の労働そのものに対する権利があることを暗示している。では強制労働とは何か。ロージックが指摘する強制労働とは何だろうか。
それは奴隷制だ。
個人に自分自身の労働に対する独占権がないのだとしたら、
政府、もしくは政治団体が個人の部分的所有者ということになる。
国家が個人の部分的所有者になるとはどういうことか？
それは私が奴隷だ、とういことだ。
自分が自分を所有していないことになる。
この一連の論理展開から明らかになるのは権利に対する
リバタリアンの考え方の根本的な原則だ。
その原則とは何か。
自分を所有するのは自分だという考え方、自己所有の考え方だ。
権利を重要なものだと考えるなら、人間を単に好みの集合体と見なしたくないのなら、
そこから導かれる根本的、道徳的概念は私たちが自分自身の所有者、
持ち主だという考え方だ。それこそが功利主義が破綻した理由だ
人間は他人に属しているのでも、コミュニティに属しているのでもない。自分自身に属しているのだ。
同じ理由で、自分で自分を守ることを強制することをつくったり、
いかに生きるべきか、どのような美徳に従って生きるべきか指図したりする法律をつくることも間違っているし、貧しい人助けるとう大義であっても、裕福な人に課税するのも間違っている。
施しを頼むのはいい。しかし、課税するのは強制労働を課すのと同じことなのだ。
毎週の試合をサボって、ハリケーンカトリーナで住処を失った人々を助けに行って欲しいと頼めるかな。
道徳的にはそれと同じことだ。それでは課していることが大きすぎる。
リタバリアニズムに対する反論もあったね。だが、リタバリアニズムを否定するなら
個人の所得を取り上げるのは、個人の労働をとりあげることと同じであり、
個人の労働をとりあげることを個人を奴隷にするのと同じことだ、という論理展開を論破しなくてはいけない。
リタバリアニズムに反対の立場の人は反論を用意しておくように。
次回はそこからはじめよう。




Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」
学生のリバタリアニズムチームへの４つの反論。第１の反論は『貧しい者はより金を必要としているではないか』→たしかにその通りだが、その議論を考える上でも、前提となる自己所有の原則に矛盾してはいけない。人間には所有権があるのだ、貧しい者を助けるためであっても前提である権利を侵害してはならない。第２の反論は『民主的な議会という同意による課税なのだから強制ではない、奴隷制度ではない』→民主主義には賛成だが、個人の権利は重視すべきだ。自分の権利を通すためにアメリカ人２億８０００人を説得しなければならないといった大変なことをやりとげる必要はないはずだ。第３の反論は『ビルゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから税金を払うことでその借りを返すべきだ』第４の反論は『自己所有という前提がそもそもおかしい。社会の中で生きるなら完全に自己を所有はできないはずだ』リバタリアンは集団の幸福のために人を手段として利用するという功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。リバタニアニズムの哲学者ノージックは自己所有という考え方はイギリスの政治哲学者ジョン・ロックから借りてきた。次回はロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要があるとして講義は終了する。



Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」
これまでリバタニアニズム、自由原理主義、ないし市場原理主義について話をした。ここからもまた、所得の再分配に対して賛成か反対に対して議論したい。だが、その前に小さな政府について一言いっておきたい。リバタニアニズムの経済学者ミルトン・フリードマンは私たちが当たり前にように政府に帰属していると思っている機能の多くは実はそうではないと指摘している。
それらの機能は干渉主義的なものだ。フリードマンは社会保障制度、その１つの例にあげている。
フリードマン曰く、稼げる時に退職後に備えて貯金をすることはいい考えだ、しかし、人々が貯金をしたいかどうかを無視して、収入のうちいくらかを退職後に備えて強制するのは、人間の自由の侵害であり間違っている。もし賭けにでたかったり、今日という日をでっかく生きられれば、退職後はじり貧でもいい、という人がいたら、それはその人の選択である。リスクを負うかどうかはその人が自由に選んでいいのだ、だから、社会保障制度でさえ、ミルトン・フリードマンが主張する小さな政府とは相いれないのである。警察や消防などの集合財は公的に提供されない限りはフリーライダー問題を生み出す。
フリーライダーとは活動に必要なコストを負担せず、利益だけを享受する人のことだ。
しかし、フリーライダーを防ぐこともできる。集合財（公的サービス）としか思えない、情報のようなサービスでさえ、制限する方法があるのだ。
少し前に会員制の消防会社についての記事を読んだ。アーカンソンのセーラム消防会社だ。この消防会社に登録し、年会費を払うと自宅が火事になった場合、火を消しに来てくれる。しかしこの会社は誰の火事でも消してくれるわけではない。会員の家が火事になったら消化してくれる。火事が燃え広がり、会員の家に迫ってきた時も消化してくれる。
新聞の記事は以前この会社に登録していたが、契約を更新していなかった家主の話だった。彼の家が火事になった。消防会社の面々はトラックで到着し、家が燃えるのをただ見ていた。火が燃え広がらないかどうか見ていたのだ。
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消防主任は尋ねられた。いや、正確には主任ではなくCEOだったと思う。消化器を持っているのに、なぜ家が燃えるのを消化しないのか、と尋ねれた。会員の不動産に危険がないことが確認できたら、我々は規則により撤収するしかない、と答えた。全ての火事に対応していたら会員になるメリットはなくなってしまう。
このケースでは家主は火事の現場で契約を更新しようとしたが、会社の代表は拒否した。備えを怠っておきながら、後から保険に入ることはできない。私たちが当然のように政府の提供する公的サービスで思っていることですら、その多くは制限を加えることが可能であり、金を出した人たちだけの独占的なサービスにすることができる。集合財についての疑問とか干渉主義に対するリバタリアンたちの禁止令に関わることだ。
そろそろ再分配についての議論に戻ろう。小さな政府についてのリバタリアニズム的主張の根底にある強制への懸念だ。しかし、強制がなぜいけないのだろうか、リバタリアンの答えはこうだ。
誰かを強制すること、一般的な福祉のために誰かを利用することは間違っている。なぜならば、自分を所有するのは自分であるという根本的事実、自己所有という根本的な道徳的事実を問題とすることになるからだ。
リバタリアンが再分配に反対する論拠は、自分を所有するのは自分だ、という根本的な考えだった。ノージック曰く、もし全体としての社会がビルゲイツやマイケルジョーダンから彼らの富の一部を税金としてとりたてることができるとしたら、社会が行使しているのはビルゲイツやマイケルジョーダンへの共有財産権なのだ。しかし、それは自分を所有するのは自分、という根本的な原則に反している。
さて、リバタニアニズムに対する反論がたくさんでてきた。今日はここにいる皆のリバタリアンたちに反論に答える機会を与えたい。何人かがブログに参加して名乗りをあげてくれていて、リバタニアニズムに対する反対に答え、リバタニアニズムを論証してくれることになっている。リバタニアニズムの考えを擁護し、反論に答える準備をしてきた人は？手をあげて！
君がブログのスター（学生Ａアレックス）か、こっちに来てくれ、ここをリバタリアンが集うコーナーにするからね。他にリバタリアンはいないか？
君の名前は？
学生Ｂ：ジョン・セフィールド。
ジョン・セフィールド、、他には？戦う準備をしてきた勇敢なリバタリアンはいないか？君は？
学生Ｃ：ジュリア・ロトー
ジュリアロトーこっちにきて。リバタニアニズムのチーム結成だ。ジュリア、ジョン、アレックスだ。チームができたところで、講義とウェブサイトにでてきた主な反論を要約しよう。
第１の反論はこれだ。私もそっちに行こう、リバタニアニズムチームと話したい。
第１の反論は『貧しい者はより金を必要としている』というものだ。
これはわかりやすい。その必要の度合いはビルゲイツやマイケルジョーダンより、はるかに高い。
第２の反論は税金を課すのは奴隷制度ではない、少なくとも民主的な社会は税金を課すのは奴隷所有者ではなく、議会だからというものだ。議会は民主的なものであるから、、、、笑っているね、アレックス。反論に答える自信があるからか？統治されている者の同意による課税は強制ではない。
第３の反論はゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから、税金を払うことでその借りを払うというものだ。税金を払うことで、その借りを返すべきだということだ。
１番目の、貧しい者の方がより金を必要としている、に反論してくれる人は？
学生Ｂ（ジョン）：僕が、、ジョンです。
よし、ジョン答えを聞こう、マイク持つよ。
学生Ｂ（ジョン）：貧しい者の方がより金を必要としている、というのはよくわかります。僕だってビルゲイツが１００万ドル、くれたら、いや１０００ドルでもくれたら助かります。でも、富を再分配にメリットがあるからと言って、所有権の侵害を正当化ことにはならないということを理解すべきです。貧しい人の方がより金を必要としている、という議論を考える時でも、人間は自分自身を所有しているという原則と矛盾してはなりません。人間には所有権があります。それがたとえ、いいことであれ、悪いことであれ、一部の人の生存にとって必要なことであれ、それが権利の侵害を正当化するわけではありません。しかし、個人的な慈善事業という道があります。ミルトン・フリードマンがこれを論じています。
ビルゲイツが望めば慈善に金を出すのはいい。
学生Ｂ（ジョン）：はい。
しかし、強制するのは間違っている。
学生Ｂ（ジョン）：そうです。
貧しい人がそれを必要としていても？
学生Ｂ（ジョン）：そうです。
残る２人も賛成かな？ジュリア！
学生Ｃ（ジュリア）：何かを必要としていることと、何かに値するということとは違うと思います。理想の社会だったら全員の必要は満たされているでしょうけど、ここでは私たちが何に値するかのどうかの議論なので、、。
では、貧しい人はマイケルジョーダンから取った税金で助けるに値しないというわけかな？
学生Ｃ（ジュリア）：今までの議論の流れでいけば、値しないと思います。
ジュリア、もう少しそこのところについて聞かせて欲しい。ハリケーンカトリーナの被害者は深刻な状況であり、助けを必要としている。それでも彼らは税金を財入とした連邦政府の支援には値しないのかな？
学生Ｃ（ジュリア）：難しい質問ですね、これは助けを必要しているけれでも、助けには値しないというケースだと思います。でも、命を維持できないレベルに達したら助けは必要です。食べ物や住むところがないとか、、、。
助けが必要なのと、助けに値するとは別物なのかな？
学生Ｃ（ジュリア）：はい。
誰か反論がある人は？君！
学生Ｄ：最初の論点、個人の所有権についてですが、所有権は政府によって制定され施行されています。政府は民主的な政府で、そこには権利を施行する、私たちの代表がいます。こういうルールの下で機能している社会の中に住んでいるのですから課税を通じて資源がどのように再分配されるのかは政府に任せるべきです。それが嫌ならそういう風に機能している社会に住む必要はありません。
結構、君の名前は？
学生Ｄ：ラウル
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ラウルの今の指摘は、まさに第２の反論だね。もし統治される者と同意による課税が強制ではないとしたら、それは正当だということだ。ビルゲイツもマイケルジョーダンもアメリカ市民であり、議会に投票できるし、他の皆と同じように政策に対する自分に信念を投票によって表明できる。これに対する反論は？ジョン！
学生Ｂ（ジョン）：基本的にリバタリアンがこのケースに反論しているのは、下位１０％のために、上位１０％がすることを中間の８０％が決めていることです。
おいおいおいおい、ジョン、過半数だぞ、君は民主主義を信じていないのか？
学生Ｂ（ジョン）：それはそうですが。
民主主義においては過半数が支配するとうのがルールだろう。民主主義は過半数が勝つ。民主主義に反対なのか？
学生Ｂ（ジョン）：いえ、民主主義には賛成です。ちょっと待って、民主主義と衆愚政治とでは同じものではありません。
衆愚政治！！
学生Ｄ（ラウル）：でも、開かれた社会では、君は君の意見を代表を通して主張することができる。もし、統治される者の過半数の同意が君と一致しなくても、君はこの社会に生きることを選んでいるわけだから、過半数が選んだことを受け入れてやっていかなければならないことだ。
結構、アレックス、民主主義についてはどう思う？
学生Ａ（アレックス）：議会の議員１人に対し、僕の票は５０万票の中のたった１票に過ぎないわけだから、それは自分の所有権をどう行使するか、自分で決められるのとは違います。バケツの中の一滴ですから。
主張は通らない？
学生Ａ（アレックス）：そうです。
否決されたら？
学生Ａ（アレックス）：税金を払うか、払わないかを決める権利は僕にはないし、払わないことで刑務所に入れられるか、この国から出て行けと言われます。
しかし、アレックス、民主主義について論じ、ささやかな擁護をさせて欲しい。君は何て言うかな？私たちは言論の自由のある民主的な社会に住んでいる。選挙演説をして、課税するのは間違っていると市民を説得し、過半数をとればいいじゃないか。
学生Ａ（アレックス）：自分の権利を行使するために、２億８０００万人を説得しなければならないとは思いません。そんな大変なことをしなくても、行使できるべきだと思います。
じゃあ、君は民主主義に反対なのか？
学生Ａ（アレックス）：いや、僕は限定された民主主義を支持しています。民主的に決定される事項の範囲を厳しく限定する憲法を持つ民主主義を！
そうか、では、基本的な権利が絡まなければ民主主義は良い、というわけだ。
学生Ａ（アレックス）：はい。
君が演説をしたら、勝てると思うよ。君の主張にもう１つの要素を付け加えさせて欲しい。経済の議論、課税についての議論はちょっと横において置こう。宗教の自由についての個人の権利が焦点になっているとしよう。君は演説で個人の自由の権利を投票にかけるべきではない、とみんなに訴えかけるだろうね。
学生Ａ（アレックス）：その通りです。だからこそ、憲法には旧制条項があり、憲法が大変なものになっている理由です。
つまり、私有財産に対する権利、マイケルジョーダンが自分で稼いだ金は全て自分のものにできる。少なくとも再分配から保護できる権利がある。言論の自由の権利、宗教の自由の権利と同じように、社会の多数派の意向を負かしてでも、守られるべき重要な権利だと言うことだね。
学生Ａ（アレックス）：その通りです。言論の自由の権利があるのは、僕たちが自分を所有する権利があり、意見を行使する権利を持っているからです。
ありがとう。今の民主主義のあり方についての議論に意見がある人は？そこの君！
学生Ｅ：宗教と経済とでは、同じものではないと思います。ビルゲイツがお金を稼ぐことができたのは、社会が経済的にも社会的にも安定しているからです。政府が最も貧しい層１０％を助けなかったら、犯罪を防ぐために警察にもっと税金が必要になるでしょう。必要なものを政府が提供するためにより多くの税金がとられることになってしまうと思います。
君の名前は？
学生Ｅ：アナ
１つ質問だ。なぜ宗教の自由に対する基本的な権利は、アレックスが主張する私有財産の権利とは異なるのかな？その違いは何だと思う？
学生Ｅ（アナ）：なぜなら、社会が安定していなかったら、お金を稼げないし、財産を所有することもできないからです。宗教はもっと個人的なもので家で自分だけで実践します。私が信じる宗教上のことを実践しても隣の人に影響はありません。でも、私が貧しかったら、自暴自棄になって家族を養うために、罪を犯すかもしれず、それは他人に影響を与えますから。
よくわかった、ありがとう。腹をすかした家族を養うために、パンを盗むのは間違っているかな？
学生Ａ（アレックス）：間違っています。
よし、では３人で裁決をしよう。君は間違っていると思うんだね。
学生Ａ（アレックス）：はい。
君は？
学生Ｂ（ジョン）；所有権の侵害であり、間違っています。
家族を養うためでもか。
学生Ｂ（ジョン）；でも、他に方法はあるはずです。盗みを正当化する前に僕を笑うのは待って下さい。（会場笑い）盗みを正当化する前に、僕たちが現に存在するという権利が侵害されたということを考えないと。自己所有権、財産権について、僕たちは存在する権利だと認めたわけですから。
それは盗みだ、となれば所有権は論点ではない。ではなぜ、家族を養うためでも盗んではいけないのか。
学生Ｂ（ジョン）；先生が最初の講義でおっしゃった通り、良い結果がもたらされるからと言って、その行為が正当化されるとは限らないからです。
ジュリア、君の意見は？家族を養うためにパンを盗むこと。子供が死なないように必要な薬を盗むことは許されるか？
学生Ｃ（ジュリア）：私はかまわないと思います。リバタリアニズム的な論点からでさえ、たくさん持っている人から適宜お金をとって貧しい人にお金を与えてもかまわないと思います。でも、パンを盗むことは自分を救うために自分で行動しているわけです。自己所有の考え方から言えば、人は自分で自分を守る権利があるあるはずです。だから、リバタリアニズム的な論点から言っても許されるんじゃないかと思います。
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いい議論だ、さて３番目、成功した裕福な者は社会に借りがある、というものだね。全て自力で成功したわけではない。他の者と共に成功したのだから、彼らは社会に借りがある。それは課税という形で表される。ジュリアこれについてはどうかな？
学生Ｃ（ジュリア）：これについては、私は割り勘な社会はないと思います。そういう人たちが裕福になったのは、社会が高く評価したからです。彼らは社会に対してサービスを提供したから、社会がそれに報いたわけであり、その結果、裕福になったわけですから。
わかりやすくするために、マイケルジョーダンを例にあげてみよう。ジョーダンがリッチになれたのはチームメイトやコーチ、プレイをした人たちに助けられたおかげだとしても、彼らはすでにそのサービスの対価はもらっているというわけだ。
学生Ｃ（ジュリア）：ジョーダンのプレイをみることで、社会は多くの楽しみを得ており、ジョーダンはすでに社会に借りを返していると思います。
いい意見だ、この点について意見がある人は？君！
学生Ｆ：人が社会の中で生きている時、人は自分で自分を所有しているという、前提そのものに問題があると思います。社会の中で暮らすには自己所有権を放棄しないと。たとえば、私は嫌いな人を殺したいと思ったと思います。それは私の自己所有権ですが、社会の一員である以上そうはできません。もし私にお金があったら、人を救えるというのと同じことです。自己所有券には限度があります。なぜなら、社会に暮らしている以上、他の人のことを考えなければいけないからです。
君の名前は？
学生Ｆ：ビクトリア。
君は自己所有の基本的な前提に疑問を感じているわけだ。
学生Ｆ（ビクトリア）：はい、社会の中で生きることを選んだら、完全に自分を所有をできません。周りの人を無視することができないからです。
よろしい、最後のポイントについて、リバタリアンに聞いてみよう。
私たちは自分自信を所有しないのではないか、ということに論拠している。ビルゲイツやマイケルジョーダンが裕福なのは、彼ら自身の努力のみによるものではない。多くのコールの産物であり、ゆえに稼いだ金は全て道徳的に彼らのものにはできない、反論は？アレックス！
学生Ａ（アレックス）：良識があれば、あれだけの富を独り占めできるはずはないと思う人もいるだろうけど、これは道徳性の問題ではありません。ポイントは彼らが今持っているものを手にいれたのは、人々に何らかなサービスを自由交換したからです。
よろしい、じゃあ、今日の議論のことで学んだことをまとめてみよう。その前に、ジョン、アレックス、ジュリアのがんばりに感謝しよう。（会場拍手）
さっき、今日の議論の最後にビクトリアがリバタリアニズムの論理の前提に疑問を投げかけた。私たちは本当は自分で自分を所有していないのではないか？というのだ。再分配に反対するリバタリアニズムに主張しない場合、リバタリアニズムの論理展開に切り込む箇所は論理のもっとも早い段階にありそうだ。それが多くの人が課税とは道徳的に強制動労に等しい、ということに対して意義を唱える理由だ。
しかし、リバタニアニズム的根底にある考えは、中核をなす思想についてはどうだろう。自分が自分を所有するというのは真実なのか。その考え方、なしでやっていけるのか、リバタニアンたちが避けたいことを避けられるのか、避けたいことというのは、正義という名のもとに一部の人が他の人々につくし、あるいは一般的な善のために利用されてしまうような社会をつくりあげてしまうことである。
リバタニアンは人を集団を幸福のために手段として利用する、という功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。それがアレックス、ジョン、ジュリア、そしてロバート・ノージックだ。
自己所有の考え方を疑問視すると、正義論と権利の重要性にはどのような結果がもたらさせるだろうか、私たちは再び功利主義に戻し、個人を全体のために見好し、太った男を橋から突き落とすことになってしまう。
自己所有という考え方はノージックが自力で発展させたものではない。ノージックはそれを哲学者の　ジョンロックから借りてきたのだ。
ジョン・ロックはノージックとリバタリアンたちがよく使う論拠と、非常によく似た理論展開によって、自然状態からの私有財産の対当を説明した。
ジョン・ロック曰く、私たちに労働とまだ所有されていないものがあって、はじめて私有財産が発生するのである。その理由は私たちは自分の労働を所有しているからだ。なぜ自分の労働を所有しているかと言うと、私たちは自分自身を所有しているからだ。だから、自分自身を所有しているというリバタリアニズム的主張の道徳的な力を検証するには、イギリスの政治哲学者ジョン・ロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要がある。それを次回にしよう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture05「課税に正義はあるか」</p>
<p>ベンサムの功利主義を弁護するミルだが、その主張には限界があるように思える。そこでもっと強力な原理理論を紹介したい。哲学者ロバート・ノージックたちが主張し、個人の権利を非常に重要だと考えるリバタリアニズム（自由原理主義）だ。彼らはシートベルト着用という自分を守ることを強制するような干渉主義的な法律に反対し、同性愛者間の性的な親密さを禁止するような道徳的な法律に反対し、金持ちから貧しい人に再分配する課税法に反対する。その例としてビルゲイツやマイケルジョーダンをあげる。ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。課税は盗みだ。極端に言えば課税は道徳的に強制労働に等しい。個人の労働に対する独占権を政治団体が部分的に所有していることになるから、奴隷のようなものだ。つまり自分が自分を所有していないことになる。このようなリバタリアニズムの考え方の根本的な原則に自己所有の考え方がある。そしてもし彼らを否定したいなら、この論理展開を論破しなくてはいけない。その疑問を残し講義は終了する。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Qw4l1w0rkjs&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Qw4l1w0rkjs&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture05<br />
<strong>FREE TO CHOSE</strong><br />
Lecture06<br />
<strong>WHO OWNS ME?</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:08
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture05「課税に正義はあるか」</font></h2>
<p>前回までの講義ではベンサムの功利主義への批判に対するジョンスチュワートミルの反論について考えた。ミルは「功利主義」という著書の中で、彼の説を批判する者に対し、功利主義の枠組みの中で、高級な喜びと下級な喜びを区別することは可能だ、とういことを示そうとしている。</p>
<p>私たちはその考えを、アニメ、シンプソンズとシェイクスピアでためしてみた。しかし、ミルの考えに疑問を感じざる負えないような結果が出た。君たちの多くはシンプソンズの方が好きだが、シェイクスピアの方が高級であり、価値のある喜びだと考えた。この結果はミルの主張とは異なる結果だ。ミルは功利主義の第５章で個人の権利と正義が特に重要であることを説明しようとしているが、これについてはどうだろう。</p>
<p>ミルは個人の権利は特に尊重されるべきものであると考えている。実際、正義とは道徳の最も神聖な部分であり、他とは比べようもない拘束の強い部分である、とまで言っている。しかし、ミルの主張のこの部分についても同じ疑問を呈すことができると思う。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">なぜ正義は道徳の中でもっとも重要で、他とは比べ物もないほど拘束力が強いのか。</font></p>
<p class="hiroken08">
ミルはもし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば長い目でみた時、社会は全体として良い方向へ向かうからだと言う。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">本当だろうか。</font></p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">もし例外を設けて、個人の権利を侵害したところ、人々の暮らしがよくなるようなケースがあったらどうだろう。<br />
だとしたら、人を利用してもかまわないんだろうか。</font><br />
<span id="more-3083"></span><br />
正義と権利についてのミルの考え方にはさらなる<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">反論</font>が可能だ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ミルが言っているように長い目でみれば、功利主義の計算法が正しく機能するとしよう。個人の権利を尊重することで、全員の暮らしがよくなっていくと仮定しよう。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">しかし、これが正しい理由だろうか。</font></p>
<p>それだけが人を尊重する理由なのだろうか。</p>
<p>もし医者が健康診断にきた健康な人から５人の患者を助けるために臓器を摘出したとすれば、長期的にみれば悪い影響が出てくる。いずれは人々にこのことがバレ、健康診断に行くのをやめてしまうからだ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">でも、それが正しい理由なのだろうか。</font></p>
<p>医者としてどこも悪いところがない健康な人から臓器を摘出しない唯一の理由は、そういうかたちで彼を利用すると長い目で見ればもっと多くの命が失われるからなのだろうか。<br />
それとも、他の理由があるのか。</p>
<p class="hiroken08">
個人として本能的にその人を尊重しなければならないと思う。感じているからなのだ。その理由が重要なものであるならば、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">ミルの功利主義ではもはや説明できないのではないか。</font></p>
<p>ミルの主張に対する、この２つの懸念、反論を十分に検討するためにさらに深く考えてみよう。</p>
<p>高級な喜び、あるいはより価値のある喜びについて考える時、喜びの価値に対して、個人の道徳の基準を示すことのできる理論があるのか。あるとしたら、どのようなものか。<br />
これが質問の１つだ。</p>
<p>正義と権利の問題については厳密には功利主義とは言えない、人間の尊厳や他人の尊重という概念にミルが知らず知らずのうちによりかかっているとするならば、ミルでさえ持っているこの直感について説明できるさらに<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">協力な原理理論があるのではないだろうか。</font><br />
つまり、他人を尊重する理由、人を利用しない理由は長い目でみれば、効用をしのぐ、というものである。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">今日はそういった今日な原理理論の１つを考えていこう。</font></p>
<p>その原理理論では、個人はより大きな社会の目的のために、もしくは効用を最大化させるために使われる単なる道具ではないとされる。</p>
<p>個人は尊重される価値のある独立した人生を持つ、独立した存在である。<br />
だから強力な<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">原理理論</font>は人々の好みや価値観を足し合わせることによって正義や法律について間違っていると、される。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">今日、私たちがとりあげる協力の原理理論は、</font></p>
<p class="hiroken10">リバタリアニズム＝自由原理主義、ないし市場原理主義である。<br />
リバタリアニズムでは、個人の権利を非常に重要に考え、その権利は自由の権利であると考える。私たちは独立した存在であるため、社会が期待する、あるいは考えだすいかなる用途にも利用されてはならない。私たちは独立した個人であるがゆえに、自由という基本的な権利を持っているのだ。だから私たちは自由に選択する権利、自分の望むように人生を生きる権利を持っている。他人が同じようにする権利を尊重することが条件だ。<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">これが基本的な考え方だ。</font></p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">リバタリアニズムを報じる哲学者の１人、ロバート・ノージック</font>は著書の中で次のように言っている。<br />
個人には権利がある。その権利はあまりにも強く広範囲にわたるため、<br />
国家が行うことがあるのか。あるとすればそれは何か。という疑問を提起する。</p>
<p class="hiroken08">
リバタリアニズムでは、政府や国家の役割はどう考えているだろうか。ほとんどの近代国家が行っていることで、リバタニアリズムからすれば誤りであり、不当であることは３つある。</p>
<p class="hiroken11">
１つは干渉主義的な立法だ。<br />
これは人々が自分を守ることを強制する法律だ。例えば、シートベルト着用、オートバイのヘルメット着用など。<br />
リバタリアンはシートベルトをしめるのはいいことかもしれないが、閉めるかどうかは個人に委ねられるべきだと言うのだ。国家や政府には法律によってシートベルトを閉めるよう無理強いすることはできない。それは強制だ。だから、干渉主義的な立法の否定が一番だと言う。</p>
<p class="hiroken11">
２番目は道徳的な立法の否定だ。<br />
法律の多くは市民の美徳を促進しようとしたり、全体としての社会の道徳的価値観を表現しようとたりしている。リバタリアンはそれも自由に対する権利の侵害だとする。<br />
古典的な例をあげると道徳を推進するという名の元に、同性愛者の間の性的な親密さを禁止する法律がかつては存在した。リバタニアンに言わせれば、他に誰も危害をこうむっておらず、誰の権利も侵害していない。だから国家は美徳の促進、ないしは道徳的な法律という事業からは完全に撤退すべきだ、というのだ。</p>
<p class="hiroken11">
そして３番目、<br />
リバタニアリズム的な哲学においては、所得や富を、裕福な者から貧しい者に再分配するという目的でつくらた課税法や政策はいかなるものでも認められない。リバタニアンに言わせれば、再分配はある種、強制である。<br />
それは民主主義に限っていうならば、国家、ないしは多数派が成功していて大金を稼いでいる人から盗むのに等しい。ノージックをはじめとするリバタニアンたちは唯一認めている課税とは、社会の全員が必要とする国防、警察、契約や所有権を実行する司法制度を維持するためのもの。それも最小の政府によるもの。それだけだ。</p>
<p>リバタニアリズム的な見方の<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">３番目について</font>、みんなの意見を聞きたい。<br />
賛成の人、反対の人、それからその理由を聞いていきたいが、まずは話を具体的にするために、そして<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">現状の問題が何かを知るために、アメリカの富の分配をみていこう。</font></p>
<p>アメリカは民主主義が発達する国家の中で、富の分配も最も不平等な社会の１つだ。<br />
さぁ、これは公正だろうか、公正ではないだろうか。リバタニアンは何といっているだろうか。リバタニアンたちは私が今上げた事実だけでは、分配が正しいか正しくないかは知ることができないと言う。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
傾向や分配や結果を見ただけでは、それが公正かそうでないかは判断できない、どのようにしてそうなったか知る必要がある。最終状態や結果だけをみるのではなく、<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">２つの原則を考える必要がある。</font></p>
<p class="hiroken08">
彼は１つ目の原則を取得の正義または最小の保有と呼んだ。<br />
この意味は収入を得るための手段を公正に取得したかということだ。つまり最初の保有に正義があったかどうかを知る必要がある。その人たちは土地や工場やものを盗んで、金を稼ぐことに成功したのだろうか。正当に取得したものであるならば、１つ目の原則は満たされたことになる。<br />
２つ目の原則は、その分配が自由な意思決定によるかどうかだ。<br />
人々は市場でものを買い取引をする。みんなも知っている通りリバタニアリズム的な正義の概念は自由市場の正義の概念と一致している。自分が使うものを盗んだのではなく、公正に取得している。個人の自由選択の売買の結果、分配が生じたとしたらその分配は正しい。そうでなければ公正ではない。<br />
</font></p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">では、理論をわかりやすくするために、実際の例を１つあげよう。</font></p>
<p>アメリカで最も裕福な人、世界一の金持ちは誰か。ビルゲイツだ。その通り。彼だ。（会場笑い）大金持ちにもなれば笑顔にもなるさ。ビルゲイツの資産はどれぐらいか検討がつく人。</p>
<p>（４００億ドル）すごい数字だ。クリントン政権の間、論議を呼んだ、政治資金提供者の問題を覚えているかな。選挙への大口献金者はホワイトハウスにリンカーンベットルームに一晩紹介された。２万５０００ドル以上、寄付したらぁ、、だったと思う。だとしたら、ビルゲイツは今後６万６０００年間、リンカーンベットルームに泊まり続けられることになる。と、計算した人もいた。（会場笑い）</p>
<p>ビルゲイツの時給はいくらか。計算した人もいた。ビルがマイクロソフト社を立ち上げてから、１日１４時間働いたとして仮定して計算した。まぁ打倒な仮定だね。その結果、ビルの報酬のレートは１５０ドル以上になった。これは１時間あたりでも、１分あたりでもない。１秒あたり１５０ドルだった。つまり、ゲイツが会社に行く途中、道に１００ドル札が落ちていることに気付いても立ち止まって拾う価値はない。（会場笑い）ということになる。</p>
<p>君たちのほとんどはこれだけ大金持ちなら、課税してもいい、そして、教育を受けられなかったり、食べるものや、住むところがなかった人たちのニーズを満たすべきだと言うんじゃないかな。彼らの方がずっと困っているだからね。<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">でも、功利主義者だったらどうするか。</font>どのような課税方針をとるだろうか。一瞬にして再分配するんじゃないだろうかな。それだけの金持ちなら、取られてもきっと気付かないくらいの金額であっても最下層の人々を生活や福祉を大きく改善することができるからだ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">しかし、リバタニアニズムにおいては</font></p>
<p class="hiroken08">
人々の好みや満足をそのようにただ集計することはできないとされている。人は他人を尊重しなければならない。他人の権利を侵害することなく、取得の正義、移転の正義という２つの原則に従って公正に稼いだ金であれば、その金を取り上げるのは間違っている。それは強制だからだ。</p>
<p>マイケルジョーダンはビルゲイツほど金持ちではないが、かなりの金持ちだ。<br />
マイケルジョーダンをみてみるかい。これが彼だ。</p>
<p>ジョーダンはプレーによる収入が１年で３１００万ドル。<br />
ナイキなどの企業との契約の収入が４７００万ドル。<br />
つまり、年収７８００万ドルということになる。<br />
貧しい人たちに食べ物や住む家や、医療や教育を与えるために、<br />
稼ぎの３分の１を政府に寄付しろとジョーダンに要求することは強制だ。<br />
それは公正ではなく彼の権利を侵害している。<br />
ゆえに再分配は間違っている。</p>
<p>今の議論に賛成の人は？<br />
つまり、貧しい人たちを助けるためであっても、再分配は間違っていると思う人は？<br />
今の理論に反対の人？まず反対の人の意見から聞こう。<br />
再分配に反対するリバタリアンの主張のどこが間違っていると思う？君？</p>
<p>学生Ａ：ジョーダンのような人は社会から一般の人よりは大きな贈り物をもらってるのですから、<br />
再分配によってそれを返すより大きな義務を負っていると思います。<br />
ジョーダンも１日十数時間、洗濯をしている人と同じくらい必死にやっているかもしれませんが、<br />
収入ははるかに多いわけで、それを全てジョーダンが一生懸命やったからだというのは違うと思います。</p>
<p>結構、では、次にリバタニアニズムを擁護する側の意見を聞こう。<br />
貧しい者を助けるために、金持ちに課税するのは間違いだと思う人は？</p>
<p>学生Ｂ：ジョーです。<br />
僕のスケートボードのコレクションは１００個くらいあります。<br />
僕が１００人の社会に住んでいるとして、突然、皆がボードを欲しいと思い、<br />
僕のボードを９９個持っていってしまったとします。<br />
それは公正ではないと思います。<br />
でも、ある種の状況では、そういう不正を見過ごす必要があると思います。<br />
難破した船の少年が殺されたのも、しかたないみたいな。<br />
生死がかかっている場合は、不正を見逃す必要があるでしょうが、<br />
人の所有物や資産をとりあげることは、不正だということを覚えておくべきです。</p>
<p>じゃあ、飢えている人に食べ物を与えるためでも、<br />
ジョーダンに３３％の税率でやはり、間違いであり、盗みであると言うわけだね。</p>
<p>学生（ジョー）：えぇ、不正だし盗みです。<br />
でも、その盗みを見逃す必要もあるかもしれない。</p>
<p>でも、盗みは盗み。</p>
<p>学生（ジョー）：はい。</p>
<p>なぜ、それが盗みになるのかな？<br />
君のボードを取り上げるのと同じになる理由は？</p>
<p>僕の意見では、そしてリバタリアンでは、<br />
正当に稼いだのですから彼のものです。<br />
それを取り上げれば定義によって盗みになります。</p>
<p>今のジョーの意見に反論のある人は？君！<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
学生Ｃ：あなたは１００個もスケートボード持っているんだから、<br />
政府が９９個とりあげたとしても、何の問題もないと思います。<br />
そんなにたくさんボードを持っていたって<br />
どうせ、使いきれないんだから、<br />
政府がその１部をとりあげて分け与えても、ちっとも悪くないじゃないですか。<br />
政府が再分配しない社会に住んでいたら<br />
金持ちはどんどん裕福になっていってしまい、<br />
貧しい人はいつまでも貧しいままです。<br />
架空の社会ではなく、現実の社会ではスタート地点ですでに差がついてしまっているわけですから、<br />
一生人より低い賃金で働くことになってしまいます。</p>
<p>ある程度の富の再分配がなければ、底辺に取り残された人々には<br />
機会の平等が与えられなくなる、ということだね。結構。</p>
<p>課税は盗みだという考え、ノージックはその考えをもう１歩進め、<br />
課税は盗みだ。彼はジョーよりもっと厳しい。<br />
盗みは盗みだが、極端な状況では許される。という意見だったね。<br />
腹をすかせた家族を助けるために、パンを盗んだ親は許される。</p>
<p>ジョー、君には自分を何と呼ぶ？<br />
思いやりのある純リバタニアン？（会場笑い）</p>
<p>ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。<br />
言い換えれば、それは労働の果実を取り上げることを意味する。<br />
国家が個人の所得や労働の果実を取り上げる権利を持っているとすると、<br />
それは道徳的に国家が個人の労働の一部を要求する権利を持っている。<br />
と言うに等しい。<br />
ならば、課税は道徳的に強制労働に等しい。<br />
なぜなら強制労働は必然的に個人の余暇や時間、努力を取り上げることになるからだ。<br />
それは課税は個人が働いて稼いだ金を取り上げるのと同じである。<br />
ノージックたち、リバタリアンにとっては再分配にとっての課税は盗みである。<br />
盗みだけではなく、人間の人生と労働のある程度の時間を要求するのに、道徳的に等しい。<br />
だから、課税は道徳的に強制労働に等しい。となる。<br />
国家に個人の労働の果実を要求する権利があるなら、個人の労働そのものに対する権利があることを暗示している。では強制労働とは何か。ロージックが指摘する強制労働とは何だろうか。<br />
それは奴隷制だ。<br />
個人に自分自身の労働に対する独占権がないのだとしたら、<br />
政府、もしくは政治団体が個人の部分的所有者ということになる。<br />
国家が個人の部分的所有者になるとはどういうことか？<br />
それは私が奴隷だ、とういことだ。<br />
自分が自分を所有していないことになる。<br />
この一連の論理展開から明らかになるのは権利に対する<br />
リバタリアンの考え方の根本的な原則だ。<br />
その原則とは何か。<br />
自分を所有するのは自分だという考え方、自己所有の考え方だ。</p>
<p>権利を重要なものだと考えるなら、人間を単に好みの集合体と見なしたくないのなら、<br />
そこから導かれる根本的、道徳的概念は私たちが自分自身の所有者、<br />
持ち主だという考え方だ。それこそが功利主義が破綻した理由だ</p>
<p>人間は他人に属しているのでも、コミュニティに属しているのでもない。自分自身に属しているのだ。<br />
同じ理由で、自分で自分を守ることを強制することをつくったり、<br />
いかに生きるべきか、どのような美徳に従って生きるべきか指図したりする法律をつくることも間違っているし、貧しい人助けるとう大義であっても、裕福な人に課税するのも間違っている。</p>
<p>施しを頼むのはいい。しかし、課税するのは強制労働を課すのと同じことなのだ。<br />
毎週の試合をサボって、ハリケーンカトリーナで住処を失った人々を助けに行って欲しいと頼めるかな。</p>
<p>道徳的にはそれと同じことだ。それでは課していることが大きすぎる。<br />
リタバリアニズムに対する反論もあったね。だが、リタバリアニズムを否定するなら<br />
個人の所得を取り上げるのは、個人の労働をとりあげることと同じであり、<br />
個人の労働をとりあげることを個人を奴隷にするのと同じことだ、という論理展開を論破しなくてはいけない。<br />
リタバリアニズムに反対の立場の人は反論を用意しておくように。<br />
次回はそこからはじめよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」</p>
<p>学生のリバタリアニズムチームへの４つの反論。第１の反論は『貧しい者はより金を必要としているではないか』→たしかにその通りだが、その議論を考える上でも、前提となる自己所有の原則に矛盾してはいけない。人間には所有権があるのだ、貧しい者を助けるためであっても前提である権利を侵害してはならない。第２の反論は『民主的な議会という同意による課税なのだから強制ではない、奴隷制度ではない』→民主主義には賛成だが、個人の権利は重視すべきだ。自分の権利を通すためにアメリカ人２億８０００人を説得しなければならないといった大変なことをやりとげる必要はないはずだ。第３の反論は『ビルゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから税金を払うことでその借りを返すべきだ』第４の反論は『自己所有という前提がそもそもおかしい。社会の中で生きるなら完全に自己を所有はできないはずだ』リバタリアンは集団の幸福のために人を手段として利用するという功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。リバタニアニズムの哲学者ノージックは自己所有という考え方はイギリスの政治哲学者ジョン・ロックから借りてきた。次回はロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要があるとして講義は終了する。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture06「個人の権利をどこまで認めることが公平か」</font></h2>
<p>これまでリバタニアニズム、自由原理主義、ないし市場原理主義について話をした。ここからもまた、所得の再分配に対して賛成か反対に対して議論したい。だが、その前に小さな政府について一言いっておきたい。リバタニアニズムの経済学者ミルトン・フリードマンは私たちが当たり前にように政府に帰属していると思っている機能の多くは実はそうではないと指摘している。</p>
<p>それらの機能は干渉主義的なものだ。フリードマンは社会保障制度、その１つの例にあげている。<br />
フリードマン曰く、稼げる時に退職後に備えて貯金をすることはいい考えだ、しかし、人々が貯金をしたいかどうかを無視して、収入のうちいくらかを退職後に備えて強制するのは、人間の自由の侵害であり間違っている。もし賭けにでたかったり、今日という日をでっかく生きられれば、退職後はじり貧でもいい、という人がいたら、それはその人の選択である。リスクを負うかどうかはその人が自由に選んでいいのだ、だから、社会保障制度でさえ、ミルトン・フリードマンが主張する小さな政府とは相いれないのである。警察や消防などの集合財は公的に提供されない限りはフリーライダー問題を生み出す。</p>
<p>フリーライダーとは活動に必要なコストを負担せず、利益だけを享受する人のことだ。</p>
<p>しかし、フリーライダーを防ぐこともできる。集合財（公的サービス）としか思えない、情報のようなサービスでさえ、制限する方法があるのだ。</p>
<p>少し前に会員制の消防会社についての記事を読んだ。アーカンソンのセーラム消防会社だ。この消防会社に登録し、年会費を払うと自宅が火事になった場合、火を消しに来てくれる。しかしこの会社は誰の火事でも消してくれるわけではない。会員の家が火事になったら消化してくれる。火事が燃え広がり、会員の家に迫ってきた時も消化してくれる。</p>
<p>新聞の記事は以前この会社に登録していたが、契約を更新していなかった家主の話だった。彼の家が火事になった。消防会社の面々はトラックで到着し、家が燃えるのをただ見ていた。火が燃え広がらないかどうか見ていたのだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
消防主任は尋ねられた。いや、正確には主任ではなくCEOだったと思う。消化器を持っているのに、なぜ家が燃えるのを消化しないのか、と尋ねれた。会員の不動産に危険がないことが確認できたら、我々は規則により撤収するしかない、と答えた。全ての火事に対応していたら会員になるメリットはなくなってしまう。</p>
<p>このケースでは家主は火事の現場で契約を更新しようとしたが、会社の代表は拒否した。備えを怠っておきながら、後から保険に入ることはできない。私たちが当然のように政府の提供する公的サービスで思っていることですら、その多くは制限を加えることが可能であり、金を出した人たちだけの独占的なサービスにすることができる。集合財についての疑問とか干渉主義に対するリバタリアンたちの禁止令に関わることだ。</p>
<p>そろそろ再分配についての議論に戻ろう。小さな政府についてのリバタリアニズム的主張の根底にある強制への懸念だ。しかし、強制がなぜいけないのだろうか、リバタリアンの答えはこうだ。</p>
<p>誰かを強制すること、一般的な福祉のために誰かを利用することは間違っている。なぜならば、自分を所有するのは自分であるという根本的事実、自己所有という根本的な道徳的事実を問題とすることになるからだ。</p>
<p>リバタリアンが再分配に反対する論拠は、自分を所有するのは自分だ、という根本的な考えだった。ノージック曰く、もし全体としての社会がビルゲイツやマイケルジョーダンから彼らの富の一部を税金としてとりたてることができるとしたら、社会が行使しているのはビルゲイツやマイケルジョーダンへの共有財産権なのだ。しかし、それは自分を所有するのは自分、という根本的な原則に反している。</p>
<p>さて、リバタニアニズムに対する反論がたくさんでてきた。今日はここにいる皆のリバタリアンたちに反論に答える機会を与えたい。何人かがブログに参加して名乗りをあげてくれていて、リバタニアニズムに対する反対に答え、リバタニアニズムを論証してくれることになっている。リバタニアニズムの考えを擁護し、反論に答える準備をしてきた人は？手をあげて！<br />
君がブログのスター（学生Ａアレックス）か、こっちに来てくれ、ここをリバタリアンが集うコーナーにするからね。他にリバタリアンはいないか？</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｂ：ジョン・セフィールド。<br />
ジョン・セフィールド、、他には？戦う準備をしてきた勇敢なリバタリアンはいないか？君は？<br />
学生Ｃ：ジュリア・ロトー<br />
ジュリアロトーこっちにきて。リバタニアニズムのチーム結成だ。ジュリア、ジョン、アレックスだ。チームができたところで、講義とウェブサイトにでてきた主な反論を要約しよう。</p>
<p>第１の反論はこれだ。私もそっちに行こう、リバタニアニズムチームと話したい。<br />
第１の反論は『貧しい者はより金を必要としている』というものだ。<br />
これはわかりやすい。その必要の度合いはビルゲイツやマイケルジョーダンより、はるかに高い。</p>
<p>第２の反論は税金を課すのは奴隷制度ではない、少なくとも民主的な社会は税金を課すのは奴隷所有者ではなく、議会だからというものだ。議会は民主的なものであるから、、、、笑っているね、アレックス。反論に答える自信があるからか？統治されている者の同意による課税は強制ではない。</p>
<p>第３の反論はゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから、税金を払うことでその借りを払うというものだ。税金を払うことで、その借りを返すべきだということだ。</p>
<p>１番目の、貧しい者の方がより金を必要としている、に反論してくれる人は？<br />
学生Ｂ（ジョン）：僕が、、ジョンです。<br />
よし、ジョン答えを聞こう、マイク持つよ。</p>
<p>学生Ｂ（ジョン）：貧しい者の方がより金を必要としている、というのはよくわかります。僕だってビルゲイツが１００万ドル、くれたら、いや１０００ドルでもくれたら助かります。でも、富を再分配にメリットがあるからと言って、所有権の侵害を正当化ことにはならないということを理解すべきです。貧しい人の方がより金を必要としている、という議論を考える時でも、人間は自分自身を所有しているという原則と矛盾してはなりません。人間には所有権があります。それがたとえ、いいことであれ、悪いことであれ、一部の人の生存にとって必要なことであれ、それが権利の侵害を正当化するわけではありません。しかし、個人的な慈善事業という道があります。ミルトン・フリードマンがこれを論じています。</p>
<p>ビルゲイツが望めば慈善に金を出すのはいい。<br />
学生Ｂ（ジョン）：はい。<br />
しかし、強制するのは間違っている。<br />
学生Ｂ（ジョン）：そうです。<br />
貧しい人がそれを必要としていても？<br />
学生Ｂ（ジョン）：そうです。</p>
<p>残る２人も賛成かな？ジュリア！<br />
学生Ｃ（ジュリア）：何かを必要としていることと、何かに値するということとは違うと思います。理想の社会だったら全員の必要は満たされているでしょうけど、ここでは私たちが何に値するかのどうかの議論なので、、。<br />
では、貧しい人はマイケルジョーダンから取った税金で助けるに値しないというわけかな？<br />
学生Ｃ（ジュリア）：今までの議論の流れでいけば、値しないと思います。<br />
ジュリア、もう少しそこのところについて聞かせて欲しい。ハリケーンカトリーナの被害者は深刻な状況であり、助けを必要としている。それでも彼らは税金を財入とした連邦政府の支援には値しないのかな？</p>
<p>学生Ｃ（ジュリア）：難しい質問ですね、これは助けを必要しているけれでも、助けには値しないというケースだと思います。でも、命を維持できないレベルに達したら助けは必要です。食べ物や住むところがないとか、、、。<br />
助けが必要なのと、助けに値するとは別物なのかな？<br />
学生Ｃ（ジュリア）：はい。</p>
<p>誰か反論がある人は？君！<br />
学生Ｄ：最初の論点、個人の所有権についてですが、所有権は政府によって制定され施行されています。政府は民主的な政府で、そこには権利を施行する、私たちの代表がいます。こういうルールの下で機能している社会の中に住んでいるのですから課税を通じて資源がどのように再分配されるのかは政府に任せるべきです。それが嫌ならそういう風に機能している社会に住む必要はありません。<br />
結構、君の名前は？<br />
学生Ｄ：ラウル<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ラウルの今の指摘は、まさに第２の反論だね。もし統治される者と同意による課税が強制ではないとしたら、それは正当だということだ。ビルゲイツもマイケルジョーダンもアメリカ市民であり、議会に投票できるし、他の皆と同じように政策に対する自分に信念を投票によって表明できる。これに対する反論は？ジョン！</p>
<p>学生Ｂ（ジョン）：基本的にリバタリアンがこのケースに反論しているのは、下位１０％のために、上位１０％がすることを中間の８０％が決めていることです。<br />
おいおいおいおい、ジョン、過半数だぞ、君は民主主義を信じていないのか？<br />
学生Ｂ（ジョン）：それはそうですが。<br />
民主主義においては過半数が支配するとうのがルールだろう。民主主義は過半数が勝つ。民主主義に反対なのか？<br />
学生Ｂ（ジョン）：いえ、民主主義には賛成です。ちょっと待って、民主主義と衆愚政治とでは同じものではありません。<br />
衆愚政治！！</p>
<p>学生Ｄ（ラウル）：でも、開かれた社会では、君は君の意見を代表を通して主張することができる。もし、統治される者の過半数の同意が君と一致しなくても、君はこの社会に生きることを選んでいるわけだから、過半数が選んだことを受け入れてやっていかなければならないことだ。</p>
<p>結構、アレックス、民主主義についてはどう思う？<br />
学生Ａ（アレックス）：議会の議員１人に対し、僕の票は５０万票の中のたった１票に過ぎないわけだから、それは自分の所有権をどう行使するか、自分で決められるのとは違います。バケツの中の一滴ですから。<br />
主張は通らない？<br />
学生Ａ（アレックス）：そうです。</p>
<p>否決されたら？<br />
学生Ａ（アレックス）：税金を払うか、払わないかを決める権利は僕にはないし、払わないことで刑務所に入れられるか、この国から出て行けと言われます。<br />
しかし、アレックス、民主主義について論じ、ささやかな擁護をさせて欲しい。君は何て言うかな？私たちは言論の自由のある民主的な社会に住んでいる。選挙演説をして、課税するのは間違っていると市民を説得し、過半数をとればいいじゃないか。</p>
<p>学生Ａ（アレックス）：自分の権利を行使するために、２億８０００万人を説得しなければならないとは思いません。そんな大変なことをしなくても、行使できるべきだと思います。<br />
じゃあ、君は民主主義に反対なのか？<br />
学生Ａ（アレックス）：いや、僕は限定された民主主義を支持しています。民主的に決定される事項の範囲を厳しく限定する憲法を持つ民主主義を！</p>
<p>そうか、では、基本的な権利が絡まなければ民主主義は良い、というわけだ。<br />
学生Ａ（アレックス）：はい。</p>
<p>君が演説をしたら、勝てると思うよ。君の主張にもう１つの要素を付け加えさせて欲しい。経済の議論、課税についての議論はちょっと横において置こう。宗教の自由についての個人の権利が焦点になっているとしよう。君は演説で個人の自由の権利を投票にかけるべきではない、とみんなに訴えかけるだろうね。<br />
学生Ａ（アレックス）：その通りです。だからこそ、憲法には旧制条項があり、憲法が大変なものになっている理由です。</p>
<p>つまり、私有財産に対する権利、マイケルジョーダンが自分で稼いだ金は全て自分のものにできる。少なくとも再分配から保護できる権利がある。言論の自由の権利、宗教の自由の権利と同じように、社会の多数派の意向を負かしてでも、守られるべき重要な権利だと言うことだね。<br />
学生Ａ（アレックス）：その通りです。言論の自由の権利があるのは、僕たちが自分を所有する権利があり、意見を行使する権利を持っているからです。</p>
<p>ありがとう。今の民主主義のあり方についての議論に意見がある人は？そこの君！</p>
<p>学生Ｅ：宗教と経済とでは、同じものではないと思います。ビルゲイツがお金を稼ぐことができたのは、社会が経済的にも社会的にも安定しているからです。政府が最も貧しい層１０％を助けなかったら、犯罪を防ぐために警察にもっと税金が必要になるでしょう。必要なものを政府が提供するためにより多くの税金がとられることになってしまうと思います。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｅ：アナ</p>
<p>１つ質問だ。なぜ宗教の自由に対する基本的な権利は、アレックスが主張する私有財産の権利とは異なるのかな？その違いは何だと思う？</p>
<p>学生Ｅ（アナ）：なぜなら、社会が安定していなかったら、お金を稼げないし、財産を所有することもできないからです。宗教はもっと個人的なもので家で自分だけで実践します。私が信じる宗教上のことを実践しても隣の人に影響はありません。でも、私が貧しかったら、自暴自棄になって家族を養うために、罪を犯すかもしれず、それは他人に影響を与えますから。</p>
<p>よくわかった、ありがとう。腹をすかした家族を養うために、パンを盗むのは間違っているかな？<br />
学生Ａ（アレックス）：間違っています。<br />
よし、では３人で裁決をしよう。君は間違っていると思うんだね。<br />
学生Ａ（アレックス）：はい。</p>
<p>君は？<br />
学生Ｂ（ジョン）；所有権の侵害であり、間違っています。<br />
家族を養うためでもか。<br />
学生Ｂ（ジョン）；でも、他に方法はあるはずです。盗みを正当化する前に僕を笑うのは待って下さい。（会場笑い）盗みを正当化する前に、僕たちが現に存在するという権利が侵害されたということを考えないと。自己所有権、財産権について、僕たちは存在する権利だと認めたわけですから。<br />
それは盗みだ、となれば所有権は論点ではない。ではなぜ、家族を養うためでも盗んではいけないのか。<br />
学生Ｂ（ジョン）；先生が最初の講義でおっしゃった通り、良い結果がもたらされるからと言って、その行為が正当化されるとは限らないからです。</p>
<p>ジュリア、君の意見は？家族を養うためにパンを盗むこと。子供が死なないように必要な薬を盗むことは許されるか？<br />
学生Ｃ（ジュリア）：私はかまわないと思います。リバタリアニズム的な論点からでさえ、たくさん持っている人から適宜お金をとって貧しい人にお金を与えてもかまわないと思います。でも、パンを盗むことは自分を救うために自分で行動しているわけです。自己所有の考え方から言えば、人は自分で自分を守る権利があるあるはずです。だから、リバタリアニズム的な論点から言っても許されるんじゃないかと思います。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
いい議論だ、さて３番目、成功した裕福な者は社会に借りがある、というものだね。全て自力で成功したわけではない。他の者と共に成功したのだから、彼らは社会に借りがある。それは課税という形で表される。ジュリアこれについてはどうかな？</p>
<p>学生Ｃ（ジュリア）：これについては、私は割り勘な社会はないと思います。そういう人たちが裕福になったのは、社会が高く評価したからです。彼らは社会に対してサービスを提供したから、社会がそれに報いたわけであり、その結果、裕福になったわけですから。</p>
<p>わかりやすくするために、マイケルジョーダンを例にあげてみよう。ジョーダンがリッチになれたのはチームメイトやコーチ、プレイをした人たちに助けられたおかげだとしても、彼らはすでにそのサービスの対価はもらっているというわけだ。</p>
<p>学生Ｃ（ジュリア）：ジョーダンのプレイをみることで、社会は多くの楽しみを得ており、ジョーダンはすでに社会に借りを返していると思います。<br />
いい意見だ、この点について意見がある人は？君！</p>
<p>学生Ｆ：人が社会の中で生きている時、人は自分で自分を所有しているという、前提そのものに問題があると思います。社会の中で暮らすには自己所有権を放棄しないと。たとえば、私は嫌いな人を殺したいと思ったと思います。それは私の自己所有権ですが、社会の一員である以上そうはできません。もし私にお金があったら、人を救えるというのと同じことです。自己所有券には限度があります。なぜなら、社会に暮らしている以上、他の人のことを考えなければいけないからです。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｆ：ビクトリア。<br />
君は自己所有の基本的な前提に疑問を感じているわけだ。<br />
学生Ｆ（ビクトリア）：はい、社会の中で生きることを選んだら、完全に自分を所有をできません。周りの人を無視することができないからです。</p>
<p>よろしい、最後のポイントについて、リバタリアンに聞いてみよう。<br />
私たちは自分自信を所有しないのではないか、ということに論拠している。ビルゲイツやマイケルジョーダンが裕福なのは、彼ら自身の努力のみによるものではない。多くのコールの産物であり、ゆえに稼いだ金は全て道徳的に彼らのものにはできない、反論は？アレックス！</p>
<p>学生Ａ（アレックス）：良識があれば、あれだけの富を独り占めできるはずはないと思う人もいるだろうけど、これは道徳性の問題ではありません。ポイントは彼らが今持っているものを手にいれたのは、人々に何らかなサービスを自由交換したからです。<br />
よろしい、じゃあ、今日の議論のことで学んだことをまとめてみよう。その前に、ジョン、アレックス、ジュリアのがんばりに感謝しよう。（会場拍手）</p>
<p>さっき、今日の議論の最後にビクトリアがリバタリアニズムの論理の前提に疑問を投げかけた。私たちは本当は自分で自分を所有していないのではないか？というのだ。再分配に反対するリバタリアニズムに主張しない場合、リバタリアニズムの論理展開に切り込む箇所は論理のもっとも早い段階にありそうだ。それが多くの人が課税とは道徳的に強制動労に等しい、ということに対して意義を唱える理由だ。</p>
<p>しかし、リバタニアニズム的根底にある考えは、中核をなす思想についてはどうだろう。自分が自分を所有するというのは真実なのか。その考え方、なしでやっていけるのか、リバタニアンたちが避けたいことを避けられるのか、避けたいことというのは、正義という名のもとに一部の人が他の人々につくし、あるいは一般的な善のために利用されてしまうような社会をつくりあげてしまうことである。</p>
<p>リバタニアンは人を集団を幸福のために手段として利用する、という功利主義的な考え方を認めない。個人を利用するという考え方を止めるには、自分が自分の所有者であるという本能的な考え方が有効だと主張する。それがアレックス、ジョン、ジュリア、そしてロバート・ノージックだ。</p>
<p>自己所有の考え方を疑問視すると、正義論と権利の重要性にはどのような結果がもたらさせるだろうか、私たちは再び功利主義に戻し、個人を全体のために見好し、太った男を橋から突き落とすことになってしまう。</p>
<p>自己所有という考え方はノージックが自力で発展させたものではない。ノージックはそれを哲学者の　ジョンロックから借りてきたのだ。</p>
<p>ジョン・ロックはノージックとリバタリアンたちがよく使う論拠と、非常によく似た理論展開によって、自然状態からの私有財産の対当を説明した。</p>
<p>ジョン・ロック曰く、私たちに労働とまだ所有されていないものがあって、はじめて私有財産が発生するのである。その理由は私たちは自分の労働を所有しているからだ。なぜ自分の労働を所有しているかと言うと、私たちは自分自身を所有しているからだ。だから、自分自身を所有しているというリバタリアニズム的主張の道徳的な力を検証するには、イギリスの政治哲学者ジョン・ロックの私有財産と自己所有の考えを検討する必要がある。それを次回にしよう。</p>
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		<title>JUSTICE 第２回「命に値段をつけることに正義はあるか」「喜びを測定して出した結論は公平か」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:36:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[JUSTICE-正義-公正]]></category>
		<category><![CDATA[ハーバード大学]]></category>
		<category><![CDATA[JUSTICE]]></category>

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		<description><![CDATA[Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」
功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。この講義ではタバコ会社、自動車会社が行った費用便益分析を取り上げ、その問題点を考える。そして功利主義に対する２つの反論が学生から示された。１つは「個人の権利もしくは少数派の権利を尊重していない」というもので、もう１つは「人々の好みあるいは価値を合計することをできない」というもの。後者に関しては心理学者ソーンダイクの実験を示し、その結論をどう捉えるべきか？と疑問を残し講義は終了する。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture03
PUTTING A PRICE TAG ON LIFE
Lecture04
HOW TO MEASURE PLEASURE　



時間：55:10











Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」
前回の講義で私たちは２人の船乗り、ダドリーとスティーブンズの裁判について議論した。海で遭難した男たちが少年を殺して食べた事件だ。まず、議論の内容を思い出して欲しい。船長と航海士が何をしたか。それに対してどんな意見が出たか。それを頭に入れた上で、哲学者やジェレミ・ベンサムの功利主義の話に戻ろう。



ベンサム(Link:wiki)は１７４８年のイギリス生まれ。１２歳でフォックスフォード大学に進学し、１５歳でロースクールに入った。１９歳で司法試験に合格したが、弁護士にはならず、法学と道徳哲学に人生を捧げた。
ベンサムの功利主義については前回も触れたが、その中心となる議論が単純だった。

道徳の最高原則は社会の幸福のために、一般的福祉を最大化することで、全体として快楽が苦痛を上回るようにすることである。つまり、一言で言うと「効用の最大化」だ。
ベンサムは次のような推論でこの原則にたどりついた。
私たちは皆、苦痛と喜びに支配されている。だからどんな時も苦痛と喜びを考慮する必要がある。その最も良い方法が最大化だ。これが最大多数のための最大幸福の原則へとつながる。
では、何を最大化すべきか。
ベンサムは幸福、あるいは現実には効用だと言っている。効用を最大化するのは個人のためだけでなく、共同体や法律を定める者へのためでもある。

しかし結局のところ、共同体とは何なのか。ベンサムは考えた。それは個人の集まり。だから、より良い政策や法律を定めようとする時、あるいは正しい行いとは何かを考える時、人はこう自分に問いかけてみなければならない。
この政策によって生じる全ての便益の合計から代償を差し引いた時、幸福が苦痛を上回るだろうか。最大の喜びをもたらすものこそ最善である。効用の最大化とはそういうことだ。
さて今日は、君たちがこの考え方に賛成かどうか聞きたいと思う。
visualecture.com
ところで、

この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使ってきた。その場合、効用は数値で表される。たいていはドルに換算され、様々な事業についてその費用と便益が数値化される。

最近、チェコ共和国ではタバコの消費税率を上げようという提案があった。
そこで、チェコで大規模な事業を展開している。あるアメリカのタバコ会社がチェコにおける喫煙の費用便益分析を行った。
その結果、一つのことが明らかになった。チェコ政府が国民の喫煙によって得をする。ということだ。
さて、政府はどのように得をするのか。

チェコ政府の財政にマイナス効果があるのは事実だ。喫煙により病気を発症する人々への医療費の負担が増えるからだ。一方、プラス効果もあった。そういったものは帳簿の便益蘭に加算された。プラス効果の大部分を占めていたのはタバコ関連商品の販売による様々な税収だ。しかし、それ以外に人々が早死にした時に政府が節約できる医療費も含まれていた。また、年金や高齢者のための住宅費用も節約できる。
これら全ての費用と便益を踏まえたタバコ会社の調査結果がこれだ。
チェコ政府の純収入は１億４７００万ドル増加する。喫煙が原因で早く亡くなる人については政府や住宅費や医療費、年金を支払う必要がなくなるから、一人当たり１２００ドル以上節約できる。
これが費用便益分析だ。
君たちの中で、功利主義を擁護する人もこれはひどい実験だと思うかもしれない。このタバコ会社はメディアにたたかれ、結局この心ない計算について謝罪した。
君たちはこの分析に命の価値だと言うかもしれない。つまり、肺癌で亡くなる人やその家族にとっての命の価値だ。
命の価値はどうなるのか。
費用便益分析はそれを計算で組み込んでいるものがある。
中でも得に有名なのがアメリカの自動車メーカーが発売したある車の事例だ。７０年代に起きた事件だが、ピントという車を覚えている人はいるかな。これは小さな車でとても人気があった。
ただ、一つ問題があった。
燃料タンクが車の後方にあり、後ろから追突されると炎上するという点だ。
事故で亡くなった人もいれば、重傷を負った人もいた。負傷した被害者たちはこの自動車メーカーを訴えた。そしてその訴訟の中でメーカーがずいぶん前から燃料タンクの弱点を認識していることが明らかになった。燃料タンクの周りに保護シートをつけることを考え、それを実行する価値があるかどうかを判断するために費用便益分析を実施していたのだ。

その際、車の安全性を向上させるためにかかる費用は１台あたり、１１ドルとした。そしてこれが裁判の中で公開された会社側の費用便益分析の結果だ。
１２５０万台の車の安全性を向上させるには１台あたり１１ドルとして、１億３７００万ドルかかる。それからこの金額を投じて、車を修理した場合の便益、つまり、事故を防ぐことへの価値を計算した。
死者１８０名。１人当たりの価値をドルに換算すると２０万ドル。負傷者を１８０人。
１人当たり６７０００ドル。事故を起して炎上する車は２０００台で修理費用は１台あたり７００ドルだ。これらの便益を合計すると４９５０万ドルにしかならなかった。メーカーは車を直さなかった。
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言うまでもないが、裁判の中で会社がつくった費用便益分析のメモが公開されると、陪審員が愕然として、巨額の和解金の支払いを命じた。この自動車メーカーは命の価値という基準を加えたからこれは合理主義的な計算とは言えないだろうか。
さぁここでメーカーの側に立って費用便益分析を弁護したい人はいないだろうか。
弁護できる人は？
もしくはこれが功利主義の計算法を完全に破壊していると思う人は？どうぞ！
学生Ａ：この自動車メーカーもさきほどの例を同じ間違いを犯していると思います。彼らは人の命に値段をつけましたが、家族の苦痛や喪失感を全く考慮していません。家族は収入だけでなく愛する人を失います。それは２０万ドル程度のものではありません。
なるほど。君の名前は？
学生Ａ：ジュリアです。
ジュリアに聞こう。君は愛する人が永遠に失われることを考慮すると２０万ドルでは安すぎると思うかね。それなら適切な額はいくらだと思う？
学生Ａ（ジュリア）：数字で表せるものではないと思います。人の命をこの種の分析に利用すべきではありません。
金額が低すぎたというだけでなく、数字で表そうとしたこと自体がそもそも間違っていたと。
他に意見はあるかな？
学生Ｂ：インフレを考慮しないと。
インフレを考慮しないといけない。（会場笑い）
なるほど、その通りだ。では、今ならいくらになると思う？これは３５年前の話だ。
学生Ｂ：２００万ドルです。
２００万ドル。２００万ドルをつけるか。君の名前は？
学生Ｂ：ボイテクです。
ボイテクはインフレを考慮してもっと奮発するべきだと言っている。
ということは君は数字に置き換えること自体は賛成なんだね。
学生Ｂ（ボイテク）：あいにく、そうです。　なんらかの数字に置き換えなければならないと思います。適切な数字というのはわかりませんが、おそらく命の価値を数字で表すことはできると思います。
なるほど、ボイテクはジュリアとは違う意見だ。ジュリアは命の価値を数字で置き換えるのはできないと言った。ボイテクは何らかの決断を下すためには、それも必要だと言った。
では、他の人はどうだろう。
費用便益分析を弁護できる人はいないかな？いい事だと思う人は？どうぞ。
学生Ｃ：この自動車メーカーも他のメーカーも費用便益分析を行わなければ利益を出せず倒産してしまうと思います。そうなれば、何百万人のも人々が通勤に車を使えなくなり、生活に支障をきたします。ですから、この場合、費用便益分析が行われなかったら、より多くな幸福が犠牲になっていたと思います。
ありがとう。君の名前は？
学生Ｃ：ラウルです。

ラウル。最近、運転中のケータイ電話の使用についての調査が行われた。この行為を禁止すべきかどうかが行われた。そして、調査の結果、毎年おそよ２０００人が運転中にケータイ電話を使ったために事故を起こし、命を落としていることがわかった。
しかし、ハーバード大学のリスク分析センターが行った費用便益分析では、運転中にケータイ電話を使うことでもたらされる便益と失われる命の価値はほぼ同じだという結果が出た。運転中に商談を進めたり、友人と話したりすれば時間を節約でき、大きな経済効果が生まれるというわけだ。
これを聞いてもまだ、命を価値をドルに換算することが間違いだとは思わないかな？
学生Ｃ（ラウル）：もし、大多数の人々がケータイ電話のようなサービスを利用し、その利便性を最大限に活かしたいと考えるなら、仕方ないと思います。満足には犠牲がつきものですから。
君は完全は功利主義者だ。
学生Ｃ（ラウル）：まぁ、そうですね。
それじゃあ最後の質問だこれはボイテクにも聞いたが、人の命に値段をつけるとしたら、この場合はいくらが打倒だと思う？
学生Ｃ（ラウル）：そうですね。今、この場で思いつきで数字をあげたくはないですが、、、（会場笑い）
じっくり考えたい？
学生Ｃ（ラウル）：そうですね。
大体でいいんだ。死者は２３００人ケータイ。ケータイ電話の使用を禁止するかどうか決めるにはなんらかの数字が必要だ。だから、直感で言ってみて欲しい。１００万ドル？２００万ドル？ボイテクは２００万ドルと言ったが、君はどう？
学生Ｃ（ラウル）：１００万で！
１００万ドル？よく答えてくれた、ありがとう。
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最近ではこのような費用便益分析を巡って論争が起きている。
計算のために何にでも値段をつけてしまうことが問題視されているからだ。
では、ここからはそういった反対意見に目を向けてみよう。
ただし、費用便益分析は厳密に言えば、功利主義の理論を実践した１つの例に過ぎないのだ。
それだけに絞らず、功利主義全体に対する反論について考えてみよう。
功利主義の理論とはこういうものだった。
正しい行いや正しい政策や法律とは効用を最大化するものである。
この法律や公共の利益に関する功利主義の考えに反対の者はどれくらいいる？
では、賛成の人は？反対よりも賛成の方が多いね。
では、反対意見から聞こう。どうぞ
学生Ｄ：功利主義に問題があると感じるのは少数派がないがしろにされているからです。多数派の望むことの方が価値があるとは限りません。ですから、最大多数のために最大幸福の考え方には賛成できません。少数派にとっては公平ではないし、発言の機会を得られなくなってしまうと思います。
おもしろい意見だ。君は少数への効果を心配しているんだね。
学生Ｄ：そうです。
君の名前は？
学生Ｄ：アナです。
少数派へ効果を心配するアナの意見に反対の人はいるかな？どう反対する？
学生Ｅ：彼女は少数派が軽んじていると言いましたが、そんなことはないと思います。少数派であろうと多数派であろうと１人１人の価値に差はありません。多数派は数で上回っているだけです。時には意思決定をしなければならないこともあります。少数派は気の毒ですが、それはより大きな幸福のためです。
より大きな幸福か。君の名前は？
学生Ｅ：ヨンダです。
アナはどう答える？ヨンダは人々の好みを集計した結果、多数派の意見が上回るだけであり、その中には少数の意見も加味されていると言ってる。君は功利主義は少数派をないがしろにしていると言ったが、なぜそう思うのか教えて欲しい。例を上げてもらえるかな？
学生Ｄ（アナ）：これまでにあがったどんな事例にも言えると思います。例えば、救命ボートの事件では食べられてしまった少年には
他の人たちと同じようにまだ生きる権利があったと思います。たしかに、彼はあの場合の少数で生き残る可能性は低かったかもしれませんが、だからといって殺していいということにはなりません。より多くの人に生きる可能性を与えるからというだけで、他の人たちが彼を食べる権利も持つようにはなりません。
なるほど、つまり、少数派の１人１人にもある種の権利があり、それは効用のために犠牲にされるべきものではないと。そういうことかな？
学生Ｄ（アナ）：はい。
そうか、ありがとう。ではヨンダに聞こう。

古代ローマでは、ローマ人は娯楽のためにキリスト教徒をライオンと戦わせていた。これを功利主義の理論にあてはめると、ライオンに教われるキリスト教徒の痛みと苦しみと大勢のローマ人の集合的なエクスタシーでは、どちらが大きいだろう。
学生Ｅ（ヨンダ）：そうですねぇ。
それは過去の話で、僕は今日の制作立案者が見ている人々の快楽に数字をあてて、１人の痛み、１人の苦しみは大勢の快楽よりずっと小さいと判断するようなことはないと思います。
でも、君のさっきの考えを突き詰めていくと、大勢のローマ人の集合的な一握りのキリスト教徒の耐え難い痛みより大切だとなってしまうよ。（会場笑い）
ここまでに功利主義に対する２つの反論がでた。
１つは功利主義が個人の権利、もしくは少数派の権利を尊重していないというもの。
そして、もう１つは人々の好み、あるいは価値を合計することをできない、というもの。
つまり、全ての価値をドルに換算して計算することは不可能ではないかという考え方だ。
実は１９３０年代にこの２つ目の質問に答えようとしたソーンダイクという心理学者がいた。
彼は人間の行為に関わらず、全てのこと、全ての価値を一律の基準で表すことは可能だと考え、それを証明しようとした。
そして、彼は政府からの生活保護を受けている若い人を対象に調査を行った。
若者たちに不愉快な行為のリストを渡して、あなたならいくらもらえばこれらのことを実行するか、と聞いて回ったのだ。
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例えば、いくら貰えば上の前歯を１本抜くか、いくら貰えば片方の足の小指を切断するか、他には１５センチのミミズを生きたまま食べる。カンザス州の農場で残りの人生を送る。（会場笑い）
素手で野良猫を窒息死させる、というのものもあった。さぁ、この中でもっとも高い金額がついたのはどれだと思う？
カンザス？（会場笑い）
その通り、カンザスだった。（会場笑い）
彼らは３０万ドル貰わなければカンザスの農場では暮らさないそうだ。では、次に高かったのはどれだろう。猫じゃないよ、歯でもない、小指でもない、ミミズだ。１０万ドル払わなければミミズは食べてくれないそうだ。一番安かったのは何だったと思う？猫じゃない、歯だ。大恐慌の時代、人々はたった４５００ドルで喜んで歯を抜かせたんだ。

さぁ、ソーンダイクはこの研究から次のような結論を出した。
望みであれ、満足であれ、ある程度存在していれば、どんなものでも測定できる。犬や猫や鶏の生活は食欲、願望、そして満足からなっている。人間の場合も欲求や願望が多少複雑ではあるものの、基本的に動物と変わらない。
しかし、この結論をどう捉えるべきであろう。
これは全てのものの価値は同じ尺度で測ることができるという、ベンサムの考えを裏付けているのだろうか？あるいはソーンダイクがバカげた例を上げて調査を行ったことで、それとは正反対のことが示されたのかもしれない。つまり、人が重んじていることや大切にしているものは、たとえ命であれ、カンザスであれ、ミミズであれ、一律の価値基準に当てはめることなどできない。ということだ。もし、後者が正しいとすれば、功利主義の道徳的は原理がくずれてしまうことになる。
次回はそれについて議論しよう。




Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」
功利主義のベンサムを弁護する哲学者ミルを考える。ミルは道徳的な高さは効用の大きさで決まるとした。効用の大きさの計り方は、人は２つのものを両方経験すれば、自然と高級なものを選ぶ。経験から生まれる願望は正しい道徳的根拠だとした。しかし本当だろうか。シェイクスピアのハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。この２つを理解なしに経験したらシンプソンズの方が今は好きだと思う人は多い。だとすれば、両方経験しても自然と高級を選ぶという考えは間違いではないか。また、功利主義は社会全体の幸福の最大化を目指すわけだが、一方、少数派はないがしろにされているのではないか、この個人の権利はミルはどう考えているのだろうか。ミルは個人の権利は尊重されるべきだとしている、そして個人が正義を行えば、長期的にみて社会全体は向上するという。本当だろうか。どうも、まずは、個人の権利について考える必要がありそうだ。１度功利主義から離れて、個人の権利を次回から考えることにしよう、として講義は終わる。



Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」
これまでジェレミーベンサムの功利主義に対する、反対意見について議論してきた。
君たちは２つの反論を出した。
１つ目は、功利主義は最大多数のための最大幸福に重きをおいているため、個人の権利を尊重することができない、というものだ。
ここで、拷問とテロリズムについて考えてみたい。
９月１０日にテロの容疑者を逮捕したとしよう。
君は彼が３０００人以上を殺害する差し迫ったテロ攻撃についての決定的な情報を持っていると信じているが、情報を引き出すことができない。その情報を得るために容疑者を拷問することは正しいだろうか、あるいは、君には個人の権利を尊重する道徳的義務があるから、やってはいけないのか。
ある意味、これは最初に議論した路面電車と臓器移植に話に通じる問題だ。
それから前回の講義では費用便益分析の例を紹介した。だが、多くの人が費用便益分析のために、命に値段をつけることを良しとしなかった。それがこれが２つ目の反論へつながる。
はたして、すべての価値を一律の基準で捉えることは可能なのか、という問題だ。種類の違うものを同じ尺度で計ることができるであろうか。
では、ここでもう１つの例をあげてみよう。
これは実際にあった話で私の個人的な経験からきている。少なくとも、全ての価値を功利主義の議論に当てはめていいのか、どうか考えさせてくれるだろう。
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何年も前、私がまだ大学院生だったこと、オックスフォード大学は男女共学ではなく、男子カレッジと女子カレッジに分かれていた。そして女子カレッジの寮に男性を泊めることは禁じられていた。でも、この規則は形だけのものになていて、みんな平気で破っていた、と私は聞いた。（会場笑い）
１９７０年代の後半になると、この規則の緩和を求める圧力が高まり、女子カレッジの１つセントワンカレッジの１つで話し合いが持たれた。年配の女性教職員たちは保守的で、従来の規則を変えることに反対した。しかし、時代は既に変わっていた。彼女たちは反対する本当の理由をするのが恥ずかしかくて、議論をすり替えて、功利主義の理論に当てはめた。
男性が泊まると大学側の出費が増える、と彼女たちは言った。どうしてそうなるのか、男性が風呂に入るとお湯の消費量が増えるからだそうだ、さらにはマットレスを交換する頻度が増えるという意見まででた。（会場笑い）
改革を求める人たちは条件を付けることで大学側と合意した。各女性が泊められる男性は週に３人までとする。同じ男じゃなきゃいけないという決まりはなかった。（会場笑い）
条件はもう１つあった。宿泊客は費用をまかなうために５０ペンスを支払わなければならない。翌日、全国紙の見出しにはこんな文字が載った。セントワンの女の子は１晩５０ペンス。（会場笑い）
この例では定説という価値が考慮されていないことからも、全ての物ごとを功利主義にあてはめることがいかに難しいかがわかる。
ところで、功利主義に対する２つ目の反論について例をあげて説明してきた。そして少なくともその反論には次のような疑問が含まれていることがわかった。
私たちは全ての価値を同じものさしで測れるとう前提の下で、道徳的な考慮事項にもドルという価値を当てはめることができると想定しているが、果たしてこれは、これは正しいのだろうか。さらに私たちが価値や好みを集計することは懸念するのには、もう１つ理由がある。なぜ人々の好みを、良い好みと悪い好みの分類せず、全てを一律に計る必要があるのか、と考えるからだ。
私たちは高級な喜びと低級な喜びを区別すべきではないだろうか、人間の好みに優劣をつけないというのは、ある意味では魅力的なことだと言える。なぜ、そう言えるかというと、判断を必要しないし、平等主義的だから。
ベンサム派の功利主義者は誰の好みも重要だと言う。他の人が何を望むか、何をもって幸せを感じるかに関わらず、全ての好みが集計されるべきだと。
ベンサムが重要視したのは覚えているね。喜びや苦痛の種類ではなく、その大きさと長さだった。
ベンサムにとって、いわゆる高級な喜びや崇高な美徳とは、より強く、より長く喜びをもたらすものだった。この考えを表した有名な言葉がある。
喜びの量が同じであれば、プッシュピンは詩と同じように良い。プッシュピンとは子供の遊びでピンをはじくゲームだが、それは詩と同じように良いとベンサムは言った。この言葉にはこんな主張が込められている。私たちには他人を比較して、どちらの方が価値が、どちらの方が優れている、などと判断する権利はない。
この優劣の判断を拒む姿勢は魅力的だ。世の中にはモーツァルトが好きな人もいれば、マドンナが好きな人がいる。バレーが好きな人がいれば、ボーリングが好きな人もいる。
ベンサム信奉者なら、誰の喜びの方が高級で価値があるかなんて、誰にもわからない、というだろう。しかし、本当にそれでいいのか。喜びの優劣を考慮しなくていいのだろうか。同じ喜びでも、ある種のものは他のものより優れていたり、価値が高かったりする、という考えを完全に取り払っていいのだろうか。
古代ローマでは、大勢のローマ人の快楽のために、キリスト教徒の人権が侵害されていた。そして、そのことからベンサムの理論の別の問題点も見えてきた。より多くの人の幸福が何かを決めるためには、戦いを見物するローマ人が享受していた、邪悪で下劣な喜びにも、何らかの価値を与え、評価しなければならないんだろうか、ということだ。
これが、ベンサムの功利主義に対する反論だ。
実はかつて、その反論に答えようとした人物がいた。もっと後の時代の功利主義者、ジョン・スチュワート・ミルだ。
ここからはジョン・スチュワート・ミルがベンサムの功利主義に対する反論に説得力のある答えを持っていたかどうかをみていこう。
ジョン・スチュワート・ミル、１８０６年生まれ、父親のジャイムズ・ミルはジャレミーベンサムの弟子で、息子のジョン・スチュワート・ミルに模範的な教育を受けさせようとした。ジョン・スチュワート・ミルは神童だった。彼は３歳でギリシャ語、８歳でラテン語を理解し、１０歳でローマ法の歴史について書いた。２０歳で神経衰弱に陥った。
その後、５年間は鬱状態であったが、２５歳の時、ハリウッドテイラーという女性と出会い、鬱状態から抜け出す。２人は結婚し幸せに暮らした。そして彼女の影響の下で、功利主義を血の通ったものにしようとした。
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ミルが試みたのは、個人の権利などの人道的問題や、高級な喜びと低級な喜びを区別する必要性を考慮に入れた上で、功利主義の計算法を拡大し修正できるかどうかを確かめようとするものだった。
１８５９年には、有名な著書「自由論」を書き、個人の権利と少数派の権利を擁護する側の重要性を説いた。さらに晩年１８６１年には、この授業でもとりあげる「功利主義論」を書いた。
ミルは道徳性への高さは効用の大きさで決まると考えていた。つまり、ベンサムの前提を否定していたわけではない。その証拠に彼ははっきりと述べている。望ましいものとは実際に人が望むものである。経験から生まれる願望こそ、正しい道徳的根拠である。というわけだ。
しかし、第２章の８ページでは、彼は功利主義者が高級な喜びと低級な喜びを区別することが可能だと論じている。
さぁ、すでにミルを読んだ人なら、彼がどうすれば区別できると言っているかわかるね。功利主義者はどうやって劣ったもの、卑しいもの、価値のないものから、質の高いものを区別するのか。君！
学生Ａ：両方をためしてみれば、人は自然に高級なものの方を好むものです。
そのとおりだ、君の名前は？
学生Ａ：ジョンです。
ジョンが指摘したように、ミルはこう言っている。
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人々の願望や好みを除外して考えることはできない。なぜなら、それでは功利主義の前提をくずすことになるからだ。高級な喜びと低級な喜びを区別する方法は、ただ１つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである。そして第２章には、さっきジョンが説明してくれたことをミルが主張する一説がある。
２つの喜びのうち、両方を経験した者が全員または、ほぼ全員、道徳的義務感と関係なく、つまりどんな基準にも左右されずに、迷わず選ぶものがあれば、それがより好ましい喜びである。
さぁ、君たちはどう考える？この議論は成功しているだろうか。成功している人は手をあげて。この方法で高級な喜びと低級な喜びを区別できると思う人？では、無理だと思う人？理由を聞きたいが、その前にミルの主張を確かめるために、１つ実験をしよう。
これから君たちに３つの映像をみてもらう。人気のある映画や番組のワンシーンだ。
１つ目はハムレットの「独白」。その後に別の２つの何かがつく。
では、はじめよう。
（ムービー：ハムレットの独白）
（ムービー：フィア・ファクター）
（ムービー：ザ・シンプソンズ）
どれが好きだったか、聞くまでもないね。
じゃあ、シンプソンズだと言う人。（会場大多数）
シャイクスピアの人は？（会場一部）
フィアファクターはどうかな？フィアファクターがよかった人？（手をあげて人に対して）ホントに？
シェイクスピアの人よりもシンプソンズが好きな人の方が圧倒的に多かった。どれが最高の経験、最高の喜びだったと思うか。
シェイクスピアだと思う人？（会場ちらほら）
フィアファクターだと思う人？（手をあげて人に対して）いや、そんなわけない！ホント？（会場笑い）理由は？
学生Ｂ：一番おもしろかったからです。
それはわかるが、それがもっとも価値がある、崇高な経験だったか教えて欲しい。
学生Ｂ：僕にとっては、愉快なことに価値があります。他の人がどう考えるか関係ないのではないでしょうか。
わかった、君は純粋なベンサム派に属するわけだね。
人々の好みを集計するのはいいとしても、その価値を誰かが判断するのはおかしい。なるほど、君の名前は？ネットかぁ。
シェイクスピアが最も高級だと考える人の中で、実際にはシンプソンズの方が好きだと言う人の意見を聞きたい。
学生Ｃ：シンプソンズは笑わせてくれるので、見ているだけで楽しめます。でも、シャイクスピアを楽しむには、読み方や解釈の仕方を誰かに教えてもらわなければなりません。レンブラントの絵画などと同じだと思います。
君の名前は？
学生Ｃ：アニーシャです。
アニーシャ、もし誰かが君にシェイクスピアの方がいいと教えてたら、君はそれを無条件で受け入れるの？シェイクスピアが高級だと言ったのは、そう教えられたからなのかい？それとも自分自身でも納得しているんだろうか。
学生Ｃ（アニーシャ）：シェイクスピアは教えられたからではありませんが、レンブラントはそうです。レンブラントの絵はすごい、と言われればそう思いますが、実際は彼の絵を分析することよりも、マンガを読むことの方が楽しいと思います。　
なるほど、君が言うように、文化と伝統の圧力というもの、ある程度はあると。私たちはどれが良い作品であるということを、教えられているからねぇ。他には？君！
学生Ｄ：今日のこの授業の中では、シンプソンズが１番楽しいと感じました。でも、残りの人生を３つの作品のうち、どれか１つについて考えて過ごすとしたら、僕はシンプソンズとフィアファクターは選ばないと思います。深い喜びについてじっくり考えれば、自分自身の視野が広がり、さらに多くの喜びを引き出すことができるからです。
君の名前は？
学生Ｄ：ジョーです。
ジョー、では君は、残りの人生をカンザスの農場で過ごすことになって、シェイクスピアかシンプソンズのどちらか１つしか選ばないとしたら、シェイクスピアを選ぶんだね。
ジョン・スチュワート・ミルは高級なものと低級なものの両方を経験した人は高級な方を選ぶと言ったが、それは証明されただろうか。
学生Ｄ（ジョー）：別の例をあげてもいいですか？
どうぞ。
神経生物学の授業で教わったのですが、ネズミの脳には強烈な快楽をもたらす神経があり、その神経を刺激する方法を学んだねずみは食べることも忘れて死んでしまうそうです。それだけ強力な快楽を得られるそうです。僕は強烈な喜びは生涯にわたって、得られる喜びよりも質の低いものだと思います。もちろん、強烈な喜びを得たいとは思います。でも、そうでしょ？本当にそう思っています。（会場拍手）でも、長い目でみれば、ここにいるほとんど全ての人がつかのまの強烈な快楽をおぼれるねずみであるよりも、高級な喜びを享受する人間でありたいと考えると思います。先生の質問に答えると、このことが証明する、いえ、証明するとまでは言えませんが
、２つの喜びのうち、どちらを選ぶかたずねられた時、過半数の人は高級の喜びを選ぶだろうということです。
つまり、ミルは正しかったということだね？
学生Ｄ（ジョー）：そうです。
ありがとう、誰かジョーに反対するという人はいないかな？今回の実験でミルの誤りがわかったと思う人？功利主義の枠組みの中で、喜びを高級なものを区別することは不可能だと考える人は？どうぞ！
学生Ｅ：人は良いものを選びます。それは相対的なもので、客観的な定義はありませんが、シンプソンズがより好まれる社会もあるでしょう。シンプソンズは誰にでも理解できますが、シェイクスピアを理解するのは教育が必要だと思います。
なるほど、高級なものを理解するには、教育が必要だ、ミルも高級な喜びは理解と教育が必要すると言っている、その点は争っていない、そして１度教育されると、人は高級なものを低級なものの違いがわからうようになり、実際に低級なものより高級なものを好むようになると言うのだ。
ジョン・スチュワート・ミルの有名な１節がある。
満足した豚であるより不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。その愚者がもし異を唱えたとしても、それは愚者が自分の側のことしか知らないからに過ぎない。
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ここからも低級な喜びと高級な喜びを区別しようとする姿勢がみてとれる。美術館にいくか、家のソファーでビールを飲むか、時には私たちも後者の誘惑に負けることがある。それはミルも承知している。しかし、私たちは物臭にダラダラ過ごしている間にも、美術館でレンブラントのもっと高級な喜びを得られるということを知っている。どちらも経験しているからだ。そしてレンブラントをみるのが高級なのは、それが人類の高度な能力に関わっているからだ。
個人の権利が尊重しないという反論にミルはどう答えようとしたのだろうか？ある意味では彼は同じような論拠を使っていて、、それは第５章に書いてある。
私は、効用に基づかない正義の架空の基準を作り出す、どのような見せかけの理論にも意義を唱える。一方で効用に根ざした正義こそがすべての道徳性に主たる部分であり、比類なくもっとも神聖で拘束力を持つものであると考える。
つまり、正義はより高級なもので、個人の権利は特権的だが、功利主義の条件から外れない場合においてのみ、尊重されるということだ。
正義とは、ある種の道徳的要請の名称であり、集合的に見れば、社会的効用は、ほかの何よりも大きく、ほかの何よりも優先されるべき義務なのである。
正義は神聖で最優先されるべきものであり、それより劣るものと簡単に交換できるものではない。しかしその理由は究極的には功利主義の考えに基づいたものであると、ミルは主張する。
私たちが考慮すべきなのは、人類全体の全てと長期的な利益である。もし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば社会全体が向上するだろう。
この考え方に説得力はあるだろうか、それともミルは質の高い喜びや神聖で特に重要な個人の権利について論じることで、知らず知らずのうちに功利主義の枠組みにはみ出してしまったのだろうか。
ここではその問いに答えることはできない。権利と正義を論じるためには、いったん功利主義から離れ、別の方法で権利とは何かを説明し、それらの考え方が成功しているかどうか、確かめなければならないからだ。
ところで、道徳と法哲学の考え方として功利主義をはじめたジェレミー・ベンサムは１８３２年に８５歳で亡くなった。しかし今でもロンドンに行けば、文字通り彼に会うことができる。彼は自分の遺体に防腐処理をしてロンドン大学に飾って欲しいと言い残していた。
それは実行され、ベンサムは本当に生前着ていた洋服に身をつつみ、ガラスケースの中に座っている。亡くなる前、ベンサムは彼の哲学に関連するある問いに答えた。
死者はどのような形で人の役にたつことできるか。１つは解剖学の研究のために遺体を使わせることだ。しかし、偉大の哲学者の場合は未来の思想家を刺激するために、その肉体を保存する方が良い。
はく製になったベンサムをみたいかい？さぁどうぞ、これだ。
ところで近くでよくみるとわかるが、本物の頭は防腐処理に失敗したので、替わりにロウの頭がつけられている。そして、足元に目をやると、そこには本物の頭が置いてある。皿の上に（会場笑い）わかるかな？ここだ。
では、この話の教訓はなんだろう。
ところで、大学はベンサムの身体を会議につかせて、議事録には出席したが投票せずと、書いているそうだ（会場笑い）
これぞ哲学者だ。生きている間も死んでからも自分の哲学の原則に忠実だった。次回は権利について続けよう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」</p>
<p>功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。この講義ではタバコ会社、自動車会社が行った費用便益分析を取り上げ、その問題点を考える。そして功利主義に対する２つの反論が学生から示された。１つは「個人の権利もしくは少数派の権利を尊重していない」というもので、もう１つは「人々の好みあるいは価値を合計することをできない」というもの。後者に関しては心理学者ソーンダイクの実験を示し、その結論をどう捉えるべきか？と疑問を残し講義は終了する。</p>
<p class="hiroken0">
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<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture03<br />
<strong>PUTTING A PRICE TAG ON LIFE</strong><br />
Lecture04<br />
<strong>HOW TO MEASURE PLEASURE</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：55:10
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture03「命に値段をつけることに正義はあるか」</font></h2>
<p>前回の講義で私たちは２人の船乗り、ダドリーとスティーブンズの裁判について議論した。海で遭難した男たちが少年を殺して食べた事件だ。まず、議論の内容を思い出して欲しい。船長と航海士が何をしたか。それに対してどんな意見が出たか。それを頭に入れた上で、<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">哲学者やジェレミ・ベンサムの功利主義の話に戻ろう</font>。<br />
<span id="more-3081"></span></p>
<p class="hiroken08">
<a href="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/200px-Jeremy_Bentham_by_Henry_William_Pickersgill_detail.jpg" rel="lightbox[3081]"><img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/200px-Jeremy_Bentham_by_Henry_William_Pickersgill_detail.jpg" alt="" title="200px-Jeremy_Bentham_by_Henry_William_Pickersgill_detail" width="100" class="alignnone size-full wp-image-2909" /></a><br />
ベンサム(<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェレミ・ベンサム" target="_blank">Link:wiki</a>)は１７４８年のイギリス生まれ。１２歳でフォックスフォード大学に進学し、１５歳でロースクールに入った。１９歳で司法試験に合格したが、弁護士にはならず、法学と道徳哲学に人生を捧げた。</p>
<p>ベンサムの功利主義については前回も触れたが、その中心となる議論が単純だった。</p>
<p class="hiroken08">
道徳の最高原則は社会の幸福のために、一般的福祉を最大化することで、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">全体として快楽が苦痛を上回るようにする</font>ことである。つまり、一言で言うと「<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">効用の最大化</font>」だ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">ベンサムは次のような推論でこの原則にたどりついた</font>。</p>
<p>私たちは皆、苦痛と喜びに支配されている。だからどんな時も苦痛と喜びを考慮する必要がある。その最も良い方法が最大化だ。これが最大多数のための最大幸福の原則へとつながる。</p>
<p>では、何を最大化すべきか。</p>
<p>ベンサムは幸福、あるいは現実には効用だと言っている。効用を最大化するのは個人のためだけでなく、共同体や法律を定める者へのためでもある。</p>
<p class="hiroken08">
<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">しかし結局のところ、共同体とは何なのか。</font>ベンサムは考えた。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">それは個人の集まり。</font>だから、より良い政策や法律を定めようとする時、あるいは正しい行いとは何かを考える時、人はこう自分に問いかけてみなければならない。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">この政策によって生じる全ての便益の合計から代償を差し引いた時、幸福が苦痛を上回るだろうか。最大の喜びをもたらすものこそ最善である。効用の最大化とはそういうことだ。</font></p>
<p>さて今日は、君たちがこの考え方に賛成かどうか聞きたいと思う。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ところで、</p>
<p class="hiroken10">
この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使ってきた。その場合、効用は数値で表される。たいていはドルに換算され、様々な事業についてその費用と便益が数値化される。
</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">最近、チェコ共和国ではタバコの消費税率を上げようという提案があった。</p>
<p>そこで、チェコで大規模な事業を展開している。あるアメリカのタバコ会社がチェコにおける喫煙の<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">費用便益分析を行った</font>。</p>
<p>その結果、一つのことが明らかになった。チェコ政府が国民の喫煙によって得をする。ということだ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">さて、政府はどのように得をするのか</font>。</p>
<p class="hiroken08">
チェコ政府の財政にマイナス効果があるのは事実だ。喫煙により病気を発症する人々への医療費の負担が増えるからだ。一方、プラス効果もあった。そういったものは帳簿の便益蘭に加算された。プラス効果の大部分を占めていたのはタバコ関連商品の販売による様々な税収だ。しかし、それ以外に人々が早死にした時に政府が節約できる医療費も含まれていた。また、年金や高齢者のための住宅費用も節約できる。<br />
これら全ての費用と便益を踏まえたタバコ会社の調査結果がこれだ。<br />
チェコ政府の純収入は１億４７００万ドル増加する。喫煙が原因で早く亡くなる人については政府や住宅費や医療費、年金を支払う必要がなくなるから、一人当たり１２００ドル以上節約できる。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">これが費用便益分析だ。</font></p>
<p>君たちの中で、功利主義を擁護する人もこれはひどい実験だと思うかもしれない。<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">このタバコ会社はメディアにたたかれ、結局この心ない計算について謝罪した。</font></p>
<p>君たちはこの分析に命の価値だと言うかもしれない。つまり、肺癌で亡くなる人やその家族にとっての命の価値だ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">命の価値はどうなるのか。</font></p>
<p>費用便益分析はそれを計算で組み込んでいるものがある。<br />
中でも得に有名なのが<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">アメリカの自動車メーカーが発売したある車の事例だ</font>。７０年代に起きた事件だが、ピントという車を覚えている人はいるかな。これは小さな車でとても人気があった。</p>
<p>ただ、一つ問題があった。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">燃料タンクが車の後方にあり、後ろから追突されると炎上するという点だ</font>。</p>
<p>事故で亡くなった人もいれば、重傷を負った人もいた。負傷した被害者たちはこの自動車メーカーを訴えた。そしてその<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">訴訟の中でメーカーがずいぶん前から燃料タンクの弱点を認識していることが明らかになった<font>。燃料タンクの周りに保護シートをつけることを考え、それを実行する価値があるかどうかを判断するために<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">費用便益分析を実施していた</font>のだ。</p>
<p class="hiroken08">
その際、車の安全性を向上させるためにかかる費用は１台あたり、１１ドルとした。そしてこれが裁判の中で公開された会社側の費用便益分析の結果だ。<br />
１２５０万台の車の安全性を向上させるには１台あたり１１ドルとして、１億３７００万ドルかかる。それからこの金額を投じて、車を修理した場合の便益、つまり、事故を防ぐことへの価値を計算した。<br />
死者１８０名。１人当たりの価値をドルに換算すると２０万ドル。負傷者を１８０人。<br />
１人当たり６７０００ドル。事故を起して炎上する車は２０００台で修理費用は１台あたり７００ドルだ。これらの便益を合計すると４９５０万ドルにしかならなかった。<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">メーカーは車を直さなかった。</font></p>
<p><font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
言うまでもないが、裁判の中で会社がつくった費用便益分析のメモが公開されると、陪審員が愕然として、巨額の和解金の支払いを命じた。この自動車メーカーは命の価値という基準を加えたからこれは合理主義的な計算とは言えないだろうか。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">さぁここでメーカーの側に立って費用便益分析を弁護したい人はいないだろうか。</font><br />
弁護できる人は？<br />
もしくはこれが功利主義の計算法を完全に破壊していると思う人は？どうぞ！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ａ：この自動車メーカーもさきほどの例を同じ間違いを犯していると思います。彼らは人の命に値段をつけましたが、家族の苦痛や喪失感を全く考慮していません。家族は収入だけでなく愛する人を失います。それは２０万ドル程度のものではありません。</font></p>
<p>なるほど。君の名前は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ａ：ジュリアです。</font></p>
<p>ジュリアに聞こう。君は愛する人が永遠に失われることを考慮すると２０万ドルでは安すぎると思うかね。それなら適切な額はいくらだと思う？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ａ（ジュリア）：数字で表せるものではないと思います。人の命をこの種の分析に利用すべきではありません。</font></p>
<p>金額が低すぎたというだけでなく、数字で表そうとしたこと自体がそもそも間違っていたと。<br />
他に意見はあるかな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：インフレを考慮しないと。</font></p>
<p>インフレを考慮しないといけない。（会場笑い）<br />
なるほど、その通りだ。では、今ならいくらになると思う？これは３５年前の話だ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：２００万ドルです。</font><br />
２００万ドル。２００万ドルをつけるか。君の名前は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：ボイテクです。</font></p>
<p>ボイテクはインフレを考慮してもっと奮発するべきだと言っている。<br />
ということは君は数字に置き換えること自体は賛成なんだね。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ（ボイテク）：あいにく、そうです。　なんらかの数字に置き換えなければならないと思います。適切な数字というのはわかりませんが、おそらく命の価値を数字で表すことはできると思います。</font></p>
<p>なるほど、ボイテクはジュリアとは違う意見だ。ジュリアは命の価値を数字で置き換えるのはできないと言った。ボイテクは何らかの決断を下すためには、それも必要だと言った。</p>
<p>では、他の人はどうだろう。<br />
費用便益分析を弁護できる人はいないかな？いい事だと思う人は？どうぞ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：この自動車メーカーも他のメーカーも費用便益分析を行わなければ利益を出せず倒産してしまうと思います。そうなれば、何百万人のも人々が通勤に車を使えなくなり、生活に支障をきたします。ですから、この場合、費用便益分析が行われなかったら、より多くな幸福が犠牲になっていたと思います。</font></p>
<p>ありがとう。君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：ラウルです。<br />
</font></p>
<p class="hiroken08">ラウル。最近、運転中のケータイ電話の使用についての調査が行われた。この行為を禁止すべきかどうかが行われた。そして、調査の結果、毎年おそよ２０００人が運転中にケータイ電話を使ったために事故を起こし、命を落としていることがわかった。<br />
しかし、ハーバード大学のリスク分析センターが行った費用便益分析では、運転中にケータイ電話を使うことでもたらされる便益と失われる命の価値はほぼ同じだという結果が出た。運転中に商談を進めたり、友人と話したりすれば時間を節約でき、大きな経済効果が生まれるというわけだ。<br />
これを聞いてもまだ、命を価値をドルに換算することが間違いだとは思わないかな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ（ラウル）：もし、大多数の人々がケータイ電話のようなサービスを利用し、その利便性を最大限に活かしたいと考えるなら、仕方ないと思います。満足には犠牲がつきものですから。</font></p>
<p>君は完全は功利主義者だ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ（ラウル）：まぁ、そうですね。</font></p>
<p>それじゃあ最後の質問だこれはボイテクにも聞いたが、人の命に値段をつけるとしたら、この場合はいくらが打倒だと思う？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ（ラウル）：そうですね。今、この場で思いつきで数字をあげたくはないですが、、、</font>（会場笑い）<br />
じっくり考えたい？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ（ラウル）：そうですね。</font></p>
<p>大体でいいんだ。死者は２３００人ケータイ。ケータイ電話の使用を禁止するかどうか決めるにはなんらかの数字が必要だ。だから、直感で言ってみて欲しい。１００万ドル？２００万ドル？ボイテクは２００万ドルと言ったが、君はどう？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ（ラウル）：１００万で！</font><br />
１００万ドル？よく答えてくれた、ありがとう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font></p>
<p class="hiroken08">
最近ではこのような費用便益分析を巡って論争が起きている。<br />
計算のために何にでも値段をつけてしまうことが問題視されているからだ。</p>
<p>では、ここからはそういった反対意見に目を向けてみよう。<br />
ただし、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">費用便益分析は厳密に言えば、功利主義の理論を実践した１つの例に過ぎない</font>のだ。<br />
それだけに絞らず、<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">功利主義全体に対する反論について考えてみよう。</font></p>
<p>功利主義の理論とはこういうものだった。<br />
正しい行いや正しい政策や法律とは効用を最大化するものである。</p>
<p>この法律や公共の利益に関する功利主義の考えに反対の者はどれくらいいる？<br />
では、賛成の人は？反対よりも賛成の方が多いね。<br />
では、反対意見から聞こう。どうぞ</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：功利主義に問題があると感じるのは少数派がないがしろにされているからです。多数派の望むことの方が価値があるとは限りません。ですから、最大多数のために最大幸福の考え方には賛成できません。少数派にとっては公平ではないし、発言の機会を得られなくなってしまうと思います。</font></p>
<p>おもしろい意見だ。君は少数への効果を心配しているんだね。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：そうです。</font><br />
君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：アナです。</font></p>
<p>少数派へ効果を心配するアナの意見に反対の人はいるかな？どう反対する？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｅ：彼女は少数派が軽んじていると言いましたが、そんなことはないと思います。少数派であろうと多数派であろうと１人１人の価値に差はありません。多数派は数で上回っているだけです。時には意思決定をしなければならないこともあります。少数派は気の毒ですが、それはより大きな幸福のためです。</font></p>
<p>より大きな幸福か。君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｅ：ヨンダです。</font></p>
<p>アナはどう答える？ヨンダは人々の好みを集計した結果、多数派の意見が上回るだけであり、その中には少数の意見も加味されていると言ってる。君は功利主義は少数派をないがしろにしていると言ったが、なぜそう思うのか教えて欲しい。例を上げてもらえるかな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ（アナ）：これまでにあがったどんな事例にも言えると思います。例えば、救命ボートの事件では食べられてしまった少年には<br />
他の人たちと同じようにまだ生きる権利があったと思います。たしかに、彼はあの場合の少数で生き残る可能性は低かったかもしれませんが、だからといって殺していいということにはなりません。より多くの人に生きる可能性を与えるからというだけで、他の人たちが彼を食べる権利も持つようにはなりません。</font></p>
<p>なるほど、つまり、少数派の１人１人にもある種の権利があり、それは効用のために犠牲にされるべきものではないと。そういうことかな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ（アナ）：はい。</font><br />
そうか、ありがとう。ではヨンダに聞こう。</p>
<p class="hiroken08">
古代ローマでは、ローマ人は娯楽のためにキリスト教徒をライオンと戦わせていた。これを功利主義の理論にあてはめると、ライオンに教われるキリスト教徒の痛みと苦しみと大勢のローマ人の集合的なエクスタシーでは、どちらが大きいだろう。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｅ（ヨンダ）：そうですねぇ。<br />
それは過去の話で、僕は今日の制作立案者が見ている人々の快楽に数字をあてて、１人の痛み、１人の苦しみは大勢の快楽よりずっと小さいと判断するようなことはないと思います。</font></p>
<p>でも、君のさっきの考えを突き詰めていくと、大勢のローマ人の集合的な一握りのキリスト教徒の耐え難い痛みより大切だとなってしまうよ。（会場笑い）</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">ここまでに功利主義に対する２つの反論がでた。</font></p>
<p>１つは功利主義が<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">個人の権利、もしくは少数派の権利を尊重していない</font>というもの。<br />
そして、もう１つは<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">人々の好み、あるいは価値を合計することをできない</font>、というもの。<br />
つまり、全ての価値をドルに換算して計算することは不可能ではないかという考え方だ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">実は１９３０年代にこの２つ目の質問に答えようとしたソーンダイクという心理学者がいた。</font></p>
<p>彼は人間の行為に関わらず、全てのこと、全ての価値を一律の基準で表すことは可能だと考え、それを証明しようとした。<br />
そして、彼は政府からの生活保護を受けている若い人を対象に調査を行った。<br />
若者たちに不愉快な行為のリストを渡して、あなたならいくらもらえばこれらのことを実行するか、と聞いて回ったのだ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
例えば、いくら貰えば上の前歯を１本抜くか、いくら貰えば片方の足の小指を切断するか、他には１５センチのミミズを生きたまま食べる。カンザス州の農場で残りの人生を送る。（会場笑い）<br />
素手で野良猫を窒息死させる、というのものもあった。さぁ、この中でもっとも高い金額がついたのはどれだと思う？</p>
<p>カンザス？（会場笑い）</p>
<p>その通り、カンザスだった。（会場笑い）<br />
彼らは３０万ドル貰わなければカンザスの農場では暮らさないそうだ。では、次に高かったのはどれだろう。猫じゃないよ、歯でもない、小指でもない、ミミズだ。１０万ドル払わなければミミズは食べてくれないそうだ。一番安かったのは何だったと思う？猫じゃない、歯だ。大恐慌の時代、人々はたった４５００ドルで喜んで歯を抜かせたんだ。</p>
<p class="hiroken08">
さぁ、ソーンダイクはこの研究から次のような結論を出した。<br />
望みであれ、満足であれ、ある程度存在していれば、どんなものでも測定できる。犬や猫や鶏の生活は食欲、願望、そして満足からなっている。人間の場合も欲求や願望が多少複雑ではあるものの、基本的に動物と変わらない。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">しかし、この結論をどう捉えるべきであろう。</font><br />
これは全てのものの価値は同じ尺度で測ることができるという、ベンサムの考えを裏付けているのだろうか？あるいはソーンダイクがバカげた例を上げて調査を行ったことで、それとは正反対のことが示されたのかもしれない。つまり、人が重んじていることや大切にしているものは、たとえ命であれ、カンザスであれ、ミミズであれ、一律の価値基準に当てはめることなどできない。ということだ。もし、後者が正しいとすれば、功利主義の道徳的は原理がくずれてしまうことになる。</p>
<p>次回はそれについて議論しよう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」</p>
<p>功利主義のベンサムを弁護する哲学者ミルを考える。ミルは道徳的な高さは効用の大きさで決まるとした。効用の大きさの計り方は、人は２つのものを両方経験すれば、自然と高級なものを選ぶ。経験から生まれる願望は正しい道徳的根拠だとした。しかし本当だろうか。シェイクスピアのハムレットとアニメのシンプソンズを比べると、ほとんどの人がハムレットを高級なものだとするだろう。しかし、ハムレットのおもしろさがわかるには理解あるいは教育が必要だ。この２つを理解なしに経験したらシンプソンズの方が今は好きだと思う人は多い。だとすれば、両方経験しても自然と高級を選ぶという考えは間違いではないか。また、功利主義は社会全体の幸福の最大化を目指すわけだが、一方、少数派はないがしろにされているのではないか、この個人の権利はミルはどう考えているのだろうか。ミルは個人の権利は尊重されるべきだとしている、そして個人が正義を行えば、長期的にみて社会全体は向上するという。本当だろうか。どうも、まずは、個人の権利について考える必要がありそうだ。１度功利主義から離れて、個人の権利を次回から考えることにしよう、として講義は終わる。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture04「喜びを測定して出した結論は公平か」</font></h2>
<p>これまでジェレミーベンサムの功利主義に対する、反対意見について議論してきた。<br />
君たちは２つの反論を出した。</p>
<p>１つ目は、功利主義は最大多数のための最大幸福に重きをおいているため、個人の権利を尊重することができない、というものだ。</p>
<p>ここで、拷問とテロリズムについて考えてみたい。<br />
９月１０日にテロの容疑者を逮捕したとしよう。<br />
君は彼が３０００人以上を殺害する差し迫ったテロ攻撃についての決定的な情報を持っていると信じているが、情報を引き出すことができない。その情報を得るために容疑者を拷問することは正しいだろうか、あるいは、君には個人の権利を尊重する道徳的義務があるから、やってはいけないのか。</p>
<p>ある意味、これは最初に議論した路面電車と臓器移植に話に通じる問題だ。<br />
それから前回の講義では費用便益分析の例を紹介した。だが、多くの人が費用便益分析のために、命に値段をつけることを良しとしなかった。それがこれが２つ目の反論へつながる。</p>
<p>はたして、すべての価値を一律の基準で捉えることは可能なのか、という問題だ。種類の違うものを同じ尺度で計ることができるであろうか。</p>
<p>では、ここでもう１つの例をあげてみよう。<br />
これは実際にあった話で私の個人的な経験からきている。少なくとも、全ての価値を功利主義の議論に当てはめていいのか、どうか考えさせてくれるだろう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
何年も前、私がまだ大学院生だったこと、オックスフォード大学は男女共学ではなく、男子カレッジと女子カレッジに分かれていた。そして女子カレッジの寮に男性を泊めることは禁じられていた。でも、この規則は形だけのものになていて、みんな平気で破っていた、と私は聞いた。（会場笑い）</p>
<p>１９７０年代の後半になると、この規則の緩和を求める圧力が高まり、女子カレッジの１つセントワンカレッジの１つで話し合いが持たれた。年配の女性教職員たちは保守的で、従来の規則を変えることに反対した。しかし、時代は既に変わっていた。彼女たちは反対する本当の理由をするのが恥ずかしかくて、議論をすり替えて、功利主義の理論に当てはめた。</p>
<p>男性が泊まると大学側の出費が増える、と彼女たちは言った。どうしてそうなるのか、男性が風呂に入るとお湯の消費量が増えるからだそうだ、さらにはマットレスを交換する頻度が増えるという意見まででた。（会場笑い）</p>
<p>改革を求める人たちは条件を付けることで大学側と合意した。各女性が泊められる男性は週に３人までとする。同じ男じゃなきゃいけないという決まりはなかった。（会場笑い）<br />
条件はもう１つあった。宿泊客は費用をまかなうために５０ペンスを支払わなければならない。翌日、全国紙の見出しにはこんな文字が載った。セントワンの女の子は１晩５０ペンス。（会場笑い）</p>
<p>この例では定説という価値が考慮されていないことからも、全ての物ごとを功利主義にあてはめることがいかに難しいかがわかる。</p>
<p>ところで、功利主義に対する２つ目の反論について例をあげて説明してきた。そして少なくともその反論には次のような疑問が含まれていることがわかった。</p>
<p>私たちは全ての価値を同じものさしで測れるとう前提の下で、道徳的な考慮事項にもドルという価値を当てはめることができると想定しているが、果たしてこれは、これは正しいのだろうか。さらに私たちが価値や好みを集計することは懸念するのには、もう１つ理由がある。なぜ人々の好みを、良い好みと悪い好みの分類せず、全てを一律に計る必要があるのか、と考えるからだ。</p>
<p>私たちは高級な喜びと低級な喜びを区別すべきではないだろうか、人間の好みに優劣をつけないというのは、ある意味では魅力的なことだと言える。なぜ、そう言えるかというと、判断を必要しないし、平等主義的だから。</p>
<p>ベンサム派の功利主義者は誰の好みも重要だと言う。他の人が何を望むか、何をもって幸せを感じるかに関わらず、全ての好みが集計されるべきだと。</p>
<p>ベンサムが重要視したのは覚えているね。喜びや苦痛の種類ではなく、その大きさと長さだった。<br />
ベンサムにとって、いわゆる高級な喜びや崇高な美徳とは、より強く、より長く喜びをもたらすものだった。この考えを表した有名な言葉がある。</p>
<p>喜びの量が同じであれば、プッシュピンは詩と同じように良い。プッシュピンとは子供の遊びでピンをはじくゲームだが、それは詩と同じように良いとベンサムは言った。この言葉にはこんな主張が込められている。私たちには他人を比較して、どちらの方が価値が、どちらの方が優れている、などと判断する権利はない。</p>
<p>この優劣の判断を拒む姿勢は魅力的だ。世の中にはモーツァルトが好きな人もいれば、マドンナが好きな人がいる。バレーが好きな人がいれば、ボーリングが好きな人もいる。</p>
<p>ベンサム信奉者なら、誰の喜びの方が高級で価値があるかなんて、誰にもわからない、というだろう。しかし、本当にそれでいいのか。喜びの優劣を考慮しなくていいのだろうか。同じ喜びでも、ある種のものは他のものより優れていたり、価値が高かったりする、という考えを完全に取り払っていいのだろうか。</p>
<p>古代ローマでは、大勢のローマ人の快楽のために、キリスト教徒の人権が侵害されていた。そして、そのことからベンサムの理論の別の問題点も見えてきた。より多くの人の幸福が何かを決めるためには、戦いを見物するローマ人が享受していた、邪悪で下劣な喜びにも、何らかの価値を与え、評価しなければならないんだろうか、ということだ。</p>
<p>これが、ベンサムの功利主義に対する反論だ。</p>
<p>実はかつて、その反論に答えようとした人物がいた。もっと後の時代の功利主義者、ジョン・スチュワート・ミルだ。</p>
<p>ここからはジョン・スチュワート・ミルがベンサムの功利主義に対する反論に説得力のある答えを持っていたかどうかをみていこう。</p>
<p>ジョン・スチュワート・ミル、１８０６年生まれ、父親のジャイムズ・ミルはジャレミーベンサムの弟子で、息子のジョン・スチュワート・ミルに模範的な教育を受けさせようとした。ジョン・スチュワート・ミルは神童だった。彼は３歳でギリシャ語、８歳でラテン語を理解し、１０歳でローマ法の歴史について書いた。２０歳で神経衰弱に陥った。</p>
<p>その後、５年間は鬱状態であったが、２５歳の時、ハリウッドテイラーという女性と出会い、鬱状態から抜け出す。２人は結婚し幸せに暮らした。そして彼女の影響の下で、功利主義を血の通ったものにしようとした。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ミルが試みたのは、個人の権利などの人道的問題や、高級な喜びと低級な喜びを区別する必要性を考慮に入れた上で、功利主義の計算法を拡大し修正できるかどうかを確かめようとするものだった。</p>
<p>１８５９年には、有名な著書「自由論」を書き、個人の権利と少数派の権利を擁護する側の重要性を説いた。さらに晩年１８６１年には、この授業でもとりあげる「功利主義論」を書いた。</p>
<p>ミルは道徳性への高さは効用の大きさで決まると考えていた。つまり、ベンサムの前提を否定していたわけではない。その証拠に彼ははっきりと述べている。望ましいものとは実際に人が望むものである。経験から生まれる願望こそ、正しい道徳的根拠である。というわけだ。</p>
<p>しかし、第２章の８ページでは、彼は功利主義者が高級な喜びと低級な喜びを区別することが可能だと論じている。</p>
<p>さぁ、すでにミルを読んだ人なら、彼がどうすれば区別できると言っているかわかるね。功利主義者はどうやって劣ったもの、卑しいもの、価値のないものから、質の高いものを区別するのか。君！</p>
<p>学生Ａ：両方をためしてみれば、人は自然に高級なものの方を好むものです。<br />
そのとおりだ、君の名前は？<br />
学生Ａ：ジョンです。<br />
ジョンが指摘したように、ミルはこう言っている。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
人々の願望や好みを除外して考えることはできない。なぜなら、それでは功利主義の前提をくずすことになるからだ。高級な喜びと低級な喜びを区別する方法は、ただ１つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである。そして第２章には、さっきジョンが説明してくれたことをミルが主張する一説がある。</p>
<p>２つの喜びのうち、両方を経験した者が全員または、ほぼ全員、道徳的義務感と関係なく、つまりどんな基準にも左右されずに、迷わず選ぶものがあれば、それがより好ましい喜びである。</p>
<p>さぁ、君たちはどう考える？この議論は成功しているだろうか。成功している人は手をあげて。この方法で高級な喜びと低級な喜びを区別できると思う人？では、無理だと思う人？理由を聞きたいが、その前にミルの主張を確かめるために、１つ実験をしよう。</p>
<p>これから君たちに３つの映像をみてもらう。人気のある映画や番組のワンシーンだ。</p>
<p>１つ目はハムレットの「独白」。その後に別の２つの何かがつく。<br />
では、はじめよう。</p>
<p>（ムービー：ハムレットの独白）<br />
（ムービー：フィア・ファクター）<br />
（ムービー：ザ・シンプソンズ）</p>
<p>どれが好きだったか、聞くまでもないね。<br />
じゃあ、シンプソンズだと言う人。（会場大多数）<br />
シャイクスピアの人は？（会場一部）<br />
フィアファクターはどうかな？フィアファクターがよかった人？（手をあげて人に対して）ホントに？</p>
<p>シェイクスピアの人よりもシンプソンズが好きな人の方が圧倒的に多かった。どれが最高の経験、最高の喜びだったと思うか。<br />
シェイクスピアだと思う人？（会場ちらほら）<br />
フィアファクターだと思う人？（手をあげて人に対して）いや、そんなわけない！ホント？（会場笑い）理由は？</p>
<p>学生Ｂ：一番おもしろかったからです。<br />
それはわかるが、それがもっとも価値がある、崇高な経験だったか教えて欲しい。<br />
学生Ｂ：僕にとっては、愉快なことに価値があります。他の人がどう考えるか関係ないのではないでしょうか。<br />
わかった、君は純粋なベンサム派に属するわけだね。</p>
<p>人々の好みを集計するのはいいとしても、その価値を誰かが判断するのはおかしい。なるほど、君の名前は？ネットかぁ。</p>
<p>シェイクスピアが最も高級だと考える人の中で、実際にはシンプソンズの方が好きだと言う人の意見を聞きたい。</p>
<p>学生Ｃ：シンプソンズは笑わせてくれるので、見ているだけで楽しめます。でも、シャイクスピアを楽しむには、読み方や解釈の仕方を誰かに教えてもらわなければなりません。レンブラントの絵画などと同じだと思います。<br />
君の名前は？<br />
学生Ｃ：アニーシャです。</p>
<p>アニーシャ、もし誰かが君にシェイクスピアの方がいいと教えてたら、君はそれを無条件で受け入れるの？シェイクスピアが高級だと言ったのは、そう教えられたからなのかい？それとも自分自身でも納得しているんだろうか。</p>
<p>学生Ｃ（アニーシャ）：シェイクスピアは教えられたからではありませんが、レンブラントはそうです。レンブラントの絵はすごい、と言われればそう思いますが、実際は彼の絵を分析することよりも、マンガを読むことの方が楽しいと思います。　</p>
<p>なるほど、君が言うように、文化と伝統の圧力というもの、ある程度はあると。私たちはどれが良い作品であるということを、教えられているからねぇ。他には？君！</p>
<p>学生Ｄ：今日のこの授業の中では、シンプソンズが１番楽しいと感じました。でも、残りの人生を３つの作品のうち、どれか１つについて考えて過ごすとしたら、僕はシンプソンズとフィアファクターは選ばないと思います。深い喜びについてじっくり考えれば、自分自身の視野が広がり、さらに多くの喜びを引き出すことができるからです。</p>
<p>君の名前は？<br />
学生Ｄ：ジョーです。<br />
ジョー、では君は、残りの人生をカンザスの農場で過ごすことになって、シェイクスピアかシンプソンズのどちらか１つしか選ばないとしたら、シェイクスピアを選ぶんだね。</p>
<p>ジョン・スチュワート・ミルは高級なものと低級なものの両方を経験した人は高級な方を選ぶと言ったが、それは証明されただろうか。</p>
<p>学生Ｄ（ジョー）：別の例をあげてもいいですか？<br />
どうぞ。<br />
神経生物学の授業で教わったのですが、ネズミの脳には強烈な快楽をもたらす神経があり、その神経を刺激する方法を学んだねずみは食べることも忘れて死んでしまうそうです。それだけ強力な快楽を得られるそうです。僕は強烈な喜びは生涯にわたって、得られる喜びよりも質の低いものだと思います。もちろん、強烈な喜びを得たいとは思います。でも、そうでしょ？本当にそう思っています。（会場拍手）でも、長い目でみれば、ここにいるほとんど全ての人がつかのまの強烈な快楽をおぼれるねずみであるよりも、高級な喜びを享受する人間でありたいと考えると思います。先生の質問に答えると、このことが証明する、いえ、証明するとまでは言えませんが<br />
、２つの喜びのうち、どちらを選ぶかたずねられた時、過半数の人は高級の喜びを選ぶだろうということです。</p>
<p>つまり、ミルは正しかったということだね？<br />
学生Ｄ（ジョー）：そうです。<br />
ありがとう、誰かジョーに反対するという人はいないかな？今回の実験でミルの誤りがわかったと思う人？功利主義の枠組みの中で、喜びを高級なものを区別することは不可能だと考える人は？どうぞ！</p>
<p>学生Ｅ：人は良いものを選びます。それは相対的なもので、客観的な定義はありませんが、シンプソンズがより好まれる社会もあるでしょう。シンプソンズは誰にでも理解できますが、シェイクスピアを理解するのは教育が必要だと思います。</p>
<p>なるほど、高級なものを理解するには、教育が必要だ、ミルも高級な喜びは理解と教育が必要すると言っている、その点は争っていない、そして１度教育されると、人は高級なものを低級なものの違いがわからうようになり、実際に低級なものより高級なものを好むようになると言うのだ。</p>
<p>ジョン・スチュワート・ミルの有名な１節がある。</p>
<p>満足した豚であるより不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。その愚者がもし異を唱えたとしても、それは愚者が自分の側のことしか知らないからに過ぎない。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ここからも低級な喜びと高級な喜びを区別しようとする姿勢がみてとれる。美術館にいくか、家のソファーでビールを飲むか、時には私たちも後者の誘惑に負けることがある。それはミルも承知している。しかし、私たちは物臭にダラダラ過ごしている間にも、美術館でレンブラントのもっと高級な喜びを得られるということを知っている。どちらも経験しているからだ。そしてレンブラントをみるのが高級なのは、それが人類の高度な能力に関わっているからだ。</p>
<p>個人の権利が尊重しないという反論にミルはどう答えようとしたのだろうか？ある意味では彼は同じような論拠を使っていて、、それは第５章に書いてある。</p>
<p>私は、効用に基づかない正義の架空の基準を作り出す、どのような見せかけの理論にも意義を唱える。一方で効用に根ざした正義こそがすべての道徳性に主たる部分であり、比類なくもっとも神聖で拘束力を持つものであると考える。</p>
<p>つまり、正義はより高級なもので、個人の権利は特権的だが、功利主義の条件から外れない場合においてのみ、尊重されるということだ。</p>
<p>正義とは、ある種の道徳的要請の名称であり、集合的に見れば、社会的効用は、ほかの何よりも大きく、ほかの何よりも優先されるべき義務なのである。</p>
<p>正義は神聖で最優先されるべきものであり、それより劣るものと簡単に交換できるものではない。しかしその理由は究極的には功利主義の考えに基づいたものであると、ミルは主張する。</p>
<p>私たちが考慮すべきなのは、人類全体の全てと長期的な利益である。もし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば社会全体が向上するだろう。</p>
<p>この考え方に説得力はあるだろうか、それともミルは質の高い喜びや神聖で特に重要な個人の権利について論じることで、知らず知らずのうちに功利主義の枠組みにはみ出してしまったのだろうか。</p>
<p>ここではその問いに答えることはできない。権利と正義を論じるためには、いったん功利主義から離れ、別の方法で権利とは何かを説明し、それらの考え方が成功しているかどうか、確かめなければならないからだ。</p>
<p>ところで、道徳と法哲学の考え方として功利主義をはじめたジェレミー・ベンサムは１８３２年に８５歳で亡くなった。しかし今でもロンドンに行けば、文字通り彼に会うことができる。彼は自分の遺体に防腐処理をしてロンドン大学に飾って欲しいと言い残していた。</p>
<p>それは実行され、ベンサムは本当に生前着ていた洋服に身をつつみ、ガラスケースの中に座っている。亡くなる前、ベンサムは彼の哲学に関連するある問いに答えた。</p>
<p>死者はどのような形で人の役にたつことできるか。１つは解剖学の研究のために遺体を使わせることだ。しかし、偉大の哲学者の場合は未来の思想家を刺激するために、その肉体を保存する方が良い。</p>
<p>はく製になったベンサムをみたいかい？さぁどうぞ、これだ。<br />
ところで近くでよくみるとわかるが、本物の頭は防腐処理に失敗したので、替わりにロウの頭がつけられている。そして、足元に目をやると、そこには本物の頭が置いてある。皿の上に（会場笑い）わかるかな？ここだ。</p>
<p>では、この話の教訓はなんだろう。</p>
<p>ところで、大学はベンサムの身体を会議につかせて、議事録には出席したが投票せずと、書いているそうだ（会場笑い）</p>
<p>これぞ哲学者だ。生きている間も死んでからも自分の哲学の原則に忠実だった。次回は権利について続けよう。</p>
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		<title>JUSTICE 第１回「殺人に正義はあるか（想像編）」「殺人に正義はあるか（実例編）」ハーバード大学：サンデル教授：白熱教室</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Jun 2010 04:33:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」
１人の命を犠牲にすれば５人の命が助かるなら、１人の命を犠牲にすることは正しいのか。もし１人の命の犠牲の仕方が殺人であったならばどうか。その殺人に正義はあるのだろうか。電車事故のケースと医療のケースで考える。ここで大きく２つの考え方がみえてくる。５人と１人の命を天秤にかけ結果を考えてから決断を出す考え方と、結果を考えるのではなく行動の動機、殺人という行為が無条件的に正義ではないと考え決断を出す考え方だ。そして前者は哲学者ベンサムが、後者は哲学者カントが代表的な哲学者であると示す。また、政治哲学を学ぶことにリスクがあることをソクラテスの時代と重ね合わせて説明している。サンデル教授は締めくくりに、この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べる。









ハーバード大学
マイケル・サンデル教授


Lecture01
THE MORAL SIDE OF MURDER
Lecture02
THE CASE FOR CANNIBALISM　



時間：54:56











Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」
この講義は正義についてです。まずこの話からはじめよう。

君は路面電車の運転手で、時速１００キロの猛スピードで走っている。君は行く手に５人の労働者がいることに気付いて電車を止めようとするが、ブレーキは効かない。君は絶望する。そのまま進んで５人の労働者に突っ込めば５人とも死んでしまうからだ。
ここではそれは確実なことだと仮定しよう。
君は何もできないとあきらめかける。が、その時、脇にそれる線路待避線があることに気付く。しかし、そこにも働いている人が１人いる。ブレーキは効かないがハンドルは効くので、ハンドルをきって、脇の線路に入れば、１人は殺してしまうけれども、５人は助けることができる。
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ここで最初の質問だ。
正しい行いはどちらか？あなたならどうする？多数決をとってみよう。

ハンドルをきって避けるという人は？手を上げて！
（大多数の人が手をあげる）
では、曲がらずに直進するという人は？
直進するという人は、手を上げたままで、、、、極少数の人だけだね。
大多数の人は脇にそれる。
なぜ、そうすることが正しいと考えるのか理由を聞いていこう。
多数派からはじめよう。
なぜ、直進せず、脇にそれようとするのか。
なんで、そうするのか？その理由は何か。誰か理由を説明してくれる人！
学生Ａ：１人を殺せばすむところを５人を殺すのは正しくないからです。
１人で殺せばはすむところを５人も殺せば正しくない。
たしかに。いい理由だ。
他には？皆この理由に賛成かな？君は？
学生Ｂ：９１１同時多発テロ事件と同じです。
ワシントンに向かった飛行機の乗客は地上で犠牲になる人より数が少ない自分たち乗客が犠牲になることを選んだからヒーローなんです。
そこにある原理は同時多発テロの場合と同じだと言うことだね。悲劇的な状況だが、５人が助かるなら、１人を殺すことの方がいいということだ。この意見がほとんどかな？では少数派の意見をきいてみよう。
ハンドルをきらない理由は何かな？
学生Ｃ：これは大虐殺や全体主義を正当化する真理と同じです。ある人種を残すために、他の人種を消滅させるんです。
では君は？身の毛もよだつ大逆殺を避けたいがためにまっすぐ突っ込んで行って５人を殺すってことかな？
（会場笑い）
学生Ｃ：はい、たぶん。
突っ込む？他には？今のは勇気ある答えだったな。
では、路面電車の別のケースを考えてみよう。
こっちのケースでも５人を助けられるなら１人が死んでもしかなたい。
という原理を皆が指示し続けるかどうか、みてみよう。

今度は、君は路面電車の運転手ではなく傍観者だ。電車の線路が見える橋にいて、見下ろしていると。電車がくるのが見えた。線路の先には５人の労働者がいる。ブレーキはきかない。このままだと電車は猛スピードで電車は突っ込み５人は死ぬ。今回は君は運転手ではない。
何もできない、と諦めかけた時、自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気付く。（会場笑い）
もし、君がこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。彼は死ぬが５人を助けることができる。
さて、彼を橋から突き落とすという人は？手をあげて？
じゃあ突き落とさない人は？
突き落とさないという人がほとんどだ。
さぁここで質問だ。
１人を犠牲にしても５人の命を助けた方がいいといった原理はどうなったんだ？
さっきは　ほとんどが賛成した原理はどうなったのかな？どちらのケースでも多数派だった人の意見を聞きたい。どうやって、この２つの違いを説明をするのか？君は？
学生D：２番目のケースでは人を突き通すという能動的な選択を行わなければいけません。僕が突き落とさなければ彼をその状況とは全く関係なかったはずで、僕が彼を突き落とすという選択をしたせいで関係なかったはずの状況に彼を関わらせることになります。最初のケースは運転手と５人と１人という、３者の関係だけでしたけど、今回はそれに別の要素が加わっていると思います。
でも、待避線の男だって、太った男と同じで、自分の命を犠牲にすることを自分で選んだわけじゃないよね。
学生D：その通りです。でも、線路の上にいた。
こっちの男は橋の上にいた。
（会場笑い）
後でまた意見を言ってくれ。これは難しい質問だ。君の意見はすごくよかったよ。
この２つのケースで多数派が矛盾した答えを選んだ理由がわかる人は？君！！
学生E：最初のケースは１人が死ぬか５人が死ぬかを選ばないといけないわけで、その結果、人は死にますが、死ぬのは電車が原因であって、自分が手を下したせいではないし、電車のブレーキは効かない上、一瞬でどちらかを選ばなければなりません。
でも、太った男を落とすのは殺人行為です。突き落とすか落とさないかは自分の選択だけど、電車の暴走は自分が選んだことじゃない。だから状況が違います。
今の意見に対して反論がある人は？いい意見だったが、今の意見が正解だろうか。
学生Ｆ：それは違うと思います。
どっちにしても、死ぬ人を選ばなければいけないのは同じです。ハンドルをきって、１人を殺すのも自分の意思による行為だし、太った男を突き落とすのも自分の意思による行為です。いずれも自分の選択であることに変わりはありません。
反論があるかな？
学生Ｄ：それはちょっと違うと思います。実際に線路に突き通して殺すという行為だと自分がじかに殺すことになります。
自分で手を下すからねぇ。
学生Ｄ：そうです。運転していたら、それが人に死をもたらしたのとは違います。不謹慎かもしれませんが。
いや、いい意見だ。君の名前は？
学生Ｄ：アンドル
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じゃあもう一つ質問だ。
橋の上に立っていて、君はハンドルを回すと彼を落とせるとしよう。（会場笑い）
ハンドルを回すかい？
学生Ｄ（アンドル）：いや、それはさらにしてはいけないことのように思います。
偶然、ハンドルに寄りかかっちゃったら回っちゃったとかならいいけど。（会場笑い）
あるいは電車が落とし穴のスイッチに向かって突進しているとかなら、納得できますけど。
よろしい。やはり抵抗があるんだね。
最初のケースではハンドルを切るのは抵抗がなかったけど。
学生Ｄ（アンドル）：最初のケースでははじめから状況の当事者だったけど、このケースは傍観者なわけです。男を突き落として、はじめて当事者になるわけで。
よし、じゃあ、このケースはしばらく脇に置いといて違うパターンを考えよう。

今度は君は緊急救命室の医者だと仮定しよう。
そこへ６人の患者がやってくる。彼らはひどい路面電車の事故にあったんだ。（会場笑い）
内５人は中程度の怪我をしている。１人は重傷だ。重傷患者に一日中かかり切りで手当をすれば助かるが、そのかわり５人は死ぬ。逆に中程度の５人の手当をすれば、５人は助かるが、その間に重傷患者は亡くなる。
医者として５人を助けるという人は？
では、１人を助けるという人は？
とても少ない、一握りの人だけだ。同じ理由だろうね。１人の命対５人の命だ。

では、別の医者のケースだ。
今度は君は移植医で、生きるためには臓器移植がどうしても必要な５人の患者を抱えている。５人はそれぞれ心臓、肺、腎臓、肝臓、を必要としている。最後の１人は膵臓だ。そして、臓器のドナーはいない。君は５人の死を目前にしている。
その時、君は隣の部屋に健康診断を受けにきた１人の健康な男がいるのを思い出す。
（会場笑い）
彼は昼寝をしている。
（会場笑い）
そっと部屋に忍びこんで、５つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが５人を助けられる。
自分ならそうする、という人は？、、、いるかな？
そうする人は手をあげて？
上の方の人は？
学生Ｆ：僕はそうします。
気をつけて、乗り出して落ちないように。
（会場笑い）
そうはしないという人は？
よーし、じゃあ意見を聞こう。上にいる健康な人から臓器を抜き取ろうとする君！理由は？
学生Ｆ：僕は違う可能性にかけたい。臓器が必要な５人の可能性の内、最初になくなった人の４つの臓器を使って残りの４人を助けるんです。
それは名案だ。（会場拍手）
実にすばらしい。ただ、一つの難点は
私が設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったところだ。（会場笑い）
さて、今までの話や議論を離れて、議論が展開してきた方向について明らかになったいくつかの点を見て行こう。今までの討論から道徳の原理がいくつかその姿を見せはじめている。これらの道徳的な原理がどのようなものか考えてみよう。
討論から出てきた最初の道徳的原理は何をするのが正しくて道徳的か。ということは行動の帰結で決まる、ということだ。つまり、帰結。結果が良ければいいわけだ。１人が死ななければいけないとしても、５人が助かる方がいい。これが帰結主義者が道徳を論じる時の論じ方だ。

帰結主義者は行為の帰結に道徳性を求める。つまり、その行為によって社会が恩恵を受けることが大事なわけだ。
しかし、もう一歩進んで考えてみたところ、別のパターンでは、帰結主義的な論法には賛同しない人が多かった。ほとんどの人が橋から太った男を突き落としたり、何の罪のない患者から臓器を取り出したりすることにはためらいを覚えた。
ためらう理由は、行為の帰結とは関係なく、行為の本質に関係があるようだったね。帰結として５人が助かるとわかっていても、そうしようと思わない人が多かった。何の罪のない人を１人殺すことは、無条件で、即ち、定言的に間違っていると考えた。少なくとも例としてあげた話の２番目のケースでは無条件で、定言的に間違っていると考えた。これは道徳を考える際には定言的な考え方もある。ということを示している。
定言的な考え方では、帰結がどうあれ、ある種の絶対的な道徳的必要条件や義務や権利の中に道徳性を求める。
今後の講義では帰結主義者と無条件的な道徳原理との間を見ていく。

帰結主義者の道徳理論で、最も影響力のある例は１８世紀のイギリスの政治哲学者ジャネミーベンサムが生み出した主義。功利主義だ。一方、定言的な道徳理論の最も重要な哲学者は１８世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントだ。
この講義ではこの２つの異なる道徳理論の論じ方を学び、評価すると同時に他の論じ方も見ていく。
私のこの（１２回の）講義では数多くの名著を読んでいく。アリストテレス、ジョンロック、イマヌエルカント、ジョンスチュワートミルらの著作だ。本を読むだけではない、哲学的問題を定義する、現代政治や、法律の議論も取り上げる。平等と不平等。アファーマティブアクション。言論の自由対ぞうお発言。同性同士の結婚、徴兵制など。一連の時事問題についても議論していく。なぜか？
過去の抽象的な名著を蘇らせるだけでなく、哲学のために私たちの日常生活。及び、政治的生活における哲学的問題を明確にするためだ。だから、これらの本を読み、問題を議論し、どのように名著同士が情報を与え、啓発し合うかをみていこう。
楽しそうに聞こえるかもしれないが、ここで一つ警告しておこう。どんな警告かというと、これらの本を自己認識におけるエクササイズ、自分をより深く理解するための訓練として読むことにはある種のリスクがある、ということだ。リスクには、個人的なリスクと政治的なリスクの両方があるが、そのことは政治哲学を学ぶ学生なら、誰でも身をもって知っていることだと思う。
なぜこういうリスクが発生するかというと、哲学という学問は私たちを私たちが既に知っていることに直面させて、、、私のたちに教え、かつ、動揺させる学問だからだ。
ここに皮肉がある。この講義の難しさは君たちが既に知っていることを教える、という点にある。それは慣れ親しんで、疑いを感じたこともないほど、よく知っていると思っていたことを見知らぬことに変えてしまうこともある。私たちが今日の講義の冒頭で取り上げた例がまさにそれにあたる。遊び心とまじめさを両方織り交ぜた仮説だったつもりだが、哲学の本がどう役にたつかというのも、これと同じだ。
哲学は私たちを慣れ親しんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しいものの見方を喚起することによって引き離すのだ。しかし、ここにもリスクがある。慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。自己認識とは純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが、私たちは皆、そんな思いを経験し、探求を続けてきた。
この試み難しく、しかし、おもしろくしているのは、道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れて行ってくれるかわからないが、それが自分についての物語だということはわかっている、ということだ。これが個人的なリスクだ。
では政治的リスクは何だろうか。本を読み問題を議論することで、よりよい責任感のある市民になれると、君たちに約束するのも一つの方法だ。それによって君たちは公共政策の前提を検討するよういなり、自分の政治的判断に磨きをかけ、公共の事柄により効率的に参加できるようになる。
しかし、この約束は部分的にしか実現せず、違う結果に終わってしまうことが多い。政治哲学はほとんどの場合、そのように機能してこなかったからだ。政治哲学は君たちを良い市民にするよりも、悪い市民にする危険性を秘めている。少なくとも、良い市民になる過程で、一旦は悪い市民になってしまう可能性もある。なぜかというと、哲学というものは人を社会から距離を置かせ、衰弱するような活動だからだ。
ソクラテスの時代でもそうだった。ゴルギアスという対話の中でソクラテスの友人の１人、カリクレスは彼に哲学をしないように説得する。カリクレスはソクラテスにこう言う。人生のしかるべき時期に節度をもって哲学を学ぶなら、哲学はかわいいおもちゃだ。しかし、節度を超えて哲学を追求するなら破滅する。私の助言をききなさい。カリクレスはこう続ける。議論を捨てよ。高等的な人生の成果を学べ、気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な生活と評判と他の多くの恵みを持っている人を手本にせよ。
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要するにカリクレスはソクラテスに、哲学なんてやめて、現実を見ろ！
ビジネススクールへ行けと言っているのだ！（会場笑い）
カリクレスの言うことも最もだ。哲学は私たちを常識や約束事、何となくそうだと信じていることに疑いを抱かせる学問だ。これらの個人的にも政治的にもリスクである。そしてこれらのリスクに直面した時、よく使われる言い訳。それが、懐疑主義だ。
例を上げると、
私たちは色々なケースや原理について議論をしたけど、何も解決しなかった。アリストテレスやロック、カントでさえ長年かけても解決できていないのだから、この講堂に集まった私たちが１学期の講義で解決できる分けがない。要するに各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、それ以上の議論は必要ない。論じても無駄である、これが懐疑主義の言い訳だ。
これに対しては私は次のように答えたい。

たしかにこれらの問題は長年に渡り議論されてきた。しかし、それがくり返され、議論され続けてきた、まさにその事実が。この問題の解決は例え不可能であっても議論を続けることは避けられないことを示唆している。
なぜ避けられないかと言うと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。だから懐疑主義に飲み込まれ諦めてしまい、道徳に関する熟考をやめてしまっては解決にならない。

カントはこの懐疑主義に絡む問題を次のように表現している。
懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ、しかし永久にとどまる場所ではない。単に懐疑主義の同意しても、理性の不安を克服することは決してできない。
私は対話や議論を通じてある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。
この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べて、締めくくりの言葉としたい。
どうもありがとう。




Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」
実際にあった話を例に、許される殺人はあるのかを考える。１９世紀のイギリスで乗組員４人の船が沈没した。４人は救命ボートに避難したが、食糧はカブの缶詰２つとだけで、真水はなかった。４日目、カブの缶詰を１つ開けて食べ、5日目亀をつかまえ、亀と残りのカブの缶詰で数日過ごした。それから８日間、彼らには何もなかった。１９日目船長は残りの者を助けるため、くじびきを行い誰が死ぬか決めようと言ったが、反対され結局はくじは行われなかった。２０日目、海水を飲んで今にも死にそうで、しかも身寄りもいなかった１７歳の乗組員パーカーを殺した。４日間、乗組員３人はパーカーの身体と血液で生き残った。そして助けがきた。彼らは裁判にかけられ、３人が生き残れるのなら１人の犠牲は仕方がないと論じた。この事件に対して学生たちの意見から３つの問題が提起された。（１）殺人は殺人であり正当化されるべきではないという反論から、殺人が正当化され得ないのは１７歳の少年にも基本的人権があるからだろうか、だとしたらその権利はどこからやってくるのかという問題。（２）もし皆がくじをすることに同意していればと仮定すると、殺人は許されたかもしれないと思う人は増えた。なぜ、ある公正な手続きをふめば、それによって生じた結果は正当化できるのかという問題。（３）もしパーカーが強制でなく、残りの者を助けるために自ら同意したと仮定すれば、命を奪うことに対して許されると思う人は多かった。ではなぜ、同意があれば命を奪うことが道徳的に許されるようになるのかという問題。この３つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならないとし、次回以降にまわすとした。



Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」
ここまでの講義で、道徳的なジレンマを巡る話をいくつかさせてもらった。路面電車や医者や健康なのに臓器を取り出されそうになった患者の話だった。そして、議論を通して、２つのことがわかってきた。
１つは議論の展開の仕方だ。私たちはまず、ここのケースについて判断することからはじめ、その判断の背後にある理由、もしくは原理をはっきりさせようとした。別のケースを検討する際には、それらの原理を再検討し、他の原理と照らし合わせて見直す、という作業をした。
すると、それぞれのケースについての判断や見直した原理を整合がとれたものにしようとする無意識の圧力が働くこともわかった。また、討論からでてきた論争についてもわかったことがある。私たちは自分の行為が道徳的であるかどうかを、その行為の帰結によって判断する傾向があることに気付いた。
これが帰結主義者の道徳理論だ。
しかし、行為の道徳性を帰結から判断しないケースがあることにも気付いた。私たちの多くが行為の帰結ではなく、その行為の内在的な性質が道徳的に重要であると感じるケースもあった。
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例えば、１人の命を犠牲にして５人を助けた場合、帰結だけみれば良い行為にもk、その行為は無条件に許されないと感じる人もいた。そこで私たちは帰結主義者の道徳的原理と無条件的道徳的原理を対比させて考えることにした。

今日から何回か、帰結主義者の道徳論の中で、最も影響力のある見解の１つを検討していく。それは功利主義の哲学だ。
ジェレミー・ベンサムは１８世紀のイギリスの政治哲学者で、功利主義の道徳理論にはじめて明快で系統だった説明を与えた。
ベンサムの理論の根幹をなす考え方は、とてもシンプルなもので、それに道徳的に共感する人は多い。ベンサムの基本的な考え方とは正しい行いとは、効用を最大化するものだ、というものだ。
ベンサムのいう効用とは何を指すのか。彼のいう効用とは苦痛よりも快楽、すなわち喜び。受難よりも幸福、というバランスを意味している。
さて、ベンサムがどのようにして効用を最大化する原理にたどりついたかを考えてみよう。
彼はあらゆる人間を観察するところからはじめた。人間は誰でも、苦痛と快楽つまり喜びとの支配されている。私たち人間は喜びを好み、苦痛を嫌う。だから我々の道徳性はそれに基づくべきだ。人生で何をすべてか考える時、立法者としてあるいは市民として法律とはどんなものであるべきか、何が正しい行いかについて、個人的、あるいは全体的に考える時、私たちは全体の幸福度を最大化させるやり方で行動すべきなのだ。
それゆえ、ベンサムの功利主義は、再大多数の最大幸福という言葉に集約されることも多い。この効用の基本原則を念頭に置きながら、あるケースについて考えてみよう。
今回のケースは架空の話ではない、実際にあった事件で２人の船乗りが被告として裁かれた。１９世紀のイギリスの事件はロースクール、法科大学院でもよく議論される。では、どんな事件か説明しよう。概要を説明するので、自分が陪審員だったどう採点するか、考えながら聞いて欲しい。

当時の新聞に事件に背景を解説した記事が載っている。悲劇的な海岸事故の物語だ。船の生存者の物語ほどには語られることはなかった。
この船の名はミニョネット号、南大西洋の喜望峰から２０００キロは離れたところで沈んだ。乗組員は４人、船長のダドリー、一等航海士のスティーヴン、そして船員のブルックス、全員素晴らしい人格の持ち主だった。少なくとも新聞はそう伝えている。４人目の乗り組み員はリチャード・パーカー。１７歳。彼は孤児で身寄りもなく、これが彼にとっての最初の長い航海だった。
新聞によれば、友達はパーカーを行くなと止めたが、彼はこの旅が自分を男にしてくれるだろうと考え、若者らしい希望に胸を膨らませて、出向した。
だが、悲しいことにそうはならなかった。波が船に打ちつけ、ミニョネット号は沈没。４人の船員は救命ボートへと避難した。唯一の食糧はカブの缶詰が２つだけで、真水はなかった。最初の３日間、彼らは何も食べずに耐えた。４日目にカブの缶詰を１つ開けて食べた。その翌日、亀をつかまえた。それから数日間、彼らはもう１つの缶詰と亀を食べて持ちこたえた。だが、それ以降の８日間、彼らには何もなかった。食べ物も水もなかった。
そのような自分の状況を考えてみて欲しい。君ならどうするだろうか、彼はこうした。すでにパーカーは救命ボートの横に横たわっていた。パーカーは他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなって、死が近いようにみえた。
１９日目に船長のダブリーは皆でくじびきを行い、残りの者を助けるために誰が死ぬかを決めようと提案した。ブルックスは拒否した。彼はくじを引いて決めるという考え方が気に入らなかったからだ。
自分が当たったら大変だからと思ったのか、それとも絶対的な道徳的原理を信じていたからなのか、しかし、いずれにしてもくじ引きは行われなかった。その翌日、相変わらず救援船は現れず、ダドリーはブルックスに見ないように言い、スティーヴンにパーカーを殺そうと合図した。ダドリーは祈りをささげた。彼はパーカーにお前は最後の時がきたと告げ、ペンナイフで頸動脈を刺して殺した。
ブルックスは良心による拒否から抜け出し、身の毛もよだつような恵みを共有した。４日間、彼ら３人はパーカーの身体と血液で生き残った。本当の話だ。そして、彼らは救助された。
ダドリーは救助された時のことを信じがたい婉曲表現で日記に書いていた。２４日目に私たちが「朝食」を食べていると、ついに船が現れた。３人の生存者はドイツの船に収容され、イギリスに連れ戻され、そこで逮捕され裁判にかけられた。
ブルックスは国の証人となった。ダドリーとスティーヴンは裁判にかけられた。彼らは事実については争わず、必要に迫られての行為だと主張した。そして、３人が生き残れるのなら１人の犠牲は仕方がないと論じた。
検察官はその議論に惑わされることはなかった。検察官は殺人は殺人であると言い、事件は裁判にかけられた。さぁ自分が陪審員だと想像して欲しい。ただ事件を単純化させるために、法律的な問題は横において、
君たちは彼らが道徳的に許されるかいなかのみを判断する責任を負っている、と仮定しよう。
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彼らは有罪ではない、つまり、彼らがしたことは道徳的に許されると思う人？（会場少数手をあげる）
いや、有罪だ。彼らがしたことは間違っている、と思う人？（会場大多数）ほとんどの人がこっちだね。
じゃあ、その理由を聞いていこう、少数派から始めよう。まずはダドリーとスティーヴンを弁護する側から聞きたい。なぜ、なぜ、彼らの行為は道徳的に許されると思うのか。君！
学生Ａ：道徳的には避難されるべきであると思います。でも、道徳的に避難されるのと法的に責任があるのとは違います。逆に道徳的なことがいつも法にふれるわけではないとは限りません。僕は必要だったからという理由が盗みや殺人や、いかなる違法な行いも正当化するとは思いませんが、必要性の程度が有罪を免除されるケースもあると思います。
よろしい。弁護側の他の意見を聞きたい。彼らがしたことをどうやって道徳的に正当化するのか。君！
学生Ｂ：そういう状況で生き残るためにしなければならないことをしなければなりません。
しなければならないことを？
学生Ｂ：しなければならないんです。食べ物なしに１９日間を過ごし、誰かが犠牲になれば、他の人が生き残るんですから。もしも生き残った彼らは１００万ドルのチャリティーをはじめるとかして、社会に貢献したとすれば、みんなのためになったわけですから。いや、もちろん僕は彼らがその後、何をしたのか知りません。もっと人を殺したかもしれませんけど。
故郷に戻って、彼らが殺し屋になったとしたら？
学生Ｂ：彼らが殺し屋になったとしたら？
誰を殺したか知りたいよなぁ。
学生Ｂ：たしかにそうですね、知りたいですね。
結構、君の名前は？
学生Ｂ：マーカス
マーカスありがとう。私たちは弁護側の意見を２つ聞いた。次は検察側から聞いてみよう。ほとんどの人は彼らがしたことは間違っていると思っている。なぜか。君！
学生Ｃ：私が最初に考えたことは、長いことが食べずにいたのだから、彼らは精神的に影響を受けていたかもしれないし、それを弁護に使えることです。つまり、彼らは適切な心理状態ではなかった。適切な心理状態であったならしていたであろう、決断をしなかった。適切ではない心理状態でなかったからこそ、そのようなことをしてしまったと言えます。でも、こう弁護する人たちは、本心は彼らの行為は道徳に反していると考えているといわけです。
君はどう思うの？君は彼らを弁護しているが、君は有罪派？
学生Ｃ：はい、私は彼らが道徳的に正しいとは思いません。
なぜ、正しくないのかな？さっきマーカスが彼を弁護した時、何て言ったか聞いていたよね。
学生Ｃ：はい。
しなければならないことをしなければならない。君はマーカスになんと反論する？
学生Ｃ：人間が他の人間の運命を決めたり、他の人間の命を奪うことは、どんな状況でも認められません。人間にはそんな権限はないのです。
結構、君の名前は？
学生Ｃ：ブリット
ブリットありがとう、他には？どう思う？立ち上がって！
学生Ｄ：ダドリーとスティーヴンが死ぬことについて、パーカーの同意を求めていたらと思います。それは、彼らの殺人行為から免除されるでしょうか。だとしたら、それでも道徳的に正当化できるでしょうか。
それはおもしろい、同意か、君の名前は？
学生Ｄ：キャスリン
キャスリンの言うように、もし、彼らがパーカーの同意を得ていたらどうだったろう。ダドリーがペンナイフを手にして、お祈りをせずに、あるいはお祈りの前にパーカーにこう言う。「パーカー殺してもいいかな？」（会場笑い）
オレたちは腹ペコなんだ。さっきマーカスも言ってたけど、めちゃくちゃ腹ペコだ。どっちにしろ君は長くは持つまい。
学生Ｄ（キャスリン）：君は殉教者になれるぞ（笑）
殉教者になってくれ。頼むよパーカー（会場笑い）
それで、道徳的に正当化されるだろうか、パーカーが半分意識がもうろうとした状況で「いいよ」って言ったら？（会場笑い）
学生Ｄ（キャスリン）：それでは道徳的に正当化できるとは思いません。
それでも正当化できない？同意があっても道徳的に正当化できるとは思わない。キャスリンの同意を巡る考えだが、同意を得れば、道徳的に正当化されると思う人？されると思う人は手をあげて！（会場そこそこ手があがる）
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これはおもしろい、なぜ同意が道徳的な違いを生むのか、なぜ正当化されるのか？
学生Ｅ：パーカーが自分からそう言い出せば、その場合に限ってのみ、彼の命を奪うことが正しいと認められると思います。その場合には彼がプレッシャーをかけられたということはできないからです。これは３対１の状況、大勢対１人ですから。自分で自分で命を与えることを決め、誰かに頼んで殺してもらおうとすれば、安心する人もいるだろうし、その決断に反対する人もいるでしょうけど。

すると、彼が自分から死ぬと言い出した場合のみ、道徳的に間違っていない。だったらオーケー、というわけだね。さもなければ、それは状況の下で強制された同意になると考えるんだね。
パーカーの自発的な同意があっても、仲間が彼を殺すことは正当化されないと考える人はいないか？なぜか教えて欲しい。君！
学生Ｆ：パーカーが殺されるのは、他の乗組員が救助されるという望みがあるからですよね、でも、いつ助けが来るとはわからないんですから、パーカーが殺されるべきだという明白な理由はありまえん。だから無意味な殺人です。救助されるまで、誰もいなくなるまで仲間を殺し続けるんですか？
この状況の道徳的な論理はそうだね。救助されるまで、一番弱い者を一人ずつ選んでいく、というものだろうね。この事件の場合は幸運には３人がまだ生きているところで救助されたということだ。
さぁ、パーカーは同意したとすると、これで問題ないのだろうか。
学生Ｆ：いえ、正しくありません。
なぜ、正しくないのかな？
学生Ｆ：カニバリズムは道徳的正しくないと思います。とにかく人間を食べるべきではありません。
カニバリズムは道徳的にあるまじき行為だというわけだ！じゃあ、殺すのではなく、死ぬまで待った場合でも、やはりしてはいけないと。
学生Ｆ：はい、私個人としてはそう思います。全ては個人の道徳観で決まると思います。でも、これは単に私の意見です。もちろん反対する人もいるでしょうけど。
じゃあ、君を説得できる理由があるかどうか、みてみるとしよう。それじゃあ、誰か、同意があればオーケーと思う人の中で、なぜ同意がそういう道徳の違いを生むのか説明できる人は？
くじを引くというアイデアはどうだろう、これを同意と考えられるだろうか。思い出して欲しいのは、最初にダドリーはくじ引きを提案しているところだ。仲間がくじ引きを同意したとしよう。それなら問題はなくなると思う人は？くじを引き、パーカーが負け、パーカーが殺されることになったとする。それなら道徳的に許されると思う人は？くじ引きを加えると賛成する人数が増えた。
くじ引きが道徳的な違いを生むという人の意見を聞こう。その理由は？
学生Ｇ：僕はそれを犯罪足らしめる必要不可欠要素は彼らがある時点で自分たちの命は彼の命より大事だと考えたからだと思います。どんな犯罪にもその根底には自分の必要なものや欲望は人のより優先されるという考えがあります。でも、くじ引きに同意したのなら、彼らは全員、仲間を助けるために、自分を犠牲にするということですから。
問題はなくなる？
学生Ｇ：グロテスクではありますが。
道徳的には許される。君の名前は？
学生Ｇ：マット
つまり、君がひっかかるのは、人の肉を食べることではなく、適正な手続きがないことなわけだ。
学生Ｇ（マット）：ですね。
よろしい。ではマットに賛成の人で、なぜくじ引きがそれを道徳的に許されるものにするのか、さらに説明してくれる人、君！
学生Ｈ：私の理解では問題はパーカーは自分の身に何が起こるのか聞かされていない、元々のくじ引きの場合でも、自分が参加するかどうか、意見を聞かされていないということです。彼が死ぬことになるんだと決められただけで、、。
そう、実際はそうだった。しかし、もしくじ引きがあり、全員がその手続きに同意したらオーケーしたら問題ないかな？
学生Ｈ：はい、それなら全員誰かが死ぬとわかっているから。でも、パーカーはその議論が起きたことを知らなかったし、君が死ぬことになるかもしれないぞ、と知らせる警告すらなかったわけです。
じゃあ、全員がくじびきに同意したとしよう。そして、くじ引きをしたらパーカーが負け、気を変えたら、、。
学生Ｈ：いえぇ、同意は同等の契約のものようなものだから、撤回はできません。自分が死ぬのは仲間を助けるためだとわかっているんだし、自分だって他の誰かが死んだら食べるでしょう。
まあね、でも、やはり自分が負けたら嫌だよ。
学生Ｈ：パーカーには何も相談がなかったということが、道徳的問題の全てであって、彼には何も知らされなかったことがおそろしいんです。知らせていたのなら、彼らの行為も少しは理解できますけど。
よろしい、彼らの行為は道徳的に許されると考えるものもいるが、たったの２０％だ。マーカスを筆頭に。そしてここでの本当の問題は同意がないことだと考えるものだという。くじ引きへの同意、公正な手続きへの同意がないことだと考えるものもいれば、キャスリンのように死ぬ前の同意がないことが問題だと言うものもいる。
いずれにせよ、同意があれば犠牲は道徳的に正当化されると考える人は増えてくる。最後に同意があってもなお、くじ引きへの同意があっても、今際の際（イマワノキワ・死に際）にパーカーが同意の言葉をつぶやいたとしてもなお、犠牲にするのは間違っていると考える人の意見を聞きたい。なぜ間違っているのか、そこを聞かせて欲しい。
学生Ｉ：私はずっと、無条件の道徳理論の立場です。くじ引きへの同意で、大丈夫な可能性もあると思います。負けたものが誰の手も借りずに自殺をすれば、殺人行為になりません。でも、たとえそういう方法であっても、それは強制だと思います。それにそこには良心の呵責（カシャク・責めさいなむこと）があったとは思いません。ダドリーは日記に「朝食を食べていた」なんて書いていますから。他人の命を重んじるようなタイプには思えません。無条件道徳論です。
告発したい？良心の呵責を感じておりず、悪びれないかな？
学生Ｉ：はい。
よろしい。同意があろうがなかろうが、無条件に断固として間違っているという人は？立って！なぜだい？
学生Ｊ：殺人は殺人です。我々の社会においてはどんな場合にも殺人は殺人で、殺人に違いがあるとは思えません。
１つ質問だ。１人の命に対して３人の命がかかっていた。１人の方の少年パーカーが身寄りも家族もいなかったが、他の３人には国に帰れば、身寄りも扶養すべき妻子もいた。
ベンサムに戻って考えよう。

ベンサムは私たちは皆の福祉、効用、幸福を考えるべきで、その全部をたして考えなければならないと言っている。それは単に３人対１人ではなく、故郷の家族も関わってくる。事実、当時のロンドン新聞や大衆の意見はダドリーやスティーヴンに同情的だった。新聞は故郷の家族への愛情や心配がなかったら、彼らはこんなことはしなかっただろうと書いた。
学生Ｊ：でも、失業している人たちだって、家族を養いたいと思うのは同じじゃないですか。どんな場合でも自分の状態をより良いものにするために誰かを殺したら、それは殺人です。どんな理由の殺人であれ、殺人は殺人であり、例外をつくってはなりません。同じ行為は全て同じ、殺人も殺人にいたる精神状態も家族を養う必要性も同じです。
これが３人ではないと仮定しよう。３０人、いや３００人だと仮定しょう。例えば戦争中で３０００人の命がかかっているとしたら、どうだろうか？
学生Ｊ：もっと大勢の命がかかっていてもやはり同じです。
ベンサムは正しい行いとは、集合的な幸福を増すことだと言っていることは間違いだ、と思うわけだ。
学生Ｊ：そうは思いませんが、殺人は殺人です。
だとしたら、ベンサムは間違っている。
学生Ｊ：えぇ、僕が正しいです。
ありがとう、結構だ、議論から一歩離れて、彼らがしたことに対して、いくつ反論が出たか考えてみよう。
彼のしたことを弁護する意見もあった。
あの悲惨な状況で生き延びるには必要だったという意見。また、数も重要だという示唆もあってね。当事者の数だけでなく、もっと広い効果も重要だ。彼らは故郷に家族や扶養する者がいたが、パーカーは孤児だった。彼がいなくなっても悲しむ者はいない、だからこれらを足し合わせて、幸福な苦しみのバランスを計算すれば、彼らがしたことは正しかったという言い分もあるかもしれない。
しかし、これに対して３つの異なるタイプの反論があった。
彼らがしたことは絶対間違っているという反論。最後にマイクが述べた通り、殺人は殺人。例え社会全体の幸福が増えるにしても、無常権に反対という意見だ。絶対に許されないということだねぇ。しかし、殺人が無条件に誤っている理由を調べる必要がある。

最初の質問だ。殺人が正当化され得ないのは、少年さえもある種の基本的権利を持っているからなのか、だとしたら、その権利はどこから来るのか、全体の福祉や効用や幸福という考え方からくるのではないとしたら、どこからくるのか。
それが質問の１。

くじを引けば事情は変わるという人もいたね。公正な手続きが必要だとマットは言った。その意見に傾く人もいた。その意見は無条件に反対ではない。
一人一人が公共の福祉のために犠牲になることはあっても、この考えは別の質問を提起する。なぜ、ある公正な手続きをすることに皆が同意しさえしていれば、その手続きをふんだことによって生じる帰結を正当化することができるのか、これが質問の２。

そして、第３の質問は、提起したのはキャスリンだ。犠牲となったパーカーが自ら同意したのなら、そして付け加えられないように、強要の下でなければ、残りの者を助けるために、彼の命を奪ってもいいのではないか、この考えに賛成した者は多かったね。しかし、それは第３の哲学的な質問を提起する。同意が行う道徳的な働きはなんだろうか、なぜ同意するという行為は道徳的な違いを生み出すのか、命を奪うという行為は同意なしでは許されないが、同意があれば道徳的に許されるようになるのはなぜか。
この３つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならない。次回から功利主義の哲学者、ベンサムとジョン・スチュアート・ミルを読むことにしょう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="hiroken16">Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」</p>
<p>１人の命を犠牲にすれば５人の命が助かるなら、１人の命を犠牲にすることは正しいのか。もし１人の命の犠牲の仕方が殺人であったならばどうか。その殺人に正義はあるのだろうか。電車事故のケースと医療のケースで考える。ここで大きく２つの考え方がみえてくる。５人と１人の命を天秤にかけ結果を考えてから決断を出す考え方と、結果を考えるのではなく行動の動機、殺人という行為が無条件的に正義ではないと考え決断を出す考え方だ。そして前者は哲学者ベンサムが、後者は哲学者カントが代表的な哲学者であると示す。また、政治哲学を学ぶことにリスクがあることをソクラテスの時代と重ね合わせて説明している。サンデル教授は締めくくりに、この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べる。</p>
<p class="hiroken0">
<table bgcolor="#000000">
<tbody>
<tr>
<td width="500"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/kBdfcR-8hEY&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/kBdfcR-8hEY&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;cc_load_policy=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></td>
<td width="400" bgcolor="#f0f0f0">
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/harvard-rogo.png" alt="" title="harvard-rogo" width="200" class="alignnone size-full wp-image-2940" /></p>
<p class="hiroken05">
ハーバード大学<br />
マイケル・サンデル教授</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken06">
Lecture01<br />
<strong>THE MORAL SIDE OF MURDER</strong><br />
Lecture02<br />
<strong>THE CASE FOR CANNIBALISM</strong>　
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken07">
時間：54:56
</p>
<hr class="hiroken05" />
<p class="hiroken14">
<img src="http://www.visualecture.com/wordpress/wp-content/uploads/2010/06/justice_rogo-300x107.jpg" alt="" title="justice_rogo" width="150" class="alignnone size-medium wp-image-2950" />
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture01「殺人に正義はあるか（想像編）」</font></h2>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">この講義は正義についてです。まずこの話からはじめよう。</font></p>
<p class="hiroken08">
君は路面電車の運転手で、時速１００キロの猛スピードで走っている。君は行く手に５人の労働者がいることに気付いて電車を止めようとするが、ブレーキは効かない。君は絶望する。そのまま進んで５人の労働者に突っ込めば５人とも死んでしまうからだ。<br />
ここではそれは確実なことだと仮定しよう。<br />
君は何もできないとあきらめかける。が、その時、脇にそれる線路待避線があることに気付く。しかし、そこにも働いている人が１人いる。ブレーキは効かないがハンドルは効くので、ハンドルをきって、脇の線路に入れば、１人は殺してしまうけれども、５人は助けることができる。</p>
<p><font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
ここで最初の質問だ。<br />
正しい行いはどちらか？あなたならどうする？多数決をとってみよう。<br />
<span id="more-3079"></span><br />
ハンドルをきって避けるという人は？手を上げて！<br />
（大多数の人が手をあげる）<br />
では、曲がらずに直進するという人は？<br />
直進するという人は、手を上げたままで、、、、極少数の人だけだね。</p>
<p>大多数の人は脇にそれる。<br />
なぜ、そうすることが正しいと考えるのか理由を聞いていこう。<br />
多数派からはじめよう。<br />
なぜ、直進せず、脇にそれようとするのか。<br />
なんで、そうするのか？その理由は何か。誰か理由を説明してくれる人！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ａ：１人を殺せばすむところを５人を殺すのは正しくないからです。</font></p>
<p>１人で殺せばはすむところを５人も殺せば正しくない。<br />
たしかに。いい理由だ。<br />
他には？皆この理由に賛成かな？君は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：９１１同時多発テロ事件と同じです。<br />
ワシントンに向かった飛行機の乗客は地上で犠牲になる人より数が少ない自分たち乗客が犠牲になることを選んだからヒーローなんです。</font></p>
<p>そこにある原理は同時多発テロの場合と同じだと言うことだね。悲劇的な状況だが、５人が助かるなら、１人を殺すことの方がいいということだ。この意見がほとんどかな？では少数派の意見をきいてみよう。</p>
<p>ハンドルをきらない理由は何かな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：これは大虐殺や全体主義を正当化する真理と同じです。ある人種を残すために、他の人種を消滅させるんです。</font></p>
<p>では君は？身の毛もよだつ大逆殺を避けたいがためにまっすぐ突っ込んで行って５人を殺すってことかな？<br />
（会場笑い）</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：はい、たぶん。</font></p>
<p>突っ込む？他には？今のは勇気ある答えだったな。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">では、路面電車の別のケースを考えてみよう。</font><br />
こっちのケースでも５人を助けられるなら１人が死んでもしかなたい。<br />
という原理を皆が指示し続けるかどうか、みてみよう。</p>
<p class="hiroken08">
今度は、君は路面電車の運転手ではなく傍観者だ。電車の線路が見える橋にいて、見下ろしていると。電車がくるのが見えた。線路の先には５人の労働者がいる。ブレーキはきかない。このままだと電車は猛スピードで電車は突っ込み５人は死ぬ。今回は君は運転手ではない。<br />
何もできない、と諦めかけた時、自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気付く。（会場笑い）<br />
もし、君がこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。彼は死ぬが５人を助けることができる。</p>
<p>さて、彼を橋から突き落とすという人は？手をあげて？<br />
じゃあ突き落とさない人は？<br />
突き落とさないという人がほとんどだ。</p>
<p>さぁここで質問だ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">１人を犠牲にしても５人の命を助けた方がいいといった原理はどうなったんだ？</font><br />
さっきは　ほとんどが賛成した原理はどうなったのかな？どちらのケースでも多数派だった人の意見を聞きたい。どうやって、この２つの違いを説明をするのか？君は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生D：２番目のケースでは人を突き通すという能動的な選択を行わなければいけません。僕が突き落とさなければ彼をその状況とは全く関係なかったはずで、僕が彼を突き落とすという選択をしたせいで関係なかったはずの状況に彼を関わらせることになります。最初のケースは運転手と５人と１人という、３者の関係だけでしたけど、今回はそれに別の要素が加わっていると思います。</font></p>
<p>でも、待避線の男だって、太った男と同じで、自分の命を犠牲にすることを自分で選んだわけじゃないよね。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生D：その通りです。でも、線路の上にいた。</font></p>
<p>こっちの男は橋の上にいた。<br />
（会場笑い）<br />
後でまた意見を言ってくれ。これは難しい質問だ。君の意見はすごくよかったよ。</p>
<p>この２つのケースで多数派が矛盾した答えを選んだ理由がわかる人は？君！！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生E：最初のケースは１人が死ぬか５人が死ぬかを選ばないといけないわけで、その結果、人は死にますが、死ぬのは電車が原因であって、自分が手を下したせいではないし、電車のブレーキは効かない上、一瞬でどちらかを選ばなければなりません。<br />
でも、太った男を落とすのは殺人行為です。突き落とすか落とさないかは自分の選択だけど、電車の暴走は自分が選んだことじゃない。だから状況が違います。</font></p>
<p>今の意見に対して反論がある人は？いい意見だったが、今の意見が正解だろうか。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｆ：それは違うと思います。<br />
どっちにしても、死ぬ人を選ばなければいけないのは同じです。ハンドルをきって、１人を殺すのも自分の意思による行為だし、太った男を突き落とすのも自分の意思による行為です。いずれも自分の選択であることに変わりはありません。</font></p>
<p>反論があるかな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：それはちょっと違うと思います。実際に線路に突き通して殺すという行為だと自分がじかに殺すことになります。</font></p>
<p>自分で手を下すからねぇ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：そうです。運転していたら、それが人に死をもたらしたのとは違います。不謹慎かもしれませんが。</font></p>
<p>いや、いい意見だ。君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：アンドル</font><br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
じゃあもう一つ質問だ。<br />
橋の上に立っていて、君はハンドルを回すと彼を落とせるとしよう。（会場笑い）<br />
ハンドルを回すかい？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ（アンドル）：いや、それはさらにしてはいけないことのように思います。<br />
偶然、ハンドルに寄りかかっちゃったら回っちゃったとかならいいけど。（会場笑い）<br />
あるいは電車が落とし穴のスイッチに向かって突進しているとかなら、納得できますけど。</font></p>
<p>よろしい。やはり抵抗があるんだね。<br />
最初のケースではハンドルを切るのは抵抗がなかったけど。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ（アンドル）：最初のケースでははじめから状況の当事者だったけど、このケースは傍観者なわけです。男を突き落として、はじめて当事者になるわけで。</font></p>
<p>よし、じゃあ、このケースはしばらく脇に置いといて違うパターンを考えよう。</p>
<p class="hiroken08">
今度は君は緊急救命室の医者だと仮定しよう。<br />
そこへ６人の患者がやってくる。彼らはひどい路面電車の事故にあったんだ。（会場笑い）<br />
内５人は中程度の怪我をしている。１人は重傷だ。重傷患者に一日中かかり切りで手当をすれば助かるが、そのかわり５人は死ぬ。逆に中程度の５人の手当をすれば、５人は助かるが、その間に重傷患者は亡くなる。</p>
<p>医者として５人を助けるという人は？<br />
では、１人を助けるという人は？<br />
とても少ない、一握りの人だけだ。同じ理由だろうね。１人の命対５人の命だ。</p>
<p class="hiroken08">
では、別の医者のケースだ。<br />
今度は君は移植医で、生きるためには臓器移植がどうしても必要な５人の患者を抱えている。５人はそれぞれ心臓、肺、腎臓、肝臓、を必要としている。最後の１人は膵臓だ。そして、臓器のドナーはいない。君は５人の死を目前にしている。<br />
その時、君は隣の部屋に健康診断を受けにきた１人の健康な男がいるのを思い出す。<br />
（会場笑い）<br />
彼は昼寝をしている。<br />
（会場笑い）<br />
そっと部屋に忍びこんで、５つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが５人を助けられる。</p>
<p>自分ならそうする、という人は？、、、いるかな？<br />
そうする人は手をあげて？</p>
<p>上の方の人は？<br />
学生Ｆ：僕はそうします。<br />
気をつけて、乗り出して落ちないように。<br />
（会場笑い）<br />
そうはしないという人は？</p>
<p>よーし、じゃあ意見を聞こう。上にいる健康な人から臓器を抜き取ろうとする君！理由は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｆ：僕は違う可能性にかけたい。臓器が必要な５人の可能性の内、最初になくなった人の４つの臓器を使って残りの４人を助けるんです。</font></p>
<p>それは名案だ。（会場拍手）<br />
実にすばらしい。ただ、一つの難点は<br />
私が設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったところだ。（会場笑い）</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">さて、今までの話や議論を離れて、議論が展開してきた方向について明らかになったいくつかの点を見て行こう。今までの討論から道徳の原理がいくつかその姿を見せはじめている。これらの道徳的な原理がどのようなものか考えてみよう。</font></p>
<p>討論から出てきた<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">最初の道徳的原理は何をするのが正しくて道徳的か。ということは行動の帰結で決まる、ということだ。つまり、帰結。結果が良ければいいわけだ。</font>１人が死ななければいけないとしても、５人が助かる方がいい。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">これが帰結主義者が道徳を論じる時の論じ方だ。</font></p>
<p class="hiroken010">
帰結主義者は行為の帰結に道徳性を求める。つまり、その行為によって社会が恩恵を受けることが大事なわけだ。</p>
<p>しかし、もう一歩進んで考えてみたところ、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">別のパターンでは</font>、帰結主義的な論法には賛同しない人が多かった。ほとんどの人が橋から太った男を突き落としたり、何の罪のない患者から臓器を取り出したりすることにはためらいを覚えた。</p>
<p>ためらう理由は、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">行為の帰結とは関係なく、行為の本質に関係がある</font>ようだったね。帰結として５人が助かるとわかっていても、そうしようと思わない人が多かった。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">何の罪のない人を１人殺すことは、無条件で、即ち、定言的に間違っていると考えた</font>。少なくとも例としてあげた話の２番目のケースでは無条件で、定言的に間違っていると考えた。これは道徳を考える際には定言的な考え方もある。ということを示している。</p>
<p class="hiroken010">定言的な考え方では、帰結がどうあれ、ある種の絶対的な道徳的必要条件や義務や権利の中に道徳性を求める。</p>
<p>今後の講義では帰結主義者と無条件的な道徳原理との間を見ていく。</p>
<p class="hiroken10">
帰結主義者の道徳理論で、最も影響力のある例は１８世紀のイギリスの政治哲学者ジャネミーベンサムが生み出した主義。功利主義だ。一方、定言的な道徳理論の最も重要な哲学者は１８世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントだ。</p>
<p>この講義ではこの２つの異なる道徳理論の論じ方を学び、評価すると同時に他の論じ方も見ていく。</p>
<p>私のこの（１２回の）講義では数多くの名著を読んでいく。アリストテレス、ジョンロック、イマヌエルカント、ジョンスチュワートミルらの著作だ。本を読むだけではない、哲学的問題を定義する、現代政治や、法律の議論も取り上げる。平等と不平等。アファーマティブアクション。言論の自由対ぞうお発言。同性同士の結婚、徴兵制など。一連の時事問題についても議論していく。なぜか？</p>
<p>過去の抽象的な名著を蘇らせるだけでなく、哲学のために私たちの日常生活。及び、政治的生活における哲学的問題を明確にするためだ。だから、これらの本を読み、問題を議論し、どのように名著同士が情報を与え、啓発し合うかをみていこう。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">楽しそうに聞こえるかもしれないが、ここで一つ警告しておこう。</font>どんな警告かというと、これらの本を自己認識におけるエクササイズ、自分をより深く理解するための訓練として読むことにはある種のリスクがある、ということだ。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">リスクには、個人的なリスクと政治的なリスクの両方がある</font>が、そのことは政治哲学を学ぶ学生なら、誰でも身をもって知っていることだと思う。</p>
<p>なぜこういうリスクが発生するかというと、哲学という学問は私たちを私たちが既に知っていることに直面させて、、、私のたちに教え、かつ、動揺させる学問だからだ。</p>
<p>ここに皮肉がある。この講義の難しさは君たちが既に知っていることを教える、という点にある。それは慣れ親しんで、疑いを感じたこともないほど、よく知っていると思っていたことを見知らぬことに変えてしまうこともある。私たちが今日の講義の冒頭で取り上げた例がまさにそれにあたる。遊び心とまじめさを両方織り交ぜた仮説だったつもりだが、哲学の本がどう役にたつかというのも、これと同じだ。</p>
<p>哲学は私たちを慣れ親しんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しいものの見方を喚起することによって引き離すのだ。しかし、ここにもリスクがある。慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。自己認識とは純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが、私たちは皆、そんな思いを経験し、探求を続けてきた。</p>
<p>この試み難しく、しかし、おもしろくしているのは、道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れて行ってくれるかわからないが、それが自分についての物語だということはわかっている、ということだ。<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">これが個人的なリスクだ</font>。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">では政治的リスクは何だろうか</font>。本を読み問題を議論することで、よりよい責任感のある市民になれると、君たちに約束するのも一つの方法だ。それによって君たちは公共政策の前提を検討するよういなり、自分の政治的判断に磨きをかけ、公共の事柄により効率的に参加できるようになる。</p>
<p>しかし、この約束は部分的にしか実現せず、違う結果に終わってしまうことが多い。政治哲学はほとんどの場合、そのように機能してこなかったからだ。政治哲学は君たちを良い市民にするよりも、悪い市民にする危険性を秘めている。少なくとも、良い市民になる過程で、一旦は悪い市民になってしまう可能性もある。なぜかというと、哲学というものは人を社会から距離を置かせ、衰弱するような活動だからだ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">ソクラテスの時代でもそうだった。</font>ゴルギアスという対話の中でソクラテスの友人の１人、カリクレスは彼に哲学をしないように説得する。カリクレスはソクラテスにこう言う。人生のしかるべき時期に節度をもって哲学を学ぶなら、哲学はかわいいおもちゃだ。しかし、節度を超えて哲学を追求するなら破滅する。私の助言をききなさい。カリクレスはこう続ける。議論を捨てよ。高等的な人生の成果を学べ、気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な生活と評判と他の多くの恵みを持っている人を手本にせよ。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font></p>
<p class="hiroken10">
要するにカリクレスはソクラテスに、哲学なんてやめて、現実を見ろ！<br />
ビジネススクールへ行けと言っているのだ！（会場笑い）<br />
カリクレスの言うことも最もだ。哲学は私たちを常識や約束事、何となくそうだと信じていることに疑いを抱かせる学問だ。これらの個人的にも政治的にもリスクである。そしてこれらのリスクに直面した時、よく使われる言い訳。それが、懐疑主義だ。</p>
<p>例を上げると、<br />
私たちは色々なケースや原理について議論をしたけど、何も解決しなかった。アリストテレスやロック、カントでさえ長年かけても解決できていないのだから、この講堂に集まった私たちが１学期の講義で解決できる分けがない。要するに各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、それ以上の議論は必要ない。論じても無駄である、<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">これが懐疑主義の言い訳だ</font>。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">これに対しては私は次のように答えたい。</font></p>
<p class="hiroken10">
たしかにこれらの問題は長年に渡り議論されてきた。しかし、それがくり返され、議論され続けてきた、まさにその事実が。この問題の解決は例え不可能であっても議論を続けることは避けられないことを示唆している。<br />
なぜ避けられないかと言うと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。だから懐疑主義に飲み込まれ諦めてしまい、道徳に関する熟考をやめてしまっては解決にならない。</p>
<p class="hiroken08">
カントはこの懐疑主義に絡む問題を次のように表現している。<br />
懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ、しかし永久にとどまる場所ではない。単に懐疑主義の同意しても、理性の不安を克服することは決してできない。</p>
<p>私は対話や議論を通じてある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ること</font>だと述べて、締めくくりの言葉としたい。<br />
どうもありがとう。</p>
<p class="hiroken0">
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<p><img src="img/a.png" height="50"></p>
<p class="hiroken16">Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」</p>
<p>実際にあった話を例に、許される殺人はあるのかを考える。１９世紀のイギリスで乗組員４人の船が沈没した。４人は救命ボートに避難したが、食糧はカブの缶詰２つとだけで、真水はなかった。４日目、カブの缶詰を１つ開けて食べ、5日目亀をつかまえ、亀と残りのカブの缶詰で数日過ごした。それから８日間、彼らには何もなかった。１９日目船長は残りの者を助けるため、くじびきを行い誰が死ぬか決めようと言ったが、反対され結局はくじは行われなかった。２０日目、海水を飲んで今にも死にそうで、しかも身寄りもいなかった１７歳の乗組員パーカーを殺した。４日間、乗組員３人はパーカーの身体と血液で生き残った。そして助けがきた。彼らは裁判にかけられ、３人が生き残れるのなら１人の犠牲は仕方がないと論じた。この事件に対して学生たちの意見から３つの問題が提起された。（１）殺人は殺人であり正当化されるべきではないという反論から、殺人が正当化され得ないのは１７歳の少年にも基本的人権があるからだろうか、だとしたらその権利はどこからやってくるのかという問題。（２）もし皆がくじをすることに同意していればと仮定すると、殺人は許されたかもしれないと思う人は増えた。なぜ、ある公正な手続きをふめば、それによって生じた結果は正当化できるのかという問題。（３）もしパーカーが強制でなく、残りの者を助けるために自ら同意したと仮定すれば、命を奪うことに対して許されると思う人は多かった。ではなぜ、同意があれば命を奪うことが道徳的に許されるようになるのかという問題。この３つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならないとし、次回以降にまわすとした。
<p class="hiroken0"></p>
<hr class="hiroken04">
<p class="hiroken0">
<h2><font color="#aa1525">Lecture02「殺人に正義はあるか（実例編）」</font></h2>
<p>ここまでの講義で、道徳的なジレンマを巡る話をいくつかさせてもらった。路面電車や医者や健康なのに臓器を取り出されそうになった患者の話だった。そして、議論を通して、２つのことがわかってきた。</p>
<p>１つは議論の展開の仕方だ。私たちはまず、ここのケースについて判断することからはじめ、その判断の背後にある理由、もしくは原理をはっきりさせようとした。別のケースを検討する際には、それらの原理を再検討し、他の原理と照らし合わせて見直す、という作業をした。</p>
<p>すると、それぞれのケースについての判断や見直した原理を整合がとれたものにしようとする無意識の圧力が働くこともわかった。また、討論からでてきた論争についてもわかったことがある。私たちは自分の行為が道徳的であるかどうかを、その行為の帰結によって判断する傾向があることに気付いた。</p>
<p>これが帰結主義者の道徳理論だ。</p>
<p>しかし、行為の道徳性を帰結から判断しないケースがあることにも気付いた。私たちの多くが行為の帰結ではなく、その行為の内在的な性質が道徳的に重要であると感じるケースもあった。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
例えば、１人の命を犠牲にして５人を助けた場合、帰結だけみれば良い行為にもk、その行為は無条件に許されないと感じる人もいた。そこで私たちは帰結主義者の道徳的原理と無条件的道徳的原理を対比させて考えることにした。</p>
<p class="hiroken08">
今日から何回か、帰結主義者の道徳論の中で、最も影響力のある見解の１つを検討していく。それは功利主義の哲学だ。<br />
ジェレミー・ベンサムは１８世紀のイギリスの政治哲学者で、功利主義の道徳理論にはじめて明快で系統だった説明を与えた。</p>
<p>ベンサムの理論の根幹をなす考え方は、とてもシンプルなもので、それに道徳的に共感する人は多い。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">ベンサムの基本的な考え方とは正しい行いとは、効用を最大化するものだ、というものだ。</font></p>
<p>ベンサムのいう効用とは何を指すのか。彼のいう効用とは苦痛よりも快楽、すなわち喜び。受難よりも幸福、というバランスを意味している。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">さて、ベンサムがどのようにして効用を最大化する原理にたどりついたかを考えてみよう。</font></p>
<p>彼はあらゆる人間を観察するところからはじめた。人間は誰でも、苦痛と快楽つまり喜びとの支配されている。私たち人間は喜びを好み、苦痛を嫌う。だから我々の道徳性はそれに基づくべきだ。人生で何をすべてか考える時、立法者としてあるいは市民として法律とはどんなものであるべきか、何が正しい行いかについて、個人的、あるいは全体的に考える時、私たちは全体の幸福度を最大化させるやり方で行動すべきなのだ。</p>
<p>それゆえ、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">ベンサムの功利主義は、再大多数の最大幸福という言葉に集約されることも多い。</font>この効用の基本原則を念頭に置きながら、あるケースについて考えてみよう。</p>
<p>今回のケースは架空の話ではない、実際にあった事件で２人の船乗りが被告として裁かれた。１９世紀のイギリスの事件はロースクール、法科大学院でもよく議論される。では、どんな事件か説明しよう。概要を説明するので、自分が陪審員だったどう採点するか、考えながら聞いて欲しい。</p>
<p class="hiroken08">
当時の新聞に事件に背景を解説した記事が載っている。悲劇的な海岸事故の物語だ。船の生存者の物語ほどには語られることはなかった。</p>
<p>この船の名はミニョネット号、南大西洋の喜望峰から２０００キロは離れたところで沈んだ。乗組員は４人、船長のダドリー、一等航海士のスティーヴン、そして船員のブルックス、全員素晴らしい人格の持ち主だった。少なくとも新聞はそう伝えている。４人目の乗り組み員はリチャード・パーカー。１７歳。彼は孤児で身寄りもなく、これが彼にとっての最初の長い航海だった。</p>
<p>新聞によれば、友達はパーカーを行くなと止めたが、彼はこの旅が自分を男にしてくれるだろうと考え、若者らしい希望に胸を膨らませて、出向した。</p>
<p>だが、悲しいことにそうはならなかった。波が船に打ちつけ、ミニョネット号は沈没。４人の船員は救命ボートへと避難した。唯一の食糧はカブの缶詰が２つだけで、真水はなかった。最初の３日間、彼らは何も食べずに耐えた。４日目にカブの缶詰を１つ開けて食べた。その翌日、亀をつかまえた。それから数日間、彼らはもう１つの缶詰と亀を食べて持ちこたえた。だが、それ以降の８日間、彼らには何もなかった。食べ物も水もなかった。</p>
<p>そのような自分の状況を考えてみて欲しい。君ならどうするだろうか、彼はこうした。すでにパーカーは救命ボートの横に横たわっていた。パーカーは他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなって、死が近いようにみえた。</p>
<p>１９日目に船長のダブリーは皆でくじびきを行い、残りの者を助けるために誰が死ぬかを決めようと提案した。ブルックスは拒否した。彼はくじを引いて決めるという考え方が気に入らなかったからだ。</p>
<p>自分が当たったら大変だからと思ったのか、それとも絶対的な道徳的原理を信じていたからなのか、しかし、いずれにしてもくじ引きは行われなかった。その翌日、相変わらず救援船は現れず、ダドリーはブルックスに見ないように言い、スティーヴンにパーカーを殺そうと合図した。ダドリーは祈りをささげた。彼はパーカーにお前は最後の時がきたと告げ、ペンナイフで頸動脈を刺して殺した。</p>
<p>ブルックスは良心による拒否から抜け出し、身の毛もよだつような恵みを共有した。４日間、彼ら３人はパーカーの身体と血液で生き残った。本当の話だ。そして、彼らは救助された。</p>
<p>ダドリーは救助された時のことを信じがたい婉曲表現で日記に書いていた。２４日目に私たちが「朝食」を食べていると、ついに船が現れた。３人の生存者はドイツの船に収容され、イギリスに連れ戻され、そこで逮捕され裁判にかけられた。</p>
<p>ブルックスは国の証人となった。ダドリーとスティーヴンは裁判にかけられた。彼らは事実については争わず、必要に迫られての行為だと主張した。そして、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">３人が生き残れるのなら１人の犠牲は仕方がないと論じた。</font></p>
<p>検察官はその議論に惑わされることはなかった。検察官は殺人は殺人であると言い、事件は裁判にかけられた。さぁ自分が陪審員だと想像して欲しい。ただ事件を単純化させるために、法律的な問題は横において、<br />
君たちは彼らが道徳的に許されるかいなかのみを判断する責任を負っている、と仮定しよう。<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
彼らは有罪ではない、つまり、彼らがしたことは道徳的に許されると思う人？（会場少数手をあげる）<br />
いや、有罪だ。彼らがしたことは間違っている、と思う人？（会場大多数）ほとんどの人がこっちだね。</p>
<p>じゃあ、その理由を聞いていこう、少数派から始めよう。まずはダドリーとスティーヴンを弁護する側から聞きたい。なぜ、なぜ、彼らの行為は道徳的に許されると思うのか。君！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ａ：道徳的には避難されるべきであると思います。でも、道徳的に避難されるのと法的に責任があるのとは違います。逆に道徳的なことがいつも法にふれるわけではないとは限りません。僕は必要だったからという理由が盗みや殺人や、いかなる違法な行いも正当化するとは思いませんが、必要性の程度が有罪を免除されるケースもあると思います。</font></p>
<p>よろしい。弁護側の他の意見を聞きたい。彼らがしたことをどうやって道徳的に正当化するのか。君！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：そういう状況で生き残るためにしなければならないことをしなければなりません。<br />
しなければならないことを？<br />
学生Ｂ：しなければならないんです。食べ物なしに１９日間を過ごし、誰かが犠牲になれば、他の人が生き残るんですから。もしも生き残った彼らは１００万ドルのチャリティーをはじめるとかして、社会に貢献したとすれば、みんなのためになったわけですから。いや、もちろん僕は彼らがその後、何をしたのか知りません。もっと人を殺したかもしれませんけど。</font></p>
<p>故郷に戻って、彼らが殺し屋になったとしたら？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：彼らが殺し屋になったとしたら？</font><br />
誰を殺したか知りたいよなぁ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：たしかにそうですね、知りたいですね。</font><br />
結構、君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｂ：マーカス</font><br />
マーカスありがとう。私たちは弁護側の意見を２つ聞いた。次は検察側から聞いてみよう。ほとんどの人は彼らがしたことは間違っていると思っている。なぜか。君！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：私が最初に考えたことは、長いことが食べずにいたのだから、彼らは精神的に影響を受けていたかもしれないし、それを弁護に使えることです。つまり、彼らは適切な心理状態ではなかった。適切な心理状態であったならしていたであろう、決断をしなかった。適切ではない心理状態でなかったからこそ、そのようなことをしてしまったと言えます。でも、こう弁護する人たちは、本心は彼らの行為は道徳に反していると考えているといわけです。</font></p>
<p>君はどう思うの？君は彼らを弁護しているが、君は有罪派？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：はい、私は彼らが道徳的に正しいとは思いません。<br />
なぜ、正しくないのかな？さっきマーカスが彼を弁護した時、何て言ったか聞いていたよね。</font><br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：はい。</font><br />
しなければならないことをしなければならない。君はマーカスになんと反論する？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：人間が他の人間の運命を決めたり、他の人間の命を奪うことは、どんな状況でも認められません。人間にはそんな権限はないのです。</font></p>
<p>結構、君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｃ：ブリット</font><br />
ブリットありがとう、他には？どう思う？立ち上がって！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：ダドリーとスティーヴンが死ぬことについて、パーカーの同意を求めていたらと思います。それは、彼らの殺人行為から免除されるでしょうか。だとしたら、それでも道徳的に正当化できるでしょうか。</font><br />
それはおもしろい、同意か、君の名前は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ：キャスリン</font><br />
キャスリンの言うように、もし、彼らがパーカーの同意を得ていたらどうだったろう。ダドリーがペンナイフを手にして、お祈りをせずに、あるいはお祈りの前にパーカーにこう言う。「パーカー殺してもいいかな？」（会場笑い）<br />
オレたちは腹ペコなんだ。さっきマーカスも言ってたけど、めちゃくちゃ腹ペコだ。どっちにしろ君は長くは持つまい。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ（キャスリン）：君は殉教者になれるぞ（笑）</font><br />
殉教者になってくれ。頼むよパーカー（会場笑い）</p>
<p>それで、道徳的に正当化されるだろうか、パーカーが半分意識がもうろうとした状況で「いいよ」って言ったら？（会場笑い）</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｄ（キャスリン）：それでは道徳的に正当化できるとは思いません。</font><br />
それでも正当化できない？同意があっても道徳的に正当化できるとは思わない。キャスリンの同意を巡る考えだが、同意を得れば、道徳的に正当化されると思う人？されると思う人は手をあげて！（会場そこそこ手があがる）<br />
<font color="#ffffff">visualecture.com</font><br />
これはおもしろい、なぜ同意が道徳的な違いを生むのか、なぜ正当化されるのか？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｅ：パーカーが自分からそう言い出せば、その場合に限ってのみ、彼の命を奪うことが正しいと認められると思います。その場合には彼がプレッシャーをかけられたということはできないからです。これは３対１の状況、大勢対１人ですから。自分で自分で命を与えることを決め、誰かに頼んで殺してもらおうとすれば、安心する人もいるだろうし、その決断に反対する人もいるでしょうけど。<br />
</font><br />
すると、彼が自分から死ぬと言い出した場合のみ、道徳的に間違っていない。だったらオーケー、というわけだね。さもなければ、それは状況の下で強制された同意になると考えるんだね。</p>
<p>パーカーの自発的な同意があっても、仲間が彼を殺すことは正当化されないと考える人はいないか？なぜか教えて欲しい。君！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｆ：パーカーが殺されるのは、他の乗組員が救助されるという望みがあるからですよね、でも、いつ助けが来るとはわからないんですから、パーカーが殺されるべきだという明白な理由はありまえん。だから無意味な殺人です。救助されるまで、誰もいなくなるまで仲間を殺し続けるんですか？</font></p>
<p>この状況の道徳的な論理はそうだね。救助されるまで、一番弱い者を一人ずつ選んでいく、というものだろうね。この事件の場合は幸運には３人がまだ生きているところで救助されたということだ。</p>
<p>さぁ、パーカーは同意したとすると、これで問題ないのだろうか。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｆ：いえ、正しくありません。</font><br />
なぜ、正しくないのかな？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｆ：カニバリズムは道徳的正しくないと思います。とにかく人間を食べるべきではありません。</font><br />
カニバリズムは道徳的にあるまじき行為だというわけだ！じゃあ、殺すのではなく、死ぬまで待った場合でも、やはりしてはいけないと。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｆ：はい、私個人としてはそう思います。全ては個人の道徳観で決まると思います。でも、これは単に私の意見です。もちろん反対する人もいるでしょうけど。</font></p>
<p>じゃあ、君を説得できる理由があるかどうか、みてみるとしよう。それじゃあ、誰か、同意があればオーケーと思う人の中で、なぜ同意がそういう道徳の違いを生むのか説明できる人は？</p>
<p>くじを引くというアイデアはどうだろう、これを同意と考えられるだろうか。思い出して欲しいのは、最初にダドリーはくじ引きを提案しているところだ。仲間がくじ引きを同意したとしよう。それなら問題はなくなると思う人は？くじを引き、パーカーが負け、パーカーが殺されることになったとする。それなら道徳的に許されると思う人は？くじ引きを加えると賛成する人数が増えた。</p>
<p>くじ引きが道徳的な違いを生むという人の意見を聞こう。その理由は？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｇ：僕はそれを犯罪足らしめる必要不可欠要素は彼らがある時点で自分たちの命は彼の命より大事だと考えたからだと思います。どんな犯罪にもその根底には自分の必要なものや欲望は人のより優先されるという考えがあります。でも、くじ引きに同意したのなら、彼らは全員、仲間を助けるために、自分を犠牲にするということですから。</font><br />
問題はなくなる？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｇ：グロテスクではありますが。</font></p>
<p>道徳的には許される。君の名前は？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｇ：マット</font><br />
つまり、君がひっかかるのは、人の肉を食べることではなく、適正な手続きがないことなわけだ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｇ（マット）：ですね。</font></p>
<p>よろしい。ではマットに賛成の人で、なぜくじ引きがそれを道徳的に許されるものにするのか、さらに説明してくれる人、君！</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｈ：私の理解では問題はパーカーは自分の身に何が起こるのか聞かされていない、元々のくじ引きの場合でも、自分が参加するかどうか、意見を聞かされていないということです。彼が死ぬことになるんだと決められただけで、、。</font><br />
そう、実際はそうだった。しかし、もしくじ引きがあり、全員がその手続きに同意したらオーケーしたら問題ないかな？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｈ：はい、それなら全員誰かが死ぬとわかっているから。でも、パーカーはその議論が起きたことを知らなかったし、君が死ぬことになるかもしれないぞ、と知らせる警告すらなかったわけです。</font></p>
<p>じゃあ、全員がくじびきに同意したとしよう。そして、くじ引きをしたらパーカーが負け、気を変えたら、、。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｈ：いえぇ、同意は同等の契約のものようなものだから、撤回はできません。自分が死ぬのは仲間を助けるためだとわかっているんだし、自分だって他の誰かが死んだら食べるでしょう。</font></p>
<p>まあね、でも、やはり自分が負けたら嫌だよ。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｈ：パーカーには何も相談がなかったということが、道徳的問題の全てであって、彼には何も知らされなかったことがおそろしいんです。知らせていたのなら、彼らの行為も少しは理解できますけど。</font></p>
<p>よろしい、彼らの行為は道徳的に許されると考えるものもいるが、たったの２０％だ。マーカスを筆頭に。そしてここでの本当の問題は同意がないことだと考えるものだという。くじ引きへの同意、公正な手続きへの同意がないことだと考えるものもいれば、キャスリンのように死ぬ前の同意がないことが問題だと言うものもいる。</p>
<p>いずれにせよ、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">同意があれば犠牲は道徳的に正当化されると考える人は増えてくる。</font>最後に同意があってもなお、くじ引きへの同意があっても、今際の際（イマワノキワ・死に際）にパーカーが同意の言葉をつぶやいたとしてもなお、犠牲にするのは間違っていると考える人の意見を聞きたい。なぜ間違っているのか、そこを聞かせて欲しい。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｉ：私はずっと、無条件の道徳理論の立場です。くじ引きへの同意で、大丈夫な可能性もあると思います。負けたものが誰の手も借りずに自殺をすれば、殺人行為になりません。でも、たとえそういう方法であっても、それは強制だと思います。それにそこには良心の呵責（カシャク・責めさいなむこと）があったとは思いません。ダドリーは日記に「朝食を食べていた」なんて書いていますから。他人の命を重んじるようなタイプには思えません。無条件道徳論です。</font></p>
<p>告発したい？良心の呵責を感じておりず、悪びれないかな？<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｉ：はい。</font><br />
よろしい。同意があろうがなかろうが、無条件に断固として間違っているという人は？立って！なぜだい？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｊ：殺人は殺人です。我々の社会においてはどんな場合にも殺人は殺人で、殺人に違いがあるとは思えません。</font></p>
<p>１つ質問だ。１人の命に対して３人の命がかかっていた。１人の方の少年パーカーが身寄りも家族もいなかったが、他の３人には国に帰れば、身寄りも扶養すべき妻子もいた。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">ベンサムに戻って考えよう。</font></p>
<p class="hiroken08">
ベンサムは私たちは皆の福祉、効用、幸福を考えるべきで、その全部をたして考えなければならないと言っている。それは単に３人対１人ではなく、故郷の家族も関わってくる。事実、当時のロンドン新聞や大衆の意見はダドリーやスティーヴンに同情的だった。新聞は故郷の家族への愛情や心配がなかったら、彼らはこんなことはしなかっただろうと書いた。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｊ：でも、失業している人たちだって、家族を養いたいと思うのは同じじゃないですか。どんな場合でも自分の状態をより良いものにするために誰かを殺したら、それは殺人です。どんな理由の殺人であれ、殺人は殺人であり、例外をつくってはなりません。同じ行為は全て同じ、殺人も殺人にいたる精神状態も家族を養う必要性も同じです。</font></p>
<p>これが３人ではないと仮定しよう。３０人、いや３００人だと仮定しょう。例えば戦争中で３０００人の命がかかっているとしたら、どうだろうか？</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｊ：もっと大勢の命がかかっていてもやはり同じです。</font></p>
<p>ベンサムは正しい行いとは、集合的な幸福を増すことだと言っていることは間違いだ、と思うわけだ。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｊ：そうは思いませんが、殺人は殺人です。</font><br />
だとしたら、ベンサムは間違っている。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#c2f5ff">学生Ｊ：えぇ、僕が正しいです。</font></p>
<p>ありがとう、結構だ、議論から一歩離れて、彼らがしたことに対して、いくつ反論が出たか考えてみよう。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">彼のしたことを弁護する意見もあった。</font><br />
あの悲惨な状況で生き延びるには必要だったという意見。また、数も重要だという示唆もあってね。当事者の数だけでなく、もっと広い効果も重要だ。彼らは故郷に家族や扶養する者がいたが、パーカーは孤児だった。彼がいなくなっても悲しむ者はいない、だからこれらを足し合わせて、幸福な苦しみのバランスを計算すれば、彼らがしたことは正しかったという言い分もあるかもしれない。</p>
<p><font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">しかし、これに対して３つの異なるタイプの反論があった。</font></p>
<p>彼らがしたことは絶対間違っているという反論。最後にマイクが述べた通り、殺人は殺人。例え社会全体の幸福が増えるにしても、無常権に反対という意見だ。絶対に許されないということだねぇ。しかし、殺人が無条件に誤っている理由を調べる必要がある。</p>
<p class="hiroken08">
最初の質問だ。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">殺人が正当化され得ないのは、少年さえもある種の<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">基本的権利</font>を持っているからなのか、だとしたら、<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">その権利はどこから来るのか</font>、全体の福祉や効用や幸福という考え方からくるのではないとしたら、どこからくるのか。<br />
<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">それが質問の１。</font></p>
<p class="hiroken08">
くじを引けば事情は変わるという人もいたね。公正な手続きが必要だとマットは言った。その意見に傾く人もいた。その意見は無条件に反対ではない。<br />
一人一人が公共の福祉のために犠牲になることはあっても、この考えは別の質問を提起する。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">なぜ、ある公正な手続きをすることに皆が同意しさえしていれば、その手続きをふんだことによって生じる帰結を正当化することができるのか</font>、<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">これが質問の２。</font></p>
<p class="hiroken08">
そして、<font color="#000000" style=" background-color:#d6ffd6">第３の質問</font>は、提起したのはキャスリンだ。犠牲となったパーカーが自ら同意したのなら、そして付け加えられないように、強要の下でなければ、残りの者を助けるために、彼の命を奪ってもいいのではないか、この考えに賛成した者は多かったね。しかし、それは第３の哲学的な質問を提起する。<font color="#000000" style=" background-color:#ffff00">同意が行う道徳的な働きはなんだろうか、なぜ同意するという行為は道徳的な違いを生み出すのか、命を奪うという行為は同意なしでは許されないが、同意があれば道徳的に許されるようになるのはなぜか。</font></p>
<p>この３つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならない。次回から功利主義の哲学者、ベンサムとジョン・スチュアート・ミルを読むことにしょう。</p>
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		<title>「無線通信を使うこれからの医療」エリク・トポル</title>
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		<pubDate>Thu, 26 Aug 2010 16:41:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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SPEAKER：エリク・トポル



エリク・トポルは、近いうちにスマートフォンを使って生命徴候や慢性疾患を確認するようになると説き、TEDMEDではこれからの医療で特に役立つ無線通信機器をいくつか紹介しています。これらの機器を使えば、病院のベッドで寝なくてすむ人がもっと増えるでしょう。


16:59


日本語字幕
Viewsubtitleをクリック/Japanese

TED2010




全文
聴診器が発明されたのがいつかご存知の人はいますか 誰かご存知ですか　1816年です 私の予測では、2016年には 医師は聴診器を持ち歩かなくなるでしょう もっと優れた技術が生まれているのです それが医療の変化の一役を担っているのです
この社会を変えてきたもの それは無線通信機器です でもこれからは医療用の無線通信機器です

では、いくつか例を紹介しましょう もっと具体的に理解していただくためです まずはこちらです　心電図です 心臓専門医としては、リアルタイムで 患者個人が世界のどこにいるかにかかわらず 医師側のスマートフォンで見ることができて 患者の調律が分かるのは信じがたいことです これはもう実現しています
ただ、これはまだ序章にすぎません 皆さんはここに座っている間にもメールを確認しますよね でも将来的には、あらゆるバイタルサインを確認するようになります 全てのバイタルサインです　心臓の鼓動や 血圧、酸素、体温などです これはすでに実現しています
エアストリップテクノロジーズ社です もうつながっているのです　もちろん無線通信で 先ほどのような信号を集約し 病院や集中治療室でですが、 医師のスマートフォンにそれが表示されます もうすぐ子供が生まれるなら こんな計測機能はどうでしょう　継続的に 胎児の心拍数や子宮の収縮を計測します そうすれば心配しすぎずに 妊娠経過が良好であるとわかり 出産のときを迎えるのです
では、さらに話を進めましょう 今でも連続測定用のグルコース・センサーはありますが 今はそれを皮膚の下に埋めています でも将来的には埋め込む必要がなくなります グルコースを理想的な範囲、つまり 75から200未満の間に維持するために 連続計測できるグルコースセンサーで5分毎に計測します それを見れば糖尿病にどれくらい影響するかわかります
睡眠はどうでしょうか 少しこの点に注目してみましょう 人生の３分の１は寝ていることになります もし手元の電話に、 これから数週間のうちに利用できるのですが、 毎分の睡眠状態が表示されるとすればどうでしょう ご覧のように、覚醒状態がオレンジ色です 急速眼球運動するレム睡眠、つまり 夢を見ている状態は、薄緑色です 浅い眠りは、灰色です 熟睡状態つまり最良の回復睡眠は 暗い緑色です
カロリーを全て計算するのはどうでしょう これは、リアルタイムに カロリー摂取量を実際に計測できます もちろん消費量も　計測にはバンドエイドのようなものを使います
ここまでは生理的な数値指標についてお話してきました でも私がお話ししたいのは次世代の領域です 手早くお話ししますが、なぜ、聴診器が 消えようとしているのでしょうか 腸管音や呼吸音を聞くより優れた方法があるからです [...]]]></description>
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SPEAKER：エリク・トポル
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エリク・トポルは、近いうちにスマートフォンを使って生命徴候や慢性疾患を確認するようになると説き、TEDMEDではこれからの医療で特に役立つ無線通信機器をいくつか紹介しています。これらの機器を使えば、病院のベッドで寝なくてすむ人がもっと増えるでしょう。
</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken07">16:59</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken05">
日本語字幕<br />
Viewsubtitleをクリック/Japanese
</p>
<p>TED2010
</td>
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<p>全文<br />
聴診器が発明されたのがいつかご存知の人はいますか 誰かご存知ですか　1816年です 私の予測では、2016年には 医師は聴診器を持ち歩かなくなるでしょう もっと優れた技術が生まれているのです それが医療の変化の一役を担っているのです</p>
<p>この社会を変えてきたもの それは無線通信機器です でもこれからは医療用の無線通信機器です<br />
<span id="more-3285"></span><br />
では、いくつか例を紹介しましょう もっと具体的に理解していただくためです まずはこちらです　心電図です 心臓専門医としては、リアルタイムで 患者個人が世界のどこにいるかにかかわらず 医師側のスマートフォンで見ることができて 患者の調律が分かるのは信じがたいことです これはもう実現しています</p>
<p>ただ、これはまだ序章にすぎません 皆さんはここに座っている間にもメールを確認しますよね でも将来的には、あらゆるバイタルサインを確認するようになります 全てのバイタルサインです　心臓の鼓動や 血圧、酸素、体温などです これはすでに実現しています</p>
<p>エアストリップテクノロジーズ社です もうつながっているのです　もちろん無線通信で 先ほどのような信号を集約し 病院や集中治療室でですが、 医師のスマートフォンにそれが表示されます もうすぐ子供が生まれるなら こんな計測機能はどうでしょう　継続的に 胎児の心拍数や子宮の収縮を計測します そうすれば心配しすぎずに 妊娠経過が良好であるとわかり 出産のときを迎えるのです</p>
<p>では、さらに話を進めましょう 今でも連続測定用のグルコース・センサーはありますが 今はそれを皮膚の下に埋めています でも将来的には埋め込む必要がなくなります グルコースを理想的な範囲、つまり 75から200未満の間に維持するために 連続計測できるグルコースセンサーで5分毎に計測します それを見れば糖尿病にどれくらい影響するかわかります</p>
<p>睡眠はどうでしょうか 少しこの点に注目してみましょう 人生の３分の１は寝ていることになります もし手元の電話に、 これから数週間のうちに利用できるのですが、 毎分の睡眠状態が表示されるとすればどうでしょう ご覧のように、覚醒状態がオレンジ色です 急速眼球運動するレム睡眠、つまり 夢を見ている状態は、薄緑色です 浅い眠りは、灰色です 熟睡状態つまり最良の回復睡眠は 暗い緑色です</p>
<p>カロリーを全て計算するのはどうでしょう これは、リアルタイムに カロリー摂取量を実際に計測できます もちろん消費量も　計測にはバンドエイドのようなものを使います</p>
<p>ここまでは生理的な数値指標についてお話してきました でも私がお話ししたいのは次世代の領域です 手早くお話ししますが、なぜ、聴診器が 消えようとしているのでしょうか 腸管音や呼吸音を聞くより優れた方法があるからです 最近、 G. E. が携帯型の超音波検査装置を発表したのです これがなぜ重要なのでしょうか　それは、はるかに高感度だからです こちらは腹部超音波検査装置の一例です 心臓超音波検査装置もあり、これは無線で通信します スマートフォンで胎児を観察するものもあります</p>
<p>ここで取り上げているのは、生理的な数値指標だけではありませんし バイタルサインの主要データだけでもありません 生理的なものだけではなく、スマートフォンで見ることができる 種々の動画像も含んでいます これも時代遅れな技術の一例です そのうち使われなくなるホルター心電計です 24時間記録するもので、配線が多いですね でも今はこのようなとても小さなパッチに収まります 2週間付けておくことができますし メールで信号を送信することができます</p>
<p>では、どのように動作するのでしょう こちらのようなしゃれたバンドエイドや 靴や手首に装着するセンサーなどがあります これが信号を送信します 体の周辺に、ゲートウェイにつながるネットワークを構成します スマートフォンを使ったゲートウェイでもいいですし、専用のゲートウェイでもかまいません 今はこの手のものは専用のゲートウェイを使います あまりうまく統合されていないからです 信号はウェブすなわちクラウドに送信され 必要な処理をしたり、どこかに送信したりすることができます 介護士に送信したり、医師に送信したり 患者に返信したりできます まあ、これは大筋で非常に単純化した 技術的な動作説明です</p>
<p>いま、私はこの装置を身に着けています シャツを脱いでお見せするのはいやですが、脱がなくても説明できます この装置は心調律を測定するだけではありません それはもうご覧いただきましたね それ以上のことができます これは私のデータです　心電図が見えますね その下のは実際の心電図とトレンドです その右側は生体電気特性です 体液状態を示します 体液状態が非常に重要なのは 心不全の人を監視するときです 下は体温です そして、呼吸作用と酸素を示しています それから姿勢動作です この装置は本当にすごいんです　なぜならこの装置は、 7項目を測定し それがまさにバイタルサインであり 心不全の人を監視するために使えるのです　よろしいでしょうか</p>
<p>なぜこれが重要なのでしょうか これは最も高価なベッドです 病院のベッドの需要を減らせるとしたらどうでしょう でも、できないのです　まず第１に わが国の入院や再入院の理由としては 心不全が一番多いのです 年間370億ドルが心不全に費やされています その80%が入院に関連しています 入院後30日のうちに メディケアの対象となる場合ですが 65才以上の27%が30日以内に再入院するのです それでなくても、6か月を超えると、56%が再入院します では、改善はできるのでしょうか　その方法は 私が身に着けているこの装置を使うことです 600人の心不全患者にこれを付けます 無作為に選んだ人です　これに対して、別の600人の患者には 能動的な監視を行いません そうして心不全による入院を減らせるか調べます 面白そうですから、試してみるつもりです その時には詳細をお話できると思います 無線通信機器を使った実験の一種で ここ数年のうちに医療の変革をもたらす可能性があるものです</p>
<p>なぜいま　なぜこれが突然 実現し、これからの医療にとって興味深い目標となるのでしょうか 現在の状況は、ある意味、完全に理想的な流れといえます これが利用者主体の健康管理を築くのです すべての始まりはここからです もしお気づきでなければ、なぜこれが 大きな流れなのかご説明しましょう 120万人のアメリカ人が ナイキの靴を履いたことがあります　これは体の周辺にネットワークを構築し 靴や靴のかかとをiPhoneやiPodに接続するものです ワイヤードマガジンの記事には これに関して多く記載されています　ナイキの靴について多くの記述があり 運動中の生理機能の監視や、エネルギー消費量の監視に いかに早くから採用されてきたか記載されています ここで、いくつかの理念を紹介します 覚えておくとよい指針となる理念です 「データに基づく健康管理という変革は 確実に私たちを より快適で、気ままで、丈夫にする　数字を指針に生きることだ」 そしてこちらは実に深い言葉です こちらは7月の表紙の記事です</p>
<p>「個人の数値指標を使う流れは、食事療法や運動よりはるかに優れており 眠りから、心的状態や痛みまで 生活のあらゆる側面を追跡するものだ 24時間、7日間、365日ずっと」 私はこの装置を試してみました 皆さんの多くはフィリップス社のディレクトライフを持っているでしょう 私はディレクトライフは持っていないのですが フィットビットなら持っています このようなものです 無線の加速度計とか万歩計みたいなものです 使ってみた結果をお話しします 消費者の動向を理解したいからです でも、フィリップス社のディレクトライフのほうが良いと思います そうだといいのですが これは食べ物と行動を計測し、体重を記録します でも、ほとんど自分で入力しなければなりません この装置が記録するのは実際は運動だけです それさえ、十分ではないのですが 運動するとこの装置が検知します 身長と体重を入力するとBMIを計算してくれます それから運動によるカロリー消費量を表示します 摂取量も表示してくれます でも、食べたものをここに全部入力する必要があります</p>
<p>このシステムでは自分の行動を全て入力する必要があります それで、私もやってみたのですが 42分の運動を検知してくれたので、もちろん満足しました やったのは楕円軌道を描くペダリング運動です でもこのシステムではもっと多くの情報を必要としています こう聞かれます　「性生活を記録しよう どれぐらいの時間しましたか」 （笑） こうも聞いています　「どれくらい大変でしたか」 （笑） 更には「開始時間」も入力させようとしています でも、これは&#8230;あまり役に立ちません そう、あまり役に立たないのです</p>
<p>では、睡眠の場合についてお話しましょう 家庭に個人用の脳波計を置くようになるなんて誰も想像していませんでした ちなみに素敵な目覚まし時計に組み込まれていますね こちらは先ほどの目覚まし時計と一体になったヘッドバンドで 睡眠中に連続的に脳波を計測します 私は7日間使ってみました TEDMedに備えるためです 睡眠は生活にとって重要な要素です　3分の1は寝ているのですから</p>
<p>ところで 睡眠に問題をお持ちの方は どれくらい いらっしゃるでしょうか？ 通常は90%ぐらいなのですが、皆さんは思いのほか良く眠れているようですね では、こちらは1週間にわたる 私の睡眠生活を示しています Z.Q.値を示しています　I.Q.値ではありませんよ Z.Q.値は起きる時に獲得します 「それなら分かる」と言うでしょうね Z.Q.値は年齢に合わせて調整されています できるだけ高い値を獲得したほうがよいでしょう こちらは時間を追って 1分ごとの睡眠を示しています そこに表示されたZ.Q値は80過ぎですね 覚醒状態の時はオレンジ色です これは問題を引き起こす可能性があると気づきました このシステムは 睡眠を定量化してくれるだけではなく 起きていることを他の人に知らせてもくれるのです 妻が現れて 起きてるでしょうと話しかけることも出来たのです 「エリック、話をしたいの　話をしたいの」 でも、私は狸寝入りをしているんです これは、すごく印象的です</p>
<p>さて、これは最初の夜です この時は67です あまり良い値ではありません もちろん、レム睡眠時の値や 深い眠りの時の値など、全ての状態について値を表示してくれます とても興味をそそられますね なぜなら、睡眠のあらゆる段階を 定量化してくれるからです それから、同世代の人たちと比べてどうなのか教えてくれます 管理された睡眠コンテストのようなものです 本当に面白いものです こちらを見てこう言いましょう　「良く眠れているとは思っていなかったけど 実際には、50から60才の平均より良いな」 重要なのは、自分では気づかなかったのに 実によく夢を見ていたことです</p>
<p>では、睡眠の話から病気の話に変えましょう 80%のアメリカ人が慢性疾患を抱えています 65才を過ぎた80%の人が 2つ以上の慢性疾患を抱えています 1億4千万人のアメリカ人が 1つ以上の慢性疾患を抱えています 1.5兆の支出の80%が 慢性疾患に関連しているのです 糖尿病はその中でも多い方です 2400万人近くが糖尿病です こちらは最新の地図で 1週間ちょっと前にニューヨークタイムズに載っていたものです 良いようには見えませんね 男性の場合、国内で60才を過ぎた人の29%が 2型糖尿病を患っています 女性の場合、男性よりは少ないですが、すごく多いですね</p>
<p>でも、これを継続して計測する手段があるのですが それには、 血糖値を計測するセンサーを使用します これは重要なのです なぜなら、これまでは分からなかった高血糖を検知できるのですから 低血糖も分かります 赤い点で示した、同じ患者に対する手掌での採血では 最大値及び最小値は測定できていませんでした</p>
<p>しかし、連続的に測定することによって このような決定的な情報を全て記録することができるのです さらにこれからは、このセンサーを バンドエイド型にまでできつつあるのです しかもそれほど遠くない未来に実現します では、ざっと説明しますが 無線通信医療の対象となる主要10項目です これは全て実現可能です すぐに実現できるものもありますし お聞きになった通り、すでに 何らかの方法や形で実現しているものもあります</p>
<p>アルツハイマー病は 500万人が患っていますが、これについては バイタルサイン、活動、情緒の安定性を確認できます ぜんそく患者は多いですが、これについては 花粉数、大気環境、呼吸数などを測定できます 乳がんについては、あとで簡単に一例を紹介します 慢性閉塞性肺疾患もあります 鬱病については、気分障害の人に対する素晴らしい取り組みが存在しています 糖尿病は今お話ししましたね　心不全もお話ししました　高血圧については 7400万人が連続的に血圧を測定可能ですから もっと優れた管理法や予防法が現れるでしょう 肥満については、これに効く方法をお話ししました そして睡眠障害もありますね</p>
<p>これは世界中で実現できます　スマートフォンや 携帯電話は、今では途方もなく使われています このエコノミスト誌の記事は見事に 発展途上国において健康を管理する機会についてまとめています 「携帯電話は従来のどんな技術よりも、たくさんの人の命に 急速に影響を及ぼしている」 こちらは携帯電話を利用した健康管理を広める前です 高齢化の問題は非常に大きいものです 毎年300,000人の大腿骨頸部骨折 でも、その解決法は素晴らしいものです 実に様々な方法がありますが</p>
<p>ぜひ紹介したいのがこちらです iShoseは、これもセンサーを使った例ですが 高齢者の固有受容性感覚を改善して 転倒を防止します 無線センサーを使った様々な技術の１つです 継続的に行う健康管理を変えることができます 未熟児や胎児から高齢者までのあらゆる年代にわたって変えられます 製薬の領域も変わります あらゆる範囲の病気に対応できます　そのイメージをお伝えできたならいいのですが そして全世界に及ぶのです</p>
<p>この一連の動きを加速してくれる事が2つあります 1つは専門機関の立ち上げなのですが、運よく スクリップスとクアルコム社によって始動し 更に幸運にもゲアリー・ウェスト、メアリー・ウエスト夫妻と出会い ワイヤレス医療研究所を後援してもらえることになりました サンディエゴは特別な地です 無線通信関連の企業が650社を超え その100社以上が無線通信による健康管理に取り組み 商取引の最も中心的な地であり、面白いことに 500社を超える生命科学関連の企業と見事に連携しています</p>
<p>このワイヤレス研究所つまり ウェストワイヤレス医療研究所は 素晴らしい2人の協力で設立されたものです 今日ここにこられている、ゲアリー・ウェスト、メアリー・ウェスト夫妻です 後援していただいたことに感謝したいと思います （拍手） 夫妻の素晴らしい慈善の投資によりこれが実現しました 完全に非営利の教育機関であり 今まさに始動しようとしています　このような外観です この建物全体を作っていただきました この研究所は、この時代を加速しようとしています まだ解決していない医療ニーズを取り上げ、研究し、改良を加えます メヘラーン・メラガーニを技術責任者に任命したところで これは月曜日に発表されました 更に発展させ 臨床試験による検証を行い、医療行為を変えるのですが 最も困難なこととして 債務の弁済、健康管理に関わる政策や経済に注意することがあります</p>
<p>素晴らしい研究所で この取り組みを結実させる それ以外に重要なこととして 手本となるということがあります もちろん医療がデジタル化することが前提です ゲノミクスやオミクスにより生態を理解し 生理学的な表現型検査を全て無線通信で実行することは、素晴らしいことです これまでなかったような情報の集約を可能にするからです 80を超える病気がゲノムに基づいて解明されていますが これは桁はずれのことです　病気の基礎について これまでの人類史上の成果と比較しても この２年半ぐらいの間に分かったことの方が多いのです それを例えば、今ならiPhoneアプリと連携させて 自分の遺伝子型を入れることで 薬物治療をガイドします 将来、いや今でも、高頻度のバリアントを見れば 誰が2型糖尿病になるかわかります 将来的には低頻度のバリアントによって もっと隙間が埋まっていきます また、様々な遺伝子を見れば 誰が乳がんになるか分かります 誰が心房細動を起こしやすいかも分かります</p>
<p>最後の例は突然心臓死です それぞれに対応したセンサーがあります 糖尿病の場合にはグルコースセンサーを使用して予防します 乳がんの予防や早期発見を可能にするため 超音波検査装置を 患者に持たせます 心房細動の場合にはiRhythmを使います 突然心臓死の予防にはバイタルサイン監視装置を使います 米国では毎年70万人が突然心臓死により亡くなっています</p>
<p>ぜひ信じていただきたいのですが 病院の能力に与える影響は計り知れないもので これら全ての病気や他の病気に対し 一様に素晴らしい影響を与えるものなのです 個別化医療を新たな段階へと進めるもので これは最高に革新的なことです 医療界のブラックスワンといえるでしょう ご清聴ありがとうございました</p>
<p>（拍手）</p>
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		<title>「脳がどのように見ることを学ぶか」パワン・シンハ</title>
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		<pubDate>Thu, 26 Aug 2010 16:47:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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SPEAKER：パワン・シンハ



パワン・シンハは人間の脳の視覚システムがどのように発達するかという画期的な研究内容を説明します。シンハ氏と同氏のチームは生まれつき目の見えない子どもたちに、無料で視力視覚回復の治療を施し、どのように視覚データを脳が解釈するのか研究しています。この研究は神経科学、技術分野、自閉症に関する洞察も含まれています。


18:23


日本語字幕
Viewsubtitleをクリック/Japanese

TED2010




全文
もしあなたがインドで生まれつき目の見えない子どもだったら 少なくとも二つの大きな悪いニュースに 立ち向かわなければなりません 最初の悪いニュースは 視力回復の手術の機会は ほとんどないか、全くないということです なぜなら、インドのほとんどの 視力回復プログラムは 成人が対象となっており、 本当に本当に少ない病院しか 子どもの手術ができる施設がありません 実際のところ、もし治療を受けることができても おそらくは、医者の資格をもたない人に 治療を施される可能性は高いです ラジャサンのケースのようにです この女の子は３歳の孤児で 白内障です 世話人がこの子をつれて 村の祈祷師のところへ行くと この祈祷師は、世話人に 病院へ連れていくことを勧めず この子の腹部を焼くことにしました 真っ赤になるまで熱した鉄でです 彼女の中にいる悪魔を追い払うためです あなたに届けられる 二つ目の悪いニュースは 神経科学医から届きます それは、あなたが４〜５歳以上なら たとえ目の治療を受けたとしても あなたの脳がどのように物を見るかを学ぶチャンスは 本当に少ないということです 繰り返しますが、チャンスがあっても、ないに等しいのです

この二つのニュースを聞いて 私はとても悲しかった 科学的にも、 個人的にもです では、まず個人的な理由からお伝えしようと思います かっこいい話ではないですが、正直にお伝えします こちらは、私の息子、ダリウスです 新米の父親としては ちょっと異質な気持ちをもっています 赤ちゃんがどれほど繊細なのか 赤ちゃんに対する義務は何か 赤ちゃんへの愛情が どれほどなのかといったことです 私はダリウスの治療のためなら 全力を尽くします 私は、ダリウスのように 治療を受けられない子どもが 他にもいるというのを聞くと それはいけないと本能的に思うのです これは個人的な理由です
つぎに、科学的な理由です 臨界期に関する 神経科学の見解では ４歳か５歳以上になると、 脳は学ぶ能力を失うというのです [...]]]></description>
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<p class="hiroken05">
SPEAKER：パワン・シンハ
</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken06">
パワン・シンハは人間の脳の視覚システムがどのように発達するかという画期的な研究内容を説明します。シンハ氏と同氏のチームは生まれつき目の見えない子どもたちに、無料で視力視覚回復の治療を施し、どのように視覚データを脳が解釈するのか研究しています。この研究は神経科学、技術分野、自閉症に関する洞察も含まれています。
</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken07">18:23</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken05">
日本語字幕<br />
Viewsubtitleをクリック/Japanese
</p>
<p>TED2010
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>全文<br />
もしあなたがインドで生まれつき目の見えない子どもだったら 少なくとも二つの大きな悪いニュースに 立ち向かわなければなりません 最初の悪いニュースは 視力回復の手術の機会は ほとんどないか、全くないということです なぜなら、インドのほとんどの 視力回復プログラムは 成人が対象となっており、 本当に本当に少ない病院しか 子どもの手術ができる施設がありません 実際のところ、もし治療を受けることができても おそらくは、医者の資格をもたない人に 治療を施される可能性は高いです ラジャサンのケースのようにです この女の子は３歳の孤児で 白内障です 世話人がこの子をつれて 村の祈祷師のところへ行くと この祈祷師は、世話人に 病院へ連れていくことを勧めず この子の腹部を焼くことにしました 真っ赤になるまで熱した鉄でです 彼女の中にいる悪魔を追い払うためです あなたに届けられる 二つ目の悪いニュースは 神経科学医から届きます それは、あなたが４〜５歳以上なら たとえ目の治療を受けたとしても あなたの脳がどのように物を見るかを学ぶチャンスは 本当に少ないということです 繰り返しますが、チャンスがあっても、ないに等しいのです<br />
<span id="more-3289"></span><br />
この二つのニュースを聞いて 私はとても悲しかった 科学的にも、 個人的にもです では、まず個人的な理由からお伝えしようと思います かっこいい話ではないですが、正直にお伝えします こちらは、私の息子、ダリウスです 新米の父親としては ちょっと異質な気持ちをもっています 赤ちゃんがどれほど繊細なのか 赤ちゃんに対する義務は何か 赤ちゃんへの愛情が どれほどなのかといったことです 私はダリウスの治療のためなら 全力を尽くします 私は、ダリウスのように 治療を受けられない子どもが 他にもいるというのを聞くと それはいけないと本能的に思うのです これは個人的な理由です</p>
<p>つぎに、科学的な理由です 臨界期に関する 神経科学の見解では ４歳か５歳以上になると、 脳は学ぶ能力を失うというのです ただ、私はあまりこの考えに納得いきません なぜかというと、この考えは 十分に検証されていないからです この考えは、デビッド・ヒューベルと トルステン・ウィーゼルの研究によるものです この二人はハーバード大学に在籍していました 視覚生理学の研究において、 1981年にノーベル賞を受賞しました 彼らの研究は本当に素晴らしいものでしたが 彼らの研究には 人間に応用するのが 時期尚早な部分もあったと思います さまざまな欠乏症をもった 子猫などを使って ６０年代という昔に行われた この研究の成果が 現代の人間の子どもたちに適用されているのです</p>
<p>そのため、私は二つのことをしなくてはならないと思っています 一つめは、 現在治療を受けられない子どもたちに 治療を施すことです これは人道的な使命です そして、科学的な使命は 視覚の可塑性の限界を 試すことです お察しのとおり、この二つの使命は お互いを完全にうまく組み合わせることができます 実際、この二つの使命は一つが欠ければ、不可能となります この二つの使命を 実行するために 数年前に、プロジェクト・プラカシュを立ち上げました プラカシュは、多くの人が知っているように サンスクリットで光を意味するものです このプロジェクトは、 多くの子どもたちの命に光をもたらすとともに 神経科学の深い謎を 解明するという可能性も 秘めています ロゴは、とてもアイルランド的にも見えますが 実は インドではディヤと呼ばれる陶製のランプのシンボルに由来します プラカシュの目的は ３つあります 手を差し伸べてケアが必要な子どもたちを見つけることと 治療と、その後の研究です では短いビデオをこれからお見せします このビデオは、最初の２つの目的を説明するものです</p>
<p>これは支援センターです ある盲学校で行われました</p>
<p>（テキスト：ほとんどの子どもたちは永久に目が見えないか、ほとんど見えません）</p>
<p>ここは盲学校なので 多くの子どもたちは永久に目が見えない状態です 小眼球症の場合、 眼球が奇形となり 永久に変わらないため 治療ができません これは、小眼球症の極端な例で 眼球陥入といいます しかし、時々 わずかながら視力を持つ子どもたちに出会うことがあります そしてこれはとても良いサインなのです このサインは治療ができるかもしれないという状態なのです そのため、検査が終わった後で、このような状態の子どもたちを病院に連れてきます 私たちと一緒に問題に取り組むデリーの病院です シュロフ・チェリティ・アイ・ホスピタルといいます ここはとても施設が整った病院です この小児眼科センターは ロナルド・マクドナルドの基金の協力もあって 設立されました ハンバーガーを食べのも役に立ちますね</p>
<p>（テキスト：このような検査をすることで 多くの子どもたちの目の健康を改善できますし、 プロジェクト・パラケシュに参加できる子を見つけられます）</p>
<p>この子どもの眼球を良く見てみると この子がなぜ失明したのかがわかります 瞳孔の真ん中に、白い部分が見えますか これは先天性白内障です レンズの混濁です 私たちの眼の中にあるレンズは透明です しかし、この子のレンズは濁ってしまったのです そのため、この子は目が見えないのです で、この子に治療を施しました。この子の目の写真が見えると思います これが混濁したレンズを持つ目の写真です この混濁したレンズを取り除き アクリルのレンズを挿入しました で、これが治療後の同じ子どもの目です 手術後３週間です 右目が開いています</p>
<p>（拍手）</p>
<p>ありがとうございます</p>
<p>そして、このビデオクリップを見て頂いただけでも、 治療が可能だということをおわかり頂けたと思います そして、私たちは、これまでに 200人の子どもたちに治療を施しました これからも続けていきます 治療後にこの子どもの視力は 大きく改善しました この話は 数年間ほとんど視力がなかった人が 視力を回復した場合にも当てはまります 数年前にある女性のことを論文にしたことがあります この写真の右側にいるのがその女性S.R.D.です 彼女は高齢ですが、視力を取り戻したのです そして彼女の視力は、彼女の年齢を考えるととてもすばらしく良いのです 悲しいニュースを付け加えなくてはならないのですが、 彼女は２年前に バスの交通事故で亡くなりました しかし、彼女のケースは本当に感激的でした あまり知られてはいませんが、とても勇気づけられます こういった成果が表れると ご想像のとおり、科学誌や一般紙でも かなり混乱がみられました これがネーチャーに掲載された記事です このケースの詳細が掲載されました 他にはタイム誌があります そのため、私たちは確信しました 視力の回復は実行可能だと たとえ長い間視力がほとんどなかったとしてもです</p>
<p>当然、次にこんな疑問をもたれるでしょう 回復の過程はどうだったのでしょうか 私たちの研究では 光を感じられる子どもを見つけて この子を治療します 強調しておきますが この治療は完全に無償です 報酬などは全くありません さらに多くの子どもに治療を施し、研究も進めます 治療が必要な子どもは全て治療します 治療が終わったら、ほとんど毎週 その子どもに 一連の視力テストをします このテストは子どもたちの視覚的な能力が どのように発達したかを確認するためにです 私たちはできるだけこのテストを続けていきます この一連の発達を見れば 今までみたことのない そしてとても貴重な情報が手に入るのです どうやって、視力の基盤が できていくかという情報です 幼少期の視力発達能力と 大人になってからの視力発達の能力は どのような因果関係があるのでしょうか</p>
<p>この一般的手法で さまざまな角度から視力の発達を研究してきましたが 特に1つ注目していただきたいことがあります それは物のイメージ分析能力です 左側に見えるようなどんなイメージも 実際のイメージであれ、合成されたイメージであれ 真ん中に見えるような 小さな領域で構成されています 違う色や違う光度の領域です 脳は、複雑な処理をして こういった領域からなるサブセットを 組み合わせたり、統合したりすることで もっと意味のあるものや 物と認識できるものを形成して 右側に示すようなものを作ります でも、どうやって統合しているかは誰にも分かりません そしてこれがプロジェクト・パラカシュで考えている問題なのです</p>
<p>こんな事がありました 視力回復のすぐ後にあったことです この人は数週間前に視力を回復しました MITの院生であるイーサン・マイヤーズが 彼と一緒に実験をしました 彼の視覚と運動の協応には大きな問題がありました しかし、彼のこの問題に取り組むには どの領域を取り扱えばいいのか何となくつかめています 彼に実世界のイメージを見せたり 彼に限らず同じような状態の人に実世界のイメージを見せても 彼らはほとんどの物を認識することができないのです 世界が細かく寸断されすぎているからです 色や光度が異なる領域の組み合わせや、寄せ集めとして 構成されているように見えます この緑色の線がそれを示しています 彼らに、どんな物か分からなくてもいいから、 どこに物があるか指し示してごらんというと こういった領域を指します こういった領域の複雑な組み合わせとして この世界を見ているのです ボールの影でさえも、 一つの物として見えるのです おもしろいことに 数か月経つと、 こんなことが起こります</p>
<p>医師：これはいくつに見える？</p>
<p>患者：２つです</p>
<p>医師：これはどんな形をしていますか</p>
<p>患者：これは.. これは円で これは 四角です</p>
<p>このような劇的な変化が見られるのです ここで疑問が浮かびます どうやってこの変化が起きたのでしょうか これはとても重要な質問です そしてさらに素晴らしいのは、 答えが非常に簡単なことです 答えは動きの中にあります そしてこれが次のクリップでお見せしたいものでもあります</p>
<p>医師：どんな形が見える？</p>
<p>患者：よくわかりません</p>
<p>医師：今ではどう？</p>
<p>患者：三角です</p>
<p>医師：ここには物が何個ありますか？ 今は何個にありますか</p>
<p>患者：二つ</p>
<p>医師：これは何ですか？</p>
<p>患者：四角と円が見えます</p>
<p>こういった事例を何度も目にします 世界を分析するために 視覚のシステムが必要とするのは 動きの情報なのです このことから導くことのできる推測は 数々の実験もしてわかったことですが 運動に関する情報の分析、もしくは 動きの分析は 他の複雑な視覚分析をするうえで、 重要な基盤になるということです これによって、視覚情報を統合でき 最終的には、認識ができるようになります</p>
<p>このシンプルなアイデアは、広範囲に適用できる可能性をもっています では、簡単に二つの話をします 一つは、エンジニアの領域の話しで もうひとつは臨床的な領域の話です エンジニアの観点からすると こんな疑問が浮かばないでしょうか 人間の視覚システムにとって、動きが 非常に重要だと分かったのだから、これを利用して 機械を使用した視覚システムを開発できないだろうか？ つまり、自分で学習する機械であって、人間が プログラムする必要のない機械です そして、それが今私たちが取り組んでいることなのです</p>
<p>私はＭＩＴに在籍していますが、ＭＩＴでは 基礎知識を全て実用化することが求められます われわれは、ディランという コンピューターシステムを開発中です 私たちは高い目標を持っています それは、人間の子どもが受容するような 視覚インプットを入力し 視覚インプットに含まれる物を 自動的に認識するのです ディランの中身のことは気にしないで下さい ディランをテストする方法だけ お話しします ディランをテストするときには プロジェクト・プラカシュで赤ちゃんや子供に与えるものと 同じようなインプットを与えます しかし、ずいぶんと長い間、私たちはどこから このビデオインプットを得たらよいかわかりませんでした 私はこう思いました ダリウスに 小さなカメラを持たせて そしてこのインプットをディランに入力できないかと で、私たちは実行に移しました （笑い） 私は妻と長い間話し合いました （笑い） 実際、パム、もしこれを見ているなら どうか許して下さい</p>
<p>カメラの光学系を改造して 赤ちゃんの視力を再現しました ご存知の方もいらっしゃると思いますが 赤ちゃんはほとんど目の見えない状態で産まれます 私たちの視力は２０/２０ですが 赤ちゃんの視力は２０/８００くらいです そのため、赤ちゃんは世界を とてもとてもぼやけた状態で見ているのです 小さなカメラで見るとこのようになります</p>
<p>（笑い） （拍手）</p>
<p>幸いにも、撮影したときの 音声はありません すばらしいのは このように低画質のインプットでも 赤ちゃんは非常に早く インプットから意味を発見できるのです さらに、2〜3日すると 赤ちゃんは父親や 母親に注意を向けるようになります どうやっているのか？ディランに同じことをさせたいのです 動きを利用するアイデアを使えば この程度の映像情報でも ディランは同じことができるようになるのです 6〜7分間のビデオで ディランは顔など 情報のパターンを抽出しはじめます これは、動きを利用することが いかに有効であるか実証しています</p>
<p>臨床的な知見は、自閉症の領域から得られます 視覚情報の統合を 自閉症と関連付けている研究者もいます これを知ったとき、私たちは思いました 視覚情報をうまく統合できないのは 自閉症の場合に、動きに関する情報をうまく 処理できないことの原因を示しているのではないかと なぜなら、この仮説が正しければ 自閉症にさまざまな表現型がある要因について 私たちの見解は 大きく変わることになるからです</p>
<p>これからご覧いただくビデオは 神経学的に正常な子と、自閉症の子が ポンで遊んでいるときの映像です ポンで遊んでいる子の視線を、追跡しています 赤い部分が視線の軌跡です これは神経学的に正常な子のものです。よく見ると この子は動きに関する情報から 手掛かりを得て どこのボールがいくのか予測しているのです ボールがある場所に行く前に この子はすでにその場所を見ています この子と自閉症の子が同じゲームをするのを 比べてみましょう 予測する代わりに この子はいつもボールがどこにあったかを見ています 自閉症の場合には 動きに関する情報を処理する能力に 大きな障害があるようです 今この研究を進めていますが 今後より多くの情報が 得られることを望んでいます</p>
<p>これからのことを考えますと、もしこのディスクが これまでに治療した全ての 子どもたちの数を表すとしたら この課題の規模はこれぐらいです この赤い点は治療を受けていない子どもたちを表しています とてもとても多くの子どもたちが治療を必要としています ですから、このプロジェクトの範囲を広げるために ある計画をしています プラカシュ・センター・フォー・チルドレンです これは小児科に特化する病院で 治療を受ける子どもたちのための学校で そして、最先端の研究施設でもあります プラカシュ・センターはヘルスケアと 教育と研究を統合し それぞれの部門の合計よりも さらにすばらしい全体の結果を本当の意味で作り上げるものです</p>
<p>まとめると、プラカシュは、創立して５年となりますが 多くの部門で効果がありました 基本的な神経科学や 脳の可塑性や学習力、 自閉症のような臨床学的に適応できる分野もです 自律的な視覚システムの開発 大学生や大学院生の教育 そして最も重要なのは 目の見えない子どもが減ったことです 私も私の生徒も とても素晴らしい経験をしています なぜなら、とても興味深い研究をしながら 同時に 一緒に取り組む子どもたちを助けることができるからです</p>
<p>ありがとうございました</p>
<p>（拍手）</p>
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		<title>「Pivotはウェブ探索における分岐点となるか？」ゲリー・フレーク</title>
		<link>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3294</link>
		<comments>http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3294#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 26 Aug 2010 16:54:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<category><![CDATA[TED８分]]></category>
		<category><![CDATA[ネットと生きる]]></category>
		<category><![CDATA[ネット]]></category>

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		<description><![CDATA[





SPEAKER：ゲリー・フレーク



ゲリー・フレークがPivotのデモをお見せします。Pivotはネットにある膨大な画像やデータを整理し閲覧するためのソフトで、革新的技術Seadragonを基盤にしており、ウェブデータベースに自在にズームイン・ズームアウトして、通常のウェブブラウジングでは見えないパターンや関連の発見を可能にします


06:18


日本語字幕
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TED2010




全文
今日私が大きなアイデアを一つだけ お伝えできるとしたら、それは データの全体から我々が得られるものは、 部分の和よりも大きいということです。 情報過多ではなく、どうすれば 通常見えていないパターン、 傾向を見つけることが出来るのか 考えてみて下さい。
今ご覧頂いているのは典型的な 年齢別死亡率のグラフです。 今使っているツールは実験段階のもので、 Pivotです。これを使えばある特定の 死因のデータだけ抽出することができます。例えば事故。 そしてすぐ別の傾向があることを確認できます。 理由はここ、中ほどでは 人々は最も活動的で、次に こちら側では最も体が弱いからです。 前に戻って データを死因で並べなおすこともできます 循環器系疾患とガンが最も高いですが 全員に対してというわけではありません。 さらに年齢で絞って 40歳以下を見てみましょう 事故がその年代の人々にとって 最も注意すべき死因だとわかりますね。 特に男性が要注意であることもわかります。

さて皆さんお分かりいただけたと思います 情報やデータをこの様に眺めるのは 画像主体の情報の中を 泳いでいるみたいでしょ。 そして生のデータにこんなことができるなら コンテンツにもやってみませんか？ そこでここにあるのは 今までに作られてきた スポーツ イラストレイテッド誌の表紙です。 すべてがここウェブ上にあります。 公演後皆さんの部屋でも同じことは出来ます。 Pivotで特定の10年分に絞り込むことができます。 ある1年に絞り込むこともできます。 あらゆる巻に即座に戻れます。 これを見てみましょう。この号に 掲載のあったアスリートが全部表示されています。 ランス アームストロングのファンなのでこれをクリックしてみましょう。 するとこの様にランス アームストロングが 取り上げられた全ての号が抽出されます。
（拍手）
ちょっと上の方を眺めてみたくなったとしましょう 「サイクリングについての記事を見てみようかな」 と思うかもしれません。 一歩下がって拡大しましょう。 するとグレッグ レモンが出てきます。 この様に情報を絞り込んだり 広げたり、戻ったりと情報を 自由に操作することは、単なる 検索やブラウジングではないと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table bgcolor="#000000">
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<p class="hiroken05">
SPEAKER：ゲリー・フレーク
</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken06">
ゲリー・フレークがPivotのデモをお見せします。Pivotはネットにある膨大な画像やデータを整理し閲覧するためのソフトで、革新的技術Seadragonを基盤にしており、ウェブデータベースに自在にズームイン・ズームアウトして、通常のウェブブラウジングでは見えないパターンや関連の発見を可能にします
</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken07">06:18</p>
<hr class="hiroken03" />
<p class="hiroken05">
日本語字幕<br />
Viewsubtitleをクリック/Japanese
</p>
<p>TED2010
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>全文<br />
今日私が大きなアイデアを一つだけ お伝えできるとしたら、それは データの全体から我々が得られるものは、 部分の和よりも大きいということです。 情報過多ではなく、どうすれば 通常見えていないパターン、 傾向を見つけることが出来るのか 考えてみて下さい。</p>
<p>今ご覧頂いているのは典型的な 年齢別死亡率のグラフです。 今使っているツールは実験段階のもので、 Pivotです。これを使えばある特定の 死因のデータだけ抽出することができます。例えば事故。 そしてすぐ別の傾向があることを確認できます。 理由はここ、中ほどでは 人々は最も活動的で、次に こちら側では最も体が弱いからです。 前に戻って データを死因で並べなおすこともできます 循環器系疾患とガンが最も高いですが 全員に対してというわけではありません。 さらに年齢で絞って 40歳以下を見てみましょう 事故がその年代の人々にとって 最も注意すべき死因だとわかりますね。 特に男性が要注意であることもわかります。<br />
<span id="more-3294"></span><br />
さて皆さんお分かりいただけたと思います 情報やデータをこの様に眺めるのは 画像主体の情報の中を 泳いでいるみたいでしょ。 そして生のデータにこんなことができるなら コンテンツにもやってみませんか？ そこでここにあるのは 今までに作られてきた スポーツ イラストレイテッド誌の表紙です。 すべてがここウェブ上にあります。 公演後皆さんの部屋でも同じことは出来ます。 Pivotで特定の10年分に絞り込むことができます。 ある1年に絞り込むこともできます。 あらゆる巻に即座に戻れます。 これを見てみましょう。この号に 掲載のあったアスリートが全部表示されています。 ランス アームストロングのファンなのでこれをクリックしてみましょう。 するとこの様にランス アームストロングが 取り上げられた全ての号が抽出されます。</p>
<p>（拍手）</p>
<p>ちょっと上の方を眺めてみたくなったとしましょう 「サイクリングについての記事を見てみようかな」 と思うかもしれません。 一歩下がって拡大しましょう。 するとグレッグ レモンが出てきます。 この様に情報を絞り込んだり 広げたり、戻ったりと情報を 自由に操作することは、単なる 検索やブラウジングではないと お分かり頂けたと思います。 これは実際少し異なるものなんです。 これは検索と閲覧の中間で、我々の 情報の利用方を変えてくれると思っています。</p>
<p>このアイデアを拡張して ちょっと極端なことをやってみましょう。 私たちはウィキペディアの全てのページを それぞれ小さな要約にまとめました。 要約は短い概要と、それが属する トピックを表すアイコンからなっています。 今ここでは最も人気のある 500ページしか載せていません。 しかしこの限られた範囲でも、 色々なことが出来ます。 直ぐに、ウィキペディア上で人気のある トピックを把握することができますね。 今から「政治」を選んでみます。 さて「政治」を選んでみると、 この様にウィキペディアのカテゴリーで 最も多く一致するのは雑誌Timeの Person of the Yearであると分かります。 これはウィキペディアのどのページにも含まれていない 情報ですから、とても重要なのです。 一歩下がって全てを見渡してみた時 初めてこの様な見方が可能となるのです。</p>
<p>要約の1つを見てみましょう そこからPerson of the Yearの カテゴリに進み、それに 属するもの全てを表示できます。 そこで彼らを見てみて下さい、 多くの人は政治関係だとわかりますね。 何人かは自然科学関係ですね。 さらに少ないですが、ビジネス関係の人もいます。 私のボスもいます。 それから音楽方面の人が1人います。 そして面白いことに、ボノは TED Prize受賞者でもあります。この様に 自由にTED Prize受賞者を全員見渡せます。 ご覧頂いたように、我々は初めてwebを ページからページではなく、一つのwebとして 高い抽象レベルでナビゲートしているのです。</p>
<p>そこでもう一つ 皆さんが 驚くだろうものを お見せしたいと思います。 ここにNew York Timesのホームページがあります。 そこでこのアプリケーションPivot&#8211;これを ブラウザーとは呼びたくないです。違いますから。 しかし勿論ウェブの閲覧は可能ですけど&#8211; 私たちはこの様にズーム技術をそれぞれの webページに使えるようにしました。 一歩下がって眺め、目的の部分に 飛び込むことができます。 さてこれが重要な理由としては、 この様にウェブを閲覧することによって 閲覧履歴全体を全く同じように 見ることができるからです。 だから特定の時間帯にしたことを 掘り下げることができます。 実際ここには今日実演してきた ページの履歴が見えますね。 すると先ほどお見せしたものをリプレイすることもできます。 一歩下がって全て見たいと思ったら、 履歴をスライス&#038;ダイスすることができ、 例えば検索履歴を取り出すことができます。 私は身内びいきの 検索をしていますね。 その履歴から、すぐに元をたどり 再起動することができます。 １つのメタファが形を変えて何度も 現れています。すなわち全体というのは 部分の和よりも大きいということです。</p>
<p>現在我々は世界に溢れかえるデータを 悪と捉えています。 情報過多は災いであり 情報に溺れていると言われています。 それをひっくり返せないでしょうか webというものをひっくり返して 一つの物から次の物への単純な移動ではなく 多くの情報から多くの情報へと行き来することに慣れたなら それまで見えなかったパターンを 見いだせるようになるでしょう。 これが可能ならば、データに埋もれるのではなく 適切な情報抽出が可能かもしれません。 そうすれば単なる情報処理ではなく、 知識を引き出すことができます。 その知識が引き出せるなら、知恵だって見いだせるかもしれません。</p>
<p>以上です。ありがとう。</p>
<p>（拍手）</p>
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		<title>「ゲームで築くより良い世界」ジェーン・マゴニガル</title>
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		<pubDate>Thu, 26 Aug 2010 17:01:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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SPEAKER：ジェーン・マゴニガル



World of Warcraftのようなゲームはプレーヤーに世界を救う手段を与え、ヒーローの行動様式を身につけるよう動機づけます。もしこのゲーマーの力を、現実の世界の問題を解決するために使えたとしたらどうでしょう？ ジェーン・マゴニガルはそれは可能だと言い、その方法を説明しています。


20:04


日本語字幕
Viewsubtitleをクリック/Japanese

TED2010




全文
私はジェーン マゴニガル ゲームデザイナーです オンラインゲームを作って10年になります 次の10年の 私の目標は 現実において世界を救うことを オンラインゲームの中で世界を救うのと 同じくらい簡単にするということです そのためのプランはありますが それには より大きくより良いゲームでもっと遊ぶよう あなた方を含め 多くの人を 説得する必要があります
現在私たちは オンラインゲームに 週30億時間 費やしています 「そんなに多くの時間をゲームに費やしているのか」と 思われる方もいるかもしれません 確かに多いと言えるでしょう 現実に解決すべき切迫した問題の多さを考えれば しかし私が行った インスティテュート フォー ザ フューチャーでの 研究によると 実際は逆なのです 世界の危急な問題の解決には 週30億時間のゲームプレイでは不十分なのです

私たちが次の100年を地球で生き長らえようと思うなら この量を劇的に増やす必要が あると考えています 私の計算では トータルで 週210億時間の ゲームプレイが必要なのです これはたぶん直感に反する考えだと思いますので ちゃんと頭に入るよう もう一度繰り返します 私たちが飢餓や 貧困や 気候変動や 国際紛争や 肥満といった 問題を解決しようと思うなら 2020年までに オンラインゲームを 少なくとも週に210億時間 するようになる必要があるのです (笑) 私は大まじめですよ
ご説明しましょう [...]]]></description>
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SPEAKER：ジェーン・マゴニガル
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World of Warcraftのようなゲームはプレーヤーに世界を救う手段を与え、ヒーローの行動様式を身につけるよう動機づけます。もしこのゲーマーの力を、現実の世界の問題を解決するために使えたとしたらどうでしょう？ ジェーン・マゴニガルはそれは可能だと言い、その方法を説明しています。
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<p class="hiroken07">20:04</p>
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日本語字幕<br />
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<p>TED2010
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<p>全文<br />
私はジェーン マゴニガル ゲームデザイナーです オンラインゲームを作って10年になります 次の10年の 私の目標は 現実において世界を救うことを オンラインゲームの中で世界を救うのと 同じくらい簡単にするということです そのためのプランはありますが それには より大きくより良いゲームでもっと遊ぶよう あなた方を含め 多くの人を 説得する必要があります</p>
<p>現在私たちは オンラインゲームに 週30億時間 費やしています 「そんなに多くの時間をゲームに費やしているのか」と 思われる方もいるかもしれません 確かに多いと言えるでしょう 現実に解決すべき切迫した問題の多さを考えれば しかし私が行った インスティテュート フォー ザ フューチャーでの 研究によると 実際は逆なのです 世界の危急な問題の解決には 週30億時間のゲームプレイでは不十分なのです<br />
<span id="more-3299"></span><br />
私たちが次の100年を地球で生き長らえようと思うなら この量を劇的に増やす必要が あると考えています 私の計算では トータルで 週210億時間の ゲームプレイが必要なのです これはたぶん直感に反する考えだと思いますので ちゃんと頭に入るよう もう一度繰り返します 私たちが飢餓や 貧困や 気候変動や 国際紛争や 肥満といった 問題を解決しようと思うなら 2020年までに オンラインゲームを 少なくとも週に210億時間 するようになる必要があるのです (笑) 私は大まじめですよ</p>
<p>ご説明しましょう この写真は 未来における人類の存続のために ゲームが非常に重要だと私が考える理由を よく表しています (笑) これはフィリップ トレダノという写真家による肖像写真で 彼はゲームをしている人の感情を捉えようと カメラを プレイ中のゲーマーの前に据えたのです この写真はゲームにおける典型的な感情を示しています ゲームをしない方には この写真の示すニュアンスがわからないかも ある差し迫った感覚 少しばかりの怖れ 極度の集中 深く深く没頭して 非常に困難な問題に取り組んでいる状態です</p>
<p>ゲーマーの方なら ここに見られるニュアンスに気付くことでしょう 目尻の皺と口元には 楽観のきざしが見られます つり上がった眉は驚きを これはエピックウィン(壮大な勝利)と呼ばれるものの瀬戸際にいる ゲーマーの姿なのです (笑) あ お聞きになったことあります？ ではこの場にもゲーマーがいるわけですね エピックウィンというのは 際立って良い結果のことで 達成するときまで それが可能だとさえ思ってなかったようなことです ほとんど想像の範囲を超えていて それを達成したときには どれほどのことが自分にできるかということに 衝撃を覚えるほど これはエピックウィン間際の姿なんです これからの百年に 困難な問題に取り組む上で 世界中の何百万という問題解決者が こういう表情をする必要があります 大きな困難を乗り越えてエピックウィンの達成を 目前にした人の表情です</p>
<p>残念ながら 日常で危急の問題に取り組むとき 私たちが目にするのは こんな表情です 「私の人生はうまくいかない」という顔です 実際に私がしているところを撮りました 見えますか？ 「私の人生はうまくいかない」という私の顔です 以前住んでいたバークレーで 近所にあった落書きです なぜゲームでは実生活よりうまくいくのかを 私は研究していました 多くのゲーマーが抱えている問題です 私たちは現実においてはゲームの中のようにうまくいかないと感じています</p>
<p>成功という点だけではありません 確かにゲームの世界では より多くのことを成し遂げられますが そればかりではなく 何か重要なことをするように動機付けられ 協力を促される点でも 優れています ゲームの世界にいるときに 最高のバージョンの自分が現れるのです 即座に助けに駆けつけ 問題の解決に粘り強く取り組み 失敗しても立ち上がって再び立ち向かいます 現実の人生では 失敗に直面したり 障害にぶつかったときに なかなかそのようには感じません 圧倒され 打ちひしがれたように感じます 不安になり あるいは落ち込み 苛立って 悲観的になります ゲームでは そのようには感じません そんなものゲームには存在しないのです それが 私が大学院生だったときに 研究しようと思っていたことでした</p>
<p>「達成できないことなどない」 ゲームの何がそう思わせるのでしょう？ どうしたらその感覚をゲームから取り出して 現実の世界に適用できるのでしょう？ それでWorld of Warcraftに目を向けました これは本当に理想的な協同問題解決環境です そしてオンラインの世界で エピックウィンを可能にしているいくつかの要因に気がつきました</p>
<p>第一に これらのオンラインゲーム 特にWorld of Warcraftの世界に行くと 世界を救うミッションに向かう自分に信頼を寄せる 様々なキャラクターが すぐさま たくさん現れるということです ミッションもランダムなものではなく ゲームの中の自分の 現在のレベルに完璧にマッチしています だから達成することができます 達成し得ない難問は与えられません でもそれは自分にできる限界に近い挑戦で 一生懸命やる必要があります World of Warcraftの世界に失業はありません 悲観して何もしないでいる人もいません いつでも なすべき特別で重要なことがあります そして協力者が山ほどいます どこへ行っても 何十万という人が 自分の壮大なミッションの達成に 力を貸そうと待ち構えています</p>
<p>現実生活では容易に手にできないものです すぐ手の届くところに協力者が 山ほどいるなんていうのは そしてまた壮大なストーリーがあります 自分の存在と行動に意味を与える物語です ポジティブなフィードバックもたくさんあります 耳にしたことがあるでしょう レベルアップとか 力+1 知性+1といったものを 現実生活には あまりないものです 私がこの講演を終えても 何かもらえるわけではありません 話術+1とか クレージーなアイデア+1とか クレージーなアイデア+20 とかね そんなフィードバックは現実にはないのです</p>
<p>このような協力的オンライン環境の持つ問題は いつもエピックウィンの間際にいる 満足感があまりに強いため 全ての時間を ゲームの世界で 費やすようになることです そこは現実よりも良い世界なのです だからこそWorld of Warcraftのプレーヤーたちは 合計すると593万年分にもなる時間を アゼロスの仮想的な問題の解決に費やしているのです これは必ずしも悪いことではありません まずいことに見えるかもしれませんけど コンテキストの中に置いてみましょう 593万年前といえば 人類の祖先が直立二足歩行をするようになった頃です 最初に直立した霊長類です</p>
<p>だから私たちが現在ゲームにどれくらい時間を使っているかを 意味のある形で考えようと思ったら 人類の進化というスケールの時間で 捉える必要があるのです これはものすごいことですが 適切なことでもあります ゲームをして過ごす時間によって 私たちは人類として可能なことを 実際に変えてきたからです そうやって私たちは 協力的で心暖かい種へと進化してきたのです 本当です 私はそう信じています</p>
<p>考えて欲しい興味深いデータがあります 最近カーネギーメロン大の研究者が公表したものですが 今日 ゲーム文化が強い国では 平均的な若者は21歳までに オンラインゲームで1万時間を 費やすということです 1万時間というのが興味深い 理由が2つあります 第一に アメリカの子供にとって 10,080時間というのは 小学5年から高校卒業まで 無欠席の場合に 学校で過ごす時間です</p>
<p>だから まったく並行した2つの 教育過程があることになります 優れたゲーマーに必要なことを学ぶために その他全てのことを学校で学ぶのと 同じだけの時間を費やすのです グラッドウェルの「天才! 成功する人々の法則」を 読まれた人もいるでしょう 彼の「成功の1万時間の理論」を お聞きになっているでしょう これは認知科学研究に基づいていて どんなことであれ ひたむきに勉強を1万時間するなら それに関して名人になります 21までに その道の達人になれます 世界で最高の人達に肩を並べるくらい 優れたものになれるのです そうであれば 私たちの目の前には ゲームに関して名人級の若い人々が まるまる一世代分いることになります</p>
<p>ここで大きな疑問は 「ゲーマーが上達させるのは正確にどういう面なのか？」ということです もしそれがわかれば 私たちは空前の人的リソースを 手にすることになります この図は現在世界でオンラインゲームに 一日一時間以上費やす人の数を示しています 彼らはゲームの達人なのです とあることに傑出した人が5億人もいるのです そして次の10年で さらに 10億のゲーマーを手にすることになります それが何であるにせよ ある面で際立って優れた人々です ご存じないかもしれませんが ゲーム業界では小さなエネルギーで動き ブロードバンドの代わりにワイヤレス携帯ネットワークで使える ゲーム機を開発しています それによって世界中のゲーマー 特にインド 中国 ブラジルの人々をオンラインに引き込むためです 次の10年でゲーマーが10億人増えるのです それにより私たちの元には15億人のゲーマーがいることになります</p>
<p>だから ゲームは人をどういう点で 達人にするのかと 考え始めました 4つ考え付きました 最初のは「楽観的即行」です 強度の自己動機付けと考えてください 楽観的即行は 問題にすぐ取り組みたいという欲求と 成功の見込みは十分にあるという 信念が結び付いたものです ゲーマーはいつもエピックウィンは可能と思い いつだって すぐにチャレンジする価値があると信じています 彼らが何もせずにいることはありません ゲーマーは緊密な「縦横のネットワーク」を作り上げる達人です ゲームを一緒にした後は その相手のことを より好きになるという興味深い研究があります たとえひどく負かされた場合でもそうなのです その理由は ゲームを一緒にするには 多くの信頼が必要だからです 相手が自分といっしょに時間を過ごすことを 同じルールに従ってプレイすることを 同じ目標に価値を認め 終わりまで続けることを信じています</p>
<p>一緒にゲームすることは 絆と信頼と協力を生み出します 結果として より強い社会的な関係が築かれるのです 「生産的至福状態」 好きなやつです 平均的なWorld of Warcraftゲーマーが 半日労働に相当する週22時間を ゲームに費やすのには理由があります 私たちがゲームをしているときには リラックスしたり ぶらぶらしている時より 楽しい気分で 熱心に働きます 人類は 難しく意味深い仕事をするよう 最適化されているのです 適切な問題さえ与えられれば ゲーマーは常に熱心に働く人々なのです</p>
<p>最後に「壮大な意義」です ゲーマーは人類とか地球というスケールの物語における 畏敬の念を起こさせるようなミッションに打ち込むのが好きです この意味合いがわかるように 1つトリビアをお教えしましょう 世界最大のWikiであるWikipediaはご存じですね では世界で2番目に大きなWikiは何でしょう？ 8万にも及ぶ項目がある World of Warcraft のWikiです 月に500万もの人々が訪れます 彼らがネット上にまとめ上げている情報は Wikiで記述された他のどんな トピックの情報よりも多いのです 彼らは壮大な物語を築いています World of Warcraftについての 壮大な知識リソースを構築しているのです</p>
<p>これら4つのスーパーパワーが 1つの存在に集約されています ゲーマーというのは強い力を与えられた 希望に満ちた個人なのです 1人ひとりが世界を変えられると 信じている人たちです 唯一の問題は 彼らが変えられるのは 仮想世界であって現実世界ではないと 思っていることです これは私が解こうと試みている問題です</p>
<p>エドワード カストロノヴアという経済学者がいます 人々がなぜそれほど多くの エネルギーと 時間と お金を オンラインの世界に 投じているのかに 目を向けています 「我々が目の当たりにしているのは 仮想世界とオンラインゲーム環境への 大移動であると言って差し支えない」と彼は言っています そして彼は経済学者で 理性的です その彼が…(笑)…ええ 私と違って 私は脳天気なゲームデザイナです ゲーマーたちは現実の生活よりも オンラインの世界での方が多くのことを成し遂げられるのだから これは全く理にかなったことなのだと彼は言います ゲームの中では 現実生活よりも 強い人間関係を築けます より良いフィードバックが得られます ゲームの中の方が 現実よりも報われるように感じます 今やゲーマーたちが現実より 仮想世界で多くの時間を費やすのは 理にかなっているのです 今やそれが合理的だということに 私も同意します しかしこれはどう考えても 最適な状況とは言えません 私たちは現実の世界をもっとゲームのようにする必要があるのです</p>
<p>私は2,500年前に起こったある出来事から インスピレーションを得ました これは古代のダイスで ヒツジの足の関節から作られました かっこいいゲームコントローラーができる前は ヒツジの骨を使っていたんです そしてこれは人類がデザインした 最初のゲームの道具です ヘロドトスの本に馴染みのある方は この話をご存じかもしれません 誰が何のためにゲームを 発明したのかという話です ダイスゲームはリディア王国で 飢饉の時期に発明されたと ヘロドトスは 書いています</p>
<p>非常に深刻な飢饉があり リディア王は何か度を外れたことをする必要があると考えました 人々は苦しみ 争っています 極限状況です 極端な解決策が求められていました それで ヘロドトスによると 彼らはダイスゲームを発明し 王国全土で ある政策を実施しました 一日目には皆食事をする その翌日には皆ゲームをする 皆すっかりダイスゲームにはまりました あまりに引き込まれるものだったので 満足を与えてくれる生産的な至福の中で 食べるものがないということさえ忘れてしまったのです 次の日にはゲームをし その次の日には食べる</p>
<p>ヘロドトスによれば 彼らはそのようにして18年間 飢饉の中を生き抜いたということです 1日は食べ 1日はゲームをするという具合にして これはまさに今日私たちが ゲームをするあり方と同じです 私たちは現実の苦難を忘れるためにゲームを使っています ゲームを使って 世の中のおかしなことや 現実の生活の不満なものすべてから逃れ 求めるものをゲームから得ているのです</p>
<p>しかし話はそれで終わりません すごく面白いのですが ヘロドトスによれば 18年の飢饉の後も 事態は良くなりませんでした それで王は最後のダイスゲームをすることに決めました 王国全体を2つに分け ダイスゲームで勝負をし そのゲームの勝者は 壮大な冒険を賞品として手に入れます リディアを出て 新しい生きる場所を探しに行くのです 後にはわずかな食料で 食べていけるだけの人が残されます そうやって文明をどこか別な場所で 生き長らえさせようとしたのです</p>
<p>クレージーな話だとお思いになるでしょう でも最近 古代リディア人が ローマ帝国の礎を築いた エトルリア人と 同じDNAを持つことが 明らかになったのです ヘロドトスのクレージーな物語が真実であることを 科学者達が示したのです それに飢饉の原因になった 20年にわたる地球寒冷化の証拠も 地質学者により発見されました このクレージーな話は本当だったのかも 彼らはゲームをして 実際に文明を救ったのかもしれません 18年間ゲームの中に逃れ それにより刺激を与えられ ゲームから力を合わせることをも学び そうやって文明全体を実際に救ったのです</p>
<p>私たちにだって同じことができます 私たちはWarcraftを1994年以来やっています World of Warcraftシリーズの 最初のリアルタイム戦略ゲームです 彼らは18年間ダイスゲームをしましたが 私たちも16年間Warcraftをやっているのです 私たち自身 壮大なゲームをする準備ができていると思います 彼らは文明の半分を 新世界の探索に送り出しました 週210億時間のゲームというのは ここから来ています 現実の世界の問題が解決するまで 私たちの半分が一日一時間を ゲームに費やすことにするのです</p>
<p>「どうやって現実の世界の問題を ゲームで解決するんだ？」と思われるでしょう それこそ 私がこの数年来 インスティテュート フォー ザ フューチャーで 取り組んできたことです パロアルトにある私たちのオフィスには このような横断幕があり 私たちの未来との関わり方を訴えています 私たちは未来を予測したいのではなく 未来を生み出したいのです 最良のシナリオを思い描き それが現実になるよう 人々を力づけるのです 私たちはエピックウィンを想像し 人々にそのエピックウィンを達成する手立てを与えたい</p>
<p>人々が自分の未来に エピックウィンを生み出す手段を与える試みとして作った 3つのゲームをご紹介します これはWorld Without Oil (石油のない世界)です 2007年に作りました 石油不足を生き抜く オンラインゲームです 石油不足は架空のものですが それが本当だと信じられるだけ たくさんのオンラインコンテンツを 提供しています そして石油がなくなったかのように 現実に生活をするのです このゲームではまず どこに住んでいるかを登録します それからリアルタイムのニュースビデオで 様々なことを伝えられます 石油の値段がいくらかとか 何が手に入らなくなったとか 食糧や輸送機関にどう影響が出たとか 学校が閉鎖されたとか 暴動が起きたとか プレーヤーはそれが本当であるかのように 生き方を 考え出す必要があり そのことをブログに書いたり ビデオや写真で投稿します</p>
<p>2007年に1,700人のプレーヤーを相手に試行し 3年間彼らを追跡しました これは変化を起こす体験であると言うことができます 世の中のために良いから そうすることになっているから といった理由で生活を変えたいと思う人はいません しかし壮大な冒険に浸っていると 「石油がなくなった」ということが ものすごい冒険の物語に変わるのです どう生き残れるか自分で挑戦するのです 多くのプレーヤーたちが ゲームから学んだ習慣をずっと維持しています</p>
<p>次の世界を救うゲームでは 石油危機よりももっと高度で大きな問題に狙いを定めました インスティテュート フォー ザ フューチャーの Superstructというゲームです 地球上の人類にはあと23年しか残されていないと スーパーコンピュータが算出したという設定です そのスーパーコンピュータの名は 「地球危機認識システム」 ちょうどブラッカイマーの映画みたいに 私たちは 人々を募りました ジェリー ブラッカイマーの映画はご存じでしょう 宇宙飛行士や科学者や元犯罪者が ドリームチームを結成し 世界を救う役割を担うというやつです (笑)</p>
<p>私たちの場合ドリームチームは5人だけではなく 全員がドリームチームであり 未来のエネルギー 未来の食料 未来の医療 未来の治安 未来のセーフティネットを考え出します 8,000人が8週間に渡り このゲームをし とてもクリエイティブな解決策を500通りも考え出しました “Superstruct”で検索してみてください</p>
<p>最後は 最新のゲームEvokeで 3月3日にローンチします 世界銀行研究所と一緒に作りました このゲームを完了すると 世界銀行研究所から ソーシャル イノベーター 2010の 認定がもらえます サハラ以南アフリカの多くの大学と連携し ソーシャルイノベーションのスキルを学ぶように招いています コミックも用意しています 現場での洞察、 知識ネットワーク、サステナビリティ、ビジョン、機知といった スキルをレベルアップしていきます みなさんにこのゲームを 世界中の若い人達に とくに発展途上地域の人々に広めてほしいのです 世界を救う自分の社会事業に このゲームで取り組むことによって 多くのことを学べるはずです</p>
<p>まとめに入りましょう 問いたいことが1つがあります 次に起きることは 一体何でしょう？ たくさんのものすごいゲーマー達がいて 未来を試行するようなゲームがありますが どれもまだ現実の世界を救ってはいません ゲーマー達は現実の仕事に使える 人的リソースであり ゲームは変化のための強力なプラットフォームだということは 同意していただけると思います この驚くべきスーパーパワーがあるのです 生産的至福状態 縦横のネットワークを築く能力 楽観的即行 壮大な意義への希求</p>
<p>みんな集まって意義のあるゲームをし これからの100年を地球で生き抜けるよう願っています このようなゲームを作り 遊ぶことへ みなさんに参加していただくのが私の望みです 次の10年を見つめたとき 2つのことが確かにわかります 私たちは想像できるどんな未来でも作ることができ やりたいどんなゲームだってできるということです 世界を変えるゲームを始めましょう どうもありがとうございました (拍手)</p>
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